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3

 父は僅かな疲れをにじませていたが、それほど消耗した様子はなかった。事後処理のために残った将軍の家族に対する恩賞を出す旨をアスファーンに口頭で伝え、あっさりその場から去った。王が視線を与えたのは不在の期間中に生まれた王女とアスファーンにウォーガルドの三人だけで、その他は林立する木々のようなものらしい。エルシアンも含めて。
 集まった王族の間を抜けて父の背が王族専用の回廊の向こうへと暗さに滲み、消えていく。
 エルシアンはそれを追って数歩行きかけて、諦めた。父はアスファーンと何か話しているようだった。留守中の報告を聞いているのだろう。同時にアスファーンの施策を確かめて指導することもあるに違いない。それに割り込むのは機嫌を損ねるどころの話ではないことになる。
 やはりここでは駄目だとエルシアンは溜息になる。公式の場となると王の側に必ずアスファーンがつき従っているし、不用意な発言を許す父でもなかった。
 厳格で厳質、威厳に溢れた父の姿を見る度に、自分が本当に血を分けた息子なのかどうかさえ怪しいと思う。……だが顔立ちは似ていた。父親と全く同じ、黒髪に暗い紫の瞳を持っているのは自分だけだ。
 リュードはエルシアンの部屋で苛々と時間を噛み潰していた。彼の処遇は中途半端に浮いていて、エルシアンに随行することもできなかったのだ。
 礼服から平服に着替え、夕方までエルシアンはリュードと話をした。ザンエルグ家の親戚や遠縁の男子はいるが、血は薄い。リュードの義母はリュードの相続に強烈な拒否を示していて、そのせいもあって相当内輪で揉めたようだった。
 帰宅した日に食事にと階下に降りていくと、義母は犬の餌を皿に盛ってリュードの足下に置いたという。それを戸外でうろついていた野良犬に食わせたら死んだ、とリュードは鼻で笑った。警告としては最大のものであろうと思われた。
「食事は危なくて食えないし、親父は寝込んだままだしさ、大体領地が掛かってるから親戚も俺を追い出すことでは一致してんだよ。あの女を将来自分の稼ぎで養うのかと思うと吐き気がする。あっちこそ死んじまえば良かったんだ」
 死んだあの野郎が懐かしいね、といってリュードはその言葉をまるで信じていないのを自分で笑った。
 エルシアンは黙りこくったままリュードの置かれている環境の悪さを思った。
 義母がリュードを嫌うのが理不尽だとは思わない。彼女から見れば夫が他所の女に産ませた不義の子で、見るだけでそのことを思い出すのだろう。だが、それと執拗で陰湿な苛めを許すかどうかは別のことだ。
 父親はリュードをそれなりに庇ったようだが、目の届かないことは沢山ある。見ているようでどこかずれている大人たちの目をくぐり、兄弟たちからも同じような虐待を受けていたようだ。
 リュードはエルシアンの表情を見て取ったようだった。気にすんなよ、と軽い口調でエルシアンに笑った。それはもう見慣れていた彼の飄々とした一面だったが、エルシアンはそれに微かに強張った笑みで返すのがやっとだった。
 日が暮れて一斉に王宮に火が点された。エルシアンは適当な時間を見計らって立ち上がった。髪を、とリュードが言った。
 父王の規礼に対するに対する厳しさを彼も知っている。王宮では髪をまとめるのが作法だったから、そうした方が良いと言われているのだ。エルシアンは頷いて自分で始めた。
 適当に整えてから髪紐を目で探していると、リュードが衣装部屋から髪止めのしまってある小箱を持って戻ってきた。
「こんなのなんかいいんじゃない?」
 差し出されたものを見てエルシアンは顔を思わずしかめた。皇太后から貰った剣の下げ緒だった。あれから触るのも怖くて箱の奥に押し込んだままだ。
 エルシアンの嫌な顔を見てリュードは綺麗じゃない、と言ったが同意する仕種は凍えたまま、ついに出てこなかった。
「じゃあ……こっち?」
 リュードは何故とは聞かないで、別の紐を差し出した。安堵で頷きながらエルシアンはそれを受け取り、髪を結んだ。
 結ぶと途端に身が引き締まるような気がした。父の元に自分から行くのはこの五、六年には覚えの無いことだった。
 二人で会話らしいものをしたのは三年前、成人を迎えたときに慣例として父との会食に呼ばれた時以来だ。その時何を話したかなど、殆ど覚えていない。父の隣にいたアスファーンが沈み切った空気を察してエルシアンに細やかに話しかけてくれたが、それ以外に言葉を発した覚えがなかった。
 回廊を宴の催されている小宮へ向かって歩きながら、この道の遠く暗いことをエルシアンは感じた。
 リュードのことをどうにか出来るという自信は全く無かった。何故か父には避けられている、意図的に無視されているような気さえするのだ。そんなことで果たして自分の願いを聞いて貰えるのだろうか── いや。
 エルシアンは身震いのように一つ、首を振った。それは聞いてもらわなくてはならないのだ。


4

 小宮にいたのは殆ど王族だった。皇太后の姿は見えない。元来父と皇太后は懇意ではなく、公式以外の場に列席することは非常に珍しかった。
 父はゆったりと椅子に背を預け、自らの妃たちと何か話していた。傍らに寄り添うようにいるのはアスファーンだ。アスファーンも妃の一人を連れている。公式の場合には妻帯しているものは妻を連れていくのが慣例だ。ここは公式ではないが、準じるとするならそれも道理だった。
 父の側に行かなくてはいけないと思いながらもそのきっかけの言葉を今更どうしたらいいのか考えあぐね、エルシアンは溜息を漏らした。
 それが聞こえたわけではないだろうが、アスファーンがふと視線を流し、エルシアンに気付いたようだった。アスファーンが腰を屈めて父王の耳元で何か言っているのが見える。ちらりとこちらを見たから自分のことだろうか。
 エルシアンは一つ呼吸を深く吐いてから父の座る部屋隅へ徒歩を進めた。父が軽く頷いて妻たちを手で払い、立ち上がった。王の突然の移動に一瞬動きかけた場を何でもないと手振りで示し、アスファーンを伴って露台へ出ていく。アスファーンが振り返った。エルシアンは呼ばれているのを悟り、急いでその後を追った。
 露台は暖かな場所から出ると鳥肌が頬に立つほど冷えていた。
 父王はそこに置かれている籐椅子に腰を下ろし、手にした金の酒杯に口をつけていた。一瞬通りすぎた風が父から吹きつけてきたような錯覚に捕らわれてエルシアンは僅かに視線を下へやった。やはり父は彼と相対するとき峻厳としていて、取りつく島などなさそうに思えた。
「話があるそうだな」
 父が口を開いた。エルシアンは頷いた。駄目だとは言われなかったから、聞いてくれる気はあるようだった。エルシアンは父の数歩前まで歩いてそこで深く一礼した。深く血の繋がっている唯一の肉親のはずが、誰よりも遠い。
「侍従のリュード・ザンエルグのことで……」
 父は眉をしかめた。アスファーンが近衛騎士の庶子を侍従に推薦されたことがおありだったでしょう、と補足したからリュードのことなど脳裏から消していたのだろう。
 それが何だと促されてエルシアンは事情を大まか説明した。言葉に詰まるところはアスファーンが助けをくれた。
 兄が何を考えているのか本当に分からないとエルシアンは思った。リュードがいなくなったほうが彼にとっては都合が良いはずだが、こうしてエルシアンの不手際には救いをくれる。
 もしかしたらそれは余裕なのかもしれなかった。エルシアンの言葉など父が承知するはずがないという見下しなのかもしれない。そう思うと余計に語尾に力が入った。
 話し終えてエルシアンは俯いた。父王は話の間と同じく黙っていた。その静けさが重く、怖かった。
 父がエルシアン、と言った。顔を上げると父はすっと立ち上がった。父はエルシアンよりもやや身長は高い。アスファーンは父よりも更に上背があるが、父も長身であった。
 ならぬ、という短い答えがあった。エルシアンは目を閉じる。驚愕も狂乱もやっては来ない。分の悪すぎる賭であることは承知していた。お願いします、とエルシアンは深く腰を折った。
 父は黙っていた。父上、とエルシアンは胸の底から絞り出すような声を出した。それは本当に切迫し、泣き出しそうな震えに彩られていた。父の返答はやはりなかった。
「お願いです、父上、──あ、」
 だがエルシアンの声を無視して父は部屋の中へ帰るために背を向けた。待って下さい、とエルシアンは父のマントの端を掴んだ。
「今まで、俺が父上に何かお願いをしたことがあったでしょうか。お願いです、彼のことだけは父上のお慈悲を」
 言いかけた言葉をエルシアンはやめた。父の手が頭上にかざされ、次の瞬間たっぷりと降りそそがれた葡萄酒が父の冷たい怒りを伝えてきた。髪をしたって葡萄酒の甘い香りがした。
「頭を冷やせ」
 言い放って父がエルシアンの手をマントから降り払った。エルシアンは父上、と叫んだ。
 父は僅かに顔をしかめ、エルシアンの頬を打った。痛みで一瞬耳が遠くなる。やっと前をみると父王の怒声が落ちた。
「──アスファーン!」
 それは自分よりもアスファーンに向かったようだった。
「このような下らぬ事由一つ、そなたの裁事でどうにもならぬはずがあるか! 馬鹿馬鹿しい話に私を付き合わせる前にそれを除けるのもそなたの役目であろう、違うのか!」
「いえ。父上のおっしゃることが正しいと存じます」
 兄の返答は短かった。父はアスファーンに手をあげることはしなかったが、何よりも冷たい一瞥を与えた。
 アスファーンは黙って深く腰を折った。申し訳ありませんでした、という呟きが兄の口から漏れた。
 父はそれに頷き、来たときと同じ急速さで怒りを静めて歩を進めた。父上、とエルシアンは言いかけた。父は振り返らず、かわりにアスファーンと静かに吐き捨てた。
「その馬鹿者に道理を説明してやれ」
 アスファーンがはいと返事をした。父の背が露台から消える。エルシアンはその時になってやっと打たれた頬が痺れ始めているのに気付いた。
「理由は以前執務室で説明した通りだ」
「でも」
「もはや手立てはない。明日にも父上の名で彼に対して功労賞を出そう。明朝、私の執務室へ来るように。署名が残っている」
 アスファーンもそれだけ言って背を返した。エルシアンは揺らめき燻るものに突き刺されてその場に立ちつくした。
 父の言葉は全否定だった。痺れるような悲しみ、凍えるような胸の痛みだけがした。
 リュードになんて言おう。それをやっと思い出した時、葡萄酒の跡がべたついてむず痒くなっているのを感じた。


1

 騎士の正装をまとったリュードは優美で華奢な造りとあいまって、男装の麗人のようにも見えた。すまない、とエルシアンはもう何度目かも分からない言葉を紡ぎ落とした。
 いや、と軽く笑ったリュードの顔は全てを受け入れて通り越した者の落ち着きと諦めで、却って穏やかだった。
 エルシアンは詰襟になった正装の胸元に揺れる、正式な騎士であることを示す乳白色のチーフを見つめた。下賜された剣は細かく彫刻を施された鞘と鋭利な刀身を持ち、片刃の背の部分にはリュードの家の紋章である蔦薔薇が金で描かれている。実用できるものではないが、家宝にできる品だった。
 王太子からの直接の下賜であったから尚更だろう。リュードはでは、と皇太后に膝をついた。王族に対する最敬礼は叩頭と決まっている。まず膝をついてからだった。
 皇太后はそれを手で制止し、リュードに優しい声を与えた。
「よく家を盛りたてて礎とするのですよ。そなたの活躍を心より祈っていますからね」
 リュードは立ち上がっていつもの笑みになって見せる。
「城門まで送ってきます」
 エルシアンは祖母に告げてリュードの後ろを追った。外は既に風の冷たい季節であった。二人とも言葉すくなだったせいで、その間の空気は澄みかえり、更に冷気を増した気がした。
「……元気で……」
 月並みなことをエルシアンは言った。リュードはエルシアンをちらりと見て微かに笑った。それが恐らくは永久の別れになることをお互い承知しているのだった。
 リュードは領地に帰り、一騎士として生きていかなくてはならない。エルシアンは父の死の前後に臣籍に降下して、役職を得て王都に残ることになるだろうが、いずれにしろ関わりは途絶する。
 皇太后は何かあればエルシアンを頼りなさい、この子だって王子なんですからねと言ったが、それは言質にさえならない餞別以外の何物でもない。
 最後に綺麗な言葉や小物たちで飾られてリュードはますます華やかな眩しさを強めているが、その顔は済まし込んだ作り笑いのまま、ついに崩れなかった。
「エルシアン」
 不意にリュードが呟いた。
「俺はさ……お前が国王陛下に頼んでくれると言ったとき、全部諦めてもいいと、そう思った……」
 エルシアンは友人の顔を見る。華やかな空気は既に北風に連れ去られ、素地に戻って感慨深げに穏やかだった。リュードは何だよ、と軽く笑った。エルシアンの視線に首を振ると空を見上げる。リュードにつられるようにエルシアンも同じことをした。
 空はよく晴れていた。鳥が雲のない青い背景を、ふうわり横切って南へ飛ぶ。鳥になりたい。エルシアンは目を細めた。
 そんなことを子供の頃に思ったことがあった。無邪気で愚かな望みであったことはこの年になれば分かる。自分には王族としての義務があり、かせがある。その責任を果たさずに出ていくことは、許されることではなかった。
 エルシアンは溜息をついて空を眺めているリュードを見た。リュードはエルシアンに視線を戻し、柔らかく笑って首を振った。
 いいんだ、と言う声がした。エルシアンがでも、と続けるのを、リュードは下賜の剣についた叙勲の色房をいじりながら遮った。
「いいんだって。俺は……あの女とか実家の兄たちはみんな嫌いだったけど、実はくそ親父のことはそんなに嫌いじゃないんだよ」
 エルシアンは曖昧に頷く。リュードは確かに父親を頼りにはしていなかったが、嫌っているわけでもなさそうだと思ったことはあった。近衛として出仕していた頃何度か話をしたこともあるが、陽気で大らかで、決して悪意のある人間には思えなかった。父親も自分が王子であることに全く気付いておらず、息子に初めて出来た友人としてエルシアンを歓迎してくれたのだ。
「あのくそ親父はさ……根が臆病で女に弱くて頭悪くて決心の続かない、どうしようもない奴なんだけどさ……少なくとも憎めない奴であることは確かなんだよ」
 リュードはそう言い、ふん、と鼻で笑った。
「お前も似てるよ、それにさ。どんな相手でもそれなりにまるめちまう。何だろう、感化みたいな……親父なんかよりずっとずっと強くそれを感じる。どこにいても誰といても、きっとみんな、お前が好きだよ……」
 エルシアンはありがとう、と言って俯いた。
 けれど、と心の中が泣き始めるのを聞いている。人から憎まれる怖さを知ってしまった今、他人の好意を今までのように素直に身に付けていくことが本当に自分にできるだろうか、と。
「だから、今のお前がいい状態じゃないってことは俺にも分かる」
 エルシアンははっとして顔を上げた。リュードは苦さと甘さの入り混じった笑みを浮かべていた。
 風が一瞬増してエルシアンは頬を叩いた髪をかき戻した。体が微かに震えているが、これを寒さのせいだと言い張ることが出来るだろうか。
「……なぁエルシ、お前本当に変だよ。夏辺りからさ。でもお前が変なときは大抵、嫌なことがあったときだったから、今も何か嫌なことがあるんだとは思う。俺はもう何も出来ないけど……でも、これだけは言っておく。自分自身を変に歪めてまで我慢しなくちゃいけないことなんかないよ。お前はもっと我儘になってもいいんだよ。だからしっかりしろ。いいな。俺は、……このまま放っておくと、お前が何だか自殺しそうで、怖い……」
 その言葉に鞭打たれたようにエルシアンはぎくりと身をすくめた。何もかも見透かされたような感覚に一瞬陥り、そんなはずはないと思い返して首を振った。
 リュードはエルシアンの様子に何も言わなかった。今自分を問いただしても何も聞けないと諦めているのだった。
「本当に我慢できないくらい嫌なことがあったら……もっと自分の望む事を考えろ。なぁ、元気でって言いたいのは俺のほうだよ、全くさ……」
 エルシアンは唇だけで笑って頷いたが、顔が強張っているのが分かった。ありがとうと言うとリュードは笑い、ここでいいよ、と言った。
 リュードの目の端が僅かに赤くなっているのにエルシアンは気付いた。ここから蒼月宮の中心部に至るまで丘を二つ越えていかなくてはいけないが、その間人影は殆どなく、広大な敷地の中をぽつんと歩いていくだけだった。
 リュードは一人になりたいのだ。
 エルシアンは分かった、と言った。じゃあ、とリュードは軽く口にしたが、それは軽さを装った万感に聞こえた。
 最後の握手にと差し出された彼の手を握るのに、一瞬の躊躇がある。こんなことではいけないと思う側から、肩から下が感覚を無くしたように動かない。必死に命じる筋肉の相克で、微かに手が震えているが、遂にそれが出来なかった。
「そらみろ」
 リュードが言った。エルシアンが顔を上げれば彼は穏やかな、そして哀しそうな顔で笑っているのだった。リュードは気付いている。自分に何かが起こって内側が移り変わりつつあることを。 それが何かを聞かないのは、せめての彼の気遣いなのかもしれなかった。負担に掛けない、掛けさせない、そんな軽やかさを今自分は永久に失うのだと思うと涙が零れそうになる。エルシアンは慌てて上を向いた。変わらぬ蒼穹が目に痛かった。
「俺に触るのは嫌だ? 違うだろ、お前は他人に触れないんだ。──どうにかしろ。死ぬなよ」
 答える言葉がなかった。リュードは差し出した手をひらひらと自分の顔の前でエルシアンに振って見せた。
「この握手はまた、ね。いつかまた……それまでには俺にべったり抱きつけるようにしっかり鍛練しとけよ、いいな」
 リュードの声も心持ち上気しているようだった。エルシアンが頷くと、しばらく沈黙になった。
 風が枯れ草を渡る、ざあっという音がした。
「またね、エルシ」
 リュードは自分を切りつけるような鋭い声を出して背を返した。丘をゆっくり上っていくリュードの後ろ姿はしゃんとしており、まっすぐに伸びた身長のすがしさばかりがあった。
 彼は泣いているのだろうか、それともこらえているんだろうか。たった一つ分かることは、それが見える位置では決して振り返ってはくれないだろうということだった。
 リュード、と陸の向こうに消えようとする人影に呟いたとき、まるで聞こえたように相手も振り返り、何かを投げた。
 きらりと光ったものが落ちた場所へ駆け寄ると、それはいつか彼に渡した金の蛇のついた指輪だった。
(側にいてよ)
 自分は、そう言ったのでなかったか。それを守れなくなる義理にこれを返してきたのだとその時分かった。
 指輪にはまだリュードの体温が残っていた。指にはめ直しながらエルシアンはそれを額に当てて、自分を守ってくれない気配を探そうとした。


2

 それはリュードが身辺から消えて間もない初冬だった。学院への通学は城からの馬車に切り変わり、否応なしに王子であることが知れ渡ってエルシアンはやや窮屈をなめている。
 元々女受けが悪いほうではなかったが、ひっきりなしに寄って来られればうんざりするし、古くからの友人たちはにやにや笑っているだけで助けてくれもしない。口を聞いたこともない同期生は明らかな克服の対象として見るか、恐れ入ってぎこちなくなるか、さもなくば大小取り入ってくる連中か。このどれかだ。
 これだから嫌なんだとエルシアンは溜息になる。それでも変わらず付き合ってくれる友人もいる、ということが貴重なのだろう。
 愚痴を聞いてやるからと連れ回されて遊び歩く夜が増えた。飲んでいるとその時だけは沢山の出来事を忘れていられる気がして楽だったのも事実だった。本来外泊には許可が要るが、それも無視した。王宮の夜を迎える事自体が怖くて仕方がなかった。
 その日もいつものように王都の中央学院で授業を受け、友人達と散々遊んで王宮へと戻ってきたエルシアンを、待ち構えていた近衛が形ばかり丁寧に連れていったのは後宮の奥、王の居宮に近い区域の一室だった。
 高院の制服のまま部屋に連れ込まれてエルシアンはその場の空気に立ちつくす。部屋には父王やアスファーンを始めとした王族がほぼ揃っており、事実上の王族会議とでも言うべき体裁が整っていた。王族会議なら王の執務宮で開催するのが常である。嫌な予感しかしない。
「何か申し開くことはあるか」
 長兄のウォーガルドが言った。訳も分からずエルシアンはぼんやりと周囲を見回す。一体これはどうしたことなのだろう。アスファーンが小さく溜息をついて父王を見た。
 その視線につられてエルシアンは父を見やり、顔をしかめた。父の顔に憤りとしか言い様のない表情がある。何かあったのだということだけをようやく理解し、そして次の瞬間自分が犯人扱いされているのに気付いて慄然とした。──申し開くこと、とは言い訳なら聞いてやろうという意味であろう。
 エルシアンが茫然と立ちつくしていると、アスファーンが低い声で言った。
「昨晩、後宮の書庫に不審火が出た」
 エルシアンは首を振って後ずさった。不審火、と列席している王族から密やかな非難の言葉が漏れてきて、事の重大さに殴られるような衝撃を感じ、エルシアンは必死で首を振った。
「俺じゃない、何でそんなことしなくちゃいけないんだ」
 言いながら何故自分が真っ先に疑われたかをエルシアンは理解している。後宮の書庫は公の文書を管理する場所ではない。主に王族の血縁や出生の記録を保管しておく場所なのだ。つまりは宮中の秘事の宝庫というわけである。
 鍵は成年に達した王族に渡され、王宮を出るときに返還する。今王宮にいる王族の内、成年の者はエルシアンを含めて僅かに十名、正妃以外の妻達は王族には含まれておらず、候補者を絞るとエルシアンくらいしか残らなかったに違いない──が。
「昨晩はどこにいたか、証明できるのか」
 ウォーガルドに言われてエルシアンは俯き、床を睨む。昨晩は友人と飲みに行って朝帰りし、すぐに制服のシャツだけ変えて学院へ行ったため、殆ど王宮にはいない。侍女たちは見かけているだろうが、こちらが誰と指定しない限り証人には出来なかった。
「……昨日の蒼月宮の在中証明といっても……そんな、何も」
 言いながらまずいとエルシアンは思う。なにより自分には理由に見えるものがある。母親の名を知りたかったのかと言われれば一見十分に思えてしまうのだ。
 実際はエルシアンはそんなものに興味はない。どうでもいいし知りたくもない、というのが率直な気持ちだった。母の不在で随分と今まで不都合を被ってきたし、今更それをどうしようもない。憎んではいないが、鼻白むような気持ちになる。
 それに成人してすぐの頃、エルシアンは書庫で自分の出生の記録を探したことがあった。結果からいえば母の記録は一切残っていなかったのだが、それを知っていることを話すのは藪蛇だ……
 思案に沈むエルシアンの耳に、張りのある声が届いた。
「昨晩はわたくしの所にいましたよ。ね、そうよね、エルシアン」
 全員が声の主を見た。毅然とした態度で老女がエルシアンに向かって微笑む。急いでエルシアンは頷いた。嘘だと分かってはいるが、救ってくれるのなら何でも良かった。
「皇太后陛下」
 王が渋い顔で呟くように言った。
「非公式とはいえ王族会議の場で作り話はご遠慮ください」
「あら、わたくしが嘘をついているとでも、カルシェード?」
 じろりと睨まれて王は渋面をする。亡き先王の正妃であり立太子されたときに後押しをしてくれた恩があって、父は皇太后には最大限の配慮を見せる。しかし、と食い下がろうとする長兄に
「お黙りなさいウォーガルド! そなたが口を出すことですか!」
とぴしゃりと言い放ち、エルシアンに頷いて見せた。
 ほっとエルシアンは息をつく。疑いは晴れてはいないが、当面の危機は去ったように思えた。
「……エルシアン」
 アスファーンの低い声が言った。
「王子としての誇りにかけて違うといえるか」
「本当に俺は知らない。誓えというなら何にでも誓ってやる」
 エルシアンは渾身の全てを込めてアスファーンを睨む。そうか、とアスファーンが頷いた。
「父上、私もエルシアンを信じてやりたく存じます。これは浅薄かも知れませぬが、嘘をついて回るような者ではございません」
 そう言ってアスファーンが軽く頭を下げた。皇太后が頷き、父が深く溜息を落とすのが聞こえる。まるで父は自分が放火をしたのだと信じたいようであった。
「……もうよい、お前ではないというならば仕方なかろう」
 投げやりに王が吐き落とし、ウォーガルドが不満気に眉をしかめた。エルシアンを侮蔑する一番はウォーガルドであった。



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