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3

 それは壮観であった。舞い散らされる夏の白い花は、王家の純白を祝福するように空中を吹雪のように埋め尽くしている。
 国王陛下万歳の歓声が三度沸き起こり、手を挙げて応える父王の威厳整った姿はまさしく地上の栄光を身に請ける者だった。
 アスファーンが正装の白いマントに身を包んで深く父王に腰を折った。何か言っているのだろうがエルシアンのいる場所からは聞こえない。父の両隣にはこの出兵に同行する将軍が二人膝をついている。
 一人はつい先日その地位についたばかりの若い男だ。年齢はアスファーンとそう変わらないだろう。普段は連れていくなら一人だが、彼が将軍としては初陣になるから父は更にもう一人、歴戦の将軍を連れていくようだった。
 夏の日差しの下できらめく揃った槍の尖端、日輪を意匠した旗印の揃いの幕、それらがうねるようにひしめいているのが王城の壇上から見て取れた。
 盛大で華やかな歓呼に見送られて父王の飾り馬が視界から消え、やっと散開になると同時にエルシアンは髪を解いた。リュードもやっきになって彼の髪をきつく縛ったのだった。
 侍従の席は壇上から階層の違う場所へ作られている。更に侍従としてはリュードは一番下位だから端の端だ。エルシアンのいるところからは姿さえ確認できない。
 下へ降りよう、とエルシアンは急ぎ足でその場を出る。壇上を降りかけたところで呼び止められた。振り返ると長兄だった。その名をウォーガルドという。アスファーンは側腹の三男であった。その負荷を寄せ付けずに圧倒的な実力を示して勝ち上がり王太子に指名されたのだ。
 ウォーガルドはアスファーンさえいなければ順当に太子となり国王となっていたはずで、その鬱屈をアスファーンに抱えているが、直接アスファーンにぶつけようにもきっかけを彼が与えない。
 結局、それを更に歪めてエルシアンにぶつけてくる。エルシアンを多少小突いたところで不服を申し立てて来る貴族などいないのを良く知っていた。
 皇太后は父王にさえ意見をするほどの後宮の実力者だが、それを一々告げ口するのもエルシアン自身のためには良くなかった。
 身元の不確かさ、血筋のよめなさ、後ろ楯のなさ。そんなものを話す度に自覚させられ、あげつらわれているようで、エルシアンはこの兄が嫌いだった。恐らく異母兄弟の中で一番嫌いだったのだ、あの夜までは──いや。
 エルシアンはそれに内心で首を振る。嫌いというなら今でも一番はこの兄かもしれなかった。アスファーンは違う。彼のことはこんな些細な悪意を問題にしないほど根が深いのだった。
「お前は初陣は済ませてあるのだったか」
 エルシアンははい、と返事をして不機嫌になる表情を隠すために俯いた。戦場に出て王都から失せろと言われているのだった。
 それきり黙り込んでエルシアンはじっとウォーガルドの苛立ちの相手をしている。下手に返事を返すと本当に父の後を追うはめになるし、口答えすればそれはそれでうるさい。黙っているのが一番良かった。それは密やかな反抗と言うべきだった。
 ウォーガルドにもそれは分かっているのだろう。こうしたエルシアンの不遜な不服従が更に彼の心に爪を立てているのは知っているが、こちらに関わってくるのは向こうなのだから仕方ない。こちらが不愉快な分、ウォーガルドにもその思いを渡さなくては。
 ひとしきり言葉を浴びせるとウォーガルドは背を返した。彼の不満は獣の本能に近く、ある程度を発散すれば収まるものだ。じっとそれを待っている時間は苦痛だが、頭の中で他のことを考えていれば良かった。
 アスファーンは既にいなかった。もう執務に戻ったのだろう。彼は日中は執務で多忙だ。父王を送り出した後は国政の代理人たる地位を得ているのだから尚更だった。
 エルシアンは王族専用の通路へと降りた。城の中は通常の回廊に加えて王族専用の通路が設けられているのだ。
 儀式の王族席に入るにはこの専用通路しかない。城内の大抵の場所へ行くことができるが、侍従さえ伴えないために使用している王族はそれほど多くない。立ち入ることができるのは王族と掃除のための侍女たちだけだ。
 通路はそのほとんどが吹き抜けの硝子天井を持っている。光が溢れ、足元の白いタイルにも反射して美しい場所だった。
 回廊を早く出てしまおうとエルシアンは足を速めた。リュードとは回廊の出口で待ち合わせてあるのだった。
 馬車の中での約束をリュードは守ってくれている。一度交わした言葉は彼は律儀というほどよく尊重してくれた。そのかわり、取った言質には必ず何かの抜け道があったりもするのだが。
 不意にエルシアンは足を止めた。何か聞こえた気がしたのだった。何だろうと思うより前に膝が軽く笑い始めた。急に周囲の温度が下がって暗くなった。
 エルシアンは驚いて上を見上げた。太陽が雲に隠れたせいだということに気付いて視線を下へ戻したが、その途端、今度はくっきりと耳に音が響いた。足音だ。全てが凍りついて固まった気がした。ぷつっと背の辺りが毛羽立ち、次いで波打つように全身に広がった。振り返れない。怖くて。
 エルシアンは棒になってしまったように無感覚な足を動かして何とか先へゆこうとする。だがうまく歩くことができない。よろめくようにして走り出すと、すぐに足がもつれた。
壁にもたれかけた瞬間、体が後ろから抱きとめられた。鼻をかすめた僅かな汗の臭いが記憶のたがをはずす。
 一度寝た相手の体臭には敏感になるのか、それが誰だか振り返らなくてもよかった。
「蒼月宮へ戻るのか、エルシアン。私に会いに来るつもりならば夜の方が都合が良いのだがな」
 低い声に囁かれて、エルシアンは答えず身をよじる。振り切った腕を叩き返そうとした拳は鮮やかに空を切った。アスファーンが反応を予測していたように後ろへ最小の仕種で下がったのだ。
「あ、兄上、どうしてここに……」
「ここは王族専用の通路だから私がいても構わないはずだが?」
 意図してエルシアンの質問を無視し、アスファーンは薄く笑った。あの夜の笑顔とよく似た表情だとエルシアンは思い、思った瞬間に微かに体が震え出すのを感じた。
 体中があの夜のことを思い出し始め、苦痛の苦い味を追想して嫌悪と恐怖で竦み上がっていく。何かを言おうとしたとき、口の中が干上がっているのにエルシアンは気付いた。ごくりと飲み込んだ唾が喉を嚥下していくのが痛いほどだ。


4

 アスファーンは余裕のある仕種でエルシアンの前髪をかき回した。よせ、とエルシアンは声を上げたがそれは震えと緊張のためにかすれ、小さかった。
「よせ、か。全くつれないことだな。一度くらいの関係ではまるで認めてくれないというわけか。それならお前が納得するまで抱いてやろうよ」
「違う、そんなこと言ってな……」
「愛している、と言ったろう? お前は私のものだよ、何もかも。どこにいても誰といても、お前は私のことを考えていただろう、このところな。休暇は楽しかったか? 熱を出したと聞いて少し最初から無理をさせすぎたと反省していたのだよ。今度はもう少し優しくしてやってもいい、お前がそう私に願うなら」
「──嫌だ!」
 エルシアンは顔を背けた。閉じた瞼の裏にあの夜の様々な姿態が蘇ってきて、悔しさで眩暈がする。顎をつまんだアスファーンの手を振り払い、まともに動いてくれない足で後ろへ下がった。
「お、俺は、嫌だ、いや、いやだ、愛なんて嘘だ、嘘をつくな、そんなのに騙されない、そ、それに」
 一息に喋って苦しくなった呼吸を継ぐと、やっと思う通りに口が動くようになった。エルシアンはそれに、と額に浮いてきた冷たい汗を拭いながら渾身、アスファーンを睨み据える。
「それに、愛だって言うのなら俺の嫌なことをどうして強要するんだ。そんなの、信じる訳ないだろう!」
 アスファーンは首をかしげた。ゆったりした仕種が彼の落ち着きと優位を教えてくれた。
 アスファーンはエルシアンの言葉も抵抗も表面だけのものだと受け流していくだけの自信があるのだ。それに気付くとエルシアンはますます自分が蒼白になっていくのが分かった。
「それは私がお前を愛しているということを信じた上での話だな。仮定になら意味がない」
 意味だって、とエルシアンは顔を歪める。こんな問答にさえ、意味があるとは思えなかった。
 だが、愛しているという言葉を受け入れればそれを言質にできるだろうか。そんな計算を吟味しながらエルシアンはアスファーンを見た。アスファーンは変わらずゆるい笑みを浮かべていた。
「……兄上が俺を愛している、というのが事実なら」
「受け入れるというか」
「愛しているという言葉だけ……」
 言いかけてエルシアンは言葉を口の中に立ち消えさせた。何か嫌な沼に踏み込むような気がしてならなかった。愛しているなら相手が嫌がることはしない、というエルシアンの中の常識とアスファーンの中のそれが一致しているという保証などどこにもないのに気付いたのだった。
「言葉だけなら、か。真実を受け入れるときにまた新しいものも見えるかもしれんがな。まぁいい、お前が必死であの侍従に頼み込んでいるのも可愛いものだ。──気紛れな恋人というのもたまには刺激になる。妻たちは揃って私の機嫌をとるばかりだからな」
 アスファーンは独身ではない。有力貴族達や神官族の娘など、合わせて八人の妻がいる。子はまだいないが彼の後宮は豊かな恵みの中にあって不満があるとは思えなかった。アスファーンはきっと言ってみているだけなのだろう。
「だからって、俺は関係ない! 関係ないんだ!」
 エルシアンの叫びは悲鳴に近かった。アスファーンが何を言い出すのか予測がつかない。何をされるかはもう分からなくなっている──理解など出来なかった。
 確かなのはアスファーンがエルシアンを再び同じように無理やりにでも自分のものにする気があるということだ。エルシアンがいくら泣いても叫んでも、撤回も後悔もしないということか。
「関係ない、ということはない。いつかお前に私の言ったことを分からせてやる日も来るだろう。──それまでもう少し体力でもつけることだ。あの程度で寝込まれたらかなわん」
 そう言ってからアスファーンは軽い笑い声を立てた。それはエルシアンが彼を茫洋とした目で見ていた頃、心底から憧憬を掻き立てられていた芯の太い明るさを持つ声だった。
 泣きたい、とエルシアンは思った。涙が全てを連れていってくれるなら。
 軽く肩を叩かれて、エルシアンはびくりとして後ろへ下がった。アスファーンが笑みを口元で押し殺しながらゆっくり側を通り過ぎ、通路の奥へ消えていった。
 エルシアンは座り込みそうになる膝を叱って歩き始めたが、足元は柔らかなものを踏むようでおぼつかなかった。時折、同じ式典に出ていた王族達が追い越していくがエルシアンに目をとめたり様子を見る者もいない。
 エルシアンは王族の中にあって一族の離れ島だった。それでも良かった。アスファーンだけがエルシアンに目をかけ、言葉をくれたから。
 たとえアスファーンが王太子でなくても自分は彼を追いたかっただろう。少年期の始めアスファーンを皇太后から紹介されたときに、一目で圧倒された。引き寄せられた。自分に無いもので輝いている姿が眩しかった──なのに。
 エルシアンは片手で顔を覆った。アスファーンは無闇に優しくはなかったが、不公平ではなかった。エルシアンだけを特別に扱いはしなかったが、蔑んだりもしなかった。アスファーンだけがエルシアンを他の兄弟達と変わらぬ扱いをしてくれた。
 いつもいつも、年長者としてエルシアンを正し、叱り、導こうとしてくれた。学院へ行きたいといった時も父王に取りなしてくれたしリュードのことでも一度配慮を示してくれた。筋の通らないこと以外は年長者としてエルシアンの甘えを聞いてくれたし間違っていることは穏やかに諭し、手を差し伸べてくれた。
 エルシアンはアスファーンにとって特別な位置につきたいとずっと思っていた。それが未来図であり、希望であり、全てだった。兄を支える駒の一つでもいい、役に立ちたい、兄の示す未来を近くで見つめていられたら、どんなにか幸福だろうかと。
 ──今、エルシアンは確かにアスファーンの中に特別な位置を占めているらしい。但し、エルシアンが望んでいなかったどころか想像すらしていなかった方向で。
 それは悔しさだけでも怖さだけでもなかった。
 何故。エルシアンは呟く。
 納得できる理由が欲しかった。自分が何かしたとでもいうのか、それともアスファーンは最初からこうするつもりで自分を育成していたのか。エルシアンが指針として自分を見つめているのを承知しながら? ──いや。
 エルシアンは低い自嘲を喉で鳴らした。何もかもを疑わしく見るのは自分達の過ぎてきた幸福な過去を、全て否定するのと同じことに思われた。
 アスファーンがくれた沢山の言葉たち沢山の配慮たち、そんなもの全てが嘘だったとは思えない。思いたくない。そんな風に思いたくなどなかった。
 だが、とエルシアンは恐ろしい疑問につき当たって目を閉じた。その理由がアスファーンにとってもエルシアンにとっても正当で納得できるものだとしたら、自分はおとなしくアスファーンのものにならなくてはいけないのだろうか。──それだけは間違っている……恐らく。
 断言できない自分の弱さが疎ましかった。人を憎むのが怖い。
 誰とでもうまくやっていけるのが自分の一番の長所だと思っていた。好意を向ければそれはどんな形にしろ返ってくるものだと単純に信じていた。人を憎むゆえに憎まれるならば、その反対も成立するのだと思っていた。
 リュードは皮肉に笑いながらそれは人から憎まれたことのない奴の甘い考えだと言ったが、その意味を真実分かっていなかったのだろう。
 根の弱い優しさは、現実に太刀打ち出来ない。
 食いしばった歯列から嗚咽に似た呻きがもれた。ふらふらとリュードの待つ回廊の出口へ向かいながら、近い内に再びあの悪夢を自分は受け入れるのだとエルシアンは思った。少なくともアスファーンはそんな意味のことを言った。
 自分はその時何か出来るだろうか。アスファーンの心をどこに捜したらいいのだろう。彼に憎まれているのだという感触はますます胸に広がり、消えてくれそうにない。
 その染みを持て余しながら、エルシアンは回廊の出口へ歩いた。
 まっすぐ歩く道が今残されている最後の楽園であることを理解してなお、ここを出て現実へ戻っていかなくてはならかった。


1

 鳥籠の小さな扉を開けると小鳥は黒い瞳でまっすぐにこちらを見上げてきた。無垢な視線が可愛かったが逃がしてやらなくてはいけない。
 去年の夏に祖母が手に入れた色の珍しい小鳥、けれどそれを長兄の妻が欲しいと言い出して、取り上げられる寸前だ。大切にしてくれるならいいのだけど、と溜息になる。実は長兄にはもう一人妻がいて、そちらが猫を四匹も飼っているのだった。
「お行き、ほら、」
 なかなか出ようとしない小鳥に焦れて鳥籠を揺すれば、小鳥は驚いたように鳴いて籠の中をめちゃくちゃに飛び逃げる。
 溜息をついて鳥籠に手を入れ、どうにか捕まえようとしていると後ろから名前を呼ばれた。振り返ると兄だった。
「どうした」
近寄ってくる兄に首を振り、慌てて鳥籠を後ろに回す。気が向いたのか小鳥が歌い始めて羞恥で俯いた。
「ああ、あの小鳥か。兄上も奥方には頭が上がらないと見えるな。……逃がしてしまうつもりか」
 兄の言葉にますます下を向いた。これを見つかったら良くないのは確かだった。
 だが兄の言葉は叱りつけるものではなかった。あそこは猫がいるようだしな、と軽く笑っている。顔を上げれば苦笑気味の明るい笑顔がそこにあった。兄がこれを他人には告げないだろうという確信を唐突に得て、やっと安堵で笑顔になることが出来た。
「蒼月宮では目立つから、池の近くの森がいい──お貸し」
 兄が自分の手から鳥籠を取り、先に立って歩いていく。ご用事では、と聞くと丁度皇太后陛下のところへ伺う途中だったよという言葉があった。それで安心して兄の後について歩いていく。
 広い蒼月宮を子供の足は辛い。小鳥を逃がすためにこの日は蒼月宮の禁園近くまで出てきたが、普段は殆どこの王城の一番奥にある祖母の構える館で過ごしている。よく来るのは近衛騎士の詰め所くらいだが、警備の関係上、蒼月宮の中程の位置に鍛練所と一緒になっていてそこから先は殆ど行かなかった。
 歩きながら兄の背を見上げる。高い場所にある肩に広い背中、とても大人びて手の届かない遠い憧れと同じようだ。
 自分を見上げる視線に気付いたのか、兄が視線でどうしたのかを問うてきた。気恥しさで微かに笑いながら背が高いんですね、と言った。つい半年前に祖母に紹介してもらったばかりで知り合ってそれほど間がない。けれど、その全てが高い水準にまとまっていて憧れを誘わないものが何一つなかった。
「この四、五年で急に伸びたからな。私もお前と同じくらいの年の頃は、そうだな、ちょうどそれくらいか……もう少し低かったかもしれない」
「僕も伸びるかな……で、しょうか……」
「敬語は必要なときに必要な分だけ使いなさい。卑屈なことと敬意を払うことは違うから……が、まぁ背は多分伸びるだろう。父上は同じだし、王陛下はそれほど低い方ではないだろう?」
 はい、と頷くと兄が目を細めて笑った。兄に対して自分はまるで子供なのだった。もう少し兄に面白い話が出来たらよかったと思うが、それが何であるのか全く見当がつかない。普段じゃれている若い近衛騎士達や同じ年くらいの騎士の子供たちとするように、池で釣った魚の数自慢ではいけないことくらいが分かる。

 この手持ち無沙汰の沈黙を察したのか、兄のほうから沢山の言葉を紡いだ。普段は何をしているのか、勉強はどうしているのか、剣は得意か、弓は、馬は。何か苦手なものがあるなら少しなら見てあげられるから言いなさい……
 その言葉一つ一つが本当に嬉しかった。元々母親がいないことで沢山いるはずの兄弟達は自分を馬鹿にしている。だからこの兄が初めて自分に笑みをくれたとき、やっと兄弟というものを手に入れた気がしたのは事実だった。
 普段暮らしている祖母の館は蒼月宮の一番奥にある。最後の丘を越える手前には王族の船遊びに作られている人工の池があり、隣にはやはり散策用の森が整えられていた。広大な森ではないが、柔らかい草と木の香りがして居心地の良い場所だ。
 ここでいいだろうと兄が足を止めたのはその森の手前だった。水と緑の揃った地形が良いのだろう。最初に放してやろうとした禁園は父専用の美しい庭園だが、人向きの美しさよりももっと大切なことがあるのだった。
 鳥籠を渡されて扉をあけると、小鳥は今度は素直に手に乗ってきた。鳥籠の外に出して手を振り上げると一瞬驚いたように手前に着地し、それから身を囲うものがないのに気付いたのか羽を広げて飛び立っていく。
 それを見上げると同時に遮るもののない空も目に入った。美しい場所だった。この蒼月宮よりも広く、この城のどこよりも自由だ。この場所の中で守られてさえずっているしかない今を越えて、飛んでいきたい。
 あの小鳥が逃げて行けたように、きっと自分もいつか空を飛ぶための力強い翼を得て、自由の空へ。遮るもののない場所へ。きっといつか。その未来の偶像は焦点を結ばないが、希望に満ちていて、解放感の匂いがした。
 いつまでも空を見上げていると、兄が軽く肩を叩いた。それで自分が放心していたのだと多少赤面になった。兄は柔らかに笑って鳥になりたいか、と言った。口にすると少女趣味のようだった。
 下を向くと、恥ずかしがることはない、という穏やかな声がした。兄も同じく小鳥の消えた空を見遣って何かの幻に目を細めていた。それは自分が焦点のあわない未来を見ていたときと同じような顔だったから意外だった。


2

 兄は王太子を長兄と争っていると祖母から聞いた。自ら望んでこの息苦しい籠の中に入るのと引換に地上の栄光を望んでいる。
 兄の持つ圧倒的な存在感と前を見つめる視線の強さは確かにそれにふさわしく思われた。
「お前はここから出たいのだな……」
 その呟きに思わず兄を見た。自分の考えていたことが分かるのだろうか。そんなことを思っていると、兄は苦笑しながら前髪をくしゃくしゃとかき回してきた。それが親愛の印だと素直に信じることができた。
「僕は……ここにいてはいけないんだと思うんです。母上は分からないし……父上は僕のこと、あまり好きでないみたいだし……お祖母さまはとても可愛がってくださるけど、でも、いつかはいなくなってしまうでしょう? 今みたいなことがずっと続くなら、それはとても……気が重くて」
 兄はしばらく答えなかった。だがその視線がゆるみなく自分に当てられているのは分かった。兄が真剣にその回答を紡いでくれているのが理解できたし、それだけで嬉しかった。
「……外に出ることがすなわち解放ではないよ。私たちにはどこへ行っても責任と義務がついてくる。生まれというのはそういうものだ。奴隷に生まれついたらその暮らしがあるように、お前も私も王子であったことが運命なのだから……だから、逃げ出すことではなくて立ち向かうことを覚えなさい」
「立ち、向かう……」
 兄は頷いた。その頬に浮いているのが優しい笑みだったことで、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができた。
 立ち向かうこと、と再び口の中で繰り返すと、魔法のように鮮やかに口腔で溶けて消えた。麗しい言葉であった。あるいは、初めて出会った示唆の言葉であったかもしれない。
「そう。何事も最後の瞬間まで諦めてはいけないし、逃げてはならない。その二つは自分をとても弱くする。一度自分を許してしまうと際限なく許したくなるからね。いつか……」
 言いかけて兄は黙り、そして空を見上げた。小鳥の姿は既にどこにもなく、ただ広がる青くつき抜けた天があった。
「いや……」
 兄は何かを口の中で呟いた。何を言ったのかは聞こえなかったが、兄が自分と同じ感慨を抱いているのだろうかと思ったのはその時のことだった。兄の言葉は抽象と言うには深いものが籠っていて抑揚があった。
「兄上は逃げたいんですか?」
 そう聞くと兄は苦笑した。兄の大きな手が自分の肩を抱くのに緊張する。その手の力強さと暖かさ、それがそこにあることが嬉しかった。
「さあな……だが、困難から逃げたくなるときは自分に問うよ。本当に後悔しないか、他に方策はないのか、逃げることでしか自分を救えないのか、抗えないのか、本当にそうなのか。そうやって考えているうちに大抵いい方法を思いつく」
 自分はずいぶん神妙な面持ちで重々しく頷いたようだった。私の真似をすることはない、と兄は背中を撫でてくれるのだった。
 もう一度空を見上げると、あの小鳥の声が朧に聞こえた気がした。待って、と手を伸ばすとそれはもう届かなかった。空が青く、そして高い。そこへ駆け上っていく小鳥の翼の羽ばたきが耳に鳴っていて、とても、とても
 小鳥。飛ぶ空の。蒼穹に消える、
 ──自由の翼。
 待って。
 エルシアンは手を伸ばし、伸ばしたことで目を覚ました。ずいぶん昔の夢を見たのだった。背を撫でた優しい手の感触が皮膚に残っているようだった。アスファーンの大きな手が。

 だがもうそれは歓喜を呼ばなかった。感触を背に思い返した途端に、強烈な吐き気が襲った。エルシアンは顔を歪め呼吸を荒くつきながら寝返りを打った。
 嬉しかったのだ。その手が自分の背を撫でて優しい言葉をかけてくれるのが、肩を叩いて笑ってくれるのが。兄のようになりたいと願い、自分たちの持つ資質があまりに異質であることに気付いてからはせめて役に立ちたいと望んだ。……望んでいた。
「逃げるな、か……」
 その言葉がそれから暫くの間、自分を支える崇高なものだった。そんな時代さえあったのに。兄上。どうして。けれどその答えはきっと与えられない。アスファーンは愛と嘯くことで、回答をいつも拒否した。
 エルシアンは寝台から抜けて鏡を見た。首にはうっすら絞められた痕跡が残っていた。アスファーンは加減を承知している。エルシアンの意識がほどよく遠のいた辺りで手早く服を剥いで愛していると囁きながら、エルシアンを蹂躙し始めるのだ。
 また胸がむっと違和を訴えた。エルシアンはそれを飲み込み、襟元に学院の制服のスカーフを押し込んだ。侍女が朝の支度を告げる前に沢山のことを誤魔化しておかなくてはならなかった。
 この首に残った跡も、手首に残る爪跡も、部屋中に充満している青生臭い空気も。
 寝室と中庭を繋ぐ硝子戸を開けると、清涼な外気が雪崩込んできて、その清潔さに泣きたくなる。どうして自分はアスファーンの放恣の後始末をしているのだろう……
 なし崩しに事実が積み重ねられていく。体も多少慣れてきたのか、最初の頃のように熱を出したり暫くまともに動けないほどの軋みに襲われたりということはなくなってきた。それが自分で受け入れられない。せめて、全くの無感覚でいられたらいいのに。
 エルシアンは少しでも空気を入れ換えるために、レースから絹の二重地に変わったカーテンをはたきながら視線を下へ流した。
 暴力に脅えて身動きは出来ない。ぎこちなく震えているだけの自分の扱いを、アスファーンも次第に承知していくようだった。身を以て抵抗すると酷く殴られ、従順に任せると打って変わって優しくなった。
 その隔たりの広大さに揺すぶられ押し流されている。快楽は感じないのに苦痛だけは打ち込まれて体を引き裂き、泥沼に沈むような窒息感をつれてくる。
 順応し、どうにか楽を見つけようとする体と必死で抗おうとする精神の均衡点が見つけられない。緊張と緩和、恐慌と弛緩、激しい苦痛か激しい恐怖のどちらかにめまぐるしく塗り潰される夜はそれだけで消耗した。
 そして、その事実ごとを塗り込めて隠匿する作業を自ら行っている。埋めてしまった沢山の涙を吸って秘密は大きくなり、いつかその重みで自分を殺すかもしれない。そう思うと体が震えた。怖かった。
 夏は既に過ぎ、秋を迎えた。リュードは変わらずエルシアンの側にいることを努力してくれるが、それでも絶対に無理な日がある。公休日だ。侍従も侍女も、月に一度か二度後宮を下がらなくてはならない。王族も人であるから好悪があるが、それを少しでも均すための制度であった。
 アスファーンの余裕の意味が分かった。自分を可愛いと言ったことも。侍従がもう一人いれば別だったろうに、その公休日のことをすっかり念頭から消して友人に縋っていたのだから確かに頭の悪さが可愛いに違いなかった。
 昨晩のようなリュードが公休で下がった夜の暗い祝祭は、いつもと同じく身の上に起こった。それはもう予定調和とも言えた。
 風に乗って朝の小鳥の声が聞こえてくる。王宮の庭には沢山の美しい声をもつ小鳥が放してあるのだ。エルシアンは空を見上げる。秋の空は澄んで一段と高く、薄い色合いが颯爽と軽やかだった。羽ばたく小鳥の幻が、まだそこにある気がした。
 あのときアスファーンが自分の肩を抱いてくれたことをずっと幸福に暖めていた時代は過ぎた。それは自分の手をこぼれ落ちて消えてゆき、代わりに激しい苦痛が今、そこにある。
 秋の冷たい風が梢を揺らす音と小鳥の声をぼんやり聞いていると、やがて朝の支度を始める侍女の足取りが扉の向こうに聞こえてきた。エルシアンは寝室を抜けて居間へ出た。
 侍女がおはようございますといつもと変わらない挨拶をする。それに自分は上手く答えているだろうか。上手く笑っているだろうか。そつなく毎日が過ぎていくほど自分の中身が腐って死んでいく気がした。



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