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ドビッシーの『海』を聞いて

 強烈な日差しがあふれる夏休みがやって来た。ブラスバンド部の練習は日ごとに熱が入っていった。

 今年、萩原先生と部員たちは、ある決意を持って夏休み中の練習に励んでいた。それは関谷中学校始まって以来の演奏技術力を持つ、と言われている富士夫たちのブラスバンド部が、十一月末に独自の第一回定期演奏会を開催することであった。

 

 六月のある日、いつもの練習を終えると、萩原先生は指揮棒を譜面台に置いて静かに話し始めた。

「今日は皆に大事な話をしておきたい。俺自身も良く考えてのことだし、諸君も十分に考えて後悔の無いように結論を出してもらいたい。

 実は関谷中学のブラスバンド部始まって以来、一度も独自のコンサートを開いたことがない。色々な行事をこなすことに追われてきた、というのが実態である。これでは本当の意味での音楽の深さを知らないで、諸君がこの学び舎を去っていくことにもなりかねない。じっくりと練習を重ねて、聞く人にその成果を問うということは、吹奏楽に携わるものとして、一番大切なことだと思う。いわば一年一年の総決算だ。しかも今回がその第一回目と言うのは非常に意義が大きい。回を重ねるごとに、第一回目のメンバーたちは、最高の演奏をしたと言われるような演奏会をやりたい。俺にとっても、諸君は新しい伝統を築くための一番のチャンスメンバーだと確信している。諸君が俺の気持ちに賛同してくれれば本当に嬉しい限りだ。しかしだ、そのことによって大きな二つの犠牲を克服しなければならない。進学を控えた三年生にとっては、受験勉強に大変な差し障りが出てくると思う。また、全体的に言えることは、楽しい夏休みがほとんどなくなってしまう。そしてますます練習は厳しくなるということだ。これらの困難があっても、諸君がそれでもなお中学生活の中で、音楽の世界での金字塔を作りたい、思い出を作りたいという気持ちがあるならば、俺について来てくれ」

 音楽室の中に一種のどよめきが起こった。希望と逡巡に室内は満ち溢れた。

「諸君がここですぐ決めることはおそらくできないと思う。三日後にもう一度聞くから良く考えておいてくれ」

 解散して部室で楽器を片付けている時、二郎はそばにいた富士夫や三年生の数人に向かってこう言った。

「中学生活の中で、歴史的な第一回定期演奏会をやるかどうかだ」

 

 それから三日経った。富士夫の脳裏には、『中学生活の中で、歴史的な第一回定期演奏会をやるかどうかだ』という二郎の放った言葉が、重くずーっと支配していた。

 この三日間、三年生たちの間では、暗黙のうちに演奏会をやろうという雰囲気が漂っていた。

 その日が来た。今日の練習曲は『祝典行進曲』である。萩原先生が音楽準備室から出て、いつもの中央に立ち、生徒たちを見渡した。

「練習に入る前に、この間話しをした独自の演奏会の件について、諸君の意見を聞きたいのだが、良いか?」

 全員に緊張が走る。

「多数決で決めたいと思うが、その前に何名か代表に意見を言ってもらおう」

 何名かが指名され、椅子から立ち上がって答えた。全て開催の意見であった。やがて、挙手を萩原先生から促されると、全員の手が挙がった。満場一致の賛成となったのである。

「ありがとう。諸君、嬉しいよ。しかし、皆に申し訳ないと思う気持ちもある。特に三年生たちには困難を強いることになるが、本当によろしくお願いしたい。いずれにしても、どうせ挑戦するなら金の思い出を作ってもらいたい」

 誰からともなく拍手が沸き起こった。上気した萩原先生の顔が、ブラスバンド部員たちにはいっそう輝いて見えた。

「では練習をする前に、音楽をやるものとしての一番大事なこと、心構えを簡単に話しておきたい。それは心で演奏しなければだめだということだ。テクニックだけでは、聞く人に深い感動や元気を与えることはできない。では心で演奏するということはどういうことかと言うと、自身の人間性を磨くことだ。人間性を磨くと言うことは、結論を先に言ってしまうが、周りの人に尽くすことが喜びである、という自分になることである。また、誰からも好かれる魅力ある人間に成長していくことなのだ。そのためにはあらゆる苦労を惜しまないことだ。苦労を何回も何回も乗り越えることだ。そういう人間が楽器を持って奏でると、実に豊な表現力で聞く人を虜にするものだ。だから音楽は人なりと言うのだ。諸君はこれから人生に出発する段階だから、まだ判らないかもしれないが、今は理解できなくとも、このことは忘れないで練習に励んで欲しい。以上、俺の持論はおしまい。それでは『祝典行進曲』の練習に入ろう」

 富士夫は目が覚めるような思いがした。富士夫の入部動機は、大勢の女の子に囲まれて楽しく時を過ごしたい、というのが一番であった。音楽の素晴らしい深さに触れたいなどとは、思い浮かぶことはなかった。

 また、トランペットを吹いている人のように脚光を浴びたい、というのが正直な富士夫の心なのであった。

 しかし、今日の萩原先生の言葉に、実に自分が浅はかであったか、打ちのめされる思いがしたのである。『音楽は人なり』という言葉が、しばらく富士夫の頭の中で暴れまわっていた。二郎や他のメンバーもそうだった。

 その日以来、ブラスバンド部員たちの練習に対する姿勢は、見違えるほど変わった。音楽に取り組む姿勢が、百八十度変わったことによって、技術も以前にもまして進歩のスピードを上げた。

 

 八月のある日、富士夫はブラスバンド部の練習を終えて帰宅すると、母が一通の手紙を何も言わず渡してくれた。急に恥ずかしい気がして部屋に引きこもると、高鳴る心臓を押さえながら出し主を確認した。案の定、待ち焦がれていた宮本文子からの手紙であった。富士夫の心臓はますます高鳴った。封をはさみで切り、数枚の便箋を開くと、その間から微かに押し花の匂いがこぼれた。

『富士夫さん、色々なお話をしてくれる方。何でも話せそうな方。そして、トランペットが本当に上手な方と尊敬しています。富士夫さんがソロの時は何時も聞き惚れていました。でも、でも、あまりにも突然に富士夫さんの気持ちを知り、とてもびっくりした、というのが今の私の偽らざる気持ちです。ですから私が富士夫さんの気持ちをすぐに受け入れるというのは・・・・・・。

 でも受け入れるために、多分少しずつゆっくり進んで行くだろうなと今は思います。私の心がこんなスローテンポな状態でも、いらいらせずにあなたは私を好きでいてくれますか。こんなこと言った瞬間に、何か大切なものが崩れ去っていくような気がするのです。私って本当はどうしようもない欲張りなのです。今のまま緩やかに生きていくことも好きだし、富士夫さんのような、自分にいつも素晴らしいことを教えてくれる人との交際を、始めることもいいかなって動揺しているのです。何度も言いますが私は欲張りです。凄く自分勝手なのですが、富士夫さん、こんな素直でない私に、今まで通り色々なことを教えていただけますか。これからもずーっと、ずーっと。でもこれだけは判ってもらいたいのです。今の私の心の中にある気持ちをそのまま書いているということを。私は富士夫さんが言うようにかわいくもありません。美しくもありません。そして、あなたと自由に語り合えるほど、豊富な知識も持ち合わせておりません。ただ、ちょっぴり誇れることは、ピアノが好きで、少しだけ弾けるということです。私の頭の中では、いつもメロディーが流れています。それは、海の大きな波であったり、とうとうと流れる小川のせせらぎであったり、湖畔の小さな波のささやきであったりします。また、ある時は激しい落雷であったり、全てが吹き飛ぶ嵐であったり、凍えて死ぬような吹雪であることさえもあります。富士夫さんが私のことを思ってくださることを、とっても感謝しています。二通目をもらったとき、今度は絶対にご返事をと、今日のピアノの練習を終えて、すぐに書き始めました。でもなかなか書けなくて、ここまでペンを進めるのに一時間半以上かかってしまいました。読めるような文章にはとってもなっていないと思います。ごめんなさい。今日中に投函します。今まで私の手紙を読んでくださって本当にありがとうございました。また、お逢いする日、お話しする日を楽しみにしています。では、さようなら。

   八月十日           宮本文子

 星 富士夫様

 

 追伸

 乱筆、乱文お許しください。富士夫さんはドビッシーの『海』をお聞きになったことがありますか?私の一番大好きな曲です。聞いたら、聞いていたら、感想を聞かせていただけますか。何十年後でも良いですから、聞いていなかったら聞いてください』

 富士夫は胸中からこみ上げてくる不思議な歓喜を、抑えるすべを知らなかった。しかし、その喜びに対して、懐疑のようなものが交差していた。だから喜びの涙が頬をぬらすことはなかった。むしろ簡単にハッピーエンドにならない現実を、深く噛み締めた、というのが目下の偽らざる心境である。

 何度も何度も読み返して、文子の真意を良い方向に解釈しようとしていた。立ちのぼってくる微かな押し花の香りが、希望そのものにも思えた。

 富士夫は少しだけ笑みを浮かべた。

 

 翌日も、富士夫はブラスバンド部の練習に出かけた。足取りはいつもより少しだけ軽快だった。文子の姿を見出したが、何故か気恥ずかしくて俯いた。

 練習を終えると、富士夫はトランペットを磨いてケースにしまうと、音楽準備室から出てきた。

 富士夫を待っていたかのように、ピアノのそばに文子は立っていた。富士夫の心と同じように、今日の文子は彼を直視できないようだった。他の生徒たちが数人いたが、いつもより寡黙な文子であった。

 しかしやがて富士夫は、いつもの文子の微笑を見いだした。少しはにかみながら、おずおずと顔が優しさに満ち溢れていった。

 二人の間には、言葉では言い尽くせない戸惑いと、逡巡とが漂いつつも、希望の淡い光も満ちていた。

 富士夫は今にも壊れそうな喜びと不安とが入り混じった感覚の中で、文子を思いっきり抱きしめたい衝動に駆られた。目を閉じても文子が好きだという感情は、瞼のうえに覆いかぶさるようだった。

『僕の気持ちを受け入れるために、少しゆっくり進んで行きたいという文子。手放しで愛を受け入れない文子だけど、こうして目の前にいる優しい顔を見ていると、どんな障害があっても必ず本当に僕を好きにさせて見せる』

 と富士夫は心の中で誓った。

 目を開けると、文子が富士夫をずっと見詰めているのが判った。

 文子の瞳は、一種の尊敬の眼差しと親しみを含んでいるようにも見える。富士夫は恥ずかしさのため、酔ったようにふらふらしながら、ピアノの周りを歩いた。

 と、その時、文子は突然ピアノの鍵盤の黒い蓋を開け、赤い布をさっと外すと、聞きなれた曲を弾き始めた。

 富士夫の体は動かなくなった。

   音楽室にグランドピアノの豊な音色が溢れ始めた。激しく、優しく、神々しく、文子は演奏を続けた。かつての時代の魂とも言うべき愛の名曲を、文子は弾いた。

 富士夫は、額に微かに汗を滲ませた文子の一心不乱な美しい演奏の姿に見とれているうちに、いつの間にか心が落ち着いてくるのが判った。

『僕は間違っていない。文子は、僕を一瞬のうちに恍惚感に酔わせてしまうほど美しい。好きにならずにはいられない。それに、文子の素晴らしさを言葉で表現するのは難しい。いや言葉はいらない』

 と富士夫は思った。

 文子が演奏するベートーベンが作曲した『エリーゼのために』という愛の曲は、富士夫の心を揺さぶった。文子と富士夫の、本当の恋の始まりを象徴する曲なのかもしれない。

 

 文子のピアノが終わった。富士夫の瞳には、にっこりと笑った文子の表情が写っていた。


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悲恋の曲『エリーゼのために』

 関川村が夏の行事で活気を帯びてきた。お盆の時期に、唯一の村人たちの楽しみは、夏祭りである。平凡で静かな村人たちが、燃え立つような激しく強い感情をあらわにする祭りである。荒川に架けられた橋から打ち上げられる花火、そして仮想盆踊り大会、みこしを担ぐ風景が、この時期に、狭い村のあちこちで繰り広げられる。

 昼間の焼き付けるような日差しと打って変わって、爽やかな夜風が村を吹き抜けていくと、村人たちは開放的な気分に覆われる。

 浴衣姿の若い男女や家族連れが、下関の神社の参道に並んだ夜店にやってくる。今日はこの地区の祭りだった。村で一番規模の大きい祭りで、昼間に神輿担ぎなどが行われた後、裸電球に照らされた夜店が、訪れる人々の目を楽しませていた。

 

 富士夫が待ち合わせ場所にしばらくたたずんで、ぼうっと暗闇を見ていると、文子は白い布地に紫の花をあしらった浴衣姿で、こちらに歩いてくるのが見えた。昨日、勇気を振り絞って掛けた電話の向こうで、文子は祭りに一緒に行くことを快諾したが、本当に来るか心配であった。実際に現れると富士夫はどぎまぎした。幾分何かに憑かれた者のように目をぎらぎらさせながら、心の中で『文子』とつぶやいた。富士夫の心は焼けつくようだった。

 富士夫と文子は、夜店が立ち並ぶ神社の参道を歩き始めた。富士夫の顔見知りの同級生が、遠くから手を振って、冷やかすようなそぶりを見せる。

 にやにやと笑っている浴衣を来た少女たちが、ぎこちない二人を好奇の目で見詰めている。

 富士夫は神社のそばまで行くと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「ちょっと祈ってみる」

 文子は突然の申し出に、不思議な顔をした。富士夫はかまわず十円玉を幾つか賽銭箱に投げ込んで合掌した。

 富士夫が何故いきなり合掌したのか理解できなかった文子だが、彼女も巾着の財布から小銭を出して投げ込むと合掌していた。

『高専に合格しますように。十一月末の第一回定期演奏会を、ぜったいに成功させたい。そしてもう一つ大事なこと、どうぞ文子が僕を本当に愛してくれますように』

 目を開けた時、富士夫は妙に恥ずかしい気がした。その時、さっと強い風が境内の中央を吹き過ぎていった。境内の中央に設置した盆踊り用の屋台を、揺さぶっていったような気がした。

『この神様は、僕の願いを聞き入れたと合図したのかな?』

 と富士夫は思った。

 と次の瞬間、文子が富士夫の顔を見ながら、思いがけなくも滔滔と話し出した。

「富士夫さん。少し私も進歩しましたわ。こんなかわいくない私を好いてくれる先輩のことを、だんだんと受け入れられるようになったと思います。お手紙を毎日何度も何度も読み返しているうちに、最初に読んだときに感じたことに間違いがないことを確信したの。それは私の感覚と似たところがあるということです。じゃあそれは何、というと言葉では表現できないけども、やっぱり感性の相性だと思うの。今まで生きてきて、その感性が合う人と言えば、富士夫さん以外には見当たりません。だからもっともっと富士夫さんのことが知りたいの。そのことを今日は絶対に言おうと思って逢いに来たの」

 文子の目がひときわ輝いているように富士夫には見えた。カメラが被写体を追いかけるように、恥ずかしくてうつむいたりする富士夫の目を、瞬きもせずに見ている。

 文子の眼差しは、富士夫の目の前でピアノを弾いた時より、恋焦がれた男に出逢った少女のように、思いつめた輝きを持っていた。

「ありがとう。そんなすごいことを言ってくれるなんて想像してなかった。嬉しいよ」

「この間の手紙で、私、本当は欲張りって言ったでしょう。でもよくよく考えてみると、動揺していることの照れ隠しです。でも凄く自分勝手なところもあるから、富士夫さん、本当に私でいいのかな。かわいくもないし、美しくもありません。そして、富士夫さんほど本も読んでいないし」

「いいや、文子さんは世界一すてきで、おしとやかで、賢くて、ピアノの演奏も最高だよ」

 富士夫は、思いがけないほどすらすらと、いつも思っていることを言いながら、心臓が破裂しそうなほどどきどきしているのを感じていた。顔がどんどん紅潮していくのが判った。それでも、大好きな天使の文子を、見詰めることは止めなかった。

「そんなに褒められると、恥ずかしいわ。褒めていただいてありがとうございます」

「いいや、嘘じゃないよ。本当のことだから何度でも言うよ。文子さんはかわいいよ」

 文子は耳の付け根まで赤くなるほど赤面をした。富士夫も恥ずかしくて目を伏せた。

「この間、『エリーゼのために』を弾いてくれたけど、どんな気持ちだったの?」

「ベートーベンが作曲した『エリーゼのために』は、ポピュラーな曲だけど、結構演奏する人によって印象が変わると思います。そうね、簡単そうに見えるけど、初心者だったら多分習得するのに二、三年はかかるかしら。この愛の曲は、本当は男性の天才ベートーベンの思いが旋律になっているそうよ。最初のところは、男性の切ないため息が聞こえてきそうです。そして募る思いとなり、かわいいエリーゼよとなっていくの。そして、苦悩となり、最後は散ってしまうような曲だと私は思います。切ない思いの曲です。だからこの曲を弾くと、男の人がどう女性を慕うのか手にとるように判って、心が破裂するような思いがするのです。自分で演奏しているうちに、富士夫さんの私への強い思いが本当によくわかったような気がするの。だから、私はあなたの思いを曲で改めて表現してみたの。富士夫さんの気持ちが判ったわと。だから、悲恋を弾いたことによって、私は富士夫さんのことを理解して受け入れるわ、という意味なのです」

 富士夫は初めて『エリーゼのために』の曲の意味を知るとともに、彼女の深い思いに気づいた。片思いではないのだ、ということに涙が出そうになった。

 その時、盆踊りの準備の屈強な若者たちが境内に入ってきた。

 富士夫は文子を促して、今来た参道の出口に向かって歩き出した。富士夫は今文子が話したことを反芻していた。反芻しているうちに、何故か確信や自信みたいなものが、体内から湧き上がってくるような気がした。しかし、その自信と裏腹に、横を歩く文子の存在に動悸がして、また顔が赤らむのが判った。文子の下駄が、石畳を踏みしめるたびに乾いた音が聞こえたが、その音が話しかける言葉をさえぎるような気さえした。

 夜店が立ち並んでいたが、もう季節外れの感がある透き通った丸いガラスの風鈴のある店の前で、文子は立ち止まった。白熱電球に照らされたその風鈴の一つを眺めながら、時々その長い白い指で突付いて、小さな打楽器の高音を楽しんでいるかのようだった。風鈴を所狭しと陳列している夜店の照明用発電機の音に、その繊細で高い音はかき消されてしまうかのようだが、富士夫には、すぐ耳のそばで文子が風鈴を鳴らしているのがはっきりと聞こえている。   

「富士夫さん。私、風鈴の音が大好き。ピッコロの高音も好き。どちらも軽やかな音だけれども、聞く人の心を晴れやかにするわ。だから、ピッコロもピアノと同じようにもっともっとうまくなりたい」

「だんだんと上手くなってきているよ。いつも文子さんの奏でる音が、練習のときに輝いている」

「褒められると嬉しいわ」

 文子は天使のように微笑んだ。白熱電球の照明のもとで、富士夫には文子が愛しく思えた。

 富士夫と文子は、風鈴のお店や玩具のお店などをのぞいては、お互いの顔を見ながら、ブラスバンド部の話に興じていた。

 金魚すくいのお店に来ると、小柄な倫子に二人は出会った。富士夫と文子が連れ立ってお店をのぞいていることに気づいて、近付いてきたのだ。少し顔を曇らせている。

 倫子は文子と仲が良かったので、何事もなかったように笑っているが、心配事があるようだ。

「どうしたの倫ちゃん?」

 文子が聞くと、

「なんでもないわ」

 といつものように小さな白い歯を見せて笑った。

「それなら良かった。一緒に歩こうか」

「いいわよ。せっかくお二人で歩いているのだから。邪魔しないわよ。今日はデートでしょう?」

 と言いながら、倫子は顔を赤らめて、恥ずかしそうに微笑んだ。文子は倫子の素振りに、富士夫のことが好きだ、ということを直感的に悟った。

 富士夫は、そんな文子と倫子の心の動きを、その時は知る由もなかった。

 文子と倫子の間で、差しさわりのない言葉が交わされると、すぐに倫子と富士夫たちは別の方向に歩き出した。

 富士夫と文子はそれから一時間ほど散策しながら話していると、もう帰る時間が来ていた。富士夫は自転車を引きながら、文子の自宅の側まで送った。

「じゃあ、また明日練習でがんばろう」

 と富士夫が手を振って自転車に跨った。

「今度の合宿楽しみね。練習きついけど」

 文子は暗闇の中で小さく手を振った。荒川からのさわやかな風が、文子の髪の毛を揺らした。

 

 その日の富士夫の日記には次のように書かれていた。

『おお魂よ!僕の魂は何処へ行くのか。僕の生きるための血となり糧となりえる文子は、目の前に現れた。嗚呼、僕の太陽である文子よ、その魂の力で癒しておくれ。暖かな光よ、限りなきその慈愛で寂しい僕の胸を覆ってくれ。僕の愛する少女は、今窓辺にたたずんでいるのだろうか。僕の気持ちが判ったと話してくれたあのさわやかな勇気。悲恋を弾いたことによって、僕のことを理解して受け入れると言ってくれた。何という奇跡の少女なのだろうか。僕は今日、激しい心の喜びのために、天空に浮かんでいるようだった。少女の話す穏やかな優しい言葉を聞くと、喜びで胸が苦しくなった。今までは観念の中で、あなたが好きだ、あなたが好きだ、と叫びながらさまようところは夢の中だった。でもこれからは違う。夢は現実のときめきに変わった』


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