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 蜻蛉が排水溝の蓋の下で羽をばたつかせて、もがいていた。
 うだるような暑さの日々が終わり涼しい風が吹き始め、セミの鳴き声も少なくなってきたようなそんな日の午前中。
 両脇につつじの植え込みがある緑道の四角い升の排水溝。普通ならだれも気に留めないような、そんな場所で蜻蛉が、排水溝の網の目になっている鉄の蓋の下でジリジリという音をたて、羽をばたつかせているのだ。
 蓋の網の目は小さくて、蜻蛉は外に出ることができない。どうやって、この中に入ったのだろう? この排水溝の水で孵化して成長したのだろうか? だとすれば蜻蛉は生まれてから一度も外の世界に出ていないことになる。
 僕は蜻蛉の様子をじっと見ていた。状況は変わらない。蜻蛉は外に出ることができずに空しい音をたて続ける。
 携帯電話の着信音が鳴り、僕は歩き出した。通話を終えるとどうしてもあの場所が気になり振り返ってみた。一瞬だけ、蜻蛉の羽の音が聞こえたような気がした。
 次の日も排水溝の中をのぞいてみた。蜻蛉はやはり外に出ようと必死に羽をばたつかせている。何とかしてやりたいと思うが、排水溝の鉄の蓋は重くてとても開けることはできない。
 僕は蜻蛉の様子をじっと見るしかなかった。蜻蛉は引きずり込まれそうな薄暗い底から逃れるように必死に太陽に向かって羽ばたいている。
 しばらくして僕は歩き始めた。三十メートルほど歩き、昨日と同じように振り返ってみる。すると近くの道路を救急車がけたたましくサイレンを鳴らし、通り過ぎて行った。
 次の日も、また次の日も蜻蛉はがむしゃらに必死に羽音を響かせていた。物理的な常識など関係ない。ただ自分は外に出るのだと、そんな意志が伝わってくるような音だった。
 一週間、二週間、日を重ねても蜻蛉は諦めなかった。そして一か月後、排水溝に目をやると蜻蛉は外に出ていた。蓋の下には何もいない。間違いなくあの蜻蛉だろう。
「よく頑張ったな……」僕は蜻蛉にだけ聞こえるようにそうつぶやいた。しかし返事はない。何の音も聞こえてこない。
 息絶えている――蜻蛉はもう羽をばたつかせることはない。  どうやって外に出たのだろう? でも、蜻蛉は確かに排水溝の外で最期の時を迎えたのだ。
 一滴の水滴が零れ落ちた。それは排水溝の網目をすり抜け底にある水に落ち、波紋を作った。
 南の方角から穏やかな風が吹きはじめ、道路際に並んでいる街路樹から大きな枯れ葉がひらひらと舞い降りてきた。枯れ葉は風に吹かれて排水溝の方に飛んできて、横たわっている蜻蛉の上に優しくかぶさった。
                                      
                                           終わり

                            


この本の内容は以上です。


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