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ファインダーの中に映った後悔の日々

  竹内豊はビルの自動ドアが開くのを確かめてから、五月の薫風がそよぐ戸外に出た。頬を撫でる風は清々しい。左に見える巨大な構築物を見上げると、息をゆっくりと吐いた。首を曲げて上を見上げる行為はいささかつらい。近すぎるのである。夕方の太陽の光は、白っぽい世界一の自立式電波塔を照らしていた。東日本大震災や政治の先行きの不透明や景気の停滞を、何とか吹き飛ばそうとその白い塔は屹立していたが、社内の八階のフロアから見えるその塔とは別物に見える。竹内豊そんなことを考えながら、角にある銀行を通り過ぎて右に折れた。

  風が少し強いのか、何人かの女性の通行人がスカートを抑えて歩くのが見えた。五メートルぐらい先には、赤いドレスを着た、スリムで背が高い女性が快活に歩いている。とその先の路地で自転車が倒れる音が響いた。自転車の前かごに載せていた荷物が散乱した。初老の女性が倒れた自転車ととともに地べたに横たわっていた。それを見た赤いドレスの女性はあっという間にその初老の婦人の側に駆け寄って、腕とからだを支えて抱き起した。

「おばさん。大丈夫?どこか痛いとこある?」

「大丈夫です。大丈夫です」

  初老の女性は恐縮している。赤いドレスの女性は、初老の女性がしっかりと立ち上がったのを見届けると、今度は前かごから散乱した荷物を買い物袋の中にてきぱき戻して、手渡した。それから、ドレスを着ていることなどおかまいなし、というような力強さで、倒れた自転車を立ち上げ、両足スタンドを立て、前に倒れないようにロックした。

「大丈夫ですか?」

  竹内豊はやっと側に来て手伝おうとしたが、すでに救出作戦は完了している。

「すみません。考え事をしていたし、風も強かったので転んでしまいました。もう大丈夫です。ありがとうございました」

「良かった。気を付けてね、おばさん。それでは失礼します」

  初老の女性ににこにこして挨拶すると、豊にも伏し目がちに目配せして立ち去って行った。豊はその端正な目鼻立ちときびきびした立居振舞、そしてほのかな香水の香りを残していった女性に、心惹かれるものを感じた。

『でも、水商売なのかな?』

  何もしていないのだけれども、立ちすくんでいる豊に、例の初老の女性は何度か頭を下げて、自転車に再び乗って去っていった。風はまだ強いようだ。

 

  竹内豊は小林株式会社の本社から南に五百メートルほど離れたマンションに住み、まだ独身の男である。父と母は山梨で小さなペンションを経営しており、いつも豊の結婚のことに関して、口うるさく連絡してくる。紹介もしてくれるが、断り続けているから、将来の家庭予想図は何もない。年齢は六月で三十五歳、今年課長に昇格したばかりの広報室の人材と言われている。小林株式会社は建設資機材を扱うメーカーで、全国に支店を持ち、大手ゼネコン等をはじめ、建設関連業者からの信頼は高い。ところでこの会社の社長は唐沢浩二であるが、豊の母の妹が嫁いだ夫に妹がいたが、その妹を妻にしている。つまり豊は社長と非常に近い親戚なのである。

  小林株式会社は十年前に一部上場を成し遂げており、業績といえば、唐沢浩二の経営手腕などが功を奏して、昨年は初めて八〇〇億円の売上を計上している。故にかなり業界では期待されている会社と言えそうだが、事実、豊はこの会社に在籍していることに大きな誇りを持っている。本社はスカイツリーの南側にあり、豊や社長たちは八階のフロアで仕事をしているのである。

 

  二年前の四月のことである。小林株式会社はその年も、新入社員を五〇名入社させた。四月からの新人研修は本社で約一ヵ月間みっちり行われるが、その最初の頃、豊は新入社員を紹介する社内報の取材に追われていた。

  ある日の研修の朝、豊は九階の大会議室の大きな木製の扉を開けて入室した。教室形式にテーブルが並べられ、一つのテーブルに二人がけで、総勢五〇名がヒソヒソ話をするでもなく、教壇の方に視線を向けて静かに椅子に座っていた。黒っぽいリクルートスーツを着込んだ男性に混じって、やはりダークなリクルートスーツを着込んだ女性研修生も、きりりとした面持ちで背を伸ばして座っている。豊は、数人の新人女性社員の中に、ひときわ大きな目をした美しい女性を前列に見出した。豊はその女性の醸し出す若さはちきれる清新さの中に、何か不思議な強い意志を感じた。また可愛いいとも思ったが、仕事中である。私心は無くして仕事をしなくては、と手に持った書類をぎゅっと握り締めた。

  人事の研修担当の課長は、カリュキュラムの紹介の後に、豊に発言するように促した。豊は演壇に立って、小林株式会社の社内報について、説明を始めた。

  小林株式会社の実質的な創業者が、『さきがけ』という社内報に過大なほど力を入れて製作・発刊してきたことに触れ、題字は創業者の筆であると述べた。また、ことあるごとに自分の子供を育てるように、社員への毎号毎号のメッセージに心血を注いで、一字一字吟味して創ってきたものだと豊は力説した。

「いわば、当小林株式会社の血液、血管とも言うべき社内報の『さきがけ』に、皆さんのメッセージを丁寧に載せたいと思います。ですから、皆さん極度に神経質になる必要はありませんが、一字一字を大切にアンケートに書き込んでください。今週の研修の最後に集めますのでよろしくお願いします。あと写真はお昼休み、屋上で一人ひとり撮影しますので、十二時半には屋上に集合してください」

  豊は話し終えると、アンケート用紙を前列のメンバーに手渡し、後ろに回すように促した。教壇の方から見て、左の列のテーブルの右側の女性にアンケートを渡すと、潤いを含んできらきらした大きな目のその女性は豊を見つめている。何か話したそうな雰囲気だが、豊は急に胸がどきどきするのが判った。瞬時に胸の名札を見ると、『秋本美織』と書いてある。豊はその名前を心の中で同じく瞬時に発音してみた。するとその独特の響きに頭がボーッとしてしまった。しかし、気を取り直して、中央の教壇の側に戻ると、

「皆さんの力で新入社員紹介コーナーを立派なものにしてください。また、皆さんの顔写真は、この竹内がしっかりと一人ずつ屋上でとりますから、全国の社員によろしくお願いしますというようなつもりで、最高の笑顔で映るように努力してください。よろしくお願いします」

  緊張している新入社員の中で、『秋本美織』の美しい顔がほころぶように見えた。

『なんということだろう。一瞬の出会いであれほど魅力を放出する女性はいるだろうか?』

  と豊は思ったが、立ち去る時間が来たので、全員に一礼をして、人事の担当者にお礼を言うと、階下の広報室の方へ、階段で戻った。足が妙に軽くなってステップでも踏むような気分になった。

 

  手短に食事を済ますと、豊は十二時二十分に屋上に待機した。空は明るい四月の輝きに満ちていた。しばらくすると、ダークスーツに身を固めた新入社員たちが、ドアを開けてぞろぞろと屋上に出てきた。朝逢った気になる秋本美織は遅れて出てきた。

「新入社員の皆さん。それでは、今回の研修の名簿順に呼びますから、呼ばれたらここに来てください。髪の毛や、服装は整えましたか?名札はつけたままでよいです。それでは最初に帰山さん」

  すると小柄な丸い顔をした女性が出てきた。

「ここに立ってください。はい、それでは撮ります。今日の午前中の研修はどうでしたか?判りやすかったですか?」

  豊は気軽に話しかけて、気持ちをほぐしながら一眼レフのデジタルカメラを向ける。ファインダーの中に映った顔を観察すると、心まで透けて見えるようだ。豊は逆にこちらが気恥ずかしくなるようだった。

「小林に入る試験は難しかったですか?」

「ええ、大変でした」

「はっきり言うね」

「すみません」

  帰山さんの顔に笑顔が浮かんだので、シャッターチャンスを逃さずパチリ。

「はい、続いて北川さん」

  豊は無心になって取り続けた。回りの新入社員たちは気がほぐれたのか、カメラの餌食になっているメンバーに声をかけて茶化したりしている。何人目かに秋本美織を呼ぶ瞬間がやってきた。声が少し上ずる。

「続いて、秋本美織さん」

「はい。よろしくお願いします」

  丁寧に頭を下げて豊の目の前にたった。もう彼女の顔は満面の笑顔で準備万端といったところか。胸元が見えるほどに開かれたブラウスの白さが眩しい。ブラウスを止めたボタンのあたりに大きな名札がつけてある。『秋本美織』という文字が目に飛び込んでくる。黒いスーツと左の胸にある小林株式会社のオレンジ色のバッジが、秋本美織の微笑む顔を引き締めているようだ。彼女の髪はショートカットで男性のよう七三分けだが、自然にたらした髪とその分け方が、逆に彼女の美しさを引き立てているようだ。背景はまだ春らしく、薄い青色の空が、彼女の顔の輪郭を切り取っている。東京スカイツリーの工事が始まったばかりで、クレーンが左側に見えるが、そんなごつごつした機械も、彼女の端正な顔を引き立てているかのようだった。豊は思わず『うーん』と心の中でうなってしまった。

  実は、秋本美織の顔は、初めて逢った瞬間から、昔の恋人に顔立ちが良く似ていると豊は思っていた。それは、打ち消しがたい後悔の恋愛物語を思い出させた。

  今、ファインダーに入った彼女の研ぎ澄まされたような美しさは、その過去に別れた女性が見せた表情と酷似していた。恥ずかしそうに下を向くが、ただちに自信満々の輝かしい瞳をレンズに向ける。何か清々しいものと、女性らしい微かな色気が、その姿態に溢れていた。

『嗚呼、睦子』

  豊は昔の恋人の名前を心の中で呼んでいた。その言葉はむなしく頭の中を駆け巡るだけであった。記憶はまた過去へ遡っていく。


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『エンゼル』と睦子Four years before

  豊が三十一歳になろうとする四年前の春、先輩の役員に連れられて押上周辺の寿司屋で食事を済ませ、錦糸町にある小さなスナックに出かけたことがあった。たまに役員に付き合って行く店である。錦糸町の北口にそのスナックはあった。外に出た、お店の白いシンプルな電飾看板の中央には、『エンゼル』と書かれている。重厚な木製のドアを開けると、まだ他の客の姿は見えなかった。

「いらっしゃいませ。加藤様、ずいぶんお久しぶりじゃない。他のところで浮気していたの?さびしかったわ」

「ママさん。仕事が忙しいんだよ。僕は錦糸町ではここしか来ないからね」

「じゃ銀座には行くの?」

「またまた突っ込む。もう勘弁してくれ」

  鮮やかな華をあしらった着物を着たハスキーボイスのママさんは、微笑みながら奥の席に案内してくれた。

「いらっしゃいませ」

  奥から濃い目のブルーのワンピースを着た若い女性が出てきた。

「加藤さん。今度入った睦子さんよ」

「よろしくお願いします。本名のまま睦子でお願いします」

「すごい美人じゃない。ママさん良く見つけたね。銀座にもこんな美人はいないよ」

「あら、やっぱり銀座に行っているのかしら?」  

「まいったな。ママには何も隠せないね」

  一同が大笑いした。

  柏木睦子は豊の隣に座って、ビールの栓を抜いた。冷え切っているのか良い音を立てた。加藤と豊の小さめのグラスにビールを注ぐと、豊は睦子にも促してグラスを持たせた。ママも同じくグラスを持って注がれるのを待っている。四人のグラスが満たされると、ママは発声した。

「今日は睦子さんが入ったお祝いに乾杯しましょう!」

「乾杯!」

  豊は隣に座った睦子に緊張しながらも、広報の仕事柄、インタビューは慣れていたので色々と聞き始めた。

「失礼かな。僕は今度三十一歳だけどおいくつですか?」

「ご想像にお任せしますが、二十代です」

  華奢な手を顔に当てて微笑んでいる。失礼な唐突な質問ではあるが、一切怒った表情を見せない。

「ここにくる前のお仕事は何をしていたの?」

「それは内緒」 

  意味深な言葉に豊は心が揺れた。

「じゃご出身地は?」

「それは答えてもいいわ。神奈川です」

「ええ、浜っこ?」

「横浜のはずれですが、一応浜っこです」

  それから一時間ぐらい、豊の質問攻めは続いた。はぐらかしながらもにこやかに対応する睦子に、豊は心が癒されるような気がした。役員の加藤はママと今度行くゴルフの件で盛り上がっている。

  しばらくして、三人連れの年配の客が入ってきた。かなり酔っているようである。ママが応対すると、さっそくカラオケがセットされた。年配の中でも一番若い人間が、お店の中央に置かれた小さな台に立って歌い始めた。『シクラメンのかほり』である。中年のサラリーマンに良く歌われているが、その若い人間は、その曲が持ち歌の有名な歌手になりきって、自信満々に歌い始めた。

「豊さんも何か私と歌いませんか?」

  睦子はもう名前で豊を呼んでいる。

「僕は古臭いけど、銀座の恋の物語ぐらいしか歌えないよ」

  睦子はくすくす笑って、

「私も良く知っているわ。おばさんじゃないけど」

  豊は睦子の目を見つめて歌った。睦子もまるで悲恋の恋人のように豊を見つめて歌った。このスナック『エンゼル』に入ったばかりの新人とは思えない。過去を語りたがらないところに、何か人生経験を重ねているのだろうと豊は勝手に一人考えながら、大きな目と対照的に小さな引き締まった睦子の唇を見ていた。歌が終わると、お互いの心のこもった歌い方に拍手を送って席に戻った。

  しばらくして、睦子は豊に挨拶をすると、別の客のところに座ってにこやかに接待を始めた。グラスにウィスキーを注ぎ炭酸で割ると、軽やかにピンクのマドラーでかき回している。ブルーのワンピースは彼女にとても似合っていると豊は思ったが、何故かさびしい気がした。たった今、僕の恋人が他の男と親しく話しているのでは、というような錯覚さえ抱いた。嫉妬である。少し酔っているのだろうか。豊はそんな不思議な気持ちを感じながらも、役員の加藤にカラオケの十八番をせがまれたので歌うことにした。森進一の『襟裳岬』である。いつの間にか覚えた曲で、有名なフォークシンガーが作曲したものだ。ちょっとしたものまねのつもりで歌ったのが似ているので、社内でも有名である。

  マイクを握ると豊は森進一になりきって歌い始めた。案の定、スナックの中にいる全ての人間の合いの手が入る。上手いというほどでもないが、その場にいる人間の強い関心を引くぐらいのものまねである。最後の見せ場のところでうまく声が出たので、豊は内心達成感があった。睦子もにこにこして手拍子までしているのが見えて、何故かその優しい顔が温かい励ましのようにも見えた。

「竹内君の森進一は最高だね。小林株式会社の東の森進一と言ったら竹内君で、西にも同じようにものまねができる人間がいるんだ。そいつは西の森進一と言ってね」

「その話は何度も聞きましたよ。加藤さん。でも今回で竹内さんの歌を聞くのは三回目だけど、一段とうまくなったような気がするわ」

  役員の加藤とママさんに言われて豊は恥ずかしそうに照れた。

  そのあと他の客と交互だが、豊は五曲ぐらい歌ったのだろうか。睦子が席に戻ってきた時には、加藤も豊もかなり酔っていた。時間はもう十一時である。

「竹内君、明日も仕事があるから帰るか?タクシーで途中まで一緒に帰ろう」

「あら、もうお帰りですか。それでは加藤さん、ゴルフ楽しみにしているわ」

  外に出る時、客の一人が豊に向かってこう言っている。

「森進一君、また会おう」

  周りにいた人間がどっと笑っているのが聞こえた。睦子も口元を押さえてくすくす笑いながら、見送りに出てきた。タクシーはもう来ている。マスターが手配していたのであろう。車に乗り込むと、ママさんは投げキッスを加藤にしていた。その横で睦子は小さく手を振っている。そんな仕草はまだ少女のようだと豊は思った。

 

  それから、二週間ぐらいたっただろうか。会社に電話があった。『エンゼル』の睦子からである。広報室の女性社員が興味津々な顔をして豊を見ながら、「女性から電話ですよ」という。保留ボタンを押しながら豊はお店の中で名刺を渡したことを思い出した。受話器から聞こえる声は、わずかだが緊張しているようだ。

「すみません。お仕事中にお電話して。柏木睦子です。お忙しいのでしょうか?ママさんからも豊さんに電話しなさいって言われたし、私も寂しいのでお電話しました。今度はいつ来られますか。豊さんお一人でもぜひいらっしゃってください。またあなたの歌を聞きたいわ」

  豊はお店の営業とはいえ、こう積極的にアプローチされると非常に弱い。女性経験も少なく、もてるタイプではないからなおさらである。かといってすぐひょこひょこ行くのもしゃくだが、何故か睦子の声を聞くと抗えない。

「忙しいけど、今週末だったら行けるかも」

「金曜日といえば、豊さんの誕生日ですよね。何かプレゼントしようかな」

「そんなこと気にしなくて良いよ。まあ適当な時間に行くからね」

  豊は電話の向こうで緊張して直立不動でかけている睦子の姿を勝手に想像すると、何故か心がホカホカしてきた。 


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華麗な楽しいひと時と睦子Four years before

  金曜日、『エンゼル』の扉を開けると、睦子はカウンターの側で何か仕事をしていた。手を休めると奥から飛んできた。今日は赤いドレスである。豊は一人で来たから、少々気おくれしていたが、赤いドレスと満面いっぱいの上品な笑顔に、自分のテンションが跳ね上がるのがわかった。

『僕はスペインの牛じゃないよね?』

  時間はまだ八時。今日もまだ客はいない。ママさんは奥から出てきて挨拶をすると、またカウンターの中に入った。豊はソファに腰かけ、睦子にビールを注いでもらい、お返しに彼女に注ぎ、乾杯となった。

「三十一歳の誕生日おめでとうございま~す。乾杯!」

「乾杯!」

  豊はビールを飲み、睦子が拍手するので一緒に手を叩いた。

「この前の電話の時、不思議に思っていたけど、僕は誕生日を言ったっけかな?しかも年齢まで?」

  睦子はくすくす笑っているだけだった。その笑顔があまりにも愛くるしいので豊はドキドキした。

「ごめんなさい。加藤さんに聞いたの。あの人は部下思いの人ね。あなたの年齢や趣味まで、全部知っていました」

「それはやられた。睦子さんがスパイをしたんだね。あの人は恐ろしく記憶力の良い人だし、確かに気さくで面倒見が良いから、それぐらいのことは心がけているんだろうな」

「はい、それでは睦子からのプレゼント」

  とソファの後ろに隠していた赤いパッケージを出してきた。 

「他のお客さんが来る前に開けて中身を見てほしいの」

  金色の紐をほどき、赤い袋を開けると、香水が入っていた。

「私の大好きな香水です。これも加藤さんに聞いたのですが、竹内さんは時々香水つけているみたいだから、プレゼントするならそれだよと言われたの」

「ありがとう。でも何故僕みたいなものにプレゼントしてくれるの?」

「私って、昔っから気に入った人には何か送りたくなってしまうのです。でも逢ったばかりなのに、図々しくてお気に障りましたでしょうか?」

「いやいや、そんな意味で言ったのではなくて、僕は嬉しいですよ。こんなに素敵なものをもらったから、今度は睦子さんの誕生日にプレゼントをしなくては。いつですか二十二歳の誕生日は?」

「あら、実際より若く言っていただいて嬉しいわ。六月の三日です」

「そうか、同じ六月の誕生日なんだ。覚えやすいね。しかも今度の日曜日か」

  そんな話をしながら、豊は睦子のことをもっともっと知りたいと思った。しかし、豊の心の中には、少しだけ水商売の女性に対する偏見を持っていることは否めなかったが、『こんな美しい人と付き合うだけなら』、という打算的な気持ちも見え隠れしていた。この日は週末で小さいスナックながら、お客もいつもより多かった。行ったり来たりする睦子の赤いドレスの裾がひらひらし、その美しい立ち居振る舞いに、ウィスキーを飲みながら見とれてばかりいた。歌も何曲か歌った。いつもの十八番とサラリーマンの定番シリーズだ。豊は、今日は加藤がいないので、今一盛り上がらないように最初は思えたが、実のところは睦子の手前、恥ずかしくて澄ましているという自分の姿に、あとになって気づいた。帰り際、睦子は豊にメールアドレスを教えてとせがんだ。豊はお店へ誘われたりするのは面倒だと思ったが、心の中に潜む彼女への憧れの方が勝ってしまった。赤外線通信機能でアドレスと携帯番号を交換した。その時、豊はこの交換がどういう結末になるかは、まったく予想できていなかったのである。今日は睦子だけがお店の外に出て来て見送ってくれた。

「今日は本当に来てくれてありがとうございます。また来てくださいね。メールしますから。来週からの仕事頑張ってください」

  睦子はまたこの前と同じように、小さく手を振って豊が角を曲がるまで見送っていた。角で見えなくなったが、赤いドレスを着た可愛くて美しい睦子の上品にくすくす笑う顔が、脳裏にしっかりと焼きついたまま離れることがなかった。

 

  翌日、土曜日の朝、目が覚めると携帯を手に取った。メールの着信を知らせる光が点滅している。豊は、どきどきしながら携帯を開けた。メールを開けると、案の定、睦子からである。可愛らしい花をあしらい、ハートのマークも幾つか見える。

『おはよう!お疲れは取れました。柏木睦子です。昨日はお店に来てくれて本当にありがとうございました。あと、プレゼント気にいってくれました?私も同じ香水を使っていますから、つけるときは私のことを思い出してください。来週お会いすることを楽しみにしています❤❤❤』

  豊は図らずも嬉しくなってしまった。それはまるで新しい恋人が出来たような気分だからである。だが、来週約束した覚えがなかったので苦笑したが、早速返事を書いた。

『朝早くからテンションが高いですね。女性からこんな親しいメールをもらうのは何年ぶりかな。胸キュンキュンです。来週は睦子さんの誕生日からかなり過ぎてしまいますが、お客が少なめの木曜日に行きますよ。香水ははっきり言って嬉しかったね。ケースがワインレッドなんで女性用っぽいけど、香りが僕の好みなので、時々つけて睦子さんのことを思い出します❤❤❤それではまたまた。あ、それから明日の誕生日おめでとう。今後もよろしくお願いしますね』

  豊は妙に子供っぽい内容のメールを書いたので恥ずかしい気がしたが、人に合わせるのは昔から身についた処世術のせいだから、半分満足して送信ボタンを押した。

 

  六月七日は木曜日だった。睦子に逢ってから、豊が『エンゼル』へ行くのはこの日で三回目だ。回数を重ねるごとに豊は、夜の遊びに慣れていく自分が判った。

  この日は、豊は携帯型デジタル音楽プレーヤーを睦子にプレゼントした。睦子の好きなものということでメールで聞くと、希望してきたピンクのプレーヤーだった。五千円ぐらいだったから、豊は内心ほっとしたが、自分が小心者であることに笑えた。

  今日の睦子の衣装はベージュのワンピースだ。受け取った睦子はブルーの包装袋を開けてプレーヤーを確かめると、満面の笑みで何度もありがとう、ありがとうとささやいた。感謝している時の顔は、いつもよりさらに天使のような美しさであると豊は思った。睦子はお客も少ないので、それから横にずーと座っていた。時々会話が弾んで、豊の体に軽く触れる彼女の細い手が、なぜか暖かく感じられた。切れ長の大きな目は潤んでいる。この世にこんなに立ち居振る舞いが美しい人がいるだろうかと豊は思う。彼女の持って生まれた性格がにじみ出ているのだろう。今日はそのことが強く感じられた。これって惚れているんだろうかと自問自答する豊ではあった。彼女の過去でグレーの部分が幾つかあるが、それ以外はかなり生き様を聞いてきたので、もう他人とは思えないのである。酒の力で、気さくにお喋りをしているうちに、彼女との微妙な距離はより近づいたようだ。

「豊さんの結婚願望についてインタビューします。豊さんのインタビューの真似です」

  睦子は少しおどけてにこにこしながら切り出した。

「まず、どんな女性のタイプがお好きなのかしら?」

「睦子さんのようにどこまでも優しい人。どんなに馬鹿なことをやっても見守ってくれて愛してくれる人です。そして上品で落ち着いた人だな」

「それって私というより、何か偉大な母みたいなところがありますね」

「うん、そうかもしれない」

「いつぐらいには身を固めたいのですか?」

「人からの受け売りだけど、早いか遅いかだけど、もう三十一歳だから潮時かな」

  豊は意味ありげに睦子のきらきら光る目を見た。

「結婚の条件で、こだわりは?」

「僕って意外と世間体を気にするほうです。出来れば親族の皆に喜ばれる結婚はしたいですね。とやかく陰口を言いたい人もいるけど、出来るだけ皆が納得するような結婚かな。これは別に家柄とか学歴の問題ではないよ。ごく普通の結婚が望みです。平凡だけどね。だから、変な話、極論だけど、相手が再婚とか子供がいるというようなのは完全にNGなんです。僕は冒険しないタイプなのかな」

「ええ、そうなんですか?」

  睦子は少し顔色を変えたようだったが、続けて

「子供は何人くらい欲しいですか?」

「決めているわけではないのだけど、多分二人ぐらいかな」

  睦子の質問はそれ以後も幾つかあったが、豊がまじめに答え過ぎたので、ふざけることもなくその話題は終わった。

  豊はまたカラオケを歌いだした。睦子は小さなステージに立って歌う豊の顔をじっと見つめて、軽く手拍子を打っている。豊は商売とはいえ、今まで生きてきた中で、じっと見つめてくれる人はきっと母と睦子ぐらいだろうと思った。豊は幸せだった。ホステスでなかったら、きっと求婚しているだろうと思った。

  あの美しい瞳で毎日見つめられたら、この世の最高の幸せに間違いないだろうと考えた。朝起きて、会社に出かける時に見送られ、背中に視線を感じて歩く。帰宅したときは扉を開けてにこやかに『一日ご苦労様でした』、と感謝のまなざしで見つめてくれる。そんな睦子は最高のパートナーかもしれない。でも、それは、対価を支払い、安直にたまたま手に入れたような間柄なのかもしれない。この『エンゼル』に来なければなかっただろうし、客とホステスでなければ、こんなに簡単に仲良くなるはずはなかった。豊は、水商売というジャンルが、男女にとって如何に癒しと安心と素敵な出会いを与えるか、最近良く判って来た。しかしながら、金の切れ目が縁の切れ目というように、如何に壊れやすいものであるかも良く判っているつもりだ。だから睦子が大好きだったが、反面覚めているという、ジキルとハイド的な自分の二面性に、嫌気もさしていた。それでも彼女に逢って、おしゃべりをして過ごすその時間は、華麗な楽しいひと時であった。 


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消えてしまった睦子Four years before

  真夏の激しい日差しが弱まり、夕暮れの時間が早くなった十月の始め、豊は今日も『エンゼル』のドアを開けていた。

「いらっしゃいませ、豊さん」

  今日はママさんの姿が見えない。マスターは奥で頭を下げてこちらに挨拶している。

「今日、ママはいないの?」

「ええ、ちょっと不幸があったので遅くなるってさっき連絡が入ったので、今日は私が頑張ります」

  睦子はおしとやかに笑った。コスモスの花のように爽やかだ。今日は水色のワンピースだ。とてもよく似合うと豊は思う。睦子は豊のグラスにビールを注ぐと、おずおずと話し出した。

「今日は大事な話しをしたいので聞いてくれます?」

「何だい改まって。深刻な話じゃないよね」

  と豊は緊張して微かに笑う。

「今日は思い切って告白します。私はこの店に来て初めて豊さんに出会った時から好きでした。貴方は私の心をとても癒してくれる人でした。貴方の一言が、やさしく私の心を掴んで離さないのです」

「そんなことを突然言われるとびっくりするよ。それに僕のほうが癒されてきたし・・・・・・」

  思わず豊は口を挟んだが、すぐ睦子の言葉を遮ったことに気づいて黙った。

「私は今日初めて本当のことを言います。実は言い出せなかったのですが、私と貴方の今後のことを考えると、必ずわかることだからちゃんとお話しします。実は一年前、ある男性と離婚しています。印刷会社の営業をやっていた人で、新婚当初は良かったのですが、段々と考え方の違いが見えてきて、最後には喧嘩別れしてしまいました。仕方がなかったのです。どちらも相手を見る目がなかったのですね。結婚の失敗で男性が何を考えているのか良く判りましたが、それからホステスの仕事を始めて、いろいろなお客様と接するうちに、今までの人生観が一八〇度変わりました。男性を見分ける力が、以前よりは少しレベルアップしたと思います。そして、前の店が都合で閉店したので、あるお客様の紹介でこの『エンゼル』に入りました。そこで、豊さんに出逢ったのです。嬉しかった。人間関係においては、相性というものの存在が、かなりの影響力を持つと思いますが、結婚で失敗した私は、少しはその相性というものの本質が判ったような気がします。豊さんと話していると、何か自然の緑のような優しさに包まれる気がします。それは一つのことに対して同じように笑い、あるいは同じように悲しめる空間、時間が持てるということです。しかもまったく違う性格なのにそうなのです。間違いなくあなたは私を癒してくれている大切な人なのです。そのことに気づいてから、貴方が来ない日は寂しくて、来店してくれた時は天にも登る思いがしました。出逢ってからもう五か月になりますが、私の思いは強くなるばかりです。今まで、私の過去について本当のことが言えなくてごめんなさい。今日はそのことを絶対に話そうと決めてお店に来たのです。言えて良かった。豊さん、私のこと嫌いになった?」

「いいやそんなことはないよ。君がバツイチだっていうことを聞いて、ちょっと信じられないけど。でも、睦子さんが僕のことを好いてくれていたことは嬉しいです。僕も睦子さんが好きです」

  豊は彼女の突然の告白にびっくりしたが、嬉しいことも事実だったので、素直に答えた。睦子は少し顔を赤らめ、豊の手を握った。豊はその少し冷たい華奢な手を握り返した。

「豊さん、唐突だけど、また、女性から言うのも少し変わっているかもしれませんが、結婚を前提にこれから付き合って欲しいのですが、どうですか?今日、このことをちゃんとお話しておかないと、いつ話せるか判らないので聞いてください。だって私は『エンゼル』という大きな水槽で、泳いでいる熱帯魚のようなものですもの。あなたが逢いに来てくれなければ、ここからは出ていけないのです。今度来られた時でも結構ですから、貴方の返事を聞かせてください」

  豊は睦子の結婚という言葉に驚いた。豊がこの店で睦子に対して時々抱く妄想の世界が、本当になりそうに思えたからである。しかし、すきっ腹に飲み始めたビールが効き始めてきて、頭の中がぼーっとする中、結婚という言葉から、豊は両親や親戚の顔を思い出した。なんだろう、すっきりしない思いが心の奥で渦巻いた。だけど睦子は大好きだった。人がいなければ告白を聞いた時、すぐにその細い体を抱きしめていただろうに。豊は飲み続けていくうちに、もう一人の豊がこうささやいているのを聞き取った。

『もう少し良く考えろよ。睦子は美人かもしれないが、商売女で、バツイチじゃないか。彼女のその過去に縛られて失敗するなよ。だから、すぐ返答しないで慎重に考えろ。あとあと後悔しないように・・・・・・』

  やがてお通夜を終えたママがお店に入って来た。客も二組ほど入って、いつものように賑やかになった。豊は他の客の接待を終え席に戻ってきた睦子に、 

「今日の話はとても嬉しかった。よく考えて、今度返事するよ。でも本当に今日はびっくりした」

  と言い、いつものように角を曲がるまで、手を振って帰路についた。すっかり涼しくなった風が、豊の背中を撫でていった。

 

  睦子の告白を聞いて数日がたったある日の夜、突然母から電話が入った。

「豊、元気にしている?」

「ああ、元気だよ」

  しばらく、父の仕事の様子や、健康のことなどを話した後、母はこう切り出した。

「三十歳を過ぎたようだけど、結婚相手は見つかったかい?」

「特にまだいないよ」

「だめよ。最近は草食系とか言われているけど、だんだんと生命力の弱い男性が増えているって言うじゃない。貴方は大丈夫?」

「大丈夫だよ。今日の電話はまたその話?」

「うん。親戚の紹介でいい人がいるんだけど、どう?」

  母は、その紹介したい女性の素性をまくし立てた。

「お母さん。とりあえず、その人の話は断っておいて。僕も考えがあるし・・・・・・」

「やっぱり好きな人いるのかい?」

「ちょっと気になる人がいて、実は求婚されているんだ」

「ヘぇー。そんな人がいたのかい。同じ会社の人かい?唐沢社長も親戚だから心強いけど」

「違うよ。会社じゃないよ。飲みに行った場所で知り合ったんだ。とっても素敵な人だよ。まだ言うつもりじゃなかったんだけど、あんまりお母さんが他の人を勧めるから言ってしまったよ」

「それって、もしかしてキャバクラとかの女の子じゃないよね?」

「違うよ。普通の小さなスナックに勤めている品の良い子だよ」

「え、嘘でしょう。豊、何でそんな女性に求婚されたの。水商売の女性じゃない。私は嫌です。豊は人が良くって、昔からだまされやすい性格だから心配していたんだけど、大丈夫なの。変な下心は無いのでしょうね?」

「あるわけないじゃないの。普通の大人しい気立ての良い女性だよ。とても正直な子で絶対に嘘をつくような子じゃないし、現にバツイチだってことも話してくれたし・・・・・・」

  豊は口ごもってしまった。バツイチの話を思わず言ってしまったことを後悔した。

「豊、しっかりしなさい。何でそんな女性と付き合うの。結局、言い方が悪いけど傷ものじゃない。そんな人を好きになるなんて・・・・・・」

  後は声にならない、普段は感情をあまりださない母だが、わが子を愛するが故だろう、携帯電話からすすり泣く声が聞こえてきた。

「お前は、だまされているんだよ・・・・・・。目を覚ましなさい。もっとちゃんとした人を私が探してくるから、お前が不幸になることだけは嫌です・・・・・・」

  豊は愛する母が泣くという状況に遭遇したのは、これで二回目だった。一回目と言えば、それは遥か昔、豊の反抗期が始まった頃のことだ。勉強している部屋に入ってきた母が、何かを言った際に、邪険に追い返したのだが、目に涙をいっぱいためて泣き出したことがあった。その時、絶対に母親を泣かせることをしないと誓った覚えがある。 

「大丈夫だよ。お母さん。両親を苦しめることだけはしないから。だから、しばらく、この話はお父さんには内緒にしておいてください。頼みます」

「万が一、豊がその人が好きで、求婚を受け入れたとしても、私達は認めないわ。結婚してあなたがみすみす不幸になることを、私たちが黙って見ていられると思いますか。豊、しっかりするんだよ」

  涙声の母はしばらく、哀願するように電話口で話していた。しかし、豊が家族を不幸な思いにさせることは絶対無いと誓うと、ようやく涙声がいつものトーンに戻った。また電話するからと言って通話ボタンを押し、携帯電話の蓋を閉めた。豊の心の中に冷たい大きな物体が通り過ぎていった。目に涙が浮かびそうだった。

 

  睦子の告白を聞いてから二週間がたった。今日は睦子に返事をする日である。『エンゼル』のドアを開けたが、心なしかいつもより重く感じた。

  豊はカウンターから一番遠い、入り口の側のソファに身を沈めた。ママさんが出勤してきて挨拶をすると奥へ入っていた。睦子は薄いイエローのワンピース姿で現れると、にこにこしながら豊を歓迎した。

「いらっしゃいませ」

  睦子の語尾は少し震えていたような気がした。豊は笑っていたが、少し引きつった表情だった。ビールを注いでもらった。睦子は飲まなかった。しばらくたわいのない話をしていたが、客がまだいなかったので、豊は先日の返事をしっかり話しておこうと切り出した。

「睦子さん。こんな素晴らしい美人の睦子さんが、僕のことを好いてくれて本当に嬉しい。あれから色々なことをずっと考えたよ。結論を出すのは本当に難しいと悩んだ。こんなとりえのない三枚目の僕を、優しい人間だと思ってくれる人は、これから先の人生で、出逢えるかどうかとも考えた。それで昨日やっと結論のようなものが出た。それは・・・・・・」

「怖いわ。でもしっかり聞くから言って頂戴」

「酷かも知れないけど、やっぱりこのままの関係で『エンゼル』に通うというのではだめかな?僕には自信がないんだ。睦子さんが苦労して、離婚してきたのに、その人を支えて一緒にうまくやれるか。こんなことを言うとマザコン、ファザコンと言われそうだけど、両親はいつも口をすっぱくして、離婚した人とは一緒になるなって言っていたし・・・・・・」

「やっぱりだめかしら。それにこんな仕事をしていることもひっかかるの?」

  豊は声を出さずに頷いた。

「でも、僕が君を大好きなことには変わりはないよ。これだけは本当だ。ただ、結婚という一つの法的な実行は、僕だけではない親族がらみの話になるでしょう。そうなると難しいんだ。もう一度言うけど、このままお店に遊びに来て、楽しい話をしているだけではだめかな?睦子さん」

「それは絶対に嫌です。豊さんと同じ風景を見て、同じ家に住み、同じ時間をずっとずっと過ごすことが私の夢なのです。私をこの大きな水槽から出して連れて行って欲しいんです。貴方の側で自由に泳ぎたいんです。だめでしょうか?私じゃ」

「好きだけど。結婚となると・・・・・・」

  しばらく沈黙が続いた。店内にバックグラウンドミュージュックが流れている。聴きなれたラブソングだと豊は思った。

「豊さんに断られたら、私は『エンゼル』を辞めようと思っていたの。もう逢えなくなるね」

「え、嘘でしょう。僕のせい」

  睦子は小さく頷いた。

「それではあまりにも唐突だよ。睦子さん。もう少しゆっくり考えて結論を出してもいいんじゃない?」

「いいえ、豊さんがノーだったら、私はそうしようと決めていました」

「・・・・・・」

  豊はそれ以上何も言えなかった。また、沈黙が続いた。カウンターの中にいたママが、二人の間に流れる沈んだ雰囲気を察知したのか、努めてにこにこしながら出てきた。それっきり、豊は睦子と閉店まで話さなかった。

  別れ際、やっと言葉を交わした。

「またね。さようなら」

  そう言うと、角の曲がるところまで小さく手を振っていた睦子。豊は彼女との間にある溝をまたぐことが出来なかった。その夜、睦子からいつも来るメールはなかった。豊は冷却期間を置こうとあえてメールはしなかった。

 

  役員の加藤と『エンゼル』に豊が足を運んだのは、それからまた二週間ほどしてからだった。睦子は本当に辞めていた。ママに聞いても引っ越したらしく、消息はつかめない。慌ててメールをしたが、メールも届かない。豊は、彼女の発言を半信半疑で聞いていた部分もあったのである。もう、あの日には戻れない。豊は失ってから初めて睦子の存在の大きさに気づいた。浅はかであった。馬鹿であった。もっと良く考えれば、違う結論を出すことが出来たかもしれないのに。

  自分のマンションに帰って、シングルベットに横たわると、彼女の面影が天井に浮かんだ。涙が両目から滑り落ちた。『睦子、睦子』と名前を呼んでも、ただ虚しく部屋中に響くだけだった。

  数日後、豊は『エンゼル』に電話をしてみた。カラオケで歌う男の騒々しい音が背後に聞こえ、ママの声が響いてきた。睦子のその後の動向を聞いたが、何も情報がないとママは言う。

 

  そして、ついに消息は判らず仕舞いで正月が来た。この年の正月は、郷里の山梨で暗い気持ちで過ごした。ぽっかりとあいた胸の空間が疼くのだ。それからしばらくの間、後悔の念と心の傷は癒えることがなかった。ただ、長い時間は、豊の本心が、睦子と一緒になりたかったということを、気づかせたのである。好きな人を自分の責任で選ぶ勇気がなかったのであろうか。


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新入社員の秋元美織Two years before

  秋本美織は、一ヶ月の研修期間を終えて、小林株式会社の経営企画室に五月に配属された。六ヶ月間は見習い期間だが、臆することなく着々と先輩について業務内容を学んでいった。経営企画室は、唐沢浩二社長の経営に関する打ち出しをサポートし、その経営方針や理念を的確に会社組織や社会に向かって周知徹底し、実行指揮をとる部門である。人間で言えば、頭脳の部分にあたると言えるであろう。豊のいる広報室はその中枢部門から社内、社外に向かってわかりやすく情報を知らせる部門である。人間で言えば口で語ることであり、身振り手振りの振る舞いであり、手で書くことであり、キーを打ちメールを発信し、フィードバックしてくる貴重な現場の声を咀嚼する部門である。つまり経営企画室と広報室は、非常に似通ったエリアの中で仕事を持ち、経営者と一体にならなければならない重要部署であった。そして八階のフロアは、唐沢浩二社長を中心に、揺れる戦艦のようであった。

  豊は時々経営企画室の部屋に入ることがある。あの時、ファインダー越しに見て美しいと思った新入社員の秋本美織が、一生懸命にパソコンに向かっている姿を見ると心が弾んだ。睦子に似た大きな瞳と、その上品な顔立ち、仕草、声の響きに、心が洗われるような気がした。睦子を失ってから、一年半以上過ぎても傷は癒えなかったが、美織はその傷口を優しく包むような力があった。

  ある日、豊は小林株式会社のホームページに入った株主からのメールを、IR担当の美織に転送した。その時、事務的な言葉の他に、一言副えた。豊の美織に逢えた嬉しさが文章からにじみ出ていた。

 

  尊敬する美しい秋本様

 

  今日はまた笑顔の貴女を拝見できてうれしく思いました。

  広報室の片山さんも貴女の笑顔は素晴らしいと話をしておりました。

 

  今日の新聞のコラムに六秒と六分という話がありました。人間は出会った瞬間の六秒で相手を判断するといわれているそうです。

  警戒する人か良い人かを判断します。中でもその時の笑顔が一番相手の心を溶かすそうです。

  良く笑顔でも目が笑っていないとかありますが、顔の筋肉四十四本を総動員して素直に笑うと相手を感動させますね。

  六分というのは色々やり取りをする時間ですが、この時間でほぼ相手を特定してしまいます。

  このときに飾らない素直な笑顔が相手を魅了するのは自明の理でしょう。つまり心根の美しい人は自然にそれができるのでしょうね。

  まさに秋本さんはそんな素晴らしい人です。

  ――といつも思っている大ファンの竹内でした。

 

  夕方、外出先から帰った豊が、パソコンの着信メールの表示があったので、少しドキドキしながら開くと、思いがけない優しい言葉が心を揺さぶった。

 

  尊敬する竹内様
 

  ありがとうございます。 どうこの喜びを伝えられるのか・・・・・・。 感謝してもしきれないくらい、すごく嬉しかったです。 竹内さんからのメール、とっても感動しました。 元気が湧き出てきました。
  最近は、見習の美織にも、いろいろな仕事が入り、ばたばたと忙しくなってきました。ですから少し精神的に煮詰まるとふっと気を許し、癒されることを期待して広報室に行くのですが、冗談を交わす竹内さんがいないと、寂しく思ったりすることもあるんです。
  でも豊さんのメールに本当に元気付けられました! ありがとうございます。 やっぱり『笑う』って大切なことですね。 竹内さんの文章には、人の心をほぐす力があります。 私は竹内さんから勇気と元気をいただいている一人です。 これからもずっとずっとお付き合い下さいね♪
  竹内さんからのメール、大切に保存しておきます。 めげそうになったとき、メールを読んで、また元気いっぱいに仕事ができるようにしますね☆
                                                                                                          秋本


  豊は彼女の飾らないストレートな感謝の言葉、思いがけない尊敬を含んだ言葉に心が震えた。睦子と別れてからの日々の苦しみが、少し記憶の彼方に押しやられるような気がした。 

  数日して、豊はまたホームページに入ったIR関係の顧客メールを、美織に転送する際、私信も添えた。  

 

  いつもすがすがしいお美しい美織さま

 

  最近考えていること書きます。

  心配性のA型気質の呟きです。

 

  ●将来起こる不安にさいなまれる日々に対抗するため

  ――生きていることへの感謝、幸せな気持ちを先送りしないために――

  そのためにはほんの少しの練習で済みます。

 

  一 感謝の気持ちを思い出す

  今まで会った人たちへの感謝を思い出す訓練をしましょう

 

  二 楽観的な生きかた

  楽しい理想の生活をたくさん思い浮かべてみましょう

 

  三 自分の長所を伸ばす

  美織さまの優しいところ、へこたれないところ、明るいところなどをイメージしましょう

 

  四 幸福を感じた出来事を数える

  家族や友人や恋人との楽しい時間や何かに成功した瞬間を心によみがえらせましょう

  

  五 一番大事なこと、他人のために尽くす自分

  周りの人たちが喜ぶことをしてあげることや、大きく言えば社会に貢献することによる充実感を味わいましょう

 

  以上、ここ一年ほど豊が鬱の状況でしたから、それから抜け出すために考えたことです。

  ※複数の大学の研究機関のデータや、色々な本も参考にしましたけどね(笑)

                              美織ちゃんの大ファンのユタカでした。

 

  次の日、美織から返信メールが入っていた。

 

  ユタカさま
  ユタカさまの文章は、やっぱり思わず人の目を留めさせ、 ひきつける、そんなパワーがありますね。

  近頃は忙しくてついつい血走っている(?)私の目も思わずユタカさまの温かいメールにひきつけられました。

  そしていつものように元気というか、気力がみなぎってきました☆ やっぱり、このメールもちゃんと保存しますね。 この間もらった笑顔のお話も、実はちょくちょく読んでいますよ! 心から癒されるメールに、本当に感謝しています。 いま、この瞬間から、ほんの少しずつ、ユタカさまの言われたことを練習し、実行していきたいと思います。
                                                           美織より

  追伸

  尊敬する竹内さんへ

  ホームページへのお問い合わせの件、メールで返事をしておきました。 前にもお問い合わせをくれた人でした。
  今日は残業をしてはいけない日ですね! そろそろパソコンをOFFにします。 おつかれさまでした!


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