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小鳥の夢、承前

1

 鳥籠の小さな扉を開けると小鳥は黒い瞳でまっすぐにこちらを見上げてきた。無垢な視線が可愛かったが逃がしてやらなくてはいけない。
 去年の夏に祖母が手に入れた色の珍しい小鳥、けれどそれを長兄の妻が欲しいと言い出して、取り上げられる寸前だ。大切にしてくれるならいいのだけど、と溜息になる。実は長兄にはもう一人妻がいて、そちらが猫を四匹も飼っているのだった。
「お行き、ほら、」
 なかなか出ようとしない小鳥に焦れて鳥籠を揺すれば、小鳥は驚いたように鳴いて籠の中をめちゃくちゃに飛び逃げる。
 溜息をついて鳥籠に手を入れ、どうにか捕まえようとしていると後ろから名前を呼ばれた。振り返ると兄だった。
「どうした」
近寄ってくる兄に首を振り、慌てて鳥籠を後ろに回す。気が向いたのか小鳥が歌い始めて羞恥で俯いた。
「ああ、あの小鳥か。兄上も奥方には頭が上がらないと見えるな。……逃がしてしまうつもりか」
 兄の言葉にますます下を向いた。これを見つかったら良くないのは確かだった。
 だが兄の言葉は叱りつけるものではなかった。あそこは猫がいるようだしな、と軽く笑っている。顔を上げれば苦笑気味の明るい笑顔がそこにあった。兄がこれを他人には告げないだろうという確信を唐突に得て、やっと安堵で笑顔になることが出来た。
「蒼月宮では目立つから、池の近くの森がいい──お貸し」
 兄が自分の手から鳥籠を取り、先に立って歩いていく。ご用事では、と聞くと丁度皇太后陛下のところへ伺う途中だったよという言葉があった。それで安心して兄の後について歩いていく。
 広い蒼月宮を子供の足は辛い。小鳥を逃がすためにこの日は蒼月宮の禁園近くまで出てきたが、普段は殆どこの王城の一番奥にある祖母の構える館で過ごしている。よく来るのは近衛騎士の詰め所くらいだが、警備の関係上、蒼月宮の中程の位置に鍛練所と一緒になっていてそこから先は殆ど行かなかった。
 歩きながら兄の背を見上げる。高い場所にある肩に広い背中、とても大人びて手の届かない遠い憧れと同じようだ。
 自分を見上げる視線に気付いたのか、兄が視線でどうしたのかを問うてきた。気恥しさで微かに笑いながら背が高いんですね、と言った。つい半年前に祖母に紹介してもらったばかりで知り合ってそれほど間がない。けれど、その全てが高い水準にまとまっていて憧れを誘わないものが何一つなかった。
「この四、五年で急に伸びたからな。私もお前と同じくらいの年の頃は、そうだな、ちょうどそれくらいか……もう少し低かったかもしれない」
「僕も伸びるかな……で、しょうか……」
「敬語は必要なときに必要な分だけ使いなさい。卑屈なことと敬意を払うことは違うから……が、まぁ背は多分伸びるだろう。父上は同じだし、王陛下はそれほど低い方ではないだろう?」
 はい、と頷くと兄が目を細めて笑った。兄に対して自分はまるで子供なのだった。もう少し兄に面白い話が出来たらよかったと思うが、それが何であるのか全く見当がつかない。普段じゃれている若い近衛騎士達や同じ年くらいの騎士の子供たちとするように、池で釣った魚の数自慢ではいけないことくらいが分かる。

 この手持ち無沙汰の沈黙を察したのか、兄のほうから沢山の言葉を紡いだ。普段は何をしているのか、勉強はどうしているのか、剣は得意か、弓は、馬は。何か苦手なものがあるなら少しなら見てあげられるから言いなさい……
 その言葉一つ一つが本当に嬉しかった。元々母親がいないことで沢山いるはずの兄弟達は自分を馬鹿にしている。だからこの兄が初めて自分に笑みをくれたとき、やっと兄弟というものを手に入れた気がしたのは事実だった。
 普段暮らしている祖母の館は蒼月宮の一番奥にある。最後の丘を越える手前には王族の船遊びに作られている人工の池があり、隣にはやはり散策用の森が整えられていた。広大な森ではないが、柔らかい草と木の香りがして居心地の良い場所だ。
 ここでいいだろうと兄が足を止めたのはその森の手前だった。水と緑の揃った地形が良いのだろう。最初に放してやろうとした禁園は父専用の美しい庭園だが、人向きの美しさよりももっと大切なことがあるのだった。
 鳥籠を渡されて扉をあけると、小鳥は今度は素直に手に乗ってきた。鳥籠の外に出して手を振り上げると一瞬驚いたように手前に着地し、それから身を囲うものがないのに気付いたのか羽を広げて飛び立っていく。
 それを見上げると同時に遮るもののない空も目に入った。美しい場所だった。この蒼月宮よりも広く、この城のどこよりも自由だ。この場所の中で守られてさえずっているしかない今を越えて、飛んでいきたい。
 あの小鳥が逃げて行けたように、きっと自分もいつか空を飛ぶための力強い翼を得て、自由の空へ。遮るもののない場所へ。きっといつか。その未来の偶像は焦点を結ばないが、希望に満ちていて、解放感の匂いがした。
 いつまでも空を見上げていると、兄が軽く肩を叩いた。それで自分が放心していたのだと多少赤面になった。兄は柔らかに笑って鳥になりたいか、と言った。口にすると少女趣味のようだった。
 下を向くと、恥ずかしがることはない、という穏やかな声がした。兄も同じく小鳥の消えた空を見遣って何かの幻に目を細めていた。それは自分が焦点のあわない未来を見ていたときと同じような顔だったから意外だった。


2

 兄は王太子を長兄と争っていると祖母から聞いた。自ら望んでこの息苦しい籠の中に入るのと引換に地上の栄光を望んでいる。
 兄の持つ圧倒的な存在感と前を見つめる視線の強さは確かにそれにふさわしく思われた。
「お前はここから出たいのだな……」
 その呟きに思わず兄を見た。自分の考えていたことが分かるのだろうか。そんなことを思っていると、兄は苦笑しながら前髪をくしゃくしゃとかき回してきた。それが親愛の印だと素直に信じることができた。
「僕は……ここにいてはいけないんだと思うんです。母上は分からないし……父上は僕のこと、あまり好きでないみたいだし……お祖母さまはとても可愛がってくださるけど、でも、いつかはいなくなってしまうでしょう? 今みたいなことがずっと続くなら、それはとても……気が重くて」
 兄はしばらく答えなかった。だがその視線がゆるみなく自分に当てられているのは分かった。兄が真剣にその回答を紡いでくれているのが理解できたし、それだけで嬉しかった。
「……外に出ることがすなわち解放ではないよ。私たちにはどこへ行っても責任と義務がついてくる。生まれというのはそういうものだ。奴隷に生まれついたらその暮らしがあるように、お前も私も王子であったことが運命なのだから……だから、逃げ出すことではなくて立ち向かうことを覚えなさい」
「立ち、向かう……」
 兄は頷いた。その頬に浮いているのが優しい笑みだったことで、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができた。
 立ち向かうこと、と再び口の中で繰り返すと、魔法のように鮮やかに口腔で溶けて消えた。麗しい言葉であった。あるいは、初めて出会った示唆の言葉であったかもしれない。
「そう。何事も最後の瞬間まで諦めてはいけないし、逃げてはならない。その二つは自分をとても弱くする。一度自分を許してしまうと際限なく許したくなるからね。いつか……」
 言いかけて兄は黙り、そして空を見上げた。小鳥の姿は既にどこにもなく、ただ広がる青くつき抜けた天があった。
「いや……」
 兄は何かを口の中で呟いた。何を言ったのかは聞こえなかったが、兄が自分と同じ感慨を抱いているのだろうかと思ったのはその時のことだった。兄の言葉は抽象と言うには深いものが籠っていて抑揚があった。
「兄上は逃げたいんですか?」
 そう聞くと兄は苦笑した。兄の大きな手が自分の肩を抱くのに緊張する。その手の力強さと暖かさ、それがそこにあることが嬉しかった。
「さあな……だが、困難から逃げたくなるときは自分に問うよ。本当に後悔しないか、他に方策はないのか、逃げることでしか自分を救えないのか、抗えないのか、本当にそうなのか。そうやって考えているうちに大抵いい方法を思いつく」
 自分はずいぶん神妙な面持ちで重々しく頷いたようだった。私の真似をすることはない、と兄は背中を撫でてくれるのだった。
 もう一度空を見上げると、あの小鳥の声が朧に聞こえた気がした。待って、と手を伸ばすとそれはもう届かなかった。空が青く、そして高い。そこへ駆け上っていく小鳥の翼の羽ばたきが耳に鳴っていて、とても、とても
 小鳥。飛ぶ空の。蒼穹に消える、
 ──自由の翼。
 待って。
 エルシアンは手を伸ばし、伸ばしたことで目を覚ました。ずいぶん昔の夢を見たのだった。背を撫でた優しい手の感触が皮膚に残っているようだった。アスファーンの大きな手が。

 だがもうそれは歓喜を呼ばなかった。感触を背に思い返した途端に、強烈な吐き気が襲った。エルシアンは顔を歪め呼吸を荒くつきながら寝返りを打った。
 嬉しかったのだ。その手が自分の背を撫でて優しい言葉をかけてくれるのが、肩を叩いて笑ってくれるのが。兄のようになりたいと願い、自分たちの持つ資質があまりに異質であることに気付いてからはせめて役に立ちたいと望んだ。……望んでいた。
「逃げるな、か……」
 その言葉がそれから暫くの間、自分を支える崇高なものだった。そんな時代さえあったのに。兄上。どうして。けれどその答えはきっと与えられない。アスファーンは愛と嘯くことで、回答をいつも拒否した。
 エルシアンは寝台から抜けて鏡を見た。首にはうっすら絞められた痕跡が残っていた。アスファーンは加減を承知している。エルシアンの意識がほどよく遠のいた辺りで手早く服を剥いで愛していると囁きながら、エルシアンを蹂躙し始めるのだ。
 また胸がむっと違和を訴えた。エルシアンはそれを飲み込み、襟元に学院の制服のスカーフを押し込んだ。侍女が朝の支度を告げる前に沢山のことを誤魔化しておかなくてはならなかった。
 この首に残った跡も、手首に残る爪跡も、部屋中に充満している青生臭い空気も。
 寝室と中庭を繋ぐ硝子戸を開けると、清涼な外気が雪崩込んできて、その清潔さに泣きたくなる。どうして自分はアスファーンの放恣の後始末をしているのだろう……
 なし崩しに事実が積み重ねられていく。体も多少慣れてきたのか、最初の頃のように熱を出したり暫くまともに動けないほどの軋みに襲われたりということはなくなってきた。それが自分で受け入れられない。せめて、全くの無感覚でいられたらいいのに。
 エルシアンは少しでも空気を入れ換えるために、レースから絹の二重地に変わったカーテンをはたきながら視線を下へ流した。
 暴力に脅えて身動きは出来ない。ぎこちなく震えているだけの自分の扱いを、アスファーンも次第に承知していくようだった。身を以て抵抗すると酷く殴られ、従順に任せると打って変わって優しくなった。
 その隔たりの広大さに揺すぶられ押し流されている。快楽は感じないのに苦痛だけは打ち込まれて体を引き裂き、泥沼に沈むような窒息感をつれてくる。
 順応し、どうにか楽を見つけようとする体と必死で抗おうとする精神の均衡点が見つけられない。緊張と緩和、恐慌と弛緩、激しい苦痛か激しい恐怖のどちらかにめまぐるしく塗り潰される夜はそれだけで消耗した。
 そして、その事実ごとを塗り込めて隠匿する作業を自ら行っている。埋めてしまった沢山の涙を吸って秘密は大きくなり、いつかその重みで自分を殺すかもしれない。そう思うと体が震えた。怖かった。
 夏は既に過ぎ、秋を迎えた。リュードは変わらずエルシアンの側にいることを努力してくれるが、それでも絶対に無理な日がある。公休日だ。侍従も侍女も、月に一度か二度後宮を下がらなくてはならない。王族も人であるから好悪があるが、それを少しでも均すための制度であった。
 アスファーンの余裕の意味が分かった。自分を可愛いと言ったことも。侍従がもう一人いれば別だったろうに、その公休日のことをすっかり念頭から消して友人に縋っていたのだから確かに頭の悪さが可愛いに違いなかった。
 昨晩のようなリュードが公休で下がった夜の暗い祝祭は、いつもと同じく身の上に起こった。それはもう予定調和とも言えた。
 風に乗って朝の小鳥の声が聞こえてくる。王宮の庭には沢山の美しい声をもつ小鳥が放してあるのだ。エルシアンは空を見上げる。秋の空は澄んで一段と高く、薄い色合いが颯爽と軽やかだった。羽ばたく小鳥の幻が、まだそこにある気がした。
 あのときアスファーンが自分の肩を抱いてくれたことをずっと幸福に暖めていた時代は過ぎた。それは自分の手をこぼれ落ちて消えてゆき、代わりに激しい苦痛が今、そこにある。
 秋の冷たい風が梢を揺らす音と小鳥の声をぼんやり聞いていると、やがて朝の支度を始める侍女の足取りが扉の向こうに聞こえてきた。エルシアンは寝室を抜けて居間へ出た。
 侍女がおはようございますといつもと変わらない挨拶をする。それに自分は上手く答えているだろうか。上手く笑っているだろうか。そつなく毎日が過ぎていくほど自分の中身が腐って死んでいく気がした。


3

「お召し替えはもうお済みなんですね。殿下は朝がお早くて助かります。お食事はいつものように?」
 食事は特に理由がなければやはり王族用の食事室を使う。エルシアンはいや、と首を振った。体の痛みがすっかり消えたわけではない。それにアスファーンと過ごした次の日の朝は酷い頭痛と吐き気で食事など殆ど喉を通らなかった。
「今日は、朝は、いい……リュードが来たらすぐに学院へ行くから……もう、ここはいいよ」
 鏡の中にいた青白い顔を少しでも見せたくなかった。真実をいえば誰にも会いたくない。それが侍女だろうがリュードだろうが同じだ。他人の前に姿を晒したくない。触れられたくない。
 以前は友人たちがいることもあって頻繁に顔を出していた近衛騎士の詰め所にも、もう殆ど行かない。剣や弓の鍛練はしなくてはならないが、アスファーンの穿った痕跡が消えるまでは肌を外へ露出することさえできなかった。
 侍女が下がっていくのを見送り、エルシアンはもう一度制服の釦やスカーフの位置を確かめる。髪は解き流して頬にかかる分だけをまとめた。飾り紐の美しい模様を見ると切なくなる。ナリアシーアにさえ触れられないのだ。白い肌に触れても強烈な吐き気と眩暈がする。自分の手が肌を滑る音を聞いた瞬間に、もうどうにもならなくなる……
 エルシアンはまたため息になった。誰かに触れられること、他人に触れること。この二つが出来ない。無理を殺していると本当に気分が悪くなってきて、いつも貧血のような症状を起こして座り込んでしまうし、酷いときにはしばらく立てない。特に相手が騎士たちのときは顕著だった。鎧に染みついた汗の臭いや彼らの鍛えられた体付きが駄目なのだろう。リュードが典型的な騎士のようでなくて運が良かったというものかもしれなかった。
 ふとそれでエルシアンはリュードがまだ姿を見せないのに気付いた。寝坊かなとも思うが、公休日明けは遅れたことがない。彼は確かに朝が強くはないが、仕事だけはきちんとしていたものだ。
 おかしいと首をひねっていても仕方がなかった。あまり待ち惚けていても遅刻してしまう。リュードには悪いが先に行ってしまおう。最後にいつもの時間落ち合えればいいのだ。念のためその旨を伝える簡単な手紙を机において、エルシアンは蒼月宮を出た。
 学院の授業が終わっていつもの場所で彼を待ったが姿は見せなかった。おかしいと思いながらエルシアンは王城に戻った。
 太陽宮と蒼月宮は厳密に隔てられているが、それをつなぐ唯一の出入り口を黄昏門という。太陽と月の移り変わる場所、ということらしい。門手前で戻ったことを表示する名札をかけていると、警衛の騎士が殿下、と言った。
「戻られたらお部屋ではなく執務室へ来るようにと、王太子殿下からお言伝が」
 一瞬、ぎくりと体が固まったのが分かった。エルシアンは震え出す体を叱る。嫌だと喉まで出かかったのをエルシアンは宥める。執務室ということは、秘書やこの時間なら政務官も残っている。他人がいれば。
 それにアスファーン本人に言われたなら無視してもいいが他人を介されるとむげには出来ない。自分がその言伝を無視したことが伝言を伝えた者の責任になるからだ。エルシアンはやっと頷いて鞄を黄昏門の詰め所に預け、執務室へ向かった。
 アスファーンの執務を行う建物は太子職を務めるものが代々入ることから太子宮と通称されている。王の執務室がある太陽宮の中心、執政宮と呼ばれている場所のすぐ横だが、今は父王の不在でこちらの太子宮に中心が移ってきていた。執務室の前にはまだ懸案を抱えた担当者が並んでいた。その全てが判断を仰ぐための謁見者であるのにエルシアンは肩をすくめた。人によって出来ることと出来ないことがある。アスファーンは誰にも非難されぬほどの実力と指導力で父王と変わらず国政を指導している。父が今戦場に倒れてもアスファーンが登極して混乱はないと思われた。
 アスファーンは執務中だった。兄の執務の姿を見るのは初めてだった。判断は早く指示は簡潔だが、納得して担当者が下がっていくから的確なのだろう。
 どうやら急ぎらしい用件だけを片付けるとアスファーンはエルシアンに座るように言った。秘書が茶と共にペンとインクをエルシアンの前に置いた。意味が分からなくてアスファーンを見ると、異母兄は秘書に視線を転じた。
 秘書が頷いて先に作ってあったらしい羊皮紙を差し出してくる。羊皮紙ということは公文書であった。視線を内容に落として僅か数行、エルシアンは顔を上げた。
「何だよ、これ? 俺は聞いてない!」
 リュードを侍従から解任する旨の命令書であった。

「そういうことになった」
 アスファーンの答えは簡潔だった。エルシアンはそれを叩き返した。破り捨ててしまいたかったがそれが容易にできないからこそ羊皮紙が公文書に使われているのだった。
「お、俺は何も聞いてないし──そうだ、本人は? 本人は何て?俺はこんなの認めな……」
 言いかけるとアスファーンがエルシアン、と強い声を出した。語調の厳しさに一瞬息が詰まった。アスファーンには既に昨晩の残酷な威圧は消えているが、それでも声を荒げる兄の言うことを咄嗟に受け入れたくなる。
「これは、本人の実家からの要請を受けて、国王たる父王陛下の代理人として私が決定したことだ。お前の一存でどうこう出来ることではない」
「実家……?」
 アスファーンは頷いた。
「ザンエルグ家は先のラジール戦役の際に当主たる王国騎士が負傷を負った上、嫡男たる騎士を失った。家督相続のため可及的速やかに、残された最後の子息の身柄を戻して欲しいと朝、誓願の一報を受けた」
 あ、とエルシアンは声を上げた。リュードは顔をしかめながら確かにそれを危惧していたのではないだろうか。
 最後に残った兄が結果戦線に巻き込まれて亡くなり、父親は負傷して騎士の務めを完全には果たせない。リュードの実家は広大というわけではないが領地を持っており、財産がなくはない。それを受け取り伝えていくことが出来るのが、リュードしかいなくなったのだった。
 だが、リュードは実家に戻らない方がいいと思ったから侍従として無理を言って召し上げたのに、結果同じことになってしまう。それに……
「でも……本人はなんて……」
 リュードがそれを承知するはずがないと思いながらエルシアンは口を開いた。アスファーンは首を振った。
「ザンエルグ家からそう申告があった以上、当人が何を言ってもそれは無視できるものではない。他に男子がいるというなら侍従としての職務を優先するようザンエルグ家に私個人として提言してもいいが、他に子がいないとなるならその余地はない」
「でも……」
「いい加減にしろ、エルシアン。何れにしろ、あの者を侍従に推薦したのでさえ皇太后陛下のご尽力の賜物、例外であることを解らぬ訳ではないだろう」
 エルシアンは言葉に詰まって唇をきつく噛み締めた。アスファーンの言うことは正しい。リュード以外に後継がいないのなら、それは侍従職よりも嗣子たる義務を優先させるのは当然だった。領地があるということは領民がいる。戦場で功績を示し、領地を維持することが今後リュードの歩くべき道なのだった。


4

 署名を、と差し出された羊皮紙を前にエルシアンは沈黙した。理屈を理解した上で納得しなくてはならないことを解っていてさえ、それには躊躇があった。せめて本人と相談をしたかった。今この場で署名をしたら本当に遮るものなくすんなりとリュードの離職は決定してしまう。
 エルシアンがごねても最終的にはアスファーンの判断でそれを無視できるが、形は整うにこしたことはない。だからアスファーンもエルシアンを無視せずにこうして呼び出している。
「ともかく本人と相談して」
 言いかけたエルシアンにアスファーンは首を振った。
「彼は王都にはいない。昨晩迎えが来て、実家へ戻ったと聞いている。離職の申請を持参した従者がそう言っていたよ」 
 黙り込んだエルシアンの前にアスファーンはもう一通の羊皮紙を差し出し、それにも署名を入れるように言った。それを見た瞬間に、リュードの身の上に起こったことが真実であるのだとエルシアンは心底から思い知った。

「リュード・アレク・エイン・シュルアルド・ルゥ・ザンエルグ
 彼の者を王国拝領騎士ザンエルグ家の嫡子たることを認む。
 ザンエルグ家の所有するものについて、正当な子としての全ての権利を有することを認む。
 生誕に溯り王国騎士に準ずる資格を有していたことを認む。
 以上の資格を以て王国騎士に叙する。
 若年の身に於いて侍従職に精励した功績により、第十三王子エルシアン・クリス・ルゥ・エリエアルの侍従長に任ずる。
 同日を以て退職とする。
 筆記された全ての事柄について、地上における神の代理人たる王の名を正当に代行し、ここに宣言する
アスファーン署名、王太子押印」

 リュードは庶子だった。庶子は相続を認められないが、嫡子と認めるという書き付けが出た以上は問題にならない。侍従長としての役名の追加も、騎士への正式な序列も、全て彼がザンエルグ家を継ぐための餞別の装飾であり、格を添えるためにエルシアンの署名を入れろと言われている。
 署名を、とアスファーンが言った。
 エルシアンは首を振った。リュードの望みがこんなことではないことを、エルシアンはよく知っていた。彼は嫡子として認められたいなどと言ったことはなかったし、ザンエルグ家を継ぎたいなどと考えてもいなかったはずだ。兄が亡くなったのなら葬式のために帰省したのだろうが、それならいずれ戻ってくるはずだ。
 それまでは自分が署名してはいけない。リュードを実家に帰しても彼のために良い事は恐らく無いだろうし、それに……アスファーンは自分からリュードを引き剥がしたいのは確かに思えた。
 リュードの公休日にエルシアンを自分の暗い情熱のはけ口にしているが、彼のいる日は絶対に姿を見せなかった。邪魔に思っているのは間違い無い。リュードをこの際追い払ってしまおうと思っているのだ。自分を好きに食らうために邪魔だから? そんなこと、絶対に耐えられない……
 エルシアンはぶるっと身震いし、それから兄を思い切り睨んだ。睨まれたほうはそれを涼しげな顔で流し、署名を促した。それに再び首を振ってエルシアンは席を蹴って立ち上がった。
 殿下、という声がしたのはその時だった。アスファーンの秘書であると思われた。
「ここで殿下のご署名をいただけなくても、何れ国王陛下も同じことをお命じになります。殿下からの手向けにしてやるのが肝要かと存じますが」
 アスファーンがよい、と遮った。
「俺は署名はしない」
 エルシアンは強く言った。
「本人の意志を確かめるまでは絶対に認めない」
「──今は私が父王陛下の代理人であり、私の決定は陛下のご裁断と同じ効力を持つが?」
「でも、父上のご命令じゃない」
 父に不調があって摂政の役職をアスファーンが得ているなら別だが、父王が不在時の不服は父が帰還してから直接訴えることもできる。しばし睨みあった視線の痛さにエルシアンは目を細めた。アスファーンと目を合わせるのも怖かったが、逃げるなと叱る声がどこかに聞こえてくる。
 自分を力付けるのがアスファーンの言葉であることは微かに皮肉に思えたが、今は自分を駆り立ててくれるものになら何にでも縋りたかった。
 いいだろう、とアスファーンが溜息をついた。
「ただし、父上への奏上はお前が自分で行うように」
 エルシアンは頷いた。父の決定以外にリュードの送還を超的に覆すことができる方法など思いつかなかった。それに賭けても勝てるかどうか自信はないが、それしかないのも事実だった。
 リュードのため、そしてそれは自分のため。どちらの比率が大きいのかは、自分でも判然としない。境界が曖昧なことにエルシアンは顔を歪める。
 部屋へ戻ると机上には自分が朝書いた伝言がそのまま残っていた。エルシアンは紙片を握り潰しながら深く、長く溜息をついた。