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プロローグ

  2000年の春のある日。

「出かけてきます」

  と外山和樹は言いながら、二人の間にあった長い時間の蓄積が作り出す少々退屈に近いくらいの安心感を、常務である稲見沙織と言う人物に対して抱きながら、事務所のドアを開けた。背後から、

「行ってらっしゃい」

  という幾分抑揚のある声が追いかけてくる。

  三年前、会社のメインの事業である運送業が立ち行かなくなり、外山和樹たちがいた部門が独立して引っ越してきた二階にある事務所だ。ドアを閉めると、傾斜が少し急な階段を、心臓の鼓動のようにコツコツと音を立てながら降りた。一階部分に降り立つと、向かいにあるビルの窓に反射した光が、鈍く差し込む鉄線の入った曇りガラスを眺めながら、外山和樹はふっとため息をついた。今日も日本橋界隈の問屋の中での営業の戦いに、気持ちが少し萎えそうになる。しかし、気を取り直してドアのノブを握る。外は快晴である。まぶしい空には頼りなげな薄い破片のような雲が、幾つかあるきりだ。外山和樹は歩き出した。一階の食料品店を経営する六〇歳台のおばさんが、華奢な体つきに似合わない一番鳥の鳴き声を連想させるような張りのある声で、

「おはようさん。今日も稼ぎに行くのかい。頑張ってな」

「おはよう。おばさんはいつも元気だね?」

「ああ、太陽に負けたくないから」

「ありがとう。元気が出るよ」

  外山は手に持った厚めのクリアファイルをぎゅっと握りしめると、最初に決めている営業先に向かった。もう、躊躇はみじんもなかった。

 外山和樹の経営する会社の名前は『日本橋仕入情報株式会社』である。一七〇〇年頃からの長き伝統を誇る日本橋界隈の問屋街は、ファッション業界において外圧や新勢力の台頭、出店攻勢により化学変化をきたしているが、それでもまだまだ全国のファッション店のよすがとなっている街である。外山はこの街を愛していた。だから、各店舗に整然と陳列された女性を対象としたきらびやかで優雅で豪華なドレスやスーツ、いや安価で質は最低限の普段着でも、着る人たちのこころをときめかすカラーと布地のデザイナーの作品群を見ると心は躍る。男性のビジネスの世界の中で、気持ちを引き締め心の軸を作る洗練されたベーシックなスーツ、そして休日に着こなすカジュアルな良品、これらの布の生き物たちがこの街から運ばれ、ファッション店の店頭を飾り、やがては全国の人々が鏡の前に立った時の笑みにつながることを考えると気分は高揚するのである。それが外山にとってはこの世のひとつの喜ばしい出来事であり、それをサポートする情報提供の仕事に、誇りと自負を持っていたのである。

 ファッション問屋街から、ファッションの流れの心臓部を嗅ぎ取り、仕入情報という雑誌として8000部を発刊、そしてダイレクトメール、インターネットによる販促情報提供に勤しんでいた。

 

 外山社長のパートナーとして、常務の稲見沙織がいる。彼女の仕事は広告レイアウトのデザインや経理だ。年齢は四十五歳で外山より一つ上だ。しかし、稲見沙織の体形は、近くのスポーツクラブに通っているため、この年齢にもかかわらず、華奢で小柄ながら均整がとれて美しかった。綺麗にカットされた黒髪のショートカットは、世界的に有名なファッション雑誌のモデルのようであり、切れ長の大きい目は暗闇で光る猫の目のようにいつも輝いている。その大きな目が描き出すデザインは、平凡な描線に命を吹き込み、切り取られたデジタル写真に立体的な構造をもたらすのである。その手から生み出される制作物は、いつも決して外山の期待を裏切らない。そして、外山にとって彼女の存在は、帰るべき港のような安心感があった。

 

 冬の日差しが、早々と西側のビルのずっと向こう側に逃げていってしまう2000年のある日の夕暮れ時、外山は稲見沙織のパソコンの画面に心をときめかせた。熱烈にさせる何の濁りも無い透き通った雪のような表情の女性を、画面に見出していた。

「この広告は夏川商事だね?この女性は?」

「この女性は夏川商事のお嬢さんです。外山社長好みの女性かな?」

「あの社長のお嬢さん。信じられないね」

 外山はオーバーなくらい驚いたが、慌てて稲見沙織の表情を伺うように横顔を見ている。沙織はそんな外山の行動を、そ知らぬ顔をしたまま見返した。

 外山は長い時間をかけて、その夏川商事のお嬢さんという人物を、覗くことはしなかった。ただ、夏川商事の春のファッションを着て、プロのような仕草でポーズをとっている彼女を、必死に目に焼きつけるようとしている外山がそこにいた。その女性の全身を見ていると、理知的でありながら太平洋を眺めているような大らかな雰囲気にさせる不思議さに、外山は感動さえ抱いた。すっとパソコン画面から視線をはずすと、ぶっきらぼうな口調で言った。

「夏川社長の差し金だろうな。自分の娘を使うなんて」

 沙織は外山が異性に対して抱く本能的な欲望のサインを見逃さなかったようだが、何事も無かったように包み込んで微笑した。

 

『日本橋仕入情報株式会社』には、もう一人社員がいる。二十八歳のイラストレーターだ。外山はそのイラストレーターと二年前に面接した。その時、履歴書を見ながら鼻腔を強烈に支配してくる匂いに気づいた。それは、アポクリン腺からの分泌物が変化し、汗のアンモニアなどが加わって生じるあのわきがであった。目の前にいるその朝倉正の体から一直線に外山の敏感な鼻を攻撃している。外山はその匂いに採用する意欲が急激に萎えていくのが判った。しばらく幾つかの質問などが交わされたが、外山は撤退を始めていた。その時、朝倉正は大きな黒色の革鞄から、プレゼンテーション用の作品をおずおずと出した。

  外山は眩しいその渾身の力作に、実は腰が抜けそうになったほどである。描かれている物体は、工業製品の基幹部品のようだ。指で触ると消えてしまいそうな黒い細い線が、丸みを持った曲線になると、その部品が立体的に見えてくる。硬い金属で構成される部品が、今にもその単体だけで動きだそうとしているかのような錯覚を覚える。色づけされた箇所は、なまめかしい女性の秘所のように潤って見えるのだ。この作品を描くために、戯れに描いた曲線などはこれっぽっちも存在していなかった。一発で書き上げたような爽快感がある。

「素晴らしいではないか。どのくらいで書き上げました」

「手書きで二日間ぐらいです」

  自信にあふれた朝倉正の顔が、真夏の太陽に向かう向日葵のように輝いている。それで外山はすっかり鼻を劈いた匂いのことなど忘れてしまった。ただちにその場で採用することにした。その後、朝倉正は真面目に出勤してきたが、意外な面があることを外山は後で知った。かつて実家で暮らしていた時があったが、兄嫁に手を出している。また、前に勤めていた会社では、片っ端から同僚の女性に手を出していたという。この情報は、出入りしている印刷会社のかなり能天気な若い営業マンの青木という男が、外山にもたらしたものだが、思わず小さな叫び声をあげてしまった。それでも外山は朝倉正に対する麻痺的な優しさの中にいた。天才的なイラストレーターには、わきがと女癖の悪さという二つの弱点があることを承知したのである。幸い、後者の弱点を沙織に発揮する気配は毛筋も無かった。


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植物人間となった少年

  一九九〇年夏、外山は会社の車で帰路を急いでいた。部門として独立する前に勤めていた日本橋問屋街の共同配送を行う運送業の会社で、秋に向けての取引の活発化のためか、多くの荷物の処理に追われた一日だった。仕事を終えると疲労が鉛のように体を覆っていた。筋肉質の体格の良い部長が、各ドライバーに集荷トラックを一台一台整然とターミナルの前に入れさせると、外山に車で帰って良いよと声をかけた。その代り明日の業務は一番に先に入ってくれと指示された。車は時々自宅まで使うから、ルートは熟知している。江東区から自宅の大田区までは湾岸線を使って四〇分ぐらいだろうか。道路の両側の照明が、過剰にあふれているような湾岸道路は、華やかできらびやかなトンネルを潜るような気になる。海の香りも満ちている。その海の下を潜ると大田区に入る。そこから、上池台の方に向かった。環七から長原の商店街に入り、街灯の銀色の光線の放列が敷かれた下り坂を、小池公園に向かって車は降りて行った。エンジンブレーキのうなり音が、静かな住宅街を不気味に揺るがすようだった。

  その下り坂が緩くなりはじめるころ、外山の車のスピードはかなり上がっていた。右に曲がるともう自宅なのである。すると突然、道路を横切るために駆け抜ける猫のようなスピードで、何かに夢中になったような少年が走り出てきた。車にあたるにぶい音がして、少年は宙に飛んだ。急ブレーキをかけ、車を道路の左に寄せて停車し、倒れた少年に近づいた。少年の母だろうか、

「卓也ちゃん、卓也ちゃん」

 と叫びながら、駆け寄ってきた。外山は逆に自分が激しく突き飛ばされ、失神して倒れたような気持ちになった。やがて少年の周りには人だかりができた。少年が駆け出てきた家の中にいた人々だろう。

「すみません、誰か救急車を呼んでください」

 父親らしき男が、悲痛な声で家の中に叫んでいる。

 外山は大きな声で少年に呼びかけた。

「大丈夫か。喋れるか?」

 負傷して頭部から血を出している少年に何の反応も無かった。

 意識はないようだが、呼吸はしている。手首に指を副えると、脈拍の動きがあり、心拍数も安定している。茶色の半ズボンから露出した膝からは出血していた。

 外山は脳損傷を受けているのだろうかと考えると、巨大な何かが押し寄せてくるような気がした。失神と失禁が一時に襲ってくるような不気味な予感だ。そうだ、まぎれもなく少年は昏睡状態に陥っているのだ。目を閉じたままだ。筋肉が弛緩した腕に触っても、目を開けることはない。

 外山は父親に少年の頭の方を持ってもらい、自分は足の方を持って、慎重に飛び出てきた住宅の門の中の草むらまで移動した。

 少年を横向きにし、下あごを前に出した。後ろに倒れないために、動揺している父親に、横に座って支えてもらうように外山は頼んだ。

 少年は声も無く、だらりと父親の腕の中に横たわっていた。外山は自分の心に、少年に対する憐憫の情が生まれているのかと探ったが、それは僅かしかなかった。むしろ、何故車道に急に飛び出てきたのか解せなかった。少年の飛び出してきた家の一つの窓ガラスから、鈍い光がこぼれている。スローモーションのビデオの画面のように、ゆっくり時が流れている錯覚が、奇妙に外山の心を支配した。

 今ここで起こっているのは何なのか、外山は自問自答した。やがて厳しい現実という怪物が、次第に本当の恐怖を募らせてきた。ハンカチをポケットから出し、冷や汗のようなものを拭い去りながら考えている。少年の将来は、そして自分の今後の処遇はと考え出したら、自尊心の中にある冷静さは掻き消えていくようだ。すると足や手の先が震えだした。近くにいる泣き叫ぶ母親の肩のように震えだしたのだ。救急隊員の乗った救急車のサイレンの音が、長原商店街の周辺から聞こえてきた。しばらくするとその音は、ぷつんと途切れ、赤色灯を回転させた白い大きなワゴン車が近づいてきた。外山は救急車の車体を見ると、体の震えが少し収まるような気がした。

 救急車のドアが開けられ、救急隊員が出てきて、てきぱきと処置をすると、あっという間に少年と母親を乗せて、再びサイレンを鳴らしながら静まり返った住宅街の中を、徐々にスピードを上げて走り去っていった。入れ替わりに警官が数人乗った、くたびれきった古いワゴン車が静かに近づいてきた。

 脂ぎって恰幅の良い警察官が、疑い深そうな目をギラリとさせて、事情聴取を始めた。外山は深い動揺の池にはまっていたが、尋ねられることに対しては、むしろ堂々として正確に答えた。困難な状況ほど負けん気になるタイプである。事故の発生状況を外山が淡々と話すと、目撃者となってしまった父親は、引きつった舌が口蓋に張り付くような喋り方をした。緊張が口の中の水分を奪っていたのである。説明した内容は、外山と寸分の狂いもなかった。事情聴取が済むと、その恰幅の良い脂ぎった警察官は、ワゴン車のドアを開け、難儀そうに取手に手を伸ばし、這い上がるようにして助手席に座った。警察のワゴン車が走り去ると、外山はその父親たちと、連絡が入った少年の受け入れ病院へ向かうことにした。

 

 少年のその後の経過は一進一退であった。通常であれば、急性期を乗り越えて死の淵から遠ざかり、神経機能の改善が徐々に見られるようになる。ところが、目を開けることもなく、会話をすることもなく、手足を自分の意志で動かせるようにもならない。重度の脳損傷が少年の悲劇の人生を象徴し尽くして治癒する気配が全くなかった。

 やがて、目は開いているが、視線は空を彷徨い、愛する家族が心配そうに覗き込んでいることや、病室に差し込む日光が、白い壁を区切っていることさえ認識していないことが判った。

 少年は、昼間は目を見開き、夜は目を閉じて眠るだけの植物人間となってしまったのである。あたかも昼間に花開き、夜にその花弁を閉じるかのように。

 

 十年前のその夏の日、しし座流星群を知人宅で見るために来ていた少年は、小学二年生の三木卓也君だった。そしてその父と母も一緒に遊びに来ていた。夏休みも終わりに近づき、名残惜しい家族の触れ合いの一か月余の思い出のプロローグにと出かけて来ていた。午後十時をもうまわっていた頃である。その時小さな事件が起きた。知人宅の子供も同学年だが、その子とつまらないことで諍いをし、叩いてしまったのである。三木卓也君のその動作を一部始終見ていた気性の激しい母親は、厳しく叱責した。三木卓也君は一瞬固まったように突っ立っているだけであったが、川の堤防が雨水に耐えきれず突然決壊するかのように泣き出した。そして唐突に知人宅から飛び出していたのである。外山はその人生の何万分の一かのわずかな時間を不運にも選び、泣きじゃくる三木卓也君と遭遇してしまったのである。明日の仕事の責任感のために急いで帰宅して、ただただ早く睡眠をとりたかっただけなのである。しかし、外山が三木卓也君を轢いてしまった事実は、何万年時間が過ぎようと、変わらない時空間に刻んだ傷なのである。

 事故後の外山の処遇は行政処分として免停となったが、間もなく復活している。民事上の賠償は、卓也君が植物人間状態だが、任意保険の対人賠償額を無制限に設定していたため、保険で全額支払われることになった。しかし、外山は遺族から言われた言葉が、心の奥底に錨のように沈んでいくのを感じ取った。

「一生、そして死んでも卓也を守ってください。お願いです」

 外山は事故の起こった毎月のその日に、病院にお見舞いに行くことにした。治療室の中には入れないが、窓ガラス越しにいつも合掌した。そして慰謝料として十万円を毎月家族に渡した。

 刑事処分については、どんな判断がなされたのか、まったく知る由もなかったが、無しと回答された。だが、いっそのこと重い罪を、と思っていた外山にとっては、償いの決心が殺がれるような気がした。


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外山と沙織と贖罪の十年

 外山は当時、運送会社の中にある出版部門の女性と付き合っていた。それが沙織である。外山はその出版部門の営業の仕事と、集荷の仕事を兼務していた。

 最初に出会ったのは、その運送会社での面接の日、お茶を入れてくれた時だ。海の底にあるような深いグリーンのカラーを彷彿とさせるワンピースを着た沙織は、面接に臨んだ外山を興味津々の顔をしながらも、にこやかな顔で応対してくれた。外山は面接の研ぎ澄まされた時間の中でも、沙織に惹かれるものを感じた。入社が決まって、外山は情報誌の営業のため、時々事務所で沙織と顔を合わせるようになり、その都度、高揚するような気持ちが沸き起こった。

 沙織も出会った時から外山に好意を持っていたので、二人とも気持ちがあっという間に向き合い始めた。外山が広告営業の仕事に出かけて事務所に戻ってくると、沙織は締切り時間に追われた広告デザインの手を休め、お茶を入れるためにいそいそと机から離れた。そして、薄い壁なら貫き通しそうな二人の熱い視線が一瞬ぶつかる。求愛の炎は二人の瞳の奥にしっかりと宿っていたのである。

 外山が入社して数ヶ月が過ぎた初夏の夜、二人とも強い予感を感じながらも表情に出すこともなく、仕事がひと段落したので、人形町の古風なレストランで食事をすることになった。

 食事を終えてワイングラスに残った赤い液体を眺めていた沙織は、唐突に口をついて出た外山の言葉に目をぱちくりした。

「僕の運命の人、沙織さん、一緒になりませんか?」

 たったそれだけだった。

「ええ」

 沙織は勝気で年上だから結婚対象外だろうと勝手に想像していたその障害物を、いとも簡単に取り除く外山の言葉に、二つ返事だった。

 

 二週間後には結納を済ませ、二人は結婚式の日取りを決めようとしていた。沙織は唐突に出現したドラマチックな現実を見ている女性にありがちな優しさの中にいた。そして、日取りは十月の初めの日曜日と決まった。

 

 事故は二人が新しい生活への過大な期待で有頂天になっていたその頃に起きた。外山は晴れ渡った大空を滑空するようなゆとりあふれる大型のジェット機が、一瞬にして漆黒の雨雲に見舞われ、墜落するような恐怖感を感じた。

 

  外山は病院を見舞い、自宅に帰って電話機を取った。手が小刻みに震えているようだ。沙織の寝ぼけたような声が受話器の向こうから聞こえた。

「外山さん。どうしたの・・・・・・。何かあったの?」

「俺、事故った。どうしよう。子供を轢いちまった。その子は死ぬかもしれない」

「え、うそ。どうしたの。今日は仕事が遅いって言ってたけど、いつもの電車じゃないの?」

 外山の受話器から、何かにぶつかる違和感のある音が聞こえてきた。沙織が受話器を落としたようだ。拾い上げる音がした。

 外山は事故現場で経過した時間をゆっくり反芻するように、一つ一つの出来事をノートに書き込んでいくように話し出した。沙織の声からは、段々と外山と自分との関係が、この事故によって変質していくという黒い不安が、心の底から徐々に沸き起こってくる様が感じ取れた。外山は大事な結婚式のことには触れたくはなかったが、電話を切る時に意を決して言った。

「結婚式場にキャンセルの電話をお願いします」

「ええ、私の方からしとくわ」

 外山は受話器をゆっくりと置いて、額からにじみ出てくる冷や汗をぬぐって、畳の上に横になった。

 

 次の日、外山は眠れない夜を過ごしたため、疲れた暗い顔で会社に出た。会社に到着すると、夏の強い日差しは、昨日の少年の体がぶつかった車のバンパーのへこんだところを、これ以上ないほどあからさまに暴き出し、周囲に不快感を与えていた。外山は総務部長と社長に昨日の事故を報告した。不可抗力とはいえ、不機嫌な社長の視線が、痛いほど外山の顔を刺した。

「君と稲見さんは良い夫婦になると思って、君に彼女を強く推薦したんだが、これから大変だな」

 外山は途中入社した自分を可愛がってくれ、仲人まで一役買って出ると言ってくれた人の良い社長の顔が、いつになく悲しそうに見えた。いや、いつも精悍な顔つきの社長が、今日は新月のように純粋な表情で、外山を憐れんでいるかのようにも思えた。社長の放った何気ない言葉を何度も反芻した。

 

 沙織のいる出版部門は、日本橋のとあるマンションの中にあったが、そこへも顔を出した。

 沙織は椅子から立ち上がって駆け寄ってきた。外山はすぐには言葉が思いつかなかった。

『沙織との結婚は無理かもしれない。病院のベッドで寝ているあの卓也君が回復しない限り、結婚なんかしていられない。だけど、どう切り出したら判ってくれるだろうか。また結婚を申し込んだ時のように、唐突に彼女にあきらめてくれとでも言うのか?』

「大変でした。でも元気そうだから安心したわ」

 沙織はあってはならない未来の予感に、悲しい気持ちが優しい体から滲んでいたが、努めて微笑んでいる。

 沙織の上司の編集部長は、落ち着いてひとつひとつ対処すれば切り抜けられるからと言いながら、浅黒い顔を引き締めて外山の肩を軽く叩いた。

 

 それから、二週間ぐらい経っただろうか。外山が問屋街の広告営業を終えて、出版部門の事務所に戻ってくると、沙織が待っていた。お昼を浜町公園で食べようと約束していたのである。夏の名残の積乱雲が頭上に見えた。外山は沙織には聞こえないように、ふっとため息を漏らしながら、さりげない夏の屈託のない雲を恨んだ。高さのない、押し付けられたような屋根の船が、隅田川をのろのろと運行しているのが見える。頭の上の高速道路を走る車が不快な音を立てていたが、少しでも涼しげなところをと思い、二人は川を見おろせる日陰になったベンチに座った。川風に乗って船のディーゼルの小気味の良い音が聞こえてくる。近くのお弁当屋さんで外山が買ってきたおにぎりを二人は静かに頬張り、飲料水をのどに流し込んでいる。汽笛が小さく鳴った。外山は押し出すように言った。

「ずっと考えていたんだ」

 沙織は最悪の事態を想定しつつも明るく微笑んで耳を傾けた。

「僕はまるで子供のように、君のような素晴らしい伴侶を得ることに、有頂天になっていたんだ。あの日に車さえ乗らないで帰ったらと、ずっと悔やんでいた。悔やんで眠れない日が続いた。でもね、現実はまるで巨大な石のように微動だにしなかった。あたりまえだよね。地べたを這うように、海底深くもぐっても、逃げても何も変わらなかった。だから受け入れるしかなかったんだ。あの卓也君という少年は、植物のように眠っているんだけど、きっと全生命力で戦っているんだ。だから、どんなに辛くても、僕も目を見開いて一歩でも前に進もうと思うんだ」

「本当にそう思うわ。結局、進むしか道は無いものね」

「だから、とても君にも辛いことを言わなければならない。君に申し込んだ僕がまた君に断る。なんて勝手な男だと思うかもしれないが、植物状態の卓也君のことを考えるとそれどころではないんだ。車という武器を使って少年や家族たちの人生を狂わせてしまったことを反省し、償わなければならないということを考えると、今は結婚している場合ではないと思うんだ。沙織さんはどう思いますか?」

「ええ、私もそのことをずっと考えていたわ。三十代半ばの私を拾ってくれた外山さんとの結婚は、私にとっては青天の霹靂だったわ。嬉しかったわ、本当に。貴方に会うまでは、私が高学歴で、周りにお高く留まっている女性という印象を与えるらしくて、男性とはずっと縁遠いものと決め込んでいました。でも、突然貴方が現れて、あっという間に婚約までした時は、今までの全ての運を使い果たしたような気持ちが本当にしたの。でもやっぱり私はだめね。皆に祝福されるステージには上がれなかった。だから私もこの運命を受け入れるしかないの」

「ごめんね、沙織」

 外山はそっと沙織の手を握って、また正面の隅田川に目を落とした。

「今でも君のことは愛している。だが、今のこの現状は、好転するのか、悪くなるのか、まったく予想が出来ない。それでも善処しなければならない。だから、一旦は婚約を白紙にしよう。承知してくれるね?」

「判ったわ。でも、きっと幸運の女神は、私たちに微笑むと信じているわ」

 やがて、外山は、沙織の頬に、隅田川に反射する光に照らされて流れている一筋の涙を見た。

 外山は心の中に黒い微粒子がひしめくような気がした。そして、暗黒の世界に吸い込まれていくような目まいがした。外山にはその暗黒の世界に、もう一つ巨大な陰湿な磁石を持っていた。少年時代に、近所では特に目立つような細面の美人で、着物をいつもさりげなく着こなす自慢だった母が、外山を置いて出て行ったのだ。あれほど可愛がり、あれほどいつくしんでくれた母である。外山は父に何故出て行ったと聞いたが、貝のように閉ざした口は真相を語らなかった。だから、自分を捨てて出て行った母を憎むしかなかった。一時も忘れることなく憎んだ。愛おしいが故に激しく憎んだ。やがて母を宇宙の果てまで押しやるほど憎み、黒い棺の中に記憶を放り込んだ時、外山は女性ほど裏切る生き物はない、と心に刻印していた。

 その外山が始めて女性を信用しようとしたのが沙織だった。でも、やはり駄目だった。今回の事故が原因で婚約破棄したのではない、今回の事故を起こしたことによる未来への不安が、自分の心の奥底に封じ込めようとしたマグマを、再び表に引っ張り出してきたのである。負の感情連鎖である。ごく微細なカビのように見えた存在が、巨大な不信の磁石に変質したのである。外山はわけのわからない恐怖感に襲われ、沙織を拒否したのであった。事故という名を借りて。

 沙織はゆらゆらと揺れて、川底深く沈んで行く小さな小船のようだった。それでも外山はあえて同情の心を持たなかった。いや持てなかったのだろうか。

 浜町公園の中央部では、小さな子供たちが揺らぐ外山と沙織の弱り切った心を劈くように歓声が上がった。近くの頭上の高速道路を走る大型トラックの爆音が切なく響く。

 

 沙織は外山から婚約を破棄されても会社を辞めることは無かった。外山との微妙な関係が形作られ、薔薇の棘のように時々思い出しては胸を刺さされ、小さな悲鳴をあげながらも、心底好きな広告デザインの仕事をやり続けた。

 三年前、外山と沙織が勤めていた共同配送のパイオニアの運送会社が、問屋街のなかで同業他社に侵食され、生き延びるために大手物流会社に吸収合併される、という話が持ちあがった。そして、外山と沙織には出版部門の独立の声がかかった。迷うことなく外山はその話に乗った。以前から自分で会社を経営したいという野望があったからだ。独立をする時、外山は沙織に打診した。婚約破棄した僕についてくるかと。沙織は了承した。

「私はこの仕事をすることが一番幸せなの。引きずっているわけではないけれど、あなたとの縁も切れないわ」

 と小さな声だったが、外山の耳には明瞭に聞こえた。外山も沙織が辞めて出ていくことなど想像できなかった。

 外山も、婚約破棄をしてから独立するまでの七年間、半日配送、半日出版営業で、沙織に対して大きな負い目を抱きながらも、一緒に仕事をしてきたのである。

 

 朝倉が入社して、独立会社『日本橋仕入情報株式会社』は三人体制になった。資金繰りも少しずつ安定してきた。そんな夏の暑い夕方、外山と沙織は事務所で二人きりだった。階下の食料品店のおばさんの声が聞こえる。親しいお得意さんと話しているらしい。

 沙織は広告原案のコピーをとっていた。外山は広告営業の成果をまとめている。リズム正しくコピーをとっていた沙織の手が突如止まった。そのうち外山は七年前の時と同じように、沙織の頬に流れている一筋の涙を見た。やがて嗚咽のような声が聞こえてきた。外山は駆け寄って軽く沙織の肩に触れた。今まで積もりに積もった沙織に対する負い目が、今では完璧な紳士のように振舞おうという優しさに変わっていた。

「沙織さん。どうしたの?大丈夫?」

「外山さん。私はあなたが本当に好きなの。独立する時、仕事が好きだから一緒にやろうって承諾したけど、本当はあなたを今でも愛しているの。なのにあなたと一緒になれないなんて。私はなんて不幸なのかしら。まるで、砂漠のなかで、オアシスを求めてさ迷い歩く旅人のようだわ。辛いの。だから・・・・・・

 外山は立ち尽くして、沙織の高ぶった気持ちが静まるまで側にいた。エアコンの吐き出す冷気が、壁に貼られたポスターを軽く揺らしている。

 婚約破棄から八年の歳月は、沙織の体と心に悲しみの忍耐というガラスの城を構築させていたのか。いつ壊れても良い繊細な城のようだ。沙織は時々その城が嵐のような激情に、はじき飛ばされそうになることがあったのだろうか。広告のデザインを考え熱中している時にも、それは突然地から湧き出てくるのかもしれない。恐らく事務所に一人でいる時、その感情は、長い嗚咽となることが時々あったのだろう。外山は、その彼女の感情の表出に心が折れそうになる。そっと、いや強く抱きしめてあげたかったが、それは一線を越えることになる。だからそっと側で気が収まるまで待った。

「取り乱してごめんなさい。もう大丈夫ですから・・・・・・

 沙織は黄色のハンカチで顔を拭った。外山は席に戻った。掛け時計が五時を回っている。

 

 交通事故を起こしてから、もう十年が経とうとしていた2000年1月の寒いある日、外山に電話が入った。

「昨日、卓也は亡くなりました。ピンク色で良い顔をしていました。回復することは叶いませんでしたが、私たちはたくさんのことを彼から学びました。普通に生きていれば、高校三年ぐらいかしら。喋れなくてただ眠っているだけですけど、子供の命って、こんなにも尊いものだということを教えてもらいました。外山さんには大変長い間、尽くしていただいてありがとうございました。心から卓也のことを気遣っていただいたことを、残された家族の私たちは一生忘れません。昨日を境にあなたの償いは終わりました。主人もそう申しております。だから、もう自分を責めないで新しい人生を再出発してください。独立されたのですから、良いんですよ、大いに稼いで。卓也の命の分も頑張ってください。本当に長い間ありがとうございました」

 外山は信じられず、耳を疑った。突然、卓也君が亡くなったこと以上に、家族の人たちの外山への憎しみを美しいほどに昇華させていたことを、初めて知ったからである。外山はただ一か月に一回のお見舞いと、毎月十万の慰謝料を家族へ渡して、丁重な挨拶を一度も欠かさず続けたという十年間であった。

「失礼ですが、よろしければお葬式の日取りをお教えいただけますか?」

 外山は遠慮勝ちに聞いた。

「ご心配なさらないでください。家族だけで行いますから、大丈夫です。それに、お香典など一切気を使わないでください。毎月いただいているお金も本当は返したいぐらいですが、貴方の誠意として受け止め、今まで使わず積み立てていたのですが、交通事故関係の団体に寄付することに決めました。貴方の償いの気持ちを、社会のために生かしていきたいと思います。このことをご承知おきください。そして、私たち三木家は、卓也への思いや苦しみを忘れて、新しい一歩踏み出しますから、あなたも是非そうしてください。それから最後にもう一つ、余計なお節介かもしれませんが、ぜひご結婚されてください。私は、外山さんがご自分ばかり責めているような気がして、逆に申し訳ないと思っていたぐらいですからね。どうぞ、ご家族を持たれて、明るく頑張ってください。それではお元気で」

 外山は、三木夫人から結婚のことまで言われたので、恐縮してしまった。結婚しない理由としては他にもあったが、卓也君を気遣ってできなかったという理由は消えてしまった。軽はずみには喜べないが、何か十年近く外山を支配していた重い箍の片方が外れて、新しい未来が息づき始めたようだ。 


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りさと密室でのときめきの出逢い

 2000年の春がやってきた。外山の心の中にも、旭日の光を浴びて、ようやく赤々と燃えたぎるものを感じていたそんなある日、問屋街の夏川商事に営業に出かけた。

 問屋街の東のはずれにある、五階建ての古いビルである。日本橋の問屋街のなかでは有力問屋のひとつであり、ファンションを作り出すメーカーでもある会社だが、煤けたような色のコンクリート壁はいただけなかった。だが、横に大きく広がったビルの大きさは、この問屋街でトップクラスの取扱量を誇っている企業であることを誇示していた。

 外山は半年ぶりに夏川商事の受付の前に立った。受付の中で何か書類を整理していたショートカットの受付嬢が顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

「日本橋仕入情報の外山です。社長とお約束していたのですが?」

「お伺いしております。それでは社長室までご案内いたします」

 と受付嬢は一瞬じっと外山を見つめながら、離席中の札をカウンターの上にさっと出すと、エレベーターの方へきびきびと歩き出した。これが外山と夏川りさとの最初の出会いであった。いや正確に言えば、沙織が制作していた広告の中にいたモデルの人だと、外山はすぐさま気づいたから、二度目の出会いと言った方が良いのだろうか。

 外山は、夏川りさがエレベーターのボタンを、白い透き通ったような細い指で押すの見ていた。触られた無機質なボタンは、赤らんだように点灯した。灰色の何層にも金属板が重なった厚いドアが、機械的な音をさせながらゆっくりと開いた。この時先に入った夏川りさが、ちらりと自分の体全体を見ている目が、好奇心にあふれていたのを外山はよく覚えている。若い肉体の持つどこか上機嫌なその雪のように白い肌の顔から、目だけは相手の心を見抜くような強さと血潮に満ちているような気がした。外山はエレベーター内に入った。夏川りさは社長室のある五階のボタンを、例の細い指で再びやさしく愛撫した。するとドアが柔らかく閉まった。モーターの低い唸り音のなかで、夏川りさの微かなオーデコロンの香りが立った。その香りは外山を悩ましい状況にするほど、ときめきに満ちたものであった。三階の通過を知らせるボタンが明滅した時、突然底から突き上げるような揺れが始まった。もの凄い立て揺れの振動である。すると安全装置が働いたのか、エレベーターは急停止した。揺れは二〇秒ほど続いただろうか。外山は動揺するりさに声をかけた。

「怖かったね。もう大丈夫だと思います」

「ええ、そうですね。エレベーターが止まってしまいました。すみません、ご迷惑をおかけします」

「とんでもない。何も無かったから大丈夫です。安全装置が働いているようですから、外部に連絡して解除してもらいましょう」

「はい、すぐ呼び出しますから少々お待ちください」

  りさは慌てて赤い古びたデザインの非常緊急連絡用のボタンを、白い細い指で押した。外部との交信に務めようとりさは必死になっている。ボタンを押すと、電話のような呼び出し音が数回小さなスピーカーから響いた。カチッと受話器をとる安心の音が聞こえる。スピーカーから、若い男性の声が聞こえてきた。

「どうしました?」

 という緩慢でひどく退屈そうな第一声だった。

 外山はりさに代わって、自分たちがエレベーターの中に、地震の影響で閉じ込められている状況を、ゆっくりとかつ緊急であるという切迫感をもって説明した。

「わかりました。すぐに向かいます」

  と退屈な声は、少しまじめな響きに変わり、通話が切れた。

 外山と受付嬢のりさは、携帯を持っていたので、それぞれが外部への発信を試みたが、電波は厚い壁に遮断されて、外へは飛んで行かなかった。しかし、幸いインターフォンで連絡が取れたから、すぐにしかるべき人が助けにきてくれるものだと外山は思った。それにエレベーターの照明は消えないため、微かな安心感を与えていた。もしまったく光の無い漆黒の部屋に閉じ込められたとしたら、と外山は想像し、軽く身震いをした。人の動く気配がしないかと、耳に入る音に意識を収斂させた。神経の集中とは裏腹に、何の人の動きも感じられなかった。いったい、夏川商事の従業員は、何をもたもたしているのだろうか、とぼやきながら、恐ろしい不安と警戒と期待との間をゆっくり過ぎていく一分、二分の時間を、外山は待った。りさもこうした状況下では、時間の経過が普段より長く感じているようである。外山はりさを気遣い、話しかけた。

「この間、御社の広告を見ましたが、モデルになっていたのは貴方でしたね?」

「ええ、お判りになりました。そうです。私です。昔、ファッションショーのアルバイトのようなこともしていたので……。図々しいとは思いましたが、やっちゃいました」

 とりさはじっと外山を見つめながら、緊急時にもかかわらず落ち着いた口調で言った。当然、恐怖感があったが、外山が話しかけたので、少し落ち着いて答えたようだ。

「失礼ですが、夏川社長のお嬢様ですよね?」

 外山はすでに彼女の存在を熟知していたが、あえてとぼけて聞いている自分の行為に、少し恥ずかしくなった。

「ええ、そうです。外山様は雑誌社の社長ですね。問屋街で営業なさるのは大変でしょう。時々、一生懸命に問屋街を歩かれている姿を拝見しております。すがすがしい方だといつも思っていました」

 外山はもう一度まともにりさに見られた。体の芯がぞくぞくしてくるようだ。自分のことを過分に意識していてくれたりさに胸は躍るようだった。

「嬉しいですね。僕のことをご存知だったのですか。僕も本当のことを言うと、あなたのことを広告で見たとき、何の濁りも無い、透き通った雪のようなイメージで、体全体から理知的でありながら、太平洋を眺めているような大らかさに包まれるような気がしました」

「外山社長はお上手ですね。まるで詩人のようです」

 りさは快活に目を細めながら笑った。

「そうですね。僕の小中学時代は読書漬けでした。日本やフランスの詩人で好きな人がいました。少女チックかもしれないが、ついそんな言葉になります。でも高校、大学はこれでも体育会系ですよ。スキー部と空手部にいました」

「やはりそうでしたか。頼りになります。文武両道という感じですね」

 りさは外山の言葉に、思いがけないものを発見したように、尊敬を含んだまなざしで見つめている。

「夏川さんはお若いのに、良く勉強されているようで、本当に理知的に見えます。それに何度も言いますが、大らかなところもあるようですね。どうしてそんなに良い面を二つも持っているのですか?」

「外山さんは人を愉快にさせてくれますね。本当にお上手です。でも、それは難しい質問です。ただ、図々しく言わせていただければ、父は反対だったのですが、私は社会勉強ということで、大学時代幾つかのアルバイトを経験していたことが良かったのかもしれません。それぞれの職場の先輩たちに、色々な面でもまれたし、かなり年齢が離れた先輩とも合わせられるようになりました。年代ギャップを作らないように心掛けたのが良かったのです。私の中に多分そういう性格がもともとあったのかもしれませんが、次第に自分の長所として生かすようにしましたから、それがおおらかに見られるのかしら。だから、私は、人生経験の豊富なお年寄りとは、何の違和感もなく話せますし、お話を聞くのは大好きですから・・・・・・

「そうか、やっぱり夏川さんは勉強も出来るけど、もともと人柄が良くて、人間模様の経験が多いから穏やかなのですね。若いのに素晴らしい、尊敬します」

 外山の素朴な感想は、思ったより以上に洗練されたりさの心を打った。りさは嬉しそうな顔を隠さず外山に向けた。

湿ったエレベーターの箱の中で、外山のすぐわきにりさがいて、若い彼女の存在の美しさに息苦しくなってきたので、手に持っていたクリアファイルを思わず落としてしまった時、自分が軽い失神をして倒れたような気がした。外山は小さな叫び声をあげた。クリアファイルは外山の足の甲の部分を打って、床に落ちたのである。 

 りさはすぐに身をかがめてその営業用のクリアファイルを拾った。外山はその拾い方が、瞬時のできごとのように見えた。彼女のショートカットの黒髪は、この二人だけの息づまるような空間の底から、若き力でクリアファイルをたちどころに救い上げて浮かび上がってきた。

 たわいのない自己紹介の言葉が、りさと外山の間でしばらく交わされた。会話は密室の中で、異常な高まりとときめきを覚えるものとなった。

 それから少なくとも十分以上が過ぎただろうか。エレベーターの箱は相変わらず動く気配が無かった。りさはもう一度、赤い古びたデザインの非常緊急連絡用のボタンを押して、外部との連絡を取った。

「はい、川崎メンテナンスです」

 りさは出た相手に、

「すぐにいらっしゃるというお話でしたけれど、まだ来ていなのですが、いつになりましたら来ていただけますか?」

 丁寧にりさは話しかけてはいるが、口調は滝のように少し強くなった。

「そちらの担当の者はすでに出発していますが、あの、道路の状況次第でして・・・・・・

「じゃあ、どのくらいでここに到着しますか?」

 と先ほどより少し優しい声になってりさは聞きなおした。

「早くて一時間、道路の混雑の状態によっては、それ以上かかります。ですからはっきりどのくらいになるか分からないのですが・・・・・・

 と当然のように答えてきた。外山は耳を疑ってしまった。だからあわててりさの側によると、マイクのようなものに向かって声が詰問調になった。

「え、今、なんとおっしゃいましたか?」

「ですから二時間は少なくとも見てもらわないと・・・・・・」

「あの、失礼ですが、あなたはどこの会社の方なのですか?」

「ですから先ほども言いましたが、エレベータのメンテナンスを請け負っている会社の者です」

「あの、どちらの?」

「川崎です」

「川崎?本当に川崎から来るのですか?中央区じゃないのですか?それを早く言ってください。ということは、僕達がエレベーターに閉じ込められているということを、今いる会社側は多分まったく知らないのでしょう。だったら、まずそちらから夏川商事の誰かに、二人は閉じ込められていますって連絡してもらえませんか?」

「はい、判りました。すぐに連絡します」

 外山は、りさの顔に安堵の表情が浮かぶのを見て、自分もほっとした笑顔をりさに向けた。

 どうだろう、今度は一分もたたないうちに、エレベーターのインターフォンから、夏川商事の社員の慌てたような声が聞こえてきた。

「大丈夫ですか?ずっと気づかず大変失礼いたしました」

 と丁寧な謝罪があったが、外山たちはそんなことより、脱出する方法が知りたかった。

「このエレベーターの箱から出る方法をご存知ですか?」

 と外山は社員に尋ねた。

 その社員の説明では、エレベーターの扉は、中扉と外扉の二重構造になっているが、中扉を手動で開けるためには、扉を左右に思いっきり強引に引っ張れば良いというのである。外山は幾分尊敬に満ちた愛らしいりさの視線を感じながら、扉の隙間に両方の手の指を少しずつ差込み、左右に引っ張った。五センチくらいは開いただろうか、煤けたような壁が見えたが、一呼吸すると力が抜けたのか、ガツンという外敵を寄せ付けないような強固な反発する音が周りに響いた。りさの顔を見ると、不安のまなざしが一瞬現れたようだが、強い意志で希望の瞳を返してよこした。手を離した中扉は、太いコイルでできたバネで引っ張られているかのように、勢いよく貝のように閉じた。外山は何度かやっているうちに、手足を使って扉に立ち向かってみた。少しだけ開いた隙間に左足を伸ばして差し込み、左扉が閉じないように停止させた。そして、右手で右扉に力をこめた。すると、あれほど頑固者のように突っ張っていた扉が、降参したように開いたのである。

「あ、やったー」

 とりさは、何か想像もできないほどの子供のようなはじける声を上げた。

 さて、今度は外扉である。例の社員が言うには、右上部にストッパーのようなものが付いているから、それを緩めると簡単に開くというのである。

 ところがどうであろう。目の前に出現したのは、二階と三階の途中の、煤けて恥部をさらけ出したような壁が見える場所だったのである。そこに停まっていたため、上部にあるストッパーには簡単に手が届いたのである。

 りさはまた背後で外山の一挙手一投足に歓声を上げている。なんと華やかで癒しに満ちた美しい若い声だろうと、外山は感動の気持ちが心の中から湧き上がるのを感じた。

 外山はその上部にあるストッパーで開けようと思ったが、すり抜けようとした瞬間に、重いエレベーターが突然動き出し、体がはさまれてしまう怖れがあると危惧した。もう一度社員に、エレベーターが一ミリも動かないように元の電源を切って欲しい、そして二人がすり抜けるために、手助けして欲しいと伝えた。

 ストッパーを緩めた。内側から外山が外扉を開ける。数人の夏川商事の男性社員のネクタイ姿が目に入ってきた。

「すみません。気づくのが遅くて。仕入情報の社長さん、夏川お嬢さんも大丈夫でしょうか?」

 小柄で太った人の良さそうな社員が、少しあいた扉の隙間から声をかけてきた。

「ありがとうございます。それでは、この外扉がスプリングの作用で閉まる力が強いので、皆さんでしっかり抑えていただけますか?」

 夏川商事の社員たちが抑えているのを確認すると、外山は一旦後ろにさがり、りさに脱出を促した。りさは冒険を終えた少女のように微笑して、勢いよく反動をつけながら、体、足がはさまれないように、社員たちに抑えられた扉の隙間から抜け出した。外山もその後に続いて、ワインのコルク栓が抜けるように、体を引っ張りだしてもらった。背後では強力なスプリングで扉が激しくぶつかる音がして、フロアにその不気味な音はこだまのように響いた。

 何とか、脱出に成功したが、エレベーターの外に出て、初めて日常生活の中に勃発した異常な事態の大きさ気づき、足がすくむ思いがした。それはりさという存在があったため、怖気づかせなかったのだろうかと外山は考えた。あとから恐ろしい体験だった、と気づく自分の不可思議な感じ方に笑えるような気がした。りさはどうだろうかと見ると、自分の父の会社ながら、恐怖感が心の奥に残ったと、もう親友のように話しかけてきた。その時の外山を見つめる瞳は、薪の炎のように赤くきらめいているようだった。外山は外山で若い彼女の懐の深い弾力性を持った包容力という魅力が、自分の心の中に感動したという記憶として膠のように張り付くのが判った。自分から開け放した外山の心の窓へ、一瞬にしてりさという若鮎が、天使のように入ってきたのである。

 先ほどの人の良さそうな社員が、二人がエレベーターに閉じ込められている状況を、会社側が知らなかったことを何度も謝罪した。外山は、川崎という遠距離にあるメンテナンス会社との契約依頼のため、もし、会社側が脱出方法を知らなかったとしたら、あるいは自分が高齢者で、扉を自身の力で強引に開けることができなかったとしたら、何時間でもエレベーターに閉じ込められっぱなしだったことを考えると、ぞっとした。そして、今回は幸運が重なって脱出できたという喜びを、真っ直ぐに感謝した。もし、エレベーターから脱出途中に、生き物のように急に動き出してしまったとしたら、二人のうちどちらかが死亡していたかもしれないと、外山とりさは顔を見合わせて恐怖感を露にした。

「今、無事だったから笑い話だと言えるけど、もっと脱出に時間がかかって、トイレなどがまんしてエレベーターに乗っていたとしたら、本当に困るし、怖いことです。敏速に助けてもらって本当にありがたいです」

 外山は救助してくれた社員のメンバーに、感謝の気持ちを表すためにそう言うと、りさは横でにこやかに笑った。りさは外山との出会いに何かを見つけたのだろうか。しばらく側を離れない。

「もう約束時間もかなり過ぎてしまいましたから、社長も忙しいでしょうから、仕切り直ししてお電話してまた来ます。そうお伝えしていただけますか?」

「あの、社長は会議まであと少し時間がありますから。大丈夫かと思いますが?」

「いや、今日は止めておきます。またお伺いします」

 社員たちに別れを告げ、暗い洞窟のような非常階段を下りて、一階の受付までりさと外山は一緒に歩いた。硬いコンクリートの床に張られた灰色の絨毯が、外山の靴に絡みつくような気がした。本当はりさと一緒にいる瞬間を、何故かもう少し延ばしたかった。深々とりさは頭を下げて、外山を見送った。外山はガラスのドアを開けた。明るい春のきらきらした光線が頬をさした時、何か違う世界へ足を踏み入れて、もう引き返せないような気がしていた。


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海と太陽に遭遇したような奇跡

  仕入情報のファッション誌の表紙は、長い伝統を持つ問屋街の各店舗の販売員が登場した。広告営業の戦略の一環として、その手法を採用しているのはもちろんだが、全国のファッション店へのインパクトはかなりある。仕入れる問屋のいつもの販売員が、その問屋で扱っている商品の中で、一番合うもの、もしくは最先端の流行のものを着るから、ファッションチェックにもなる。しかし、外山が今度の表紙に如何ですかと標的の問屋に声をかけると、人選は容易ではないようだ。店員数が少なくて、もう誰が見てもこの人しかいないという問屋は、即決で表紙を飾る人が決まることが多い。それでも、お局的な先輩店員がいる問屋では、自分の容姿などは棚に上げてのいやみな言葉の洗礼を、表紙を飾るはずの女性が浴びると、後で回りまわって外山がその小さないじめの一端を聞いてがっかりすることがある。だが、店員数の多い問屋となると、撮影までの道のりはもっと難しくなる。外山から、人選のために小さな内部抗争が起こることを予見して、この女性でお願いしますと告げても、容易にひっくり返されることが多い。最終的に人選されて出てきた人は、差別するつもりはないが、期待とかけ離れた人だったりすると、雑誌を作る方としてはやはり落胆は大きいものだ。しかも、撮影の時に、そういう女性は大抵傲慢で、自分が一番だと思い込んでいるから始末に置けない。その会社の組織上というより、いつの間にか出来上がった現実的なパワーバランスのお陰である。だがそれは逆に言えば、その女性の力の一つでもあるから、と外山は仕方なく苦笑してしまうこともあった。

  外山が、夏川商事に六月号の仕入情報の表紙を飾る店員候補の話を持ち込んだ時は、かなりの女性販売員がいるが、社長の一言でりさが決まった。しかもその後、会社内の女性間の力関係に、何かの悪い作用を起こしたという話も聞いていない。外山はそれについて自分なりに分析してみた。優秀な大学を出た気立ての良いお嬢様であり、周囲の社員たちを、一瞬にして虜にさせるような献身的な優しさに満ちた女性である。多少嫉妬からでる陰口があったかもしれないが、誰からも好かれる不思議な魅力を持った女性だからだと。外山は若いながらも、堂々とした持って生まれた彼女のたぐいまれな天真爛漫さ、明るさ、公平さ、実直さなどを、エレベーターの中であの地震に遭遇したひと時から感じ取っていた。

 

  夏川商事の新道通りの店舗の入り口の前で、銀レフを持ったカメラマンの助手が、緊張した面持ちで指示を待っている。カメラマンの男は、クライアントには卑屈なほど丁寧で腰が低いが、助手には容赦なく叱咤を飛ばす。今日は何かの道具を忘れたことに、腹を立てているようである。外山は見かねて穏便に、と口をはさんだので小さな嵐は静まったようだ。

  りさが、黒のかなりきわどいボンデージファッションを着て、店内から出てきた時、外山は心臓が跳ね上がるような気分になった。

「こんにちは、外山社長さん。今日は快晴になって本当に良かったです」

  りさの壮麗な美しさは、体の線にぴったりとした皮革製の服をつけることによって、ますます無比の選ばれた存在であるかのように外山には見えた。

  外山はその私的な感情を押し殺すと、撮影の段取りについてりさに丁重に説明した。りさはその話を、天空の青空を見上げる澄み切った瞳と、太平洋の旭日が、胸のうちを赤々と照らしているかのような豊かな表情で、耳を傾けていた。

  カメラのシャッターを切る音が、新道通りの行きかうお客たちの好奇心を高めるリズムとなった。大抵の仕入客は、若い被写体の美しさに、羨望のまなざしを隠すことなく投げつけている。

  暗い新道通りの空間の中で、銀レフの眩しいきらきらした光線は、彼女の全身を、あでやかな舞台女優のように浮かび上がらせている。りさの表情は、カメラマンに要求されるがままに変わっていく。朝の清々しい生命力あふれた若々しさ、昼の活発なみなぎる強い美しさ、夜のささやきと幻惑と夢想の輝き、静かな一日の終焉に近づく生の安らぎなどのイメージが演出される。しかし、やはり黒いボンデージファンションは、夜のあでやかさやささやきの場面にふさわしいのだろうか、と外山は思った。百枚を超えただろうか。助手に仏頂面で指示を出していたカメラマンの顔が少し緩んだ。オーケーです、という言葉が外山とりさに告げられた。一つの仕事をやり終えた男の自信に満ちた笑顔が、外山には判った。きっと良いものが撮れたに違いない。

  外山は、カメラマンたちにお礼を言って見送ると、夏川商事の店舗関係者らにも挨拶して、着替えに店内に入ったりさを待つことにした。撮影が無事終り、特に打ち合わせることもないが、今後の雑誌の発売までのスケジュールを話したいと、喫茶店に誘っていた。その言葉に彼女の黒い瞳はキラキラと輝いて嬉しさを隠さない。外山はどきりとした。

 

  夏川商事の本社の方向に向かって、二人はゆっくりと歩きだした。外山は自分のこれまでの栄光や挫折、未来への希望や憂鬱、問屋街の発展に貢献したいという大きな目標などについては、まだ何一つ語ることができなかった。ただ、街のうわさや、各問屋の情勢など当たり障りのない話に終始した。

  中国の奥地に良くありそうな建築物が見えてきた。その薬研堀不動院の建築物の側の二階にある喫茶店に二人は入った。 コーヒーを飲みながら、しばらく、エレベーターの中に閉じ込められた事件などについて、よどみなく会話のキャッチボールが続いたが、何かの拍子に冷たい時間の隙間が二人の間によぎった。りさはテーブルに目を落として、ミルクの入った小さなカップに触ってから、外山にまたきりりとした瞳を向けた。

「失礼ですが、外山さんは結婚されているのですか?」

  と聞いた。外山は笑ってあいまいに答えた。

「僕なんか男としての魅力がないから、なかなか結婚出来ないですよ」

「そんなことありません。十分に魅力的で、精力的で、颯爽としていますよ。もしそれが本当だとしたら、ただめぐりあわせが悪かっただけでしょう」

  りさは真剣に持論を披露した。外山は少し困った顔をしたが、自分の過去の不始末を話さなければ、納得しそうもない女性が目の前に居ることが奇妙に思えた。もう仕事の話はどうでもよくなった。

「十年前に結婚を約束した人はいました。けれど、実は車の事故である少年を轢いてしまって、植物人間にしてしまったのです。だから、婚約破棄をして、僕は一生懸命その少年と家族のために働き、今日まで生きてきました。だから結婚は・・・・・・」

「そうだったんですか。知らないこととはいえ、辛いことを話させてしまいました。ごめんなさい」

「いいや、もういいんです。その少年もつい最近亡くなったので、今は普通の人間のように自由になりました。被害者に対してのことを考えると、喜んで言うつもりありませんが、この十年間、気が休まることはありませんでした。ご両親とも和解をしましたので、今はもっともっと仕事で頑張ることが、きっと少年へのささやかな供養になると思う日々です」

「そのような苦しい十年間のなかでも、問屋街の中を颯爽と歩いていたのですか・・・・・・。外山さんは本当に偉いわ。尊敬します」

「長い仕事生活のなかで念願だった会社を作り、ようやく軌道に乗せてきました。良きパートナーが僕を支えてくれたんですね。そして、問屋街の商人たちの心の奥底にある、日本を支えているんだというファッションへの情熱に触れるたびに、めげそうな僕は持ちこたえ、前進し続けることができたのですよ。だから感謝しています、皆さんに」

「素晴らしいわ、判るような気がします。外山さんは苦しみを喜びに変えてきたのですね」

  とりさは気持ち良く外山の心を撫でるような言葉で応じた。

「僕の外見は、少しはタフには見えますが、本当は弱虫で泣き虫ですね。誰にもそんなことは言えないけど。お逢いしたばかりなのに、夏川さんには言えるから不思議だ。この十年間は、心焦がす恋だとか、死にたいほどの恋とかには、あえて目を向けないようにしてきました。でも、やっとその凍結したような冷たい塊が、溶け出してきたような気がしますよ」

  外山は知らぬ間にりさを意識して話をしていた。その意識は、日頃、独りになって自問自答してきた、こびりついたようなその塊の存在についても、思わず明らかにする起爆剤となってしまった。

「女性とは確かに仕事上でお逢いしなければならない立場ですが、真実の生身の女性の実体からは、いつも遠ざかってきたような・・・・・・」

「おっしゃる意味が私にはよく判るような気がします。大変な状況で難儀をしたこともあったでしょう」

「すまない。つまらない話をして。忘れてください」

「そんな、忘れるわけがありません。こころに沁みる話だわ」

「ありがとう、こんな中年のおじさんの話を聞いてくれるなんて、夏川さんは大きな海か太陽のような人だ」

「私のことをそんなに褒めないで下さい。エレベーターの中でお話した時も、私は舞い上がるように嬉しかったのですから。でも、あなたのその辛かった日々を埋めるための伴侶はきっと必要ですね。私にも可能性があるかしら?」

  外山はりさの中に、女性らしい特有の優しさの高い完成度や、周りの空気を一変させるような存在感などに、出逢った時から強く心を打たれていた。外山は今まで見たことの無い、きらびやかで優雅ありながら、情が細やかであるりさに出逢えたことを、心の中でひそやかな喜びとして、何度もその奇跡の出逢いの幸福感を反芻していた。

「夏川さんは僕の想像を遥かに超えている人だね。でも僕のようなくたびれた男では君とは不釣合いだと思うな。僕は四十四歳だけど、女性に聞くのは失礼ながら二十三歳ぐらいかな?」

  外山はお見合いのような口調で話したので、通俗的な自分が不快だったが、前から聞きたかったのも事実なので、返事を待った。

「お決まりの言い方でごめんなさい。でも嬉しいですね、本当より若く言っていただいて。実はその一個上の二十四歳です」

「そうか。二十歳も僕は夏川さんより上なのか。夏川さんと並んで記念写真を撮ったら、間違いなく僕は引き立て役になるね。若さほど素敵なことはないし、若さほど宝物は無いと思う。時間を止めて、過去に戻りたいほど若さには価値がある。十代、二十代の悩みは、今で思えば風邪かはしかのようなものかもしれない。でも、苦しみの海は、冷たいけれども全身で感じていたし、ある種の快感があった。何もかもが、溢れるばかりの綺麗な水分を含んだたわわな果実に見えた。今はそういう感覚が封印され、余程のことがないと、心を開いて感動することが無い。やはり中年は寂しい世代なのだろうか?」

「あら、外山社長さん。それは私から見たら違います。私は中年男性の気持ちを本当に良く知っているとは言いきれませんが、想像力を極限まで高めれば判るような気がします。まず、沢山の波頭を乗り越えて生きてきた、鍛えられた精神が中年男性にはあると思います。肉体的には若い男性と比べたら、少々くたびれているかもしれませんが、それは大した問題ではありません。世代の違いというものは、生きた時代の匂いやつぶやき、その時の社会情勢や流行などの違いによって出てくると考えますが、過去の時代のものに対して、新しい考え方、新しい思想と良く言いますけれど、残念ながら人間の本質は変わらないと私は思っています。むしろベースである人間の遭わなければならない四苦八苦って、若い男性も中年の男性もお年寄りも全てが感じるものだし、味わうものだと考えます。そして、その共通点をお互いに話しあいながら生きていく場面が、生活の中で一番多いはずです。だから、年齢の差は、私は関係ないと思います。同じことに苦しみ、同じことに悲しみ、同じことに喜ぶ、それが人間だと思います。そうね、まったく違った生活流儀の他国の人と結婚したって、話し合いで乗り越え、協調して生きているカップルを、私は何組も見ています。だから私は、男女の結びつきで一番大事なのは、年齢よりもインスピレーションとお互いの信頼の深さだと信じています。ということで、外山さんに不可思議な魅力をこの間から感じています」

「ありがとう。夏川さんは頭も本当に良くて尊敬してしまうよ。だから、僕も夏川さんには本音で言えそうだ。今までに逢ったことのない女性だと思う」

  外山は『もっと話してくれ』と、思わず口からその言葉がこぼれそうだったが、これ以上は話すことを止めた。母と沙織という二つの箍が、体を締め付けるようだったから。

  コーヒーカップが空になってもうどれくらい経ったろう。外山は事務的にりさの表紙写真が、雑誌に掲載されるまでのスケジュールを細かく話すと、レシートを持って立ち上がった。

  階段を下りて、薬研堀不動院を見ながらりさはこう言った。

「外山さん。神田祭を一緒に見ませんか?付き合ってください」

「そうだね。街の行事だから、僕も見に行って撮影するつもりだったから良いよ」

  二人はそこで別れた。薬研堀不動院から漏れてくるお香の微かな煙が、二人の背中を包んだ。



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