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 アスファーンの手が頬を触り、顔が近付くのが気配で分かった。唇を噛んでやろうと眉を寄せて待ち構えていると、兄のそれは唇ではなく睫毛と頬をかすめていつものように首筋へ降りていく。もがいて逃れようとするとアスファーンの手が顎をつかみ、エルシアンの後頭部を扉に押しつけた。ごりごりと頭皮が鳴った。
「今、噛んでやろうと思っていただろう? お前の考えることはとても分かりやすくて素直でいい……」
 かあっと頭に血が上るのが分かった。思考を見通されていた口惜しさとそれをからかわれたことの屈辱、これから始まる激しい緩急の波への恐れがぐるぐる脳裏を回って目が眩む。
「……愛しているよ」
 いつもの嘘を呟きながらアスファーンの手が自分の肌に滑り込んでくる。エルシアンはやめて、と呻きながらもがいた。
「お願いだからやめて、愛しているならどうして俺が嫌だっていうことばかりするんだよ、何でだよ? あ……や、やだ……いや、やだ、やだ」
 エルシアンは体を寄せてくる兄の厚い胸を押し退けようと腕を割り込ませ、思い切り突き飛ばそうとした。アスファーンが僅かに体を離した隙にエルシアンはそこから転がり出て扉を開け放し、外を指して怒鳴った。
「出てけよ! ここは俺の部屋だ! 勝手に入るな!」
「そうしたらお前は私に会ってくれないだろう?」
「当たり前だろ! そ、そうだ、父上、父上に訴えてやる!」
 父が帰ってくるという事実がこんなときに都合のいい言葉に化けて口からすらすら出てくるのが驚きだった。
 アスファーンは微かに頬を歪めた。この言葉は確かに彼の中の何かを動かしたようだった。エルシアンはこれだと勢いを得て、続きを口走った。やっとアスファーンの弱みを掴んだと確信した。
「父上に言って、廃嫡にしてやるからな!」
 アスファーンが面伏せた。表情は分からなかったが兄が自分の言葉に動揺を見せるのは初めてだったから、それで十分に思えた。
 エルシアンはやっと荒くなった呼吸を押さえ込みながら低く、父上に直訴してやるからな、と繰り返した。
 何かをアスファーンが呟いた。エルシアンは何だよ、と吐き捨てた。不意に顔を上げたアスファーンの表情は、だがエルシアンが想像していたどれとも違っていた──彼は、笑っていた。心底から可笑しそうに。
「父上に言う、か……脅迫から覚えるとは悪い子だな、エルシアン。言いたければ言えばいい。お前のしたいことを止める権利は私にはないし……したいことを邪魔しようとは思わないよ、お前を愛しているからね」
「ほ、本当に言うからな! そしたら王太子なんかすぐに廃嫡になる、ウォーガルドの兄上が立太子されて、お、お前なんかあっという間に失脚して……」
 喉を鳴らしてアスファーンが笑ったのはその時だった。その声に遮られてエルシアンの言葉は細く消えた。
「だから言えばいいと言っている。父上に訴えたいならそうすればいい。それを止めはしないさ」
 エルシアンは悔しさで唾を飲み込んだ。アスファーンは可笑しそうに笑いながらエルシアンの服をはだけ、首筋に舌をまつろわせてくる。
 やめて、と喘いだ声はもう元の媚と懇願の入り混じったものだった。アスファーンが扉を閉め、エルシアンの肩を掴んで強く押しつけた。その瞬間に絶望のために目の前が霞む。
 愛撫にエルシアンは喉をのけぞらせて喘いだ。耳の奥で誰かが言うことを聞いておとなしくしていれば優しくして貰える、そうひどいことはされないですむ、と囁いているのが聞こえる。相克と嫌悪に揺れながら、恐怖の余りに屈服する瞬間がじりじり近づいてくるのが自分でも分かった。涙がこぼれた。
(最後の瞬間まで諦めてはいけない、逃げてはならない、一度自分を許してしまうと際限なく許してしまう……)
 けれど、どこに出口があるというのだろう。
 酷く難しい法律の論文でも書かされている気分だった。
 論旨を行きつ戻りつし、論理の枝に迷い込み、先例法と慣習法の資料の山の何処に回答があるのか、自分は本当に回答に向かっているのか、本当は戻っているのじゃないか、間違ったところへ迷い込んでいないのか……
 アスファーンが喉に噛みつくようにキスをした。それはまさに食らわれているのだとエルシアンは思った。やめて、と掠れた声で訴えても、いつもと同じく返答はなかった。
「扉に両手をつきなさい」
 アスファーンに命じられるまま振る舞うのは怯えているからだ。何が起こるか知っているのに、抵抗すれば圧倒的な暴力に晒されることを知ってしまった恐怖で、いつもいつも折れてしまう。
 体をはい回る気味の悪さをエルシアンは喉で啜り泣いた。
 この瞬間に頭の中を巡ることはいつも同じだ。何故、何故、こんなことをしなくてはいけないのだろう。被害者なのは自分のほうなのに、さっきまでほんの少し優位にいたのは自分のはずなのに、何故、いつも決まって許しを請うのは自分なのだろう……
「お願い、もう、こんなこと、やめて……」
 涙で潤む声を絞り出してもアスファーンはいつもと同じくその気配を見せなかった。慣れるほど馴れた絶望が体をゆっくり末端から支配し始めるのが分かる。
 閉じた目の端から涙がぼろぼろ零れて頬から滴り落ちた。それをアスファーンが指で軽く拭い、そして動きを止めた。
 口が塞がれる。エルシアンは薄目を開けた。目の前には寝室の扉が広がるばかりだ。ざあっと風に外の木々が揺れる音が硝子越しに小さく聞こえ、それとは別の方向から小さな音がした。
 金属の小さな音──部屋の扉が開いた? エルシアンは身を竦ませる。誰か入ってきたのだ。エルシアンの口を押さえる手に力が入った。
 時を置かず、エルシアンの体が押しつけられている扉が外から叩かれた。最初は迷いがちに小さかったが、返答がないせいだろうすぐに普通の音調になった。
「殿下こちらですか? 火酒をお持ちしましたが?」
 侍女だ、エルシアンは息をのんだ。アスファーンが耳元で返事をしなさい、と囁いた。エルシアンは兄を振り返る。アスファーンは妥協を許さないというように首を振った。
「ああ……さっきの……居間に置いて……」
 扉越しに少し声を張り上げると、はい、と返事があった。部屋に戻る際に確かに寝酒代りに侍女にそれを言いつけたのだった。すっかり忘れて果てていた。アスファーンが呼吸で笑ってエルシアンの首を吸った。背中をぞくりとする感触が駆けていって思わず呻くと、侍女が殿下、と声をだした。
「お具合でも? 典医をお呼びいたしましょうか」
 エルシアンはいい、と咄嗟に答えた。言い訳を考えようとしたが、思考は空回りするばかりで何も出てこなかった。
 侍女の声が訝しげにでも、とためらっている。間を置いて殿下のお声がとても苦しそうに聞こえますからという声がした。
 それを言われた瞬間、脳裏に電撃が落ちたようにエルシアンは身を強張らせた。他人が、今、扉の向こうにいる。助けを乞えば届く位置に!
 助けて、と言いかけてエルシアンは一瞬、躊躇する。アスファーンにまさに今凌辱されかけているこの姿をどうやって繕ったらいいのだろう。迷いを受け取って唇は半開きになったままぴくりともしなかった。


3

 アスファーンが呼吸で笑った気配がした。首筋に軽くキスをし、とめていた愛撫を再開する。軽く耳を噛まれると反射で涙が出た。扉の外で殿下、と困惑の声がした。
「──駄目だ!」
 エルシアンは叫んだ。その途端に涙が滝のように流れ落ちたのが分かった。
「駄目だ、医者はいらな……いや、何でもない、何でもないから、医者はいらない、別に、大丈夫だから、酒をそっちに置いて、出ていってくれ……」
「殿下? でも、本当に……」
「大丈夫だったら!」
 返答は悲鳴に似ていると自分でも思った。
「今はとにかく嫌だ、何でもないから、もう行けって」
「お薬だけでも、決まった薬がおありなら取りに……」
「帰れよ!」
 エルシアンは扉を殴りつけて怒鳴った。侍女が脅えたように沈黙したのが扉を隔てても分かった。
「……いいから、お願いだから、今日は帰って……」
 エルシアンはそう言って詰まってきた呼吸を啜り上げた。侍女の返答は少しの間なかったが、やがて諦めたような声が聞こえた。
「本当に、お加減が悪くなったらすぐお呼び下さいね」
 念を押され、分かったとエルシアンは叫んだ。投げやりだと自分でそう思った。やがて再び来たのと同じような金属の合わさる音がして、音は止んだ。侍女は出ていったのだろう。
 その瞬間に緊張の糸がぷつりと切れてエルシアンは座り込んだ。涙が止まらなかった。
 涙を拭っているとアスファーンが笑いながら耳をつねった。痛いと呻くと低い声が押し殺した笑みを滲ませて囁いた。
「……で、誰に訴えると?」
 エルシアンは兄を見た。やはり兄は薄く笑っていた。エルシアンは首を振った。
 父上に、と呟いてその絶望的な困難さに顔を歪める。他人に知られるのが極端に怖いくせに、本当に父に話すことなど出来るのだろうか。アスファーンはそれを笑っている。
 たわめられていくもので煮えるように胸が痛み、そこが熱い。ひし曲げられていくものに凍えるように体が痺れ、とても寒い。
 相反するもので激しく攪乱されて、惑乱の中で論理的なことなど何一つ出来ない。後は多分、腐って死ぬだけの気がした。
「泣くな、女のような泣き方をするのだな、お前は……立ちなさい、続きは寝台の上だ」
 手を引かれるのをエルシアンは振り払う。やめて、と呻いてもう一度手首を掴もうとした兄の手を軽く打ち返した。
「もう、いやだ、こんなこと、本当に嫌なんだ、もう、いや、こんな、お願いだから、許して」
 困ったなとアスファーンが苦笑を装った溜息をついた。
「こんなに愛していると言っているのに、お前は私を嫌いだと?」
 エルシアンは震えながら必死で首を振る。アスファーンの目は見られなかった。今兄を見上げている目がどれほど卑屈なのか、知りたくない。彼の目の中に映る自分がどんな顔をして言葉を紡いでいるのかなど、分かりたくなかったし見たくもなかった。
「兄として認めてます、尊敬できる兄上だと思ってます、弟として兄上のためにお役にたちたいと思ってます、だからもう俺のことは放っておいて、兄上として敬愛してますから!」
 その言葉は少しもアスファーンを動かさなかった。会話で中断されていた愛撫をアスファーンは黙って始めた。エルシアンはやめて、とその肩を掴んだ。がっしりした肩の厚みが、自分の懇願が如何に無駄なのかを無言に示してくる気がして目を閉じる。
 寝台に行きなさいと言われてエルシアンは首を振った。掴まれた手首に手をかけて、お願い、とやめて、だけを繰り返した。強い力が体ごと引きずった。絨毯を擦れる肌の痛みにエルシアンは唸り、足を突っ張って抵抗した。頬が軽く打たれたのはその時だった。痛みは殆どなかったが、打たれた事実だけで抵抗する気力が萎えるほど怖かった。
 溢れる涙をアスファーンが丁寧に拭っている。撫でる指が頬をゆっくりよぎった瞬間、エルシアンは咄嗟にそれに噛みついた。手の骨の上を皮膚がずるりと滑った。アスファーンが一瞬呼吸を殺したのが分かった。
 兄を見上げようとしたとき、先ほどとは比較にならない程の手酷い痛みが頬に炸裂して、エルシアンは体ごと横に倒れた。起き上がろうとした瞬間、腹が蹴り押さえられた。あまりの衝撃で呼吸がつまり、次いで吐き気と痛みによる眩暈でエルシアンは声も出せずにうずくまった。
「……本当に、噛み癖の悪い子だ……甘やかしていた私も悪いということかな、エルシアン?」
 エルシアンはおぼろにかすむ視界をやっと上げ、アスファーンを見た。アスファーンは手首近い場所を押さえていた。エルシアンは思わず湧いてきたものに突き出されて吐息だけで笑った。少しも体に力は入らなかったが、確かに報いた実感はあった。
 アスファーンが横たわったままのエルシアンを押えつけて腕を後ろにねじあげた。関節が軋んでエルシアンは微かに悲鳴を上げた。アスファーンの手が何かを拾い寄せた。エルシアンは目を開けてそれが祖母から貰った下げ緒であるのに気付いた。それは、と言いかけるとアスファーンはもういつものような余裕を含んだ声で大丈夫、と言った。
「私は恋人のものを取り上げたりはしないよ。よい品だな、エルシアン。皇太后陛下辺りから頂いたか……お前には良く似合うと思うが……試してみるか?」
 何を、とエルシアンは途切れがちな呼吸を肩に任せながらアスファーンを見た。アスファーンはいつもの嫌な笑みを浮かべていた。エルシアンは咄嗟に首を振った。この笑顔を見て良いことがあるなどと信じることは出来なかった。
 ねじられて後ろに回されたままの手が取られた。もう片方の手も手首で合わされて、そこを何かがきつく縛った。あ、とエルシアンは声を上げた。自由を奪われると思っただけでもう膝が笑い始めた。もがいてみたが、下げ緒の紐は金と白金をより細く糸状にしたものを寄りあわせて出来ている。とてもどうにかなるものではなかった。
「やめて、やめて!」
 声は何かのためにかすれ、震えている。アスファーンはエルシアンの縛った手首から体を吊り下げて寝台に放り出した。上着が引き剥がされると急に寒気が襲ってきてエルシアンは身震いした。それはいつまでも体の奥から溢れてきて、少しも止まる気配がなかった。
「今お前が何を考えているのかをよく分かる」
 アスファーンが指先で肌をそろ撫でながら呟いた。エルシアンは顔を背けた。アスファーンの声が小さく笑った。
「私に抱かれるのが嫌で嫌でたまらないか。すげないことだな。だがそうやって焦らされるのも嫌いではないよ。お前をこんなに愛しているのに」
 アスファーンは言いながら手首の戒めを引き寄せた。エルシアンは寝台の上を転がされ、無理な姿勢に身をよじった。背中の皮膚がひきつり、肉がよじれた。
「──つれない、意地悪でわがままで焦らしたがりの恋人もいいが、多少我儘が過ぎるな、エルシアン?」
「ご、ごめんなさ、許して、もうしないから、だから酷いこと、しないで、お願いだからもう、い、痛いのは、いや、いやで、」
「お前の言葉は嘘が多いな。本当は私から逃れたくて仕方がないだろう? 繕うことはない。私を愛していると言えるか、言えないだろう。……ああそうだな、それが聞きたい。言ってみてごらん、エルシアン。私を愛していると」
 エルシアンは口を開いたが、そこからは何もこぼれてこない。暫く唇を震わせていた後、エルシアンは代わりに嗚咽を漏らした。
 アスファーンがくつくつと喉を鳴らして笑った。
「これが言えるようになったとき、お前が本当に私のものになって可愛い恋人になっていることを望んでいる……が」
 アスファーンは低く、限り無く優しく言った。
「それが分かるまではお前に愛を教えないといけないな。お前がいつか歓喜と陶酔に身を焦がし、自ら足を開くまで」
 アスファーンが笑みを浮かべたままエルシアンの足首を掴んだ。エルシアンはかたく目を閉じた。他人に向かって裸の腹を委ねて足を開くという姿勢の無防備さを身に感じながら。


1

 王都の冬は大陸の北寄りに位置していることもあって遅くはない。更に北のジェア王国などは一年の半分を雪の煙幕の向こうに隠しているからそれよりはましとはいえ、十月半ばにもなると霜が降りた。
 カーテンはまた変わった。分厚く光と熱を通さない重い布が、紺に雪を縫い取った模様ごとゆらゆら揺れている。揺れているのは自分がふらついているからだろうか。それとも風のせいか。
 カーテンの隙間からこぼれ落ちてくる空気は鋭く冷たい。エルシアンはぼんやりしながら中庭へ続く硝子戸を開けて、そこにもたれて座り込んでいる。
(──まだ……気を失うんじゃない、終わってないだろう……いつも私一人をおいてゆくつもりだな)
 やめて。
(──そう、素直なのは美徳だ)
 やめて、許して。
(──怖いか? いや……怯えるお前も好きだよ)
 やめて、許して、何でもするから。
「何でも……する……」
 本当だ、とエルシアンは低く笑って座ったまま膝を抱え、額をそこに押し当てた。何でもする。
 兄のあてがう苦痛から逃れるためだけに取りすがり、啜り泣いては懇願し、這いつくばるように機嫌を伺い、結局は何も聞き入れられずに彼のものになる。その繰り返しだ。
 目を閉じると初冬の薄い日ざしが瞼の裏に多少は感じられた。涙は昨晩に流し出してしまって、今は一滴も残っていないようだった。もうどうしていいのか分からない。臣籍に降下して王族から外れることが出来れば蒼月宮を出ていけるが、自分はまだ学生で、年限は後一年半近く残っている。──一年半も。期間は永久に近い長さに思われた。
 しばらくそこで外気に身を晒していると、朝の支度を整えるために侍女が入ってきたのが扉の向こうの気配に知れた。エルシアンは身繕いを始めた。体中に点々と残る痴態の痕跡を、沢山の布たちをかぶせて隠してしまわなくては。
 父王はこの日帰還する予定になっていて、その出迎えのために正装とはいわないまでも格式のある衣装にするようにと一昨日通達が来ている。
 格式ある、とエルシアンは唇だけをゆるめて笑った。礼装も正装も、高位になるほど体は布の中に隠れていくものであった。
 肌を首まで覆い隠すような服をどうにか整え、エルシアンは居間へ出た。いつものように侍女が朝の挨拶をした。おはようと返してエルシアンが椅子へ座ると侍女が櫛を手にして後ろへ立つ。礼のある服装というなら髪は絶対にひっつめておかなくてはならないのだった。
 丁寧に櫛を使っていた侍女がふとその手を止めた。エルシアンも部屋の入口を見た。扉が開く音がしたのだった。まだ朝が早い。侍女が前室から続く扉を開ける。そこに立っている人影を認めた途端、エルシアンは立ち上がった。
 まっすぐにこちらを見る薄氷色の瞳が、赤茶けた癖毛の髪が、ひどく懐かしくて嬉しかった。リュー、と呟いた声は歓喜と驚きで震えている。
 彼に会うのは二月振りであった。久しぶり、という声はエルシアンが知っている、僅かに斜に構えたいつもの皮肉さ加減を持っている。リュードは侍女の手から櫛をするりと抜き、後は俺がやるからいい、と鮮やかに追い払った。
「……戻ってきたんだ、リュー」
 エルシアンは櫛をくるくる手の中で回しているリュードに言った。往復する日数が次第に長くなっていって一月を越えた時、エルシアンは諦めたのだ。嬉しさが実感になって浮いてきたのはその時だった。リュードの離職はあれから宙に浮いたままだが正式に免じられたわけではなかった。
「……エルシ、色々……すまなかった。ありがと……」
 リュードが小さな声で言った。エルシアンは首を振った。彼の姿をもう見られない気がしていたから、再会は意外ではあったが嬉しかった。
「よかった、本当に……」
 何かを言いたい気がしたが、何をどう喋っていいのか分からずにエルシアンは言葉を濁した。言葉はもしかしたら要らないかもしれなかった。リュードはいつものように軽く笑い、すぐにそれをしまい込んだ。何か他のことを考えているような、そぞろな空気だけが残った。


2

 エルシアンは真顔になった。リュードの様子は普段と違う。実家のことを彼自身で解決して戻ってきたなら散々その手口の解説をした挙句に「俺が戻ってきて嬉しいくせに」の一言くらいはある男だ。
「リュー、家のことどうなった?」
 たちまちリュードの顔から張りついていたいつもの人を煙に巻く空気が消えた。こんなに苦しそうな彼を見るのはいつぶりだろうとエルシアンは思った。彼のこんな表情を見るのは本当にここ数年無かったはずだ。エルシアンは過去二回だけの特別を思い返してリュードに座るように言った。
 リュードはその言葉を聞こえなかったのか、痺れたように立ちつくしていた。視線がきつく、宙で焦点を結んでいる。リュードは今目の前に無いものを睨んでいるのだ。
 リュー、とエルシアンは促した。リュードはエルシアンを見たが、やはりすぐに目を伏せてしまった。その瞼が微かに震え、痙攣しているのにエルシアンは気付いた。
「──俺、本当に、あの家に……ずっといて……」
 リュードが苦しく呻くような声を出した。酷い声だとエルシアンは思った。座りなよ、とそれを遮って長椅子を指し、彼を座らせるために自分が先に腰を下ろした。リュードは小さく頷いてエルシアンの隣に座った。
 しばらく二人とも黙っていた。沈黙の長い時間をエルシアンはリュードの整った横顔を眺めることに費やした。彼は僅かにではあるが痩せて、目付きがきつくなっている気がした。彼のことを猫科の生き物だという言い方は的を得ていたが、気品のある飼い猫から毛を逆立てる野良猫へ、わずかに空気が戻ろうとしている。
 彼の身の上に起こったことは彼には十分負担で、それを背負いたいなどと思っていないのは明白だった。
 リューと言いかけたエルシアンの言葉よりも、リュードの声が早かった。それは「頼む」と聞こえた。
 エルシアンは苦いものに押されて目を細めた。リュードは気位が高く、めったに他人に頼らない。誰も信じていないようだと思ったことさえあった。
 リュードは自分で出来ることは全てやったのだとエルシアンは悟った。王都に戻ってくるために、思いつくことは全部試したに違いない。手紙にそれを書かなかったのはそれが本当に成功するのかどうか、本人も自信が無かったからだ。
 それに気付くとエルシアンもまた、沈んだ顔になるしかなかった。リュードは自分の手の届かない範疇へほとんど関心を振り向けない。彼が出来ると言ったことは本当に出来ることで、出来ないと言ったことは本当に駄目だ。──自信がない、などということは殆どない。リュードは王都に戻る手段を探し、少なかった可能性を広げるためにあがき、どんなものか想像もつかないが手当しだいに試した挙句──それらは全て徒労となったのだ。それは初めて見るリュードの万策尽きた姿であるのかもしれなかった。
 本当に、初めてだ。彼が勝ち目のない賭に打って出て、無様に転んだ姿を見るのは。
 頼む、ともう一度リュードが呻くように低く言った。エルシアンは友人に視線を戻した。リュードは俯いて膝の上で両手を固く組んでいた。組んだ指先、爪が白い。
「俺は、戻りたくない。あそこに戻っても何もないんだ。嫌だ、エルシ、俺は、どうしても嫌なんだよ……」
 リュー、とエルシアンは言いかけた。何を言おうとしたのか自分にも判然としなかった。ただこの瞬間、彼の話を聞いているのが自分なのだということを教えたいだけだったかもしれない。
 リュードは首を振った。彼の声が僅かに潤み始めているのにエルシアンは気付いた。リュードが額を膝にあてがって身を半分に折った。顔は完全に隠れたが、表情など見なくても良かった。
 ……泣いているのか、それともそれを耐えているのか。どちらでも同じことであった。
 その背を撫でてやろうとエルシアンは手を出し、自分自身の逡巡の為に空中でとめた。
 他人に触れるのが怖い。自分から誰かに触れることが出来なくなりつつある。リュードでも駄目なのか、とエルシアンは自分の弱さを噛み締め、やがて手を下ろした。リュードを居残らせたいのは自分も同じだが、根拠は空虚な程遠い。
 俺は、自分のことしか考えていない。エルシアンは顔を歪める。リュードを残らせたいのはアスファーンの恐怖を閑減してくれるから、彼が側にいれば少しでも逃れられるから、アスファーンに対する盾に使っている……
「辞令がおりてこないから親父が王太子殿下に詔請を送ったら、お前の承諾が得られないから国王陛下のご裁断を待つって返事があって……それで、俺」
 リュードが必死で押し隠そうとしている震えが、声の端々を揺らしている。リュードは不意にエルシアンの手を取った。
 エルシアンは思わず手を引きかけたが、リュードの手はしっかりそこを握りしめていてどうにもならなかった。
 リュードはアスファーンとは違う。違うのを分かっているのに体はやはり反射する。それに半ば絶望的な暗さを見て、エルシアンは震え出そうとする自分の体を懸命に叱った。
「助けて」
 リュードがそう言って、握りしめた手に自分の身を折りつけた。エルシアンの膝の上に伏すような格好で微かに肩を震わせる。リュー、と呟いた声は自分もぶれて揺れていた。
「俺は帰りたくない、嫌だ、もう一度だけ助けて、お前のためにいつか死んでもいいから助けてよ……!」
 エルシアンは希求の激しさに気押されて黙り込んだ。リュードを見捨てる気はなかったが、安易に大丈夫と言うことも出来なかった。気休めにしかならない約束をリュードは欲しがっていない。
 どう答えていいか分からないまま、エルシアンは空いていた方の手をリュードの髪に伸ばした。触れる一瞬、どうしても指が降りない。エルシアンは深く呼吸をして手を友人の肩を縁取る髪に置いた。どうしても体には触れられなかった。
「父上にお願いしてみるから……お前が帰りたくないのと同じくらい、俺もお前を返したくないから、もう、泣くなよ……」
 リュードは膝の上で小さく頷いたが、言質をくれとは言わなかった。その困難さと筋の通らなさを誰より承知しているのは本人なのだった。
 エルシアンは緊張して感覚さえ無くしかけている手でリュードの髪をずっと触った。


3

 父は僅かな疲れをにじませていたが、それほど消耗した様子はなかった。事後処理のために残った将軍の家族に対する恩賞を出す旨をアスファーンに口頭で伝え、あっさりその場から去った。王が視線を与えたのは不在の期間中に生まれた王女とアスファーンにウォーガルドの三人だけで、その他は林立する木々のようなものらしい。エルシアンも含めて。
 集まった王族の間を抜けて父の背が王族専用の回廊の向こうへと暗さに滲み、消えていく。
 エルシアンはそれを追って数歩行きかけて、諦めた。父はアスファーンと何か話しているようだった。留守中の報告を聞いているのだろう。同時にアスファーンの施策を確かめて指導することもあるに違いない。それに割り込むのは機嫌を損ねるどころの話ではないことになる。
 やはりここでは駄目だとエルシアンは溜息になる。公式の場となると王の側に必ずアスファーンがつき従っているし、不用意な発言を許す父でもなかった。
 厳格で厳質、威厳に溢れた父の姿を見る度に、自分が本当に血を分けた息子なのかどうかさえ怪しいと思う。……だが顔立ちは似ていた。父親と全く同じ、黒髪に暗い紫の瞳を持っているのは自分だけだ。
 リュードはエルシアンの部屋で苛々と時間を噛み潰していた。彼の処遇は中途半端に浮いていて、エルシアンに随行することもできなかったのだ。
 礼服から平服に着替え、夕方までエルシアンはリュードと話をした。ザンエルグ家の親戚や遠縁の男子はいるが、血は薄い。リュードの義母はリュードの相続に強烈な拒否を示していて、そのせいもあって相当内輪で揉めたようだった。
 帰宅した日に食事にと階下に降りていくと、義母は犬の餌を皿に盛ってリュードの足下に置いたという。それを戸外でうろついていた野良犬に食わせたら死んだ、とリュードは鼻で笑った。警告としては最大のものであろうと思われた。
「食事は危なくて食えないし、親父は寝込んだままだしさ、大体領地が掛かってるから親戚も俺を追い出すことでは一致してんだよ。あの女を将来自分の稼ぎで養うのかと思うと吐き気がする。あっちこそ死んじまえば良かったんだ」
 死んだあの野郎が懐かしいね、といってリュードはその言葉をまるで信じていないのを自分で笑った。
 エルシアンは黙りこくったままリュードの置かれている環境の悪さを思った。
 義母がリュードを嫌うのが理不尽だとは思わない。彼女から見れば夫が他所の女に産ませた不義の子で、見るだけでそのことを思い出すのだろう。だが、それと執拗で陰湿な苛めを許すかどうかは別のことだ。
 父親はリュードをそれなりに庇ったようだが、目の届かないことは沢山ある。見ているようでどこかずれている大人たちの目をくぐり、兄弟たちからも同じような虐待を受けていたようだ。
 リュードはエルシアンの表情を見て取ったようだった。気にすんなよ、と軽い口調でエルシアンに笑った。それはもう見慣れていた彼の飄々とした一面だったが、エルシアンはそれに微かに強張った笑みで返すのがやっとだった。
 日が暮れて一斉に王宮に火が点された。エルシアンは適当な時間を見計らって立ち上がった。髪を、とリュードが言った。
 父王の規礼に対するに対する厳しさを彼も知っている。王宮では髪をまとめるのが作法だったから、そうした方が良いと言われているのだ。エルシアンは頷いて自分で始めた。
 適当に整えてから髪紐を目で探していると、リュードが衣装部屋から髪止めのしまってある小箱を持って戻ってきた。
「こんなのなんかいいんじゃない?」
 差し出されたものを見てエルシアンは顔を思わずしかめた。皇太后から貰った剣の下げ緒だった。あれから触るのも怖くて箱の奥に押し込んだままだ。
 エルシアンの嫌な顔を見てリュードは綺麗じゃない、と言ったが同意する仕種は凍えたまま、ついに出てこなかった。
「じゃあ……こっち?」
 リュードは何故とは聞かないで、別の紐を差し出した。安堵で頷きながらエルシアンはそれを受け取り、髪を結んだ。
 結ぶと途端に身が引き締まるような気がした。父の元に自分から行くのはこの五、六年には覚えの無いことだった。
 二人で会話らしいものをしたのは三年前、成人を迎えたときに慣例として父との会食に呼ばれた時以来だ。その時何を話したかなど、殆ど覚えていない。父の隣にいたアスファーンが沈み切った空気を察してエルシアンに細やかに話しかけてくれたが、それ以外に言葉を発した覚えがなかった。
 回廊を宴の催されている小宮へ向かって歩きながら、この道の遠く暗いことをエルシアンは感じた。
 リュードのことをどうにか出来るという自信は全く無かった。何故か父には避けられている、意図的に無視されているような気さえするのだ。そんなことで果たして自分の願いを聞いて貰えるのだろうか── いや。
 エルシアンは身震いのように一つ、首を振った。それは聞いてもらわなくてはならないのだ。



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