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理沙との別れ、靖子との出会い

  一九七五年の春、この物語は始まる。石田俊介は新橋駅から南に五分ほど歩いたところにある小さな雑居ビルの五階で、業界紙の記者として働いていた。石田俊介は中央大学の二部学生で、現在二年生だ。一年の時にすでに学生結婚しており、大田区の長原駅の側のアパートから新橋まで通っている。この会社の社員数は、大阪の拠点と合わせて、二十名足らずだ。石田俊介は農業機械という業界の世界で、取材に奔走する日々だったが、それなりにやりがいを感じる毎日をおくっていた。会社名は近代農業社と銘打っているが、如何にも昭和の時代を引っ張っている、という気概に燃えている社名であった。

 五階の近代農業社のフロアの面積は、100平方メートルにも満たず、非常に狭かった。そこに編集部、営業部、事務部、社長室、応接セット、資料室が配置されているから、朝、営業部員と編集部員などが全員集まると、息苦しくなるほどだった。それでも農業機械の業界を支えているという、社員一人ひとりの熱気が、活気ある職場を創り上げていた。

 石田俊介の直属の上司は、長身の加藤博司編集長である。日大の卒業生で、当時熱病のように流行していた学生運動に、携わった過去を持っている。新橋駅のガードレール下付近の居酒屋に、編集部員たちと時々出かけることがあるが、程よく酔うと、抑揚のない独特のアジテーションがいつも始まった。同僚たちはその編集長のアジテーションに不快な顔もせずに、にこにこして聞くのであった。何百人もの活動家を統率していた編集長の過去に対して、思想の良し悪しは別にして、一種の尊敬できる人間的な大きさがあったのかもしれない。

 編集長より年齢は上だが、社歴は短いため、副編集長のポストで、編集部全体の番頭役のような立場で振舞う山口民雄がいた。彼は編集長の顔の白さに比べて、肌が黒く精悍な顔つきをしていた。それにいつもパイプをくわえていて、如何にもジャーナリストっぽくしていたが、嫌味はなく洗練されていた。ある時、編集部員たちが山口民雄の家で飲み会を催したことがあった。酔いがかなり回ってきた一同に向かって、突然ピアノを弾いてみせようと言い出した。それでビートルズのポールマッカトニーの曲などを披露したのであるが、訪問者たちは口をあんぐりとあけて聞き入るほど上手かった。声も甘く、聞く人を和ませてくれる力があった。

 年齢は五歳上だが、石田俊介より後に入社してきたのが山下直樹だった。農業大学を卒業し、一時北海道の牧場で酪農などの手伝いをやっていたが、東京で編集の仕事がしたいと上京してきた。そして得意分野の農業関係の履歴を生かして、結構倍率が高かったこの近代農業社に無事入社してきたのである。一目でスポーツマンであることが判る体格の良さ、笑顔を絶やさないイメージは、初めて会った人に好感を持たせる力を持っていた。

 近代農業社の社長は、金本満という人物である。小柄で恰幅の良い初老の男性だが、名前の通りお金にはうるさく、しかもしっかりため込んでいるといううわさは良くたった。鼈甲のメガネをかけて、お気に入りの縦縞のスーツを、とっかえひっかえ着ている姿は、いかにも金融関係の仕事に携わる人間のような気配を抱かせるが、社員はもうすっかりその気配に慣れ親しんでいるようだった。

 

  俊介は時々、出身地の金沢で過ごした中学時代の思い出を、夢で見ることがある。それはいつも決まって初恋の人の夢だ。その初恋の人の名前は夏川理沙である。俊介は中学二年生になってクラス替えが行われ、彼女と同じクラスになった日、初めて夏川理沙を近くで見た。一年生の時にはクラスが違うため、校内で遠くに見かけることしかなかったが、鼻筋の通った、肌の白い綺麗な子という印象だけだったのが、この日は違った。俊介にとっては完成された彫刻のような美しい女神が、そのまま地上に降りて来て自分の側にやってきたような錯覚がした。胸の中にある細胞が全て振動して、ドキドキするような気がした。恋という人生の甘い蜜が彼のテンションを激しく上昇させた。その日から恋に嵌ってしまったのである。

  その夏川理沙は写真部所属で、美しかった反面、気さくなところもあった。しかし、いつも彼女の周りには男子が群がっていて、俊介が近寄るチャンスはほとんどなかった。それでも教室の片隅から、それとなく見つめているだけで幸せだった。ところがある日、席替えでその夏川理沙が隣の席に来たのである。それはありえない奇跡の出来事だった。

  横に座ることになってから、夏川理沙の潤んだ大きな眼を見る瞬間が自ずと増えた。理沙の発するすがすがしい若鮎のような匂いが、俊介の鼻腔をくすぐると、体は溶けそうなほど力が抜けた。俊介は自分がただの腑抜けのようになっていくような気もした。しかし、幸せとはこういうふわふわしたものかとも実感していた。毎日、学校に来さえすれば理沙は横に座っているのである。横にいる時間の累積が、ますます俊介の中に理沙を深く植え付けていくのである。それにどうだろう理沙の笑顔ときたら、この世のどこにもないほど暖かい魅力と水晶のような美しさに満ちているから、俊介はその笑顔に何度も殺されかけた。特に、席を立って重そうな紺色のカバンを持って「さよなら」と言いながら、首を左に一五度かしげてとびっきりの笑顔で挨拶されると、何か胸を大きな万力で締め付けられたような気がした。

  一方、俊介は割とひょうきんな面も持っていた。普通なら苦笑されるようなダジャレを乱発しても、理沙は高いソプラノで上品に笑ってくれた。俊介をそのまま丸ごと理解して笑ってくれているようであった。そんな時、俊介は深い暖かい幸せ感に包まれるのであった。

  俊介の前の席には、和夫という男が座っていた。彼はいつもビートルズの曲を口ずさんでいたが、俊介が理沙のことを好きだと気づき、色々と聞いてきた。

  ある日の放課後、俊介は和夫の誘導尋問に引っ掛かり、理沙を主人公にした小説を毎日書いていると、思わず口走ってしまった。その上俊介は、「夏川理沙に告白したいけど自信がない」、という大切な自分の秘密まで言ってしまったのである。すると和夫は、「俊介、忠告するけど、理沙には他に好きな人がいるから絶対無理だよ。あきらめな」と言われてしまった。その時、俊介はショックで目の前が真っ暗になるようだった。

  それでもめげずに次の日から、俊介は絶対に理沙の好きな男子に負けるものかと心に決め、朝起きてから「理沙は僕の彼女である」と何回も唱えた。夜は寝る前に「理沙は僕の恋人である」などと唱えて眠った。しかし、ある日から、隣に座っていた彼女の様子が変わってしまった。変によそよそよそしくなったのである。

  そんな仕打ちを受けても、俊介は理沙が好きでたまらなかった。これは俊介にとって紛れもない初恋であった。そして悲しいことにこの初恋は、親子の愛情のような無償の愛にとても似ていた。その当時、理沙は俊介にとって唯一無二の存在だったのである。彼女のためなら命を捨ててもかまわないほど、思い詰めていたのである。

  しかしどうだろう。晴天の霹靂のような事が起こった。三年生になる前の春休みの時、彼女の父に急な転勤が発令され、家族全員が沖縄に越していったのである。春休みだったので面と向かって話す機会も無く、引っ越しの事を聞きつけて、理沙の家の前に集合したクラスメートの多くの取り巻き連中の陰で、見送るしかすべはなかった。俊介はそれ以来、理沙には一度も逢っていない。

 

  三年に進級した俊介は、それから抜け殻のようになって、教室の窓から外を眺めてはため息をついたりして、失意の日々を送った。進学もやけくそになっていたので、何も考えず母親の言う通り、近くの工業高校の電気科に入学した。そして理沙のことを忘れるために、空手部に入部して、部活に明け暮れ、空いた時間は小説を片端から読み漁る日々だった。それでも胸の中のぽっかり空いた空虚な穴は、埋まらないような気がした。そんな時、部活で親友になった良男に、近くの女子高生を紹介してもらった。喜久子という目の大きなあばずれっぽい女子だった。ときめきも何も感じないという精神状態の中で、関係を持ち童貞をなくしてから、俊介はまるで違う人間になってしまった。中学時代に理沙を好きになった頃の、純粋な気持ちはどこかに埋没してしまったのか、とにかく女性を性の対象としてしか見なくなった荒んだ俊介がいた。やがて、喜久子と別れ、他の女子高生に手当たり次第に声をかけた。そして、いつも女の子が側にいないと、気持ちが満たされないような気がしていた。

 

  石田俊介の家はけっして裕福な家ではなかった。幼いころ両親が離婚して父親が出て行った。僅かの養育費が父から送られてくるが、充分な額ではなかった。だから、奨学金をもらい工業高校電気科をなんとか卒業すると、もう就職するより他に道はなかった。それで東京に出ると言って、ある小さな電気工具メーカーに就職した。しかし、作家になりたいという淡い夢もあったので、半年もたたないうちにあっさりと退職して、記者になるために農業機械の業界紙の試験を受けた。面接試験だけだったが、変わった経歴や性格が編集長に気に入られたのか、高い倍率のなかでも、無事入社することができたのである。そして、次の年にはお金を自分で蓄え、中央大学の英文科の二部に入った。それはいつしか文筆で生活していきたいという淡い夢を、現実のものにしたいという願望が、東京で一人暮らすうちに、増々強くなっていったからである。

  とはいえ、中央大学に入ったもう一つの理由は、自分を満足させてくれるめぼしい女性を見つけるためでもあった。確かに俊介は人並み外れて性欲がとても強かったのかもしれない。東京に出てからも、片端からナンパしては関係をもっていた俊介は、やがて素朴で可愛らしい川口靖子と出逢うことになる。

 

  中央大学に入学して数日過ぎたある日のことである。掲示板には文学部の重要なお知らせ事項のプリントが数枚、無造作に貼られていた。その掲示板の前に俊介は立っていた。粗方見終わると、勢いよく後ろに下がった。すると背中に柔らかいものがぶつかった。 

「えっ!」

  と形容しきれないような女性の声が俊介に聞こえてきた。

  続いて、その女性が手に持っていた教科書などを、黄土色のコンクリートの床に落とす大きな音がした。俊介が慌てて振り返ると、屈んでその教科書を拾い上げようとしていた女性がいた。黄色のブラウスの少しはだけた襟元から、白く透き通ったような豊かな乳房の膨らみが見えた。

「すみません、うっかりして。大丈夫でしょうか?」

「ううん、大丈夫。大したことないわ」

  その女性は急に胸元に男性の背中がぶつかってきたので、びっくりしたようだったが、もう気を取り直して、教科書を軽く叩いてから、手にしっかりと持った。

「ごめんなさい。僕がおっちょこちょいなものだから・・・・・・」

「いいえ、私が悪いの。視力が弱いから、つい掲示板に近寄っちゃうのです」

  彼女の視線は、俊介の目を一瞬探るように見つめたようだった。しかし、その愛くるしいまなざしは、近眼のせいで潤んでいるようにも見えた。

  俊介は一目で心にときめきを感じ、一瞬にして気に入ってしまったが、今日はどうしたことだろう、名前や学部を聞くことさえ忘れてしまった。いつもの俊介らしくなかった。彼女と別れると、俊介は背中に残った弾力のある乳房の感触と、はだけたブラウスから覗いたその豊かな膨らみ、さらに潤んだ彼女の眼差しを、少年のようにしばらく思い出しながら佇んでいた。

 

  それからまた何日か経つと、その女性は同じ英文科であることが判明した。すぐに声をかけて親しくなりたいと俊介は思ったが、彼女に対しては少しためらいがちだった。そうこうしているうちに、英文科の担任の助教授が主催するコンパがあり、神田の飲み屋に俊介も出かけて行った。英文科の学生は部屋に入った順に奥から座っていったが、偶然に隣にその彼女が座ったのである。内心吃驚しながら、出逢いの時の小さな事件のことを俊介が話すと、覚えていた彼女はくすくすと笑い出した。

  お互いの名前を交換すると、俊介はその川口靖子の子供っぽさと、肉感的な体つきに、ますます惚れてしまった。そして、二人は田舎からの上京者同士特有の親近感と、中央大学の学生歌『惜別の歌』を初めて聞いた感動で盛り上がってしまった。親しき友と別れる時、別れ難き心情に駆られた時、この歌を歌って別れるのを常とするのが中央大学の学生と言うが、二人はその校風について熱っぽく語り合った。また、中央大学の校歌も歌われ、コンパは異常なほど二人の精神を高揚させた。その高揚した熱のまま、その日のうちに茗荷谷の川口靖子の小さなアパートで、肌を重ねてしまったのである。

  俊介は金沢市の出身で、靖子は長野市の出身だった。靖子の兄は川崎市に住んでいたが、彼女は文京区の茗荷谷に一人で暮らしていた。仕事と二部学生の勉強の二重生活、そしてその時代が持つ孤独感に、靖子は脆弱になり寂しかったのかもしれない。俊介もそうだったようだ。だから俊介のアパートに靖子が越してきて、一緒に住み始め、やがてお互いの親に会った。靖子の両親は反対したが義兄の応援と二人の強い説得で了解を勝ち取り、婚姻届を一年生の冬に出した。結婚式は学生を終えてからにしようと二人は約束しあったのである。俊介はこれで理沙という初恋の女性を失った喪失感から来る、無謀な女性に対する性の貪りから、解放されたかのように思えた。


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心惹かれる後輩記者由里子

  俊介が中央大学の三年生になった頃、近代農業社に高卒の蛯原由里子が入社してきた。金本社長から紹介された時、妻の靖子とは違ったちょっと小悪魔的な片鱗があり、茶目っ気たっぷりな可愛さ溢れる蛯原由里子に、一瞬で心惹かれた。

  身長は一五〇センチちょっとで、一七五センチある俊介から見ると、頭一つ下に彼女の瞳があるようだった。それでも彼女には独特の存在感があり、実際の身長より一回り大きく見えた。スポーツマンのように健康的な赤みを帯びた顔色をしていて、二重の目は大きく、何かキラキラ輝くものを発しているようで、快活な性格が表に出ていた。ブラウスにジャケットに紺のスカートと地味なファッションで、田舎から出てきたばかりという雰囲気が見え見えだったが、豊かな胸のふくらみは堂々としていた。

  金本社長がくだらない冗談を連発してこの新入社員に話かけているが、嫌な顔ひとつせずにこにこして笑っている姿がいじらしく感じられ、俊介は少しかわいそうな気持ちになった。しかし、すぐに気持ちを切り替えると、隣の席に座らせて、会社のルールや、日常的な事務処理や作業手順など説明し始めた。蛯原由里子はそんな俊介の顔や仕草を、じっと見つめて聞いている。時々、心の中まで沁みるような眼差しに、俊介はどきりとした。少し動揺した気持ちを気取られないように、ますます説明に熱が入った。

  由里子は新聞記者になりたいという夢は、子供のころからあったそうだが、普通高校を卒業したばかりで、本格的な記者に関する勉強はしていない。かといって取り立てて高い専門知識が要るという訳でもない。新聞記者という仕事は、先輩と一緒に行動する中で覚え、自分流のやり方を構築しなければならないというように、偏に個人のモチベーションがものをいう職業でもあるといえる。俊介は入社してから二年半が過ぎて、もう独り立ちして自在に活動している頃であった。しかし、編集長の加藤博司は、俊介の更なる成長を願って、あえて教える側として、由里子に半年ぐらいは日常的に同行取材などをさせることにした。農林省での情報集めや、農機具メーカーへの取材で、一緒に行動した。その中で、俊介が具体的に教えることによって、また、由里子は記者という職業への強い憧れで、それぞれめきめきと力をつけて行った。

  だが、二人の関係はあってはならない方向に向かって行ったのである。

  俊介は中央大学の二部学生であり、靖子という妻と暮らしながら由里子への思いが募っていく日々を、どうすることもできなかったのである。

 

  ある日、農林水産省の取材のあと、二人が日比谷公園でひと休みをしていた時のことであった。

  梅雨がもうすぐそこまでやって来ていることを感じさせる、湿った暑い日だった。むしむしする空気が二人を汗ばませていた。

  俊介はベンチに座ったまま、由里子と視線を合わせることなく、二人で重ねた仕事の日々の中で蓄積された思いを、吐き出すように言ってしまった。

「由里子さんは、近代農業社に入って、新聞記者の仕事をやるようになってからは、一日ごとに綺麗になっていくようだね。本当に入社した頃は素朴で、失礼な言い方かもしれないけど垢抜けしていなかったのに・・・・・・。一緒に取材をしていると楽しいし、君が話す姿を横から見ていると、なんかこう胸がぎゅっと締め付けられるような気がするんだ・・・・・・」

 由里子の表情は俊介の言葉に思いがけず激変した。喜びとも苦悩とも判別が付かないような顔つきになったのである。

「そうですか・・・・・・」

 と言いながらも、心なしか声の調子が上ずっている。

 俊介は現在の気持を正直に告白した瞬間、何か越えてはならないような一線を越えてしまったような心持がした。もう戻れないとも感じた。確かにその言葉は、由里子に何らかの動揺を与え、危険な地帯に引き込んだようだと、俊介は認識した。それとも、単なる思い違いで、由里子に軽くあしらわれてしまうような不安も感じた。

 由里子はどちらかというと、見かけの割には奥手のタイプのようだが、俊介の何気ない告白は、二人の間に少しだけ異常な雰囲気を醸し出すようになった。俊介は基本的には鈍感だが、観察力だけは優れていたようで、由里子が仕事の打合せをしている時に、ちらりと見せるメランコリーな眼差しに気づいた。それは多分、俊介を少なからず上司というより、異性として意識するようになったのだろうと想像した。そしてその想像は、やがて大きく不幸の翼を広げていったのである。

 俊介が告白めいたことを言う前は、自分が結婚しているので、由里子はごく自然に恋愛感情なんか持ってはいけないと、固く思っているだろうと想像した。ところが、あの蒸し暑い日比谷公園のベンチの上で、何気なくつぶやいた本心から出た言葉がきっかけで、もしかしたら自分のことを少しは好きになるかもしれない、と勝手に推測していた。

 だから、俊介は由里子の動作の一部始終を良く観察して、その気持ちの気配を探ろうとした。また、何かあるといつも優しくするようにした。中央大学の夜の講義がない時は、残業で必死に記事を書いている由里子に、時々アドバイスしながら遅くまで付き合うこともあった。そんな時は、仕事が終わると、新橋の駅ビルの地下で、軽い食事を一緒にとった。美味しそうに目の前で遅い食事を食べる由里子の顔は、無性に可愛かった。

 原稿の書き方で、由里子が加藤編集長に厳しく怒られて、沈んでいた時もあった。目の前に編集長の机があるから、俊介は何も言わなかったが、無造作に切ったメモ用紙を、編集長に判らないように由里子の書きかけの原稿用紙の側にそっと置いた。

『大丈夫。由里子さんは才能があるから、記事なんかすぐうまくなるよ!』

 由里子はメモを一瞥すると、資料室にすぐ駆け込んだ。俊介は由里子が資料室の中で、何度もメモを読んで涙をにじませていることを勝手に夢想した。

 俊介と由里子は、取材で外回りの時に、一休みといっては二人でお茶を飲んだりした。

 俊介が中央大学の長い夏休みに入ると、夜が自由時間になったので、仕事帰りに新橋の駅ビルのゲームセンターで、ブロックゲームに興じたりすることもあった。俊介は待っているはずの妻の靖子のところにはすぐに帰らないで、由里子と遊んでいることに対して、最初は後ろめたさを感じていたが、だんだんと麻痺していく自分に、一種の不思議な快感を味わっていた。でも由里子に対して真正面から「好きだ」とか、「愛している」とか、「付き合って欲しい」とか、告白の言葉を発することはなかった。日比谷公園での告白は、まるで朝方に見る夢の断片のように、すぐに消え失せたかのようだった。やはり俊介は、妻がいる身分であるから、これ以上の一線を越えることを我慢したのである。由里子は由里子で、俊介に惹かれるそぶりなど、日比谷公園の告白めいた言葉のあとしばらくして、ほとんど見せることがなかった。あの告白はたちの悪い冗談として理解し、仲の良い同僚というスタンスに、鎮座しているかのようだった。しかし、過ぎ去る愛情のこもったやりとりの蓄積とそれを感じる人間の性は、起こってはならないことを引き寄せた。

 

 初夏のある日、電車の外は、異常気象と思われるほどどしゃ降りで、雨が窓ガラスを激しく叩いていた。その日の最後の取材先が千葉市の農機具販売店だったが、そこを出る頃から空の気配は怪しく、船橋市の駅に近づく頃には、バケツをひっくり返したように雨が降り始めた。船橋駅は由里子が毎朝使う駅だった。俊介は自宅まで送ろうかと言ってその駅で降りた。しかし結局雨が完全に止むまで、由里子の最寄り駅の側にある、路地の奥から細々と光を放つ、ひっそりとした喫茶店を見つけて入ることになった。

 薄めのホットコーヒーを、中年のウエイトレスがテーブルに乱暴においていく姿に苦笑した俊介は、いつになく高揚した気持ちでたわいのない話を始めた。個性溢れる加藤編集長や山口副編集長の話題である。金本社長の話も出てくる。二人は笑いながら、愛すべき近代農業社の同僚の話題に没頭した。特に山口副編集長が前夜の飲みすぎで、会社に来る電車の中で思わずお漏らしした話には爆笑の渦が起こった。それでも喫茶店の中の何組かのカップルの客たちは、こちらに特に関心を寄せるわけでもない。ウエイトレスも奥のカウンターに入ったきり出てこない。店内が薄暗いのと、流行歌のバックグラウンドミュージックだけが、かなり大きな音で室内を覆っていたからである。

 俊介はその周りの無関心な状況を見まわすと、顔の表情や様子が急変した。軽口を叩いていたひょうきんな顔が、何か思いつめたように一瞬で変貌したため、二人の間には尖った刃物が突き出されたような殺気が満ちた。俊介の苦悶の表情が由里子の大きな瞳に映った。

「もう黙っていることなんかできないよ。君への本当の思いを隠して、一緒に仕事をするなんて絶対無理だ。実はね、僕は由里子さんのことが大好きなんだ。死ぬほど愛しているんだ」

 と俊介は言ってはならない本心から出た言葉を、日比谷公園の時と同じように呟いた。

「嘘でしょう。なんでそんなことを私に言うの?信じられないわ。駄目よ、駄目、駄目!俊介さんにはちゃんとした奥さんがいるんだから、私のことを好きになったら絶対駄目!」

「そんなに興奮しなくても・・・・・・。僕のことは嫌いですか?」

「いいえそれは違います。確かに私は俊介先輩のことを尊敬していますし、好きです。でも、それは会社の先輩だからこそです。人として言ってはいけないことです。 あの日、日比谷公園で言われた時から私は確かに動揺してきたわ。でもいつも、俊介さんに対する感情は抑えて、絶対好きになってはいけないって、心に誓ってきたのに・・・・・・」

 由里子の頬に透明な涙の雫が伝わり落ちた。俊介と同じように愛する感情を抑えることが出来ないのか、由里子はガラスのような華奢な指先を震えさせながら訴えた。

「ごめん。それでも世界で一番、愛・し・て・い・る。由里子さん・・・・・・」

 俊介は彼女のその壊れそうな手をきつく握った。由里子の涙がこぼれた顔は、隠されていた感情の突出に歪んでいるようにさえ見えた。俊介はそれでも巻き起こる本能のままに、自分の席から立ち上がり、由里子の横に座りなおした。熱を持ったような紅潮している顔を近づけて、彼女の健康的で赤らみを帯びた柔らかい唇に軽くキスをした。由里子は始めいったい何に向かって抵抗しているのかも判らない風だったが、きっと世の中の常識という、ごく普通の観念のようなものが逆らわせていたのだろうか。だが、唇と唇が触れた途端、俊介を愛するやはり本能的な欲望が、由里子の内部から湧き上ってきたのだろうか。いや、もう常識という堤防は決壊してしまったのであろう。だから、俊介が驚愕するほど激しくキスを返したのである。そして、二人は人目につかないようにして、駅に近い小さなホテルに入って行った。

 ホテルの中では、堰を切ったように求め合う気持ちがお互いに出てきた。それはその小さなホテルの一室だけが、背徳の許される空間の趣を持っていたことを、二人とも信じているかのような、激しい求愛の行為の場となった。俊介はドアを閉めると、由里子を思い切り抱きしめ唇をむさぼった。むさぼりながら、由里子の背中から腰、そしてお尻に手をまわして愛撫しながら強く抱いた。俊介の体の芯は、痺れるような感覚が支配した。高い所から落下する時に感じるスリルに似たような、途方もない快楽の感触が体を突き抜けた。

 

  一時間ぐらい経ったのだろうか、俊介はマイルドセブンにグリーンの透き通った使い捨てガスライターで火をつけ、ベッドの端に腰かけていた。由里子はかけ布団を被って、首から上だけを出して、褪めたようなコブラン柄の天井を見つめて放心している。話しかけるのに、少々勇気がいるような、生温かい室内に充満した吐息の二酸化炭素、それを振り払うように俊介は言った。

「最近、本当に凄く由里子の事が気になっていたんだ。一緒に仕事をしていると、何か堪えることができないほど愛しい気持ちになるんだ。妻がいるというのにすごく勝手なんだけど、僕は由里子が好きでたまらないんだ。妻と由里子を比べると全く違う色合いなんだよ。君は妻にはないものを持っているんだ。だからそこに魅かれてしまう。悪いことは判っている、でも我慢が出来ないんだ。愛しているよ。その気持ちは知っていて欲しい」

 由里子は大きな目をいったん閉じてまた見開くと、言葉を選ぶようにしてゆっくりと言った。

「近代農業社に入社した時、若いのに俊介さんに奥さんがいることを知った時、とてもびっくりしました。当然、好きになる対象とは思わないつもりでした。でも、いろんなことで細やかに気を配って、優しく面倒を見てくれる俊介さんに惹かれていくのを、どうしても止めることは出来ませんでした。だから、俊介さんの奥さんには悪いことだと思いながらも、本当の気持ちを告白してもらった今は、凄く嬉しいのです」

 そう本音を言うと、由里子は恥ずかしそうにかけ布団を顔に被せた。

「僕は今の妻を凄く愛しているけど、君への愛情もそれと同じくらいに強くて、もう後には戻れそうにもない・・・・・・」

 俊介はそう言いながらも、由里子を思い通りにしようという魂胆も、どす黒く燻っているような気もした。しかし、その邪悪さも含めて由里子を支配したいという欲望は、ひとつの愛の真実の姿であると妙な理屈が頭の中を過った。

 

  一線を越えた俊介と由里子は、その日からまるで同盟を結んだ戦友になったかのように心の距離を縮め、愛し合うようになってしまった。近代農業社の社内では、先輩後輩と言う仮面を付け、加藤編集長や山口副編集長にも気づかれることもなく、お互いにてきぱきと仕事をこなした。そしてチームワークの取れた同僚というイメージを、社内の中に作るようにした。

 しかし、二人きりになると、恋人のように振舞った。さすがに取材や資料集めの時は、外で誰が見ているか判らなかったので、手をつないだり、肩に手を掛けたりなど親しい素振りは全く見せなかった。だが、外界と閉ざされた室内空間、めだたない場所にあるラブホテル、あるいは由里子の部屋などに落ち着くと、俊介と由里子は戯れあった。二人はまだ二十歳前後だから、精神的に成熟はしていなかったのだろうか、子供っぽくて、よく焼きもちを焼いて喧嘩をした。しかし、絶対に離れられなかった。お互いの体が、必要としていたのであろう。


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堕胎の手術を強いた俊介の贖罪

  晩夏の季節が巡ってきた。由里子は不倫と判っていても俊介の奥さんの存在が、超えることのできない宿業のように目の前に立ちはだかっているように気がした。恋敵に対する焦燥感のようなものが、由里子の感情をかき乱していたのだろう。いわば俊介が由里子の所有物にならないというありがちな不満であったと推測される。俊介が欲しくて欲しくて仕方がないのに、自分の手元にいつも置くことが出来ないという不運を、勝手に嘆き始めたのであろう。それは俊介を愛するという執着がより強まり、時間とともにやってくる限界点に入った証拠でもある。だんだんと周囲が見えなくなって行く危ない兆候だった。だから俊介を憎むことで、その苦悶のようなものを発散しようとしたのだろう。由里子はしょっちゅう俊介に突っかかったり、難しい注文をつけたりするようになったのである。

  そんな由里子に俊介は、怒り出すようなことはなかった。いつものように側にいて、穏やかで活発で明るい由里子に戻るまで、できるだけ優しくしていた。俊介は本当に嫌だったら、妻の靖子のところへ帰ることだってできたが、どんなひどい言葉を言われても、どんなひどい仕打ちを受けても、『大好きだ』『愛している』と由里子の小さな可愛いらしい耳元で囁いた。それでも憎たらしいのか由里子の気持ちは収まらないことが多かった。

 

  秋の風が頬を撫でる頃になると、由里子の仕草に変化が現れた。どんな時にも、傷ついた心に寄り添うようにしていた俊介の心が通じたのか、由里子は穏やかな表情を見せることが多くなった。少しずつではあるが落ち着きを取り戻し始めたのである。由里子は、やがて以前のように俊介といることだけで、幸せだと感ずるようになったようだ。二人の不倫が新たな局面に入ったかのような季節がやってきたのである。

 

  俊介は中央大学の二部学生で、妻の靖子もそうだったが、忙しい学生生活も三年生になった途端、かなり時間的な余裕ができていた。だから、俊介は妻の靖子に気取られないように、時間を作っては由里子と逢い、濃密なとろけるようなキスをした。中央大学の授業に行くまでの間、暗闇にまぎれてホテルに行き、ホテルの中で心と体を重ね合う。そんな時、由里子は甘えるように言う。

「愛する大好きな俊介さんの肌や汗の匂いが、私の体にいっぱい移りますように・・・・・・。その匂いが、船橋のアパートに帰っても残っていると、一人で寝ていてもあなたが側にいるようで、いつも気持ち良く眠れるの。だから思いっきり抱きしめてね」

「そうそう、そういう風に抱きしめてもらうと、体にも余韻が残って、帰ってもいつまでも貴男と一緒に居るみたいに体がジンジンして幸せになる」などと。

  俊介と由里子の幸せな月日は、あの初夏のめくるめく求愛から半年続いた。そして、もう師走で寒さが身に染みる季節になった。振り返るとこの半年間は、木陰でまどろむ一瞬のような時間にしか思えない二人だったようだ。由里子はいつも「あっという間に時間が過ぎて行く」とつぶやくのが口癖だった。そのまどろみの間の出来事の後に、疾風のように破局の予兆は近づいてきた。

 

   師走のある日、俊介と由里子は夕食をとるために、新橋ビルの地下街に向かって階段を降りて行った。喫茶店に入って、向かい合ってテーブルに座り、注文を告げると、由里子は不安と喜びの交差した不思議な表情をして、小声で話し出した。

「今日は貴男にとっておきの報告があるの。ここを見て、貴男の子供がいるのよ。吃驚した?」

  由里子はお腹を指差しながら、屈託のない笑顔、つまり場違いなほど満面の笑顔に豹変してこう言った。

「大好きな俊介さんの子供が、お腹の中で大きくなっていくって、ぞくぞくするほど幸せだわ・・・・・・」

  俊介は予期していなかった、上ずったようなそれらの言葉に、顔が見る見る暗くなり、少し怒りも含んだような顔に変わって行った。

「本当かい?嘘だろう、冗談だろう。出来るはずがないのに・・・・・・」

  俊介はそう言ってから後悔した。掛け値なしに喜んでいる由里子を、利己的に非難する自分の浅はかさに情けなくなった。気を取り直して、一つ深呼吸すると静かに話し出した。

「そうか、愛する由里子の体に新しい命が宿ったのか。ありがとう。嬉しいよ。つい、現実の対処や後先を考えてパニックになってしまった。ごめんよ」

「いいえ、それは仕方がないわ。誰でもたぶん貴男のように思うでしょう。でも本当に喜んでね。愛する俊介さんの子供だもの・・・・・・」

  由里子はその言葉を発しながらも、逆にだんだんと有頂天だった気持ちが、いつの間にかしぼんでいくような表情に変化するさまが、俊介には手に取るように判った。それほど俊介の反応は、想像していたより冷ややかだったのだろうか。

  しばらく、俊介はどこの病院で見てもらったのかとか、体の調子などをできるだけ穏やかに由里子から聞いた。スパゲティとコーヒーが運ばれてくるまでは、そんな感じで時間が流れた。二人は食事を始めた。食べながら話すことではないと思いながらも、俊介はやがて否定の方向に歩き始めた。

「子供ができたことは受け止めるよ。でも由里子さん、ゆっくり考えてみよう。今、君がそのお腹の子を産むということは・・・・・・やはりかなり厳しいと思う・・・・・・。君は近代農業社に入ってまだ一年生だし、生活費のことや、もろもろの対処をして育てていくということは、途方もなく大変なことだと思う。僕は責任があるとは言え、妻の靖子を捨てる訳にはいかないし・・・・・・」

「それはよく判るわ。でも、ずーと私も私なりに考えてきたわ。最終的には何とかなりそうな気もするんだけど・・・・・・」

  まだ十九になったばかりの由里子には、若さと言う武器があった。それは何物をも越えられるような自信を生み出すこともあったが、時には簡単に崩れてしまう危うさも潜んでいた。

  その時、俊介は由里子に、説得調で語りだした。

「こんなことを言うのは、本当に勝手すぎると思うかもしれないが、聞いて。僕の人生を振りかえってみると、家族というのはとても大切だという事が言えるかもしれない。僕の家では父親がある日突然出て行ったんだ。あの日から僕の心の中に宿った寂しさ悲しさは言い尽くせないものだった。だからどんなパターンでもいいから、離婚しないでいて欲しかったと、つくづく感じているんだ。そう考えると、生まれてくる君の子供は僕と同じような苦しみを必ず味わうに違いない。そんなこと絶対にさせたくはない・・・・・・。だから、由里子、本当に勝手だが、その子供のことはあきらめてくれないか?」

「ええ、そんな・・・・・・ありえない」

「ごめん。それからもう一つ大きな理由がある。君がその子供を産めば、きっと僕たちの環境は百八十度変わってしまうと思う。君が休職して実家に帰ったりすれば、しばらく会えなくなるだろうし、子供が出来たら、君は僕よりその子の方を愛するかもしれない。だから今目の前にいる由里子が、違う人になってしまうような気がして嫌だよ・・・・・・」

  俊介の後ろ向きの本音を聞いた瞬間、由里子はフォークを持ったまま涙を流し始めた。それは嗚咽ではなく、恐ろしいほど静かな泣き方であった。

「俊介さんてそんな薄っぺらな人だったの。酷いわ、酷過ぎる・・・・・・」

  と小さな声で罵った。それと同時に自分の無力さ、自分の愚かさを思い知ったのか、ハンカチを出して本格的に泣き出した。

 

  由里子は結局一人で病院へ行き、堕胎の手術を受けたのである。手術に行く一月のある日、俊介は一通の手紙を机の引き出しの中に見つけた。資料室の中に入って、白い封筒から由里子の特徴のある丸い文字が書かれた便箋を抜きだした。

『愛する俊介さんへ

今日は一人で病院に行ってきます。前処置です。明日は病院の開院時刻の朝一番に手術し、帰宅できると思います。加藤編集長には俊介さんも知っている通り、叔父が亡くなったと言ってありますから、大丈夫だと思います。Y社の記事だけ赤を入れていただければ助かります。

今の私の素直な気持ちを書きます。俊介さんも私のお腹の子のパパとして知っておいてください。

この世に生まれるはずだった俊介さんと私の赤ちゃん・・・・・・あなたのこの世に出現したたった一つしかない尊い生命を、しっかりと支えられなくて心からすみませんと言います。こんな冷酷なパパとママだったことを、あの世に行ってもけっして忘れないでください。未来永劫にパパとママを憎み続けてもいいよ。あなたの顔を見ることもなく、短期間だけれど私のお腹の中で成長しようと頑張っていたことを、一生涯記憶に留めておくわ。心からありがとうと叫びます。

俊介さんも私も、パパやママであることよりも、男であり女である道をお互い選んだことは本当に最低な人間だと考えています。でも、それでも二人が一緒にいることを選んだのは、本当に愛しあっていたからだと信じています。

                                                                                                由里子より』

 

  俊介は込み上げてくる嗚咽が、忙しく仕事をしている編集者たち聞こえないように、口に手を当てて抑えた。そして由里子のことが愛おしい気持ちと、自分の無慈悲さに涙が溢れるのだろうかと自問自答した。どこから来るのだろうかこの激しい悲しみは。自分と由里子の間にできた子供との別離もあるのだろうか。いや、取り返しのつかない罪を犯したことへの恐怖に、怖気づいて泣けるのだろうか。中学時代からの抜け殻のような人生の侘しさと、ハリネズミのように周囲を傷つけている自分が情けないのだろうか。俊介はしばらく呻吟していたが、やがて気を取り直して涙をふくと、手紙をズボンのポケットにしまった。

 そうだ、僕は由里子の肉体と心に大きな傷をつけてしまったのだ。自分の中学時代から形作られた喪失感を埋めるために、罪もない由里子を痛めつけてしまったのだ。俊介は彼女に贖罪し続けなければ生きて行けそうもないと思った。


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白い印画紙の中に登場した俊介

  中学時代、俊介に許婚がいる話を聞いて、ショックで寝込んだ夏川理沙も、もうりっぱな大人になっていた。中学二年の終わりに沖縄に転勤する父と一緒に家族は移動したが、最近、東京の本社に異動した父とまた一緒に引っ越してきて、大田区の大森の社宅に住み始めていた。ずっと心の底に俊介の面影は沈殿物のように残り、諦めたとはいえ、忘れることはできなかった。何かの物事に集中している時間と時間の間に、笑った中学生のままの俊介の表情が、時々脳裏を横切る。夏川理沙はそんな煮え切らない自分を責めては、忘れようと心掛けたが、許婚がいても好きだと言えなかったことが悔しくて、何時までも心の中から振り払うことができなかった。そんな風だったから、成長して少しは女らしくなって、告白してくる男性は結構いつも周りにいたが、うわの空で聞いていた理沙であった。他のことでは決断が早く、竹を割ったような性格と、高校のクラスメートにも良く言われたが、こと俊介に関しては何故か判断力が全く働くことがなく、ただ執念深く思い続けているだけであった。自分の理性では、御することができなかったのである。そして、運命的な生まれ変わる前の過去の絆みたいなものを、いつも感じていた。だから余計、中学時代の別れる時にそれに早く気付いて、一言でも言えればよかったと、後悔しているのである。

 

  理沙が俊介に魅せられたのは、一目ぼれというようなものではなかった。しかし、一度魅力のとりこになると、逢うごとに俊介への思いは深化していった。理沙の場合は男性のように一瞬で一目ぼれするというようなものではなかった。

  俊介はりさに優しかった。周りの人間が囃し立てようが気にもかけなかった。理沙が忘れ物をした時は、すぐに自分のものを貸したり、少し風邪気味で咳をしていると「大丈夫?辛かったら帰った方が良いのでは?」と声をかけた。また、ある日の給食の時、ふざけて暴れていた男子生徒の手が理沙の給食トレーにぶつかり、料理が全部床に散乱したことがあった。俊介は素早く理沙と一緒になって片付け、黙って自分の給食を彼女の机の上に置いたのである。理沙はパニックになっていたのに親切にされて、心の中がジーンとするような気がした。その日以来、俊介のことを意識し始めた。俊介のひょうきんな人柄や思いやりのある人間性に惹かれていった。俊介の外見は普通だったが、理沙は生理的にも感情的にもいつしか好きになっていったのである。

  朝教室に入って行くと、あの明るい俊介の顔が迎えてくれる。授業中に時々横を振り向くと、輝くような視線を送ってくる俊介。休み時間に昨日のテレビドラマの内容について感想を言い合ったりしているうちに、自分の感性に近いものを感じていた。いわば理沙は俊介と学校にいる間は、四六時中横に一緒に並んで同じ空気を吸っていたのである。勉強で判らないことを聞いたり、文房具の貸し借りをしたり、ピンチの時にはお互いに助け合い、些細なことでも情報交換をするなどしているうちに、理沙は本当に俊介が好きになってしまったのだった。

 俊介にまめに優しくされる理沙は、「自分に気があるのではないのか?もしかしたら将来素敵な恋人、カップルになるかもしれない」と思った。そう思い始めた時、理沙の初恋が本物になり始めたのである。

「どうすればもっと俊介君と親しく話せるのだろうか?どうすれば俊介君の心をもっと虜にさせることが出来るだろうか?」と考え続ける理沙は、知らぬ間に俊介がこの世になくてはならない人になり、好きで好きでたまらなくなったのである。俊介の優しさ、どんな時も尽くしてくれるひたむきさ、「俊介君ならずっと私のことを守ってくれるかもしれない」と理沙は思うのであった。そしていつしか俊介君こそ、私に与えられた運命の人かもしれないと確信したのである。それなのに・・・・・・。

  その後悔の念は、いつも同じ夢となって現れてきた。俊介と親しそうに胸をドキドキさせて、教室で話している風景が出てくる。だが、途中から俊介は、教室の外にいる顔が判らないけど美しい知らない少女に呼ばれて、いつの間にかいなくなってしまう。追いかけて学校中を探すのだが、俊介は何処にもいない。悲しくなって泣き出すと目が覚めた。こんな夢を月に何度も見る。だから、目が覚めた時、その後悔の悲しい人生に、激しく落ち込むような気持ちになり、ベッドから起き上がれなくなる。そんな時、俊介に一度でもいいから逢って、正直な気持ちを伝えたいと思うのであった。

 

  ある日、黄色の封筒に入った同窓名簿が、理沙のもとに届いた。金沢の中学校の懐かしい同窓生の名前が、封筒の裏に記載されていた。沖縄に引っ越し、大田区に来ても、その同窓生には引っ越しの連絡の葉書きを、怠らずに送っていたおかげである。薄い水色の表紙の同窓名簿を開くと、各クラスの同級生だった人達の名前が目に飛び込んできた。そして、理沙は胸がドキドキしてきたのである。『あの人は何処にいるんだろう、やっぱり結婚しているんだろうか?』と、不安と期待で息ができなくなるほど胸が痛くなった。やがて自分のいたクラスのページが出てきた。その時、そのページが一瞬眩しく輝いて見えるような心持がした。

  石田俊介 東京都大田区上池台1―5―1

  理沙はその文字のひとつひとつが、ダイヤモンドのように光って見えたのである。

  なんということだろう。石田俊介の住所は、二か月前開店した自分の『ひまわり写真店』のすぐ近くだった。足ががくがく震えるような気がした。

  理沙の『ひまわり写真店』は、出店するためにかなりの費用がかかったが、父親の協力でなんとかお店のオープンに漕ぎつけることができた。それも母親の親戚が長原に住んでいたという縁もあって、この場所に店を構えたのである。そしたら、あろうことか、俊介が近くに住んでいたのである。理沙はこの不思議な巡りあわせに、心の中で手を合わせたい気持ちになった。

  高校を卒業してからこれまでの四年余り、父親から紹介された有名な写真館での修業に没頭し、苦労してやっと夢が花開くその時に、キューピッドが連れてきたのだろうかと思った。しかし、理沙の心の中には大きな不安も湧き上ってきた。許婚の人と結婚しているんだろうかと。でも、住所がわかっていても、自分からその事実を調べに行く勇気が湧かなかった。こと俊介のことに関しては臆病な理沙であった。

 

  春の風が『ひまわり写真店』の広告ののぼりを揺らす頃、理沙と同年齢ぐらいのベージュのワンピースを着た女性が、お店に入ってきた。フイルムを預かり、名前を書いてもらった。

  控え伝票を渡すと、その女性はにこやかな顔で店を出て行った。赤いローヒールパンプスが妙に印象に残った。理沙が伝票に目を落とすと、そこには石田靖子と記載してあった。心の中では認めたくなかったが、きっとあの人が俊介の奥様かもしれないと直感的に思った。名字だけでは何の根拠もないはずなのに、理沙は自分の持つ第六感の囁きに泣き出しそうになった。

  本来、現像は店を閉めてまとめてやるのがいつもの日課だが、理沙は落ち着いて待っていることなどできはしなかった。急用で閉店しますという看板をドアのところに挟むと、ブラインドを下ろし現像室に飛び込んだのである。

  現像液の液体の中に浮かんできた被写体を見た理沙は、アッと息をのんだ。あの俊介が、その白い印画紙の中に、予想通り登場したからだ。どこかの観光地で、一人で映っているのもあれば、今日お店に訪れた女性と、仲良く映っている写真もあった。中にはホテルの中で、肩を寄せ合ってピースサインをしている二人の姿もあった。理沙はあり得ることだと前もって半分は観念していたが、ぐいぐいと胸を押すような現実の生々しさに大きなショックを受け、悲しみの波に翻弄された。それから夫婦のありふれた私生活の風景写真も出て来た。平凡な一コマだがそれが故に理沙は心が折れそうになった。それでも成長した懐かしい俊介の顔は、理沙が長年心の中で育ててきた想像の面影と寸分も違わなかった。笑っている写真が多いが、何故か直感的に俊介の寂しい悲哀の眼差しも、透けて見えるような気がした。理沙の嫉妬心のようなものが、夫婦の間にある破鏡の兆しを見出そうとしていたのである。しかし、それでも嬉しそうな奥さんの顔が、理沙の想定をはじき飛ばしていた。そうなのだ。ありえることだったのである。許婚がいるという話は本当だったのだろう。そう思うと本当に胸がかきむしられるようだった。確かに勝手に俊介が独身であって欲しいと、無意識にずっと祈っていた。あり得ないことに近くに住んでいるという奇跡に恵まれたが、これならそんな奇跡なんか要らない、と理沙はほぞをかむ思いだった。

 

  次の日の夜、紺色のワンピースを着た例の俊介の奥さんが、お店にやって来た。店舗のドアにその女性が手をかけた時から、もう理沙には誰か判った。きっと俊介の許婚だった人だと・・・・・・。

  理沙の胸の中は悲嘆にくれた諦めと嫉妬の渦など、何か抑えられない情念のようなものが、ふつふつと湧きあがる気がしたが、表情には少しも出すことなく、事務的に写真を俊介の奥さんに渡した。お金を受け取ると、小さなレジスターに金額を打ち込んでお釣りを渡した。奥さんはその間、写真を一通り見ていた。一枚ごとに微笑んで、えくぼが頬に浮かぶのが理沙には判った。

「現像がお上手ですね。これを焼かれたのは貴方ですか?」

  奥さんが気さくに聞いてきたので、理沙は表情を変えずに、

「ええ、私です。オープンしたばかりですので、ぜひごひいきにしてください。記念の写真も私が承っています」

「そうですか。若いのにすごいですね」

  理沙は、その言葉に固かった表情を崩すと、得体のしれない挑戦心が、心の中に湧き上ってくるのをどうすることもできなかった。自分の俊介に対する思いが打ち勝ったのだろう。勇気を振り絞って、恋の敵の前に身を投げ出すことにした。

「あのすみません、現像していた時に見てしまったのですが、俊介君の奥様で良かったですか?」

  その奥さんは怪訝そうな顔をして

「そうですが」

「実は私、金沢の中学時代に、ご主人の俊介君と一緒に机を並べていたことがあるんです。同級生です。もしかしたらご主人は覚えてないかもしれませんが、ご結婚されているのですね。貴方が奥様なのですか。本当に驚きました。お会いできて嬉しいです」

「え、そんなことってあるんですね?こんな近くに俊君の同級生がお仕事をされているなんて不思議。日本も狭いものですね。しかもこんな綺麗な方が俊君の同級生とは、ちょっと信じられないですね」

  と、その奥さんは笑って言った。理沙はどきどきしていたが、接客の際の特有の屈託のない笑顔で、

「ご主人様によろしくお伝えください。また、機会がありましたら、ご一緒にご来店くださいませ。大歓迎します」

  奥さんはにこにこしてドアを開け、商店街の雑踏の中に見えなくなった。理沙はドアのガラス戸越しに、深い大きなため息をつきながら見送ったのである。

  理沙は残酷な運命を感じたが、目の前で本当に結婚相手が喋っているのを見ると、願望を打ち砕いた現実に、ショックは倍加した。確かに俊介の住んでいる住所は知っていた。穴の開くほど地図でそのアパートの所在を確認している。それでも結婚しているかどうかも判らないうちに、訪ねていくのは怖かった。しかし、俊介側から、この不幸の知らせを届けて来たのである。もはや住所を知っているからと言って、おめおめ訪ねていくこともできなくなってしまったような気がした。図太い神経だったら、『昔の同級生です』と、公明正大な理由を付けて、愛しい俊介と奥さんが住むアパートに訪問して、直接逢うこともできるが、それができるくらいならとっくに訪ねて行っているはずである。だから理沙は諦めるしか手がなかったのである。ただ、一目だけでも逢えれば良いと思った。それだけで充分に幸せだと考えるようにした。だからその日から、俊介に似通った年齢の男性が、お店の前を通るたびに、どきどきしては彼の面影を思い浮かべた。しかし全て人違いだった。それでも、淡い懐かしさが、無性にこみあげてくるのであった。

『どうしているのかな?仕事はうまくいっているのかしら?ちゃんと食事を作ってもらっているのかしら? 何かに悩んでいないかしら?とは言っても、判っているんだ。他人のご主人、結婚しているからどうしょうもないけど、心から幸せになって欲しいと思うわ。私も俊介君に負けないで仕事で稼いで、お金も貯めて結婚をしないと』

  そんな風に思いを巡らせながら、理沙は俊介の近くに住んでいるという、奇跡的な幸せを曇らせた奥さんの存在のショックを振り切るようにして、できるだけプラス思考で仕事にも取り組もうと、無理やり俊介への愛しい気持ちを抑え込むようにした。


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理沙のお店の呼び鈴を鳴らす俊介

  六月のある日、理沙は写真の袋を整理していた。するとカウンターの方から、呼び鈴を鳴らす音が響いてきた。ふと顔を上げた瞬間、

「俊介です」

  とその来店者は、微笑みながら理沙が待ち焦がれていた名前を言った。その声の響き、その明るいかんばせに、理沙は一気に胸が踊るようだった。

  茶色のジャケット、白ワイシャツにシンプルな赤いネクタイが眩しい。ショルダーバックには、カメラでも入っているのだろうか、肩にベルトが食い込んで重たそうに見える。身長が中学時代のころと比べて、とても高くなっていたのに理沙はまず驚いた。そして、奇跡のような再会に、幾つもの思いを封印しながら、努めて理沙は明るく言った。

「あーお久しぶりです。俊介君本当におとなっぽくなったね。元気にしていましたか?」

「妻から聞いてびっくりしたよ。こんな近くで仕事をしているなんて。しかも中学の時も美人だったけど、大人になって増々磨きがかかったみたいだね」

「お上手ですね。世間の風に揉まれているのかしら?」

  二人は顔を見合わせて笑い出した。

  俊介はすでに理沙が知り尽くしている、住んでいるアパートの場所と、新橋にある農業機械関係の新聞社で、記者をやっていることを告げてきた。

「会社の側にも行きつけの写真屋さんがあるんだけど、『ひまわり写真店』は家の近くだし、焼けるのが早そうだから持って来たよ。スムーズにいくんだったら、これからもちょくちょくお願いしようかな」

  と言った。

  現像するためにフイルムを受け取って袋に入れ、伝票の控えを俊介に渡した。理沙はさっきより胸の高まりの激しさに驚き、正直な心の中の俊介に対する思いが増幅されていくのが判った。中学時代の二年の時、許婚の人がいるということを知ったショックで、好きだという本当のことが言えず沖縄に引っ越し、その後また父の転勤で東京に出てきたら俊介に逢えるなんて。苦しくても基本はすっかりあきらめようと思っていたのに、逢うと何故か理沙の気持ちは抑えようがなく、再会の感激と過度な緊張感は体を貫くようだった。それでも勇気を振り絞って、

「中学時代、私が沖縄に引っ越していく時、俊介君は何にも言ってくれなかったよね・・・・・・」

  と理沙がつぶやいた。すると俊介は困った顔になり、

「僕は君に嫌われていたようだったし・・・・・・」

  理沙は思ってもみなかった意外な言葉に、中学時代の自分の振る舞いを思い返してみた。そういえば、許婚のことを聞いてから、ショックで俊介とまともに会話をしていなかったような気がする。そして、彼の許婚の事実について、本人に確認する勇気もなく、引っ越してしまったから、俊介はきっと自分のとった態度にそう思ったのかなと考えたが、再会したばかりなのでそこまで深く聞けなかった。ただ、その許婚の話は、親しかった同級生の和夫君から聞いた話なのである。数か月前にこの店に来た俊介の奥様は、その許婚かもしれないから、理沙は確かめてみたい気もした。けれど、その勇気が出てこなかったのである。今は胸の中に、そっとしまっておこうと理沙は思った。だから、あたり障りのない言葉になってしまった。

「この間来店された奥さまは素敵な方ですね?」

  すると意外な言葉が返って来た。

「僕、今ピンチなんだ。妻が出て行くかもしれない。多分別れることになるんだ・・・・・・」

  理沙は彼の苦しみの気持ちが溢れる言葉の響きに、胸が張り裂けそうになった。それでも次の瞬間には、相手の弱みに付け込むような考えが浮かんだ自分に、一層驚いて恥じた。

「嘘でしょう。この間お会いした奥様は、本当に優しそうな綺麗な方で、貴男と映った写真を楽しそうに見ていたのに・・・・・・」

  俊介は理沙のその言葉に顔を一瞬ゆがめ、何も言い返そうとはしなかった。悲哀のこもった表情が理沙の目に入った。二人の間には重い沈黙の時間が流れた。たった数秒なのかもしれないが、とてつもなく長い時間のようにも思えた。しかし、相手の俊介がそれでも意志の力で戻したのだろうか、微笑が顔全体に広がった。名刺とボールペンを内ポケットから出して、名刺の余白に住所を書き添えた。紙を擦るペンの音が理沙の神経を揺さぶっていく。

「今日は久しぶりに逢えて嬉しかった。過去のいろいろな思い出が、今の自分を少し癒してくれたような気がするよ。僕の会社の名刺と自宅の住所と電話番号です」

  そう俊介は告げると、名残惜しそうな表情をしたまま振り返ると帰って行った。理沙は俊介に再会した時からの心臓の鼓動がまだ収まらなかった。事務処理は後回しにして、俊介の会社の住所に手紙を書き始めた。

『今日、私のお店に来ていただき、ありがとうございました。俊介君と再会できて本当に嬉しい一日でした。もっと色々お話をしたかったのですが、おかまいできなくてごめんなさい。ですので、今度差し支えなければお茶して、ゆっくり話をしたいのですが、是非遠慮なくお誘いくださいね・・・・・・』

  理沙は自分の大胆な言葉に吃驚したが、一度っきりの人生、勇気を出さないと何も始まらないと、何かが吹っ切れたようにさわやかな気持ちになっていた。そして、お店のすぐ近くにあるポストに、軽い足取りで手紙を投函しに行った。 



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