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黒岩涙香と明治の風潮

 

                             「群系」31号掲載 2013

 

 

 

 一 「マスコミ」を作った百科全書派的啓蒙家

 

■明治という時代とは、いかなる相貌を持った時代なのか。この日本史におけるシュトルム・ウント・ドランクともいうべき季節においては、後に「明治の元勲」と称される政治家のみならず、その周辺にも、大型のふてぶてしいバルザック的登場人物を輩出した。

 明治文学を考えるにあたって、漱石・鴎外という文学の〈本丸〉を支える周縁地帯、例えばジャーナリズム、マスコミ、新聞、出版業界などの〈外堀〉にスポットをあてる試みも、まんざら意味のないこととも思われない。しかしその際の躓きとは、この〈外堀〉には、あまりにも魅力的な人間たちが棲息していたことである。

 岸田吟香の破天荒な山師ぶり、福地桜痴の魅力的な変節。ジョセフ・ヒコの奇妙な役割。いや、アメリカ彦蔵をいうなら、役者としてはジョン万次郎が上だろう。明治政府に騙された英国人新聞屋ジョン・ブラックの無念は、いかばかりか。ローマ字と明治学院とフェリス女学院を作った宣教師ヘボン博士は、そもそも眼医者のくせに生麦事件で負傷したイギリス人の外科手術をしている、この雑多なる混沌こそ明治だ、などなど……。

 一般に、ジャーナリズムやマス・コミュニケーションには、「批評・啓蒙・プロパガンダ」の三つの要素があるように思われる。あるいは「批評・報道・広告」(社会批判・情報伝達・大衆洗脳)である。さらに四項目をつけ加えるならば、大衆を吸引する「娯楽・エンターテインメント」の要素である。この統合的スタイルを確立したのが黒岩涙香(一八六二~一九二〇)であった。

 この小文では、とりあえず涙香という日本のマス・コミニケーションのフレームを創出した実在の人物に、スポットライトを当ててみたい。『萬朝報』というスキャンダル新聞には、明治という時代の歪みが象徴的に映し出されている。この伝説的な新聞において、「批評・啓蒙・プロパガンダ」の三要素は、どのような絡みになっているのか。そこから「文学の〈本丸〉」を遠望しつつ、日本におけるジャーナリズムの「可能性/不可能性」を再考してみたい。

 

■黒岩涙香。本名は黒岩周六。一八六二年(文久二年)土佐藩安藝郡川北村生まれ。先祖は安藝城の家老に始まり、医師、村塾の長など土地の名士を輩出してきた郷士の家系である。ちなみに、慶応三年生れの夏目漱石(一八六七~一九一六)より、五年ほど早い。父親は晩年、上京して大蔵省に勤めた。幼少期「黒岩の猿」という仇名がついたことから、すばしこく、賢く、多少は癪にさわるが愛嬌のある子供だったのではあるまいか。十六歳、思春期の夏休み、大蛇が潜むと怖れられる隣村の不気味な洞窟「蛇ケ淵」に、素裸で飛び込んでみせ、迷信深い村人たちの度肝を抜いた。まさに冒険と実証精神を絵に描いたような少年だった。

 後にこの利かん気な少年は、創成期のジャーナリズムに飛び込み、取材のしつこさから「まむしの周六」と仇名がついた。かつての仔猿が、毒マムシに化けたのだ。妾を抱える政治家からすれば、確かに蛇のように執念深いゴロツキ新聞屋であろうが、その素顔はむしろ理想家肌の百科全書派であり、万華鏡的な啓蒙家、知識と観念と表象の百貨店というにふさわしい。彼の知識形成については、十七歳で大阪英語学校(教師の一人に団琢磨がいた)に学び、その後、慶應義塾に一時籍をおくが塾は途中でやめている。退屈な学校よりも、丸善、東洋館、中西書店、横浜在住のケリーという外人経営の洋書店に入り浸り、西欧の新知識を手当たり次第に貪るのに夢中だったらしい。この時、実地に身につけた語学力には、むろんヒアリングや会話能力も含まれている。

 涙香が先鞭をつけた分野は、広大で実に多彩だ。しかし底が浅い。これはちょうど、明治という虚構空間のインフラストラクチャーの不安定性に照応している。夏目漱石が文明論で指摘した「内発性」の欠如を持ち出すまでもない。ただし、人物スケッチにおいては、減点法でいくよりも、得点法を採用した方が面白い。この時期に日本は、黒岩涙香という知的ブルドーザーを得たことによって、ごろごろした石塊ばかりの荒野において、最初の整地作業ができたのだ。

 

 二 「旧幕臣ジャーナリスト」と「自由民権運動」

 

■鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』(筑摩書房一九六五年)によれば、明治期のジャーナリズムには、いわば旧幕臣ジャーナリストの系譜があったという。柳河春三『西洋雑誌』『中外新聞』、成島柳北『朝野新聞』、栗本鋤雲『郵便報知』、福地桜痴『江湖新聞』『東京日日新聞』等々。彼らは多かれ少なかれ、薩長を主流とする明治政府の変革の拙速性を、冷ややかな目で眺め、辛辣な社会批評を展開した者たちだ。

 そしてこの反政府的な「旧幕臣ジャーナリズム」の流れは、同時に、土佐発信ともいえる自由民権運動を言論的に支えることになる。土佐は、薩長土肥と謳われながら、結果としては明治政府の主役にはなれなかった。権力の主流との微妙なズレと無力感が、政治への批評的スタンスを生んだ。その中心は、思想家・言論人としては中江兆民、政治家としては土佐派領袖の板垣退助に代表される。黒岩涙香は、物心ついて以来、自由民権思想の影響を色濃く受け継いでいる。民権派の動きに対して、明治政府は、政談演説に対しては集会条例、新聞に対しては新聞条例を駆使して、弾圧に励んだ。官吏侮辱罪という悪法もある。

 実際、涙香自身も二三歳の時に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」についての批判文を『輿論新誌』に投稿。黒田清隆、五代友厚らを批判し、官吏侮辱罪で十六日間収監された。この時は、野毛山切り崩し工事の重労働をさせられ、悲鳴を上げている。このパターンは、涙香が『萬朝報』を始めてからも反復されて、重労働こそないものの、幾たびも新聞の発行停止処分をくらっている。涙香の性格には、向うっ気の強さと正義感が強烈にあり、この反権力的スタンスが彼の博覧強記ぶりとあいまって、万華鏡的言論空間を形成した。

■二十代半ば、いずれは学者になろうかと迷っていた彼が、本格的に言論界に身を乗り出したきっかけは、ある裁判事件であった。明治一九年、紀州沖で英国船が沈没したことに発するノーマントン号事件である。ドレーク船長以下のイギリス人、ドイツ人の乗組員は救命ボートで脱出し、漂流中を地元漁村に救助されて、手厚く保護された。美談である。ところがその一方で、二十数名の日本人乗組員が、船に取り残されたままで全員死亡していたことが発覚。差別的な見殺しではないかとの疑惑が国内で高まる中、神戸の英国領事裁判により、船長以下英国人が無罪となったために、いよいよ火に油を注ぐ結果となった。このとき、英語の得意な黒岩周六(まだ涙香を名乗っていない)が、日本人の通訳がまるで英語を解していないと投稿して、世間の注目を集めたのである。

 ここですでに、黒岩涙香を支える三つの武器が揃っているのが面白い。すなわち「語学/裁判/人権」の三分野である。涙香の人権思想は、その当時、日本人がいかに英米による不条理な裁判にホゾを噛んでいたかという怒りが原動力となっている。この辺は、米中の二大国に挟まれた現代の日本が国際的に抱える問題と比較しても、なかなかに興味深い。

 ――この時期の日本の新聞ジャーナリズムは、「①批評、②啓蒙、③プロパガンダ、④娯楽」の図式でいうならば、必然的に「①批評」、つまり社会批判優位にならざるをえず、加えて「②啓蒙」「④娯楽」の要素が、購買力アップへの刺激も含めて、大衆との接点となった。逆にいえば、「③プロパガンダ」は、中央権力としての明治政府の独占だったのである。構図としては、「①批評(旧幕臣ジャーナリズム)⇔③プロパガンダ(薩長明治政府)」となる。

■二五歳で『繪入自由新聞』主筆。「我進んで愚なる日本人を賢くせん」と宣言し、文筆・言論による啓蒙家としての自己を確立してゆく。「愚なる日本人」とは、国際情勢が見えず、自らの人権や立場が主張できない同朋たちを意味しているだろう。時事評論、コラム、翻案ミステリー、探偵裁判小説に、盛んに健筆をふるう。

 明治二十年代には『法廷の美人』を皮切りに始まる翻案探偵小説群が、センセーショナルな話題を呼んだ。タネ本にミステリーや裁判小説が多いのは、ノーマントン号裁判への憤りが、いかに強かったかを思わせる。涙香は、最初に原作をざっと通読した後、一気に創作するという手法をとった。しばしば登場人物の名を日本人名にして、場所を日本やアジアに移した。つまり忠実な翻訳などではさらさらないわけである。(この手法は、後には他新聞社にも踏襲され、本家本元の涙香自身が、タネ本集めに苦労するハメになる)

 『大盗賊』『魔術の賊』『死美人』『塔上の犯罪』『幽霊』『美少年』『梅花郎』。これらのタイトルを並べてみれば、涙香の本領が奈辺にあったかは明瞭だ。犯罪、裁判、怪奇、猟奇、秘境探検物。われわれはこのジャンルが、後の江戸川乱歩や『新青年』にそっくり引き継がれていることに、驚かざるをえない。『嗚呼無情』『鉄仮面』『巌窟王』は、まず涙香の翻案で日本に紹介された。やがて涙香の活躍の舞台は、『繪入自由新聞』に加えて『都新聞』へと拡大してゆく。

 

 三 明治二五年『萬朝報』発刊――相馬事件

 

■明治二五年(一八九二年)。いよいよ涙香三一歳で、東京京橋に朝報社を設立し、『萬朝報』を発行する。その第一号で、涙香は「筆は剣の力より威あるもの。金の力より大なるもの」と書きつけた。彼は『萬朝報』と『繪入自由新聞』を合併させた。

 『萬朝報』(よろず重宝)のモットーは、一に簡単、二に明瞭、三に痛快。四ページの紙面構成である。「各界名士愛妾調べ」「蓄妾実例」などの記事により、政治家・権力者の下半身ネタを追究したことで、発行部数を伸ばしてゆく。「ユスリ新聞」「赤新聞」と蔑称された。「赤新聞」とは目立たせるために、紙面を赤色にしたためである。「まむしの周六」はその頃の仇名だ。そのため、涙香周辺には、たえず金で雇われた壮士やヤクザの類がつきまとった。涙香自身、護衛のためにステッキを手放さない習慣がついた。むろん『萬朝報』は、必ずしもスキャンダル狙いのブラック・ジャーナリズムというわけではない。建前としての基本路線は、明治の旧幕臣ジャーナリズムの流れをくむ「反権力」の姿勢であり、土佐発信の「自由民権思想」であった。

 さらに涙香は、大衆の新たな娯楽分野を開拓した。かるた競技、撞球(ビリヤード)、相撲記事、連珠(五目並べ)、宝探しなど、さまざまな娯楽を『萬朝報』の記事として掲載することで人気を博し、今日のマスメディアにおけるエンターテインメントを先取りした。涙香自身も、博打や賭け事、ゲームの類が大好きで、何をやってもプロ並に上達するのでこれは趣味と実用を兼ねた。

 ちなみに、黒岩涙香の風貌であるが「まむし」からは程遠い。よく知られた壮年期の写真は、やや額の禿げ上がった卵形のつるんとした顔に、ネクタイを締め、得意げに口をすぼませた下ぶくれの風貌だ。色男や二枚目ではさらさらないが、円満で温厚な明治の成功者、おっとりとした紳士の顔である。後世の理論物理学者の湯川秀樹の顔を、ややふくらませたような学究の面立ちで、「蝮」を思わせる毒や狂気は感じられない。

■『萬朝報』発刊の翌年、まるで待ちかまえていたかのように相馬事件が起こる。

 相馬事件とは、旧中村藩主、相馬誠胤の精神状態が悪化したため、家族が座敷牢に監禁し、後に癲狂院に入院させたことに遡る。旧藩士の錦織剛清が、主君の病状を疑い、不当監禁であるとして告発した。相馬子爵家の息のかかった宮内省侍医が、一度も診察せず、錯乱を理由に監禁承諾書を書いている。確かに怪しい。監禁の首謀者は、家令の志賀直道(二宮尊徳の弟子/志賀直哉の祖父)らであるという。しかしこの騒ぎは、子爵家の単なるお家騒動では終わらなかった。その後、相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に、告発者である錦織自らが侵入。主君の相馬誠胤の奪還に成功するも、一週間で逮捕される。錦織は、家宅侵入罪に問われる。こうなってくると、忠臣のイメージで同情を呼んだ錦織剛清自身の性格にも、別の疑惑がかかってくる。その言動は、誇大妄想狂とも偏執狂とも思われた。相馬誠胤が病死すると、錦織はこれを毒殺によるものとし、相馬家を再度、告訴する。今度は遺体を発掘して、毒殺説を裏付けようと動いた。『萬朝報』と黒岩涙香は、明治二六年より、事件の背景や裁判の進行をネタに「相馬家毒殺騒動」などの見出しを掲げて連載している。

 こうして相馬家墓所のある青山墓地において、前代未聞の棺の発掘が行われた。憲兵隊、警察数十人が厳重警備。前日の夜から群がり始めた物見高い衆人環視の中、朝の七時から子爵家の墓の発掘が、開始された。

 ついに夕刻に近い四時、地下三メートルに埋められた「狂った殿様」の亡骸を納めた棺が、そろそろと慎重に引き上げられる……。

 庶民からはやんごとなき雲上人と羨まれる名門華族、その一族がくりひろげる陰謀毒殺ミステリーである。まるで涙香の翻案小説を地でいくような展開であった。しかもこの相馬家は、足尾銅山の古河市兵衛(元は金貸しの手代)に投資して巨利を得た有力な富豪華族である。スキャンダルとして、面白くないわけがない。相馬家の闇を追求し続ける『萬朝報』が、さらに部数を増大させたことはいうまでもない。時に筆が走り過ぎ、四回もの発行停止をくらった。ここでまた、例の〈定規〉を当てはめてみよう。この猟奇的探偵小説ともいえる相馬事件は、「①批評、②啓蒙、③プロパガンダ、④娯楽」の図式でいえば、「①社会批評」と「④娯楽」の強引な野合といえる。

 


 明治の闇 相馬事件から足尾鉱毒事件へ

四 「小説の神様」志賀直哉がひきずるトラウマ

 

■この相馬事件で、ひそかにとばっちりを受けたのが、家令志賀直道の孫で、当時は十歳を幾つか過ぎたばかりの志賀直哉(一八八三~一九七一)という少年である。この潔癖で自我の強い少年は、後に武者小路実篤(一八八五~一九七六)らとともに白樺派文学運動を起こし、著名な小説家となる。

 半世紀以上後に書いた『祖父』という作品には「黒岩涙香の萬朝報などが最も悪辣な筆を弄し、私の家に年頃の娘がいて、つまり私に姉があって、色々な贅沢をすることを細々と書いたそうだ」とある。現に直哉は、二人の刑事による祖父の連行現場を目撃している。黒岩涙香の悪評の原因のひとつが、後の「小説の神様」として文壇の頂点を極めた志賀直哉の「不快」表明も、ないとはいえない。

 つまり、われわれはそういった視点も含めて、『暗夜行路』や『和解』を再読しなければならないのであって、これらの作品は、単なる「祖父・父・子」の家庭内心理ドラマではないだろう。ある時期、社会ぜんたいが相馬家の「悪しき家令」として、直哉の祖父を糾弾していたのである。祖父の入獄中、この少年は、学習院で一種の「いじめ」にあっていた。感受性の強い思春期の性格形成に、トラウマがないわけがない。はたしてこの人物は、世にいわれるほど健康な「野人」であっただろうか。その後、志賀直哉は十七歳(明治三三年)の頃から七年間、クリスチャンの内村鑑三の門下に入る。そして、ほぼ同時に起こったのが足尾鉱毒事件である。いうまでもなく、古河の資金的黒幕とは相馬子爵である。志賀家はいわば相馬の番頭である。敬愛する内村鑑三も、盛んに『萬朝報』の英文記事で糾弾した。ちなみに直哉は東京帝大の英文科(後に国文科に移り中退)であるから、師匠の英文コラムを逐一読んでいないわけがない。読みながら「原罪」をひしひしと感じたかも知れない。父・直温との不和の直接的原因は、鉱毒被害地の足尾へ視察に行くことを反対された結果であった。となると、自我や心境を表現したとされる「志賀直哉/私小説・心境小説」の図式も、すこぶる怪しくなってくる。「氏の魂は劇を知らない。氏の苦悩は樹木の成長する苦悩である」(小林秀雄)という神話は、嘘である。つまり志賀の自我や芸術を形容する常套句「原始」や「自然」とは、ア・プリオリなものではなく、社会から強いられた傷へのリアクションであるに違いない。人道主義的理想を掲げる白樺派・志賀や武者小路の文学は、単なる学習院「星菫派」ではなく、十代半ば思春期の彼らが直面した私的な現実であるところの相馬事件・足尾鉱毒事件の反作用であり、これらは有機的に絡まり合っている。彼らの文学の総体で、何が書かれてないのか、何が消去されてきたか、といったようなことをも含めて、再検討されなければならないだろう。これもまた明治大正文学の「側面」である。しかし文学周辺領域を扱う本稿は、志賀直哉を論じる場ではない。(ちなみに、直接関係ない話であるが、相馬家はどういうわけか文学に縁があるらしく、ゆかりの有力家臣の末裔に、作家の島尾敏雄や、埴谷雄高らがいる。埴谷は、相馬藩剣道指南役の般若家である)

 

 さて、このおぞましき猟奇ミステリーの結論である。棺から出てきた相馬子爵の遺体を法医学的に調べたところ「毒殺の証拠なし」という鑑定結果となった。涙香はじめ、『萬朝報』記者たちは、いっせいに血の気が引いた。むろん明治政府中枢部の利権が絡んだこの鑑定結果には、かなりの疑惑がある。しかし、一介のゴロツキ新聞には、どうすることもできはしない。こうして、明治マスメディアを十年に渡って熱狂させ続けた「祭」が終った。すなわち「④娯楽」は消費し尽くされた。一八九五年、錦織が相馬家より誣告罪で訴えられて、その後に有罪が確定した。

 

 五 幸徳秋水・内村鑑三・理想団

 

■現代であれば、相馬子爵の遺体鑑定結果にがっかりしているどころではなく、『萬朝報』も訴訟問題を抱えたことだろう。社員一同、暗澹たる気持ちになったはずだ。しかし時は明治である。「祭」は幾らでもやってきた。日清戦争(明治二七年/一八九四年)へと向かう大陸のきな臭い動向によって、『萬朝報』は売れに売れ、快進撃を続ける。さらなる躁状態、アドレナリン、エンドルフィンの沸騰である。この頃、固定読者はすでに、五万部を超えている。

 結局のところ新聞最大の商品とは「戦争」なのだ。部数増大とプロパガンダは、直結する。株屋とブン屋は戦争を欲する。まさに「かき入れ時」なのである。開戦した瞬間、ジャーナリズムや批評精神は、霧散してしまう。江戸期の瓦版と大差ない。悪しき世論操作とは、決して新しい問題ではなく、明治政府の時点ですでに始まっている。何度も何度も反復されるも、そこに学習効果はまったくない。われわれは、テレビを含めた「マスメディア=プロパガンダ」の〈業〉を、胆に命じておかなければならないだろう。

「①批評、②啓蒙、③プロパガンダ、④娯楽」の〈定規〉を当てはめるならば、いうまでもなく戦争とは、「③プロパガンダ」の異常なる増大現象である。

 現代においては、例えばインターネットの市民メディアや独立系サイトのように、マスメディアをさらにメタレベルから批評するような二重三重の重層的な対象化の構造が実現してはじめて、われわれが納得できる「ジャーナリズム」が実現するだろう。

 それはともかく、メディアの仕掛け人としての黒岩涙香の人選能力は、やはり特筆に値する。戦争による部数アップに自信を得てか、かつての「赤新聞」の汚名を返上すべく、論説委員の充実に力を入れた。

 内村鑑三、内藤湖南、斉藤緑雨、堺利彦、円城寺清、幸徳秋水。……綺羅星の如く、といっていい。とくに、内村鑑三と幸徳秋水には、特別に目をかけている。

 後に、大逆事件のフレームアップに巻き込まれて死刑になる幸徳秋水(一八七一~一九一一)は、今日では、社会主義・無政府主義系の政治運動家として知られているが、彼は何よりもまずジャーナリストであり、言論人であった。黒岩涙香はかねてより、秋水(幸徳伝次郎)の名を、『遠征』という反戦小説の作者として、強く記憶していた。これは涙香の記憶違いで、実の作者は徳富蘆花である。後の大逆事件の顛末を思うと、これは奇妙に、因縁めいたものを感じる。とはいえ、明治の新聞界とは、それだけ名物記者の活躍の場があり「個」「主体」の刻印が明確だったことが推察される。

 幸徳秋水は『中央新聞』『自由新聞』と渡り歩いた名物記者であった。その才能に惚れ込んだ涙香は、熱烈なラブコールを送った。自由民権派の師匠である中江兆民の紹介状をそえて、秋水が『萬朝報』を訪れたのは、明治三六年(一八九八年)のことである。ちなみに「秋水」とは、兆民から与えられた号で、日本刀を意味する。本当はもっと彼の圭角をにぶらせるような穏健な名を与えたのだが、本人が嫌がった。残された秋水の写真を見ると、両目の釣り上がった直情的で潔癖な風貌で、内に秘めた青白い不吉な炎を感じさせる。三〇歳で月給六十円。硯友社のボスであり『金色夜叉』の作者として名高い尾崎紅葉ですら、百円で読売新聞と契約していたわけだから、これは十分にスター記者扱いである。

 

■時期は前後するが、もう一人の大物論客が、内村鑑三(一八六一~一九三〇)である。涙香自身が特別扱いで「先生」と呼んだのは、内村鑑三だけだという。内村はすでに無教会派を唱えるクリスチャンで、第一高等中学時代の「不敬事件(明治二四年)」でその名を全国的に知られた。この事件の本質は、キリスト教と天皇(国体)の問題であった。涙香自ら、敬愛する内村を名古屋に訪ね、入社を懇請した。ふさふさとしたニーチェのような黒髭を生やした、彫りの深い顔立ちの内村は、いかにもクリスチャンらしく『萬朝報』の「人身攻撃」を否定した。しかし結局は、社長の熱意にほだされて、朝報社に入社した(明治三〇年)。『萬朝報』英文欄主筆となる。累計で二百数十編以上もの英文記事を書き続け、その中には足尾銅山鉱毒事件の告発も含まれる。決して、浅い関わり方ではない。

 明治三四年(一九〇一年)、内村の強い影響のもとに、涙香人脈の「理想団」が結成された。発起人は、内村鑑三、山縣五十雄、円城寺清、天城安政、堺利彦、斯波貞吉、幸徳秋水、そして黒岩涙香の八名である。この団体は、政治・宗教の主義を超越した社会改良・社会救済が目標であり、全国で熱烈な演説会を展開した。冷徹で利に聡いリアリスト「まむしの周六」と蔑称されながらも、親分肌で正義感が強く、終生友人思いの理想主義者であった明治人・黒岩涙香の側面を表すものであろう。

 幸徳秋水は、それまで抑圧されていた才能を涙香のもとで発揮した感があった。内村鑑三は宗教思想家としてすでに一家を成しており、涙香の熱心な説得を「意気に感じて」、社と関わった印象が強い。いずれにせよ、この時期の朝報社には、記者たちが書きたいものを書かせる自由な度量があった。「社会主義者」と「クリスチャン」の同居する混沌たる培養池としての『萬朝報』。この極端な呉越同舟ぶりこそが、明治論壇の鬱勃たるダイナミズムといえるだろう。

 

 六 藤村操の自殺と『天人論』の啓蒙家

 

■内村鑑三の理想主義になびいたせいか、涙香に『天人論』という論文がある。これは、翼の生えた天使の話ではなく、「天と人との合一」を説いた東洋的道徳論だ。いわば黒岩涙香の哲学である。あえていえばプラグマティックな形而上学とでもいうべき内容か。一種の唯心論的一元論の形而上学ではあるものの、ラジカルな思考はいい加減なところで止めておいて、この人生の荒波に使用可能な理屈として仕立てた、予定調和的倫理思想である。それは一見もっともらしく、「プラト」や「ソコラテス」、「ショツペンハウエル」を引きつつも、通俗的なスローガンの集積であり、バランスがとれたものであり、ことによるとあからさまな商品価値すらあるものだ。大学の講壇哲学の教授連からは黙殺される人生論であり、地方の苦学生やインテリ予備軍の青年達には熱狂的に読まれるであろう類の教訓哲学である。

 しかしここに、黒岩涙香という現世的プロデューサー・仕掛人的人物像と、思想家・内村鑑三や、革命家・幸徳秋水との決定的差異を、確認することができる。世の中で成功していくための「世間知」「折り合い」「中庸」を見ることができる。あえていえば、この博識な百科全書派、遊び好きで、賭け事好きな「全人」には、内村や幸徳が秘めているところの苛烈にして分裂症的な「狂気」がない。

 例えば涙香が『天人論』を発表した明治三六年、「厳頭の感」を樹木に書きつけて華厳の滝に投身した一高生が、世間を震撼させた。藤村操である。その訃報に接したとき「彼がこの本を読んでいれば、みずから命を絶つことはしなかったろう」と涙香は言った。その後も繰り返しこの一高生を論じている。藤村になるのはやめておけという、若い読者への啓蒙家としての配慮は、たしかに親にとってはありがたいものだ。これは涙香の「②啓蒙家」としての善き側面であろう。しかし、それほどことは、単純であろうか。

 ちなみに、一高で藤村操に英文学を講義していたのが夏目漱石である。漱石が彼の英文学の無理解をこっぴどく叱りつけた数日後に、藤村は自殺したとの見方がある。この事件が漱石の長年の鬱病や強迫観念の原因の一つになったともいわれるが、これは定かではない。しかしここでは、一教育者としての漱石を責めるのではなく、むしろこのような「神経症的葛藤」「内省の地獄」のエネルギーこそが、批評精神を研ぎすまし、文学創造へと転化することを見ておきたい。この苦悩は後に、『行人』(大正元年)の「一郎」を創出した。(この男は、中年まで生きのびたもう一人の「藤村操」ではないのか?)そしてさらに、漱石最晩年の『明暗』(大正五年)においては、「小林」という挫折した似非インテリ、ゆすりたかりの得意なゴロツキ新聞屋もどき、すなわち世に容れられずに成功しなかった黒岩涙香や、四流の幸徳秋水に属するような人物を、見事に造型している。「一郎」や「小林」は富国強兵・殖産興業という急激な傾斜からこぼれ落ちた明治の暗部的人物だ。涙香にないのは、この心的な闇であろう。この闇からの創造という錬金術もまた、文学の不思議である。

 というわけで、幸徳秋水、内村鑑三に加えて、五歳遅れで生まれた夏目漱石を、涙香と対比してみた。結局のところ、涙香という存在が「まむし」のように危険であったのは、かつての中央権力・政府官憲にとってであり、家庭の茶の間にとって……ではない。

 黒岩涙香がせっせと翻案した探偵小説を少年時代に十分に楽しんだ後で、より高度な書籍群に目覚め、やがて涙香を乗り越え、軽蔑することによって、明治・大正の知識人は、いっぱしの大人になったのである。

 

 七 足尾鉱毒事件と「理想団」の反応

 

■「社会主義者」と「クリスチャン」の同居する培養池としての『萬朝報』。この呉越同舟ぶりが明治論壇のダイナミズムといえるだろう、と先程書いた。しかし核分裂への臨界点は、すでに迫っていた。

 ここで再び、足尾鉱毒事件について触れておきたい。田中正造が国会で論議したのが明治二四年。足尾に関する書物の発禁などの言論封鎖が行われた後、群馬・栃木の農民たちが大挙して東京府に乗り込んできたのが明治三〇年。内村鑑三は、英文記事で足尾鉱毒事件を告発した。「理想団」でも糾弾せよと内村は主張する。そしてついに明治三四年(一九〇一)、田中正造による有名な「天皇直訴」となった。このとき正造に懇願され、徹夜で直訴文をしたためたのが、幸徳秋水であった。記者や論客という以上に、「足尾鉱毒事件・田中正造直訴事件」の当事者そのものであった。

 「金貸し、米相場師上がりの山師」古河市兵衛が所有する鉱山は、パトロンの殿様・相馬家の富の源泉であったが、そこで産出される膨大な銅は、明治政府の軍事路線ともかかわっている。薩長明治政府の「金力と権力」(夏目漱石)の巨大な源泉の一つであった。

 ちなみに、夏目漱石『坑夫』の素材は、家出して足尾銅山で働いた青年が漱石山房を訪ねてきた際の話をもとに、朝日新聞に連載小説(明治四一年)として発表したものである。足尾銅山を直接取材した形跡はない。漱石は前年に、朝日新聞に入社している。

 世界の一等国をもって任じる明治政府は、「富国強兵」政策の歪みとしての鉱毒事件問題の拡大を怖れてか、幸徳や『萬朝報』への追及はうやむやにされた。自由民権を母胎とする反権力の血が騒ぎ、武者ぶるいをしていた涙香一派は、がっくりしたようなホッとしたような、妙な気分だった。

 後に大逆事件の冤罪で処刑される幸徳秋水であるが、すでに官憲からは許し難い存在として、その言動は早くから目をつけられることになる。『萬朝報』は、後の日露戦争「非戦論/参戦論」で大分裂するが、足尾鉱毒事件は、一種の試金石であり、予行演習のようであった。社会改良を唱える「理想団」が糾弾すべき対象は、それほどの違いはない。「敵」は傲岸なる藩閥政治であり、薩長の元勲を中枢とする金権政治であり、これは同一なのである。しかし、涙香、鑑三、秋水、それぞれの理想となると、まったくベクトルを異にしていた。

 最初に、自由民権運動と「旧幕臣ジャーナリスト」についてふれたが、明治時代のキリスト教は、これらのエイトスとどこか共通する要素を持つ。柄谷行人は『日本近代文学の起源』において、明治期のキリスト教徒の多くが旧幕臣の子弟であることにふれ、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を引用しながら、

 「渡来したキリスト教に反応したのは、もはや武士ではありえない武士、しかも武士であることにしか自尊心のよりどころを見出しえない階層である。キリスト教がくいこんだのは、無力感と怨恨に満ちた心であった」と指摘している。(告白という制度)

 「もはや武士ではありえない武士」というキリスト者の意識は、挫折した自由民権運動や、明治創成期のジャーナリズムのモチベーションにも近い批判精神と矜持が感じられる。

 


 日露戦争と大逆事件(ファシズムと弾圧の季節)

 

 八 日露戦争「非戦論 開戦論」

 

■二〇世紀に入ってからの『萬朝報』の悩みは、部数の低下であった。一八九九年までは『萬朝報』の販売部数がトップであったが、一九〇一年には『二六新報』が一位となった。これは販売店との関係や、値上げ問題、四頁紙面のスタイル(他紙は十二頁採用)を意固地になって続けようとした涙香の誤算もあって、単純ではない。

 露仏独三国干渉で遼東半島を奪われたことへの不満、ロシアの満州・朝鮮半島南下への脅威等を背景として、一九〇四年から日露戦争が開始される。しかし弱体化している清国を相手にした日清戦争が、新聞業界全体の「お祭り」であり「③プロパガンダ」に徹していればよかったのに比べて、帝政ロシアを相手にするのは、いささかわけが違っていた。清国との古くさい戦とは違って、今度は日本国始まって以来の大規模な本格的近代戦争となるはずだ。当時のロマノフ朝ロシアを相手に正面から戦えるのは、大英帝国ぐらいのものだというのが、世界の大勢の見方であった。

 かつて徳川幕府を倒した連中が、いま「元勲」と敬われて、明治国家を運営しているが、背伸びし過ぎた「富国強兵」政策の一点張りであった。進行中の悲惨な足尾鉱毒事件も、日清戦争に向けて銅の生産そのものが国策だったのであり、それはあえて民衆を犠牲にしてまでも軍事力増強を図った明治の裏面でもあった。戦うとはいっても、日露の軍事力の差は明白であり、そもそも日本にはまるで戦費がない。

 政界における主戦派は、小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋。戦争回避派は、伊藤博文、井上馨、という見取り図である。

 

 当初、『萬朝報』も、反戦論を唱えていた。これは内村鑑三や幸徳秋水、堺利彦を擁する「理想団」の立場からしても、当然であり、平和主義、国際協調主義をとるはずのものであった。幸徳秋水は、戦争で犠牲になるのは職業軍人よりも、むしろ兵士として召集される貧しいプロレタリアートであるという社会主義者の主張から、非戦論をぶった。内村鑑三は、キリスト教的人道主義から、自明のことのように開戦に反対した。彼らスター記者には、すでに熱心な固定ファンもついている。

 しかしロシアは、一九〇〇年の義和団事件を口実にした満州の事実上の植民地化を継続し、さらに朝鮮半島への権益や、大連など不凍港を求めての南下の動きを顕著にしていった。それと同時に、日本の国内世論も、「開戦論」へと急傾斜してゆく。戸水寛人ら帝大教授の七博士が、桂太郎首相に強行開戦を要求した。いわゆる七博士建白書である。それに真っ向から反撃したのが、『萬朝報』における幸徳秋水の「非戦論」であった。

 二つの論陣はこの時点では、拮抗するかに見えた。

 しかし、度重なる交渉も功をえず、ロシアは満州から撤退するどころか、その軍備を着々と増大させ、旅順にロシア太平洋艦隊の基地を構築した。このままでは、朝鮮半島を奪われる︱︱。いつしか世の中は、大いなる魔物の影に覆われていくかのように、反戦モードから「開戦やむなし」へと傾いていった。こうなると冷静な判断を失ってゆくのは、明治であろうと、昭和であろうと、平成であろうと、いつの時代でも同じことだ。

 戦費は、桂太郎総理の命を受けた日銀副総裁・高橋是清が、ロスチャイルド系英国金融家や、ニューヨークの銀行家ジェイコブ・シフから莫大な金を借りて賄うことになった。これは日英同盟のみならず、ロマノフ朝打倒というユダヤ財閥悲願の世界戦略と、日本国の安全保障の利害とが一致したことに背景があるとされる。日露戦の戦費総額は十八億円超。当時の一般会計歳入は二・六億円であったから、まさに恐るべき資金調達である。

 

 この頃、文学関連でいうと、すでに『舞姫』(明治二三年)で知られていた森鴎外(一八六二~一九二二)は、軍医として忙殺され、執筆どころではない状態にあった。医師としては最高位を極めていたが、後に日露戦における脚気についての過った処置に対して、論議されることとなる。ちなみに『萬朝報』連載企画「蓄妾実例」では、「児玉せき」なる女との交情を暴露されている。その鴎外と出兵前に広島で会っているのが、無名の従軍記者時代の田山花袋(一八七一~一九三〇)であった。後の『一兵卒』は、新聞の扇情的記事とは違った側面から、この戦争体験を小説化した作品だ。

 この頃の実力派記者・編集者といえば、国木田独歩(一八七一~一九〇八)である。独歩はすでに『武蔵野』(明治三四年)を書いた自然主義の先駆的作家であったが、『報知新聞』を経て、『東洋画報』編集長に抜擢される。日露戦争が開戦すると、さっそく月三回発行の『戦時画報』にタイトルを替え、写真入りのグラビア誌に仕立て上げた。部数は最盛期には十万部を超えた。

 非戦派文学としては、与謝野晶子(一八七八~一九四二)『君死にたまふこと勿れ』(明治三七年)が著名である。旅順攻撃に出兵する弟を追慕したもので、まさに開戦の熱狂の最中であり、非国民・国賊として、激しく非難された。

 奇妙なのは、二葉亭四迷(一八六四~一九〇九)である。もともと陸軍士官学校を志すも、視力で不合格。国防への懸念からロシア文学を研究し、ツルゲーネフなどを翻訳。のみならず、創作欲を刺激され、先駆的な言文一致小説『浮雲』を著した。その後、陸軍大学校ロシア語講師の職につくが、途中で辞職。明治三七年、まさに日露戦争のときに、最も積極的な開戦論を展開していた『大阪朝日』に入社する。敵国の情報をチェックしていながら、目立ったスクープや実績はとくにない。才能を惜しむ主筆の池辺三山の誘いで『東京朝日』へと移動。戦争終結後、明治三九年より『其面影』『平凡』といった作品を連載した。二作の間には、夏目漱石『虞美人草』(明治四〇年)が連載されている。「文学は男子一生の事業に非ず」などと自嘲しながらも、結局この人物は、文学者以外の何者でもなかったといえる。

 

 話を大戦中に戻す。国を挙げての戦時ムードの中で、薄気味の悪いことに、『萬朝報』の部数がじりじりと減ってきた。ここに決定的な新聞メディアの〈業〉がある。紙面が勇ましくて景気がいい方が、売れるのだ。そもそも涙香は、スキャンダル色が強く「赤新聞」呼ばわりされた『萬朝報』の記事の格調とクオリティを高めるために、知識層受けする幸徳秋水、内村鑑三らをスカウトした。その目論みは半ば成功し、内容的にはライバルの『二六新報』よりも格が上という自信があった。余程のことがない限り、彼らの才能や主義主張を尊重する立場である。余程の事――それは『萬朝報』の存続に関わることだ。経営的な行き詰まりに触れるような危機以外にはありえない。

 部数減少がどう見ても否定できない段階になると、幸徳、内村の優遇に、かねてから不満や嫉妬を持つ社内の不満分子が、一斉に声を上げた。「まむし」のくせに彼らに甘すぎると批判を浴びた涙香は、「蝦蟇の油」の蛙のように、苦渋の脂汗を流した。

 難題を抱えた涙香は、黙りこくって、一人でビリヤードばかりやっている。社長はこれから朝報社を、どうするつもりなのか。つるんとした卵形の顔は髪も薄くなり、古参社員にはいっそうやつれたように思われた。

 ある日とつぜん、すっぱ抜きに近い形で「開戦やむなし」の記事内容が、『萬朝報』に載った。これはいわば「開戦論」への転向表明であった。主筆・円城寺清の社説である。社長の黒岩涙香は、その記事を、あらかじめ知っていたとも、知らなかったとも、いわない。

 ――幸徳秋水は、細い目を釣り上げて、激昂した。

 内村鑑三は、顎を撫でつつ静かな口調で、ついにわれわれが去るべき時が来たといった。

 穏和な堺利彦が、それに深くうなずいた。

 かつて、社会改良の同志として、全国の演説会で熱弁をふるった「理想団」の崩壊である。それは、混沌とした「明治ジャーナリズム」そのものの理想が、潰えた瞬間であった。

 

 九 日露戦争終結と日比谷焼き討ち事件

 

■社長の黒岩涙香は、彼らの退社の文とともに「内村、幸徳、堺三君の退社について」という送別の辞を『萬朝報』に載せる。三人の人格の高潔さと、思想の堅固である様を讃えると同時に、社としては「失うところの甚だ少なからざるを怖れる」と惜しむ。

紙面作りを知りつくした涙香は、そのままであれば体裁の悪い「転向」「社内分裂」に過ぎない混乱を、志士たちの感動的な別れのドラマへと仕立て上げた。この文は反響を呼び、横浜の一見習い工員であった若き荒畑寒村を、すこぶる興奮させた。後に『寒村自伝』にその時の強い感銘を記している。

 一九〇四年に勃発する日露戦争の際、日本のジャーナリズムの批判機能は、一度死んだように思われる。かつての「旧幕臣ジャーナリズム」の持っていた「権力批判」の鋭い視線を失ったのだ。各社は特派員を大陸に派遣して、号外合戦をくり広げた。紙面は軍神神話・軍国美談の自動製造機と化してゆく。鴨緑江渡河作戦、難攻不落の旅順要塞陥落、乃木大将と児玉大将の二〇〇三高地攻防戦。こうなるともはや、『君死にたまふこと勿れ』どころではない。「杉野はいずこ」の広瀬中佐の軍神美談、露西亜バルチック艦隊の戦慄。それに対する帝国連合艦隊の東郷元帥と参謀秋山真之の「丁字戦法」。ラストはバルチック艦隊撃沈と大勝利のドラマ。たしかに伝えるべきセンセーショナルな情報は、盛りだくさんであった。

 

 各紙が軍国美談を創る勢いで、「ロシアが降伏してきた。数億もの賠償金が取れる。樺太全土は日本のものだ」など、楽天的に過ぎる妄想をしきりに書き立てた。

 戦争継続は『朝日(東京・大阪)』『萬朝報』『二六新報』、非戦論は『東京日日』『毎日』となった。新聞だけではない。「七博士建白書」の一人、東京帝大教授の戸水寛人などは、ロシアからバイカル湖以東を獲れと盛んに煽ったので、バイカル博士の仇名がつくほどであった。

 このような新聞・学界の風潮が、終戦直後〈政府・新聞・国民〉の三層間に、異常なギャップを生じさせた。バルチック艦隊を沈没させて、世界を瞠目させるほどの大勝利を収めたにもかかわらず、ポーツマス講話条約の蓋を開いてみれば、賠償金はなく、樺太は半分しか確保できなかった。

 「小村寿太郎は売国奴、桂太郎内閣は退陣せよ。戦争を継続せよ!」の声があがる。薄髭を生やした背の低い小村は、巨漢のロシア全権代表ウィッテと並んでも遙かに見劣りがして、ネズミ公使と嘲笑された。

 明治三八年(一九〇五年)、大衆の不満が盲目的に爆発したのが、日比谷焼き討ち事件という民衆運動である。九月、東京日比谷公園において、決起集会が開かれ、ポーツマス条約反対を唱える民衆が暴徒と化した。内務大臣官邸、各地の交番、条約支持の御用新聞と見られる『国民新聞』が襲撃を受けた。政府支持派の『国民新聞』は徳富蘇峰の新聞であるが、売国奴新聞として五千人の暴徒に囲まれ、いちはやく駆けつけた蘇峰の盟友で剣術家の日比野雷風が、抜刀する騒ぎとなった。

 死者十七名、検挙者は二〇〇〇以上。東京は無政府状態となって、ついに戒厳令が敷かれ、翌日、新聞は発行停止となる。ちなみに、抜け目のない国木田独歩は、二週間ほど後『東京騒擾画報』を発行しこの模様を伝えた。

 

 この事件が不幸なのは、民衆運動のエモーションがメビウスの輪のように反転し、逆に国家の強権を招いてしまった構図にある。身内が一兵卒として駆り出される大衆が、「講話条約を破棄して、戦争を継続させよ」と怒号を張りあげ、二百数十を越える交番に火をつけたり、打ち壊したりしたのは、もはやブラックジョークとしか言いようがない。

 さらに明治四二年(一九〇九年)には、日比谷焼き討ち事件のリアクションとして、「新聞紙法」という悪質な法が制定される。政府は本格的な新聞統制に身を乗り出したのである。新規参入を制限できるために、新聞社経営陣には都合がいいものの、「言論の自由」の理念からはシバリのきつい法である。各社の反対意見はない。政府側の狙いからすれば、経営陣と記者との巧妙な分断作戦であった。

「①批評、②啓蒙、③プロパガンダ、④娯楽」(=①社会批判・②情報伝達・③大衆洗脳・④エンターテインメント)の〈定規〉を当てはめれば、この時一体何が起こったのか。日露戦で、挙国一致・大政翼賛的に「③戦争プロパガンダ」一色と化した新聞メディアが、民衆暴動という予期せぬ盲目的なデーモン、制御不能なフランケンシュタインを生んだのである。この間『萬朝報』における内部分裂でも見られる通り、社会の木鐸としての「①批評」は根絶やしにされた。

 しかも皮肉なことに、この民衆運動こそが、後の大正デモクラシーの母胎となり、さらなる「ねじれ現象」を見せて、大正末から昭和へかけての「治安維持法」制定へとつながっていく流れとなる。

 

 十 ライバル紙『二六新報』の凋落

 

■『萬朝報』を脅かした大衆紙が『二六新報』である。『二六新報』は、秋山定輔が発行した低所得労働者向けの新聞だ。秋山は岡山の貧しい家の生まれて、車夫をやりながら苦学し、東京帝大に進んだという変わり種であった。会計検査院に入るも一年で辞職し、新聞業界に身を投じた。試行錯誤と多大な借金を背負ったのち、『二六新報』で展開した三井攻撃(三井財閥のあくどい商法や、三井家の乱行を糾弾。のちに金で示談)、娼妓廃業(遊郭による娼妓の人権無視的な搾取)、労働者大懇親会(日本最初のメーデー)などの企画が大当たりし、一九〇〇年以降、みるみる部数を伸ばしていった。「車夫上がりの東大出」のジャーナリストは、貧富の格差への不満を巧妙に利用し、労働者大衆をうまく読者層へと取り込んだ。

 二十世紀初頭『萬朝報』は、一挙に後発の『二六新報』に追い抜かれた。

 秋山定輔の企画の中でも、向島白髭における明治三六年(一九〇一年)の労働者大懇親会イベントは、二万人もの労働者を集めて大成功となった。花火、福引き、楽隊演奏で盛り上げられ、弁当と酒がついて、会費もわずか十銭。さすがの涙香も、そのアイディアに嫉妬した。社会主義者・片山潜が、労働組合結成会の人員を組織的に集めた効果もあって、明治政府にとっては脅威の大集会となった。ここから秋山は、官憲に目をつけられることになる。

 『二六新報』部数一位の勢いで、秋山定輔は衆議院選に当選。日露戦争前夜である。彼は突如、露探(ロシアのスパイ)の疑惑をかけられる。来日中のA・クロパトキン将軍と須磨で海釣りをした事実が拡大解釈され、国内機密を漏らしたという疑惑が生じたのである。

 このとき『萬朝報』黒岩涙香は、一気にえげつないライバル潰しに入った。紙面で「露探=秋山定輔」の刷り込みを、盛んに喧伝したのである。

機密漏洩の証拠はなかったものの、追い詰められた秋山は、議員辞職。全盛期には十万部を誇った『二六新報』も、「ロシアのスパイ新聞」とのイメージダウンで、たちまち二万部にまで凋落した。涙香は、快哉を叫んだ。

 しかしこの時こそ「反権力と自由民権」の啓蒙家は、ほんとうの「まむし」になったのかも知れない。ライバルには勝ったものの、それは実に空虚で、苦い勝利であった。要するに自分達がやっていることは、「反権力」を掲げる新聞同士の内ゲバに過ぎない。日露開戦前夜、このシナリオは政府権力、おそらくは主戦派の元老・山縣有朋らの目論み通りであった。社内にはすでに、幸徳秋水も内村鑑三もいない。かつて社会改良をめざした「理想団」の夢は、あとかたもなく消えてしまった。

 

 十一 平民社と「大逆事件」 幸徳秋水の処刑

 

■ジャーナリストとしての黒岩涙香が輝いていたのは、どうやらこの辺を境とするようである。これ以降の涙香は「理想を失った勝負師」のように見える。確かに新聞人としては、押しも押されもせぬ成功者であり、斯界の名士ではあったが、以前のような牙も勢いも失ってゆく。そして、日本の言論・ジャーナリズム、ひいては文学や批評精神をも、壊滅的な状況に追い込んだのが、明治末の「大逆事件」であった。

 『萬朝報』を去った幸徳秋水、堺利彦らは、退社の年(明治三六年)に「平民社」を興し『平民新聞』を発刊。時代的にも、労働者中心の政治への機運が高まってゆく。官憲は社会主義系新聞の取り締まりに血道をあげ、平民社はその恰好のターゲットとなった。すでに「開戦」に転向した涙香とは袂を分かっている秋水だが、『平民新聞』を舞台に、相変わらず気炎をあげていた。明治三七年には、堺と共にマルクスの『共産党宣言』を訳して、即日発禁となっている。

 世間が戦時色一色になっていくなか、開戦による増税を糾弾した。すぐさま政府内務省は、『平民新聞』に圧力をかけた。新聞紙条例により発禁処分を命じ、編集兼発行人の堺利彦を逮捕して、裁判にかけた。たちまち平民社は実務に窮した。経営面に無能な幸徳秋水であったが、なおも「非戦論」を貫き続けた。

 かつて、秋水の鋭すぎる才能を愛した涙香も、その意固地さには呆れ果てた。最近は持病も悪化させているらしいとも聞いた。この幸徳秋水の一徹さに、人はある種の破滅型小説家の心理を重ね見るかも知れない。

 翌年の裁判結果では「新聞紙条例」により秋水は入獄。平民社には罰金。そしてさらに印刷機械の没収という判決が出た。反戦論者や、社会主義系の新聞・出版・集会に対する見せしめであった。

 義侠心にとんだ黒岩涙香は、政府内務省に対して、腑が煮えくりかえる思いがした。思想こそ異なるとはいえ、平民社の連中は、心情的には盟友ではあった。

 そこで、かつての『萬朝報』のオハコであった愛妾スキャンダルで、桂首相の新橋芸者や、吉川顕正内務大臣の性的乱行を暴露して、一矢報いた。

 しかしそういった小手先の側面攻撃で、この強権的状況が変わるわけでもない。出獄後の秋水は、社会革命党を起こした。アメリカに渡って今後の動きを練りつつ、講演などをしているが、その様子は領事館スパイや、留学中の学者によって、逐一、山縣有朋に報告されていた。山縣に通じた洋行学者とは、日露開戦「七博士」の一人の高橋作衛である。反政府分子として徹底的にマークされた幸徳秋水の言動は、さらに激烈さを増し、次第に社会主義から無政府主義へと、暗い色彩を帯びて行く。

 

 不穏な空気の渦巻く中、一九一〇年(明治四三年)五月、安曇野の製材所職工の「社会主義者」宮下太吉ら四名による明治天皇暗殺計画が発覚した。いわゆる「信州明科爆裂弾事件」である。これをきっかけに、事件は意図的に拡大解釈され、数百名にも及ぶ社会主義者、アナーキストの激しい逮捕・弾圧が開始された。幸徳秋水も六月に湯河原の天野屋に宿泊していたところを逮捕。検挙は全国に広がった。裁判は大審院だけの一審制で、十二月に開廷し、約一か月間の非公開裁判。年開けて早々の一月、二四名の死刑が言い渡された。同一月内に、異例の慌ただしさで、幸徳秋水ら十二名が処刑された。

 今日「幸徳事件」とも呼び習わされているこの事件は、後年、明治天皇暗殺計画に関与したのは宮下太吉、管野スガ、古河力作ら五名のみであったことが判明している。幸徳秋水は首謀者でなかったばかりか、途中から謀議からも離れていった。フレームアップの目的は、社会主義者やアナーキストの一掃と推察される。

 しかし実際には、西園寺公望(パリ仕込みの自由民権派にして、中江兆民の留学仲間)や原敬らのリベラル派に対して、長年の政敵であった山縣有朋・桂太郎らの陸軍長州閥が、巻き返しを謀った権力闘争的な謀略ではないかとの説がある。ちなみに幸徳秋水が中江兆民の弟子であることは、広く知られていた。また西園寺内閣は、明治三九年に日本社会党結党を許可した政権でもある。

 この異常な事件は、文学者にも甚大な影響を与えた。石川啄木は無政府主義者P・クロポトキンの秘密出版本を読み込み、幸徳の膨大な公判記録を入手して『時代閉塞の状況』を執筆した。幸徳秋水は審理で「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述したという。啄木はこの時点ですでに、幸徳の逮捕・処刑が官権による計画的謀略であったことを確信していたようだ。

 徳富蘇峰の弟でベストセラー『不如帰』の作家・徳富蘆花は、桂太郎側近の兄の蘇峰を通して、減刑を依頼しようとしたが入れられず、一高の講堂にて「謀叛論」を演説した。かつての江戸末期の先覚者や尊皇攘夷の志士も、時の権力から見れば謀叛人だ、新しきものは常に謀叛だという論理である。これは学内騒動にまで発展する事件となった。

 永井荷風(一八七九~一九五九)は、事件後『花火』という作品で、次のように告白する。

 「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」

 このような荷風のスタンスは、日本の近代小説が、社会批評や風刺という攻撃性を自粛する奇妙な傾向を象徴している。荷風ほどの自覚のない作家は、それらは「俗」なこと「非芸術的」なことであり、純文学作家のよくすることではないと、心理的処理をはかった。

 ちなみに、大逆事件(幸徳事件)の遠因を、義和団の乱の際に発生した馬蹄銀事件に求める説がある。これは清国の大量の「馬蹄銀(銀貨)」を日本軍が横領した事件である。綱紀正しいはずの日本軍が泥棒であったことを、『萬朝報』時代の幸徳秋水が暴露したのである。幸徳らはこのことで、陸軍のボスにして、内務省を牙城とする山縣有朋の逆鱗にふれてしまい、後にフレームアップによる逮捕・処刑という復讐劇が行われたとの見方である。この説の真偽はともかく、『萬朝報』というゴシップ新聞が、いかに明治という時代の広大な領域と深く関わってきたかという眺望が見えてくる。

 とはいうものの奇妙なことに、大逆事件の直後の『萬朝報』の報道は、意外にもおとなしい。駆け出し当時からノーマントン号事件の英国領事裁判の不条理判決に義憤を感じ、権力の不正には徹底批判を加えていた涙香である。その百戦錬磨のツワモノが、純朴な世間同様にフレームアップに気づかなかったというには、いかにも無理がある。二十代半ばの朝日新聞校正者に過ぎない石川啄木ですら、事件の闇に気づいているのだ。むしろ涙香は、敵の巨大さを測りながら、秋水の轍を踏むことを本能的に怖れる一企業家として、歯軋りをしつつも、あえて事実報告の羅列に留めたのかも知れない。

 


批評・啓蒙・プロパガンダ  言葉と権力

 

 十二  明治言論界の「パノラマ館」

 

■明治から大正にかけて、浅草などの歓楽街にパノラマ館というものがあった。ここでは壁面に日清日露の戦争絵巻や、物珍しい異国風景が描かれ、世界が一望のもとに見渡せた。ある意味で『萬朝報』とは、明治言論界の見世物小屋であり、パノラマ館であった。その栄光も限界も、そこにあるのかも知れない。

 ミステリアスな探偵小説を思わせる相馬事件は、日本最初の公害である足尾鉱毒事件に関連し、それは少年期の志賀直哉を煩悶させた。幸徳秋水の文を携え田中正造翁の直訴が行われ、その直訴の対象である天皇という現世日本の絶対性は、キリスト教の超越性に対立する。それは内村鑑三の内的な葛藤でもあった。二人はともに「理想団」の中心人物であり、田中正造翁のシンパであった。そして社会主義者・幸徳秋水は「天皇暗殺計画の首謀者」とされて大逆事件にまきこまれるが、それは黒岩涙香が西欧の作品から翻案した探偵・裁判小説の陰謀を連想させる。相馬事件も、大逆事件も、「冤罪」「フレームアップ」という権力犯罪の問題へと結びついてしまう。こうして『萬朝報』という迷宮的円環、めくるめくパノラマ館は、見事に閉じられる。しかもその「権力と言論」の環は、ねじれにねじれ、時を経るほどに新たな事象が生起しているように見える。しかし本質的には、壁面に見える絵こそ変化に富んでいるものの、何度も何度も同一パターンの「熱狂と絶望」を繰り返すメリーゴーランドのようである。

■権力批判の機能から出発するジャーナリズムが、力を持つほどに権力と対立し、いつしか臨界点を超える。その時に壊滅に追い込まれるか、権力側に取り込まれるか、この二者択一の分岐点は微妙である。その媒体が影響力を持てば持つほど、中央の〈力の渦〉に取り込まれやすい。それは『萬朝報』ばかりではない。

 例えば涙香のライバルであった『二六新報』はどうか。「東大出の車夫」秋山定輔が発行したこの新聞は、三井家の不正や乱行を暴くなどして低賃金労働者を読者層にすることに成功した。政官財の妾暴きと、多彩な娯楽ネタを売り物にした『萬朝報』と、市中の人気を二分するまでになった。明治三〇年代の貧富の格差や、「時代閉塞の現状」をうまく吸い上げたわけである。向島の集会イベントでは二万人を集め、十万部を超える部数を出しながらも、「露探」疑惑で、『二六新報』は信用を潰され、休刊に追い込まれる。代議士になった途端に潰された「ロシアのスパイ」秋山は、昭和に入ると近衛文麿に近づき、政界の黒幕的存在となる。近衛の内面に潜んでいた社会主義思想と、秋山の思想とが共鳴したとすれば、これはデリケートな問題であろう。この例は批判機能として働いていた有能なジャーナリストが、〈中央の力の渦〉に取り込まれていく過程をよく示している。

 『二六新報』秋山定輔、『萬朝報』黒岩涙香に見られるこのパターンは、徳富蘇峰『国民新聞』にも認められる。蘆花の兄である蘇峰もまた、初期は板垣らの民権派に共鳴して「国民」の概念を大衆に啓蒙し、行き過ぎた明治政府の富国強兵策・藩閥政治を批判した。ところが途中で、山縣有朋や桂太郎と接近しはじめ「平民主義」から、強硬な「国権論・国家膨脹主義」へと転向し、その媒体は政府プロパガンダ機関へと変貌してゆく。堺利彦に「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」といわれるまでになる。大逆事件(幸徳事件)をめぐる蘇峰と蘆花の確執もこの辺にある。

 これはとんだ「中心と周縁」理論である。ジャーナリズムにおいては、周縁が中心に擦り寄り、あるいは呼び込まれ、〈中央の力の渦〉は活性化されるというよりは、ますます固定化され、権力を増大させる。

 こうして日本という情的な沼沢地的風土の中では、社会批評、社会批判、ジャーナリズムは、たえず済し崩しにされ、不可能となる。右翼か左翼かという二項対立の問題ではなく、クリティックそのものが、不在となる。その成れの果てとも言える見事なサンプルが欲しければ、現在の主流メディア、大手新聞の紙面、公共放送の報道番組を見ればよい。例の〈定規〉でいえば「③プロパガンダ④娯楽」ばかりを目撃することになるだろう。

 

 十三 批評・啓蒙・プロパガンダ ――言葉と権力

 

■晩年の黒岩涙香に、かつての血気盛んな言論人の面影を見ることはできない。ノーマントン号の領事裁判に怒りをぶつけた熱血漢の風貌はない。そこに見られるのは政界工作者として自らの権力を楽しんでいる得意満面の好人物、ビリヤード好きな通人の姿である。シーメンス事件における贈収賄を糾弾し、山本権兵衛内閣の倒閣運動に暗躍するのはまだしも、同年、大隈重信内閣擁立に走るのは、ジャーナリストというよりも、政府権力との癒着により、影響力行使と、事業の安定を狙う一人のフィクサーの姿であろう。この男は数多くのライバルを倒して生き残った立身伝中の人物ではあるが、いまや「理想を失った勝負師」のようだ。

 「①批評、②啓蒙、③プロパガンダ、④娯楽」の〈定規〉を無理に当てはめれば「①批評」を失った政治的宣伝屋の姿が見えてくる。

 前述したようにこの類型は、現代にも多く見られる。テレビでコメンテイターなどをやっていた政治部記者が、その「見識を買われて」議会へ出馬したり、大新聞の社長が、派閥の領袖と料亭で会って政界工作したりする奇妙な風習である。大手メディア、言論機関のボスが、政治権力と癒着することほど、怖ろしいことはない。口うるさい新聞記者、ジャーナリストが、都合の良いポストを一本釣りで与えられ、まんまと懐柔される手法は、すでに明治の頃から確立されている。しかも現在の日本の新聞業界は、排他的で身内的な「記者クラブ制度」や、「クロスオーナーシップ」(新聞と放送を同一資本が運営。多くの先進国では禁じられている)という、後進国的な言論風土にがんじがらめにされている。

 晩年の涙香は、「言論と権力」の境界線を、故意に曖昧にした。もはや、新聞紙上で批判しているばかりでは生ぬるい、というのが、もっともらしい口実である。

 その意味でも黒岩涙香は、先駆者であった……。

 大正四年。御大典に際し、大隈内閣は有力な新聞人に対し、異例の叙勲を行った。

 黒岩涙香はこのとき、徳富蘇峰(国民新聞)、村山龍平(朝日新聞)らとともに、勲三等に叙せられる。わざわざ山本権兵衛内閣をシーメンス事件で倒し、大隈重信を担ぎ出して暗躍した涙香としては、思惑通りの展開だ。

 第一次世界大戦(大正三年~七年)によって、日本も兵器・軍需品・鉄鋼・船舶などの重工業製品、生糸や雑貨などの輸出が飛躍的に高まり、戦争特需で湧きに湧いた。いわゆる大正バブルである。東京など都市部の生活も、富裕層を中心に大幅な変貌を見た。このありがたい戦争により、日本国は債務国から債権国へと、一気に「出世」した。いわゆる「船成金」「鉱山成金」が出現したのも、この頃である。

 大正七年の暮れ、涙香は、日本の新聞界代表の名目で、第一次大戦終結のパリ講話会議への参加を目論むが、新聞記者大会で猛烈な反対にあう。仕方なしに『萬朝報』社長として、欧州視察のために講話使節とともに、パリに向かった。涙香自身にとっても、記者人生冥利に尽きるともいえるこの報道活動は、夏まで続いた。

 帰国後、築地精養軒で開かれた「理想団」の帰朝歓迎会において、彼は得々として「欧州視察」を談じた。しかし形ばかり残った「理想団」には、もはや幸徳秋水も、内村鑑三もいない。大戦報道が一段落した同年の秋、『婦人界』で「滞欧中に見たる仏蘭西の婦人」のエピソードを披露する。もはやゴロツキ新聞の親方ではなく、勲三等の国家的名士である。しかしこの前後より体調優れず、温かな大磯へと転地する。

 ちょうどその頃の文壇では、大正文学が、ようやく姿を現しつつあった。漱石に絶賛されて登場した芥川龍之介という若き新星が、洒落た斬新な短編を、次々と発表していた。

 

 『萬朝報』にかかわった明治の論客たちの行く末について、最後にふれてみたい。

 彼らはかつて、足尾鉱毒事件糾弾の急先鋒であり、涙香とともに社会改良を目指した「理想団」の同志でもあった。

 日露戦争の「非戦論」で朝報社を去った三人のうち、前述したように、幸徳秋水は大逆事件に巻き込まれて、明治四四年、他の十一名の死刑囚とともに刑死した。享年四〇歳。今日ではこの事件は完全なるフレームアップとされ、秋水は冤罪とされている。

 一方、堺利彦は、獄中にいたために、大逆事件の連座からは免れた。出獄後は「社会主義冬の時代」の生活費稼ぎのために、売文社を設立。これは翻訳・代筆・文章代理を業とする集まりで、社会主義者の秘かな連絡網でもあった。大杉栄、荒畑寒村、山川均などがかかわる。堺自身も欧米ユートピア小説の翻訳紹介を多く行い、東京無産党より東京市会議員に当選する。しかし次第に精神が蝕まれ、家族に暴力を加えるようになり、昭和七年、ついに発狂する。全国の大逆事件受刑者の遺族を訪ねて資金援助をしたりするなど、一見温厚そうに見えた堺のいったい何が、狂気へと導いたのか。堺利彦は、東京の青山脳病院入院中、脳溢血のために亡くなった。享年六四歳。

 内村鑑三はクリスチャンらしく、穏やな死を迎えることができた。

 この宗教家は、最愛の弟子としていた有島武郎の無理心中自殺を嘆きつつも、無教会主義を説いて、晩年まで熱心に伝道を重ねた。しかし崇拝者の集まる古希祝賀会には、体調を崩して欠席した。

 昭和五年、三月のある朝、「非常に調和がとれているが、これでよいのか」という、奇妙ではあるが、厳かな言葉をつぶやきつつ、昏睡状態に陥った。そして家族一同の見守る中で、静かに逝去した。

 

 かつては有力政治家の愛人や妾を暴いて、「まむしの周六」と憎悪された黒岩涙香も、その晩年は、不思議に穏やかに見える。「赤新聞」時代、金で雇われた壮士に命をつけ狙われていた明治の風雲児も、昭和の世相こそ見ることはなかったものの、病院のベッドの上で、静かに逝くことができた。

 大正九年、五月、病名不明のままで、東大病院へ入院。

 入院中の真夏、機嫌の良い小康状態に、他愛のない戯れ歌を詠んだ。

 「磯の鮑に望みを問へば 私しや真珠を孕みたい」

 この俚謡が絶筆として残されている。同年の十月六日、同病院にて死去。享年五十九歳。

 それはまさに、万華鏡のような人生であった。

 おそらく文人としての黒岩涙香は、漱石や二葉亭的な意味での天才でも、志賀直哉や芥川的な意味での芸術家でもないだろう。とはいえ、理想と社会批判とを一身に体現した先駆的な知識人であった。そして、明治という怒濤の時代のみが生み得た大衆啓蒙家であり、一代の巨人であったに違いない。

 それにしても、黒岩涙香が孕みたいと願った「真珠」とは、はたして何だったのだろうか。

 

                  *

 

参考文献/明治文学全集「黒岩涙香」筑摩書房(一九七一)、現代日本思想体系「ジャーナリズムの思想・鶴見俊輔編」、伊藤秀雄「黒岩涙香」三一書房(一九八八)三好徹「まむしの周六」中央公論社(一九七七)、柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文庫)隅谷三喜男「大逆事件・明治の終焉」(PDF・招待席主権在民史料)

 タイトルの「批評・啓蒙・プロパガンダ」は、内容的には「批評・報道・宣伝」でもよい。ただ明治新聞界に生きた黒岩涙香においては、良くも悪くも啓蒙家的自覚と使命が強いと見られるので、本稿では「大衆啓蒙」と「戦争プロパガンダ」の二面に焦点を絞った。特に涙香という一人格においては、「啓蒙」即「プロパガンダ」に反転してしまった、という逆説を込めている。批評のない啓蒙は、結局のところ機械的な「他者操作/プロパガンダ」に堕すであろう。


奥付



批評・啓蒙・プロパガンダ      黒岩涙香と萬朝報の時代


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著者 : Grasshouse
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