閉じる


<<最初から読む

8 / 17ページ

試し読みできます

目を覚まして!幸せは、もっと高いところに

 二人は喫茶店で軽いランチを済ますと、まだ問屋街のあちこちから聞こえてきそうな祭りの余韻を感じ取りながら、浜町公園に向かった。

 浜町公園は思いのほか人が集まっていた。半ズボンをはいた少年や、哺乳動物の刺繍を施したスカートをはいた少女たちが、突発的な事件など何事も起こらないことを信じているかのように、安心して全身全霊で遊びに興じている。

 隅田川の見えるあのベンチに、吸い寄せられるように何故か外山は来てしまった。沙織に婚約破棄の意志を伝えた時に座っていたベンチを、今日はまた見てみたいという不可思議なマゾ的な欲求が突き上げた。ベンチはリフォームされたばかりなのか、黄色のペンキが日光を鋭く跳ね返している。

 隅田川を、白波を蹴立てて海の方角に向かっている一艘の運搬船が、高速道路下の視界に見え、エンジンの唸る音が、水の流れる音と透き通った五月の風の音に混じって聞こえてきた。遠く長くエンジンの音は続くように思えた。

 ベンチの上にりさと外山はゆっくりと腰かけた。年齢がはるかに離れていたが、しっくりと気持ちの合う、心の許せる親友に逢ったような安堵感を外山は抱いた。それもとびきりに美人で、大和撫子である。降ってわいたような話で、外山には信じられない気持ちが心の中で交差した。

「あなたは、どうして僕の前に現れたのでしょうか?」

「解らないです」

「でも、僕はあのエレベーターにりささんと乗り合わせることを、心の中で念じていたつもりはないし・・・・・・」

「そうね。あり得ないことだわ。でも私は何かとてつもない不思議な運命があって、出逢ったのは間違いないと思うの。あの出逢いの時から、外山さんは私の心の中にしっかりと住みついたわ。外山さんの精悍な顔つき、そして時には憂いを含んだちょっとさびしそうな表情を見せるところに、私は参ってしまったようですわ。そうですね、なんか四十代の男性の良いところが、いっぱい詰まっている人という感じです」

「りささんは僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕は普通に仕事をしてきたただのサラリーマンだ。しかし、普通の人間と違うところは、事故を起こして少年の人生を奪ってしまった男だということだ。めぐりあわせが悪いと言えば悪いと思う。あと五秒違ったらあの少年を轢く必要がなかったのだから。亡くなった今でもうなされる日があるよ」

「私はこの前、外山さんの伴侶になる可能性があるかしらと言いましたけど、外山さんの今までの人生を聞くにつけ、もう他人事ではないような気がしています。まるで、私の人生でもあるような気がしているのです。つまり私もあなたのその贖罪の人生の一端を担いたい、尽くしたいと最近思うようになったのです」

「ちょっと待ってください。僕も男の端くれだから、そんな言葉をりささんからもらえたら本当に嬉しいですよ。でも罰当たりだ。こんな僕に好意を寄せても、不幸になるだけだよ、りささん、目を覚まして!」

 外山はそう強く言いながら、りさの柔らかい良く手入れの行き届いた手を、思わず握ってしまった。りさもその手を握手するように握り返した。外山がりさに初めて触れた手のぬくもりに、感電するような衝撃が走ったが、すぐ手を放した。

「僕は君に出逢った時こう思ったよ。若いながらも本当に堂々とした天真爛漫さを持ち、明るくて、公平で、実直で、しかも美しすぎる。そんな人がこんな中年に興味を持つのは信じられない。もう一度言うけど、目を覚まして!りささんの幸せは、もっともっと高いところにあるよ、きっと」

「いいえ、私の人を見る目は絶対間違いないと信じています。私は外山さんに出逢うことをずっと願ってきたんだわ。あのエレベーターのなかで、この人に間違いないわと直感したの。人は出逢いについて色々なことを言いますけど、私は人生はタイミングだと思うの。いろんな場面でチャンスが出てくるけど、これを逃したらそれ以上のものがない、ということに気づく人と、気づかない人がいるわ。最悪はどれがチャンスなのか判らない人もいるの。でも私にふさわしい人は外山さんしかいないと感じたのです。だから・・・・・・」

「僕ももう少し若かったら、そうだ、二十五歳ぐらいだったら、りささんにすぐに求婚していたかもしれない。りささんと居ると気持ちが癒されるんだ。それは僕にもよく判る。でもね、僕は贖罪を持ち、もうすでに四十四のおじさんなんだ。それなのに気にかけてくれるりささんは、ある意味本当に僕だけのために登場してきた天使のような気がする。でもそれは素直に受けとめるわけにはいかないよ。すべては夢物語だとも思っている」

「外山さん、それは違います。外山さんと交わした会話から、私との価値観が本当に合っているということを感じました。じゃその価値観とは何かと言うと、何に感動し、どんなことを憎むかだと思うの。具体的にというと難しいけど、外山さんとの短い会話の中で、私はこの人に間違いないと感じたのです。そしたら私の心の中に、外山さんとの間にあった今までの遠い距離を、一刻も早く近づけたいと望むようになったのです。外山さんの生きている世界と、りさの生きている世界を、一刻も早く近づけたくなったのです。そうでなければ、私は尊い人生の貴重なダイヤモンドのような時間を、失ってしまうような恐怖に襲われました。だから、今はただ逢いたくて逢いたくて、逢ったら外山さんとの距離を、心安らかになるまで近づけたいと願うのです」

「いや、僕にはりささんが本当にそう思っているのだろうかと、どんなに言われようとも今は信じられないんだ。もう少し時間をください。りささんがきっと目が覚めるまで、時間をください」

「そうね。せっかちすぎるのかしら。それに、私はちょっと世間の平均的な同世代の女性の持つ価値観と比べると、変わっているのかもしれません。色々考えたわ、眠れない日が続きました。でもこう思ったのです。外山さんが早く老いるなら、限られた時間だからこそ一緒に楽しく過ごしたいし、だからこそ早く結婚したいと考えました。外山さんには悪いけど、確かに世間的には二十歳年上ですから、中年の部類に入ります。でも、価値観が合っているので、何も問題はないはずです。考えても見てください。いくら同世代同士が良いと言っても、価値観が合わなかったり、愛してもいなかったりしたら、うまくいくはずもないじゃないですか。それに、外山さんは、体力、気力のある若い女性に愛してもらえて安心だ、というぐらいに考えれば良いと思います。私はそれが嬉しいのです。 なんていうか、外山さんだったら尽くしても私は何の後悔もないと感じるの。傲慢で言うわけではありませんが、私は人の嫌がる仕事もすすんでするタイプです。確かに私が外山さんと一緒になるとしたら、二十歳年上だから、老いの問題は避けて通れませんが、たった一つ一番大事な人間性で価値判断をするとしたら、外山さん以外には考えられません。夢に見るんです。外山さんはきっと私を大事にしてくれるだろうし、私もしっかりその分をお返しするという生活の日々を。いいじゃないですか、私はちょっぴりきれいで若いから、外山さんと同世代の男性に、悔しい思いをさせれば・・・・・・」

 外山は大和撫子と思いこんでいたりさが、現代っこ風に茶目っ気たっぷりに言うその最後の台詞に、どうしたわけか笑い出してしまった。りさも大きな目を見開いて、頷きながら笑いだした。

 その時、眼下の隅田川の薄汚れた水面が、透明なガラスのように反射しているように外山には見えた。しばらく、横切って白い波を立てている遊覧船や運搬船を、二人は黙って見ていた。

「りささん、ありがとう。貴方のようなサラブレッドで、高嶺の花の存在の人に好意をもたれることは不思議だけど、納得できるまで時間をください。年を重ねると疑りっぽくなるものなので、ごめん。回答は保留にして置いてくださいと今は言っていいかな?」

「ええ、待ちますわ。外山さんが私の気持ちを、すんなり受け入れるまで待ちます」

「そうだ、何でも話せるりささんだから、これだけは話して今日の弁明とします。僕の少年を殺してしまった過去と、もう一つだけどうしても忘れられないものがあることを告げておきたい。心の奥底の暗黒の世界のようなものです。少年時代、母は近所では特に目立つ細面の美人で、着物をいつも優雅に着こなしていた自慢の人だった。それなのにある日小学校から帰ってくると、父と僕に置手紙をして出て行ったんだ。文面からは、家出する理由が小さい僕にはまったく理解できなかった。僕を上にも下にも置かないほど可愛がり、いつくしんでくれた母です。僕は父に出て行った理由を、何度も何度も聞いたが、貝のように閉ざした口は、真相を語ってくれなかった。だから、自分を捨てていった母をただ憎んだ。一時も忘れることなく憎んだ。愛おしいが故に激しく憎んだ。やがて母を宇宙の果てまで押しやるほど憎み尽くし、黒い棺の中に記憶を放り込んだ時、僕は女性ほど裏切る生き物はこの世にいないと心に刻印したんだ。そんな過去が僕にはあるんだ。四十四歳になっても、母をちっとも許していない。いや、許すことを忘れてしまったんだ。僕にはこんなつまらない憎しみの怨念が、心の底辺に垢のようにこびり付いています。だから、僕は単純な普通の人間のように見えるかも知れないが、本当はグレーゾーンの多い暗い男なのかもしれない・・・・・・」

  真剣に耳を傾けていたりさの頬には、数滴の涙がはらりとこぼれ落ちた。

「外山さん、そんな悲しいことが過去にあったなんて・・・・・・。さぞかし、辛かったでしょうね。大人になってからだったらまだしも、小さな胸をずっと痛めて苦しんだのでしょうね。私がその時代にいて一緒に苦しんであげられたら、少しでも傷を浅くすることが出来たでしょうに。悲しいわ・・・・・・。悔しいわ・・・・・・」

「良いんだよ、りささん。泣かないでください。君を悲しませるようなことを言ってしまった、ごめん、後悔している。ただ、素直に君の素敵な告白を受け入れられない理由を話すつもりが、あらぬ方向に行ってしまった。今日はこの話はおしまいにしよう。それより、ゆっくりこのあたりを散策してみようか。そうだ。神田祭の一行をまた追いかけてみようか?」

  りさは何事も無かったように気持ちよく応じて外山と歩き始めた。西の方の空には、漆黒の雲が広がりだしていたのが外山の目にとまった。 


試し読みできます

奥付



向日葵のような年下の君 


http://p.booklog.jp/book/77110


著者 : 三輪たかし
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/161890/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/77110

ブクログ本棚へ入れる
http://booklog.jp/item/3/77110



電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社ブクログ



試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格200円(税込)

読者登録

三輪たかしさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について