閉じる


<<最初から読む

6 / 14ページ

試し読みできます

悲恋の曲『エリーゼのために』

 関川村が夏の行事で活気を帯びてきた。お盆の時期に、唯一の村人たちの楽しみは、夏祭りである。平凡で静かな村人たちが、燃え立つような激しく強い感情をあらわにする祭りである。荒川に架けられた橋から打ち上げられる花火、そして仮想盆踊り大会、みこしを担ぐ風景が、この時期に、狭い村のあちこちで繰り広げられる。

 昼間の焼き付けるような日差しと打って変わって、爽やかな夜風が村を吹き抜けていくと、村人たちは開放的な気分に覆われる。

 浴衣姿の若い男女や家族連れが、下関の神社の参道に並んだ夜店にやってくる。今日はこの地区の祭りだった。村で一番規模の大きい祭りで、昼間に神輿担ぎなどが行われた後、裸電球に照らされた夜店が、訪れる人々の目を楽しませていた。

 

 富士夫が待ち合わせ場所にしばらくたたずんで、ぼうっと暗闇を見ていると、文子は白い布地に紫の花をあしらった浴衣姿で、こちらに歩いてくるのが見えた。昨日、勇気を振り絞って掛けた電話の向こうで、文子は祭りに一緒に行くことを快諾したが、本当に来るか心配であった。実際に現れると富士夫はどぎまぎした。幾分何かに憑かれた者のように目をぎらぎらさせながら、心の中で『文子』とつぶやいた。富士夫の心は焼けつくようだった。

 富士夫と文子は、夜店が立ち並ぶ神社の参道を歩き始めた。富士夫の顔見知りの同級生が、遠くから手を振って、冷やかすようなそぶりを見せる。

 にやにやと笑っている浴衣を来た少女たちが、ぎこちない二人を好奇の目で見詰めている。

 富士夫は神社のそばまで行くと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「ちょっと祈ってみる」

 文子は突然の申し出に、不思議な顔をした。富士夫はかまわず十円玉を幾つか賽銭箱に投げ込んで合掌した。

 富士夫が何故いきなり合掌したのか理解できなかった文子だが、彼女も巾着の財布から小銭を出して投げ込むと合掌していた。

『高専に合格しますように。十一月末の第一回定期演奏会を、ぜったいに成功させたい。そしてもう一つ大事なこと、どうぞ文子が僕を本当に愛してくれますように』

 目を開けた時、富士夫は妙に恥ずかしい気がした。その時、さっと強い風が境内の中央を吹き過ぎていった。境内の中央に設置した盆踊り用の屋台を、揺さぶっていったような気がした。

『この神様は、僕の願いを聞き入れたと合図したのかな?』

 と富士夫は思った。

 と次の瞬間、文子が富士夫の顔を見ながら、思いがけなくも滔滔と話し出した。

「富士夫さん。少し私も進歩しましたわ。こんなかわいくない私を好いてくれる先輩のことを、だんだんと受け入れられるようになったと思います。お手紙を毎日何度も何度も読み返しているうちに、最初に読んだときに感じたことに間違いがないことを確信したの。それは私の感覚と似たところがあるということです。じゃあそれは何、というと言葉では表現できないけども、やっぱり感性の相性だと思うの。今まで生きてきて、その感性が合う人と言えば、富士夫さん以外には見当たりません。だからもっともっと富士夫さんのことが知りたいの。そのことを今日は絶対に言おうと思って逢いに来たの」

 文子の目がひときわ輝いているように富士夫には見えた。カメラが被写体を追いかけるように、恥ずかしくてうつむいたりする富士夫の目を、瞬きもせずに見ている。

 文子の眼差しは、富士夫の目の前でピアノを弾いた時より、恋焦がれた男に出逢った少女のように、思いつめた輝きを持っていた。

「ありがとう。そんなすごいことを言ってくれるなんて想像してなかった。嬉しいよ」

「この間の手紙で、私、本当は欲張りって言ったでしょう。でもよくよく考えてみると、動揺していることの照れ隠しです。でも凄く自分勝手なところもあるから、富士夫さん、本当に私でいいのかな。かわいくもないし、美しくもありません。そして、富士夫さんほど本も読んでいないし」

「いいや、文子さんは世界一すてきで、おしとやかで、賢くて、ピアノの演奏も最高だよ」

 富士夫は、思いがけないほどすらすらと、いつも思っていることを言いながら、心臓が破裂しそうなほどどきどきしているのを感じていた。顔がどんどん紅潮していくのが判った。それでも、大好きな天使の文子を、見詰めることは止めなかった。

「そんなに褒められると、恥ずかしいわ。褒めていただいてありがとうございます」

「いいや、嘘じゃないよ。本当のことだから何度でも言うよ。文子さんはかわいいよ」

 文子は耳の付け根まで赤くなるほど赤面をした。富士夫も恥ずかしくて目を伏せた。

「この間、『エリーゼのために』を弾いてくれたけど、どんな気持ちだったの?」

「ベートーベンが作曲した『エリーゼのために』は、ポピュラーな曲だけど、結構演奏する人によって印象が変わると思います。そうね、簡単そうに見えるけど、初心者だったら多分習得するのに二、三年はかかるかしら。この愛の曲は、本当は男性の天才ベートーベンの思いが旋律になっているそうよ。最初のところは、男性の切ないため息が聞こえてきそうです。そして募る思いとなり、かわいいエリーゼよとなっていくの。そして、苦悩となり、最後は散ってしまうような曲だと私は思います。切ない思いの曲です。だからこの曲を弾くと、男の人がどう女性を慕うのか手にとるように判って、心が破裂するような思いがするのです。自分で演奏しているうちに、富士夫さんの私への強い思いが本当によくわかったような気がするの。だから、私はあなたの思いを曲で改めて表現してみたの。富士夫さんの気持ちが判ったわと。だから、悲恋を弾いたことによって、私は富士夫さんのことを理解して受け入れるわ、という意味なのです」

 富士夫は初めて『エリーゼのために』の曲の意味を知るとともに、彼女の深い思いに気づいた。片思いではないのだ、ということに涙が出そうになった。

 その時、盆踊りの準備の屈強な若者たちが境内に入ってきた。

 富士夫は文子を促して、今来た参道の出口に向かって歩き出した。富士夫は今文子が話したことを反芻していた。反芻しているうちに、何故か確信や自信みたいなものが、体内から湧き上がってくるような気がした。しかし、その自信と裏腹に、横を歩く文子の存在に動悸がして、また顔が赤らむのが判った。文子の下駄が、石畳を踏みしめるたびに乾いた音が聞こえたが、その音が話しかける言葉をさえぎるような気さえした。

 夜店が立ち並んでいたが、もう季節外れの感がある透き通った丸いガラスの風鈴のある店の前で、文子は立ち止まった。白熱電球に照らされたその風鈴の一つを眺めながら、時々その長い白い指で突付いて、小さな打楽器の高音を楽しんでいるかのようだった。風鈴を所狭しと陳列している夜店の照明用発電機の音に、その繊細で高い音はかき消されてしまうかのようだが、富士夫には、すぐ耳のそばで文子が風鈴を鳴らしているのがはっきりと聞こえている。   

「富士夫さん。私、風鈴の音が大好き。ピッコロの高音も好き。どちらも軽やかな音だけれども、聞く人の心を晴れやかにするわ。だから、ピッコロもピアノと同じようにもっともっとうまくなりたい」

「だんだんと上手くなってきているよ。いつも文子さんの奏でる音が、練習のときに輝いている」

「褒められると嬉しいわ」

 文子は天使のように微笑んだ。白熱電球の照明のもとで、富士夫には文子が愛しく思えた。

 富士夫と文子は、風鈴のお店や玩具のお店などをのぞいては、お互いの顔を見ながら、ブラスバンド部の話に興じていた。

 金魚すくいのお店に来ると、小柄な倫子に二人は出会った。富士夫と文子が連れ立ってお店をのぞいていることに気づいて、近付いてきたのだ。少し顔を曇らせている。

 倫子は文子と仲が良かったので、何事もなかったように笑っているが、心配事があるようだ。

「どうしたの倫ちゃん?」

 文子が聞くと、

「なんでもないわ」

 といつものように小さな白い歯を見せて笑った。

「それなら良かった。一緒に歩こうか」

「いいわよ。せっかくお二人で歩いているのだから。邪魔しないわよ。今日はデートでしょう?」

 と言いながら、倫子は顔を赤らめて、恥ずかしそうに微笑んだ。文子は倫子の素振りに、富士夫のことが好きだ、ということを直感的に悟った。

 富士夫は、そんな文子と倫子の心の動きを、その時は知る由もなかった。

 文子と倫子の間で、差しさわりのない言葉が交わされると、すぐに倫子と富士夫たちは別の方向に歩き出した。

 富士夫と文子はそれから一時間ほど散策しながら話していると、もう帰る時間が来ていた。富士夫は自転車を引きながら、文子の自宅の側まで送った。

「じゃあ、また明日練習でがんばろう」

 と富士夫が手を振って自転車に跨った。

「今度の合宿楽しみね。練習きついけど」

 文子は暗闇の中で小さく手を振った。荒川からのさわやかな風が、文子の髪の毛を揺らした。

 

 その日の富士夫の日記には次のように書かれていた。

『おお魂よ!僕の魂は何処へ行くのか。僕の生きるための血となり糧となりえる文子は、目の前に現れた。嗚呼、僕の太陽である文子よ、その魂の力で癒しておくれ。暖かな光よ、限りなきその慈愛で寂しい僕の胸を覆ってくれ。僕の愛する少女は、今窓辺にたたずんでいるのだろうか。僕の気持ちが判ったと話してくれたあのさわやかな勇気。悲恋を弾いたことによって、僕のことを理解して受け入れると言ってくれた。何という奇跡の少女なのだろうか。僕は今日、激しい心の喜びのために、天空に浮かんでいるようだった。少女の話す穏やかな優しい言葉を聞くと、喜びで胸が苦しくなった。今までは観念の中で、あなたが好きだ、あなたが好きだ、と叫びながらさまようところは夢の中だった。でもこれからは違う。夢は現実のときめきに変わった』


試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格200円(税込)

読者登録

三輪たかしさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について