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2

 ふと父の声が耳に届いた。
「メルリィとラストレアと、どちらがいい」
「──いいんですか?」
「自分で願っておいて何を言うか。どちらがいい」
 メルリィと言いかけて、エルシアンはどちらでもと修正した。メルリィは工芸品などの産地を近くに抱えた商業流通の中心地で華やかな都市だが、比較してラストレアは軍事的意味合いが強く、地味な印象がある。生活全般のことを思えばメルリィのほうが面白そうなのだが、勉強したいのだと言った手前、控えた方がよさそうだった。父王は頷いて呼び鈴に今度こそ手を伸ばした。その鈴の高く澄んだ音に紛れて父の声がではラストレアだ、と言うのが聞こえた。
 ラストレアには父の実弟で大公位を得ているサラーラ叔父が居る。その方が父の目が届くということのようだった。あの、とエルシアンはアスファーンを呼びに行かせた父に向かっていった。
「寮に入りたいんですが……」
「好きにしろ。但し、かかる不具合は自分で解決する旨をサラーラに念書で出しておけ」
 あっさりと自分の願いが聞き届けられてエルシアンは不思議に目をしばたいた。父に何かを願うのはこれが二度目だが、最初が最初だっただけにするするとうまく運ぶことが信じられない。ありがとうございます、と口にした言葉はぼんやりとした、現実味をうまく掴んでいない声だった。
 アスファーンを待つ間、やはり空間を満たしたのは沈黙だった。父は今までと同じく、エルシアンに甘い顔をしてくれはしなかった。その方が今まで知っていた父の像に近く、エルシアンは俯いた。この父のほうに慣れていることがとても悲しいことのような気がしてきたのだった。
「お前は……いつも」
 不意に父が呟いた。父の視線は窓の外の禁園に向けられていた。美しい庭は冬を迎える装いに変わっている。寒椿の群れがここからでも赤く萌えているのがわかった。
「──突然来て、突然去るのだな……」
 何の事か一瞬わからなかった。突然来て、がどうやら自分が王宮に連れてこられたことを指すのだというのに気付いたのはかなり経ってからだ。
 自分の生まれた正確な日をエルシアンは知らない。産み落とされた子供は恐らく唐突に父の前に突きつけられたのだろう。それを認知して父は自分を引き取った。ほとんど目をくれたことは無かったが、それでも生活一切を保証し、今エルシアンの願いを聞いてくれたのは事実だった。
 父上、と声をかけても王は答えなかった。それに僅かにエルシアンも安堵する。何を言っていいのかわからなかった。
 扉の向こうからアスファーンが現れると転校の手続き、入寮の打診、そんなものを父はアスファーンに引き継いだ。それを終えて思い出したようにエルシアンに聞いた。
「時期はいつから」
「出来れば今月中に」
 進級の試験が来月の半ばから始まる。落第するはずはなかったが、王都の学院ではもう試験勉強など出来る環境ではなかった。王はちらりとアスファーンを見た。アスファーンは無理ではありませんが、と答えた。新学期からでは遅すぎるとエルシアンは慌てて父に頭を下げる。父は溜息と共に本人の望みにそってやれ、と言って手を払った。もう行けと言われているのだった。
 執務室を出るとアスファーンはエルシアンを見下ろしたが何かを言おうとはしなかった。底冷えする視線の冷たさが肌を凍えさせるほど焼いたのを感じたのも一瞬だった。アスファーンは望みが叶ってめでたいことだと低く呟きを捨て、まっすぐに回廊を自分の執務へと戻っていった。
 回廊を曲がって消える瞬間、アスファーンはエルシアンを振り返った。エルシアンはその視線を睨み返した。お前から逃げてやる。来月には自由だ……!
 エルシアンは口元を弛めた。するとアスファーンもまた、同じような表情をした。
 それがどういう意味なのか掴めず、エルシアンは一瞬背を伸ばす。アスファーンの笑みは自分よりも懐が広く余裕があった。
 あれは、とエルシアンは思った。自分がラストレアへ行くまでの、残された三週間ほどをたっぷり使う気でいるのだろう。その時にでも撤回させればいいとでも思っているのか。
 そんなことはさせない! エルシアンは一つ深呼吸をすると、回廊を急ぎ始めた。
 自分は、もっとわがままになってもいい。リュー、お前の言う通りかもしれない。自分を歪めてまで屈しなければいけないものなんか早々ないんだから。
 皇太后に願ってしまおう。残りが僅か三週間、それを言い訳にして孝行したいと言えば何とかなる。祖母の愛情を疑ったことはなかった。
 蒼月宮の広大な庭園を横切り、池まで来てエルシアンはそこから空を見上げた。いつか空へ消えた小鳥の幻を探したかった。
 つき抜けて青く高い空に飛んでいく、視線のなんと希望に満ちていたことか。まっすぐに、遮るもののない空へ。
 高く遠く、……もっと、もっと。蒼穹へ羽ばたく翼を今手にしたのかもしれない──エルシアンは零れてきた笑みに気付き、今度こそ破顔した。リュードがいれば抱きつけたかもしれなかった。
 あと三週間。エルシアンはこみ上がってくる歓喜を声にして軽く笑った。だがその三週間を自分は手に入れることが出来る。アスファーンの好きになど、もう二度とさせてたまるものか。
 エルシアンは呼吸を整えてゆっくり皇太后の館へ歩き出した。北風が吹き抜けていって、冷たいものを初めて感じる首をすくめる。ばらけて頬を叩く髪を押さえながら、エルシアンはまっすぐに前を見つめた。未来がすぐそこに見えている気がした。


3

 ……学生寮は思っていたよりも清潔だった。掃除や手入れが行き届いているのだろう。そう思って階段を上りながら見回していると、案内で先導する寮監督が掃除は半月に一度、公共部分を全員でするのだと言った。特に掃除のやり方を知っているかは聞かれなかったから、自分は平民層出身だと思われているのだろう。
 自分は上機嫌で、もっと言うなら浮かれている。ナリアシーアや皇太后エレイナ、王都の学院の友人たちと離れるのは辛いことだったが、それよりも解放感のほうが大きかった。
 部屋は三階の左端だった。寮は原則二人部屋だが、それには流石に叔父が難色を示した。父も固いがこの叔父はもっと固い。しかも父よりもよほど説教が好きで辟易するが、ともかく寮へ入ることも出来たのだから、満足しなくてはならないだろう。
 寮の厚い扉が閉まったとき、それが自分を守ってくれる安全な籠に思えた。アスファーンの母の実家はラストレア近いが、肝心の母が既に故人であることと本人が多忙を極めているせいで、アスファーンは滅多にラストレアには立ち寄らなかった。
 来たとしても、とエルシアンはまた笑みになる。寮にいる限り安全は保証されているも同然だ。アスファーンは良くも悪くも人目を引く。接触する機会があるとするならラストレア城内だが、それも城に泊まらなければいいだけの話だった。
 部屋の鍵を渡すと寮監は役目を果たしたと忙しく階下へ降りていった。それを見送り、エルシアンは床に一度置いた荷物を担いだ。それほど荷物は持ってこなかった。制服と私服が何枚か、それに使い慣れたペンと履き慣れた靴。そんなもので十分だ。
 鍵を差し込むとどこかで引っかかったように上手く入らない。眉を寄せて鍵をがちゃがちゃと押し込んでいると、階段を上がってくる足音がした。鍵を間違えたのを気付いて寮監が上がってきたのかと思ったがそれは外れで、姿を見せたのは同い年くらいの亜麻色の髪をした少年だった。そちらもすぐにエルシアンに気付いたようだった。ああ、と軽く声を上げてすぐに笑みになる。人好きのする穏やかな表情だった。
「今日、新入寮が一人来るって聞いてたけど、君?」
 エルシアンが頷くと少年もまた頷き返して鍵、と言った。
「鍵、死にかかってるんだよ。寮も古いからね」
 そう言って少年は差し込んだままの鍵を握っていたエルシアンの手を取った。心臓が跳ねるのが分かった。眩暈か、吐き気か。どちらにしろその襲撃に耐えるつもりで一瞬目を閉じる。
 ──だが、どちらもやってこない?
 エルシアンはゆっくり目を開けて、自分の手に軽く添えられるように握る手と、持ち主を見る。肌の温かみだけが伝わってきて、それ以外のものは何も襲ってこなかった。
 エルシアンはそれでも遠くから潮騒のようにやってくる変調の兆しを探し、ついに見つけられずに思わず口元を緩めた。
 もう何にも怯えなくていい。怖がらなくてもいいんだ……!
 こみ上がってきたのは喜びだった。きっと食事も出来るし夜もよく眠れるだろう。少年が不思議そうに自分を見上げたのが分かったからエルシアンは緩く首を振った。
「少し押さえぎみにして、……こう……」
 少年の手に導かれて鍵がすんなりと型にはまった感触がした。右に回すとピンが跳ねる音が小さくした。なるほど確かにこつがいるのだった。ありがとうと言ってからエルシアンはまだ名乗ってもいないのに気付いた。
「エルシアン・クリスです。法学、五十六期……よろしく」
「ケイ・ルーシェンです。同じ法学で同期になるのかな。こちらこそよろしく」
 微笑み返してきた表情の毒気のなさにエルシアンは深い安堵を覚える。ケイという少年もまた、自分と同じく環境と他人にしっくり馴染んでいくのだろう。自分と同類の臭いがする。
 きっと仲良くなれるとエルシアンは思う。この予感は多分、外れない。よろしくと差し出されてきた手をエルシアンは握った。それをためらいなくできることが、何より嬉しかった。
 ケイはエルシアンの持ってきた荷物に目を留めてそれだけかと聞いた。本や資料の類いはどうしたのかと聞かれている。長期休暇中ではないから明日も授業があるのに、エルシアンの荷物は本が入っていないせいで小さいのだった。
「ああ、こっちで本とかは全部買うから。急なことであまり荷造りをしている暇、なかったし」
 ケイが半ば呆れたような感嘆のような半端な顔をした。本は安いものではなかったが、正直エルシアンには値段は関係無い。もし小遣いに困るようなことがあれば、持ち出してきた幾つかの装飾品を換金すればいいことだった。
「本は今から? 邪魔でなければ市街まで行くから本屋くらいなら案内しようか?」
 有難いことだとエルシアンはすぐに頷いた。荷物を入れてしまいなよ、と言われて部屋を開ける。窓を閉め切る鎧戸を開けるとすぐ外に大樹の枝があった。夏は芽吹いて清涼な香りを部屋に満たしてくれるに違いない。
 エルシアンが少ない服をクロゼットに放り込んでいると、ケイが着替えを済ませて戻ってきた。荷物の整理を見ながら簡単に寮生活や学院のことを話してくれるのは根が親切なのだろう。
 どこか垢ぬけないぼんやりした雰囲気とにこやかな表情が素直な育ちの良さを感じさせた。寮にいるということは貴族なら下位、平民なら豪商の子息というところだろうか。家名を名乗らなかったからきっと、後者だろうけれど。
 俺の部屋隣だから、と言われてエルシアンは振り返った。ケイがエルシアンの寝台脇の壁をこつこつ叩いた。
「何かあったら呼んでくれていいよ」
 頷いてエルシアンは心からの笑みになった。良い場所だ、と思った。ラストレアの澄んだ空気も、この寮に流れているどうやら安楽な雰囲気も、窓の外の木も。
 全部が王都に無かった暖かな色だ。豪奢で重厚な天蓋付きの寝台も、美しい曲線を描いた足を持つ机も、極楽鳥の羽をあしらったペンも何もないが、そんなものたちよりも遥かに美しい。
 全部が、きっと上手く回る。その予感を得てエルシアンはますます機嫌よく笑みになり、持たせてもらった現金を服に押し込んだ。行こう、とケイの背を押す。何の躊躇も苦痛もなく他人に触れることができる──元どおりだ。
 エルシアンはひそかに笑い、ゆっくりと寮の階段をケイについて降り始めた。


Epilogue

 ……だが、一度逃げたことが後々ついてまわる屈辱と忍従の最初の環だとエルシアンはまだ知らない。
 アスファーンの理不尽な行為に流された短い期間は確かに一度幕を閉じた。だがこの半年で二度と抜けぬ楔を打ち込まれたことをエルシアンはまだわからない。一生エルシアンの中から傷は癒えず、何度も蘇っては苦しむことなどまだ知る術もなかった。
 けれどその傷がやがて彼を未曾有の歴史を誇った大帝国の創始者にする。エルシアンの決して長くはない生涯に落ちる影をアスファーンと呼び、二人は終生寄り添わず、憎しみあいながらお互いの運命の輪転車を食い合った挙げ句エルシアンは「兄殺し、一族殺し」の代償に登極者としての栄光を戴冠することとなる。
 だが、それはまた別の機会の話だ。今のエルシアンは年若く実績も後背もない王子であり、ただ安穏に暮らせることだけを望むだけの存在であった。
 エルシアンの人生の中で、最も温かく柔らかな追憶に彩られたたった半年の休暇が今、始まろうとしている。


奥付

自由の翼・シタルキア創国記序章


TitleDesign:ひめのゆか
『乙女チック★官能小説』ジャンルを提唱し、らぶえっちの道を突き進む恋愛脳作家。ブックオフを心から愛し、今日も買っては積んで満足。甘くて辛目の小説と、可愛いデザインの両刀使い。桃野ゆかこ名義で電子書籍配信中。

Illustration:シサム
おかずだけでは駄目だ、お米も欲しい。口の中をさっぱりさせるお味噌汁も必要だ。バランス良く野菜のおひたし、箸休めのお漬物も。食後のデザート、シメのお茶もあるような…定食みたいな絵を描きたい。

Text&Infrastructure : 石井鶫子
失笑脱力ぬるユル短編から胃もたれゲンナリ長編ファンタジーまで、文字を書き散らすことに意味を感じるモジスキー。蟹を心から愛しているが、蟹は私を振り向かない。年に1度か2度でいいんだけどなぁ。

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