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Prologue

 エルシアンはほの暗い早暁の底辺に一人、座り込んでいる。何かに縋りたくて伸ばした指先が、ふと明りのランプに触れて反射的に手を庇った。
 灼熱を感じるより痛みのほうが強かった。だがそれも体を焦がす理解できないものへの恐れと脅えに焼き捨てられて、まるで自覚にならないほどのものだ。
 何故、と小さく呟いた。喉嗄れてそれもひどく辛かった。ランプの炎がはぜるほのかな音で、しんとした静寂が刹那破れた。
 音に引き戻されてはっとするが、それも一瞬のことに過ぎない。脳裏を潮騒がぐるぐると渦を巻いて、自分の身に起こったことを反芻しようとしている。やめて。
 顔を伏せる。思い出したくない。
(やめて、やめて!)
 思い出したくない。
(い、いや、いやだ、いやだ、)
 考えたくない。
(どうして、何故、いやだって)
 忘れ捨ててしまえるのなら何でもする。それがどんなにそれがあざとい事であっても構わない。目覚めて消える浅い眠りの浅い夢、それほど綺麗に溶けて流れてしまえと思い、ふと今までのことが全て夢だったような気がして顔を上げた。
 カーテンの被さったレースから強い光が差し込んでいる。夏は涼をとるために薄いカーテンを重ね引く。その合わせ目が僅かに開いていたのだろう。
 あれは夢だったのか。そうに違いないのか。エルシアンは自分の手首に残された指の跡を見る。赤くくっきりと残った強い力の残骸が目を焼くほど痛々しかった。
 顔を手で覆った。涙は出なかった。隙間から部屋を浸食していく朝日は明るく健康的で、初夏の空気のまま、同じほどに澄んでいる。そこに放り出されているのがやけに可笑しくて、エルシアンは喉を鳴らした。この身に起こったことを一体どうして理解したらいいのだろう。愛だって? ──そんなの、嘘だ!
 エルシアンは呻いてゆっくりとその身を床に折った。ごろりと転がると黒い髪が一面に広がる。夏用の、木を編んだ床敷の青い香りがむせかえるようだ。だが清涼な香りの中にいてもそれよりも強い、烙印のように消えぬ別の臭いがエルシアンの喉を塞いで呼吸を緩慢に止めようとする。
 ──気分が、悪い。
 胃の辺りで渦巻いている吐き気をこらえるために口に手をやるが、手首にくっきり残ったその跡が目に入った瞬間、我慢ができなくなった。駆け上がってくるものを宥めすかして中庭までよろめき出たところで限界だった。
 大まか吐き戻してからエルシアンは大地に拝礼するような恰好で後ろを振り返る。開け放した中庭と部屋をつなぐ扉を風が通ったせいかカーテンが僅かに揺らめく。肩で呼吸をしながら口もとを拭うとエルシアンは顔を上げた。
 澱みが流れ出すのが見えた気がした。頬にふれる生温かな空気は室内のものだろうか。それを思ったのに反応するように、胃がまた絞まった。
 今度は喉に引っかかるような酸いものしか出なかった。吐き切れない残留感を喉で鳴らし、エルシアンは何度も咳をする。
 消耗しつくして崩れ落ちそうになるのを手をついて支えるが、自分の吐瀉物と中庭へ降りる大理石の石縁に滑って倒れた。
 べしゃっというぬるい音がした。エルシアンは喘ぎながら身を引きずり、部屋へ戻る。
 中に入った途端にまた嫌な記憶を引きずり出す、濃い腐臭がした。目の前が一瞬くらむ。膝をつく。立っていられない。
 寝台へは戻りたくなかった。呼吸が楽になるまでは殆ど動けそうになかった。床の上で丸くなりながら、エルシアンは長い夜を記憶から消そうと躍起になる。
 目覚めれば苦痛が消えていればいいのに。体の隅々まで軋む痛み、それ以上に心の真奥まで浸食する、言葉にならない苦役、こんなもの、欲しくなかった……
 ぎゅっと目を閉じると悪夢が呼び戻ってくる。エルシアンは掠れた声を上げてどうにか顔だけを中庭との境目まで動かした。外気を吸いたかった。
 荒く呼吸しながら視線を不意に動かすと、硝子扉に移った自分の顔が見えた。床に垂れた黒い髪に比して明らかに顔色は白く、表情はそれ以上に強張って蒼白だった。
 違う、とエルシアンは呟いた。これは自分じゃない。俺はこんなに虚ろな顔をしない。こんな凍りついたまま死にかけたような顔をしない。……今までは。
 その言葉が頭に浮かんでエルシアンは面を歪めた。そうすると硝子の中の少年も顔を同じくするのだった。
 これが自分だ。
 全ての末端が一点で切り変わったように、裏返ったようにこの長い夜を越えて新しくなった──なってしまった。黒い髪に暗紫色の瞳もここ数年で急激に伸びた背丈も変わらないのに、中身だけがすり変わってしまった。
 エルシアンは再び顔をしかめた。硝子の中の自分の顔がひき歪み、ひどく醜く見えた。直視できずに床に面伏せる。ひんやりした床の温度がほんの僅かに胸の波立ちを押さえてくれるようで、漏らした溜息は長い。
 床に押しあてる格好になった耳に堅牢な響きが伝わってきたのはその時のことだった。かつん、という足音のように聞こえた。 エルシアンは飛び起きる。一旦おさまりかけていた動悸が跳ね上がって心臓がきりきりと痛みだし、思わず自分の胸倉を掴む。 ──気分、悪い……
 エルシアンは力なく床へ崩れ落ちた。足音がする。規則正しい律動が床を踏んでいる。ぞくっと体が冷えた。床に倒れて起き上がることもままならない。
 くそ、とエルシアンは知らず握りしめていた拳で床を叩いた。それもあまりに弱い暴力であった。気の抜けた音がして、固い床の感触の反動で手首の軋みが再び悲鳴を上げる。
 足音が近づいてくる。エルシアンは震えながらやっと身を起こし、やはり消耗と眩暈で床へ沈み込んだ。
 ……怖い。
 この足音を、どこかで聞いた。いつだ。いつ、どこで。
 エルシアンは目を閉じた。──多分、と最初に見えたらしき兆候を記憶はついに探り出す。
 それは、ほんの五日ほど前。このシタルキア王国の支配者であり、エルシアンの父親である国王の、生誕の祝賀の席。


1

 ……曙光が青紫にくすむ山々の稜線から溢れ出してきたのと同時に、鐘が一つ打ち鳴らされた。音は重く厳質であった。鐘声はようよう響き渡り、空気を細かく震わせ、余韻を長く引きながら次第に消えた。誰からともなく安堵のような嘆息が漏れ、すぐに歓声に変わった。
 王族しか身に付けることを許されていない純白の衣をまとった一団が立ち上がり、一段高い場所へ座っている登極者へ礼を取った。
「王紀、正祝、多祥清明、万祥万歳を許す」
 重々しい声が言うのを待ち兼ねたように、一斉に国王陛下万歳の三唱が起こった。王がこの日、四七才を迎えたのだった。既に壮年期にある王だが、眼光にはまだ十分な力がある。ゆったりと頷く様は威圧を放ち、峻厳であった。
 三唱が終わると場は急に緊張を弛めて和やかになった。日の初声の鐘を聴くために中断されていた音楽が流れ出し、ざわめきが戻ってくる。群れまとまっていた王族も散会し、貴族たちもそれぞれ歓談を再開し始めた。
 エルシアンは肩から力を抜いて首をゆっくり回した。いつものことではあるが儀式は疲れる、と溜息になる。王宮ではやはり国の筆頭としての格式に見合った儀典が多く、その度に列席を義務づけられて正直、面倒で仕方ない。
 処女雪の色をしたマントを肩へ掛け直すとエルシアンはひっつめていた黒く長い髪をようやく解き流した。基本的に髪は長く伸ばすのが礼だ。王宮では更にそれを一つにまとめるのが作法というものだが、年若い貴族には無造作に後ろへ流している者も多い。エルシアンがまとめ髪を解いたのはひとえに侍女がむきになってきつく髪を止めたせいで、最初の父王の言葉を待つ間ですっかりこめかみに鈍い頭痛を覚えたせいだったが。
 髪をほどくと急に頭が軽くなった気がした。こめかみの部分を指の腹で押していると、遠くから父の随従の声が自分を呼んでいるのが聞こえ、自分の番なのだと悟ってそちらへ歩く。父である国王に誕生日の祝いの挨拶をしなくてはならない。それもまた、自発ではなく義務であった。
「父上にはご壮健をお喜び申し上げます。暦年を重ねられますよ
う、万祥万歳の祈願をお許し下さい」
 腰を折りながら万歳、と呟く。決まり切った口上を口にしてしまえば他には何もなかった。元々父との縁は限り無く薄い。私人としての父との絆は恐らく妃である母親の所を訪れた際に築いていくものなのだろう。
 エルシアンには母親がいない。即ち両親の揃った光景を見たことがない。成人するまでは先王の正妃であった皇太后エレイナの膝元で育ったが、エレイナと父王がそれほど懇意でなかったせいもあって殆ど父と言葉を交わすこともなかったし、成人してしまえば後宮に自室を与えられるから、尚更会わなくなる。
 強固な血縁と言うべき他人はこの父だけのはずだが、まるで心に落ちつかなかった。
「そなたにも万祥の輝きがあるように」
 やはり父王も彼と同じく文言を低く呟いただけであった。はい、とエルシアンは軽く会釈をした。沈黙はひどくぎこちなく、いたたまれなかった。
 エルシアンは父に聞こえないようにそっと溜息を落とす。決まった言葉を与えるのと同時に王は実子達には何かしらの祝辞があるのが慣例だった。だが言葉は紡がれず、徒に時間が過ぎる。
 自分たちの間には何も無いのだと思うのはこんな時だ。微かに開いた間隙さえ、埋める術をお互いに分からない。
 だがエルシアンが本当に悲しいと思うのは、埋めたいと思う心さえ興らないことの方だ。ひどい衝撃に痛覚が麻痺したようにか、父のことになると平静に、ともすれば冷ややかに眺めてしまうことをエルシアンは否定出来なかった。
 それを僅かに嫌悪する心も父に対する好意の問題ではなく、自分自身の内側へ向けた内省というべきだ。
 異母兄の声が父上と促すのを聞いたのはそんな感傷にぼんやり浸っていたときだった。お時間を、という声の主をエルシアンはちらりと見る。異母兄と視線があって、今度は気まずさなどではなく俯いた。
 ……この兄こそがエルシアンには唯一の肉親と思える相手であり、何よりも揺るぎない自信に支えられた彼の全てを心底から敬愛する相手でもあった。

 その名をアスファーンという。彼もまた、後楯を殆ど持たない王子であった。それが万難を乗り越えて王太子に指名されているのだから、とエルシアンは微かに頬が上気するのを感じる。
 俯いてしまったのはアスファーンが嫌いだからとか苦手だからということではなく、ただ眩しかったのだ、とても。
 それは直視できぬ太陽に似て、いつでも圧倒的だった。エルシアンにもどうやら自らと同じ不遇の痛みを見ているのか、何くれと気を掛けてくれる。それがはやり立つほど嬉しかった。
 時間、というのは助け船だったのかもしれなかった。父とエルシアンがお互いに意味の無い会話をするほどに相手を知りたいと思っていないのを敏感に察したのだろう。無駄に模索するより理由をつけて打ち切ったほうが遥かに良かった。
 適当に挨拶だけをして、エルシアンは王前から退出する。真実これで解放されて肩の荷が下りた。父王が席を去るまでは部屋へは戻れないが、その間は好き放題に飲んでいればいい。
 元々母親が知れないことで後援の貴族を持たないし、将来の萌芽を自分に見出すほど目の利かない貴族もいないらしく、大抵エルシアンはぽつんとしている。それでも良かった。アスファーンのように王の側を離れても始終他人に囲まれて、見え透いた追従を流していくには自分はまだ子供なのだ。その自覚はある。
 他の王子達の側には侍従がいるが、エルシアンには侍従はたった一人しかいない。それも主従であると言うよりは友人だった。エルシアンはリュードという名の同い年の侍従を、配下だと思ったことがなかった。リュードのほうもエルシアンを主人だとは思っていないらしく側にいないことが多いし、言葉も砕けて乱暴だ。
 もっともその中に時折覗く気遣いや優しさを汲み取れないほどエルシアンは鈍感でも子供でもなかった。
 リュー、とエルシアンは溜息になった。今この場に彼がいるなら二人で飲みながら時間を潰せるのに、とそんなことを思うと苦笑が漏れる。リュードは今王都にいるがエルシアンの側にはいない。ほんの十日ほど前にさる貴族の奥方との情事が明かるみに出て謹慎中なのだ。それもまた、リュードに言わせれば
「だってさ、あっちから誘ってきたんだよ? たまには腹の出たオヤジじゃなくて、俺みたいな美少年を食いたかったんじゃないの? うーん、ヤな女じゃなかったけどそうね、中の下」
と、いうことらしい。
 自分で言うだけあってリュードは線の細い、繊細で端麗な美貌を持っている。エルシアンと並んでいるとどちらが王子なのか分からないと言われたことさえあって、仄かな気品と造形の美しさには捕らえ所がなく、猫科の生き物と形容されているのだった。
 近衛騎士の庶子であるリュードと貴族の間には広大な身分差があり、通常姦通の罪を問われても仕方がないが、謹慎で済んだのはともかくリュードの言った通り「誘ったのはあっちのほう」であることがどうやら事実だったからで、軽い叱責で済むはずをそうなったのはリュードの素行の悪さのせいだろう。
 彼はこの手の問題を起こすのが初めてではなかった。エルシアンの侍従として後宮へ上がってもう三年半が経過しているが、知っている限り、明かるみに出たのが七回目なのだった。
 一応王族であり王の二十二人目の子にして十三番目の男子なのだからエルシアンはリュードをもっと庇う事も出来るだろうし、ある程度強く押せるのだろう。そんな言い方をするとそれが事実だけに偉そうに聞こえる、とエルシアンは苦笑になる。
 だが現実王太子には既にアスファーンが立って責務を務めこなしているし、有力貴族を母に持つ異母兄弟たちも多い。そんな中に埋もれてエルシアンなどは王族の中でものけ者──除け者というより無視されていて王宮の勢力図などとは至って無縁であるし、これから先にも縁があるとは思えない。それに王子であることを意識させられるのが元来苦手だった。
 いつものように目につく酒瓶を取って広間の端で飲み始める。
 エルシアンは酒には強かった。酩酊するにはかなり量を飲まなくてはならない。この場で飲むことの出来るほどの量では微かに酔いが回る程度でしかなかった。
 そうしてしばらく窓の外の払暁を眺めながら飲んでいると、後ろから名前を呼ばれた。エルシアンは慌ててもたれかかっていた長椅子から身を起こし、振り向きざま立ち上がる。


2

 ……皇太后からの誕生日の贈り物は剣の下げ緒とマントの止め金だった。それぞれ黒耀石と色の深い紫水晶で飾られている。エルシアンの髪と瞳の色に合わせてあるのだ。つけてみるように言われてエルシアンはマントを止めるピンを引き抜き、もらったばかりのそれを同じ場所に当てた。
「よく似合うわ。お前は本当に着飾りがいがある子だね」
 皇太后エレイナは上機嫌のままに背後に立つ侍女を振り返る。
 ねぇ、と同意を求められて侍女は深く頷いた。ろうそくの灯に侍女の白金の髪の光が淡く揺らいだ。エルシアンは侍女と僅かに視線を合わせて笑う。
「ありがとうございます、おばあさま。大切に使います」
「間違ってもあの子にやってしまっては駄目よ」
 念を押されてエルシアンは苦笑になる。あの子というのはこの場合リュードのことだ。リュードは宝飾品を好きで集めているが、エルシアンも何度か巻き上げられているし、女に貢がせるし、無軌道を絵に描いたようだった。
「おばあさまからだと言えば少しは自重するでしょうよ」
 エルシアンは肩をすくめる。だが口で言うほどリュードを戒めようなどと思っていないのはエレイナにも分かっているようだった。本当かしらと笑っている。
 この日エルシアンは十八才の誕生日を迎えた。父王から遅れること二日だが、本当にこの日に生誕したのかは定かでない。母親がいない、のは死別したからではなくて不詳だからなのであった。
 誰だか分からない女の子供だと一笑に付されても不思議ではないが、父は自分を息子だと認めはしたのだ。
「お前も十八になるのね、本当に早いこと。ここへ来た頃はこんなに小さくて可愛らしかったのに」
 エレイナは椅子のひじ掛けあたりに手を置く。エルシアンがエレイナに引き取られたのは一才を越した頃で、それまでは侍女や女官の手を右往左往して育ったと聞いていた。彼女の死んだ息子にエルシアンが似ていたからと聞かされてはいたが、既に絆は固く結ばれ、今更理由などどうでも良かった。
 大切なのは、とエルシアンは思う。エレイナは祖父王の正妃で父王は側腹の王子、二人の間に血縁関係はない。エレイナから見れば父王は夫が他の妃との間に作った子供である。つまりエルシアンとエレイナは他人なのだ。
 だが、エルシアンを育ててくれたのはこの他人であるはずの老女であった。深く絡んだ絆の強さと深さだけが自分たちをつないでいる。そう思うと尚更に大切にしようという気持ちになる。
 血の繋がらない祖母から貰った贈り物を、丁寧にマントから外してエルシアンは髪をほどく。普段は王宮の作法など適当に聞き流して髪は結ばずに流しているが、今日はエレイナとの多少改まった夕食だったからさしあたって準拠してみた。その可笑しさはエレイナにも伝わっていたようで、今日はきちんとした格好で来たわねと笑われたものだ。
 下げ緒の両端にも黒耀石と紫水晶の飾りがついている。下げ緒自体は白金と金を細く糸状にして寄りあわせたもの、これ一本でどうやら田舎の別荘が買えそうだ。
 これは学院へは持っていけないな。エルシアンは溜息になる。
 エルシアンが王子であることは隠されているわけではないが喧伝しているわけでもない。実際、友人たちは自分が貴族であることを知っていても王族であるとは思っていないだろう。儀式や礼典のときに使うものにはまた細かな定めがある。王宮の中にいるときに髪をまとめる飾り紐として使うのがいいかも知れない。やっと使い道を見出してエルシアンは苦笑した。
 夕食を終えてしばらくエレイナと歓談してからエルシアンはこの館の自室へ戻る。成人するまではここで暮らしていたのだ。
 王宮は国政の中心として機能する太陽宮と呼ばれる部分と、王族の私生活の場である蒼月宮に分かれているが、エレイナの館は蒼月宮の更に深み、王宮全体の真奥に位置している。この時間になると夜の庭を抜けて近道を回っても帰るのは億劫だった。
 王族は基本的に自分の居場所をいかなる場合にも明らかにする義務があり、エルシアンが今夜ここへ泊まるのは既に蒼月宮を管理している部署へ連絡してある。不便だが仕方がない。平民たちよりは随分贅沢な暮らしをさせてもらっているのだから、多少の不便は受け入れなくては──それに。エルシアンは自分がいた頃のままの部屋で衣服を弛めながら口を苦笑にゆるめる。
 ……大体、それは「何かあったときに責任を負う立場の王族」のための制度だ。今までも何度かリュードと口裏を合わせて外泊を重ねているが、ばれて叱られたことは一度もない。それにあぐらをかいているのも良くないと分かっているが、緊張した空気のときは外には出ないでおこう、程度の認識に落ち着いていた。
 小さく扉が叩かれたのはその時だった。いいよ、といってやるとするりと音なく滑り込んできたのは先ほどエレイナの側にいた侍女だ。結いまとめられていた髪は今はゆったりと解かれており、眩しい白金の色味の薄さが清楚で胸に響く。
 ナリアシーア、とエルシアンは呼んだ。こくりと頷く仕種が愛しく、仄かに笑った唇が愛しい。ほっそりとした体の上にのっているのは何よりも美しい、絶対の美貌だ。どんな地上のものよりも神々に愛された宝石のように輝いている。
 ナリアシーアは窓際に立っていたエルシアンの側へ寄り添うとその場に座った。エルシアンもつられるように椅子に腰を下ろす。細い声が殿下、と言うのが聞こえた。
「お誕生日おめでとうございます」
 うん、とエルシアンは穏やかな返事をしてナリアシーアの髪に触れる。ゆるい波を描く美しい絹糸がさらさらと手の中で音を立てた。これ、と差し出された包みはエレイナに比べて相当小さい。受け取って包装を解くと、中は髪をまとめるための飾り紐と髪飾りだった。同じ意匠をこらしてあるから揃いで使えるものだ。これがナリアシーアからの贈り物だった。材質は絹だろうか。
「陛下のに比べると、恥ずかしいんですけど……」
「比べるのはおかしいよ。それに君がくれるなら何でも嬉しい」
 それは偽りない気持ちだった。
 ナリアシーアの家格は貴族の中でも低いほうから数えるのが早く、また門閥の係累などでもなかった。経済的に豊かとは思えなかった。ナリアシーアに出ている侍女としての給金は家に入れていると聞いたことがある。彼女の細々とした小遣いあたりで買うのがやっと、なのだ。物よりもそれをしてくれる心のほうがエルシアンには何倍も嬉しい。
 急にエルシアンは立ち上がった。ナリアシーアが驚いたように彼を見上げた。エルシアンはゆるめていた衣服の襟を多少戻しながら空を見る。満天の星、輝く月、雨は降っていないようだ。
「ちょっと部屋、行ってくる」
 蒼月宮のですか、とナリアシーアが聞き返した。エルシアンは頷いた。エルシアンの部屋は太陽宮に程近い、他の王族たちと分けて使っている居宮の一角になる。蒼月宮という言い方自体がいわゆる後宮の総称であって、実質はこうした居宮や小宮を温室や回廊で繋いでいる建造物群だ。このエレイナの館は蒼月宮と一般に呼ばれているあの建物の森からは庭園を抜けて丘を越え、更に馬場や池などを挟んでいて遠い。エルシアンは近道を知ってもいるが距離があるのは否めなかった。
「すぐ戻るよ。ここで待っておいで」
 エルシアンは言ってバルコニーへ通じる硝子戸を開いた。丁度良い位置に植えられている木の枝をつたって下へ降りてしまうのだ。帰りも同じ道筋を通って自室に戻る。昔からこの順路で夜中、よく池まで泳ぎに行ったものだ。夜の池は人の気配がなくて涼しい。
 ナリアシーアが外してあったエルシアンの夏向きのマントを取った。夏とはいえまだそれは始まったばかり、夜露が降りれば肌に寒い。マントを受け取って腕に巻きつけ、エルシアンはもう一度ここで待っているようにと言った。
 学院が休みに入ってからリュードと一度王都の市街へ「補講だから」という名目で遊びに行ったときに、彼女の為に買っておいた夏向きのレースのショールがある。
 ナリアシーアにちょっかいをかけるんじゃありませんよと最初に彼女に出会ったときにエレイナに釘をさされているから、祖母の前で女物の贈り物をぶら下げて歩けず持ってきていなかった。
 それに見つかってしまえば「お祖母さまに」と差し出さないわけにゆかないだろう……それは勘弁。
 地上へ降りて一度自分の部屋を振り返れば、ほのかな明かりを背にしてナリアシーアが小さく手を振り、声を立てずに何か口を動かしている。気をつけて、だろうか。
 エルシアンは軽く手を挙げて夜の庭を急いで渡り始めた。


3

 夜の蒼月宮はひっそりと静かだった。既に王族が部屋に引き取り私人としての時間を過ごしているはずで、一部の侍従や召使いを除いてはもう休んでいるに違いない。
 蒼月宮に入るには太陽宮から続く門を通らなくてはならず、それ以外に出入り口はないから警備上の心配はない。だがやはり人の気配のない回廊の空気は昼間の解放感とは違っていた。植え込みの花たちや茂みがざわめく度に夜の意思のような物に包まれている気がして気味が悪い。さっさと用事を済ませて帰ろうとエルシアンは足を速めた。
 堅牢な足音が遠く響いたのはその時のことだった。エルシアンはその音に驚いて思わず振り返った。胸が突然激しく打ち始める。
 規律正しいその音は次第に近くなってきて、エルシアンはつい後ずさった。
 何か、怖いものが来る気がして仕方がなかった。見えぬ圧迫に押されてエルシアンはごくりと息を飲み、それから自分の憶病さに面を歪めた。馬鹿馬鹿しいことであった。
 遠い回廊の向こうに灯火が揺らめいた。太陽宮のほうから誰か来るのだ。それが人であったことだけでエルシアンは急な安堵にふれ、吐息を落とした。ぼんやりとした明かりがエルシアンの前で止まる。王族の足元を照らすように灯火を持った侍従が膝をつき、エルシアンに深く頭を下げた。主人はアスファーンであった。
「今日は皇太后陛下のところと聞いていたが?」
 相変わらずの落ち着いた低い声にエルシアンは頷き、物を取り
に来ただけですからと答えた。
「兄上は……お仕事ですか?」
 アスファーンは苦笑と共に曖昧に肯定した。良く見ると夜着の上から軽くガウンを羽織っているだけだったから、アスファーンも一度は休んでいたのだろう。ラジールがな、と呟いて溜息をついたから戦が始まるようだった。
 ラジールというのはこのシタルキアの西を流れる大河で国境を別つ隣国で、領土と利権の問題はどちらかが滅びるまでは解決しないと思われた。それが河を越えて侵入してきたのだ。
 もっともそんなことはこちらも頻繁に行っているからあちらを一方的に非難するのはおかしなものだとエルシアンは思う。だが、政治というのはそれを真顔で言うものだ。……自分が大人になって、そういうことにためらわなくなればアスファーンの側で国政に携わることも出来るだろうか。実はエルシアンの希望は国政に関わることではなく、この異母兄の信頼を得ることなのだ。
 アスファーンが早く帰りなさいと促して自らも回廊の奥に消えていくのを見送り、エルシアンは自室へ歩き出した。アスファーンの重い足音がやがて聞こえなくなり、灯火の僅かな蜜柑色が視界から消えると再び静寂が帰った。
 だが、その静穏な闇は今度は安堵だった。不安が急に解け消えてなくなっているのにエルシアンは気付いた。夜中の蒼月宮など出歩くものじゃないと心に刻みながら自室へ入る。
 包みを衣装部屋から持ち出すと蒼月宮を後にし、丘の中腹あたりまで来て振り返る。目の端に灯火が幾つか揺れたのを、見た気がしたからだった。
 案の定、アスファーンを照らしていたのと同じような灯が幾つか回廊を行き来している。ラジールとの戦役が開いたのを知って、主要な王族の招集がかかったのだろう。エルシアンには呼び出しは来ない。エルシアンの立場も握っている力も無いに等しいもので、今夜決まったことを明日の朝からの王族会議で了承するだけだ。拒否など出来るものではないし、結局は多数決であるから無意味でもある。
 それが悲しいとは思っても、権力を手にしたいかというとそうでもなかった。自分の手に余るということは考えなくても分かる。自分はそんな器ではないのだ。


4

 館へ戻るとナリアシーアは起きて待っていた。エルシアンは手にした包みを先に彼女へと放り投げ、木をよじ登って部屋へ上がった。ナリアシーアは湯を沸かしていたようだった。外はまだ少し寒いでしょうから、と言いながら茶をいれている。
 差し出されたカップを取りながらエルシアンは自分からの包みを開けるようにナリアシーアに言った。ナリアシーアは少し笑った。その笑顔の優しさがランプの明かりに馴染んで柔らかい。綺麗な笑顔だとエルシアンは思った。美しいのは彼女の外側の造形ではない。内気がちではなるが優しくたおやかで、しなやかな芯の強さと気性の良さを持っていることが、真に美しいのだ。多分、もうこんな女には巡り会えない。
 包みを開けたナリアシーアが微笑む。エルシアンは茶のカップをおいて自分の送ったショールを手に取り、ナリアシーアの肩にかけた。思った通りに良く似合う。元々持っている清楚な輝きにしっくりと収まった。
「ありがとうございます、こんな……」
「君の誕生日には会えなかったからね」
 王族としての義務に基づき、この春は父王のシタルキア東沿海部の新港視察に随行している。ナリアシーアの生まれは春早い時節なのだった。
 視察の随行から帰ってきてからその埋合せにと一度王都で会っているが、ナリアシーアは何を見ても絶対に「欲しい」を言ってくれなかった。ナリアシーアに何かを贈るには押しつけるしかない、とエルシアンは悟ったものだ。けれど喜んでくれるならそれでも良かった。彼女のことを今自分の持っている何よりも大切に考えている。
 似合うよ、とエルシアンは言った。ナリアシーアは微笑んで自分の肩のショールに触れた。触れる指の細さ、丁寧に手入れされた爪の優美さ、何よりもその手を持っている彼女自身の薄暗い部屋の中でも輝くような美貌。
 エルシアンはまばゆいものを見るように恋人を見つめた。出会った頃声をかける度に脅えて震えていた面影は既に薄く、微笑まれると胸の奥にざらめく喜びがある。
 エルシアンはナリアシーアの隣に腰を降ろした。名前を囁きながら細い手首を掴み、引き寄せる手で抱き込みながら軽く唇を触れ合わせる。ナリアシーアの唇はいつでもしっとりした甘みがあって、微かに冷たい。その冷たさに相反するように、触れていると体の奥から炎のようなものがかぎろい始める。冷えた唇を、血の気の薄いその体を、やわく溶かしてやりたくなる。膝を開いてエルシアンはその中へナリアシーアを収め、後ろから肩を抱く。
 もう付き合い始めて一年に近い。……急ぎすぎるのは良くないと今まで先送りにしてきたけれど、そろそろいいかな……
 ナリア、と呼びながら首筋へ唇を移動させると腕の中のナリアシーアがぴくりと緊張するのが分かった。駄目? そう聞くと、僅かな間があってから小さく首が振られる。エルシアンは内心でほっと溜息を落としながらナリアシーアの細い体を背後から抱きしめた。彼女の髪にはいつでも花の香が入っている。その匂いにつられるように、どこまでも遠く落ちてもいい。今までの恋愛など軽いものに見えてくるほど彼女を愛している。一生に一度の相手というなら確かにナリアシーアしかいなかった。
 エルシアンは軽いキスを繰り返しながらナリアシーアの体に触れる。女の体はいつでも驚くほど柔らかい。ふわふわしている。
 肩を掴んで正面を向かせると、ナリアシーアは苦役に耐えるようにぎゅっと目を閉じ、微かに震えているようだった。
 エルシアンはゆるく、そして小さく吐息を落とした。女に触れるのが初めてでなくて本当に良かったと思った。
「怖い、ナリア……?」
 ナリアシーアは首を振る。けれど少しも弛緩しない表情でそれが嘘だとすぐに分かった。エルシアンは今までの多少の執拗さを無理に手つきからそぎ落としてナリアシーアの頬を撫でた。
「いいよ、急がないから。もっと、君が……君が俺を好きになっ
てくれるまで、今のままで……」
 そう言いながらエルシアンは我ながら我慢強いと内心で苦笑になる。実のところ、早く彼女を抱きたいのは確かだ。だがナリアシーアの気持ちを優先すると最初に言ったのも事実だったし、それを反故にしようとも思わない。
「嫌ではないんです、ただ……」
 ナリアシーアはエルシアンの肩に顔を埋めるように呟いた。消えた言葉の先をエルシアンは正確に知っていた。
「不幸の魔女」。彼女をそう呼ばせるに至った巡り合わせの悲劇を、未だに忘れていないのだ。
 エルシアンはいいよ、と努めて軽い口調で言った。落胆は確かにあるのだが、それよりも彼女を傷つけたくないという気持ちのほうが大きかった。
 エルシアンの様子が沈静したのが分かったのか、ナリアシーアはごめんなさいと小さく言って、自分から唇をエルシアンに押し当ててきた。ついばむようなキスを繰り返し、これでも最初の頃よりは大分ましだとエルシアンは自分を慰めている。
 ナリアシーアの美貌が引き起こした数々の事件と必ずついてまわる死の影を、彼女が自分のせいだと思い込んでしまったことが一番の不幸だが、思い直させるにはまだ努力が足りないということだろうか。気にするな、君のせいじゃないと言ってみても彼女にとっては気休めにしか聞こえないのももう分かっている。
 ナリアシーアは恐れているのだ。自分とつき合う男は皆死ぬと、そう思っている。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」
 泣き出しそうな声にエルシアンは首を振る。ようやく波だちが落ち着いていくのが分かった。急がない。焦らない。その二つをまた心に刻もう。
 エルシアンはいいんだ、と言った。自分でもふと笑みたくなるような、柔らかな声だった。
「君に無理強いはしないと言ったよ」
 既に体をまさぐるのを止めていた手で彼女の背中をかき抱いてエルシアンは深く呼吸をする。やはり花香の匂いは鼻腔から侵入してきて脳裏を僅かに白く染めようとするが、それを押し殺した。「好きだよ、ナリア……」
 エルシアンの呟きに答えるように、ナリアシーアがこくんと頷いた。からめる指の細い冷たさが切ないと思った。しばらく椅子の上で抱きあいながらエルシアンはいつか、のことを考えている。
 いつか、彼女の全てを手に入れて幸福の水に溺れる日のことを。その頃自分は大人になっているだろうか、何かの仕事をしているだろうか。アスファーンが何故だか自分を構ってくれるのを、期待してもいいのだろうか。もちろんそのための努力は払う気がある。エルシアン様と呼ばれたのはその時だった。
「あの……わたし、とても……好きです……」
 本当です、という声の細さも愛しかった。頷いてエルシアンは彼女にまた口付けをした。ついばむ唇のささやかな冷たさが衝動を僅かに引き止めている。体に触れたい、自分のものにしたい。だが、それはまだ「いつか」の物語だった。
 突然固いものの音がしてエルシアンは体を放した。瞬間的に身が竦んだのだった。僅かの間をおいて、それが風に揺れた枝が寝室の窓を叩いているのだと気付く。ほっと落とした溜息は、心底からの安堵であったために却って本人をぎょっとさせた。
 エルシアンは自分の身に巣喰い始めているこの微小な、対象の良く分からない不安をかき消そうとナリアシーアの体を強く抱いた。彼女の肌から立ちのぼる甘い香りだけが、それを忘れさせてくれるような気がした。
 そして次にエルシアンがその音に気付いたのはそれから更に三日後、──運命の変わった夜。



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