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 ──怖い。とても怖い。身に降りかかる危険に小さな獣のように震えている。何かおかしい。そして怖い。アスファーンはこんな嫌な笑い方をしただろうか。
 あの、と言いかけたときだった。首筋を突然何かが這ったような感触にエルシアンは思わず体を揺らす。一瞬遅れてアスファーンが自分の首筋をゆっくり撫でたのだとわかった。
「何を……」
 エルシアンは触れられた場所を自分の手で隠しながらアスファーンから遠ざかろうとじりじり後ろへ下がる。だが下がった分だけアスファーンもその差を埋めて、ほとんど向き合うような格好になった頃には背に寝室へ通じる扉が突き当たり、エルシアンは微かな焦りを感じる。
「さて、どうするか……」
 呟きがした。エルシアンは視線を上げて目の前にたたずむ兄を見た。
 アスファーンの口元には相変わらずどこか歪んだ黒い笑みが張りついていたが、目が少しも笑ってなどいないのにエルシアンはやっと気付いた気がした。
 とにかく逃れようと身をそらすとアスファーンの腕が背後の扉に突き刺さるようにしてそれを封じた。エルシアンの膝が不意にがくんと落ちた。全身が怖がっているのだった。扉にもたれてずり落ちそうな体をアスファーンの腕が支えた。
 捕まれた二の腕が痛い。エルシアンは呻いてそれを放してくれるように兄の手を押しやろうとした。
 その手が捕まれてエルシアンははっとする。反射的に空いた手がそれを降り払おうとするが、それが途中で止まった。アスファーンがそれをも手首を掴んで止めたのだった。腕力の勝負は分が悪かった。エルシアンの渾身の力など問題にもならないほど呆気なく、両手首が吊り上げられて扉に押しつけられる。軋みがぴりっと骨を伝い、脳裏に響いた。
「兄上、あの、」
 様子がおかしいのは分かる。だがアスファーンの全てを否定して叫び声をあげるにはエルシアンにはまだ覚悟が足らない。そして、恐らく足らないことを承知されているのだった。
 だが、声をかけることで何とか好転しないだろうかと思った甘い期待はすぐに打ち砕かれた。
 エルシアンは微かに悲鳴を喉で鳴らした。声にさえ、ならなかった。ぬるっとしたものが首筋を撫でた。そこを唇が這ったのだと理解できるまで茫然とした時間は長かった。
 なに、と言おうとした唇を塞がれて息苦しさにエルシアンは呻く。呼吸を求めて上向きに喘いだ瞬間、ぬめらかなものが歯列を割って侵入してきた。
 それが好き放題に口中を蹂躙するうち、エルシアンの口端から唾液が一筋落ちた。水滴むず痒さにエルシアンの神経はやっと現実を認識した。自分が今、何をされているのかを。
 エルシアンは自分に覆い被さるアスファーンを振り切ろうと身をよじった。唇が離れる。
 お互いの絡んだ唾液が細い糸を引き、すぐに落ちた。
「なに、兄上、いったい、何を……」
 動転というよりはひどい眩暈に近い感覚が脳幹を揺すぶっていて、あまりのことに一瞬怒りも恐怖もわいてこない。アスファーンは相変わらず笑っていた。その笑みの穏やかな暗さにエルシアンは微かに体が震え出すのを分かった。認識した途端に震えはあらわになった。おこりのように、膝が立たない。アスファーンはますます低く笑っている。その笑顔が教えてくれる。彼が本気で自分を手に入れるつもりでいることを……!
 エルシアンは通りすぎた激しい眩暈をぎゅっと目を閉じてやり過ごした。何故、と声を出すとアスファーンは嫌な形に固まったまま笑っている唇から答えを囁いた。
「──愛している、私の……」
 アスファーンは言いかけて止め、その代わりにもう一度唇を寄せてきた。エルシアンは顔を背けた。アスファーンの目には愛情を信じるための何もない。情欲であるというならましだとさえ思う。瞳に見えているのはこちらを傷つける意思そのもの、それがむら燃えているように見えるのはアスファーンが今の状況を快楽の前兆として引き延ばしているからだ。
 遊ばれているのだと思うと目の前が暗くなるほどの絶望感が湧いた。アスファーンにとってエルシアンの抵抗などは余興でしかない。上背も体重も、遥かに兄のほうが上回っていて、差分で押さえ込めるはずだ。自分が気付くくらいだからアスファーンは当然知っているだろう。
 思いを逸らしたのは一瞬だったが、その間にアスファーンの手が自分の上着の中へ潜り込んでくる。体を扉に押しつけながら肌を手に馴染ませるように蠢いている嫌悪感を喉で呻き、エルシアンはアスファーンの肩を思い切りつき飛ばしてどうにか腕の中からまろび出た。
 よろめく足で懸命に走ろうとした瞬間景色がぐるりと回り、床に身を打つ。足を掛けられて転んだのだった。起き上がろうとした刹那、髪が捕まれて首が後ろへ反った。
 ぐ、と喉が絞られるように鳴った。上着の襟にアスファーンの手がかかって引き上げられる。喉に襟が食い込んで呼吸ができない。何かいう代わりにエルシアンは手を振り回したが、自分の真後ろにいる人間に当たるはずはなかった。
「い、いや、やめ……」
 声を絞り出すと体が仰向けに反転させられ、口を手で塞がれた。
 他人に聞かれることを望んでいないのを悟り、エルシアンは更に大きな声を出そうとする。深く呼吸をした瞬間だった。
 突然息が詰まった。喉が絞められて、気管が潰されそうだ。何かを叫んだが声にはならず、かすれた呼気音になった。エルシアンは口を開けるが空気は一向に恵まれなかった。
 目の前が白く霞む。鼻腔に血が集まり始めて痺れになる。エルシアンは必死で手を泳がせ、宙へ腕を伸ばす。脳裏に薄くもやがかかり始め、すっと気が遠くなる……
 不意に首を絞めていた大きな手がそこを離れ、エルシアンは反射的に喉に手をやりながら肩で呼吸をする。咳き込んでいたエルシアンの耳に金属の音が小さく聞こえた。アスファーンが寝室の扉を開いたのだ。
 エルシアンは顔を歪めた。アスファーンは本当に、本気だ。まだ痛む喉を押さえながらエルシアンは出来る限りに素早く起き上がろうとした。
 扉を開けるか、侍女の呼び鈴の紐を引くか。どちらにしろ他人を呼ばなくては。声を出したほうが早そうだった。エルシアンは呼吸を深く吸った。
 それをアスファーンの手がまた塞いだ。そのまま床に頭を押しつけられ、アスファーンの手が鎖骨を撫でて肌を下へ下へ、下がっていく。エルシアンはもがき、押しかぶさってくる兄の肩を掴んでもどそうとするが体重の差もあるのだろう、上からなくなる気配がなかった。
 エルシアンは首を振る。それでも剥がれない大きな掌に噛みつこうとした。だがそれも唇の動きで察したのだろう。一瞬の差でアスファーンが手を離した。エルシアンは思い切り声を上げようとした。口から手が離れればどちらでも良かったのだ。
 ──次の瞬間、みぞおちに重い衝撃がきた。エルシアンは呻いて身を折り、床に崩れた。一瞬おいて胃の中が煮えたようにたぎり上がってくるのを肩全体で殺しながら口を押さえていると、震えるほど低い声が耳元でもう一度、愛していると囁いた。
 首を振ろうとした体からふっと自重が消えた。アスファーンが彼を抱き上げたのだった。もがこうとしてもまだみぞおちの苦しみが熱く、体の神経を鈍く麻痺させていて体がうまく動かない。
 寝台の上に放り投げられてエルシアンは衝撃で息を詰まらせる。肺が軋んで一瞬空気を吸えない。両手首をアスファーンが片手でまとめ、エルシアンの頭上で寝台に押しつけるように固定した。エルシアンは身をよじる。
 やめて、と言った声は恐怖か動揺かで激しくぶれ、小さかった。
アスファーンはそんなことには頓着せずに、開いた片手で器用にエルシアンの着衣を剥がしていく。露になる部分が増える度、自分の中の何かを引き剥がされて踏みにじられている気がしてエルシアンはやめて、といいながら足をばたつかせたが、あまり効果はなかった。アスファーンの手が下衣のベルトにかかる。
 背を恐怖が真実覆ったのはその時だった。やめろ、とエルシアンは掠れ声で叫んで腕を振り切った。勢いのついた手が強くアスファーンの首を叩いた。一瞬弛んだ力の下から這い出ようとしたとき、耳の近くで激しい破裂音がして顔から寝台に打ちつけられ、頬がやけつくように熱くなった。口の中でじわりと血の味がした。 何故、とエルシアンは言った。愛などという嘘を信じる気は毛頭なかった。アスファーンはそれには答えなかった。手首がまた掴まれる。強い力に負けたように首から下に力が入らない。愛している、という声が三たび降りそそがれた。
 もがき、苦痛にのたうち、声にならない悲鳴を絞り出しながらエルシアンはアスファーンの所有物になった。


3

 ……エルシアンはほの暗い早暁の底辺に一人、座り込んでいる。
 何かに縋りたくて伸ばした指先がふと明かりのランプに触れて反射的に手を庇った。何故、と小さく呟く。
(愛している……)
 そんなのは嘘だ。それは考えることでさえなかった。
 体はこの夜の出来事を全て押し出そうとするかのように吐き気を訴えてくる。それを中庭で解放し、部屋に戻ると床に転がった。
 寝台には戻れなかった。どうしても。
 床に押し当てていた耳に靴が床を打つ音が聞こえた。エルシアンは跳ね起き、床に沈んだ。足音の連れてくる悪い予感はあった。数日前から妙に追い詰められているようで怖かった。だが、それがこんな現実を伴ってくるなどと考えてもいなかったのだ。
 足音が近づいてくる。次第にこちらへ来る。やめろ、とエルシアンは喉を鳴らして起き上がろうとした。
 だが体は正直だった。長く明けない夜の残照が未だに筋肉に正常な力を戻してくれない。
足音がする。こつこつ一定の間隔をおいて寄ってくる。よるな。 エルシアンは呻く。こっちへ来るな──来ないで。けれど懇願も抵抗も役に立たなかった……
 う、と喉が詰まった。また吐き気が上がったのだった。固形物は殆ど吐いているから酸味だけが押し寄せてくる。それを必死で押さえていると寝室の扉が叩かれた。
 エルシアンの心臓がぎゅっと締まった。返答は出来なかった。恐怖で竦んで唇さえ動かない。怖い。恐怖に彩られ始めたこれから先の時間を告げるように扉が鳴り続けている。
 エルシアンは震えながら床に顔を押しつけ、耳を塞いだ。聞きたくない。何も聞きたくなどないし、何もしたくなかった。
急に肩に手がかかり、エルシアンはそれを思い切り打ち払った。
 触るな、と怒鳴ってから喉を塞ぐ空気の固まりを咳にして押し出す。もう一度肩が揺すられて、エルシアンは癇性な叫びをあげてその先の体をつき飛ばした。溜息がした。
「なに、お前何なの? せっかく帰ってきてやったのに最初の挨拶がそれ? 犬だって三日も餌をやれば尻尾を振るけど?」
 呆れと苛立ちが半々に混じった軽い声がした。エルシアンは恐る恐る目を開いた。つま先から次第に視線を上げて、最後に行き付いた顔にエルシアンは吐息を漏らす。彼の唯一の侍従である友人が不機嫌にたたずんでいた。
「リュー……」
 エルシアンはゆるくその名を呼び、急激な安堵で深く呼吸をした。なにやってんだ、という声と共に体が起こされた。寝るならあっちだろうと手を引かれ、エルシアンはついそれを乱暴に振りほどいた。エルシアンの珍しい粗暴さにリュードは顔をしかめた。
 エルシアンはリュードをそもそも部下として扱っていない。それでも許されているのはエルシアンが利権から程遠い位置にいるからだが、リュード自身もエルシアンを友人だという認識でいるだろう。友人から粗末に扱われて怒っているのだと分かった。
「ちょっと暑かったから。何でもない、少し……休みたいから一人にしてくれないか……」
 エルシアンはそんなことを言って大丈夫だというように起き上がって見せる。自分の頬がぴくぴくと動いているから笑って見せているに違いなかった。だがリュードはいつものように笑みを返したりはしなかった。ますます面を歪めてエルシアンの前に視線の高さを合わせて膝をつき、まっすぐに見据えてくる。
 久しぶりに会うリュードは相変わらず造形が良かった。赤茶けた猫毛を後ろでまとめただけでも、優美で繊細な顔立ちとそれの醸す気品が彼をいっそう端麗に見せる。
 それが眉を潜めると酷く嫌そうな顔になるのを本人も分かっているだろうが、エルシアンの前でリュードは自分の感情を誤魔化さなかった。彼は何かを面白くない。
 いや、不機嫌だというよりは真剣さのほうが勝っているだろうか。そこに至ってエルシアンはやっとリュードの視線が自分の顔に当たっているのに気付いた。
 エルシアンは慌てて触れるとまだ痛い箇所を手で隠した。唇の端が少し切れている。顔、と言われて咄嗟に何でもないと言ってしまったのは、この夜の出来事を誰かに告白するなど出来なかったからだ。
「何でもない、じゃねぇだろ? それ、どうしたんだよ。自分でやったとかいうヨタなら信じないからな?」
 エルシアンは首をようやく振る。誰かに知られると思うとその圧迫で胸が詰まる。体の中に抱え込んだ秘密の重さで潰されてしまいそうだ。
 秘匿が尚更、自分の傷を深めることは分かっているが、口に出した瞬間にそれは悪い夢から修正のきかない現実へと転化する気がして怖い。今ならまだ夢だったと思えるだろうか。
 アスファーンの手が自分の肌を滑ったあの感触、無理やり開いた体の痛み、それから……思い出されること全てがぼんやりした遠景であるのと同時に、くっきりと感触を伴って蘇る記憶でもある。エルシアンは目を閉じた。気分が悪かった。


4

 リュードはしばらくエルシアンの肩を揺すっていたが、友人から何も聞き出せないと諦めたようだった。
 とにかく、と腕が掴まれる。エルシアンはよせ、とそれを振り払った。アスファーンに捕まれたのと同じ位置だった。それだけで一瞬体が震えるのが分かった。これも反射と言えた。中天の月が傾くだけの時間で自分の体の中には別の生き物が棲んだ。
 泣きわめき、叫びながらも暴力に脅えて膝を折る卑屈なものが。
 何だよ、というリュードの声がした。この声はもうはっきりと不快を示していた。
 エルシアンは怪訝に友人を見て、それから自分が彼の手を半ば叩き返すように打ったのだと気付いた。エルシアンは顔を歪める。 リュードにあたってはいけない。彼は関係がない──そう、本当に関係ないのだ。
「ごめん……あの、俺、本当に、気分が悪……」
 言いかけてまた吐き気が襲ってくるのにエルシアンは肩を震わせた。リュードの険しかった雰囲気がそれで甘く緩んだ。仕方のない奴め、という苦笑気味の呟きがしてリュードはエルシアンの背中をぽんぽんと軽く叩く。
 エルシアンはまた首を振った。他人の手が触れる度にそこから火がつくように熱く、そして同じ箇所を触れた手のことが皮膚の上に波立ち現れる気がした。
 リュードが体を引き上げて寝台に戻そうとするのを、エルシアンはやめろ、と強い声で静止した。
 リュードはふん、と唇を歪めた。もともとリュードは自分のすることに注文をつけられるのが酷く嫌いだったし、エルシアンもリュードのことに口出しすることは少なかった。本来は侍従と主人であるのだが、友人として同じ地平に立っていた。
「人の親切を断ってるとそのうち誰も助けてくれなくなるってね。ま、いいけど。気分悪いならどっかで転がるのが一番いいよ。寝台が嫌なら向こうの長椅子にいく? ……っていうかさ」
 リュードはぐるりと部屋の様子を見回して口元に曖昧な笑みを浮かべた。
「お前、女連れ込んでたろ? 換気しとけよ、気配がするぜ」
 リュードはくつくつ笑っているが、エルシアンは血の気が引くのを感じた。濃い臭気に慣れたのは自分だけで、他人にはまた違うのだと思うと尚更怖くなる。
 エルシアンの表情がこわ張ったのをリュードは素早く察知して何だよ、と薄笑いのまま肩をすくめた。
「いいじゃないの、どーせお互いの素行は知ってるわけでしょ?今更繕わなくたっていいさ。あの女じゃなけりゃ、俺は歓迎」
 あの女というのはナリアシーアのことだ。リュードはナリアシーアにまつわる暗い噂を最初から知っていて、彼女を嫌っている。
 絶対に名前では呼ぼうとしないし、あの女と言うときの口調は激しい。エルシアンがナリアシーアと想いを通じたときもひどい喧嘩になったものだ。
 リュー、とエルシアンは低く言った。気分もまだ回復しなかったせいで声は自分でもぎくりとするほど不機嫌だった。リュードは何も聞こえなかったように大きく伸びをすると、中庭に通じる硝子戸を開け放した。
 外を覗いたことでリュードはそれに気付いたようだった。
「ああ、吐いてるのか? 馬鹿だな、本当に具合が悪いならちゃんとそう言えよ。寝台戻れエルシ、医者と侍女を呼んできてやるから。夏風邪は馬鹿がひくんだぜ、知ってるか?」
 そんなことを口にしてリュードはエルシアンの腕を取った。エルシアンはそれを再び突き放した。誰かに体を触られることが不快で仕方がなかった。リュードとアスファーンがまるで違うのを頭で理解していても、抑えがきかない。
 リュードは何だよ、と低い声になった。彼もそろそろ苛立ちが募ってきたようだった。
「いいからどこか下の柔らかいとこで横になれよ。もうすぐ学院も新しい学期が始まるし、長引くと王城から出られなくなるよ?」 エルシアンはやっとそれに頷いた。
 ずっと部屋にいるのは恐ろしかった。アスファーンとのことを嫌でも思い出すし、足音全てが兄のものに聞こえる。どうしようもなく神経が過敏になっているのは承知しているが、どうにも抑えが効かなかった。
 リュードの肩に怖々と掴まり、エルシアンは居間の長椅子まで歩いた。長椅子に崩れるように横になった様子が思っていたよりも酷く見えたのだろう。リュードが衣装部屋からエルシアンのマントを持ってきて上からかけた。
 ありがとう、と呟くと額が軽く弾かれ、次いで手のひらが押し当てられた。どうやら熱をみているようだった。熱はないよ、というとリュードは首をかしげた。
「そう? 何だかちょっと熱っぽいような感じもするけどね。ま、そっちは専門に見てもらおうな。呼んで来るから待ってろや」
 医者、と悟ったその瞬間に顔がひきつったのが分かった。
「医者は呼ぶな!」
 跳ね起きて叫ぶとリュードは眉を寄せた。
「だって、薬くらい出してもらえば……」
「いいから呼ぶな、絶対に嫌だ!」
 怒鳴り立ててエルシアンは急な動作のせいの眩暈に額を押さえた。ほら見ろ、とリュードの苦笑がした。
「まともに動けないくせに。いいから寝てろ、すぐ戻って……」
「嫌だって言ってんだろ!」
 リュードの言葉を遮ってエルシアンは叫んだ。鼻白んだ顔でリュードが黙った。エルシアンは嫌だと繰り返した。まだ体中にアスファーンの刻んだ、彼が愛情だと言い張ったものの痕跡が残っているはずだった。それを他人に見られたくない。絶対に嫌だ。
「エルシ」
「嫌だって言ってるんだよ! 余計なことするな!」
「……じゃあ、夏風邪で死ぬ馬鹿になっちまえ」
 リュードの声が低く、そして投げやりに吐き捨てられた。エルシアンは顔を上げる。リュードの端麗な美貌は苦々しく歪んでいた。馬鹿野郎と怒鳴ってリュードは背を返し、それから思い出したように振り返った。
「お前、今日、変!」
 確信を切り込まれてエルシアンは青ざめたままで鼓動が大きく一つ鳴ったのを聞いた。血の気がひく音がした。リュードはふん、と頬を痙攣させて乱暴に扉を開けて出ていった。
 エルシアンは長椅子に横たわり、マントを顔まで被って目を閉じた。その時初めて、目の奥が滲んだ。


1

 中央学院の後学期が始まった。一年を二月から六月までの前学期、八月から十二月までの後学期に分けており、それぞれ二ヶ月間の休暇をはさむ。
 基本的には王族は蒼月宮の中に専門の学問所を所有しており外へ出なくてすむのだが、エルシアンは外の学び舎のほうが肌に合った。異母兄弟たちとあまりに歴然とした隔たりがあって、そこに居づらかったのも確かだ。
 戻ってきた日常の通りにリュードと共に王宮の門を出る。学院までは市街まで降りてからいつも辻馬車を拾った。
 歩いてもいいのだが、そうすると多少早起きを強いられる。エルシアンはそれでも構わなかったが、リュードのほうは明らかに夜型だったから合わせているのだ。
 リュードは馬車の中でうつらうつらしている。その顔を見ながらエルシアンは微かな苦笑になって、彼の滑り落ちた手を戻してやる。一瞬薄く目を覚ましたリュードが視線だけで礼を言ってまた目を閉じた。喧嘩はするものの結局は仲が良かったし、曖昧なことは流してしまうことが多い。あの朝の出来事もそうやっていつのまにかうやむやな記憶に紛れていった。
 エルシアンはそれにほっとしているのを自覚している。あの後結果として熱を出し、本当に数日間寝込んでしまった。
 リュードはそら見ろとひとしきり小言を浴びせた後で、熱が引くまでは側にいてくれた。
 侍従はあまり主人と離れないものとされているが、リュードは気の向いたときにエルシアンの相手をするくらいで普段はどこかに姿をくらましていることも多い。リュードが数日間エルシアンと共にいることは非常に珍しいが、それはきっとあの朝の喧嘩のせいだったろう。
 エルシアンと同じように、彼も気にしていたのだった。
 ……そして、エルシアンは気にしている。リュードが側にいることで昨夜までは落ちついて目を閉じることができた。だが回復して学院に通い始めたら違う。本当に日常へ戻っていく。リュードはまた自分の側を離れて好きなように始めるだろう……
 エルシアンは微かに身を震わせた。最近何をしても手についていないと皇太后に叱られたばかりだが、手につかないのでなくて頭の中が一つの事由で飽和しているのだ。
 ──何故。
 何故アスファーンは突然自分のことを襲ったのだろう。あれから怖くて異母兄のいる場所へ近寄れないが、その疑問だけがずっと自分の中で回っている。あの時兄が言いかけた、「一昨日」とは何のことだ。
 だが、いくら考えても自分の中に思い当たることはなかった。聞いて教えて貰えるなどという甘い期待は既に抱いていない。エルシアンは溜息になる。
 膝が軽く叩かれたのはその時だった。眠っていると思っていたリュードの瞼が開いて、薄氷色の瞳が自分を覗いている。
 エルシ、とまだ寝起き気味の掠れた声でリュードが囁いた。
「なぁ、お前何かあっただろう? 最近絶対変だよ……今だって、すごい顔して前、睨んでた……」
 エルシアンは首を振った。他人には絶対知られたくなかった。
 どんな顔をしてどんな風に言えばいいというのだろう。自分でもまだ夢だったと思いたがっている、あの現実を。
 リュードはエルシアンの返答に不満気にゆるい溜息を吐いた。今までもお互いに、秘密はあったが隠し事はしなかった。それは二人の間の不文律に似ていたが、それを自ら破ろうとしているのも分かっている。
 だが、唇が動かない。どうしても駄目だ。
 けれどアスファーンも怖い。今度一人になった夜に足音が廊下の端に響いたとき、自分はどうしたらいいのだろう。泣いてわめいて許しを請うのか。逃げ回って最後には暴力の前に屈するのか。
 どちらにしろ、結末は決まっているように思われた。
 ──あの苦痛。体を裂かれるその痛み、それよりもひりつく胸を絞られるような息苦しさと苦しみをどう処理したらいいのだろう。このままではいけないことだけが分かっていた。


2

 エルシアンはリュードを見た。アスファーンもこの事実が他人に知られるのを歓迎していない。声を出そうとしたときに口を塞がれたのが証拠だ。リュードがいたこの数日間の凪を、エルシアンは思い返す。彼が側にいれば違うだろう。
「リュー、頼みがあるんだ」
 言いながらどうやって理由をこじつけたらいいのかをエルシアンは考えている。リュードを動かすには理由、そして貢ぎ物だ。
「あのさ……あの、この前のこと……朝の……あのときの女、しつっこいんだよ。しばらく夜は一緒にいて欲しいんだけど」
 リュードはふーん、と宙を睨んだ。
「どーしよっかなぁ」
 即座に断らなかったときはリュードは承知する気がある。エルシアンは自分の指にはまっていた銀細工に金の蛇をはわせた指輪を抜いた。それをリュードの手のひらにぽんと落とすと何事もなかったようにリュードはそれを自分の指に押し込んだ。
 リュードの造形はどこもかしこもきめが細かくてほっそりしている。その指輪はエルシアンが自分の金で買ったものだが、エルシアンよりも良く似合っていた。
 いいよ、とリュードは言った。エルシアンは安堵の溜息を心中で長くついた。だけど、とリュードが不意に低く暗い声を出した。その声は彼の中では珍しいほど真剣だった。
「……ラジールとの戦端が開いてるだろ? あれ、長引くとちょっとまずいかもしれない」
「まずい……?」
「俺の家のことは知ってるだろ?」
 エルシアンは頷く。リュードは男ばかり七人兄弟の末子だが、彼だけが庶子だ。父親は近衛を務めていたことがあり、他の近衛騎士たちやその子供たちの群れの中で二人は知り合った。
 近衛騎士の子ならば将来は親の跡を継ぐこともあるし、平民層出身でも剣の腕を認められれば騎士位を与えられることもある。
 エルシアンは王族である異母兄弟や叔父たちには馴染めなかったが、騎士たちとはすぐに合わせてやっていくことが出来た。
 リュードはその中でも存在が特殊だった。掴み所がなく気紛れで、しかもしばしば女性がらみの問題を起こす。庶子でも長男であれば立場が違うこともあるが彼は一番下で、上に嫡子の兄が六人もいたから家督とは関係がない。だが父親である騎士が領地から離れて赴任するときに連れてきたのはリュードだけだった。
 その理由ゆえに、エルシアンはリュードを侍従に召しあげた。
 ──本妻、つまりリュードの義理の母と半分血の繋がった兄弟たちからの執拗な虐待と日常生活での完全なる無視。父親は陽気で気のいい男だったが、強権者ではなかったのだ。
 兄弟たちからの苛めが相当リュードの心に深い溝を掘っていたのは間違いがないとエルシアンは思う。六人いたはずの兄が知り合ってから次々と呪いにかかったように亡くなっていくが、どの兄が死んだときもリュードは冷笑を鼻で鳴らしていた。
 それが複雑そうな顔になったのはつい四ヵ月ほど前の事だ。既に五人が亡くなり残ったのが後一人になったことで、微かに不安を漏らしている。
(まずいよ。奴までくたばったら俺、家に戻らなくちゃいけないかも。あのババァもついでにくたばるなんて都合のいいことはないだろうしなぁ……)
 まずい、という言葉はその時の記憶を呼び戻した。お兄さんのこと、と聞くと渋い顔をするがそれが返答だった。リュードの実家はシタルキアの東端に近い地域だが、有事の際に駆り出されないと断言できるほど現地に遠くない。むしろ失った戦力を補強するという選択を父が下したならまず確実に招集がかかるだろう。現地まで馬で三日から、というところだ。
「親父は戦争嫌いなんだよな。戦場には出たがらないし……近衛だってさ、くじで当番に当たったのもそうだけど、近衛になれば赴任期間中は従軍しなくていいって思ったんだぜ? たださぁ、残ってる野郎はちょっと体弱くてさ。その分性格は歪んでたけど、あんなのが戦場に出たらあっという間にこれ、ね」
 リュードは首の前で横線を引いた。異母兄を案じているのではなくて、家に呼び戻されるのが嫌なのだ。
 エルシアンはそれを分かっているが、そのことは触れずにそうだね、と頷いた。リュードは実家にはいない方がいいと思ったからエルシアンはリュードを侍従に上げたのだ。
 侍従や侍女は本来貴族の子女から選ばれるが、リュードは騎士の子でしかも庶子だった。不相応だと父は良い顔をしなかったが、皇太后から取りなしてもらって何とかねじ込んだのだ。その代わり通常の侍従よりも多少給金は少ないようだし、侍従長の役職を正式に認められていない。
 それでもリュードは王都でずっと暮らせることを受け入れ、口には出さないがエルシアンに感謝を抱いているようだった。
 ラジールか、とエルシアンは溜息になった。父ではなく、アスファーンが出征すれば良かったんだと思うのを止められない。もしそうであったらこれほどの圧迫を感じないで済んだろうに。
「いつものこぜりあいだよ。すぐに収まるさ」
 ラジールとの交戦は珍しいことではない。国境の大河ユルエリを挟んで金属と宝石の鉱脈が点在しているのだ。周辺は深い森で大規模な戦場たりうるのはユルエリの河川周辺に限られているから、押しつ戻しつ膠着といって良かった。戦闘もそれほど長く泥沼に陥るまでは双方執着しない。
 だがリュードの顔は晴れやかには戻らなかった。その理由もエルシアンは分かる。ただの小競り合いだというなら父王が行く必要などないのだ。エルシアンの無視した部分とその気遣いをリュードは正確に受け取ったようだった。なるようになるさ、と呟いて首を振っている。ともかくもエルシアンはリュードの当直を取りつけてほっとしたのは事実だった。
 学院で馬車を降りるとリュードはじゃ、と手を上げる。夕方またこの場所で待ち合わせるのだ。その間リュードがどこへ行っているのかは知らないが、エルシアンも学院の授業を抜けてしまえば自由な時間になるから文句を言ったことはなかった。
 ……日常がまた、同じように動き出した。
 それをエルシアンは安堵で眺め回し、ほころびがないだろうかとためつすがめつ、確かめている。恐怖で背中を打たれているのが自分で分かっていたが、その震えは最早自分では止められないだろうとそう思った。



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