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「しもべと犬」番外編SS 「楽しみを希う心」より 「いぬのおしごと」

「いぬのおしごと」

 

 

 

 

 青葉生い茂る皇居前、桜田門前にそびえ立つ地上十八階、地下四階のビル。
 パトカーや黒塗りの車が忙(せわ)しく行き交う。TV局の名が記されたワンボックスから、腕章を付けた記者たちが転がり出てくる。
 日々、止むことのない凶悪事件、事故。
 それを一手に引き受ける、警察の顔とも言われる警視庁刑事部捜査一課を内包する、警視庁という建造物だ。
「……今日も大変そうねえ」
 指をかけたブラインドの隙間からのんびりと、それを見上げながら。
 ミルクティーのカップを、小指を立てた大きな手でつまみながら、スーツにアフロヘアの閑院が溜め息をついた。
 同じ『捜査一課』という名称を冠しながら、建物の中にも入れて貰えない。当然、マスコミは自分たちの存在を知らず、彼らに会いたいなら、便宜上、偽名で在籍する特殊犯捜査係四係の手帳を翳して、建物に入るしかない。
「戻ってくるなら坊主にしろと言われたんじゃないのか、閑院」
 と、朝のお茶のカップを洗っていた、体格の良いスーツをフリルエプロンで包んだ坂井が真面目に問う。
「坊主なんていやよ。私絶壁なの」
 閑院はアフロの頭をぽんぽんと叩いてから、窓枠に尻を預けて、室内を見わたした。
 薄い煙草の煙が燻(くゆ)る。館内禁煙の建物で、ここだけは治外法権だ。
 中央の会議デスクで白髪交じりの男がくわえ煙草で競馬新聞を読んでいる。三十代の婦警が内線を受けている。報告書を書く若い男。その隣で。
「……何やってんの、信乃(しの)」
 まだ学生のようにも見える明るい髪の男が、眼鏡の下にピンセットで摘んだ金属を先ほどから翳していた。
「あ」
 その、信乃と呼ばれた青年は、金属片をケースに戻し、セルフレームの眼鏡の奥の茶色の瞳を、深い二重で瞬かせ、大人しそうな微笑みで顔を上げなおした。
「前回から、サンプルが変わってるんです。他のにおいに一切干渉されない、臭気サンプル用の金属ができたそうで」
 今嗅いでいるのは、新しい住宅用のリボスという塗料のサンプルです。燃える前と、住宅火災の温度で焼けたあとの。という彼の説明に、閑院はどうでもいい様子で、溜め息をつく。
「《警察犬》も大変ねえ」
 データで送られてくると言うにおいを、実際に嗅いでも害がないものだけは、より正確さを増すためにああして体感用のサンプルが送られてくるという。そのサンプルを一々嗅いで、何千何万という、生活の中に溢れるにおいを、信乃は記憶してゆくというのだ。
 信乃と呼ばれた青年は、仕事に出したときの冷酷さと凶暴さなど、全く別人格とでも言いたげな、少しおっとりした、穏やかな様子で微笑んだ。
「だって、仕事ですから」
 と、言って、折り目のように角が持ち上がった金属片をまた、ピンセットでつまむ。それに、
「おならできないじゃない。ねえ、智重」
 と、信乃の隣の机で、仏頂面で書類を書いている男に問いかけると、
「涙ぐむが何も言わない」
 智重と呼ばれた男は、冷たい声で答えた。
「……相変わらず、殺伐とした家庭ね」
「そうでもありません!」
 間髪入れずにピンセットを持った信乃から、訂正が入るが。
「そう?」
「……」
 問い質せばそれ以上何も言えないところを見ると、やはり殺伐としているらしかった。けれど。
「い、いいんです……! そんなこと。犬だって喋らないじゃないですか」
 信乃は、少し拗ねたように眉根を寄せた。
「犬は喋れない。アンタは喋らない。でしょ?」
「……!」
 言い返し損なった信乃は、集中しろ、と、智重から低く叱られて、はい、と、そのまま不本意そうに黙り込んだ。
 この通り、男同士の同居で明るいも何もないが、先の事件の前に比べれば、随分柔らかくなった気がする二人だ。
 あれを機に、もう少し仲良くも明るくもなるかと閑院は思っていたのだが、相変わらず、絶望的に会話が少ない家庭らしかった。
「犬じゃないなら、なんか面白いこと言いなさいよね、信乃」
 そういうほどには、今、この部署は暇だ。
 花の警視庁捜査一課に所属しながら、そう名乗ることを禁じられ、居場所すら、あの建物から追い出されてしまう自分たちの部屋の名を、捜査一課特殊犯捜査係第五係という。
 本来四係までしか存在しない特殊犯捜査係のはみ出し部署だ。
 知る人ぞ知るこの部屋を、流刑地、孤島、或いは一番通りのいい呼称は、《スキャンダル課》という。
 超有名人政財界要人の依頼で、公の捜査に掛けられない、スキャンダルに発展する可能性のある事件を、水面下で捜査するためのセクションだった。
 捜査は当然極秘、しかも所属刑事も皆、脛に傷を持つ、表に出られない人員ばかりが集まった部署だ。
 背景が背景だから、この部署は、仕事以外は優遇されている。何しろ政財界要人の防波堤だ。保険のようなものだった。
 ゆえに、この少人数にかかわらず、銃器備品は異様に贅沢に与えられている。
 その最たるものが。
「最近、お笑い見てないんです」
 と、少し不機嫌に答える信乃だ。
 平たく言えば、信乃は人造人間だ。
 クローンとも違う、細胞自体を操作され、任務に都合の良い――――信乃の場合、警察犬の能力を持って造り出された、《人形》だった。そして、いくらでも代えの利く、智重の代わりに危険に飛び込み、智重を庇って殉職すべく造られた盾だ。危険な状況に追い込まれたとき、差し出す生け贄だった。
 非常に高価な命だが、信乃の命は金で買える。
 それを当然に思えるなら、今すぐ警察という場所から立ち去らねばならなかったが。
「何か、面白いことないかなあ……」
 そんな閑院の声を、仕事しろ仕事。と、朝から競馬新聞しか読んでいない、桃原係長が投げやりに叱る。
 それに、面白いこと、って言ったでしょ、と、閑院が唇を尖らせてみせたとき。
 控えめにドアがノックされ、恐る恐る開かれた。
「あの……。奥村さん、って、このお部屋でしょうか」
 そう言って尋ねてきた若い婦警がいた。美人で可愛らしいのに、そんな歳からこの建物によこされるのは、途方もなく将来有望か、或いは、お先真っ暗かのどちらかだった。
「スキャンダルかしら? 智重」
 突然の花の来訪に閑院がニヤニヤとした笑いで声を掛ける。それほどこの部屋の来訪者は少なく、それが女性ともなると、しばらくはその詮索で潰れそうなほど、五係には娯楽がない。しかし。
「奥村は、俺だが」
 椅子を回した智重に、彼女が息を呑む。若いが、過酷な現場を越えてきた男特有の、色気というなら匂い立つような智重の様子だ。
 きちんと着たスーツ。清潔な短い黒髪。一重のきつそうな目許、面立は精悍で、全身から漂う香りはストイックだ。
 彼女は、本当に告白しにきた女学生のように照れながら。
 ――――もっと珍しい、来客を告げた。

 

 

 この部署に来客となれば、本当に数が限られている。
 民間人はまず来ない。警視庁の人間ですら、ほぼ来たことがない。幕僚がやってくると、この人間はそのうち警視総監候補になるのだな、と思い、その総監は、ときどき桃原を訪ねてくるらしいが、自分たちは一度も見たことがない。
 やってきたのは、その秘書だった。名前が《秘書》でも全く違和感がなさそうな、銀縁眼鏡に糊の利いたスーツ姿に、輝きそうな革靴の、いかにも秘書らしい男だった。その男は。
「――――たっての願いです。全く困窮しておりまして」
 と、彼自身、それほど困っていそうにない口調で、お願いという命令を慇懃に差し出した。
 差し出された書類を見ても信乃は、信じられなかった。なにより、隣に座る智重を信じていた。
「大変優秀だと、伺っております」
 ほんとうに。
 ――――信じていたのだ。

 

 

「智重と信乃。どこ行ったのよ」
 帰ってこない二人に、やはり退屈に閑院は、アフロを揺らしながら頬杖で言う。
「仕事だ」
 と桃原が、新聞をはさみで切り抜きながら答えた。それに、ほう、と、面白くなさそうな溜め息をついてから。
「良いわね。おデートか……」
 どう? 坂井。と、振って閑院は。
「遠慮する」
 間髪入れずに断わられている。それに。
「犬が足りないそうだ」
 と、桃原は、目の前に同じ馬の切り抜きをずらりと並べ、はさみを動かしながら言った。


 短い犬の呼吸が聞こえる。
 重いモーター音と共に、帷子(かたびら)状の黒いベルトコンベアに乗って流れてくる荷物の合間を器用にシェパードが歩く。
「これも」
 と、制服の検査員がリュックを一つ、その上から撥ねた。
「これもだ」
 ボストンバッグが一つ。
 犬は回るベルトコンベアの上を、ぐるぐると歩き続ける。確かにあれをやれと言われずに済んだだけましだと思わなければならなかったけれど。
「大変助かります! 奥村刑事!」
 検査員の敬礼を受ける智重は、自分の手柄のように、いえ、と、不遜に応えている。背中に、荷物の山積みになった机の前に座る自分(しの)を置いてだ。
「しかし、すごいですね! 犬並の嗅覚ですか!」
「……」
 さすが特殊犯係ですな! と、酷く感心したように大声で言われて、荷物に伸ばした手が止まった。
 彼らには自分の正体は知らせず、特異体質による特技だと伝えている。
 確かに《犬》だ。犬並の嗅覚であるのも、己の大事な特徴で、それが自慢で売りのひとつだ。
 けれど、犬並と言われると、傷ついてしまうのは、なぜだろう。
「……」
 そう思う間にも、警察犬の横に着いた検査員がまた荷物を撥ねる。それを別の検査員が持ってくる。
 あの秘書は、断わりようのない任命書を持って、五係の、めったに使われない応接室に現われた。
 ――――麻薬犬が不足しています。
 言われたときに、それは大変だ、と思った呑気な自分を信乃は心底嫌悪した。
 ――――《犬》をお借りしたいのですが。
 空港に来いと、彼は言った。
 確かに自分にはできる。訓練を受けていなくても、自分のデータベースは何より確実にそれを判別するだろう。
 切実に招(しよう)聘(へい)された。ただしそれは、刑事としてではなく。
 ――――麻薬《犬》としてだ。
「進まないな。解らないか、信乃」
 不本意そうな智重に冷たく問われて。
「いえ、確かに犬と同程度の嗅覚はありますけどね!?」
 やけくそになって、ボロボロの砂まみれのリュックをずるずると山から引き寄せて、鼻先を当てながら。
「それって、俺的にどうなんですか!」
 裏腹の使命感でそれを嗅ぎながら、信乃は背後の智重に問うた。
 確かにできる。上手くやれる。
 しかし、成分で言うなら大半が人間の自分に対して、これはあまりの任務ではないか。
 荷物が入れ替えられる合間に振り返る智重は、よく働くな、と、荷物を一つ一つ嗅ぎながらベルトの上を延々と歩くシェパードを眺めていた。そして自分を振り返り。
「任務であるからには、お前にも拒否権はない」
 だから俺も着いてきただろう。と、厳しく言った。
「お前の飼い主として」
 どこも間違ってはいなかった。
 嬉しかった。シェパードのトレーナーが誇らしげなのが、やけに悔しかった。負けたくなかった。けれど。
「……」
 仕方なく、ワックスでテカった革のバッグをずるずると引き寄せ、くん……。と嗅いだ。酸化したオイルと、得体の知れない油っぽいにおいがした。よくわからない涙が滲んだ。
「理不尽です……」
 そんな呟きは、後ろで回るベルトの重いローラー音に掻き消される。

 

 

 麻薬のにおいは《犬》の鼻で嗅ぐと、甘酸っぱい独特のにおいがする。大麻、覚醒剤、サボテン、菌類。違法薬剤、種類は違うが皆、どこか発酵した甘い匂いがした。
 ブランド物の、バッグがあった。
「!」
 におうより先に香水が目に染みた。甘ったるかった。眉間が痛んで苦しいほどだ。噎せ返る喉を押さえるのに必死だった。しかし、目眩がするそれからは麻薬のにおいはしなかった。
 それを検査済みの台に置き、今度はナイロンのナップサックを引き寄せて、鼻先に押し当てる。
「…………」
 なにか、たまらなく香ばしいにおいがした。
 何年も繰り返し、汗を染み込ませ、雨に蒸らしてまた炙ってを繰り返した干物じみた、ふっと、知らぬ間に気が遠くなりそうなにおいだ。
「!」
 ふらりとした頭を軽く振って、また、次の荷物を引き寄せる。
 そのバッグに鼻先を押し当て、くんくんと、においを嗅いだ。
 変質者のようだというのは、もう、考えないことにした。
 割合にすれば、人間の割合のほうが遙かに大きいというか、《犬》とは言うが、能力によるところが大きく、体質的には否定しないが、いわゆる犬ではないのだと。
 けれど、今だけは、いっそ自分を犬だと思い込んだほうがきっと、精神衛生上、良いに違いなかった。
「……」
 布のバッグがあった。デニム生地に似た厚手の綿だったが。
「何だ」
「…………いえ……」
 麻薬ではないが、においがした。
 いい匂いとも悪いにおいとも言い難い、何だか、何とも言えない、何か、おかしく、強烈なにおいだった。
「…………」
 次の荷物は単純に臭かった。本当に臭かった。
 もう泣き出しそうだった。感情と違う涙が涙腺から漏れた。
 検査済みの台に、それを摘んで移し、次の荷物を取ると、麻薬のにおいがした。ほっとした。
「これヘロインです。この人捕まえてください」
 摘んで、それを検査員に渡した。ようやく仕事ができたような気がした。
 無言で、においを嗅ぎ続けた。
 次の荷物は、無駄にスパイシーだった。
 次の荷物は、どう考えてもトマトのにおいがした。ただし、湿度の高いところで形がなくなるまで腐敗したトマトのにおいだ。次の荷物は。
「……!」
 少しほこり臭い、洗濯石鹸の匂いがして、心底ほっとして。安堵の溜め息が漏れた、が。
「……」
 そんな自分がたまらなく哀れだった。正気に返るのを引き留めるのが必死だった。
 次に引き寄せたのは。
 におう前から何かを放っていた。
 パンツの匂いがした。と、思った瞬間。
「……ッ!」
 恐ろしい刺激が鼻と喉と目を刺して、椅子から転がり落ちそうになりながら信乃は荷物を投げ出した。激しく咳き込む。涙と冷や汗が吹き出した。
 荷物を離してもまだ、喉が痛かった。鼻の奥がつんとする。鼻水が出た。
「ちょ、これ、ダメですよ! 麻薬よりダメです!」
 何が入ってるんですか、それ!
 泣きながら、床に落ちた大ぶりの布バッグを指さす。
 信じられない刺激臭だ。危険物かもしれない、と思うとき。
「お。来てるんだって?」
 と、立ち入り禁止のはずの部屋をひょこり覗いたのは。
「い、一水せ……ッ……!?」
 声を出した瞬間、喉を刺す痛みにまた信乃は咳き込んだ。
 一水医師。自分を造った研究者だ。
 どうしてこんなところにいるのかとも問えずに咳き込む信乃に。
「おいおい、大丈夫か? 何やってんだ、こんなところで」
 風邪か。と言いながら、外国帰りらしい無精髭の一水は、陽に焼けた肌に似合う、ほつれた白いデニムジャケットで近づいてきた。
 一水が、投げ出した荷物を見るのと、自分が一水を凝視するのは同時で。
「お。俺の荷物」
 と、検査員が別室に持ち込もうとしたそのバッグを指さした。だが。
「すみません、ちょっと中、開けさせてもらいますね?」
 怪訝そうに検査員は、薄汚れている一水を眺め、そのバッグを摘むようにして再検査室にそれを持って行ってしまった。
 中身を申告しても、これほど自分を噎せさせ怯えさせるものを、そのまま通過させるわけにはいかないのだろうが。
「見てくれてもかまわねえが」
 と一水は、埃で細いドレッドのように縒れた若白髪交じりの髪を掻いた。
「俺のパンツなんだがなあ」
「パンツ……」
 声が掠れる、あの刺激臭の正体が。
 すまねえなあ、風呂とか洗濯機がまったくねえところに行ってたんだよー。と、一水は、自分がそれを嗅(か)いだと知って、照れくさそうに頭を掻いた。そして。
「帰ったら、洗うよ」
 と、笑った。すまないな、ともう一度言われて、咳の合間に、いえ、と首を振った。
 仕事なら仕方がない。洗濯ができなかったことを責めるわけにはいかない。
 一水は、がんばれよ、と言い、智重には、信乃を頼むな、と言い置いて、陽気に手を振り、部屋を出て行った。
「……」
 取り残された、自分の目の前には、どんどん怪しい荷物が溜って行く。
 シェパードは、相変わらず、荷物を股越しながら、器用にベルトを歩き、怪しい荷物を鼻で退ける仕草をして、再検査をしろと、検査員に命令している。
 智重の視線が、アレに負けるなと厳しく言う。
 智重の犬として――――捜査一課特殊犯捜査係五係に特別に配属された《人形》、警察犬と呼ばれる誇り高い《犬》として、その使命を全うしたかったが。
「……」
 気力で荷物を引き寄せた。
 におおうとすると、先ほどのショックで、恐怖が少し背中を撫でた。必死でそれを振り払った。
「っ!」
 勇気を出して、においを嗅いでみる。
 いっそ麻薬のにおいがしてくれればいいと、祈りながら覚悟を決める信乃だったが。
「――――…。……すみません、においが……わかりません……」
 本当に、何のにおいもしなかった。嗅細胞が死に絶えたようだった。
 そうして、人々の落胆の溜め息の中、理不尽に涙ぐみ、肩身を狭くして、信乃は。
 ――――麻薬犬の任務を終えた。


END


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最終更新日 : 2013-09-21 13:05:00

この本の内容は以上です。


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