閉じる


愛の残香

1

 騎士の正装をまとったリュードは優美で華奢な造りとあいまって、男装の麗人のようにも見えた。すまない、とエルシアンはもう何度目かも分からない言葉を紡ぎ落とした。
 いや、と軽く笑ったリュードの顔は全てを受け入れて通り越した者の落ち着きと諦めで、却って穏やかだった。
 エルシアンは詰襟になった正装の胸元に揺れる、正式な騎士であることを示す乳白色のチーフを見つめた。下賜された剣は細かく彫刻を施された鞘と鋭利な刀身を持ち、片刃の背の部分にはリュードの家の紋章である蔦薔薇が金で描かれている。実用できるものではないが、家宝にできる品だった。
 王太子からの直接の下賜であったから尚更だろう。リュードはでは、と皇太后に膝をついた。王族に対する最敬礼は叩頭と決まっている。まず膝をついてからだった。
 皇太后はそれを手で制止し、リュードに優しい声を与えた。
「よく家を盛りたてて礎とするのですよ。そなたの活躍を心より祈っていますからね」
 リュードは立ち上がっていつもの笑みになって見せる。
「城門まで送ってきます」
 エルシアンは祖母に告げてリュードの後ろを追った。外は既に風の冷たい季節であった。二人とも言葉すくなだったせいで、その間の空気は澄みかえり、更に冷気を増した気がした。
「……元気で……」
 月並みなことをエルシアンは言った。リュードはエルシアンをちらりと見て微かに笑った。それが恐らくは永久の別れになることをお互い承知しているのだった。
 リュードは領地に帰り、一騎士として生きていかなくてはならない。エルシアンは父の死の前後に臣籍に降下して、役職を得て王都に残ることになるだろうが、いずれにしろ関わりは途絶する。
 皇太后は何かあればエルシアンを頼りなさい、この子だって王子なんですからねと言ったが、それは言質にさえならない餞別以外の何物でもない。
 最後に綺麗な言葉や小物たちで飾られてリュードはますます華やかな眩しさを強めているが、その顔は済まし込んだ作り笑いのまま、ついに崩れなかった。
「エルシアン」
 不意にリュードが呟いた。
「俺はさ……お前が国王陛下に頼んでくれると言ったとき、全部諦めてもいいと、そう思った……」
 エルシアンは友人の顔を見る。華やかな空気は既に北風に連れ去られ、素地に戻って感慨深げに穏やかだった。リュードは何だよ、と軽く笑った。エルシアンの視線に首を振ると空を見上げる。リュードにつられるようにエルシアンも同じことをした。
 空はよく晴れていた。鳥が雲のない青い背景を、ふうわり横切って南へ飛ぶ。鳥になりたい。エルシアンは目を細めた。
 そんなことを子供の頃に思ったことがあった。無邪気で愚かな望みであったことはこの年になれば分かる。自分には王族としての義務があり、かせがある。その責任を果たさずに出ていくことは、許されることではなかった。
 エルシアンは溜息をついて空を眺めているリュードを見た。リュードはエルシアンに視線を戻し、柔らかく笑って首を振った。
 いいんだ、と言う声がした。エルシアンがでも、と続けるのを、リュードは下賜の剣についた叙勲の色房をいじりながら遮った。
「いいんだって。俺は……あの女とか実家の兄たちはみんな嫌いだったけど、実はくそ親父のことはそんなに嫌いじゃないんだよ」
 エルシアンは曖昧に頷く。リュードは確かに父親を頼りにはしていなかったが、嫌っているわけでもなさそうだと思ったことはあった。近衛として出仕していた頃何度か話をしたこともあるが、陽気で大らかで、決して悪意のある人間には思えなかった。父親も自分が王子であることに全く気付いておらず、息子に初めて出来た友人としてエルシアンを歓迎してくれたのだ。
「あのくそ親父はさ……根が臆病で女に弱くて頭悪くて決心の続かない、どうしようもない奴なんだけどさ……少なくとも憎めない奴であることは確かなんだよ」
 リュードはそう言い、ふん、と鼻で笑った。
「お前も似てるよ、それにさ。どんな相手でもそれなりにまるめちまう。何だろう、感化みたいな……親父なんかよりずっとずっと強くそれを感じる。どこにいても誰といても、きっとみんな、お前が好きだよ……」
 エルシアンはありがとう、と言って俯いた。
 けれど、と心の中が泣き始めるのを聞いている。人から憎まれる怖さを知ってしまった今、他人の好意を今までのように素直に身に付けていくことが本当に自分にできるだろうか、と。
「だから、今のお前がいい状態じゃないってことは俺にも分かる」
 エルシアンははっとして顔を上げた。リュードは苦さと甘さの入り混じった笑みを浮かべていた。
 風が一瞬増してエルシアンは頬を叩いた髪をかき戻した。体が微かに震えているが、これを寒さのせいだと言い張ることが出来るだろうか。
「……なぁエルシ、お前本当に変だよ。夏辺りからさ。でもお前が変なときは大抵、嫌なことがあったときだったから、今も何か嫌なことがあるんだとは思う。俺はもう何も出来ないけど……でも、これだけは言っておく。自分自身を変に歪めてまで我慢しなくちゃいけないことなんかないよ。お前はもっと我儘になってもいいんだよ。だからしっかりしろ。いいな。俺は、……このまま放っておくと、お前が何だか自殺しそうで、怖い……」
 その言葉に鞭打たれたようにエルシアンはぎくりと身をすくめた。何もかも見透かされたような感覚に一瞬陥り、そんなはずはないと思い返して首を振った。
 リュードはエルシアンの様子に何も言わなかった。今自分を問いただしても何も聞けないと諦めているのだった。
「本当に我慢できないくらい嫌なことがあったら……もっと自分の望む事を考えろ。なぁ、元気でって言いたいのは俺のほうだよ、全くさ……」
 エルシアンは唇だけで笑って頷いたが、顔が強張っているのが分かった。ありがとうと言うとリュードは笑い、ここでいいよ、と言った。
 リュードの目の端が僅かに赤くなっているのにエルシアンは気付いた。ここから蒼月宮の中心部に至るまで丘を二つ越えていかなくてはいけないが、その間人影は殆どなく、広大な敷地の中をぽつんと歩いていくだけだった。
 リュードは一人になりたいのだ。
 エルシアンは分かった、と言った。じゃあ、とリュードは軽く口にしたが、それは軽さを装った万感に聞こえた。
 最後の握手にと差し出された彼の手を握るのに、一瞬の躊躇がある。こんなことではいけないと思う側から、肩から下が感覚を無くしたように動かない。必死に命じる筋肉の相克で、微かに手が震えているが、遂にそれが出来なかった。
「そらみろ」
 リュードが言った。エルシアンが顔を上げれば彼は穏やかな、そして哀しそうな顔で笑っているのだった。リュードは気付いている。自分に何かが起こって内側が移り変わりつつあることを。 それが何かを聞かないのは、せめての彼の気遣いなのかもしれなかった。負担に掛けない、掛けさせない、そんな軽やかさを今自分は永久に失うのだと思うと涙が零れそうになる。エルシアンは慌てて上を向いた。変わらぬ蒼穹が目に痛かった。
「俺に触るのは嫌だ? 違うだろ、お前は他人に触れないんだ。──どうにかしろ。死ぬなよ」
 答える言葉がなかった。リュードは差し出した手をひらひらと自分の顔の前でエルシアンに振って見せた。
「この握手はまた、ね。いつかまた……それまでには俺にべったり抱きつけるようにしっかり鍛練しとけよ、いいな」
 リュードの声も心持ち上気しているようだった。エルシアンが頷くと、しばらく沈黙になった。
 風が枯れ草を渡る、ざあっという音がした。
「またね、エルシ」
 リュードは自分を切りつけるような鋭い声を出して背を返した。丘をゆっくり上っていくリュードの後ろ姿はしゃんとしており、まっすぐに伸びた身長のすがしさばかりがあった。
 彼は泣いているのだろうか、それともこらえているんだろうか。たった一つ分かることは、それが見える位置では決して振り返ってはくれないだろうということだった。
 リュード、と陸の向こうに消えようとする人影に呟いたとき、まるで聞こえたように相手も振り返り、何かを投げた。
 きらりと光ったものが落ちた場所へ駆け寄ると、それはいつか彼に渡した金の蛇のついた指輪だった。
(側にいてよ)
 自分は、そう言ったのでなかったか。それを守れなくなる義理にこれを返してきたのだとその時分かった。
 指輪にはまだリュードの体温が残っていた。指にはめ直しながらエルシアンはそれを額に当てて、自分を守ってくれない気配を探そうとした。


2

 それはリュードが身辺から消えて間もない初冬だった。学院への通学は城からの馬車に切り変わり、否応なしに王子であることが知れ渡ってエルシアンはやや窮屈をなめている。
 元々女受けが悪いほうではなかったが、ひっきりなしに寄って来られればうんざりするし、古くからの友人たちはにやにや笑っているだけで助けてくれもしない。口を聞いたこともない同期生は明らかな克服の対象として見るか、恐れ入ってぎこちなくなるか、さもなくば大小取り入ってくる連中か。このどれかだ。
 これだから嫌なんだとエルシアンは溜息になる。それでも変わらず付き合ってくれる友人もいる、ということが貴重なのだろう。
 愚痴を聞いてやるからと連れ回されて遊び歩く夜が増えた。飲んでいるとその時だけは沢山の出来事を忘れていられる気がして楽だったのも事実だった。本来外泊には許可が要るが、それも無視した。王宮の夜を迎える事自体が怖くて仕方がなかった。
 その日もいつものように王都の中央学院で授業を受け、友人達と散々遊んで王宮へと戻ってきたエルシアンを、待ち構えていた近衛が形ばかり丁寧に連れていったのは後宮の奥、王の居宮に近い区域の一室だった。
 高院の制服のまま部屋に連れ込まれてエルシアンはその場の空気に立ちつくす。部屋には父王やアスファーンを始めとした王族がほぼ揃っており、事実上の王族会議とでも言うべき体裁が整っていた。王族会議なら王の執務宮で開催するのが常である。嫌な予感しかしない。
「何か申し開くことはあるか」
 長兄のウォーガルドが言った。訳も分からずエルシアンはぼんやりと周囲を見回す。一体これはどうしたことなのだろう。アスファーンが小さく溜息をついて父王を見た。
 その視線につられてエルシアンは父を見やり、顔をしかめた。父の顔に憤りとしか言い様のない表情がある。何かあったのだということだけをようやく理解し、そして次の瞬間自分が犯人扱いされているのに気付いて慄然とした。──申し開くこと、とは言い訳なら聞いてやろうという意味であろう。
 エルシアンが茫然と立ちつくしていると、アスファーンが低い声で言った。
「昨晩、後宮の書庫に不審火が出た」
 エルシアンは首を振って後ずさった。不審火、と列席している王族から密やかな非難の言葉が漏れてきて、事の重大さに殴られるような衝撃を感じ、エルシアンは必死で首を振った。
「俺じゃない、何でそんなことしなくちゃいけないんだ」
 言いながら何故自分が真っ先に疑われたかをエルシアンは理解している。後宮の書庫は公の文書を管理する場所ではない。主に王族の血縁や出生の記録を保管しておく場所なのだ。つまりは宮中の秘事の宝庫というわけである。
 鍵は成年に達した王族に渡され、王宮を出るときに返還する。今王宮にいる王族の内、成年の者はエルシアンを含めて僅かに十名、正妃以外の妻達は王族には含まれておらず、候補者を絞るとエルシアンくらいしか残らなかったに違いない──が。
「昨晩はどこにいたか、証明できるのか」
 ウォーガルドに言われてエルシアンは俯き、床を睨む。昨晩は友人と飲みに行って朝帰りし、すぐに制服のシャツだけ変えて学院へ行ったため、殆ど王宮にはいない。侍女たちは見かけているだろうが、こちらが誰と指定しない限り証人には出来なかった。
「……昨日の蒼月宮の在中証明といっても……そんな、何も」
 言いながらまずいとエルシアンは思う。なにより自分には理由に見えるものがある。母親の名を知りたかったのかと言われれば一見十分に思えてしまうのだ。
 実際はエルシアンはそんなものに興味はない。どうでもいいし知りたくもない、というのが率直な気持ちだった。母の不在で随分と今まで不都合を被ってきたし、今更それをどうしようもない。憎んではいないが、鼻白むような気持ちになる。
 それに成人してすぐの頃、エルシアンは書庫で自分の出生の記録を探したことがあった。結果からいえば母の記録は一切残っていなかったのだが、それを知っていることを話すのは藪蛇だ……
 思案に沈むエルシアンの耳に、張りのある声が届いた。
「昨晩はわたくしの所にいましたよ。ね、そうよね、エルシアン」
 全員が声の主を見た。毅然とした態度で老女がエルシアンに向かって微笑む。急いでエルシアンは頷いた。嘘だと分かってはいるが、救ってくれるのなら何でも良かった。
「皇太后陛下」
 王が渋い顔で呟くように言った。
「非公式とはいえ王族会議の場で作り話はご遠慮ください」
「あら、わたくしが嘘をついているとでも、カルシェード?」
 じろりと睨まれて王は渋面をする。亡き先王の正妃であり立太子されたときに後押しをしてくれた恩があって、父は皇太后には最大限の配慮を見せる。しかし、と食い下がろうとする長兄に
「お黙りなさいウォーガルド! そなたが口を出すことですか!」
とぴしゃりと言い放ち、エルシアンに頷いて見せた。
 ほっとエルシアンは息をつく。疑いは晴れてはいないが、当面の危機は去ったように思えた。
「……エルシアン」
 アスファーンの低い声が言った。
「王子としての誇りにかけて違うといえるか」
「本当に俺は知らない。誓えというなら何にでも誓ってやる」
 エルシアンは渾身の全てを込めてアスファーンを睨む。そうか、とアスファーンが頷いた。
「父上、私もエルシアンを信じてやりたく存じます。これは浅薄かも知れませぬが、嘘をついて回るような者ではございません」
 そう言ってアスファーンが軽く頭を下げた。皇太后が頷き、父が深く溜息を落とすのが聞こえる。まるで父は自分が放火をしたのだと信じたいようであった。
「……もうよい、お前ではないというならば仕方なかろう」
 投げやりに王が吐き落とし、ウォーガルドが不満気に眉をしかめた。エルシアンを侮蔑する一番はウォーガルドであった。


3

「しかし、これ以外に誰がおるというのです、父上」
 ウォーガルドの言葉にアスファーンが軽蔑の視線をやり、兄上と落ち着いた声を出した。
「ならば不明、ということにするしかございませんでしょう。とりあえず……そうだな、今回の件は不問にする替わりに所在不明の件について一筆書かせ、口頭注意ということで処分してよろしいでしょうか」
 処理の提案に父が頷いたのに続き、エルシアンも同じようにする。実務に通じたアスファーンの提案は合理的で無難だった。
 差し出された羊皮紙に文言を入れながらエルシアンはちらりと長兄を見た。怒りで青黒くなった表情に、嫌な気配を感じて眉を寄せる。ウォーガルドには関わりたくなかった。
 王と皇太后を筆頭にした年長者たちが揃って退席し、その場が若い王子や王女達だけになると空気は意外とゆるくほどけた。エルシアンは兄弟姉妹たちに軽く会釈して自分も部屋へ帰ろうと扉に手をかける。その背をウォーガルドが呼び止めた。
「本当にお前じゃないのか」
「……知りません」
 露骨に顔をしかめながらエルシアンは言った。それは本当のことだが、頭から決めてかかられると不快としか表現できない。
 誰も知らんのだしな、と呟く兄の言葉にエルシアンは聞こえるように舌打ちした。次の瞬間、肩が突き飛ばされる。ほんの少し後ろへ下がり、エルシアンは長兄を睨んだ。
「何か言いたければ許すが、どうしたい、エルシアン?」
 ウォーガルドが鼻で笑う。エルシアンは目を閉じて深く息を吐いた。侮辱に慣れてこの苛立ちをすんなり自分で押さえ込めるという事実は苦笑するしかないが、いつものようにやり過ごそうと目礼し、部屋を出ようとした手をウォーガルドが掴んだ。
「まだ話は終わっていない」
「離してください、俺にはもう話はありません」
 強く手を引くと、ウォーガルドも負けじと引き返し、二の腕が引きつって痛んだ。
「兄上、もうそれぐらいになさっては」
 いいかげんうんざりしていた様子でアスファーンが割って入ったが、それは逆効果だった。もともとアスファーンへの劣等感に苛まれているウォーガルドには嘲笑に聞こえるらしい。
「黙れアスファーン。こやつ如きに私は恥をかかされたのだぞ」
 ろくに根回しもせずに何を、とエルシアンがつい溜息になると、ウォーガルドはエルシアンをじろりと睨んだ。エルシアンは目線を反らし、唇をぎゅっと結ぶ。
「こやつごときとおっしゃるのならば、エルシアンごとき放っておけばよろしいではありませんか。何も本気になって年少の者を詰問することもございますまい」
「駄目だ、これが本当のことを言えばいいだけのことだろう」
「俺は本当に何も知らないんだよ、いい加減に離せって!」
 そう怒鳴りながらエルシアンは捕まれた左手を大きく振り払った。あっ、という驚愕の声が上がった。
 目の前でウォーガルドが頬を押さえて信じられないものを見るようにエルシアンを茫然と見ている。
 エルシアンは急に動きを止めた兄を不思議に見つめた。頬に置かれた兄の手がゆっくりと下ろされて、そこに走る一筋の赤い線にエルシアンは息を飲む。
 おそらくは手を払ったときにエルシアンの指にはまっている王族の紋章の指輪が掠っていったのだろう。
 一瞬部屋の中がしんとして、その直後どよめきが起こった。怒りのあまりにウォーガルドが頬を紅潮させて震えている。まずい、とエルシアンは後ずさった。上下関係の厳しい社会で目上の者を傷つけてただでは済まないし、顛末の流れはともかく自分が長兄を傷つけたことは逃れようがない。
「謝れ、エルシアン!」
 アスファーンが厳しい声で言った。エルシアンは我に返ってウォーガルドを見た。ウォーガルドの考えていることはすぐに分かった。自分に逆らうはずのない目下に傷を付けられたのだ、痛みよりも屈辱に震えているに違いなかった。
「エルシアン、聞こえなかったのか、謝れ」
 アスファーンが再び言った。
「申し訳ありませんでした」
 低く呟いてエルシアンは頭を下げた。発端は、などと言い出せばまた揉めるし、こうでなければ結局収まらない。
「エルシアンも謝っておりますし、偶然かすってしまっただけで傷は大したことはございません。どうぞ兄上の寛大なご処遇をお願いいたします」
 ウォーガルドが何か言いかけるより早くアスファーンが言って長兄に深く一礼した。許すとしか言えなくなったのを悟ったウォーガルドの顔に黒い憎悪が広がってゆくのをエルシアンは見た。
「……許す。ただし」
 言ってウォーガルドはつかつかとエルシアンに歩み寄り、腰の剣を抜いた。王女たちの小さな悲鳴が上がる中、エルシアンの髪がつかまれて次の瞬間、弦の弾けるような音と共にエルシアンの黒い髪が切り捨てられて床にぶちまけられた。
 髪が短いのは犯罪者の証だ、受刑者は例外なく髪を切られる。万一の脱走の際にもその短い髪が何よりも目印になるし、それに王宮では後ろでまとめるのが作法だ。伸びるまで出てくるな、という意味もあるだろう。
 さらりと耳の後ろをかすめて落ちてきた髪の感触に、エルシアンは茫然とした。物心ついて以来、初めて首筋に髪が触る。恐る恐る首に手をやると、こぼれた髪がぱらぱらと落ちてきた。
 急激にこみ上げてくる怒りを押し殺してエルシアンは深く頭を下げ、背を返して脱兎の如くに逃げ出した。
 逃げ込む先は皇太后の館くらいしかなかった。いずれにしろ庇ってもらった礼は言わなくてはならない。エルシアンは短く首筋を揺れる髪に手をやって、皇太后の元へ歩きながら唇を歪める。 ──一瞬、自分がやりましたと言おうかと思ったことを否定はしなかった。些細な罪を得て臣籍に落とされれば王宮を出ていかなくてはならない。大事には至らなかったこともあって、自裁を命じられるということにはならないだろう。そんな計算を組み立てて躊躇をしなかったろうか。咄嗟のことで判然としなかった。
 皇太后の元へ出ると、あっけにとられた顔を祖母がした。きつく叱りつけるつもりだったろうが、こちらの髪に茫然としている。
 無理もない。この髪は罪人の証明と同じことだった。せっかく庇って不問にしたのにという怒りと疑問が交互に表われては祖母の表情を変える。これは、と言いかけると皇太后は細い悲鳴に似た溜息を長く吐いて、椅子に崩れるように腰を下ろした。
「なんてことです、それは……誰が一体そんなことを! 私からカルシェードに伝えておくから名前をおっしゃい」
「これは違うんです」
「違うも何もありますか! 全く、なんてことなの……!」
 皇太后は何度も首を振る。エルシアンが違います、と強く言って顛末を説明すると今度は溜息であった。祖母の嘆きも分かるだけに、エルシアンはすみませんというしかなかった。
「でも、俺も不用意でしたから……」
 ウォーガルドを口先だけでも庇うのは、この皇太后の怒りが叱責に変わって長兄のところに行くのが嫌だったからだ。父王に対する影響力というのなら、父の正妃でウォーガルドの母である女よりも、皇太后のほうが遥かに勝っている。それがまた揉め事の種になると、父王は「下らないこと」をアスファーンの裁量に任せてしまおうとするかもしれない。
 エルシアンはいいんです、と首を振った。これから先の立場のことを考えると持って生まれたものの少なさが更に際立つだろうと思われた。
 だが、そんなものは自分は欲しくなかった。安穏に暮らせる落ち着いた日常と、自分に見合っただけの愛情、その幸福さを完全に脳裏に描くことは出来ないが、想像は出来る。自分にはきっとそれが向いているのだ。
 皇太后は一しきり愚痴を言った後、仕方がないと溜息になった。どうしたところで髪がすぐに伸びるわけではなかった。


4

 それが終わった後、エルシアンは所在を明らかにしないまま勝手に遊びに行ったことをこんこんと叱られた。それは確かに自分が悪いのだった。
「ま、今後は絶対に守るんですよ。規律も規則も、無意味に増えているわけではありませんからね。そのことをよく分かったらもう寝なさい。多少落ち着いたらカルシェードの所へ行っておいで」
 父の、とエルシアンは首をかしげる。今日も父は不機嫌を隠そうとしていなかった。目の前に出ていけば更に怒りを煽るだけに思われた。皇太后はエルシアン、と強い口調で言った。
「お前が無実であることを私はもちろん信じていますよ。でもね、きちんとした形で謝罪をしておくのは悪いことではありません。放火のことは無視していいから、時間を無駄にさせて済みませんでしたくらいのことを言ってらっしゃい」
 はい、とエルシアンは素直に頷いた。損はないはずだった。父は不意の訪れを嫌うから、先に連絡を入れておかなくてはならない。手続きの面倒さを思うと溜息になるが、父に穏便に会ってもらうにはそれが一番良かった。
 皇太后がこの夜は泊めてくれると言ったので、エルシアンは従った。蒼月宮に帰らなくて済む方法を手当り次第に試している最中の事件だったから、しばらくはここしか逃げ込む場所がないのは確かだろう──アスファーンは、今日は来ているだろうか。それを思うと背が冷えて寒気が襲ってくる……
 皇太后の館の二階の一番端にエルシアンの部屋はある。子供時代はここが暮らしの本拠だった。向かいの小さめの扉を開ければリュードが大抵寝台に寝そべりながら本を読んでいて、多少面倒そうに何だよ、と言う──彼の不在が今、心から寂しかった。
 エルシアンは鏡を見た。髪はぶつ切られていて長さが揃っていない。一番短いところに合わせると首筋をやっと覆うくらいになってしまう。
 この髪は目立つだろう。誰も短髪にしている者など、王宮では見ないからだ。今日の出来事も伝わって、誰もが髪を見る度にそのことを思い出すだろうか。……居づらくなりそうだった。
 扉が控えめに叩かれたのはその時だった。エルシアンはいいよ、と言ってやる。ふわりと白金の淡い陽炎がすり入ってきたようだった。エルシアンは肩から力を抜いて少し笑う。やっと自分の笑みに自然なものが戻ってきたのがわかった。ナリアシーアもまた、エルシアンの髪を見て痛ましそうに目を伏せた。
 いいんだとエルシアンは笑い、ナリアシーアの後ろで扉を閉めた。振り返るナリアシーアの髪から花の香が立ちのぼった。いい匂いだとエルシアンは思った。
 透明で光溢れる髪の色そのままに、美しくて優しい、心地の良い匂いだ。アスファーンと会っているとき、愛を囁かれているときに自分にまとわりつく腐臭とはきっと正反対のはずだ。
 エルシアンはナリアシーアの髪を手に取った。ナリアシーアは俯いてエルシアンのするままに任せている。ここ半年、アスファーンと寝ることの代償にエルシアンは他人に触れる感覚を失いつつあって、ナリアシーアにも殆ど触れない。ナリアシーアが身を寄せてきても駄目だ。
 それをついに理解して、ナリアシーアは身体を寄せてこなくなった。お互いの肌が体温を感じるほど近くにいるくせに、僅かに開いた隙間をエルシアンは埋めることができない。
 それは哀しいことなのか、それとも自分にとって痛ましいことなのか分からなかった。彼女の仄かな温もりに包まれることをどこかで激しく求めているくせに、思い出されるのは暖かな色の過去でなく、激しい闇に塗り潰された夜だった。


5

 アスファーンは愛を苦しみの小道具として使っている。囁きながら自分を痛めつけるためのものなら欺瞞のそれだ。
 アスファーンのやり方に体と感覚がおもねるように反応するのも、愛ではない。愛ではない、決して。
 幸福の匂い、抱きしめるといい匂いがしてキスをすると深く香る匂いがして、触れ合うだけで喜びを思う、あの匂いとは違う。絶対に違っているのは、それは分かっているのに。
 ナリア、とエルシアンは呟いた。返事の代わりにナリアシーアはエルシアンを仰ぎ見て微笑む。ほんのりした唇と瞳の許しが優しかった。
 光煙る白金の髪。穏やかな青灰の瞳。艶やかな赤い唇。全てが見つめるだけで幸福を連れてくるほど美しく、そして愛しい。
 ナリア、とエルシアンは繰り返した。名を呼ぶだけで少しは自分の中に荒れる波が収まっていく気がしたが、抱き寄せたくて伸ばした手は途中で止まっている。抱き合えばきっと何か癒されるものがあるだろうに、それ以上ぴくりとも出来なかった。
 エルシアンは唇を噛んだ。悔しさよりも、愛しい者にさえ触れられない自分に焦れて涙が一つ落ちた。それが頬を伝って落ちていくのを拭い、エルシアンはナリアシーアの名を呟いた。
 ナリアシーアが微かに不安そうな顔をして、エルシアン様、と言った。それに首を振ってエルシアンは急に溢れてきた涙を手でこすった。こらえ切れない嗚咽が唇から漏れた。
「好きだよ、ナリア……」
 喘いだ声が深く、自分で捕らわれそうになる。
「とても、とても、君を……」
 言いかけてエルシアンは熱を持った吐息を落とし、額を手で押さえた。何を言っても彼女に触れることさえできない、それが現実であった。
 愛したい。愛されたい。何のためらいもなく相手を見つめて確かめあって、抱きしめあって触れあいたい。そうすれば彼女の花香が自分に満ちて幸福なはずだ。たかがそれだけを、立ちすくんだまま震えている……
「エルシアン様……」
 ナリアシーアの細い声がしたのはその時だった。エルシアンは無理やり涙を押し込んで笑顔に似たものをつくって見せた。ナリアシーアは少し迷い、迷いながらエルシアンの頬に指を這わせた。
 瞬間背が緊張するのを必死で殺す。それが喘ぎになって口から漏れた。ナリアシーアは丁寧にエルシアンの涙を指で拭った。
 最初、触れられる度にひりつくようだった軌跡が次第に落ち着き、すべらかに変わり、先端の体温が火照るように感じられるようになった頃、ようやくエルシアンの涙も止まった。
 エルシアンは彼女の手を掴んだ。手に伝わるナリアシーアの肌の水気がしっとりと馴染むようだった。このまま触れたところから繋がって一人になれたらずっと触れていられるのに。繋がり、繋がられて一つになれたらそれはとても幸せなことである気がするのに。
 握りしめた手にはやはり他人に触れることを怖れているのか、微かに痺れが上がってくる。エルシアンはそれをやり過ごし、ゆっくりナリアシーアの唇に自分のそれを合わせた。久しぶりに触れる唇は、肌と同じく水気をたっぷり含んで優しい味がした。
 唇を合わせたままでじっとしていると、やがて脳天から力が抜けていくような感覚に襲われてエルシアンは体を放した。目の前がじんと滲むように歪み、視界が狭くなって明度が落ちる。エルシアンは目を押さえて扉を背に座り込んだ。
 エルシアン様という声にエルシアンは首を振った。胃の辺りに渦を巻き始めた吐き気も、この一時的な目の不調も初めてではない。しばらく一人でじっとしていればいつも直った。
「……いいから、今日はもう部屋へお戻り。あまり帰ってこないと他の侍女たちの手前も悪いだろう……俺は平気だから」
 目を押さえながらエルシアンが言うと、ナリアシーアが不安そうに溜息をついた。彼女にとっても初めてではないのだった。
 もう行っていいよ、とエルシアンが言うとナリアシーアはためらいながらもおやすみなさいませと呟いて出てゆきかけ、不意に足を止めた気配がした。
 どうした、とエルシアンは言った。ナリアシーアは少しの間黙っていたがエルシアン様、と細く言った。
「わたし、わたしのこと、エルシアン様がとても気を使ってくださるのは嬉しいんです。でも……お願い、私のことはお気になさらないで……エルシアン様のなさりたいこと、好きなことを追いかけてください……」
 ほんのすこし、すすり泣くような声がした。エルシアンはナリアシーアを振り返るが、彼女の表情は見えなかった。
「お願いです、ご無理をなさらないで……最近、沢山のことを我慢されているように見えます、だからわたしのことを気にして、無理に笑ったり触れたりしなくていいんです。お願い、もっと、ご自分を楽にしてあげて……」
 何か言おうとエルシアンは口を開き、そして言葉を失って沈黙した。ナリアシーアはお休みなさいませと同じことを言ってエルシアンに深く一礼した。エルシアンと彼女の間には確かに広大な身分の差があるのだった。
 ナリアシーアが消えて取り残され、座り込んだままで俯くと、短くなった髪が首筋を触るのが分かった。それがアスファーンの愛撫と重なり、吐き気が跳ね上がってエルシアンは呻いた。
 明日にでもこの髪はきちんと切ってしまおう。揃えてしまえば今のような触れ方だけはしなくなる。自分がアスファーンを思わせる全てから逃げ回っているのは理解していたが、他にどうする術も見つからなかった。