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待つことを始めた中年の自分

  夏川商事は横山町大通りで廃業した問屋を改築し、新たな店舗をオープンさせることになった。外山はカメラを持って、何故かうきうきした気持ちで事務所の階段を駆け下りた。今日は朝からそわそわしている自分が信じられないのだが、理由は白日の下に照らされたように明らかであった。きっとりさに逢えるからである。但し、お目当ての彼女が、新装オープンの店舗の儀式に、必ず出席しているという確証は何もない。喫茶店で別れてから、外山は深い感慨に打たれていた。何故あのりさという女性が忽然と現れたのだろうか。何故あのエレベーターの中で心が揺れたのだろうか。そして、あの若さにしては老練な中年のような発想を持ち、外山との会話にも何のレベル差もない。しかも、初恋の少女のように、見つめてくるあの憧憬をたっぷり含んだ黒い瞳。あの目で見つめられると外山は立っていることが出来ないほど苦しくなる。今までになかった感情である。神田祭をまったく待たないつもりでいたのに、りさと喫茶店で別れた瞬間から外山は待ち始めた。実に不甲斐ない中年であると思った。りさのことを忘れたつもりで、広告営業に精を出し、パソコンを打ち、沙織と朝倉が帰った事務所の中で、外を行きかう車の音を聞く。だが、ガソリンエンジンのうなる音を聞いているうちにはたと気づく。外山はりさを待っている本当の自分に気づいた。

  表紙写真のことで、外山とりさは何度か実務的に電話でやり取りしたが、神田祭のことは話題に上らなかった。電話をする側には、夏川商事の社内の誰かがいるからであろうか。

 

  ゴールデンウィーク目前のこの大安の日、夏川商事の新しい店舗は横山町の中心部に位置して、オープンを待っていた。袋物を扱っていた問屋の主人が高齢のため、廃業したビルを改装している。最初はこの店舗の前でりさの撮影をする話も出ていたが、やはり新道通りと横山町の両方に入り口を持つ旗艦店が、一番相応しいと社長は選んだ。確かに新道通りのショーウィンドへの力の入れ方は並ではない。その話をあとから聞いて外山は納得した。

  今日、外山は記者として、カメラを持って店舗の中に入っていった。すでに招待者たちで店舗の中はごった返していた。受付に近づくと、お祝いで飾られた大輪の花や、胡蝶蘭などのさまざまな派手な色があふれる中、清楚な白いスーツ姿の切れ長の整った目が輝いているりさは眩しかった。その彼女の熱いまでの強い視線を感じた。満面の笑みは外山の心を焦がすようだ。受付の手続きを済ますと、外山は撮影に一番良いポジションを探したが、結局、りさの側が最適だった。外山はカメラのシャッターを押し始めた。時折、りさの姿を見ては肝心の被写体にレンズを向けているが、りさにレンズを向けたい心境だった。今日の彼女は、周囲を飾る小さな魔力を秘めた植物よりも、上品で洗練された造形美術の渾身の力作のようで、全ての存在を凌駕していた。

  新装オープンの開会宣言が司会者から発せられた。時折、夏川商事で見かける経理部担当部長である。

「それではこれより、夏川商事株式会社の第八号店のオープン記念式典をとり行ないます」

  その司会の声は、設置されたスピーカー設備から大音量となって、横山町大通りを行きかう仕入客たちの耳を叩いた。外山も大音量に顔をしかめ、司会を撮影したカメラを胸まで下げると、りさを見た。りさは上品っぽく目を光らせて、耳打ちするように言った。

「あら、さっきのマイクのテストは完ぺきだったのに」

  ありえないことだが、二人は、この情景を楽しみ、親友のように視線を合わせて、微かに笑ってしまったようだ。

  司会者は周りの状況が判ったのか、スタッフに音量を下げさせ、何事も無かったように進行を続けた。老練のなせる業である。

「はじめに、夏川商事代表取締役の夏川健一より、一言ご挨拶をさせていただきます」 

  白髪の長身の夏川健一がマイクの前に立った。まだ五十歳代だが、頭髪がすっかり真っ白になっている。しかし、その髪の量は豊かで、白鳥の羽のようにクリーム系の色にも見える。

  夏川健一は無事に八号店がオープンしたことのお礼を述べた後、祝賀会に参集してきた有力小売店や、同じ業界の大手アパレルメーカーなどに対しても、丁寧に感謝の言葉を述べた。また、夏川商事の五十周年に向けての会社の現状や目標、ビジョンなどをとつとつと語った。スピーチは上手い方ではないが、聞く人を十分に引き付ける魅力がほとばしっていた。

「五十周年に向けて、先代の社長の開拓精神を受け継ぎ、年商二百億円企業を達成するべく、小売店様と一緒になって、積極果敢にチャレンジしてまいります。皆様の相変わらずのごひいきを、この八号店にも注いでいただけますよう、よろしくお願いいたします。また本日は同じ業界の大手アパレルメーカーの御曹司であります大西和也様にも、ご出席いただき誠にありがとうございます。私からのご挨拶はこれで終わります」

  御曹司といわれた大西らしき男が、反応して参集者たちの方に、幾分慇懃無礼な印象を与えながらも軽く礼をして見せた。顔立ちは整っているが、外山は気に入らない奴だと本能的に感じた。勝ち組の男は、意外と自己中心的で、倫理的ではないということを示す、サンプルのような人間だと思い込んだ。来賓用の胸章特大薔薇の赤い色が、今日は尊大ぶった嫌な色に見える。 

  やがて、大西は指名されて挨拶を始めた。件の祝辞は誰かに原稿を書かせたのだろうか。お決まりのお祝いの言葉、夏川商事との関係やオープンに至るまでの無難なエピソードは、銭湯の壁画のように少々退屈だ。いや銭湯に悪い。そして若造が、激励の言葉を発したので、その重みの無さに外山は苦笑してしまった。りさの方をちらりと振り返ると、彼女も同意しているように目を光らせて見せた。撮影の間、外山のカメラは、被写体を機械的に捉えて、電子データとして本体内のカードに保存している。

「それではテープカットに参りたいと思いますので、皆様、ご用意をお願いします」

  老練の経理部長の声は一段と力強くなったが、式典のハイライトであるということで、テープカットのシーンに対しては、少々力みすぎているようにも見える。

「力強く、エイ、エイ、『オー』でカットをしていただきますので、皆様、ご唱和下さい。エイ、エイ、オー!」 

  日常生活にこびりついている静けさや、沈着な時間をまとった人たちが、一瞬にして爆発して和合するような強い拍手を巻き起こした。

「それでは、これを持って夏川商事八号店のオープンセレモニーを終了いたします。本日はお忙しい中ご出席いただき、誠にありがとうございました。お帰りの際には記念品をお持ちください」 

  しばらく店舗の入り口付近は、養殖場で餌を撒かれ、一斉に集まってきた魚たちの群れのようにごった返した。夏川商事のスタッフは勢ぞろいで記念品を渡している。りさはすでに入り口の側に立っていた。外山はそのごった返す雰囲気を遥か遠くの映像のように見ながら、カメラのシャッターを何度か押した。シャッターが押されるたびに、その時間と空間は、切り取られた色のついた影絵のように、カメラの中に吸いこまれた。かの大手アパレルメーカーの御曹司である大西和也が店舗を出て行く時、胸章特大薔薇をスタッフがはずし、老練な経理部長と白髪の夏川社長は、頭が床に着くほど慇懃に挨拶している。特大薔薇をはずした大西は、空気の抜けた風船のようにしぼんで見えた。

  出席者たちがほぼはけた頃、外山は夏川社長に挨拶をすると入り口に向かった。外に出ると、りさが側によって来た。記念品を渡す振りをしながら、目を見開いて言った。

「記念品の袋の中に、私の携帯電話の番号のメモがあります。ご連絡ください。神田祭、楽しみにしています」

  外山はそんな風に言われて、軽く身震いをした。回りを見渡しても注視している店員たちがいないことを確認して、普通の取材記者のように事務的にりさに微笑んで、横山町大通りの雑踏に紛れていった。りさのひばりのような声が背後から聞こえてきた。

「ありがとうございました」


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赤は恋のエネルギー

  五月の神田祭は近づいていた。外山は黒い携帯をティッシュできれいにすると、恐る恐るボタンを押した。液晶にその番号が踊っている。呼び出し中の文字も震えているようだ。呼出中の文字が通話中の文字に変わった。慌てて外山は携帯を耳に当てた。小さなスピーカーから水晶のような透き通った声が聞こえてきた。

「はい。夏川ですが」

「すみません。外山ですが、今話しても大丈夫ですか?」

「大丈夫です。会社の台所にいますので」

「早速ですが、七日に神田祭の神輿が出ますので、待ち合わせできますか?出来れば、横山町の側の地下鉄出口で、午前十一時にどうでしょう?」

「ええ、大丈夫です。その日は一日空けています。楽しみですわ。外山さんとデートできるなんて幸せです」

  外山はその言葉に宙に体が浮くような心地がした。

「それでは、よろしく」

  外山はもっと話をしていたいが、緊張感で暴走しそうになるのが怖いのか、感情とは裏腹に事務的な誘いの電話をして、早々と携帯を切ってしまった。大学時代にスキー部の主将でならした強気のスポーツマンの外山も、りさには形無しである。 

  ゴールデンウィークの最終日の五月七日、神田祭の大神輿渡御が行われた。

  神幸祭の行列は神田、日本橋など全ての氏子町に接するように一日がかりでかなりの行程を巡る。

  発輦祭前の境内には、御社殿前に整列した神人の持つ七色旗や、加茂能人形山車の色鮮やかさや、三鳳輦の華やかさが終結し、見る人に過去の歴史を呼び戻させ、厳粛な時間の断層に心が膝まずく。鳳輦は担がず、山車のように車に乗せて人が引っ張っていく。引っ張る神人の服装も一の宮鳳輦は青、二の宮鳳輦は橙、三の宮鳳輦は黄と分けられ、五月の青空にもよく映えているのだ。かんかん帽に黒羽織、白袴の先導を先頭に、各鳳輦ごとに七色旗、神旗などが付いた一の宮鳳輦、二の宮鳳輦、三の宮鳳輦が続き、最後は太神楽だ。各地区の町会はご祝儀を渡して手拭をもらい、三三七拍子で締めていくイベントを繰り返す。このイベントのために長引くことがあり、遅れが発生すると、時々鳳輦を走らせるため、付いていく人間は必死になる。

  将門塚では将門太鼓が打たれ、慰霊祭が行われる。岩本町一丁目交差点には美しい羽衣山車が鳳輦を出迎える。吉田松陰などが処刑された小伝馬町牢屋敷の裏にある十思スクエア前を通り、繊維問屋街の馬喰町、横山町を経て、両国旧仮置屋の川崎大師東京別院の薬研堀不動院隣の駐車場に、鳳輦を収めて昼食休憩となる。横山町大通りでは、繊維問屋のファッション販売員たちが道路の両脇に立つ。両国旧仮置屋でも見物客が沢山集まって混雑する。

  清洲橋通りを南下、やはり大勢の見物客のいる明治座前を過ぎ、女性的な美しさで知られる清洲橋手前で西に曲がり、水天宮に向う。堀留児童公園から金座通りまでの道を行進する相馬野馬追いの騎馬隊は、十騎足らずだが、近くで見る甲冑は年代物であり、威風堂々の姿に、あんぐりと口を開けて見ている見物客もいる。騎馬隊同様先行していた附け祭の大江山凱陣、大鯰と要石は小舟町交差点で待機していた。

 秋葉原の電気街の中心では、神田明神通りを上る鳳輦と、高層ビルとのコントラストが、余りにも際立っているがため、逆に違和感を喪失させているかのように見える。秋葉原を訪れていた買い物客は、たちどころに本来の目的ではなかった見物客に変身する。興味津々の気持ちを抑えきれずに携帯で写真を撮っている若者も多い。そして、鳶たちが唄う朗々たる木遣りと共に、明神坂を粛々と上る三鳳輦は、やがて夕闇の中で異次元のような幻想的風景となる。神田明神は、発輦祭と比べ、膨れ上がった人出で、狭い境内は立錐の余地もない。ここで一日の行程が終わるのである。

 

  横山町大通りと清洲橋通りが交差する付近の馬喰横山のA1出口の前に、りさは立っていた。サングラスをかけ、真っ白な総レースのチュニックを着込んだりさは美しかった。裾に切り替えを入れたバランスの良い服で、袖もベルスリーブ調でフェミニンな雰囲気だった。そして同じレースを胸元にあしらったキャミソールが、チュニックのV衿からのぞいている。清涼感と大人の甘さが漂う着こなしに、外山は度肝を抜かれたようにはっとしてしまったが、貴重なものを失いたくない者のように、一瞬でその美しい着こなしを目に焼き付けた。その繊細なレースの服は、愛するりさにこそふさわしいファッションだった。夏川商事の店舗の前で撮った時に身に着けていたものより、りさには相応しかった。白いスリムなパンツは、贅肉の無い長い脚を強調していた。

「待ちましたか?」

「いいえ、たった今ここに来たばかりです」

  裸眼一・五の外山は、清洲橋通りの反対側のかなり遠くから、彼女がこの駅の入り口で立っている姿を見つけていたが、そのことはあえて触れなかった。心優しい気遣いが、ちくりと胸を刺すがままにしていた。サングラスの中で微笑んでいる瞳が、かすかにレンズのブラウンのグラデーションの薄い部分から見えた。彼女の瞳は遠い彼方の水平線に浮かぶ真紅の太陽のように燃えているのだろうか。外山はふと想像して口が緩む気がした。

「外山さん何かおかしくて?」

「いいや、とっても夏川さんのファッションが僕の好みなので、嬉しくなったんだよ」

  ごまかす必要がなかったが、何故か外山は軽い嘘をついてしまった。しかし、外山は、りさの好みの象徴であるファッションという鋳型が、完ぺき過ぎて最初から降参していたのも事実である。

  祭りの名前は、この横山町界隈では、「神田祭・横山町大祭」と銘打たれているが、その行事がまもなく始まる。外山はりさと行列がよく見えるところに移動した。しばらくすると神幸祭の行列は、横山町大通りを巡行し始めた。囃し方に続き、牛に引かれた閑古鳥の山車が二人の前を通り過ぎた。それから次々と通過する引き物に、外山はカメラのシャッターを切った。りさはサングラスを外して原色の衣装に見入ると、外山の耳元に感嘆しきった声で囁く。町方の扮装をする若者、神官に扮した初老の男性など、見られることを意識して口を閉じたままゆっくり歩く姿は、どこかぎくしゃくしているが、着なれていない衣装の原色や、アスファルトを叩いて歩く栗色の馬などが、圧倒的な存在感を持っているから、見るものを引き付けずにはおかない。歴史の中で織られ縫われてきたさまざまな衣装が、祭の気分を引き立てるのである。

  一ノ宮の神輿がやってきた。法被を着た初老の男性が、外山に小さく挨拶する。外山は、最初誰なのか判らなかったが、新道通りの子供服店の店長だとわかると、大きく手を振ってカメラを向けた。その店長はまさにカメラ目線で、ずっと外山の方を見ながら、首を回せる極限まで回したが、しばらくすると神輿とともに整然とまた前を向いて進んで行った。そのあとには神装した女性たちがやって来た。緋袴に白衣の巫女装束である。その巫女装束の後に、黒い編み笠のようなものをかぶり、緋袴の上にさらに着物を羽織った姿の一群が続いた。

「外山さん。綺麗な赤ですね。私も着てみたい」

  と言いつつ、りさは外山のジャケットの裾を引っ張っている。外山はその親しげな行為にどきりとしながら、思わず名前で呼んでこう言った。

「りささんは赤が好きですか?」

  りさは名前で呼ばれても驚く気配も見せず、むしろ嬉しそうに当然のことのように受け入れているようだ。

「赤は恋の色、恋のエネルギーそのものです」

  りさはいたずらっぽく大きな目を見開いて、おどけて見せた。外山はりさのその後に出てくる言葉を、図らずも期待してしまった。しかし、告白めいた言葉は無く、そこで会話は途切れた。

  神官の行列が続いてやってきた。馬にまたがった緋色の衣装の男性が、かしこまった顔をしている。馬の手綱を二名の若手の男性が引っ張る。強い午後の光線は、背景にある問屋の店舗のひさしに反射し、眩しくて目に沁みるようだ。続いて、高貴なものに使用されるという紫の装束をまとった男たちは、緑、紫、橙、白、赤などののぼりを掲げ、緩やかに歩いている。熱気を含んだ昼の風がそののぼりを左右に揺らし、見る者の目を和ませる。

  一通り行列が去ってしまうと、外山はカメラをズボンのバンドにつけたケースに押し込んだ。


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目を覚まして!幸せは、もっと高いところに

 二人は喫茶店で軽いランチを済ますと、まだ問屋街のあちこちから聞こえてきそうな祭りの余韻を感じ取りながら、浜町公園に向かった。

 浜町公園は思いのほか人が集まっていた。半ズボンをはいた少年や、哺乳動物の刺繍を施したスカートをはいた少女たちが、突発的な事件など何事も起こらないことを信じているかのように、安心して全身全霊で遊びに興じている。

 隅田川の見えるあのベンチに、吸い寄せられるように何故か外山は来てしまった。沙織に婚約破棄の意志を伝えた時に座っていたベンチを、今日はまた見てみたいという不可思議なマゾ的な欲求が突き上げた。ベンチはリフォームされたばかりなのか、黄色のペンキが日光を鋭く跳ね返している。

 隅田川を、白波を蹴立てて海の方角に向かっている一艘の運搬船が、高速道路下の視界に見え、エンジンの唸る音が、水の流れる音と透き通った五月の風の音に混じって聞こえてきた。遠く長くエンジンの音は続くように思えた。

 ベンチの上にりさと外山はゆっくりと腰かけた。年齢がはるかに離れていたが、しっくりと気持ちの合う、心の許せる親友に逢ったような安堵感を外山は抱いた。それもとびきりに美人で、大和撫子である。降ってわいたような話で、外山には信じられない気持ちが心の中で交差した。

「あなたは、どうして僕の前に現れたのでしょうか?」

「解らないです」

「でも、僕はあのエレベーターにりささんと乗り合わせることを、心の中で念じていたつもりはないし・・・・・・」

「そうね。あり得ないことだわ。でも私は何かとてつもない不思議な運命があって、出逢ったのは間違いないと思うの。あの出逢いの時から、外山さんは私の心の中にしっかりと住みついたわ。外山さんの精悍な顔つき、そして時には憂いを含んだちょっとさびしそうな表情を見せるところに、私は参ってしまったようですわ。そうですね、なんか四十代の男性の良いところが、いっぱい詰まっている人という感じです」

「りささんは僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕は普通に仕事をしてきたただのサラリーマンだ。しかし、普通の人間と違うところは、事故を起こして少年の人生を奪ってしまった男だということだ。めぐりあわせが悪いと言えば悪いと思う。あと五秒違ったらあの少年を轢く必要がなかったのだから。亡くなった今でもうなされる日があるよ」

「私はこの前、外山さんの伴侶になる可能性があるかしらと言いましたけど、外山さんの今までの人生を聞くにつけ、もう他人事ではないような気がしています。まるで、私の人生でもあるような気がしているのです。つまり私もあなたのその贖罪の人生の一端を担いたい、尽くしたいと最近思うようになったのです」

「ちょっと待ってください。僕も男の端くれだから、そんな言葉をりささんからもらえたら本当に嬉しいですよ。でも罰当たりだ。こんな僕に好意を寄せても、不幸になるだけだよ、りささん、目を覚まして!」

 外山はそう強く言いながら、りさの柔らかい良く手入れの行き届いた手を、思わず握ってしまった。りさもその手を握手するように握り返した。外山がりさに初めて触れた手のぬくもりに、感電するような衝撃が走ったが、すぐ手を放した。

「僕は君に出逢った時こう思ったよ。若いながらも本当に堂々とした天真爛漫さを持ち、明るくて、公平で、実直で、しかも美しすぎる。そんな人がこんな中年に興味を持つのは信じられない。もう一度言うけど、目を覚まして!りささんの幸せは、もっともっと高いところにあるよ、きっと」

「いいえ、私の人を見る目は絶対間違いないと信じています。私は外山さんに出逢うことをずっと願ってきたんだわ。あのエレベーターのなかで、この人に間違いないわと直感したの。人は出逢いについて色々なことを言いますけど、私は人生はタイミングだと思うの。いろんな場面でチャンスが出てくるけど、これを逃したらそれ以上のものがない、ということに気づく人と、気づかない人がいるわ。最悪はどれがチャンスなのか判らない人もいるの。でも私にふさわしい人は外山さんしかいないと感じたのです。だから・・・・・・」

「僕ももう少し若かったら、そうだ、二十五歳ぐらいだったら、りささんにすぐに求婚していたかもしれない。りささんと居ると気持ちが癒されるんだ。それは僕にもよく判る。でもね、僕は贖罪を持ち、もうすでに四十四のおじさんなんだ。それなのに気にかけてくれるりささんは、ある意味本当に僕だけのために登場してきた天使のような気がする。でもそれは素直に受けとめるわけにはいかないよ。すべては夢物語だとも思っている」

「外山さん、それは違います。外山さんと交わした会話から、私との価値観が本当に合っているということを感じました。じゃその価値観とは何かと言うと、何に感動し、どんなことを憎むかだと思うの。具体的にというと難しいけど、外山さんとの短い会話の中で、私はこの人に間違いないと感じたのです。そしたら私の心の中に、外山さんとの間にあった今までの遠い距離を、一刻も早く近づけたいと望むようになったのです。外山さんの生きている世界と、りさの生きている世界を、一刻も早く近づけたくなったのです。そうでなければ、私は尊い人生の貴重なダイヤモンドのような時間を、失ってしまうような恐怖に襲われました。だから、今はただ逢いたくて逢いたくて、逢ったら外山さんとの距離を、心安らかになるまで近づけたいと願うのです」

「いや、僕にはりささんが本当にそう思っているのだろうかと、どんなに言われようとも今は信じられないんだ。もう少し時間をください。りささんがきっと目が覚めるまで、時間をください」

「そうね。せっかちすぎるのかしら。それに、私はちょっと世間の平均的な同世代の女性の持つ価値観と比べると、変わっているのかもしれません。色々考えたわ、眠れない日が続きました。でもこう思ったのです。外山さんが早く老いるなら、限られた時間だからこそ一緒に楽しく過ごしたいし、だからこそ早く結婚したいと考えました。外山さんには悪いけど、確かに世間的には二十歳年上ですから、中年の部類に入ります。でも、価値観が合っているので、何も問題はないはずです。考えても見てください。いくら同世代同士が良いと言っても、価値観が合わなかったり、愛してもいなかったりしたら、うまくいくはずもないじゃないですか。それに、外山さんは、体力、気力のある若い女性に愛してもらえて安心だ、というぐらいに考えれば良いと思います。私はそれが嬉しいのです。 なんていうか、外山さんだったら尽くしても私は何の後悔もないと感じるの。傲慢で言うわけではありませんが、私は人の嫌がる仕事もすすんでするタイプです。確かに私が外山さんと一緒になるとしたら、二十歳年上だから、老いの問題は避けて通れませんが、たった一つ一番大事な人間性で価値判断をするとしたら、外山さん以外には考えられません。夢に見るんです。外山さんはきっと私を大事にしてくれるだろうし、私もしっかりその分をお返しするという生活の日々を。いいじゃないですか、私はちょっぴりきれいで若いから、外山さんと同世代の男性に、悔しい思いをさせれば・・・・・・」

 外山は大和撫子と思いこんでいたりさが、現代っこ風に茶目っ気たっぷりに言うその最後の台詞に、どうしたわけか笑い出してしまった。りさも大きな目を見開いて、頷きながら笑いだした。

 その時、眼下の隅田川の薄汚れた水面が、透明なガラスのように反射しているように外山には見えた。しばらく、横切って白い波を立てている遊覧船や運搬船を、二人は黙って見ていた。

「りささん、ありがとう。貴方のようなサラブレッドで、高嶺の花の存在の人に好意をもたれることは不思議だけど、納得できるまで時間をください。年を重ねると疑りっぽくなるものなので、ごめん。回答は保留にして置いてくださいと今は言っていいかな?」

「ええ、待ちますわ。外山さんが私の気持ちを、すんなり受け入れるまで待ちます」

「そうだ、何でも話せるりささんだから、これだけは話して今日の弁明とします。僕の少年を殺してしまった過去と、もう一つだけどうしても忘れられないものがあることを告げておきたい。心の奥底の暗黒の世界のようなものです。少年時代、母は近所では特に目立つ細面の美人で、着物をいつも優雅に着こなしていた自慢の人だった。それなのにある日小学校から帰ってくると、父と僕に置手紙をして出て行ったんだ。文面からは、家出する理由が小さい僕にはまったく理解できなかった。僕を上にも下にも置かないほど可愛がり、いつくしんでくれた母です。僕は父に出て行った理由を、何度も何度も聞いたが、貝のように閉ざした口は、真相を語ってくれなかった。だから、自分を捨てていった母をただ憎んだ。一時も忘れることなく憎んだ。愛おしいが故に激しく憎んだ。やがて母を宇宙の果てまで押しやるほど憎み尽くし、黒い棺の中に記憶を放り込んだ時、僕は女性ほど裏切る生き物はこの世にいないと心に刻印したんだ。そんな過去が僕にはあるんだ。四十四歳になっても、母をちっとも許していない。いや、許すことを忘れてしまったんだ。僕にはこんなつまらない憎しみの怨念が、心の底辺に垢のようにこびり付いています。だから、僕は単純な普通の人間のように見えるかも知れないが、本当はグレーゾーンの多い暗い男なのかもしれない・・・・・・」

  真剣に耳を傾けていたりさの頬には、数滴の涙がはらりとこぼれ落ちた。

「外山さん、そんな悲しいことが過去にあったなんて・・・・・・。さぞかし、辛かったでしょうね。大人になってからだったらまだしも、小さな胸をずっと痛めて苦しんだのでしょうね。私がその時代にいて一緒に苦しんであげられたら、少しでも傷を浅くすることが出来たでしょうに。悲しいわ・・・・・・。悔しいわ・・・・・・」

「良いんだよ、りささん。泣かないでください。君を悲しませるようなことを言ってしまった、ごめん、後悔している。ただ、素直に君の素敵な告白を受け入れられない理由を話すつもりが、あらぬ方向に行ってしまった。今日はこの話はおしまいにしよう。それより、ゆっくりこのあたりを散策してみようか。そうだ。神田祭の一行をまた追いかけてみようか?」

  りさは何事も無かったように気持ちよく応じて外山と歩き始めた。西の方の空には、漆黒の雲が広がりだしていたのが外山の目にとまった。 


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奥付



向日葵のような年下の君 


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著者 : 三輪たかし
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