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1

 ……曙光が青紫にくすむ山々の稜線から溢れ出してきたのと同時に、鐘が一つ打ち鳴らされた。音は重く厳質であった。鐘声はようよう響き渡り、空気を細かく震わせ、余韻を長く引きながら次第に消えた。誰からともなく安堵のような嘆息が漏れ、すぐに歓声に変わった。
 王族しか身に付けることを許されていない純白の衣をまとった一団が立ち上がり、一段高い場所へ座っている登極者へ礼を取った。
「王紀、正祝、多祥清明、万祥万歳を許す」
 重々しい声が言うのを待ち兼ねたように、一斉に国王陛下万歳の三唱が起こった。王がこの日、四七才を迎えたのだった。既に壮年期にある王だが、眼光にはまだ十分な力がある。ゆったりと頷く様は威圧を放ち、峻厳であった。
 三唱が終わると場は急に緊張を弛めて和やかになった。日の初声の鐘を聴くために中断されていた音楽が流れ出し、ざわめきが戻ってくる。群れまとまっていた王族も散会し、貴族たちもそれぞれ歓談を再開し始めた。
 エルシアンは肩から力を抜いて首をゆっくり回した。いつものことではあるが儀式は疲れる、と溜息になる。王宮ではやはり国の筆頭としての格式に見合った儀典が多く、その度に列席を義務づけられて正直、面倒で仕方ない。
 処女雪の色をしたマントを肩へ掛け直すとエルシアンはひっつめていた黒く長い髪をようやく解き流した。基本的に髪は長く伸ばすのが礼だ。王宮では更にそれを一つにまとめるのが作法というものだが、年若い貴族には無造作に後ろへ流している者も多い。エルシアンがまとめ髪を解いたのはひとえに侍女がむきになってきつく髪を止めたせいで、最初の父王の言葉を待つ間ですっかりこめかみに鈍い頭痛を覚えたせいだったが。
 髪をほどくと急に頭が軽くなった気がした。こめかみの部分を指の腹で押していると、遠くから父の随従の声が自分を呼んでいるのが聞こえ、自分の番なのだと悟ってそちらへ歩く。父である国王に誕生日の祝いの挨拶をしなくてはならない。それもまた、自発ではなく義務であった。
「父上にはご壮健をお喜び申し上げます。暦年を重ねられますよ
う、万祥万歳の祈願をお許し下さい」
 腰を折りながら万歳、と呟く。決まり切った口上を口にしてしまえば他には何もなかった。元々父との縁は限り無く薄い。私人としての父との絆は恐らく妃である母親の所を訪れた際に築いていくものなのだろう。
 エルシアンには母親がいない。即ち両親の揃った光景を見たことがない。成人するまでは先王の正妃であった皇太后エレイナの膝元で育ったが、エレイナと父王がそれほど懇意でなかったせいもあって殆ど父と言葉を交わすこともなかったし、成人してしまえば後宮に自室を与えられるから、尚更会わなくなる。
 強固な血縁と言うべき他人はこの父だけのはずだが、まるで心に落ちつかなかった。
「そなたにも万祥の輝きがあるように」
 やはり父王も彼と同じく文言を低く呟いただけであった。はい、とエルシアンは軽く会釈をした。沈黙はひどくぎこちなく、いたたまれなかった。
 エルシアンは父に聞こえないようにそっと溜息を落とす。決まった言葉を与えるのと同時に王は実子達には何かしらの祝辞があるのが慣例だった。だが言葉は紡がれず、徒に時間が過ぎる。
 自分たちの間には何も無いのだと思うのはこんな時だ。微かに開いた間隙さえ、埋める術をお互いに分からない。
 だがエルシアンが本当に悲しいと思うのは、埋めたいと思う心さえ興らないことの方だ。ひどい衝撃に痛覚が麻痺したようにか、父のことになると平静に、ともすれば冷ややかに眺めてしまうことをエルシアンは否定出来なかった。
 それを僅かに嫌悪する心も父に対する好意の問題ではなく、自分自身の内側へ向けた内省というべきだ。
 異母兄の声が父上と促すのを聞いたのはそんな感傷にぼんやり浸っていたときだった。お時間を、という声の主をエルシアンはちらりと見る。異母兄と視線があって、今度は気まずさなどではなく俯いた。
 ……この兄こそがエルシアンには唯一の肉親と思える相手であり、何よりも揺るぎない自信に支えられた彼の全てを心底から敬愛する相手でもあった。

 その名をアスファーンという。彼もまた、後楯を殆ど持たない王子であった。それが万難を乗り越えて王太子に指名されているのだから、とエルシアンは微かに頬が上気するのを感じる。
 俯いてしまったのはアスファーンが嫌いだからとか苦手だからということではなく、ただ眩しかったのだ、とても。
 それは直視できぬ太陽に似て、いつでも圧倒的だった。エルシアンにもどうやら自らと同じ不遇の痛みを見ているのか、何くれと気を掛けてくれる。それがはやり立つほど嬉しかった。
 時間、というのは助け船だったのかもしれなかった。父とエルシアンがお互いに意味の無い会話をするほどに相手を知りたいと思っていないのを敏感に察したのだろう。無駄に模索するより理由をつけて打ち切ったほうが遥かに良かった。
 適当に挨拶だけをして、エルシアンは王前から退出する。真実これで解放されて肩の荷が下りた。父王が席を去るまでは部屋へは戻れないが、その間は好き放題に飲んでいればいい。
 元々母親が知れないことで後援の貴族を持たないし、将来の萌芽を自分に見出すほど目の利かない貴族もいないらしく、大抵エルシアンはぽつんとしている。それでも良かった。アスファーンのように王の側を離れても始終他人に囲まれて、見え透いた追従を流していくには自分はまだ子供なのだ。その自覚はある。
 他の王子達の側には侍従がいるが、エルシアンには侍従はたった一人しかいない。それも主従であると言うよりは友人だった。エルシアンはリュードという名の同い年の侍従を、配下だと思ったことがなかった。リュードのほうもエルシアンを主人だとは思っていないらしく側にいないことが多いし、言葉も砕けて乱暴だ。
 もっともその中に時折覗く気遣いや優しさを汲み取れないほどエルシアンは鈍感でも子供でもなかった。
 リュー、とエルシアンは溜息になった。今この場に彼がいるなら二人で飲みながら時間を潰せるのに、とそんなことを思うと苦笑が漏れる。リュードは今王都にいるがエルシアンの側にはいない。ほんの十日ほど前にさる貴族の奥方との情事が明かるみに出て謹慎中なのだ。それもまた、リュードに言わせれば
「だってさ、あっちから誘ってきたんだよ? たまには腹の出たオヤジじゃなくて、俺みたいな美少年を食いたかったんじゃないの? うーん、ヤな女じゃなかったけどそうね、中の下」
と、いうことらしい。
 自分で言うだけあってリュードは線の細い、繊細で端麗な美貌を持っている。エルシアンと並んでいるとどちらが王子なのか分からないと言われたことさえあって、仄かな気品と造形の美しさには捕らえ所がなく、猫科の生き物と形容されているのだった。
 近衛騎士の庶子であるリュードと貴族の間には広大な身分差があり、通常姦通の罪を問われても仕方がないが、謹慎で済んだのはともかくリュードの言った通り「誘ったのはあっちのほう」であることがどうやら事実だったからで、軽い叱責で済むはずをそうなったのはリュードの素行の悪さのせいだろう。
 彼はこの手の問題を起こすのが初めてではなかった。エルシアンの侍従として後宮へ上がってもう三年半が経過しているが、知っている限り、明かるみに出たのが七回目なのだった。
 一応王族であり王の二十二人目の子にして十三番目の男子なのだからエルシアンはリュードをもっと庇う事も出来るだろうし、ある程度強く押せるのだろう。そんな言い方をするとそれが事実だけに偉そうに聞こえる、とエルシアンは苦笑になる。
 だが現実王太子には既にアスファーンが立って責務を務めこなしているし、有力貴族を母に持つ異母兄弟たちも多い。そんな中に埋もれてエルシアンなどは王族の中でものけ者──除け者というより無視されていて王宮の勢力図などとは至って無縁であるし、これから先にも縁があるとは思えない。それに王子であることを意識させられるのが元来苦手だった。
 いつものように目につく酒瓶を取って広間の端で飲み始める。
 エルシアンは酒には強かった。酩酊するにはかなり量を飲まなくてはならない。この場で飲むことの出来るほどの量では微かに酔いが回る程度でしかなかった。
 そうしてしばらく窓の外の払暁を眺めながら飲んでいると、後ろから名前を呼ばれた。エルシアンは慌ててもたれかかっていた長椅子から身を起こし、振り向きざま立ち上がる。


2

 ……皇太后からの誕生日の贈り物は剣の下げ緒とマントの止め金だった。それぞれ黒耀石と色の深い紫水晶で飾られている。エルシアンの髪と瞳の色に合わせてあるのだ。つけてみるように言われてエルシアンはマントを止めるピンを引き抜き、もらったばかりのそれを同じ場所に当てた。
「よく似合うわ。お前は本当に着飾りがいがある子だね」
 皇太后エレイナは上機嫌のままに背後に立つ侍女を振り返る。
 ねぇ、と同意を求められて侍女は深く頷いた。ろうそくの灯に侍女の白金の髪の光が淡く揺らいだ。エルシアンは侍女と僅かに視線を合わせて笑う。
「ありがとうございます、おばあさま。大切に使います」
「間違ってもあの子にやってしまっては駄目よ」
 念を押されてエルシアンは苦笑になる。あの子というのはこの場合リュードのことだ。リュードは宝飾品を好きで集めているが、エルシアンも何度か巻き上げられているし、女に貢がせるし、無軌道を絵に描いたようだった。
「おばあさまからだと言えば少しは自重するでしょうよ」
 エルシアンは肩をすくめる。だが口で言うほどリュードを戒めようなどと思っていないのはエレイナにも分かっているようだった。本当かしらと笑っている。
 この日エルシアンは十八才の誕生日を迎えた。父王から遅れること二日だが、本当にこの日に生誕したのかは定かでない。母親がいない、のは死別したからではなくて不詳だからなのであった。
 誰だか分からない女の子供だと一笑に付されても不思議ではないが、父は自分を息子だと認めはしたのだ。
「お前も十八になるのね、本当に早いこと。ここへ来た頃はこんなに小さくて可愛らしかったのに」
 エレイナは椅子のひじ掛けあたりに手を置く。エルシアンがエレイナに引き取られたのは一才を越した頃で、それまでは侍女や女官の手を右往左往して育ったと聞いていた。彼女の死んだ息子にエルシアンが似ていたからと聞かされてはいたが、既に絆は固く結ばれ、今更理由などどうでも良かった。
 大切なのは、とエルシアンは思う。エレイナは祖父王の正妃で父王は側腹の王子、二人の間に血縁関係はない。エレイナから見れば父王は夫が他の妃との間に作った子供である。つまりエルシアンとエレイナは他人なのだ。
 だが、エルシアンを育ててくれたのはこの他人であるはずの老女であった。深く絡んだ絆の強さと深さだけが自分たちをつないでいる。そう思うと尚更に大切にしようという気持ちになる。
 血の繋がらない祖母から貰った贈り物を、丁寧にマントから外してエルシアンは髪をほどく。普段は王宮の作法など適当に聞き流して髪は結ばずに流しているが、今日はエレイナとの多少改まった夕食だったからさしあたって準拠してみた。その可笑しさはエレイナにも伝わっていたようで、今日はきちんとした格好で来たわねと笑われたものだ。
 下げ緒の両端にも黒耀石と紫水晶の飾りがついている。下げ緒自体は白金と金を細く糸状にして寄りあわせたもの、これ一本でどうやら田舎の別荘が買えそうだ。
 これは学院へは持っていけないな。エルシアンは溜息になる。
 エルシアンが王子であることは隠されているわけではないが喧伝しているわけでもない。実際、友人たちは自分が貴族であることを知っていても王族であるとは思っていないだろう。儀式や礼典のときに使うものにはまた細かな定めがある。王宮の中にいるときに髪をまとめる飾り紐として使うのがいいかも知れない。やっと使い道を見出してエルシアンは苦笑した。
 夕食を終えてしばらくエレイナと歓談してからエルシアンはこの館の自室へ戻る。成人するまではここで暮らしていたのだ。
 王宮は国政の中心として機能する太陽宮と呼ばれる部分と、王族の私生活の場である蒼月宮に分かれているが、エレイナの館は蒼月宮の更に深み、王宮全体の真奥に位置している。この時間になると夜の庭を抜けて近道を回っても帰るのは億劫だった。
 王族は基本的に自分の居場所をいかなる場合にも明らかにする義務があり、エルシアンが今夜ここへ泊まるのは既に蒼月宮を管理している部署へ連絡してある。不便だが仕方がない。平民たちよりは随分贅沢な暮らしをさせてもらっているのだから、多少の不便は受け入れなくては──それに。エルシアンは自分がいた頃のままの部屋で衣服を弛めながら口を苦笑にゆるめる。
 ……大体、それは「何かあったときに責任を負う立場の王族」のための制度だ。今までも何度かリュードと口裏を合わせて外泊を重ねているが、ばれて叱られたことは一度もない。それにあぐらをかいているのも良くないと分かっているが、緊張した空気のときは外には出ないでおこう、程度の認識に落ち着いていた。
 小さく扉が叩かれたのはその時だった。いいよ、といってやるとするりと音なく滑り込んできたのは先ほどエレイナの側にいた侍女だ。結いまとめられていた髪は今はゆったりと解かれており、眩しい白金の色味の薄さが清楚で胸に響く。
 ナリアシーア、とエルシアンは呼んだ。こくりと頷く仕種が愛しく、仄かに笑った唇が愛しい。ほっそりとした体の上にのっているのは何よりも美しい、絶対の美貌だ。どんな地上のものよりも神々に愛された宝石のように輝いている。
 ナリアシーアは窓際に立っていたエルシアンの側へ寄り添うとその場に座った。エルシアンもつられるように椅子に腰を下ろす。細い声が殿下、と言うのが聞こえた。
「お誕生日おめでとうございます」
 うん、とエルシアンは穏やかな返事をしてナリアシーアの髪に触れる。ゆるい波を描く美しい絹糸がさらさらと手の中で音を立てた。これ、と差し出された包みはエレイナに比べて相当小さい。受け取って包装を解くと、中は髪をまとめるための飾り紐と髪飾りだった。同じ意匠をこらしてあるから揃いで使えるものだ。これがナリアシーアからの贈り物だった。材質は絹だろうか。
「陛下のに比べると、恥ずかしいんですけど……」
「比べるのはおかしいよ。それに君がくれるなら何でも嬉しい」
 それは偽りない気持ちだった。
 ナリアシーアの家格は貴族の中でも低いほうから数えるのが早く、また門閥の係累などでもなかった。経済的に豊かとは思えなかった。ナリアシーアに出ている侍女としての給金は家に入れていると聞いたことがある。彼女の細々とした小遣いあたりで買うのがやっと、なのだ。物よりもそれをしてくれる心のほうがエルシアンには何倍も嬉しい。
 急にエルシアンは立ち上がった。ナリアシーアが驚いたように彼を見上げた。エルシアンはゆるめていた衣服の襟を多少戻しながら空を見る。満天の星、輝く月、雨は降っていないようだ。
「ちょっと部屋、行ってくる」
 蒼月宮のですか、とナリアシーアが聞き返した。エルシアンは頷いた。エルシアンの部屋は太陽宮に程近い、他の王族たちと分けて使っている居宮の一角になる。蒼月宮という言い方自体がいわゆる後宮の総称であって、実質はこうした居宮や小宮を温室や回廊で繋いでいる建造物群だ。このエレイナの館は蒼月宮と一般に呼ばれているあの建物の森からは庭園を抜けて丘を越え、更に馬場や池などを挟んでいて遠い。エルシアンは近道を知ってもいるが距離があるのは否めなかった。
「すぐ戻るよ。ここで待っておいで」
 エルシアンは言ってバルコニーへ通じる硝子戸を開いた。丁度良い位置に植えられている木の枝をつたって下へ降りてしまうのだ。帰りも同じ道筋を通って自室に戻る。昔からこの順路で夜中、よく池まで泳ぎに行ったものだ。夜の池は人の気配がなくて涼しい。
 ナリアシーアが外してあったエルシアンの夏向きのマントを取った。夏とはいえまだそれは始まったばかり、夜露が降りれば肌に寒い。マントを受け取って腕に巻きつけ、エルシアンはもう一度ここで待っているようにと言った。
 学院が休みに入ってからリュードと一度王都の市街へ「補講だから」という名目で遊びに行ったときに、彼女の為に買っておいた夏向きのレースのショールがある。
 ナリアシーアにちょっかいをかけるんじゃありませんよと最初に彼女に出会ったときにエレイナに釘をさされているから、祖母の前で女物の贈り物をぶら下げて歩けず持ってきていなかった。
 それに見つかってしまえば「お祖母さまに」と差し出さないわけにゆかないだろう……それは勘弁。
 地上へ降りて一度自分の部屋を振り返れば、ほのかな明かりを背にしてナリアシーアが小さく手を振り、声を立てずに何か口を動かしている。気をつけて、だろうか。
 エルシアンは軽く手を挙げて夜の庭を急いで渡り始めた。


3

 夜の蒼月宮はひっそりと静かだった。既に王族が部屋に引き取り私人としての時間を過ごしているはずで、一部の侍従や召使いを除いてはもう休んでいるに違いない。
 蒼月宮に入るには太陽宮から続く門を通らなくてはならず、それ以外に出入り口はないから警備上の心配はない。だがやはり人の気配のない回廊の空気は昼間の解放感とは違っていた。植え込みの花たちや茂みがざわめく度に夜の意思のような物に包まれている気がして気味が悪い。さっさと用事を済ませて帰ろうとエルシアンは足を速めた。
 堅牢な足音が遠く響いたのはその時のことだった。エルシアンはその音に驚いて思わず振り返った。胸が突然激しく打ち始める。
 規律正しいその音は次第に近くなってきて、エルシアンはつい後ずさった。
 何か、怖いものが来る気がして仕方がなかった。見えぬ圧迫に押されてエルシアンはごくりと息を飲み、それから自分の憶病さに面を歪めた。馬鹿馬鹿しいことであった。
 遠い回廊の向こうに灯火が揺らめいた。太陽宮のほうから誰か来るのだ。それが人であったことだけでエルシアンは急な安堵にふれ、吐息を落とした。ぼんやりとした明かりがエルシアンの前で止まる。王族の足元を照らすように灯火を持った侍従が膝をつき、エルシアンに深く頭を下げた。主人はアスファーンであった。
「今日は皇太后陛下のところと聞いていたが?」
 相変わらずの落ち着いた低い声にエルシアンは頷き、物を取り
に来ただけですからと答えた。
「兄上は……お仕事ですか?」
 アスファーンは苦笑と共に曖昧に肯定した。良く見ると夜着の上から軽くガウンを羽織っているだけだったから、アスファーンも一度は休んでいたのだろう。ラジールがな、と呟いて溜息をついたから戦が始まるようだった。
 ラジールというのはこのシタルキアの西を流れる大河で国境を別つ隣国で、領土と利権の問題はどちらかが滅びるまでは解決しないと思われた。それが河を越えて侵入してきたのだ。
 もっともそんなことはこちらも頻繁に行っているからあちらを一方的に非難するのはおかしなものだとエルシアンは思う。だが、政治というのはそれを真顔で言うものだ。……自分が大人になって、そういうことにためらわなくなればアスファーンの側で国政に携わることも出来るだろうか。実はエルシアンの希望は国政に関わることではなく、この異母兄の信頼を得ることなのだ。
 アスファーンが早く帰りなさいと促して自らも回廊の奥に消えていくのを見送り、エルシアンは自室へ歩き出した。アスファーンの重い足音がやがて聞こえなくなり、灯火の僅かな蜜柑色が視界から消えると再び静寂が帰った。
 だが、その静穏な闇は今度は安堵だった。不安が急に解け消えてなくなっているのにエルシアンは気付いた。夜中の蒼月宮など出歩くものじゃないと心に刻みながら自室へ入る。
 包みを衣装部屋から持ち出すと蒼月宮を後にし、丘の中腹あたりまで来て振り返る。目の端に灯火が幾つか揺れたのを、見た気がしたからだった。
 案の定、アスファーンを照らしていたのと同じような灯が幾つか回廊を行き来している。ラジールとの戦役が開いたのを知って、主要な王族の招集がかかったのだろう。エルシアンには呼び出しは来ない。エルシアンの立場も握っている力も無いに等しいもので、今夜決まったことを明日の朝からの王族会議で了承するだけだ。拒否など出来るものではないし、結局は多数決であるから無意味でもある。
 それが悲しいとは思っても、権力を手にしたいかというとそうでもなかった。自分の手に余るということは考えなくても分かる。自分はそんな器ではないのだ。


4

 館へ戻るとナリアシーアは起きて待っていた。エルシアンは手にした包みを先に彼女へと放り投げ、木をよじ登って部屋へ上がった。ナリアシーアは湯を沸かしていたようだった。外はまだ少し寒いでしょうから、と言いながら茶をいれている。
 差し出されたカップを取りながらエルシアンは自分からの包みを開けるようにナリアシーアに言った。ナリアシーアは少し笑った。その笑顔の優しさがランプの明かりに馴染んで柔らかい。綺麗な笑顔だとエルシアンは思った。美しいのは彼女の外側の造形ではない。内気がちではなるが優しくたおやかで、しなやかな芯の強さと気性の良さを持っていることが、真に美しいのだ。多分、もうこんな女には巡り会えない。
 包みを開けたナリアシーアが微笑む。エルシアンは茶のカップをおいて自分の送ったショールを手に取り、ナリアシーアの肩にかけた。思った通りに良く似合う。元々持っている清楚な輝きにしっくりと収まった。
「ありがとうございます、こんな……」
「君の誕生日には会えなかったからね」
 王族としての義務に基づき、この春は父王のシタルキア東沿海部の新港視察に随行している。ナリアシーアの生まれは春早い時節なのだった。
 視察の随行から帰ってきてからその埋合せにと一度王都で会っているが、ナリアシーアは何を見ても絶対に「欲しい」を言ってくれなかった。ナリアシーアに何かを贈るには押しつけるしかない、とエルシアンは悟ったものだ。けれど喜んでくれるならそれでも良かった。彼女のことを今自分の持っている何よりも大切に考えている。
 似合うよ、とエルシアンは言った。ナリアシーアは微笑んで自分の肩のショールに触れた。触れる指の細さ、丁寧に手入れされた爪の優美さ、何よりもその手を持っている彼女自身の薄暗い部屋の中でも輝くような美貌。
 エルシアンはまばゆいものを見るように恋人を見つめた。出会った頃声をかける度に脅えて震えていた面影は既に薄く、微笑まれると胸の奥にざらめく喜びがある。
 エルシアンはナリアシーアの隣に腰を降ろした。名前を囁きながら細い手首を掴み、引き寄せる手で抱き込みながら軽く唇を触れ合わせる。ナリアシーアの唇はいつでもしっとりした甘みがあって、微かに冷たい。その冷たさに相反するように、触れていると体の奥から炎のようなものがかぎろい始める。冷えた唇を、血の気の薄いその体を、やわく溶かしてやりたくなる。膝を開いてエルシアンはその中へナリアシーアを収め、後ろから肩を抱く。
 もう付き合い始めて一年に近い。……急ぎすぎるのは良くないと今まで先送りにしてきたけれど、そろそろいいかな……
 ナリア、と呼びながら首筋へ唇を移動させると腕の中のナリアシーアがぴくりと緊張するのが分かった。駄目? そう聞くと、僅かな間があってから小さく首が振られる。エルシアンは内心でほっと溜息を落としながらナリアシーアの細い体を背後から抱きしめた。彼女の髪にはいつでも花の香が入っている。その匂いにつられるように、どこまでも遠く落ちてもいい。今までの恋愛など軽いものに見えてくるほど彼女を愛している。一生に一度の相手というなら確かにナリアシーアしかいなかった。
 エルシアンは軽いキスを繰り返しながらナリアシーアの体に触れる。女の体はいつでも驚くほど柔らかい。ふわふわしている。
 肩を掴んで正面を向かせると、ナリアシーアは苦役に耐えるようにぎゅっと目を閉じ、微かに震えているようだった。
 エルシアンはゆるく、そして小さく吐息を落とした。女に触れるのが初めてでなくて本当に良かったと思った。
「怖い、ナリア……?」
 ナリアシーアは首を振る。けれど少しも弛緩しない表情でそれが嘘だとすぐに分かった。エルシアンは今までの多少の執拗さを無理に手つきからそぎ落としてナリアシーアの頬を撫でた。
「いいよ、急がないから。もっと、君が……君が俺を好きになっ
てくれるまで、今のままで……」
 そう言いながらエルシアンは我ながら我慢強いと内心で苦笑になる。実のところ、早く彼女を抱きたいのは確かだ。だがナリアシーアの気持ちを優先すると最初に言ったのも事実だったし、それを反故にしようとも思わない。
「嫌ではないんです、ただ……」
 ナリアシーアはエルシアンの肩に顔を埋めるように呟いた。消えた言葉の先をエルシアンは正確に知っていた。
「不幸の魔女」。彼女をそう呼ばせるに至った巡り合わせの悲劇を、未だに忘れていないのだ。
 エルシアンはいいよ、と努めて軽い口調で言った。落胆は確かにあるのだが、それよりも彼女を傷つけたくないという気持ちのほうが大きかった。
 エルシアンの様子が沈静したのが分かったのか、ナリアシーアはごめんなさいと小さく言って、自分から唇をエルシアンに押し当ててきた。ついばむようなキスを繰り返し、これでも最初の頃よりは大分ましだとエルシアンは自分を慰めている。
 ナリアシーアの美貌が引き起こした数々の事件と必ずついてまわる死の影を、彼女が自分のせいだと思い込んでしまったことが一番の不幸だが、思い直させるにはまだ努力が足りないということだろうか。気にするな、君のせいじゃないと言ってみても彼女にとっては気休めにしか聞こえないのももう分かっている。
 ナリアシーアは恐れているのだ。自分とつき合う男は皆死ぬと、そう思っている。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」
 泣き出しそうな声にエルシアンは首を振る。ようやく波だちが落ち着いていくのが分かった。急がない。焦らない。その二つをまた心に刻もう。
 エルシアンはいいんだ、と言った。自分でもふと笑みたくなるような、柔らかな声だった。
「君に無理強いはしないと言ったよ」
 既に体をまさぐるのを止めていた手で彼女の背中をかき抱いてエルシアンは深く呼吸をする。やはり花香の匂いは鼻腔から侵入してきて脳裏を僅かに白く染めようとするが、それを押し殺した。「好きだよ、ナリア……」
 エルシアンの呟きに答えるように、ナリアシーアがこくんと頷いた。からめる指の細い冷たさが切ないと思った。しばらく椅子の上で抱きあいながらエルシアンはいつか、のことを考えている。
 いつか、彼女の全てを手に入れて幸福の水に溺れる日のことを。その頃自分は大人になっているだろうか、何かの仕事をしているだろうか。アスファーンが何故だか自分を構ってくれるのを、期待してもいいのだろうか。もちろんそのための努力は払う気がある。エルシアン様と呼ばれたのはその時だった。
「あの……わたし、とても……好きです……」
 本当です、という声の細さも愛しかった。頷いてエルシアンは彼女にまた口付けをした。ついばむ唇のささやかな冷たさが衝動を僅かに引き止めている。体に触れたい、自分のものにしたい。だが、それはまだ「いつか」の物語だった。
 突然固いものの音がしてエルシアンは体を放した。瞬間的に身が竦んだのだった。僅かの間をおいて、それが風に揺れた枝が寝室の窓を叩いているのだと気付く。ほっと落とした溜息は、心底からの安堵であったために却って本人をぎょっとさせた。
 エルシアンは自分の身に巣喰い始めているこの微小な、対象の良く分からない不安をかき消そうとナリアシーアの体を強く抱いた。彼女の肌から立ちのぼる甘い香りだけが、それを忘れさせてくれるような気がした。
 そして次にエルシアンがその音に気付いたのはそれから更に三日後、──運命の変わった夜。


1

 扉を叩く音がしたような気がして、エルシアンは顔を上げた。
 既に夜は深く、蒼月宮に放してある小鳥たちも静まり返っている。家族を持たない王子たちの部屋は皆同じ作りをしている。先代、先々代と比べて父王は極端に子が多く、部屋を用意するために増築するよりは客間を転用してしまったせいだ。だから王子であるといっても部屋の作り自体は簡素である。居間、書斎、中庭に寝室。寝室には大きめの衣装部屋がある。
 エルシアンは耳を澄ませた。今彼がいるのは自身の書斎、蒼月宮の回廊につながる扉までは、内扉を二つ隔てている。特に物音もしないようだったが、エルシアンは首をかしげて立ち上がる。 廊下に一番近い居間に出てからエルシアンはしばらく耳の痛いほどの沈黙に神経をさらす。確かに自分の部屋の扉を叩く音がした気がするのだ。気のせいかと首をかしげた時、音がした。やはりそれは扉を叩いているのだった。その音を聞いた瞬間、エルシアンは何故かぎくりと動きを止めた。
 出てはいけない。そんな本能に近い声が止めているのが聞こえる。どくんと一つ大きく心臓が鳴って痛い。立ちすくんだままで扉の方向を見つめていると、もう一度、静かにそこが叩かれた。
 エルシアンは息を飲み込んだ。喉がひりつくようだった。
 こつこつという音がまだ続いている。迷い迷った挙句、エルシアンは扉に足を向けた。もし何かがあれば大声で近衛を呼べばいいだけだろうと考えたのだ。
 細く扉を開くと、その前に立っている人物が誰だか分かった。嫌な不安が急に消えた。エルシアンはああ、と気の抜けたような溜息を漏らして扉を大きく開いた。するりと侵入してきた兄の体はやはり鍛え抜かれて大きい。エルシアンにはない、強い意志と自負が兄を押しあげている。
 アスファーンはエルシアンの様子に微かに笑うと奥へ行ってもいいかを目で聞いた。エルシアンは頷いてから扉をそっと閉め、先を行く兄の背を追う。こうしていつまでもその背を追うことができれば幸福だろうかと考えると何だか気恥ずかしい。
 アスファーンがこの部屋に来るのは初めてだった。エルシアンは彼が自分の居場所にいるという怪訝な違和感を、次第に押し上がってきた昂揚で握りつぶす。アスファーンはいつでも彼の目標であり、指針であった。エルシアンに無いものを持っていて、その輝きで眩しい。
 アスファーンも珍しげに部屋の中を見ていた。殺風景なのに驚いたのだろうかと思うとエルシアンは羞恥に似たものに俯く。王族の部屋は大方その母方の親族を中心にした献上の品々で溢れていて、骨董や美術品や豪奢な調度で飾られているのが普通だ。
 アスファーンは自身のマントを外すと長椅子の背にかけ、腰を下ろした。エルシアンは何か飲むものでも用意させようかと侍女たちの控室に通じる呼び鈴の紐に手を伸ばす。紐に手が触れようとしたとき、後ろからアスファーンがエルシアンを呼んだ。
 振り返ると、アスファーンはゆっくりと首を振りエルシアンを手で招いた。人を呼ぶなと言われているのに気づいてエルシアンは頷き、自分で酒とグラスを出した。時折はリュードとここで飲むから置いてある。
 手早くそれを並べながらエルシアンはそっとアスファーンを窺った。何をしに来たのだろうというのがまず最初だった。アスファーンは無駄なことをしない。いつでも彼のすることには筋と道理がある。こんな夜中に一人で、随従も連れずにエルシアンの元を訪れるなど確かに異常なことであった。それを聞こうかどうしようかと迷っていると、アスファーンが不意に言った。
「……一昨日のことだが」
 エルシアンは不思議な顔つきになる。一昨日はアスファーンに剣技の指導を受ける約束をしていたが、ラジール侵攻の件で兄は多忙を極めていたからエルシアンから断った。アスファーンもすぐに頷いていたから同じことを考えていたのだろう。
 一昨日の王族会議の席でラジールに対する施策の大まかな方針が決定したが、一報が入ってすぐに布告文を書いたのか、アスファーンは既に声明の草稿の了承を父に得ているようだった。
 結局、王族会議といってもエルシアンを含めて年少に属する者たちは追認の署名を入れるだけで何もない。父が自ら戦場に赴くのは珍しいが、これは先手を取られたことを挽回するための鼓舞策といってもいい。父が行くということならば、万一のためにアスファーンが王都に残るのも確定だった。
 エルシアンはそんなことを思い出しながら、一昨日アスファーンと交わしたはずの幾つかの会話を思い出そうと首をひねる。だが、特に何か思い当たるものもない。困惑して異母兄を見ると、アスファーンは唇の端で笑った。それは、失笑と言うべきものだった。その笑みの暗さにぞっと背中が粟だったのが分かった。
 エルシアンは思わず腰を浮かしかける。父王の生誕の儀のときに感じた嫌な黒い予感が不意に肌に張りつく。それを払いのけるように、エルシアンは兄上、と大きな声を出した。
「あの、何か……」
 いや、と答えるアスファーンの様子は変わらない。ただこみ上がってくる笑みを押し殺すのに夢中に見える。エルシアンは今度こそはっきりとした悪い予兆を感じ取った。何かがおかしい。
 アスファーンがゆっくりとエルシアンの出した酒を口に含んでいる。目上が飲んでいるときに自分だけ無視する訳にもゆかず、エルシアンはつき合うように酒を舐めた。普段は好きな酒が、この瞬間やけに舌に苦かった。
 アスファーンは本当におかしそうに唇を震わせている。その様子が危険極まりない獣の余裕に見えてエルシアンは、少しづつ迫ってきた恐怖を予知する草獣のように、身をアスファーンから遠ざけた。どうしていいのかわからない。アスファーンの暗く沈んだ笑みをあしらってしまうだけの度胸も無かったし、流して勝手なことを喋ってしまうことも出来なかった。
「兄上……あの……」
 とにかく今夜はここから帰してしまおう、とエルシアンは恐る
恐る口に出す。
「何かご用事でしたら明日、太子宮か公用私室のほうへ伺いますけれど……?」
 公用なら執務室で、私用ならアスファーンの居宮でという提案をアスファーンは承知も却下もしなかった。エルシアンの脅える笑みを浮かべて小さく喉を鳴らし始めている。
 エルシアンは次第にはっきりした恐怖を覚え始めていた。何かが確かにおかしい。絶対に変だ。
 兄上、と声を上げるとふとアスファーンが笑みを収めてエルシアンを見た。正面からあった視線の強さに射抜かれるようにエルシアンは凍え固まった。
「エルシアン、私を好きか」
 質問の意図が掴めずにエルシアンは一瞬ぽかんとする。何を聞かれているのか分からない。好きか、というのはどういう意味なのだろう。困惑しきってアスファーンを見るが、異母兄の視線は怖いほどに真剣で、遊びを許されるものではなかった。
「あの……好き、というのはどういう意味で……」
 エルシアンは口ごもる。基本的な箇所が噛み合わない会話だと、自分でも分かっていた。アスファーンはゆるく首を振った。それに答えるつもりはないようだった。エルシアンは更に強く激しくなってくる恐怖の風音を耳奥にやり過ごしながら俯いた。アスファーンは確かに優しげな人格者ではなかった。いつでも厳しい空気を漂わせていた。だが、こんな相手をなぶるような威圧だけは感じたことがない。何かが変だ、──今、自分は食われるのを待つ兎のように無防備なのかもしれない……
 その考えが急に上がってきてエルシアンは立ち上がりかけた。それを止めるようにアスファーンが先に立った。アスファーンはエルシアンよりも頭半分ほど背が高く、体格は遥かにがっしりとしており、眼前に立たれると竦むような圧迫感があった。
 アスファーンがゆったりと低いテーブルを回ってエルシアンの前に立った。エルシアンは気後れと怯えの判別のつかないものについ後ずさった。



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