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vol.1 秋水「十九試局地戦闘機 秋水(しゅうすい)」

ヨーロッパ戦線でドイツ空軍がすでに実戦配備していたロケット推進戦闘機Me163「コメート」の技術供与を受けるべく、1944年4月、日本海軍の伊号第二十九潜水艦は、当時最新鋭のジェット戦闘機Me262と両機種の資料を積んでドイツ占領下フランス・ロリアンを出発した。しかし、事実上制圧されているインド洋、東シナ海を攻撃されず無事通過して日本に帰還するのは奇跡的な事で、案の上、占領下であったシンガポール沖バシー海峡で米海軍潜水艦「ソーフィッシュ」に撃沈されてしまった。当然、積まれていた資料は文字どおり海の藻屑となってしまったのだが、不幸中の幸いな事に、或いは最悪時を想定していたのか、その中の一部資料をシンガポールから空路別便で日本に持ち運ばれていた。おおまかな機体設計や推進機関部であるロケットエンジンの簡略な原理図、構造図、燃料の成分表とマニュアル、報告書等が主に残された資料ではあったが、勿論完全どころか不明点だらけであり、知識も時間も材料も無い中で異例の陸海軍共同開発、製作三菱という官民合同のかたちで試作完成を目指す事となった。秋水が開発されるにあたり、日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは画期的な事であった。官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍が主導で行うこととなった。これは陸軍で「特呂二号」、海軍で「KR-10」と呼称された。しかしここに来て三菱は無尾翼機の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答したらしい。しかし海軍航空技術廠が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。

*ロケットエンジンの開発
秋水に搭載された、特呂二号。外見はMe163等に搭載される、HWK109-509のエンジンに酷似してる。後ろには切り離し式の車輪も写真も見える。機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。しかしロケットエンジンという未知のエンジンの開発にレシプロエンジンでつちかった技術はほとんど役に立たなかった。当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に2基が完成しているはずであったが、1944年12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。さらに同年12月には東海地区を東南海地震が襲い、B-29による爆撃も開始された。このときにエンジン開発を行っていた三菱航空機名古屋発動機研究所が壊滅し、研究員は資料をもって横須賀市追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。

*専用燃料の開発
秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」はMe163に搭載されていたヴァルター機関HKW-109/509A型のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。燃料は燃料概念図を参考にし、濃度80%の過酸化水素を酸化剤に、[メタノール57%/水化ヒドラジン37%/水13%]の混合液を化学反応をさせるというシステムである。日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。また安定剤兼反応促進剤として甲液にはオキシキノリンとピロ燐酸ソーダを、乙液に銅シアン化カリウムが加えられた。これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。なお、乙液の配合については、理化学研究所の女性化学者、加藤千世博士のアドバイスを参考にしており、戦前日本の航空機開発に女性が参加した希有な事例となっている。

*飛行試験/滑空テスト
全木製の軽滑空機MXY8「秋草」が1944年12月26日に、海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉によって滑空飛行テストを行った。滑空機としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。1945年1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った。

*動力飛行テスト
設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、海軍横須賀航空隊追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10(特呂二号)は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(海軍機関学校五十二期)と彼によって特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。

*試飛行──離陸は成功したが…。
紆余曲折を経て、開発関係者の努力の結集の元、ついに資料入手のほぼ一年後の1944年7月7日、追浜飛行場で試飛行の日をむかえた。午後4時55分、テストパイロット犬塚大尉の操縦でロケットエンジン特有の轟音、噴炎を残し滑走、そして離陸。確認した三一二空飛行長山下政雄少佐が離陸成功の白旗を掲げた。連動するはずの尾輪は上がらなかったが高度10メートルで車輪が離脱、直後急上昇に移った。安定した飛行ぶりで高速上昇し、苦労が報われ歓喜の一瞬と思えたのも束の間、高度350~400メートルほどのところで「パンパンパン!」と異常音と共に黒煙を吐きエンジンが停止した。そのまま直進し下降すれば東京湾に不時着水する事となり、トラブルを想定してすでに本牧あたりまで救助艇を待機させていた。
廣瀬大尉から飛行前のブリーフィングでその事は何度も念を押してあったはずだが、高度不足にもかかわらず右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、やがて甲液の非常投棄が始まった。しかし、非常投棄はなかなか進まず思いのほか早く高度が失われていった。残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触、そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した。事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。しかし燃料の取り出し口はタンクの最前部上面に取り付けてあった。これでは急上昇の際に液面が傾くと燃料を吸い出せなくなる。さらに試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなりエンジンがストールを起こしたと結論付けられた。
ただちに試作二号機が製作に入ったが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われて頓挫。開発陣の中には「秋水は、昭和二十一年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいる。秋水の実戦配備に向けて編成されたのが第三一二海軍航空隊である。昭和20年2月5日付、柴田武雄大佐を司令とし、厚木飛行場を原隊として横須賀で開隊されたが、要員の育成は半年前の昭和19年8月10日より始まっていた。大村海軍航空隊元山分遣隊から16人を選抜し、百里飛行場で中間練習機・滑空機による飛行訓練を実施していた。開隊はしたものの、秋水の製作は遅れ、機体搬入は3月、エンジン搬入は6月にずれ込んだ。初飛行の失敗に加え、2号機の製造にも失敗したため、三一二空は一度も秋水を運用することなく終戦を迎えた。

*量産化および運用計画

秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。秋水量産計画は安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造し東京周辺の飛行場に1945年3月に155機、1945年9月に1,300機、1946年3月に3,600機を実戦配備するという無茶苦茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163Bがそうであったように滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が鍵であり、当時の日本にはとても望めるものではなかった。実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。さらに燃料というべき甲液、乙液は一回の飛行で2トンあまりを消費する上、生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。たとえ、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは火を見るより明らかであった。大平洋戦争末期、あらゆる資源は底を尽き、陸海軍のみならず日本国民の殆どが敗戦を予感しつつも起死回生的大逆転を悲願していた中で開発され、たった一度だけだったが試飛行できた唯一の帰還(生還)を想定したロケット推進戦闘機であった。たらればは無意味だが、もし半年早く実戦配備されていれば東京大空襲10万人以上の犠牲者の内、何分の一いや、何十分の一かの民間人は救われたかもしれない(上記説明からすれば矛盾するが希望的見地として)或いはそうなったとして単純に戦争が長引くだけだったのか...。

空を覆い無気味な轟音で来襲するB-29群に対し、
実戦配備され海軍濃緑色塗装(試飛行時は黄橙色)の機体で果敢に迎撃に向かう「秋水」



Vol.2 震電

今回も引き続き劣勢挽回を期待されつつ間に合わなかった戦闘機「震電」について綴っていきたいと思います。ファン、マニアの方にしてみれば開発からのいきさつと言い、解りきっている事であり、きちんと記されている文献、資料は多々有るので、私としては、しかられるかもしれませんが出来るだけ知りえた知識の中で、小松崎茂氏的観点を思慮しつつ独断的に且つ、憚り無く語っていこうと思います。

「震電」造られたその背景
1944年10月以降は大平洋戦域でアメリカ軍にあらかた制圧され、マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムに配備されたボーイングB-29が日本本土各都市の主に軍事施設から爆撃し始めた頃、1万m前後の高度で飛行侵入してきたB-29を、迎撃する日本機は同高度に上がるのも困難で、上がれたとしてもスピードが出ず、同高度で攻撃を仕掛けるなど返り打ちに遭うだけであった。高々度飛行時でも出力安定できる排気タービンエンジン搭載のB-29に対し、迎撃する日本機の大方のエンジンは簡略型の一段二速式過給機しかついていないので高々度での薄い空気の中では出力が極端に落ち、良くて追いつくのがやっとであり、ときに追跡さえもできなかった。昼間迎撃には、主に単座戦闘機が使用されたが、この様な対B-29の性能差から一撃必殺の震天、回天制空隊による体当たり攻撃(特攻)も行われた。
この頃、陸海軍ともに隼、零戦の後継である疾風、紫電改と新鋭機が完成し配備され、両機は同型高出力エンジン搭載で速度性能や武装力は上がったが、肝心の高高度性能は若干良くなった程度で、満足できるレベルでは無く、練度の高い操縦技術でのカバーが必要だった。B-29群を主力とした本土攻撃は苦戦が続き日をおって被害が拡大し、一刻も早い「高性能局地戦闘機」の完成を望まれていた。資源的にも底を尽き、製作技術水準が低い状況で一矢を酬いる為、既製の概念から脱却して、当時の日本情勢の中での究極の局地戦闘機を作ろうとしたわけである。対してアメリカは石油、金属等、資源的にも潤沢豊富、製作技術水準も高く、開発実施環境も日本よりもはるかに整備され、時間制約を除けば、(米軍にして見れば出来るだけ早い戦争終結を望んでいるので日本の降伏をうながすため短期で戦略的に最新鋭の兵器を投入したいと考えていた)完成度、生産量とも圧倒的に凌駕していた。当時、軍用機の生産ラインは各航空機メーカー24時間フル稼動で、三菱は開発期間の長かった雷電の生産及び改良、中島は陸軍機の疾風が完成したばかりであり、愛知、川西も同様に新鋭機、愛知「彗星」川西「紫電改」の生産と稼動機のサポートで手いっぱいであった。そこで対潜哨戒機「東海」が試作設計を完了し量産体制に入って幾らか手薄になった九州飛行機に新鋭機製作依頼の白羽の矢が当ったのである。

前翼型戦闘機の開発
さて「震電」と言えば前翼型(エンテ型)として有名である。航空機の概念としては特に目新しいものでなく、航空史上に刻まれる、初飛行のライトフライヤーはプッシャー(推進)型・前翼構造であった。その後1927年、ドイツ・フォッケウルフ社の民間機であるF19、アメリカ軍用機XP-55アセンダー、同じくイギリスのマイルズ・リベルラー等があった。(ただし、どの機種も生産数は非常に少なく2国の軍用機は試作レベルで終わり量産していないので評価は不明)前翼型の利点として、エンジンを後方に取り付ける事により、機首がテーパーにでき、空気抵抗の減少につながりスピードUPが謀れる。さらに前方視界がよくなり、戦闘機において重要なポイントである機銃の命中精度が格段に向上できる。従来(牽引型、後記注2参照:零戦・隼等のプロペラが機首側タイプ)の単発戦闘機に装備される機銃は、前方胴体部搭載の場合、プロペラ同調装置の関係上、大口径機銃は多数設置できない。また、主翼部搭載の場合、左右両弾が発射され、交錯点が照準位置になり、弾丸が集中するのはその1点だけで、近すぎても遠すぎても散らばるので痛撃を与えにくい。機首にまとめて装備すれば、敵機が直前方のどこにいても射程距離内なら集束弾を撃ち込みやすい。条件は制約されるだろうが、実現でき成功して実戦配備すれば、軍部が追い求めていた圧倒的劣勢を挽回できる対B-29局地戦闘機になりうるのである。この新鋭機を発案し、開発設計を担当したのは海軍空技廠部員の鶴野正敬技術大尉であった。
彼は前翼型戦闘機の効率のよさに興味を抱き、前途の多難を恐れず研究を続け、1944年1月同型全木製の実験機(小型エンジン付モーターグライダー)の飛行に成功し、同年5月正式に九州飛行機の製作が決定したのである。航空本部は「震電」の試作を急がせ、10ヶ月後の45年1月に完成予定とし緊急突貫作業に入った。44年8月に風洞実験を概ね終了し、9月にモックアップ(実物と同じ形状・大きさの木製模型)が完成した。11月、同時進行中であった通常1年半は掛かる製図作業を僅か半年で約6000枚の図面を書き上げ完了、ただちに試作機3機の製作にかかった。「震電」は、なみはずれた高性能ゆえ様々なアイデアや新技術を採用しており、担当技師は統率者である鶴野部員と相談しつつ新たな領域に挑戦していった。日々戦況が悪化する中、技術関係者たちは材料の調達、工作技術の不備にもめげずときには徹夜で作業は続けられた。九飛社内での作業は常に試行錯誤があり決して順調とは言えなかったが概ね進行していった。しかし問題は外注部品であった。12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、マグニチュード8規模の東南海地震及び震災直後から断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受け開発の大幅な遅延に繋がった。3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に運ばれた。電装系部品は、設計ができていても高い工作技術が要求されるので、製作受注をなかなかとれずこれも遅れる原因となった。

完成、そして..敗戦
6月初旬、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。中旬から下旬にかけて、最終的な整備と点検があり空技廠による完成審査を終えてついに7月中旬、初試飛行の日を迎えた。主任設計者であり、この操縦を主張した鶴野技術少佐(3ヶ月前に昇進)がテストパイロットに決定していた。期待と不安が錯綜しつつ操縦席に入り、エンジン始動。滑走を始めスピードが上がり、離陸直後機首を上げたところ、舵角がつきすぎてプロペラ端が地面に接触して6翅とも先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。
8月3日、二度目の試験飛行日の朝がきた。テストパイロットは引き続き鶴野少佐自身強く望んだが関係各技師らに「いま死なれればJ7(震電製作計画)の見通しが立たなくなる」と引き止められ、九飛所属の宮石義喬操縦士(操縦技術は鶴野少佐より格段上)に引き継がれた。午前中、蓆田飛行場格納庫で整備が終わり昼になる頃、滑走路に「震電」が運び出された。燃料給油、飛行前の最終点検を終えいよいよパイロットが乗り込むときがきた。宮石操縦士は整列した関係者に向かって敬礼し、機体に掛けられた梯子をつたい搭乗した。プロペラが回り始め冷却ファン独特の音が響く。機が動き始め滑走にはいった。スピードが上がり離陸。カウンタートルク(注1)の影響で右に傾きながら上昇していく。一年間不眠不休の作業を続けてきた鶴野少佐各技師他、携わったすべての関係者の苦労が酬われた瞬間であった。脚を出したまま約15分間の飛行後、やはり右傾姿勢だがみごとに軟着陸した。無事飛行を終えた宮石操縦士は一同と熱い握手をかわし、カウンタートルクによる傾き、ブレーキの制御性、操縦桿のガタ、操舵の重さなど問題点を述べた。
続く6日、8日、両日とも同様に各15分程試験飛行を行い、エンジン系統に噴射燃料濃度の過多や油温過昇などトラブルが発生したがほぼ解決し、右傾問題も前翼やフラップ角の調整による対応策がとられ、ようやく17日の全速試飛行を待つばかりになった。
8月15日、玉音放送。日本の無条件降伏で終戦をむかえた。翌16日九飛社内は、やりきれない敗北感とともに、量産も目前に控えて昂揚感がピークであっただけにひどい虚脱状態であった。「震電」に心血をそそいできた技師らは海軍命令により自らで関係書類や資料を機体や部品と共に焼却する事となった。くやし涙をうかべ、技師の命と言えるものを焼却後、海軍から試作1号機のみ破壊するなと命令が出され、すでに風防など破損していたが、主に外形を修復し胴体と主翼に分けられ木箱に梱包し、アメリカに引き渡された。現在、ワシントンDC、スミソニアン博物館の倉庫のかたすみで、その「震電」が分解状態のまま眠っているという。

(注1)
単発機に搭載されるエンジンの出力が増大するに従い、プロペラによる推力が有効的に得られずプロペラの回転方向とは逆に機体が傾いていく反作用の力である。双発機の場合、左右の翼に搭載されたエンジンのプロペラ回転方向をそれぞれ逆にすることによって、これを相殺でき、飛行姿勢の安定が可能になる。なお、スクリュー回転を利用して推力推進を得る船舶も、空力と水力の違いはあるが、原理的には同様なので、航空機ほど挙動が顕著ではないがカウンタートルクが発生する。


ジェット化構想
震電のジェット化構想について、現在知られている最も有力な根拠は元九州飛行機設計部第1設計課副課長、清原邦武氏の証言である。清原氏は航空雑誌への寄稿で以下のように述べている。
1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。
震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。
石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。しかし実際に製造された震電についてはジェット化を考慮して設計されたという具体的な記録がない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。また、搭載予定であったジェットエンジン、ネ-130自体の開発が遅々として進んでいなかった。終戦時ですら未だに全力試験にとりかかった所であり、しかも問題は山積であったという。これはその前身であるネ-20が様々な致命的欠陥(タービン翼取付部の熱による膨張、変形に伴うサージング及びディスクの破断、タービン軸受の焼付き等々)を抱えており、「橘花」の試飛行でもその問題は未解決のままであったこと。またこの欠陥によりネ-20が全力運転で設計耐久寿命が僅か15時間(試作エンジンでは通常回転で最長4時間しかもたなかった)という脆弱なエンジンであり、ジェットエンジン生みの親、ホイットルの造った初期のエンジンでさえ500~700時間の耐久時間があった(ホイットルはタービン翼付根の問題の解決法を既に開発時考案していた)ことを考えると実用には程遠かった。更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロム等)がほぼ払底しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる。

タラレバなあとがき
第二次大戦期において日本軍用機のみならず世界的に見て、性能は別にしてもかなり異形の部類で賛否両論ありそうだが、今見ても洗練されているスタイルじゃないかと思う。知る人ぞ知る、近未来架空世界での戦闘機パイロットを描いたアニメ映画「スカイ・クロラ」の中に「散華」と言う戦闘機がまさに「震電」に酷似しており、てっきりモデルにしたんだろうなと思いこんでいたのだがそうでは無く、実際に飛びそうなバランスの良いレシプロ単発単座のプッシャー型(注2)を目指した結果、似たスタイルになったようだ。戦闘機は戦事、或いは国防状況により軍などから要求性能を提示され、時間やコスト面等、様々な制限の中で開発される「航空機」だが、「震電」はレシプロ単発単座と言う枠で考えても、理想のスタイルを持った戦闘機ではないだろうか。ただ「震電」が量産されたとして、当時の直面した問題は「震電」を生かしきれるパイロットがどれだけいたかである。大戦末期、操縦技術の高いパイロットが激戦や特攻で散り(まさに「散華」)亡くなっていく中で、練度が低く実戦経験も少ないパイロットにこの操舵性がシビアであっただろうエンテ機を、実戦で乗りこなす事ができたのか。二年、いや一年でも早ければ小松崎茂氏が想い描いた空戦シーンが現実にあったかもしれない。そう言う意味でも遅すぎた戦闘機であった。

推進型(プッシャー型、Pusherconfiguration)とは、航空機においてプロペラが機体後部に設置されている形式のことで、プロペラの回転によって生ずる空気の流れは機体を"押し出す"形になる。これに対して牽引型(トラクター型、Tractorconfiguration)では、プロペラが機体前部に設置されるため機体を"引っ張る"形になる。因みに「スカイ・クロラ」の「散華」は2重反転プロペラ(各3翅)であり、「震電」は左回転プロペラ(6翅)である。2重反転プロペラとはカウンタートルク(注1参照)による機体の傾きを防ぐためプロペラを同軸左右両回転させてそれぞれの反作用を相殺させる回転機構。推進力となる気流は一重プロペラだと片方向の渦巻き状になるが、半回転二重プロペラによって乱れた気流をきれいに整流する。

小松崎茂画 B-29の撃墜に向かい30mm機銃で攻撃する「震電」



Vol.3 鐘馗(しょうき)

Vol.1.2と、試作機で終わってしまった戦闘機について綴らせていただきましたが、今回は実際に配備され、あらゆる戦域で活躍した2式単座戦闘機「鐘馗」にスポットをあててみたいと思います。「鐘馗」は第二次大戦戦闘機のなかで、その武骨なスタイルや、華々しいエピソードが余り無いばかりか、操縦の難しさから「殺人機」呼ばわりされ、地味で不名誉な印象を持たれている部分もある様です。そんな汚名返上の意味もこめて、隠れた名機「鐘馗」を語っていきたいと思います。

「鐘馗」誕生その背景
ノモンハンでの戦闘
1937年7月、盧溝橋で宣戦布告無しで始まった事件から日中戦争(シナ事変)に突入した。当時の日本陸軍航空部隊の主力戦闘機は川崎九五式戦闘機(キ10)であった。複葉機であったが、機首に7.7mm機銃2挺を備え、高度3,000mで最高速度397km/hを出せた。片や中国空軍は、英伊独ソから輸入した雑多な飛行機での「雑種部隊」で、日本航空部隊に対抗しうるものではなかった。同年8月、中国とソ連の間で不可侵条約が締結されてから数カ月の間に、ソ連から中国側に多大な航空機が流れ込み、それと共にソ連の義勇軍パイロットと技術者も送り込まれた。それまで劣勢であった中国空軍は、ソ連側の援護を得て日本側に大きな抵抗となった。しかし、暗雲たれこめて来た欧州戦争の影響でソ連は自国への需要が増え、中国への供給を縮減せざるを得なくなり、中国空軍は戦力の低下を余儀無くされた。明けて1938年4月に、主力機を川崎九五式戦闘機(キ10)から単葉機の中島九七式戦闘機(キ27)に移行し、武装機銃の変更は無かったが、空戦性能が向上したこの新鋭機に、ほぼ壊滅状態にあった中国空軍の崩壊が一層加速されたのである。1939年5月、満州とモンゴルの国境争いから(満州国境警備隊が羊の群を追ってハルハ河を渡ったモンゴル遊牧民を川向こうに追い返した翌日、モンゴル騎兵が渡河し満州国軍を攻撃した。関東軍司令官はモンゴル軍の傍若無人に激怒、ただちに歩兵と航空部隊をノモンハン平原に急行させた)、ソ連が介入してきたノモンハン事件が勃発した。対中国での戦闘では、戦闘機が殆ど複葉機の各国混成部隊である中国空軍と比較して、日本機は性能差において凌駕し、事実あらゆる空戦で優位であった。しかしノモンハンでの戦闘は、対戦敵機は、当然、全ソ連機であり、編成が時に迎撃に向かう日本部隊の2~5倍以上で襲来する事もあった。ソ連機は当時主力であるI-16で、スペック的には九七式戦闘機も含め同時期の他の戦闘機に遜色なかった。しかし格闘戦になった場合、優れた格闘性能を持つ九七式戦闘機の敵ではなかったのである。この戦いの前半、日本側は九七式戦に優利な格闘空戦にもちこみ、多くのソ連機を撃墜し、大きい戦果がもたらされた。しかし後半、ソ連空軍はスペイン内戦に従軍していたベテランパイロットを投入してきた事もあり、ソ連側は対抗手段として重戦の性能を生かした上下機動による「一撃離脱戦法」で日本側は劣勢に傾いていった。その頃、陸上戦も含め苦戦を強いられていたのだが、ソ連側もヨーロッパ戦線のドイツとの戦いの準備もあって、お互いの消極的な利害関係の中(日本側の限りなく敗北であったのだが当然、日本はそれを認めなかった)休戦協定が締結された。

軍用機の設計思想
第二次大戦期頃までの戦闘機の設計思想のひとつとして「重戦闘機と軽戦闘機」がある。機体重量に対し翼面積が小さい機体を重戦(重戦闘機)と呼び、大きい物を軽戦(軽戦闘機)と呼び、この比率を翼面荷重という。従ってその名称とは裏腹に、実際にはエンジンが同一であるなら翼面積が小さい重戦のほうが軽量となる。基本的にエンジン出力が同じ場合、重戦は軽戦に対し垂直面での機動を得意とし、軽戦は水平面での機動を得意とする。また、速度も重戦の方が優速である。重戦と軽戦の境界においては諸説あるが、第二次世界大戦前後の日本ではおおよそ130kg/mが境界と考えていた。因みに日本陸海軍主力機である各機の翼面荷重は以下のとおり。
零戦21型 107kg/m2
零戦52型 128kg/m2
隼 117kg/m2
なお、重戦と軽戦という戦闘機のカテゴリは日本陸軍によるものであり、他国や日本海軍にはそういうカテゴリは存在しない。上述の「各国の戦闘機は重戦化へと進んでいく」というのは、各国の戦闘機そのものが日本陸軍でいう軽戦的性格のものから重戦的性格のものに移行していった事を示しているという事になる。

「鐘馗」の開発
第二次世界大戦時には、日本はともかく、各国の戦闘機は陸海軍とも重戦化へと進んでいく。具体的には、翼面荷重をより大きく取る設計へと移行していくのである。欧米や他国の傾向と言うより、ノモンハン戦において格闘戦法そのものが最強・万能では無い事を思い知らされた陸軍航空部は、格闘戦重視のキ43軽戦闘機「隼」に比較して、旋回性能よりも高速性能を優先させ、優れた加速力とダイブ性能を備えた、一撃離脱戦法を行える戦闘機として、二式単座戦闘機キ44「鐘馗」の開発にふみきったのである。中島・三菱・川崎各社にこの新型機(キ44)の内示がされ、正式に中島へ試作指示が出された。陸軍が指示した要求性能は以下のとおり。
最大速度:600km/h(高度4,000m)
上昇時間:5,000mまで5分以内
行動半径:600km(巡航速度400km/hで2時間+空戦30分)
相変わらず軍部の要求性能は厳しいものであったが、中島のスタッフにとって初めての本格重戦で、この型破りな新鋭戦闘機に対する情熱やチャレンジ精神が「隼」の時とは比較にならない程であり、一層彼らの作業をはかどらせたのである。中島ではこの要求に基づき小山悌技師長を主務者として設計を開始したが、まず問題になったのはエンジンの選定であった。最大速度600km/hを出せる小型高出力エンジンが無かったため、爆撃機に使用する大型の14気筒エンジン、ハ41を基本にして戦闘機を新設計した。速度を稼ぐため翼面積を15㎡、翼面荷重を150kg/㎡に選定され、大径エンジンに軽い胴体、小さい主翼を備え、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んであるスタイルとなった。さらに格闘戦に対しても機動性を上げるため、アスペクト比5.95という薄い小さな主翼にファウラー式蝶型フラップを採用した。このフラップは糸川英夫技師が開発したもので、離陸時は20°、着陸時は45°まで下がるほか、空戦時に操縦桿の頂部ボタンを押すと15°~20°の角度に下がり、旋回性能を向上させることができた。また、垂直尾翼を水平尾翼より思い切って後方に配置した長いテールアームは重武装でも安定した射撃を可能にした。
その一方で垂直尾翼は高さが不足し(他メーカーと比べた場合、背が低く前後に長い。面積は保てるので飛行中の安定性は保て、且つ空気抵抗は減る) 離着陸時(機首が上を向くことにより垂直尾翼は胴体の陰に入る形になり、垂直尾翼の高さが大変重要になる)の安定性・操作性の低さが事故の頻発に繋がり、海軍の雷電と共に「殺人機」という不名誉な仇名を受けた。二型では垂直尾翼が増積されたが、それでも背の低さが指摘されている。ただし、上記の操舵性に関して不評だったのは、九七戦や一式戦の様な軽戦闘機に慣れすぎた格闘戦主流のパイロットからが多く、それに反し、早くからキ44に乗っている若手パイロットからは操縦の難しさはあったものの、それに伴った性能を認めていたコメントが多かった。余談だが、キ44の評価に関しての面白いエピソードとして、メッサーシュミットBf109E-7との比較テストがある。中島のエンジニアたちは、様々な要求性能をクリアするため改良を重ね、試作機ができつつあった。ほぼ問題点もクリアされ、改修も終わり陸軍の審査が実施された。この時の陸軍による評価結果は「速度性能はまだ改良の余地があるがほぼ及第点。しかし離着陸姿勢での前方視界が悪く、且つ着陸速度が早すぎ操縦が難しく、低速時では方向安定不良がある。よって若干の改修を施せば対爆撃機要撃用として使用できるが、対戦闘機用としては実用価値は無い。」と言う厳しいものであった。


この頃、ドイツから輸入されたBf109が日本に到着し九七戦、キ44、キ60(三式戦試作機)との比較テストを行った結果、加速速度、最大速度、空戦フラップを使用したときの旋回性はキ44の方が優ると判定され、対戦闘機用としても相手次第で戦えることが判明したのである。「世界最高の高速重戦」と言われたBf109を上回り、手のひらを返すがごとく、陸軍はキ44に対して自信を深めたのであった。だが、本機と共に来日し、テストに参加したメッサーシュミット社のテストパイロットによる模擬空戦では、日独の戦法がまったく異なるため、戦闘演習が成立せず、実戦時の評価に対しても同様に不明感があった。さらに、この時テストした機体は初期型のEシリーズであり、本国ではすでにFシリーズでこれと比較した時、同じ結果が出たか否かは疑問である。結果的に、このテストによって不評であったキ44が再評価され、制式採用される糸口が開けたのであるが、依然、軍部は「軽戦万能」「軽戦絶対」主流であり、ドイツ側が使用した一撃離脱戦法という欧米型の近代重戦のこの戦法に対して深く研究すると言う事もなかったのである。この新型戦闘機が持つ最も有効的な上下の機動性を最大限に生かせず、凝り固まった考えでデメリットのみをとらえてしまった軍部の評価やのちの運用能力の無さが残念であった。

実戦配備
1941年2月、キ44は二式単座戦闘機として制式採用されたのだがそれに先じ、大平洋戦争の開戦に備えて、前年末、独立飛行47中隊(通称かわせみ部隊)が、試作機と共に東南アジアの南方戦線に配備參戦した。インドシナ、マレー、ビルマと転戦したが、航続距離が短く敵地深くへの侵攻ができなかった為、同方面に投入された飛行第64戦隊などの一式戦「隼」に比べて華々しい活躍の機会に恵まれず、1942年5月には内地に呼び戻され、のちに飛行戦隊に増強改編された。なお、一説によると独飛47中隊が内地に呼び戻された理由は、ドーリットル空襲(1942年4月米軍が航空母艦に搭載した陸軍爆撃機によって行った日本本土に対する空襲。ドーリットルはこの作戦の指揮官名)を阻止できなかったことに起因する本土の防空強化と言われている。1942年12月、エンジンをハ41からさらに強力なハ109に換装した性能向上型の二型が生産に入り、1943年に入ってから少数の部隊がキ44二式戦に機種改編し、主に日本本土防衛と中国戦線に投入され、中でも飛行第85戦隊の若松幸禧大尉は「赤鼻のエース」として敵味方双方において名を上げた。1944年、本土にB-29が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻されて、各地の基地に展開し、飛行第47戦隊(1945年前後にはキ84四式戦へ機種改編)や飛行第70戦隊などが大きな戦果をあげた。
ハ109の低い稼動率の問題と、四式戦の開発に目処がついたことを理由として、陸軍は途中で本機の製造を打ち切っており、このため二式戦の改善も停まっている。そのため、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機体があったり、当時の日本戦闘機では当り前になっていた推力式単排気管への改修も行わなかった。(この簡単な改造を施すだけで速度1047戦隊長搭乗機および第2航空軍で試験的に現地改造を行った例がある。)大戦末期では、本土防衛で対B-29邀撃の局地戦闘機となった。巡航高度1万m以上で侵入してくるB-29を攻撃するには他機も同様だが、排気タービンの付いて無いエンジンではその高度まで上がれず、高度を稼ぐため、防弾板や一部武装を外し、「震天制空隊」として体当たり攻撃したのである。多くのパイロットと共に日本戦闘機は悲しい運命を背負い、散華していったのである。

タラレバなあとがき
元々日中戦争以前から、日本の戦闘機パイロットにとって主流の空戦思想は「戦闘機は格闘性能がすべて」であった。前にも述べたが、日中戦争での戦果、勝利が日本軍部にとって過剰ともいえる(自信を通り越して増長?)戦略思想を確立させ、「軽戦絶対主義」を不動のものにしたのである。しかし、ノモンハン事件後半の空戦で、ソ連軍はやられっぱなしであった日本有利の格闘戦から、一撃離脱戦法に徹し、序々に攻勢が転じはじめ、休戦協定時には日ソの優劣が逆転しつつあった。直接戦った日本のパイロットたちは、この時初めて重戦特有の速度と上下を生かした攻撃の恐さを文字どおり身をもって思い知ったわけである。ただ思うのは、この苦い経験がどこまで教訓として反映され対策されたかである。この時以降、日本軍部はどれだけ自らの戦闘機の弱点を認識し、冷静で適切な判断で実施できたのか。少数意見であったようだが、当事者或いは一部のパイロット、叉は一部の柔軟思考の関係者はこれを重くとらえ、曖昧であった重戦定義を明確にし、重戦「鍾馗」の誕生に反映されたのだが...。もし、陸軍軍部が早い段階で「重戦思想」を本格的に取り入れる柔軟さがあったら、「軽戦的戦略」とははっきりと異なる作戦展開が出来たのでは無いかと思う。離着陸時の速度超過、視認性、旋回性能等、軽戦に乗り馴れたベテランパイロットたちには不評であったが、飛行時間が100時間程度でも進歩的なパイロットはコツさえつかめば、懸念されていた程事故も起こさず、問題無く乗りこなせたのだ。いつの時代も、古今東西変わらないことだが、上層部が一部の考えに固執せず、柔軟な思考のもとで、敵連合国機に対して、機種別の攻略研究に費やしていれば、もっと「鍾馗」の活躍の場があったのではないだろうか。それでも陸軍では海軍より強く認識し、一部で編隊による一撃離脱戦法を採用してはいたらしいが、無線の性能で劣る日本軍の場合、空戦中の連携もとりにくく、またパイロットが格闘戦に慣れすぎ、この攻略法の訓練が未熟であり、編隊空戦を徹底できるケースが少なかったようだ。もっとも、当時の日本の乏しい資源事情を考慮すると、「鍾馗」のような航続距離の短い燃料大食いは、もし主力機となっても長期的に使われていたか...あくまでも仮定であり、敵味方を度外視して戦闘力だけで考えれば、この機体の性能や個性を最大限に生かす事ができたのは、皮肉ではあるが、日本では無く欧米だったのかもしれない。本機をテスト飛行した米軍レポートでも特に操縦困難と言う事も無く、それどころか「方策によっては素晴らしい素質を持った優秀な戦闘機」と称えられた。さらに上述した、制式採用のきっかけとなった模擬空戦に参加したメッサーシュミット社テストパイロット、シュテアー氏は試乗後、外交辞令もあったかもしれないが絶賛のコメントを残していた。

「日本のパイロットが全員これを乗りこなすことが出来たら、日本空軍は世界一になる」と...。   

思い入れ的あとがき
日本陸軍戦闘機の人気ランキングがあったとしたら「鐘馗」は失礼ながら、下から見ていった方が早い部類だと思う。格闘戦の華々しさと多岐にわたる実戦での活躍で「隼」、優美なスタイルで「飛燕」、バランスのとれた総合的な性能力で「疾風」、と言う具合に軍配を上げられてしまいそうである。しかし、開発がはじめての重戦で、専用の高馬力エンジンが無く、外径が太い爆撃機のエンジンを使うハンデがありながら、非常に良くまとまった戦闘機といえるだろう。当時、主役が「軽戦」で、且つ、比較すれば決してスマートと言えない特異なスタイルで異彩を放っていただろうが、見るからに力強く、戦う兵器らしい機能美であったと思う。華々しい戦闘エピソードも余り語られず、大戦末期には本土防衛のB-29邀撃「震天制空隊」として戦状により果敢に体当たりを敢行、パイロット共々散華した凄惨で悲しい末路であったが…。贔屓目の上での私見だが、戦前から、軍部が重戦の運用効果を冷静に判断し重要視出来ていれば、さらに武装を強化した「鐘馗」大編隊が各地で活躍したのではないだろうか。当時の欧米機と比較しても優るとも劣らない日本陸軍戦闘機「鐘馗」は、少なくとも大戦初期から中期にかけて、日本が世界に誇る唯一無二の名「重戦闘機」であった。

小松崎茂画 南方戦域での作戦に赴く「鐘馗」編隊


Vol.4 天山そして流星へ part.1

日本海軍において、航空戦での中心となり主力であったのが「零戦」と言うのは誰もが異論の無い事だと思います。その華々しいイメージは無くとも、その作戦 や任務によって、戦闘機だけで無く多種の軍用機が存在し、時には「零戦」以上の大きな戦果を上げていたのです。しかし大方の日本軍機はその誕生、またはそれ以降の量産や改修にあたり、開発陣にとっては時に想像を絶する苦難の道程でした。当時の情勢による物資不足、機械や技術者不足による工作精度の低下が原因なのですが、最大の要因は、日々の厳しい戦況によって計画どおりいかず変更せざるを得ない戦略と戦術、軍部の無理難題、傲慢と言ってよい発注メーカーに対しての苛酷な指示や要求性能だったのではないでしょうか。(このシリーズを語る上で軍部体質は常についてまわる話なのですが、内容によっては深く関わる事なのでその時々に語っていくつもりです)真珠湾開戦以降、海軍は傑作機九七式艦上攻撃機の旧式化に伴い、形式を踏襲しつつ、大幅な性能向上を要求した後継機の開発を中島飛行機に指示しました。しかし発動機との適合不調や、それによる発動機の変更、艦上機ゆえに離艦滑走距離を稼ぐための離艦推進ロケットの装備等改修の連続で、戦時下では致命的な1年程の出遅れがこの一流機の価値を半減させてしまったのです。活躍の場はあったものの、出現時期に悔いが残る高性能艦上攻撃機「天山」に今回はスポットをあててみたいと思います。

「天山」誕生その背景
ミッドウェー海戦の敗北
1941年12月の真珠湾攻撃による開戦から、1942年4月セイロン沖海戦まで日本海軍は予想外に低い兵力の消耗で制海権を広げていった。続く5月、米豪連絡線を遮断する為、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略目的である珊瑚海海戦が勃発した。世界的にも歴史上初であった航空母艦主体のこの海戦で、単純に日本軍と米・豪連合軍の戦果と損害の比較で検証すれば、概ね互角であった。日米、空母の損害だけをみれば日本側が、魚雷と爆弾の猛攻を受け「祥鳳」が沈没、甲板に3発の爆弾を受けた「翔鶴」は中破、米側は、「レキシントン」が沈没、「ヨークタウン」が中破である。重複する様だが、損失とダメージの度合いはそれほど差異は無いとみて、本質的な国力の差はその後の対応能力であっただろう。日本軍の「翔鶴」は呉工厰に帰還後、3ヶ月の修理期間を要したが、「ヨークタウン」は真珠湾に帰港後、本来やはり3ヶ月かかる補修を3日の突貫作業で航行可能にし、洋上で修理しながら、日本軍の暗号を解読で察知した次の作戦先であるミッドウェーに向かったのである。日本軍のミッドウェー攻略は米軍に 暗号解読された時点で周到に準備され、配備されていたはずの「翔鶴」は間に合わず、米軍にとって逆に「ヨークタウン」は戦力となっていた。すでに米軍側に有利な状況で(当然日本軍は米軍に察知されている事を知らない)現地6月4日、日本軍はミッドウェー基地へ向かう零戦36機と艦功・艦爆72機の出撃で戦いの火蓋がおとされた。この大規模な功撃隊はすぐにレーダーによってキャッチされ、ミッドウェー基地の航空機のすべては10分以内に日本軍に対して邀撃に向かった。

やがて始まった空中戦で、ある程度情報を察知していたにもかかわらず米側のF2Aバッファロー、F4Fワイルドキャットは零戦に有利なドッグファイトに持込まれて25機中わずか10機のみが、しかも傷だらけの状態で命からがら帰還した。さらに、ほぼ同時に日本空母に向かって出撃したTBFアベンジャー雷撃隊は大方零戦に撃墜され、B-17フライングフォートレス編隊による水平爆撃も空母「赤城」「飛龍」は回避したのである。
しかし、米機動部隊は「エンタープライズ」「ホーネット」上に戦闘機、艦功・艦爆を両艦合わせて117機、出撃のタイミングが満を持していた。日本機がミッドウェー基地から帰還する混乱を見計らって発進を開始し、「ホーネット」「エンタープライズ」の攻撃隊のうち雷撃機29機が日本の機動部隊上空に襲来、対空砲火と直掩機によりアベンジャー25機が撃墜された。また、「ヨークタウン」の雷撃機隊12機も、戦闘機の援護があったにも関わらず10機が撃墜された。但し、この損害は米側にとって零戦を低空に引き付ける陽動効果となった。米各空母から発艦された高空からのドーントレス編隊による爆撃が、低空での対雷撃機の戦いに概ねの零戦は気をとられてしまい、その為、戦闘機の擁護が無い、正に無防備状態であった「加賀」、旗艦の「赤城」、「蒼龍」に被弾させ致命的な打撃を与えたのである。ミッドウェー海戦が大平洋戦争のターニングポイ ントとよく言われるが、であるとしたらこの瞬間こそ分岐点であっただろう。
それぞれ、格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、また準備中だった航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。火災の鎮火ができなかったため復旧が進まず、「加賀」「蒼竜」は沈没した。深手を負った日本軍ではあったが、無傷で残った「飛龍」から、逆に功撃隊が帰還し収容中で隙が出来ている「ヨークタウン」に反撃をかけた。「飛龍」は爆撃を受けた3空母よりやや離れていたので攻撃を回避でき、生き残れたのである。「ヨークタウン」へは、寄せ集めの艦爆機と零戦で出撃、艦爆機18機中12機が撃墜されたが、3発爆弾が命中し、さらに第2次攻撃において艦功機による2発の魚雷命中で大破させた(堅牢な空母はこの時点で沈まず、この戦闘がほぼ終結した後、真珠湾に曳航中日本潜水艦の魚雷功撃で撃沈した)。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。「エンタープライズ」から急降下爆撃機が発進され、上空防衛中であった零戦の間隙をぬって急襲された。「飛龍」は4発の爆弾を受け大破、先にやられた日本空母同様、艦内の爆弾や航空燃料等に誘爆し大火災となり稼動・航行不能になった。翌日、沈みきれなかった「赤城」とともに味方の魚雷を受け沈没、ついに日本機動部隊の主力空母4隻は全滅したのである。1回の作戦で4隻の空母を失い、多数の熟練した搭乗員と母艦航空部隊をそっくり喪失したことは日本軍を愕然とさせた。さらにこの大敗北を喫したことで、制海権を得るためミッドウェー海戦以前と同等の機動部隊を再生するには国力的に厳しく、続く作戦展開として大平洋の各陸地に基地航空隊をおいて対抗せねばならなかった。海軍航空隊においては事実上、艦上機の運用変更を余儀無くされ、海軍機の次なる後継機開発にも大きく影響していくのである。

九七式艦上攻撃機から「天山」へ
真珠湾功撃を皮切りに、大平洋戦争前半において華々しい戦果を上げた九七式艦上攻撃機(以下略)であったが、1942年10月の南大平洋海戦(注1)以降、旧式化は否めず次期後継機「天山」の配備が渇望されていた。
1939年、海軍は九七艦攻の後継機である十四試艦上攻撃機を中島に指示していた。例によって軍部からの要求性能は苛酷なものであった。要求最大速度・航続距離は以下のとおり。
最大速度 370 km/h (97艦攻)→463 km/h 以上
航続距離 1,852 km (97艦攻)→3,330 km 以上

という当時の航空技術から見て極めて達成困難なものだった。海軍は、すでに実用化している三菱「火星」発動機(離昇1530馬力)を推奨したが、中島側は1850馬力の自社開発である「譲(まもり)」発動機の性能実現のための有利性を主張し、結局「譲」に決定した。この発動機に合わせ、機体のサイズも大型のものとなったので、空母格納に伴う寸法制限内にまとめるのに非常な苦労をした。全長をエレベーター寸法の11m内におさめるため垂直尾翼を前傾させ、大馬力を効率よく発揮できる日本最初の全金属定速4翅プロペラを装備し、大型滑油冷却器と魚雷が接触しないように、それぞれ位置を左・右にずらすなど苦心の設計であった。また、九七艦攻と同一翼面積ながら重量は1.5tも重く、そのため翼面荷重が増大し艦上機の第一条件である離着艦性能に問題が生じた。これを補うため、翼面荷重増加に対応すべくファウラーフラップを採用したり、航続距離を伸ばす為にセミインテグラルタンクを採用するなど、海軍側の要求をクリ アする為に様々な工夫がなされた。
1941年3月、十四試艦攻試作機は初飛行したが、試験飛行の結果、大馬力エンジンによる回転トルクが大きく飛行姿勢が安定しなかった上、離着陸滑走中に機首を振るという艦上機としては致命的ともいえる問題が発覚し、垂直尾翼の取り付け角度を機軸に対し左に傾ける改善がされた。さらに、肝腎の「護」発動機は、これも完成したてでまだ課題も多く、油温過昇やピストンの焼き付き、振動等の初期トラブルに悩まされ、社内テストは難航し改修に手間どったのである。1943年8月、ようやく十四試艦攻が「天山一一型」として制式採用されたが、生産開始後もトラブルの絶えない「護」発動機の低信頼性は改善せず、海軍は「護」から三菱製の「火星二五型」発動機への換装を決定した。「護」搭載タイプは「天山一一型」とされ、1943年2月から7月にかけ、僅か133機の生 産にとどまった。主力生産されたのは、「火星二五型」が搭載された「天山一二型」で、一一型との違いは発動機換装のほかに、引き込み式尾輪から固定式になったことだった。1943年6月以降生産された。「天山一二型」のバリエーションとしては、後上方旋回機銃を13mm機銃に換装した「天山一二型甲」(1944年11月制式採用)がある。なお、1943年秋以降に生産された「天山一二型」「天山一二型甲」には3機に1機の割合で、空6号機上電探レーダーが搭載された。

(注1)10月26日、ソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦。この戦いで米軍は空母「ホーネット」を失い「エンタープライズ」が大破した。機動部隊両艦艇の対損害比較で言えば日本側の辛勝であった。この時点で米海軍が大平洋戦線で実戦に投入できる正規空母は0となった。この日奇しくも海軍記念日であったが、米ラジオキャスターに「最も悲惨な海軍記念日となってしまった」とまで言わしめた。日本側にとっては、艦攻隊、艦爆隊の損害が大きく、航空機の損失は92機であった。搭乗員の戦死もミッドウェー海戦以上であり、真珠湾以来のベテランも非常に多く失った。

実戦配備そして出撃へ

「天山」の部隊配備開始は制式採用の直前で、1943年7月に開隊されたばかりの第531航空隊が最初の配属部隊だった。実戦初参加は1943年11月のブーゲンビル島沖航空戦であった。5日から11日まで空母艦載機をラバウルに進出させ3次にわたって攻撃し、天山艦攻隊も米機動部隊を捕捉雷撃を行い、13日にトラック島へ帰還した。この一連の戦いで天山の活躍ぶりをたたえ、海軍大臣は、中島飛行機を表彰したという。しかし、戦況悪化による、当時の常であった大本営発表のねつ造情報(損害過少、過大戦果)を間に受けた事であり、事実は対戦果の割りには損害が多く作戦は中止されたのである。以降、九七艦攻にかわって主力の座につき、翌1944年6月のマリアナ沖海戦では、虎の子である9隻の空母に搭載、各配備された。作戦が計画どおり航続距離の長さを生かした戦法「アウトレンジ戦法」(注2)で進行し、「天山」はその高性能と武装に物をいわせ、敵戦闘機の反撃をかわして雷撃戦を展開、大戦果をあげるはずだったが、敵の反撃は予想をはるかに上回る厳しさであった。すでに日本海軍機動部隊はミッドウェー海戦の大敗北によって優秀なベテラン搭乗員を失い、以降、航空機の性能が上がっても開戦当時の戦力に戻せる国力は無かった。米軍側は逆に、国力の違いを見せつけるかの様に圧倒的な物量とレーダー等の科学技術を駆使した最新兵器を間を空けず前線に導入、物理的に日本側は圧倒的に劣勢であった。特にこの頃本格的に導入されはじめた、米軍の高性能レーダーと連動した優れた防空システム、「VT信管(近接信管)」(注3)を用いた精度の高い対空射撃と相俟って大きな損害を出した。陸上基地航空隊の「天山」は、マリアナ諸島攻防戦後、台湾沖航空戦やレイテ沖海戦以降のフィリピン攻防戦などに参加したことにより、稼動数を大幅に減らした。このような状況から「天山」を使用した航空作戦は、次第に夜間雷撃(または、薄暮雷撃や黎明雷撃)が中心となっていく。また、北海道搭乗員養成を行っていた第553航空隊の所属機が九七式艦上攻撃機とともに占守島に進出。その後も「天山」の追加配備を受けながら占守島や道東から哨戒活動に就いていたが、フィリピン方面の戦局悪化により、10月に部隊は「天山」1機と九七式艦上攻撃機数機を残して移動。残存機は直ちに「北東航空隊」に編入され、引き続き対潜哨戒にあたったが、1945年春に「天山」は事故で失われた。大戦末期の1945年の九州沖航空戦や沖縄戦(菊水作戦)においては、「天山」は、3機に1機の割合で機上電探レーダーを搭載していたことから、主として、九州南部の基地から奄美大島を経由し、米軍の高速空母機動部隊や輸送船団などに対する夜間雷撃に使用されたが、上述のように米軍側のレーダーやVT信管を使用した強力な対空防御砲火、レーダー搭載の夜間戦闘機「F6F-5Nヘルキャット」などを駆使した迎撃態勢により、稼動可能な機体数と搭乗員の損失があまりにも多く、目ぼしい戦果も見られなかった。それでも、終戦の3日前の1945年8月12日の夜半に、九州・鹿児島県の串良基地から出撃した第五航空艦隊指揮下の第931海軍航空隊・攻撃第251飛行隊所属の「天山」4機のうちの1機が、沖縄の中城湾に停泊していたアメリカ海軍の戦艦ペンシルベニアを夜間雷撃で大破させる、と云うような戦果も挙げている。

また、フィリピン攻防戦や硫黄島の戦い(硫黄島攻防戦)、沖縄戦(菊水作戦)では、零戦や艦上爆撃機「彗星」などと比較すると遥かに少ない数ながらも、特攻機として投入された機体もある。特に、硫黄島の戦いにおいて、1945年2月21日に硫黄島沖の米軍艦隊に対する特攻攻撃を行なった神風特別攻撃隊第二御盾隊には、第三航空艦隊指揮下の第601海軍航空隊所属の「天山」8機が投入されている。このうち、半数
の4機は800kg爆弾を搭載して特攻攻撃を敢行したが、残る半数の4機は航空魚雷を搭載しており、米軍艦艇に雷撃を敢行したのちに体当たり攻撃を敢行している(いわゆる雷撃特攻)。
この時、爆装「天山」4機のうちの1機は、800kg爆弾1発を空母サラトガに投下、飛行甲板に命中させて大穴を開け大破させた(爆弾を命中させた「天山」は、その後、サラトガに体当たりしようとする直前に撃墜された)。戦後米軍に接収された「天山一二型」1機が調査後ウィロウグローブ基地に展示されていたが、屋外展示で風化が進んだこともあり1981年にスミソニアン航空博物館に移され、現在も同博物館内に分解状態で保管されている(画像はウィロウグローブ基地当時のももの)。

(注2)小沢中将率いる日本海軍は米軍機の航続範囲の外側にいて米軍機からの攻撃を逃れ、日本艦載機の航続距離の長さ(実際には爆装時の艦爆の航続距離では劣っている)を生かして、敵艦隊を攻撃した。しかし、高度なレーダーと無線で防空部隊を集合させることができ、近接信管「VT信管」(注3)により高い艦隊防空能力を誇っていたアメリカ海軍の前に一方的な損害をだした。

(注3)電解液を入れた容器が発射の衝撃で壊れ、電池が働き装置が作動する。砲弾の周囲15mの範囲にドーナツ状の電波を放射し、電波が目標に触れると、目標からの反射波を信管が受信して起爆薬を爆発させる。目標を感知する事無く通過してしまった砲弾は、発射後40秒ほどで信管に内蔵された自爆装置によって爆発する。

タラレバなあとがき
傑作九七艦攻からの後継機として大幅な性能向上をねらったものであったが、やはり「カギ」になるのはエンジンの選定であった様だ。十四試艦攻「天山」の開発指示が中島に出された当時、要求性能を可能にできるエンジンは、1500ps級超クラスであった。海軍は、すでに三菱で開発され実用化されている「火星」エンジンを推奨したが、中島側は同社でこの時まだ開発中であった「護」エンジンに強く固執し、一度は「火星」に決まりかけたが一転、海軍は「護」を採用したのである。「護」は元々、4発陸上功撃機「深山」用として開発されていたが、まだ完全と呼べる段階ではなかった。しかし、出力1870psという当時としては最強力エンジンであり、安定していれば1500psの「火星」を搭載するより要求性能をクリアする道が大きく開かれるのである。兎に角、表向きには前述の経緯なのだが、中島関係者の心情を思うに、もしエンジン性能が同レベルであったとしても「護」を強く主張したのではないか。だが、この「ゴリ押し」が、先の開発の項にも述べたが、未完成の大馬力エンジンゆえにエンジンのみならず、機体側にも様々なトラブルを誘発してしまったのは皮肉であった。配備後も「護」は直径が太く前方視界が悪いため、特に着艦時など頭(エンジン部)の重さもあって「逆立ち」することもありパイロット泣かせだったようだ。さらに「護」は、陸上功撃機「深山」の試飛行にも大きなトラブルを起こし、これも1つの要因となり「護」の生産は打ち切られてしまった。結果的に「火星」案が再浮上し、搭載され、進化系「天山一二型」として配備され、評価が一変したのである。中島側にとっては複雑な心境だったのではないかと思う。特にエンジン開発陣は、ライバル三菱に対し敗北感があったのではないだろうか。
そのような開発陣の紆余曲折の中でも、戦場は待った無しである。結局、初陣実戦配備は、「護」搭載の「天山一一型」は1943年11月のブーゲンビル島沖海戦、改良された「天山一二型」に至っては1944年3月以降、すでに空母含めて後が無い全力での海軍機動部隊であった。戦略的に最も重要で、作戦的にも強く要望されたタイミングでの出現に大幅に遅れてしまったのは、機体自体が一流であっただけに非常に残念であった。ほぼ順調に完成されていればライバルとされた「グラマン TBF アベンジャー」とミッドウェー海戦から雷撃対決があったのではないか。無意味な仮定だが、ミッドウェーでの戦いに参加でき且つ日本側の初歩的ミスが無かったら、空母「エンタープライズ」「ホーネット」を撃沈させ、戦況が逆転していたかもしれない。通信や武装、防御性能は負けてしまうが、同級のエンジンを装備しながら、本質的な機動性能でアベンジャーを凌駕していただけにさらに活躍できた場面があったと思う。かつて海上自衛隊がアベンジャーを供与され、試乗した「天山」搭乗経験があるパイロットにアベンジャーの印象コメントを求めた時、こう語ったそうである。


「情けないほどの鈍くささだ」
  

天山そして流星へ part. 2 につづく...


小松崎茂画 超低空から魚雷投下する「天山」雷撃隊




Vol.5 天山そして流星へ part.2

各国の戦艦や空母等の艦船が日進月歩で機動力及び攻撃力や防御力を強固なものに進化していく中、当然、平行して艦上攻撃機も、それに対抗しうる強力で爆撃も雷撃もできる「統合機」の出現が望まれていたようです。このコンセプトのもと、海軍から開発指示が出され十六試艦上攻撃機として設計着手したのは開戦後まもなくでした。開発陣の努力で一年足らずで試作機が完成し、決してこの機種も出だし自体はそれ程遅くはなかったのですが...。(ただしエンジンの不調や主翼の改良などで無駄に時間を費やしてしまったのは否めないが) 制式採用後も高性能機ゆえなのか、当時の生産環境の悪化に伴って遅々として完成機がそろわず、結局、実戦配備が終戦直前になってしまった非運の高性能艦上攻撃機「流星改」について語っていこうと思います。

「流星改」誕生その背景

各国艦船の巨大化その対抗策
第一次大戦以降、各国の建艦技術は精緻な構造と共に、より強大且つ頑強になっていき、航空機が爆撃や雷撃攻撃する際にも敵艦に対抗しうる破壊力と照準精度 が要求されたのである。通常、日本海軍含め各国艦上機による艦船攻撃の際、戦闘機の攻撃以外では、主に艦上攻撃機による雷撃と艦上爆撃機による爆撃に戦略分類された。艦上機には艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、艦上偵察機という明確な用途区分があるのだが、時代が進むにつれ各用途の機体が進化し、各機体の攻撃方法が多岐にわたると、艦上爆撃機と艦上攻撃機の運用目的に共通部分が多くなってきた。本来艦上爆撃機は爆弾を積載し急降下爆撃を行うため軽快で頑丈な機体が求められ、分類上、称していた。また艦上攻撃機は爆弾や魚雷を積載し敵艦に対する雷撃、および陸上基地や敵艦に対しての水平爆撃を主な任務とする機体を称していた。ところが艦上攻撃機の場合、攻撃目標の艦船がより強固になるにつれ、搭載する爆弾も破壊力のある重量級のものが求められ、機体強度の一層の向上が要求される様になっていた。また、雷撃の場合も対空火器の発達に伴って攻撃も高速度を要求され、しかも急激な回避行動をとる必要性に迫られる場合も、急降下爆撃機並みの機体強度が要求された。つまり、艦上爆撃機と艦上攻撃機との両機種間の差が接近し、実戦時に空母上で機体運用を効率よく行える観点から考慮しても、両機種を統合したほうが得策であるという気運が持ち上がり具体的な計画が海軍から打ち出された。この様な経緯をえて、1941年初め海軍は、艦上爆撃機と艦上攻撃機の機種統合という進歩的な考えを実現すべく「艦上爆撃・攻撃統合機種実用機試製計画」としてこれらの機種に関して経験が深く実績もある愛知航空機に対してこの新機種の設計・製作を特命したのである。

十六試艦上攻撃機の開発
海軍が示した基本要求は以下の通りである。
1.一機種で急降下爆撃、水平爆撃、雷撃の全てがこなせること。
2.爆弾搭載量も魚雷搭載量も800kgとすること。
3,最大速度は時速550km以上。
4.航続距離は正規で1852km以上。
5.武装は主翼固定20mm機関砲2門、
  後部座席配置13mm 旋回機銃1挺。
6.零式艦上戦闘機に匹敵する運動性能。
7.構造が堅牢で、整備及び製造が容易であること
海軍が求める将来の艦上攻撃機の理想像がそこに示されていた。当時の工作技術及び品質水準に鑑みて、この機種に限ったことでは無いが非常に過酷な要求で あった。その中でも6項目の要求内容は極めて困難で殆ど無理なことであり、それを指示してくる軍部の傲慢さを物語る部分でもあった。愛知航空機はこの要求 に対して、1941年10月に尾崎紀男氏を設計主任者とした設計チームを発足させ、十六試艦上攻撃機(形式番号B7A1)として翌年2月に設計開発に着手した。愛知航空機設計チームの活動は驚異的であった。設計開始後3ヶ月目の1942年5月には設計を完了し、試作機の製作段階に入った。
設計の基本構想は以下の内容であった。

1.発動機には開発中の2000馬力級を採用する。
2.乗員は複座2名(それまでの艦上攻撃機は全て3座、艦上爆撃機は複座)
3.爆弾は胴体下面に配置された爆弾倉に収容する。
ただし魚雷は爆弾倉に収容できないために、爆弾倉扉を閉ざした胴体下面に懸垂する。
4.主翼は逆ガル式(主翼の正面姿がW字型)とし、主脚の長さを短くして脚の強度対策とする。
5.プロペラは発動機の出力に合致する4枚羽根とする。
重い魚雷を抱いて低空から敵艦に迫る艦攻は、飛行姿勢安定のため大面積の主翼を必要とし、機動性(運動性)は二の次になる。これに対し、敵艦上空から深い角度の急降下で爆弾を投下する艦爆にとっては、機敏な運動性と頑丈な機体が不可欠であり主翼面積はむしろ小さくしたほうが適している。相反する特性を有する艦攻と艦爆を、同一機でまかなおうとする十六試艦上攻撃機の矛盾点が、愛知航空機設計チームにとって文字どおりジレンマとなった。それでも設計陣はいくつもの問題点を一つ一つ解決させ、試作1号機が完成し、試飛行に取りかかったのである。

試飛行そして制式採用
上記4項の逆ガル翼を採用したのは以下の理由であった。主翼に逆ガル構造を採用した実用機は、アメリカのF4UコルセアやドイツのJu87シュトゥーカが採用されていたが、日本海軍の数ある制式機の中では例が無かった。十六試艦攻の要求設計上、胴体下面に爆弾倉を配置するため、主翼は中翼にする必要があった。しかし中翼構造では下翼構造よりも長い主脚が必要となり強度の低下は免れない。ところがこの機体には重量増加が前提となる機体強度が要求され、しかも重量のある爆弾や魚雷を搭載しなければならない。そこで結果的に主翼に逆ガル構造を採用して主脚を短くして強度アップを図った。逆ガル翼はじめ、高揚力を得るため二段式になった二重スロッテッドフラップやエルロン・フラップ等、当時の最新技術と共にアイデアを具体化し、十六試艦攻が型どられていったのである。非常に過酷な要求内容であったが、調整がシビアであった「誉」11型発動機を搭載した試作機が1942年12月に完成し、試験飛行に漕ぎ着けた。試作機の胴体は採用後の量産機に対しても変更が無かった(細部の改修は有り)が、主翼の形状が当時実戦で活躍していた同じ愛知航空機の九九式艦上爆撃機の主翼平面型によく似た楕円翼であった。試飛行の結果、この楕円翼はこの機体に要求される運動性能に耐えるには強度不足で、主翼設計に関しては改めて一から見直しが必要となってしまった。さらに、様々な内部構造の変更、重量過多の軽減対策等、大小取り混ぜた部分的な改造が行われた。しかし、根本から再設計となった主翼を含め改修に大幅な時間を費やし、2号試作機が完成したのは日本側の戦局に陰りが見えてきた6ヶ月後の1943年半ばであった。1号試作機よりは大きく改善が伺え、主翼は後端が直線であるテーパー翼に改められたが、相変わらず矛盾点とも言える機体強度とそれに伴う重量増加が課題であった。その後1944年4月頃までに8機の増加試作機が製作され、あらゆる角度からのテストを受けたが、発動機「誉」の不調や主脚の引込み動作の不良など様々なトラブルが続いた。問題の要求課題である「零式戦闘機並みの運動性」に関しては、機種的に空戦性能を求める事自体が無意味であり、思考錯誤を繰り返した後、結果的に海軍側もこの点を理解したが、言うまでも無く当然の事で、完成までの時間浪費の一因であった。
ただこの機体の運動性はこのクラスとしては異例なほど軽快で、宙返りでも完全なループは描けないものの実践できた。さらに武装の20mm機関砲を活かせば対戦敵機は限定されるが、例えばグラマンTBFアベンジャーに対しては十分、空戦を挑むことができたのである。漸く海軍は総合的に実用可能の評価を下し、1945年2月、艦上攻撃機「流星改」(B7A2)として制式採用した。しかしこの時日本側の戦況は劣勢どころか殆ど絶望的であり、海軍にはこの機を艦載できる空母がすでに無きに等しかった。

発動機「誉」
制式採用されて量産化が決まったものの「流星改」の生産は順調とはいかなかった。高性能な機体であるだけに製作には高い工作精度や熟練度が要求されたが、この時期の戦況により専門工員までも徴兵され、労働力の質は日々低下していったのである。さらに生産ラインが軌道に乗り出した1944年12月、中京地帯全域に東南海地震が発生し、主力工場を愛知県下に持っていた愛知航空機は壊滅的ともいえる大被害をうけた。この様な負の要因が、心臓部とも言える搭載された発動機「誉」の仕上がりの質を左右し、この機体の品質にそのまま反映した。「誉」は中島飛行機が第二次世界大戦開始期に開発し、終戦時まで製造した航空機用空冷二重星型18気筒の発動機である。2000馬力級の発動機であったが、当時の欧米の同タイプの発動機に比較して出力に対し排気量が少なく、軽量でコンパクト(航空機にとって空力的に重要であるエンジン直径が小さいこと、前面投影面積)であった。当然、小排気量で高出力を達成するためにはクランクシャフトの回転数とブースト圧(過給圧)を上昇させなくてはならず、構造も精密化が要求され、おのずと部品の工作精度や材質の品質と耐久度が求められた。しかしソロモン海戦以降の大消耗戦では、より一層の大量生産が求められる一方、資源不足も深刻化しつつあった。このため、代用材料の使用や部品製作の簡略化が図られたものの、品質管理の概念がなかったため、粗悪品があふれ、生産現場の混乱を招いただけの結果に終わっている。
当時の劣悪な生産環境での一例として、エンジンからのオイル漏れを修理するためパッキンを交換したものの、オイル漏れは解消せず、部隊にあった予備パッキンをすべて使い切ってしまった部隊もあった。それでもオイル漏れが止まらなかったため、整備兵がパッキンを検査したところ、すべて規格を外れていたという例さえあった。さらに内燃機関では、吸排気ポートの形状が性能に大きな影響を与えるが、「誉」のような高出力化を狙ったエンジンでは特に影響が顕著となる。ところが現実には増産を重視するあまり、鋳造時に型崩れを起こした部品がそのまま出荷されるケースさえ起きていた。とはいえ、大戦末期の日本軍は多くの航空機に「誉」を搭載していたことから終戦まで生産が続けられた。「誉」は、良きにつけ悪しきにつけ大戦末期の日本を象徴するような航空機エンジンであった。

最終テストから実戦配備へ
1号試作機の完成から2年後の1944年12月、「流星改」が最終段階のテスト飛行のため、新鋭機の実用テストを請け負う事で名高い、横須賀航空隊第二飛行隊(主に艦爆機で編成)に受領された。概ね機体の問題点はクリアされていたため、さしたるトラブルは無く実用テストは進んでいった。艦爆として想定した試飛行では、今までの艦功・艦爆に比べ翼面荷重(全備重量を主翼面積で割った数値)が最も大きいため急降下時のダイブ性能に優れていた。すでに空母を中心とした機動部隊は壊滅状態であったが、残存していた空母(葛城?)で着艦テストも実施された。特に機首に搭載された「誉」のコンパクトさとカウリングの上面を押し下げた事によって、搭乗員にとって重要である前方視界を確保し、艦爆「彗星」や艦攻「天山」に比較して着艦を容易にさせた。艦攻と艦爆の統合機として「流星改」が誕生し実戦に赴くこととなったが、そうなるとこの新鋭機の実数が少ないため、主に艦爆攻撃(急降下爆撃等)を重視してテストした事もあり最初の配備先は艦爆飛行隊である攻撃第五飛行隊が選ばれた。序々に展開される予定であった「流星改」は結果的に攻撃第五飛行隊(略記攻五、略称K5=ケイゴ)が唯一の「流星改」装備部隊となったのである。1944年7月に攻五が開隊、10月の台湾沖航空戦、続くフィリピン決戦で壊滅したが翌1945年1月に701空(国分、大分)に編入された。さらに2月、131空に再編入され千葉県香取に移動、他隊「彗星」「天山」部隊との混成になった。前述した様に「流星改」の生産は滞ってはいたが、3月、香取基地の攻五に初めて2機大分から到着し、受領隊が攻五だけと言う事で順次「流星改」が装備され、4月末には24機となった。九九艦爆も保有していたがこの時期から運用はせず、文字通り攻五は別機種の混成が無い純粋な「流星改」部隊となった。人員と機体がそろいつつあったが、重要なのは可動率であり、機体関係はそれほど問題は無かったが、やはり整備上やりにくかったのは発動機の「誉」だったようだ。視認性や軽量等で、利点であるコンパクトさが災いし、構造が密で扱いづらくなり、さらに前述したオイル漏れが頻繁に発生した。そのような状況であったのだが、整備員たちの寝食惜しまず、ときに徹夜作業の頑張りや、中島飛行機の技術者の協力で日々可動率は上がり、最大70パーセントまで達成した。攻五の搭乗員たちは「流星改」とともに猛訓練にあけくれたが、中にはクセが強い機体もあり、この機体性能を極限近くまで機動させる事(急降下、急上昇及びその連続等による)でときに操舵性に負担がかかり、操縦不能におちいったりプロペラが停止することで不時着し、場合によっては墜落、大破し搭乗員は即死という悲惨な事故も起った。
2月からの編成以来、戦闘では無く訓練中に数名の殉職者やケガ人を出してしまった攻五であったが、大平洋戦線の戦況もさらに厳しくなっており訓練中であった3月下旬から6月下旬までの沖縄戦では航空機が約7,800機投入されたが、そのうち特攻を含め約2,300機も尊い命と共に失ったのである。攻五の「流星改」部隊を効果的に生かすべく、当初の目的であった南大平洋における米輸送船団攻撃作戦は進出展開が不可能となり、5月中旬、攻五は131空から752空に編入、基地も752司令部のある千葉県木更津に移り任務は内地防衛となった。疑似標的艦での想定模擬訓練が行われていたが、このころ硫黄島からP-51「マスタング」がしばしば侵入し、さらに7月に入ると米機動部隊が関東に接近し、F6F「ヘルキャット」が飛来するようになり飛行時の警戒が欠かせなくなった。「流星改」が今までの艦攻・艦爆と比べて飛行性能が向上していても、それはあくまでその機種にとって最も優先する運動性能であり(この場合、雷撃・降爆時の機動性)増して、当時、世界最高レベルの性能を持った米戦闘機と遭遇したら対決する事自体が自殺行為となる。この場合、重要になるのは、敵機からいかに迅速に回避し逃げ切るか、であった。実際訓練中、上記機種に出くわしてしまい命からがらこの危機を脱し、帰投した搭乗ペアが少なからず何組かいたのである。日本機に対し銃撃をかけられた事もあったが、幸いにしてこの様なケースでさしたる損害は出なかった。結果的に敵機の攻撃による喪失は無かったが、訓練中の事故による事で損害が出たのは皮肉であった。攻五の「流星改」保有機は再多時にはほぼ定数の47機となり、日本近海に迫って来た米機動部隊に向け本土決戦に備えた攻撃準備は整っていった。

攻五出撃へ
6月下旬、沖縄戦が終わると空母を基幹とする米機動部隊が本州近海を航行する様になり、7月に入ると間を空けず各都市や重要施設を艦上機の大編隊や戦艦の砲撃で襲い始めた。本土決戦に備え戦力を温存していた陸海軍であったが、殆ど一方的になって来た米側の攻撃に黙していられず、海軍司令部は、事実上最終兵力となる少数精鋭と言ってよい各部隊の出撃命令を下した。態勢を整えていた攻五にも攻撃命令が出され、7月25日初出撃となった。西日本を攻撃し、紀伊半島沖を北上していた米英機動部隊に対し爆撃隊9機(或いは7機か)が夜間に近い薄暮攻撃に時機を合わせるため夕刻5時半に2隊に別れ発進を開始した。通常、援護戦闘機が無く爆撃機だけで攻撃に向かうのは無謀とも言えたのだが、すでに攻五に援護できる戦闘機は無くやむなく爆撃機のみの編成出撃となった。一方、米英側は艦上レーダーが捕らえた日本機小編隊の邀撃に向け、夜間空戦訓練ずみであるF6F「ヘルキャット」2機が、英空母「フォーミダブル」から発艦した。800kg爆弾を抱えた「流星改」は降下爆撃出来ぬまま追撃され、結果、3機撃墜、1機撃破された。残りの日本機は攻撃をあきらめ帰還した。
その後第二波攻撃の雷撃隊5機が出撃したが、接敵できず、1機不時着を除き4機が帰還した。(この作戦での唯一の戦果記録が搭乗員本人の手記に綴られていた。第一陣爆撃隊がF6Fからの攻撃から回避する際、散開した中の1機が米機動部隊を発見、無数の弾幕の中を果敢に単機で空母(駆逐艦?)を爆撃し無事帰還した証言である。

以下、原文まま―
途中私は敵機の攻撃を交わしながら飛んでいる中に味方機とはぐれてしまい、月明りの中で敵の機動部隊を発見したのは、午後の8時頃だった。米機動部隊は原則として、中央に空母4隻、の前後に戦艦2隻、周囲に巡洋艦8隻、駆逐艦32隻をもって輪形陣を構成していた。私が降爆に入ると、射ってくるわ、その凄まじい事といったらなかった。―中略―私は降下中爆弾を落とす迄は敵弾に当らないようにと必死に祈った。普通爆弾は、 600メートルぐらいで落とすのだが、私は命中率をよくするために350メートルまで降下して爆弾を投下した。相手は大型空母だ。私はそのまま敵艦の真上を通過した。数秒後強烈な爆音と共に機体がガタガタと揺れた。海面スレスレの超低空で退避したので敵も打ってこない。私は直ちに攻撃の完了と、敵の位置を本隊に知らせ、夜の海を一路木更津へと帰った。私は、午後11時頃に辿り着いた。残りの燃料を調べると、僅か10リットル(約3分しか飛べない量)だった。今考えても、何故あの弾幕に当らなかったのか不思議に思う。

富士栄一氏・流星初陣記より―

2回目の出撃は8月9日午後1時すぎ、護衛機なし爆撃隊8機が宮城県金華山沖を航行中の米機動部隊に向け発進した。前回の夜間攻撃以上に無謀な白昼の任務であり、限りなく作戦の成功率は低く、実際に6機が未帰還(うち3機はF6Fに撃墜された)であった。初回も2回目も作戦上表向きは通常攻撃であったが、結果的に未帰還が多すぎるため特別攻撃として扱われ、第七御盾隊・第一次および第二次流星隊と命名された。早朝から関東一帯が艦上機群に襲われた8月13日、第三次流星隊と名づけられた特別攻撃の4機が犬吠崎東沖の米機動部隊に向かい正午すぎから出撃した。戦闘機と違い、スピードも運動性も鈍く、更に爆弾を抱えた爆撃機が、敵戦闘機と無数の弾幕を逃れ艦船に体当たりする事など不可能に近く、果たして、悲惨にも全機がF4U「コルセア」に撃墜された。8月15日正午前、第四次流星隊2機がやはり特攻任務として南東海上方面へ向け出撃、うち1機は離陸後、場周旋回中に引込脚が半開きになる故障で引き返し、残り1機も戻るはずであったがそのまま進撃していった。敗戦の詔勅はそれから30分後であった。

思い入れ的あとがき

私の好きな漫画で松本零士氏の戦場まんがシリーズ「ザ・コクピット」と言う作品があるが御存じの方も多いのではないだろうか。この中で印象深かった作品に「流星改」を主体に描いた物語があった。
「流星 北へ飛ぶ」である。大平洋戦線がほとんど連合軍に塗り替えつつあった戦争末期、米機動部隊は日本近海を航行、本州に急接近していた。日本の航空戦力をすでに見くびっていた米戦闘機(F6F)がその油断から、今まで見た事も無い艦上攻撃機にピケットライン(警戒線)を突破され、空母を雷撃し大破、航行不能にしたのだ。慌ててF6Fは追跡したのだが追いつけずふりきられたのだった。同じ様な戦闘局面で、再度これも又同機に空母を爆撃されたF6Fのパイロットは単に任務というよりプライドを賭け、この新鋭機を追跡するのだが...しかし、いつしか思わずつぶやくのだった...。

「美しい鳥だ...おれはこんな美しい鳥を見たことがない。まるで過去か未来から飛んで来た幻の鳥のようだ.........」と。

機首に搭載されるエンジン「誉」は2000馬力級の高出力でありながらコンパクトでカウリングも細く絞れ、爆撃と雷撃攻撃を兼ね備えた統合機から想像する、鈍重なイメージを払拭した、まさに、大戦末期に現れた「幻の怪鳥」である。外見は明解に特徴づける日本機には珍しい逆ガル翼で、当時世界の同クラス機種の中では戦闘機ほどでは無いが稀有の運動性能で圧倒していたのである。上記漫画の話はあくまでフィクションであるが、実際に、初めて「流星改」に遭遇した英米パイロットは今までの日本機との違いに驚き認識を改めたのではないか。さらに前項での富士氏の手記にこの様なエピソードもあったので再度、記させて戴く。「B-29による空襲の他に、米艦上機が帝都の上空までやって来た20年6月の事である。編隊降爆訓練に出て間もなく空襲になった為、急いで木更津基地に帰投する途中、米のP-51ムスタングの編隊と出くわしてしまった。艦爆と戦闘機では先ず勝目はない。バンクをふって列機はすぐ逃げたが、隊長機の私は、そうとう執拗に追い掛けられた。で、操縦桿を右に倒してフットバーの左を蹴飛ばすと、機は右に大きく滑る。後追の機は海面に乗込むので、大きく右または左に急反転をする。この時敵機がこっちを向いてニヤリとし、こっちもニヤリと笑い、お互いにそのまま分かれるという信じられない場面もあった。いずれにしても、自分の生まれ故郷である関東平野を逃げ廻る気持ちは、誠に情けないのだが、戦争中の愛矯とでも言おうか、今になるとあの野郎、今頃何をしているんだろうとお互いに思ったり、思われたりしているかもしれない。」
「流星改」の出現はあまりにも遅すぎ、本来、艦載する空母もすでに無く、悲惨で空しいだけの特攻作戦だけで終結してしまったのは、本当に悔やまれる航空史の1ページである。これだけの性能を持った機体でありながら活躍の場があまりにも少なく短い生涯であったが、その存在感は大きかったと思う。
それを感じる要因として、やはり敵国であったアメリカ側の観点や評価認識である。1つは大戦当時、アメリカ海軍でも艦攻・艦爆統合機は検討課題であったが、日本は1歩先じて優秀な統合機を実現させ、戦後に大活躍したダグラスADスカイレーダーに大きく影響をあたえた事、もう1つは機種認識のために名づける連合国コードネーム「Grace (グレース)=品のよさ,上品,優雅;優美」である。実戦投入された、概ねの日本軍機にコードネームがつけられたがこれほど畏敬をもって名づけられた機種があっただろうか。勝利を目前にした連合国の余裕と言うか、寛容なところから名づけたのかもしれないが、実に巧みに表現された「愛称」だと思う。日本機名称「流星」(海軍機の名称ルールに基づき攻撃機は山、爆撃機は天体から、さらに単発機は星をつける)の語感の美しさと甲乙つけがたい。

どなたかの言葉を引用させて戴くが「美しい機体はすばらしい性能の持ち主である」というジンクスが軍用機の世界には存在し、また「すばらしい性能の機体はその姿も美しい」という言葉も成り立つのである。「流星改」は非運ではあったが、レシプロ機というカテゴリの中だけで考えても非常にバランスのとれた、当時の日本航空技術が生んだ渾身の機体であった。戦後、「流星改」は4機アメリカ本国に運び込まれ、3機がスクラップされ、現在1機のみ分解状態でワシントンスミソニアン博物館の倉庫で眠り、展示機会を待っている。

―蒼空に散華した攻五搭乗員に捧げる―

小松崎茂画 水面スレスレの超低空から魚雷投下する「流星改」雷撃隊


次号の機種! 
海軍局地戦闘機「雷電」を予定しております。


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この本の内容は以上です。


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