前
「パパの名前は、エリオット・ハーヴェイ。科学者よ。前にレインボーメロディっていうおもちゃ流行ったでしょ。マイクを持って歌うと、マイクの先からメロディーに合わせて色とりどりの光が出てきて踊るの。オーロラみたいにね。あれはパパが開発したのよ。……そんなことより世間の人は、昨夜のニュースを思い浮かべるでしょうね。パパの名前は、エリオット・ハーヴェイ。昨夜、地下鉄の駅で殺されたわ」
少女は静かに語った。雑居ビルの一室にある事務所に突然現れ、用件を尋ねた男を冷めたブルーアイで見ながら。癖のない金髪を肩に垂らして、フレームの太い黒縁の眼鏡をかけた少女は、姿勢をピンと伸ばして、綿のはみ出た黒革張りのソファに腰掛けていた。ブレザーにネクタイとボックスプリーツのスカートを崩すことなく着こなしている。胸の校章は有名私立学校のものだ。それだけで、私は世間知らずです、と言われている気がする。彼女の目の前、ローテーブルの上で、マグカップ入りのブラックコーヒーが静かに湯気をあげていた。
「それは、お気の毒に」
少女の向かいのソファに座った男は、肩をすくめてみせた。
「ありがとう。でも、私はお悔やみを言ってほしくてここに来たんじゃないの。ミスター・グラント・ロウズ?」
「なに……ああ、外のプレートを見たのか」
「ええ、「グラント・ロウズ探偵事務所」でしょう、ここは」
「ロウズは一緒に事務所を開いた友人の名前だ。俺はジェディディア・グラント」
あら、と少女は少しだけ驚いた顔をする。
「ごめんなさい。わたしてっきり、あなたのお名前だと思って」
この部屋に似合わない少女はどこか人形めいていて、ジェディディアにはその仕草もわざとらしく感じられた。
「嬢ちゃん」
「リリー・ハーヴェイよ」
「リリー、お嬢さん。こんなダウンタウンの、ギャングまがいの探偵事務所は、お嬢さんの来るところじゃないし、俺はあんたが来た用件を聞きたくなくなった」
男は尻のポケットからくしゃくしゃになったマールボロの赤い箱を取り出すと、煙草を取り出して口にくわえる。テーブルの上に放り出してあったライターで火をつけた。じりじりと煙草の焼ける音がする。
「私、犯人を見つけたいの。パパが死んだ真相が知りたいのよ」
少女は煙をゆっくり吸い込む暇も与えてくれない。男は溜息といっしょに、口の中にたまった煙を吐き出した。
「用件は聞きたくないと言ったはずだし、犯人探しは警察の仕事だ」
「でもあなたは探偵でしょう。探偵は依頼があれば犯人調査もするはずよ」
「俺は浮気調査とか人探しとかが主な仕事だ。たまにストーカー対策なんかもやるが。どんな業種の仕事でも、専門にしてるものがあるもんだ。何より、どんな依頼が来ても、受けるかどうかは俺の裁量だ」
「そう、残念」
今度は少女が肩をすくめて見せた。ジェディディアの少女の印象に、ひとつ書き加わる。したたかな、と。ジェディディアは今度こそ煙草の苦い煙で肺を満たして、苛立ちを抑えようとした。
少女はマグカップを両手で持ち上げ、男が出した泥沼のようなブラックコーヒーに口をつける。誰に出しても、まずいと顔をしかめられるコーヒーを、少女はすました顔で飲んだ。
「どちらにしても、すぐにこの部屋を出た方がいいと思うわ。私きっとここに入るところ見られていたから」
「……なんだって?」
「パパが殺されたの。パパは政府に軍事技術の協力をしていたわ。私も見張られていたの。だから」
「いい加減にしろ!」
突拍子もないことを言いだした少女に、ジェディディアは少女を怒鳴りつけていた。男の唐突な大声に少女は体をこわばらせて、カップのコーヒーが踊った。少女は眉をしかめ、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。それから静かにマグカップを置いて言う。
「突然大きな声を出さないで。下品よ」
怯んだように見えたが、そうではなかったようだ。
階段を上がってくる乱暴な足音が聞こえて、ジェディディアは舌打ちした。次いで、ドアを乱暴にノックする音が響く。
「出ないほうがいい」
少女は静かに彼を見た。
「あんたは黙って座ってろ。さもなくば帰れ」
ジェディディアは煙草を咥え、息を深く吸い込んで肺を煙で満たすと、テーブルの上の灰皿に煙草を押しつけた。唇の端から細く煙を吐き出しながら、腰の後ろ、ジーンズに挟んでいた銃を取り出し、両手で構えてドアの脇に立った。少女の警告を信じるわけでもないが、珍客の直後にやってくるものを警戒して損はない。
「誰だ?」
「グラント。いるんだろ?」
木製のドアの向こうから高圧的な声がする。ジェディディアは眉間にしわを寄せた。
「だから、誰だって聞いているんだが」
「いいから開けろ。開けないならこじ開けるぞ」
何だと、と言い返す間もない。
「離れて!」
少女が叫んだ。あまりの剣幕に、ジェディディアはとっさにドアから離れ、さっきまで自分が座っていたソファの上にダイブした。
カツン、と音がする。刹那、爆音が響いて、ドアが吹き飛んだ。ジェディディアは爆風でソファから転げ落ち、ローテーブルで頭をしたたかに打った。
「グレネード!?」
あり得ない。爆音で耳がやられて、わめいた自分の声もどこか遠かった。訳がわからない。だが頭の痛みも、耳の痛みも、粉微塵のドアも、綿が半分吹き飛んだソファも幻ではない。硝煙の臭いが鼻をつく。目が回るのをこらえ、ローテーブルに手をついて、体を引き上げるようにして立ち上がった。
「来い、早く!」
少女はソファの上に倒れていたが、怪我をしている様子はない。少女の腕をひったくるように掴んで引き起こし、隣室に駆け込む。自宅に使っている部屋の奥の、錆びついて堅い窓を力任せに開け、少女をビルの四階の窓から外に押し出した。
金属音を響かせて少女のローファーが非常階段に着地する。続いてジェディディアが飛び出した頃、ドアの破片を蹴散らして侵入者が家に入りこんだようだった。
「走れ!」
言われるまでもなく少女は駆けだした。錆び鉄の臭いが漂う非常階段を駆け降りていく。武骨な鉄材を踏みつける堅い音が反響する。
二階ほど下ったところで上から声が聞こえて、ガシャンと重い音がこだました。侵入者が非常階段まで追ってきた音だ。逃がしてくれる気はないようだった。急がないと追いつかれる、思うと同時に、銃撃音が降ってきた。跳弾して火花が散る。当たりはしないが、身を固くした少女をかばいながら、ジェディディアは下を見遣った。非常階段は地面まで続いてはいない。地面へ続く梯子は手動で下さなければならないが、そんな余裕などない。
「跳べ!」
ジェディディアの声に、少女も今度は少し躊躇した。ジェディディアは舌打ち一つ少女を抱えるようにして、鉄骨を蹴りつけ、今度は地面に向かってダイブした。
着地した脚に鈍い衝撃が奔るが、気にしている場合ではない。少女を引っ立てて逃げようとしたが、ジェディディアはジャケットの袖を掴まれ引きとめられた。
「待って、眼鏡を落とした!」
「そのくらい後で買え!」
「だめよ!」
馬鹿か!
「行け!」
心中で叫んだのとまったく違う言葉を叫び舌打ちしながら、ジェディディアは少女を押しやり、少し離れたところに転がっていた黒縁眼鏡を拾い上げた。同時に数センチ先の地面を銃弾が穴を開け、ひやりとした感覚がそこから這い上がってくる。ジェディディアは地面を掌で押しのけるようにして立ち上がり、駆けだした。
少女が少し先を走りながら、ジェディディアを振り返っている。馬鹿か、振り返ると塩の柱になるんだぜ。心の中で再度舌打ちしながら、ジェディディアは叫んだ。
「走れ!」
銃弾が地面に穴を明ける音が追いかけてくる。
死に物狂いで走り、路地を抜け、追手がないのを確認して、ジェディディアは逃げるのをやめた。必死に後をついてきていた少女は、足を止めた彼にぶつかり、よろけてから止まった。お嬢さまにはきつい運動だったかもしれない。
道端にたむろする少年たちが、彼らを不審そうに見ている。
「ほら」
ジェディディアはぶっきらぼうに、眼鏡を少女に差しだした。握りしめて走っていたから、フレームがゆがんでいるかもしれないとは思ったが、口にしなかった。
「ありがとう」
少女は素直に礼を言い、眼鏡を受け取った。彼女は嬉しそうだったが、ジェディディアは眼鏡をかけた少女の違和感に気付く。
「おい、レンズにひびが入ってるぞ」
「問題ないわ。伊達なの」
少女は平然とした顔で言った。
「お前、そんなものを取りに行かせるな」
「でもパパのプレゼントだから」
娘に伊達眼鏡を送る父親か。今度は少しあきれる。命を狙われるような親子だ、変装用かもしれないが。
「いいか、俺は絶対に、お前の依頼なんて請けないからな。俺に二度と近寄るな。あ、いや、家の修理費だけは後で請求させてもらうからな」
言い捨てて、背中を向けたジェディディアに、少女は追いすがる。
「待って。報酬はあなたのほしいだけ用意できると思うから、手を貸してほしいの」
「探偵は何でも屋じゃない」
ジェディディアは足を止めずに、大股で歩いていく。追いつこうとして少女は小走りになった。
「何でも屋でしょう」
「犯人探しもボディーガードも調査業に含まれない」
突然爆撃されたり銃で撃たれたり冗談ではない。
「あなたは、ダウンタウンのギャングまがいの探偵でしょう。銃だって扱えるんでしょう」
「それとこれとはまったく別の話で、依頼をうけるかどうかは俺の裁量だと言ったはずだ」
「でもきっと、あなたは私に協力していると思われたわ」
ジェディディアは、再び足を止めた。勢い余って少女はまた彼の背中にぶつかる。眉間にしわを寄せ、ジェディディアは少女を見下ろした。
「ハメたのか?」
「なりゆきよ」
少女は平然と言う。懇願しているのかと思いきや、そんなかわいげはまったくなかった。最初はすましたお嬢さまだと思ったが、なんともしたたかな娘だ。
「わたしのパパは殺されたの。犯人を探したいの。わたしには、あなたしか手掛かりがないの」
「……なんだと?」
ジェディディアは今度こそ、少女に向き直る。
手掛かり、と少女は言った。
しかめっ面をして見る彼を、ひび割れたレンズの奥の冷めた瞳が見返してくる。静かな水のような青い瞳は、なんとも強情だった。
ジェディディアはただただ溜息をつく。フェイクレザーのジャケットを脱いで、少女にかぶせた。
「とりあえずその目立つ制服を隠せ」
少女の返事など待たずにさっさと歩きだす。
「情報を持っていそうな奴のところにいく」
ごみごみとした街並みを人目を避けて歩き、ビルの一階に入っているコーヒーショップのドアを開ける。ドアにつけられた鐘が間の抜けた音で鳴った。ふわりと濃いコーヒー豆の匂いが中から溢れてくる。
「おい、カーター」
カウンターとテーブルが三つのみの狭い店だ。ジェディディアが呼び掛けると、カウンター脇でコーヒーを飲んでいた店主らしき男が顔をあげた。
「ジェッドか!? ……ん?」
顎鬚を生やした黒髪の男は跳ねるように立ち上がり、その拍子にコーヒーを自分の手にこぼして、あちいっと大声をあげた。コーヒーカップを放り出してしまい、ガチャンという音が店内に響き渡る。だが男の目は火傷をした手でも、コーヒー染みを作った白いシャツでも、割れたカップでもなく、少女を凝視している。
「リリー・ハーヴェイ!」
ジェディディアが眉をしかめてカーターを見やると、男は間近にあった14インチのブラウン管テレビを指さしてわめいている。
「お前、これ見ろ!」
エリオット・ハーヴェイが地下鉄の駅で殺されたことについてのおなじみのニュースだった。地下鉄で帰宅しようとした時にチンピラにからまれて銃殺された状況、開発した商品などについての説明、FBIによる捜査が行われていること、ジェディディアも把握している状況に加えて、思いもよらない一言をキャスターが付け加えた。
「ハーヴェイ氏の娘で17歳の少女が行方不明となっています。何らかの事件に巻き込まれた可能性があり、こちらもFBIが全力をあげて捜索中です」
「FBIだと? なんでこんな事件にFBIが動く」
無表情のキャスターに向かってジェディディアがつぶやく。そして、カウンターに片腕を寄せて立っている少女を見遣る。行方不明だなどと、ピンピンしてここにいる。そのジェディディアの肩を掴んで、カーターがものすごい剣幕で怒鳴った。
「お前、まさか誘拐したのか!」
「するわけないだろう!」
反射の勢いでジェディディアが言い返す。
「ちょっと、ちょっとこっち来い」
カーターは彼の腕をひっつかんで少女から離れると、声をひそめて詰った。
「お前、勝手に持ち場を離れて何やってたんだ。携帯くらい出ろ。請けた仕事はきっちりこなせ。仲介した俺のメンツに関わる」
詰る彼の言葉にジェディディアは唇を歪めたが、低い声で応えた。
「悪い」
「レイエスがカンカンだぞ。ギャングを怒らせるなよ!」
カーターが叫んだとき、トントントンと、ノックのような音が聞こえた。少女が、人差し指で木のカウンターテーブルを叩いている。ピンと背筋を伸ばして男たちを冷やかに見やる姿は、生徒の私語をいさめる教師のようだ。
「目の前で内緒話はやめてほしいわ。失礼だし、意味がない」
「意味がないって?」
カーターは軽薄な唇をゆがめて笑った。
「さすがサイボーグ。密談も意味がないか」
「大声でわめいてたくせに、それで密談のつもり?」
少女の言うことには一理ある。だがそれよりもジェディディアは、カーターの言った場違いな言葉にひっかかった。
「サイボーグ?」
少女はジェディディアを見た。冴え冴えとした目は、かえって彼女の怒りを示していた。
「どこかの馬鹿者は、パパが私の頭に、貴重な技術を詰め込んでると思っているの」
カーターは肩をすくめて見せる。からかうような仕草にも、少女は変わらない調子で続けた。
「私、生まれつき難聴で、頭にインプラントを入れているの。三歳の時に手術して人工内耳を入れたそうよ。だけど、人が多い場所では聞き取りにくいし、音楽もあまり楽しめないの。だからパパは私のために、音楽が目に見えて楽しめるおもちゃを開発したし、人工内耳を小型改良化していった。普通、人工内耳は完全に聞こえるほどに補正してくれるものではないのですって。体外装置も必要だけど、私の場合はすべて体内に埋め込んで他の人と変わらない見た目になったし、普通の人工内耳よりもすばらしく聞こえがいいらしいの。おかげで私は、今はほとんど不自由なく聞こえる生活が出来てる」
思いもかけない話をされて、ジェディディアはひるんでしまった。カーターの言いだすことといい、少女の言うことといい、話が突飛でどこに飛んでいくものか、予想もつかない。この少女が事務所にやってきたときから。いや、それ以前から。
「それは、分からなかった」
すまない、と言いかけたジェディディアを、少女は「やめて」と厳しい声で止めた。ティーンの少女に叱られて、ジェディディアは少し罰が悪い気持ちのまま、話を続けた。
「エリオット・ハーヴェイって何者なんだ」
「言ったでしょう。パパは軍に協力していた。音響工学の物理学者よ。主に電気音響工学をやっていたわ。パパが国に協力していたのは、開発費や設備や私の手術代のためだった。私のために研究開発されたものは、軍事利用のために応用されていったわ。ナノテクノロジーを利用したインプラントの内耳。聞こえる人に埋め込んで、諜報活動に役立てたり。詳しいことは機密だから知らないけれど。パパは何かトラブルに巻き込まれていた。気付いていたけど、パパが何も言わないから黙っていたの」
そんな人間が殺されれば、深夜の地下鉄に巣食うチンピラが犯人だろうとも、真相をはっきりとさせるためにFBIが動くこともあるかもしれない。そんな男が殺されて、娘がいなくなればニュースにもなるだろう。FBIが動いた真意はむしろそちらかもしれない。
「あんたはなんでこんな町に来たんだ。ニュースになってまで、何をしたいんだ」
「ジェッド!」
カーターが苛立った呼ぶ。だがジェディディアは腕を振って、黙るようにと睨みつけた。それから少女に向き直る。
「このままあんたを連れまわってたら、俺は本当に誘拐犯だ」
「パパが殺されたとニュースで見たの。私は心当たりがあったから、それを追って家を飛び出して、そのまま誰にも連絡してない」
「そういうのは警察に頼れ」
「FBIならうちに来たわ。わたしを護衛するって言ってた。でも、どうしてパパが死なないといけなかったのか、本当のことは警察にもFBIにも分からないわ。分かったとしても、わたしには教えてもらえないの!」
少女が叫んだ。したたかに冷静にふるまっていた少女が感情をあらわにしたのは初めてで、ジェディディアは面喰ってしまった。
だが当然だ。
彼女は父親を殺されたのだ。
ジェディディアは、悪い、とつぶやく。今度は、少女は止めなかった。強くジェディディアを見て言った。
「パパは何かトラブルに巻き込まれていた。気付いていたけど、パパが何も言わないから黙っていたの」
「ジェッド! 悪いことは言わない、今あの娘を置いて出ていくか、ボスに引き渡せ」
カーターがしびれを切らしたようすで、大声で割って入った。
「エリオット・ハーヴェイが死んだときに、その娘を捕まえて連れてくるようお前に指示がいったはずだろ。今ならまだ間に合う。まさか情が移って、逃がすつもりで連れ回してたわけじゃないだろう」
「俺だって好きで連れ回したわけじゃない。この嬢ちゃんが俺のところにいきなりやってきたと思ったら、どっかの誰かが俺の家を爆破したんだ!」
「だから、勝手なことをしているとボスに殺されるぞ!」
怒鳴りつけたカーターに、ジェディディアは口を閉ざした。奇妙な沈黙の中、店の窓ガラスの向こう、舗装の悪い道を、ガタガタと揺れながら車が走っていく。
「お前が、エリオット・ハーヴェイを殺したのか?」
「違う。殺したのは、俺もお前も面識のねえチンピラだ」
意味深な言葉に、ジェディディアは片眉を吊り上げた。
「お前、まだ何を知ってる」
カーターは、口を閉ざした。それから一呼吸つき、唇の端を吊り上げて笑った。
「言うとでも思ったか? そこから先はお前みたいな下っ端の領分じゃないぜ」
ジェディディアは舌打ちをする。確かにその通りで、その上金にならなければカーターはものすごく口が堅い。
「探偵さん、ここを出たほうがいい」
突然少女が言った。はあ? とカーターは不審そうに少女を見ているのを横目に、ジェディディアは思わず身構えた。窓ガラスの外を見遣るが、異変は見当たらない。だが、先刻も少女の警告がまずあったのだ。どちらにしても妙な襲撃を受けた以上、一か所にとどまらないほうがいい。
「表から出ないほうがいいわ」
ジェディディアの元に駆けよりながら少女が言った。
「そうだな」
勝手知ったる調子で、店の奥に踏み入ろうとしたジェディディアの腕を、カーターが掴む。
「ジェッド、待て!」
振り返るジェディディアに、細く整えた眉を吊り上げて、カーターは強く言った。怒鳴るわけではないが、強く。
「お前本気でいつか死ぬぞ。相棒みたいに!」
事務所を開いたばかりで、無茶をして身の丈に合わない仕事を受けて、ギャングの闘争に巻き込まれて死んだ相棒の姿が脳裏によぎる。
「その時は、その時だ。俺は相棒が死んだときに、人は殺さないと誓った」
「そんなんだからお前は、ちまちました仕事で小銭を稼ぐしかできないんだよ!」
「それが悪いと思ったことはねえ!」」
ジェディディアが怒鳴ったときだった。ガシャンとガラスの割れる音がした。
今日二度目の嫌な予感に、ジェディディアは少女を抱え込んで、カウンターの後ろに飛び込む。瞬間送れて、音と閃光が弾けた。爆風とカウンタテーブルの上にあった物が降り注いでくる。
「閃光弾 か!」
テロリストなどをひるませて鎮圧のために使う音響閃光弾だが、間近で爆発すれば死ぬこともある。こんな狭い室内で使えば小爆弾と変わらない。追ってくる奴は、少女を捕まえたいのか殺したいのかよく分からない。
「ちくしょう、むちゃくちゃしやがって!」
鼓膜がしびれたようになって、耳鳴りがひどい。まわりの音も自分の声すらも聞こえない上に平衡感覚もない。カウンタの後ろに伏せていたおかげで幾分かましだが、閃光で目もやられている。
ふいに手を強く掴まれて、ジェディディアは顔をあげた。警戒して振り払おうとしたが、それ以上に強く握りこまれた。細い指で、少女の手だと分かった。
ジェディディアは少女に引っ張られるまま、走り出した。
少女は静かに語った。雑居ビルの一室にある事務所に突然現れ、用件を尋ねた男を冷めたブルーアイで見ながら。癖のない金髪を肩に垂らして、フレームの太い黒縁の眼鏡をかけた少女は、姿勢をピンと伸ばして、綿のはみ出た黒革張りのソファに腰掛けていた。ブレザーにネクタイとボックスプリーツのスカートを崩すことなく着こなしている。胸の校章は有名私立学校のものだ。それだけで、私は世間知らずです、と言われている気がする。彼女の目の前、ローテーブルの上で、マグカップ入りのブラックコーヒーが静かに湯気をあげていた。
「それは、お気の毒に」
少女の向かいのソファに座った男は、肩をすくめてみせた。
「ありがとう。でも、私はお悔やみを言ってほしくてここに来たんじゃないの。ミスター・グラント・ロウズ?」
「なに……ああ、外のプレートを見たのか」
「ええ、「グラント・ロウズ探偵事務所」でしょう、ここは」
「ロウズは一緒に事務所を開いた友人の名前だ。俺はジェディディア・グラント」
あら、と少女は少しだけ驚いた顔をする。
「ごめんなさい。わたしてっきり、あなたのお名前だと思って」
この部屋に似合わない少女はどこか人形めいていて、ジェディディアにはその仕草もわざとらしく感じられた。
「嬢ちゃん」
「リリー・ハーヴェイよ」
「リリー、お嬢さん。こんなダウンタウンの、ギャングまがいの探偵事務所は、お嬢さんの来るところじゃないし、俺はあんたが来た用件を聞きたくなくなった」
男は尻のポケットからくしゃくしゃになったマールボロの赤い箱を取り出すと、煙草を取り出して口にくわえる。テーブルの上に放り出してあったライターで火をつけた。じりじりと煙草の焼ける音がする。
「私、犯人を見つけたいの。パパが死んだ真相が知りたいのよ」
少女は煙をゆっくり吸い込む暇も与えてくれない。男は溜息といっしょに、口の中にたまった煙を吐き出した。
「用件は聞きたくないと言ったはずだし、犯人探しは警察の仕事だ」
「でもあなたは探偵でしょう。探偵は依頼があれば犯人調査もするはずよ」
「俺は浮気調査とか人探しとかが主な仕事だ。たまにストーカー対策なんかもやるが。どんな業種の仕事でも、専門にしてるものがあるもんだ。何より、どんな依頼が来ても、受けるかどうかは俺の裁量だ」
「そう、残念」
今度は少女が肩をすくめて見せた。ジェディディアの少女の印象に、ひとつ書き加わる。したたかな、と。ジェディディアは今度こそ煙草の苦い煙で肺を満たして、苛立ちを抑えようとした。
少女はマグカップを両手で持ち上げ、男が出した泥沼のようなブラックコーヒーに口をつける。誰に出しても、まずいと顔をしかめられるコーヒーを、少女はすました顔で飲んだ。
「どちらにしても、すぐにこの部屋を出た方がいいと思うわ。私きっとここに入るところ見られていたから」
「……なんだって?」
「パパが殺されたの。パパは政府に軍事技術の協力をしていたわ。私も見張られていたの。だから」
「いい加減にしろ!」
突拍子もないことを言いだした少女に、ジェディディアは少女を怒鳴りつけていた。男の唐突な大声に少女は体をこわばらせて、カップのコーヒーが踊った。少女は眉をしかめ、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。それから静かにマグカップを置いて言う。
「突然大きな声を出さないで。下品よ」
怯んだように見えたが、そうではなかったようだ。
階段を上がってくる乱暴な足音が聞こえて、ジェディディアは舌打ちした。次いで、ドアを乱暴にノックする音が響く。
「出ないほうがいい」
少女は静かに彼を見た。
「あんたは黙って座ってろ。さもなくば帰れ」
ジェディディアは煙草を咥え、息を深く吸い込んで肺を煙で満たすと、テーブルの上の灰皿に煙草を押しつけた。唇の端から細く煙を吐き出しながら、腰の後ろ、ジーンズに挟んでいた銃を取り出し、両手で構えてドアの脇に立った。少女の警告を信じるわけでもないが、珍客の直後にやってくるものを警戒して損はない。
「誰だ?」
「グラント。いるんだろ?」
木製のドアの向こうから高圧的な声がする。ジェディディアは眉間にしわを寄せた。
「だから、誰だって聞いているんだが」
「いいから開けろ。開けないならこじ開けるぞ」
何だと、と言い返す間もない。
「離れて!」
少女が叫んだ。あまりの剣幕に、ジェディディアはとっさにドアから離れ、さっきまで自分が座っていたソファの上にダイブした。
カツン、と音がする。刹那、爆音が響いて、ドアが吹き飛んだ。ジェディディアは爆風でソファから転げ落ち、ローテーブルで頭をしたたかに打った。
「グレネード!?」
あり得ない。爆音で耳がやられて、わめいた自分の声もどこか遠かった。訳がわからない。だが頭の痛みも、耳の痛みも、粉微塵のドアも、綿が半分吹き飛んだソファも幻ではない。硝煙の臭いが鼻をつく。目が回るのをこらえ、ローテーブルに手をついて、体を引き上げるようにして立ち上がった。
「来い、早く!」
少女はソファの上に倒れていたが、怪我をしている様子はない。少女の腕をひったくるように掴んで引き起こし、隣室に駆け込む。自宅に使っている部屋の奥の、錆びついて堅い窓を力任せに開け、少女をビルの四階の窓から外に押し出した。
金属音を響かせて少女のローファーが非常階段に着地する。続いてジェディディアが飛び出した頃、ドアの破片を蹴散らして侵入者が家に入りこんだようだった。
「走れ!」
言われるまでもなく少女は駆けだした。錆び鉄の臭いが漂う非常階段を駆け降りていく。武骨な鉄材を踏みつける堅い音が反響する。
二階ほど下ったところで上から声が聞こえて、ガシャンと重い音がこだました。侵入者が非常階段まで追ってきた音だ。逃がしてくれる気はないようだった。急がないと追いつかれる、思うと同時に、銃撃音が降ってきた。跳弾して火花が散る。当たりはしないが、身を固くした少女をかばいながら、ジェディディアは下を見遣った。非常階段は地面まで続いてはいない。地面へ続く梯子は手動で下さなければならないが、そんな余裕などない。
「跳べ!」
ジェディディアの声に、少女も今度は少し躊躇した。ジェディディアは舌打ち一つ少女を抱えるようにして、鉄骨を蹴りつけ、今度は地面に向かってダイブした。
着地した脚に鈍い衝撃が奔るが、気にしている場合ではない。少女を引っ立てて逃げようとしたが、ジェディディアはジャケットの袖を掴まれ引きとめられた。
「待って、眼鏡を落とした!」
「そのくらい後で買え!」
「だめよ!」
馬鹿か!
「行け!」
心中で叫んだのとまったく違う言葉を叫び舌打ちしながら、ジェディディアは少女を押しやり、少し離れたところに転がっていた黒縁眼鏡を拾い上げた。同時に数センチ先の地面を銃弾が穴を開け、ひやりとした感覚がそこから這い上がってくる。ジェディディアは地面を掌で押しのけるようにして立ち上がり、駆けだした。
少女が少し先を走りながら、ジェディディアを振り返っている。馬鹿か、振り返ると塩の柱になるんだぜ。心の中で再度舌打ちしながら、ジェディディアは叫んだ。
「走れ!」
銃弾が地面に穴を明ける音が追いかけてくる。
死に物狂いで走り、路地を抜け、追手がないのを確認して、ジェディディアは逃げるのをやめた。必死に後をついてきていた少女は、足を止めた彼にぶつかり、よろけてから止まった。お嬢さまにはきつい運動だったかもしれない。
道端にたむろする少年たちが、彼らを不審そうに見ている。
「ほら」
ジェディディアはぶっきらぼうに、眼鏡を少女に差しだした。握りしめて走っていたから、フレームがゆがんでいるかもしれないとは思ったが、口にしなかった。
「ありがとう」
少女は素直に礼を言い、眼鏡を受け取った。彼女は嬉しそうだったが、ジェディディアは眼鏡をかけた少女の違和感に気付く。
「おい、レンズにひびが入ってるぞ」
「問題ないわ。伊達なの」
少女は平然とした顔で言った。
「お前、そんなものを取りに行かせるな」
「でもパパのプレゼントだから」
娘に伊達眼鏡を送る父親か。今度は少しあきれる。命を狙われるような親子だ、変装用かもしれないが。
「いいか、俺は絶対に、お前の依頼なんて請けないからな。俺に二度と近寄るな。あ、いや、家の修理費だけは後で請求させてもらうからな」
言い捨てて、背中を向けたジェディディアに、少女は追いすがる。
「待って。報酬はあなたのほしいだけ用意できると思うから、手を貸してほしいの」
「探偵は何でも屋じゃない」
ジェディディアは足を止めずに、大股で歩いていく。追いつこうとして少女は小走りになった。
「何でも屋でしょう」
「犯人探しもボディーガードも調査業に含まれない」
突然爆撃されたり銃で撃たれたり冗談ではない。
「あなたは、ダウンタウンのギャングまがいの探偵でしょう。銃だって扱えるんでしょう」
「それとこれとはまったく別の話で、依頼をうけるかどうかは俺の裁量だと言ったはずだ」
「でもきっと、あなたは私に協力していると思われたわ」
ジェディディアは、再び足を止めた。勢い余って少女はまた彼の背中にぶつかる。眉間にしわを寄せ、ジェディディアは少女を見下ろした。
「ハメたのか?」
「なりゆきよ」
少女は平然と言う。懇願しているのかと思いきや、そんなかわいげはまったくなかった。最初はすましたお嬢さまだと思ったが、なんともしたたかな娘だ。
「わたしのパパは殺されたの。犯人を探したいの。わたしには、あなたしか手掛かりがないの」
「……なんだと?」
ジェディディアは今度こそ、少女に向き直る。
手掛かり、と少女は言った。
しかめっ面をして見る彼を、ひび割れたレンズの奥の冷めた瞳が見返してくる。静かな水のような青い瞳は、なんとも強情だった。
ジェディディアはただただ溜息をつく。フェイクレザーのジャケットを脱いで、少女にかぶせた。
「とりあえずその目立つ制服を隠せ」
少女の返事など待たずにさっさと歩きだす。
「情報を持っていそうな奴のところにいく」
ごみごみとした街並みを人目を避けて歩き、ビルの一階に入っているコーヒーショップのドアを開ける。ドアにつけられた鐘が間の抜けた音で鳴った。ふわりと濃いコーヒー豆の匂いが中から溢れてくる。
「おい、カーター」
カウンターとテーブルが三つのみの狭い店だ。ジェディディアが呼び掛けると、カウンター脇でコーヒーを飲んでいた店主らしき男が顔をあげた。
「ジェッドか!? ……ん?」
顎鬚を生やした黒髪の男は跳ねるように立ち上がり、その拍子にコーヒーを自分の手にこぼして、あちいっと大声をあげた。コーヒーカップを放り出してしまい、ガチャンという音が店内に響き渡る。だが男の目は火傷をした手でも、コーヒー染みを作った白いシャツでも、割れたカップでもなく、少女を凝視している。
「リリー・ハーヴェイ!」
ジェディディアが眉をしかめてカーターを見やると、男は間近にあった14インチのブラウン管テレビを指さしてわめいている。
「お前、これ見ろ!」
エリオット・ハーヴェイが地下鉄の駅で殺されたことについてのおなじみのニュースだった。地下鉄で帰宅しようとした時にチンピラにからまれて銃殺された状況、開発した商品などについての説明、FBIによる捜査が行われていること、ジェディディアも把握している状況に加えて、思いもよらない一言をキャスターが付け加えた。
「ハーヴェイ氏の娘で17歳の少女が行方不明となっています。何らかの事件に巻き込まれた可能性があり、こちらもFBIが全力をあげて捜索中です」
「FBIだと? なんでこんな事件にFBIが動く」
無表情のキャスターに向かってジェディディアがつぶやく。そして、カウンターに片腕を寄せて立っている少女を見遣る。行方不明だなどと、ピンピンしてここにいる。そのジェディディアの肩を掴んで、カーターがものすごい剣幕で怒鳴った。
「お前、まさか誘拐したのか!」
「するわけないだろう!」
反射の勢いでジェディディアが言い返す。
「ちょっと、ちょっとこっち来い」
カーターは彼の腕をひっつかんで少女から離れると、声をひそめて詰った。
「お前、勝手に持ち場を離れて何やってたんだ。携帯くらい出ろ。請けた仕事はきっちりこなせ。仲介した俺のメンツに関わる」
詰る彼の言葉にジェディディアは唇を歪めたが、低い声で応えた。
「悪い」
「レイエスがカンカンだぞ。ギャングを怒らせるなよ!」
カーターが叫んだとき、トントントンと、ノックのような音が聞こえた。少女が、人差し指で木のカウンターテーブルを叩いている。ピンと背筋を伸ばして男たちを冷やかに見やる姿は、生徒の私語をいさめる教師のようだ。
「目の前で内緒話はやめてほしいわ。失礼だし、意味がない」
「意味がないって?」
カーターは軽薄な唇をゆがめて笑った。
「さすがサイボーグ。密談も意味がないか」
「大声でわめいてたくせに、それで密談のつもり?」
少女の言うことには一理ある。だがそれよりもジェディディアは、カーターの言った場違いな言葉にひっかかった。
「サイボーグ?」
少女はジェディディアを見た。冴え冴えとした目は、かえって彼女の怒りを示していた。
「どこかの馬鹿者は、パパが私の頭に、貴重な技術を詰め込んでると思っているの」
カーターは肩をすくめて見せる。からかうような仕草にも、少女は変わらない調子で続けた。
「私、生まれつき難聴で、頭にインプラントを入れているの。三歳の時に手術して人工内耳を入れたそうよ。だけど、人が多い場所では聞き取りにくいし、音楽もあまり楽しめないの。だからパパは私のために、音楽が目に見えて楽しめるおもちゃを開発したし、人工内耳を小型改良化していった。普通、人工内耳は完全に聞こえるほどに補正してくれるものではないのですって。体外装置も必要だけど、私の場合はすべて体内に埋め込んで他の人と変わらない見た目になったし、普通の人工内耳よりもすばらしく聞こえがいいらしいの。おかげで私は、今はほとんど不自由なく聞こえる生活が出来てる」
思いもかけない話をされて、ジェディディアはひるんでしまった。カーターの言いだすことといい、少女の言うことといい、話が突飛でどこに飛んでいくものか、予想もつかない。この少女が事務所にやってきたときから。いや、それ以前から。
「それは、分からなかった」
すまない、と言いかけたジェディディアを、少女は「やめて」と厳しい声で止めた。ティーンの少女に叱られて、ジェディディアは少し罰が悪い気持ちのまま、話を続けた。
「エリオット・ハーヴェイって何者なんだ」
「言ったでしょう。パパは軍に協力していた。音響工学の物理学者よ。主に電気音響工学をやっていたわ。パパが国に協力していたのは、開発費や設備や私の手術代のためだった。私のために研究開発されたものは、軍事利用のために応用されていったわ。ナノテクノロジーを利用したインプラントの内耳。聞こえる人に埋め込んで、諜報活動に役立てたり。詳しいことは機密だから知らないけれど。パパは何かトラブルに巻き込まれていた。気付いていたけど、パパが何も言わないから黙っていたの」
そんな人間が殺されれば、深夜の地下鉄に巣食うチンピラが犯人だろうとも、真相をはっきりとさせるためにFBIが動くこともあるかもしれない。そんな男が殺されて、娘がいなくなればニュースにもなるだろう。FBIが動いた真意はむしろそちらかもしれない。
「あんたはなんでこんな町に来たんだ。ニュースになってまで、何をしたいんだ」
「ジェッド!」
カーターが苛立った呼ぶ。だがジェディディアは腕を振って、黙るようにと睨みつけた。それから少女に向き直る。
「このままあんたを連れまわってたら、俺は本当に誘拐犯だ」
「パパが殺されたとニュースで見たの。私は心当たりがあったから、それを追って家を飛び出して、そのまま誰にも連絡してない」
「そういうのは警察に頼れ」
「FBIならうちに来たわ。わたしを護衛するって言ってた。でも、どうしてパパが死なないといけなかったのか、本当のことは警察にもFBIにも分からないわ。分かったとしても、わたしには教えてもらえないの!」
少女が叫んだ。したたかに冷静にふるまっていた少女が感情をあらわにしたのは初めてで、ジェディディアは面喰ってしまった。
だが当然だ。
彼女は父親を殺されたのだ。
ジェディディアは、悪い、とつぶやく。今度は、少女は止めなかった。強くジェディディアを見て言った。
「パパは何かトラブルに巻き込まれていた。気付いていたけど、パパが何も言わないから黙っていたの」
「ジェッド! 悪いことは言わない、今あの娘を置いて出ていくか、ボスに引き渡せ」
カーターがしびれを切らしたようすで、大声で割って入った。
「エリオット・ハーヴェイが死んだときに、その娘を捕まえて連れてくるようお前に指示がいったはずだろ。今ならまだ間に合う。まさか情が移って、逃がすつもりで連れ回してたわけじゃないだろう」
「俺だって好きで連れ回したわけじゃない。この嬢ちゃんが俺のところにいきなりやってきたと思ったら、どっかの誰かが俺の家を爆破したんだ!」
「だから、勝手なことをしているとボスに殺されるぞ!」
怒鳴りつけたカーターに、ジェディディアは口を閉ざした。奇妙な沈黙の中、店の窓ガラスの向こう、舗装の悪い道を、ガタガタと揺れながら車が走っていく。
「お前が、エリオット・ハーヴェイを殺したのか?」
「違う。殺したのは、俺もお前も面識のねえチンピラだ」
意味深な言葉に、ジェディディアは片眉を吊り上げた。
「お前、まだ何を知ってる」
カーターは、口を閉ざした。それから一呼吸つき、唇の端を吊り上げて笑った。
「言うとでも思ったか? そこから先はお前みたいな下っ端の領分じゃないぜ」
ジェディディアは舌打ちをする。確かにその通りで、その上金にならなければカーターはものすごく口が堅い。
「探偵さん、ここを出たほうがいい」
突然少女が言った。はあ? とカーターは不審そうに少女を見ているのを横目に、ジェディディアは思わず身構えた。窓ガラスの外を見遣るが、異変は見当たらない。だが、先刻も少女の警告がまずあったのだ。どちらにしても妙な襲撃を受けた以上、一か所にとどまらないほうがいい。
「表から出ないほうがいいわ」
ジェディディアの元に駆けよりながら少女が言った。
「そうだな」
勝手知ったる調子で、店の奥に踏み入ろうとしたジェディディアの腕を、カーターが掴む。
「ジェッド、待て!」
振り返るジェディディアに、細く整えた眉を吊り上げて、カーターは強く言った。怒鳴るわけではないが、強く。
「お前本気でいつか死ぬぞ。相棒みたいに!」
事務所を開いたばかりで、無茶をして身の丈に合わない仕事を受けて、ギャングの闘争に巻き込まれて死んだ相棒の姿が脳裏によぎる。
「その時は、その時だ。俺は相棒が死んだときに、人は殺さないと誓った」
「そんなんだからお前は、ちまちました仕事で小銭を稼ぐしかできないんだよ!」
「それが悪いと思ったことはねえ!」」
ジェディディアが怒鳴ったときだった。ガシャンとガラスの割れる音がした。
今日二度目の嫌な予感に、ジェディディアは少女を抱え込んで、カウンターの後ろに飛び込む。瞬間送れて、音と閃光が弾けた。爆風とカウンタテーブルの上にあった物が降り注いでくる。
「
テロリストなどをひるませて鎮圧のために使う音響閃光弾だが、間近で爆発すれば死ぬこともある。こんな狭い室内で使えば小爆弾と変わらない。追ってくる奴は、少女を捕まえたいのか殺したいのかよく分からない。
「ちくしょう、むちゃくちゃしやがって!」
鼓膜がしびれたようになって、耳鳴りがひどい。まわりの音も自分の声すらも聞こえない上に平衡感覚もない。カウンタの後ろに伏せていたおかげで幾分かましだが、閃光で目もやられている。
ふいに手を強く掴まれて、ジェディディアは顔をあげた。警戒して振り払おうとしたが、それ以上に強く握りこまれた。細い指で、少女の手だと分かった。
ジェディディアは少女に引っ張られるまま、走り出した。
後
店の裏口から路地に出る頃には、影しか見えなかった視界にようやく色がつきはじめた。
「あれが効かなかったのか」
ジェディディアは前を走る少女に問いかける。
「予想していたから、聞こえないようにしてた。あなたのおかげで目はやられなかったし」
少し振り返り、少女はジェディディアを見た。補聴器のスイッチを切っていたとでもいうことだろうか?
そして少女は、この街のことなど何も知らないはずなのに、迷いなく路地から路地へと駆けていく。見事に人目を避けて選んで走っていく。
「嬢ちゃん待て」
ジェディディアは、自分の手を掴んで走る少女の手を逆に強く握り、引きとめた。驚いて足を止め、少女が振り返る。ブロンドがまぶしく踊る。車がやっとすれ違える程度の路地だった。夕陽がさして、アスファルトもコンクリの壁も、少しばかり赤く染まっている。眩んだ目に痛い。
路地の壁にもたれ、少女の手を掴んだまま、彼女の青い瞳に向かって言った。
「話、聞いてただろ」
「わたしを引き渡すとか言う話?」
少女の黒いフレームの奥のまっすぐな冴えた瞳が、ジェディディアを見ている。ジェディディアはその真剣な眼差しに目を射抜かれたまま、そらさず、少女を見返した。
「そうだ。それもあるが」
それの意味するところが、分かっているはずだ。
「あんたのパパを殺したのは俺だ」
「……違うわ」
どういう根拠か、少女は否定した。ジェディディアは頭を振る。
「俺が殺したようなものだ」
今度は、少女は何も言わなかった。
「あんたを張ってたのは俺だ」
「知ってた」
「……だろうな」
そうでないと少女の行動はおかしい。父の死の真相を突き止めると目に探偵を探していたにしても、こんなダウンタウンまでやってくる必要はない。もっと大きな調査会社がいくらでもあるだろう。心当たりがあると言った。だからジェディディアのところに来たのだろう。だが、どうしてジェディディアが、彼女を見張っていたのだと気付いたのか。しかもどうやってジェディディアの事務所までつきとめたのか。エリオット・ハーヴェイが殺されたのは昨夜だ。あまりに早すぎる。
「どうやって突きとめた」
「私の聴力は普通の人と違うの」
「それはさっき聞いた」
聞こえない、ということじゃないのか。
「違うの、そうじゃない。パパが、私の補聴器を改良したのよ。あの人が言っていたことは本当なの。普通の人の数倍の範囲の音を聞くことができるし、私の意志で抑えることもできる。特定の音を探して拾うこともできる。心音を聞きわけて、嘘をついているかどうか判断することもできるわ。私の頭には、軍事利用された技術よりも数倍の物がきっと詰まっているわ」
突拍子もない話だ。だが、彼女が襲撃を予言したことを思えば、嘘ではないのかもしれない。
「ずっと同じ人物の足音が、私の近くにいるのに気付いてた。たぶん私を見張っているんだって気付いていた。もしパパがつけたSPなら私に話さないわけがないから……だって、どうせ私には分かってしまうんだもの。言わない意味がないじゃない。だからよくないものだろうって思ってた。パパがトラブルに巻き込まれたんだろうって。だけど、パパがいつも通りだったから、私も何も言わなかったわ。一緒に朝食を食べて、パパは私の入れたコーヒーを飲んで、研究所に出かけて行った」
そして昨夜、帰ってこなかった。
「私を見張ってた人の足音が遠ざかって、テレビのニュースでパパが殺されたのを知ったわ。気がついたら足音の人を探して追いかけてた」
どう考えてもその人間は、トラブルに関係している。自分も殺されるかもしれないとは思わなかったのか。
「あんた、無謀すぎるよ」
「だって、私は知りたかったの」
誰が父親を殺したのか。なぜ死ななければならなかったのか。例え自分のためだと、自分のせいだと思い知ることになったとしても。……そうなのだろうと、思い知るために。
「……悪い」
ジェディディアは、うなだれてつぶやいた。
死んだ相棒に、人を殺さないと誓った。しかし結局、こうして人殺しにかかわっている。
「あなたは悪いけど、悪くないわ。……多分」
太い黒縁の眼鏡は表情を隠す。ただ少女は相変わらずに冴えた瞳で、ひび割れたレンズの向こうからジェディディアを見て言った。
「探偵さん!」
ジェディディアの後ろを見て少女が叫ぶ。考えるよりも早く、ジェディディアが腰にはさんでいた銃を抜いて振り返るのと、後ろから銃を向けられるのは同時だった。
追いついて来たカーターの銃口は、ジェディディアの後ろの少女の方を向いている。ジェディディアの持つ銃は、カーターの額を捉えていた。
「ジェディディア・グラント。その娘をよこせ」
カーターは低く抑えた声で言う。銃を構えていない方の腕から、血が滴っていた。
「お前、この子を殺す気か」
「生きて頭が無事であれば、手も足も吹き飛んでたっていいんだぜ」
あまりの言いようだが、事実なのだろう。ジェディディアは舌打ちをした。
「誰が、エリオット・ハーヴェイを殺したんだ。お前知ってるんだろう」
「ただのチンピラだ。断じて、俺は関係がない。多分レイエスもな」
どうでもいいことだが、とカーターは言う。父親を殺された少女を前にして、あまりの言いようだったが、それも彼にとっては事実だろう。
「エリオット・ハーヴェイは脅されていた。娘の命を盾にしてな。だから彼はわざと治安の悪い場所に行き、わざとチンピラにからまれ、殺されたのさ」
「……なぜ」
「言うことを聞かなければ娘を殺す、と脅されていた。協力を断れば娘は殺される、のがれるために自殺なんてしようものなら、調べられて理由が表沙汰になるかもしれない、腹いせに娘が狙われるかもしれないと思ったんだろう。殺害されたのなら、彼は国に協力していた重要人物だから、娘も保護してもらえると思ったんじゃないのか。脅迫から逃れるために、無関係のところで死んだんだろう」
チンピラに金を脅し取られた挙句に殺されるようなこと、よくある話だ。警察が詳しく調べ上げることもないだろうと踏んだのかもしれない。
「お前たちは、何をしようとしているんだ」
「本当に知りたいのか?」
銃口を額に向けられたまま、カーターは薄く笑った。
「ストレイキャッツ。好奇心は猫をも殺すぜ」
「言えよ、トムキャット。俺だって頭に来る相手は殺すかも知れないぜ」
ジェディディアは静かな目でカーターを見て、銃口を彼の額に押し当てた。カーターは焦る様子もなくジェディディアを睨む。
静かに答えた。
「レイエスは企業ともつながりを持っている。そいつらが新しく創る会社に協力するよう要請してたのさ」
「新しい会社?」
「市民監視だよ。お前みたいなケチな個人事務所とは違う、調査会社による一般市民監視だ。公的組織とは違う民間の企業団体で、市民を監視しようとしている。政府やら公の組織では国民の反発を食らうことを、調査、警備という名目で外部がやるのさ。そしてやつらに売りつける」
「愛国者法の大義か」
「そう、対テロと銘打った、な。数年前に市民団体の監視が表沙汰になってから、国民の反発も強い。組織内で行うことには多少問題があるが、民間会社なら、都合が悪くなったときには会社をつぶして創ればいいからな。対テロなんざ、そんなのは建前だ。国民の統制、監視、管理が目的になっている。すでに衛星、監視カメラによる、国民の管理は始まっているが、エリオット・ハーヴェイの研究は更に役立つものだったから、協力を要請していたのさ」
いいように利用されたことと、自分への苛立ちでジェディディアが舌打ちをする。
「俺は、そんなことの片棒を担がされていたのか」
「後悔する必要はないぜ。聞かされないことは聞かない、首を突っ込まないのがルールだ。死にたくなければな」
それは言われるまでもないことだった。この町で生き抜きたければ、ボーダーラインを守らなければいけない。
依頼主の内情にまでは踏み込まないのがルールだ。詮索はしない。しがらみが増えて、知って得することなどない。カーターのように情報を集めたがる人間なら別だろうが、余計な厄介事に巻き込まれる結果になるだけのこと。
そしてジェディディア自身も、余計なことなど、何も知りたくないと思っていた。知って巻き込まれて、取り返しのつかないことになるのは、もう二度とごめんだと思っていた。それが、どうだ。
「どのみちレイエスは娘を殺すつもりがなかったから、お前に監視させたのさ。恐喝に加担してると知らなければお前は一生懸命仕事を果たすだろうしな」
「黙れ」
いいように利用されたことと、自分への苛立ちでジェディディアが舌打ちをする。
「エリオット・ハーヴェイが死んだ以上、その娘の頭に詰まったインプラントは何よりも重要だ。サイボーグの噂が本当だったのなら尚更」
ジェディディアは気がつくと、拳を握りこんでいた。
鈍い音がしてカーターが吹き飛ぶ。壁に肩を打ちつけ、そのままずるずると座り込む。負傷していた腕が筆になって、血の跡をつけた。殴られて切れた口の端をぬぐい、てめえ、とカーターが唸る。
「その娘は金になる。レイエスに突きださなくても、どこかに売りつければ高く買ってもらえるんだぞ!」
「黙れっつってんだよ!」
「裏切ったと思われてるんだぞ! レイエスに逆らうつもりか!」
「故郷の妹に、女子供は絶対に傷つけないと約束してる!」
「お前正気か! 馬鹿だろう!」
馬鹿なのは、知っている。ジェディディアが何か言うより前に、少女が叫んだ。
「探偵さん、後ろから追手が来てる! 五人はいるわ!」
少女の言葉を聞くが否や、ジェディディアは彼女の手をひっつかんで再び走り出した。カーターに構っている場合じゃない。こんな路地で挟み撃ちなどされては冗談ではない。早くこんな町から少女を出さないといけない。
「探偵さん、前に車!」
少女の警告と、ブレーキ音が鳴り響くのは同時だった。彼らが向かう路地の出口を、つんのめるようにして車が停まってふさいだ。男が降りてくる。ごついミリタリーのブーツが地面を叩く。革のジャンパーを羽織った男は、くわえ煙草の唇を吊り上げて笑っていた。体はごついくせに思いのほか整った顔をしている。威圧するような空気をしていながら、冷淡な目をした男。細長い筒のようなものを車から取り出して、軽々と担いだ。
「チクショ……!」
ジェディディアは慌てて止まり、踵を返した。拳銃を掲げるようにして、追手に構える。
その後ろから何かが飛来して彼らの横を過ぎ、道路脇に止まっていた車に激突した。爆音がして、車が燃える。とっさに腕を上げ少女をかばったジェディディアたちの髪や服を爆風がもみくちゃにする。硝煙の臭いやらガソリンの臭いやらが鼻の奥を襲っていく。爆音でまた耳がやられたようだった。吹き飛んだサイドミラーが降ってきて、彼らの横に落ちた。
「いかれてやがる!」
爆煙と粉塵の中、ジェディディアはたまらずわめいた。わめかずにいられなかった。RPGを持ち出してくるなど正気を疑う。対戦車擲弾など使って、市街戦でもやらかすつもりか。金儲けの前に自分がテロリストとして逮捕されるつもりなのか。
その間にも、銃撃が彼らを襲う。道の端にある鉄のごみ箱の影に少女を押しこむようにして隠れながら、ジェディディアは舌打ちした。
「レイエスめ。くそっ」
逃げ場がない。毒づいたジェディディアに呼応するようなでかい声が、弾幕の向こうから聞こえてきた。
「グラント、いるんだろ! さっさとその嬢ちゃんを渡せ!」
後ろから来ているはずの追手はやってこない。これだけの爆撃と銃撃の中心に駆けつけてくるやつもいないだろうが、銃撃もない。多分最初から彼らを逃がさないために路地をふさいでいるだけなのだろう。レイエスが微妙に照準を外してくるのも、少女を殺すつもりがないからだ。
「探偵さん、危ない!」
少女が叫ぶ。
再び、鈍く空気を裂く音がした。強い硝煙の臭い。ジェディディアはとっさに少女を抱え込もうとしたが、間に合わなかった。大きな長い弾が、彼らのいる間近の壁にぶちあたって爆発した。爆風に吹き飛ばされて、少女が壁に叩きつけられた。鈍い音がする。
ブロンドが赤く染まった。ジェディディアの貸したジャケットの下、白いブラウスがどんどん赤く染め変えられていく。その上に後から後から、粉塵やら瓦礫やらが降ってくる。
「シット! 馬鹿か、あいつら!」
死にさえしなければ、手や足がなくても、というのはどうやら本気らしい。
サイレンが聞こえたのは、そんな中だった。
「警察だ!」
誰かが叫ぶ声がする。当然だ。家の爆破から、カーターの店の爆破から、果ては路上で銃撃戦だ。治安のいい街ではないとは言え、警察くらい来るだろう。
黄昏時に赤と青のワーニングライトは賑やかで、パトカーがやってきてから、ギャングたちの撤退はあまりにも素早かった。路地の行き先をふさいでいた車が急発進して、タイヤで地面をこすりつけるような甲高い音を響かせながら去っていく。
やれやれ、とジェディディアは大きくため息をついて、まったく役に立たなかった銃を放り捨てた。
「大丈夫か?」
壁にもたれて座り込んでいた少女は人差し指を唇にあてて、静かに、という仕草をした。
両手をそれぞれ輪の形にして目に当てる。男は不審に少女を見て、眼鏡をしていないのに気がついた。
「見えないのか?」
少女は男をしっかりと見て、首を横に降る。
「もしかして……聞こえないのか?」
少女の目はジェディディアの唇を見ている。そして、頷いた。
眼鏡は探し回るまでもなく、少女の間近に落ちていた。持ち主よりも先にボロボロになっていた眼鏡は、それ以上の傷を負わなかったようだ。最初のヒビ以外に問題が見当たらない。ジェディディアが拾って渡すと、少女はゆっくりと眼鏡をかけた。汚れてひび割れたレンズの向こうに、青い瞳が隠れる。
「ありがとう」
ゆっくりと確かめるように言った。
「大丈夫か? 頭から血が出てる。動かないほうがいい」
「そうね。じっとしておく。痛いし」
少女は大きくため息をつく。
「インプラント、壊れたみたい。聞こえなくなっちゃった」
そういう彼女の表情は、どこかあっけらかんとしている。
頭を強く打ったせいか。爆撃のせいか。ひどい爆音ばかり聞かせたせいか。よくわからないが思い当たることばかりだった。
「しゃべれてるじゃないか」
「パパは心配性だった。これは、眼鏡型の骨伝導式補聴器なの。人工内耳が不具合を起こした時のための予備よ。普段はスイッチを切ったままで、これを使うのは本当に久しぶり」
「そうか」
ジェディディアも、深く息を吐いた。
「馬鹿だな……」
少女も、ギャングたちも。人騒がせな、エリオット・ハーヴェイも。
「あなたもね」
少女はジェディディアの腕を指さした。そこもべっとりと血がついている。気付かなかったが、いつの間にか負傷していたらしい。どこかにぶつけたのか、爆風のせいか。これも心当たりがありすぎてもう分からない。
「インプラントは、パパでないとメンテナンスできなかった。どちらにしても壊れる運命だったのよ」
言いながら、少女は唇をゆがませた。震える唇をかみしめて、嗚咽を懸命に飲み込もうとしていた。けれどそれに逆らうように、眼鏡の奥で涙は静かにあふれて少女の頬を流れていき、次から次へと彼女の膝に落ちて行く。
ジェディディアは、無事な方の腕伸ばして、少女の手を握りしめた。
へたり込む彼らのところに、スーツの男が駆けてきた。
「ミス・リリー・ハーヴェイ? 探しましたよ。ご無事で何より」
FBIと大きく印刷された身分証を見せながら、若い男は言った。皺ひとつないスーツも革の靴も、戦場跡のように瓦礫や煙だらけになった路地裏には、違和感しかなかった。ネクタイが妙にポップでおかしい。
少女のこれが無事に見えるかと悪態をつきたかったが、やりあうのが面倒でやめた。彼らなりに、勝手に行方をくらませた少女に対して思うところがあるはずだ。FBIの護衛を振り切って、ギャング相手に無茶をやらかしたにしては、無事な方だろう。
「彼女は頭を打ってる。念のため病院に連れて行け」
ゴミ箱にもたれてへたり込んでいるジェディディアに、FBIの捜査官は不審の目を向ける。
「彼は探偵よ。変な奴らに追われてるところを助けてくれたの」
少女の言葉にも、捜査官は視線を緩めない。
「とりあえず、後で話を聞く。先に手当を受けろ」
「ありがたいね」
ジェディディアは無事な方の手を挙げて、降参のポーズをして見せた。
カーターがどうしたか分からないが、とっくに逃げたかもしれないし、捕まったにしてもものらりくらりとかわすだろう。そうでなければ、やつがレイエスに殺されるだけだ。
捜査官の指示で、瓦礫の中にキャッシャーが持ってこられた。少女は大事に抱えあげられて、キャッシャーに横になった。後頭部の傷をかばうように横向きに寝かされて、ジェディディアを見る。眼鏡がずれて少し間が抜けて見える。
「探偵さん。今回の報酬は、言い値で支払うわ」
彼女は笑う。したたかさが戻ってきたようだ。
「正直、俺はあまり役に立ったと思えないぜ。逃げ回っただけだしな」
「でも助けてもらった」
それは良かった、とジェディディアも笑う。彼のところにも救命士が駆けてきてキャッシャーに乗せようとしたが、それを断ってジェディディアは立ち上がる。傷の痛みに思わず呻いた彼に、少女は言い足した。
「ねえ、この街で生きていくのが難しくなったら、いつでも私が雇ってあげる」
確かに、ジェディディアの家は爆破されたままだし、ギャングのボスに逆らったままだが、あまりにもこりていない言葉だ。
「アイアイ。考えておくよ」
ジェディディアは苦笑して、ひらひらと手を振った。
「じゃあな、リリー」
「さようなら、探偵さん。またね」
少女は応えるように少しだけ笑った。
「あれが効かなかったのか」
ジェディディアは前を走る少女に問いかける。
「予想していたから、聞こえないようにしてた。あなたのおかげで目はやられなかったし」
少し振り返り、少女はジェディディアを見た。補聴器のスイッチを切っていたとでもいうことだろうか?
そして少女は、この街のことなど何も知らないはずなのに、迷いなく路地から路地へと駆けていく。見事に人目を避けて選んで走っていく。
「嬢ちゃん待て」
ジェディディアは、自分の手を掴んで走る少女の手を逆に強く握り、引きとめた。驚いて足を止め、少女が振り返る。ブロンドがまぶしく踊る。車がやっとすれ違える程度の路地だった。夕陽がさして、アスファルトもコンクリの壁も、少しばかり赤く染まっている。眩んだ目に痛い。
路地の壁にもたれ、少女の手を掴んだまま、彼女の青い瞳に向かって言った。
「話、聞いてただろ」
「わたしを引き渡すとか言う話?」
少女の黒いフレームの奥のまっすぐな冴えた瞳が、ジェディディアを見ている。ジェディディアはその真剣な眼差しに目を射抜かれたまま、そらさず、少女を見返した。
「そうだ。それもあるが」
それの意味するところが、分かっているはずだ。
「あんたのパパを殺したのは俺だ」
「……違うわ」
どういう根拠か、少女は否定した。ジェディディアは頭を振る。
「俺が殺したようなものだ」
今度は、少女は何も言わなかった。
「あんたを張ってたのは俺だ」
「知ってた」
「……だろうな」
そうでないと少女の行動はおかしい。父の死の真相を突き止めると目に探偵を探していたにしても、こんなダウンタウンまでやってくる必要はない。もっと大きな調査会社がいくらでもあるだろう。心当たりがあると言った。だからジェディディアのところに来たのだろう。だが、どうしてジェディディアが、彼女を見張っていたのだと気付いたのか。しかもどうやってジェディディアの事務所までつきとめたのか。エリオット・ハーヴェイが殺されたのは昨夜だ。あまりに早すぎる。
「どうやって突きとめた」
「私の聴力は普通の人と違うの」
「それはさっき聞いた」
聞こえない、ということじゃないのか。
「違うの、そうじゃない。パパが、私の補聴器を改良したのよ。あの人が言っていたことは本当なの。普通の人の数倍の範囲の音を聞くことができるし、私の意志で抑えることもできる。特定の音を探して拾うこともできる。心音を聞きわけて、嘘をついているかどうか判断することもできるわ。私の頭には、軍事利用された技術よりも数倍の物がきっと詰まっているわ」
突拍子もない話だ。だが、彼女が襲撃を予言したことを思えば、嘘ではないのかもしれない。
「ずっと同じ人物の足音が、私の近くにいるのに気付いてた。たぶん私を見張っているんだって気付いていた。もしパパがつけたSPなら私に話さないわけがないから……だって、どうせ私には分かってしまうんだもの。言わない意味がないじゃない。だからよくないものだろうって思ってた。パパがトラブルに巻き込まれたんだろうって。だけど、パパがいつも通りだったから、私も何も言わなかったわ。一緒に朝食を食べて、パパは私の入れたコーヒーを飲んで、研究所に出かけて行った」
そして昨夜、帰ってこなかった。
「私を見張ってた人の足音が遠ざかって、テレビのニュースでパパが殺されたのを知ったわ。気がついたら足音の人を探して追いかけてた」
どう考えてもその人間は、トラブルに関係している。自分も殺されるかもしれないとは思わなかったのか。
「あんた、無謀すぎるよ」
「だって、私は知りたかったの」
誰が父親を殺したのか。なぜ死ななければならなかったのか。例え自分のためだと、自分のせいだと思い知ることになったとしても。……そうなのだろうと、思い知るために。
「……悪い」
ジェディディアは、うなだれてつぶやいた。
死んだ相棒に、人を殺さないと誓った。しかし結局、こうして人殺しにかかわっている。
「あなたは悪いけど、悪くないわ。……多分」
太い黒縁の眼鏡は表情を隠す。ただ少女は相変わらずに冴えた瞳で、ひび割れたレンズの向こうからジェディディアを見て言った。
「探偵さん!」
ジェディディアの後ろを見て少女が叫ぶ。考えるよりも早く、ジェディディアが腰にはさんでいた銃を抜いて振り返るのと、後ろから銃を向けられるのは同時だった。
追いついて来たカーターの銃口は、ジェディディアの後ろの少女の方を向いている。ジェディディアの持つ銃は、カーターの額を捉えていた。
「ジェディディア・グラント。その娘をよこせ」
カーターは低く抑えた声で言う。銃を構えていない方の腕から、血が滴っていた。
「お前、この子を殺す気か」
「生きて頭が無事であれば、手も足も吹き飛んでたっていいんだぜ」
あまりの言いようだが、事実なのだろう。ジェディディアは舌打ちをした。
「誰が、エリオット・ハーヴェイを殺したんだ。お前知ってるんだろう」
「ただのチンピラだ。断じて、俺は関係がない。多分レイエスもな」
どうでもいいことだが、とカーターは言う。父親を殺された少女を前にして、あまりの言いようだったが、それも彼にとっては事実だろう。
「エリオット・ハーヴェイは脅されていた。娘の命を盾にしてな。だから彼はわざと治安の悪い場所に行き、わざとチンピラにからまれ、殺されたのさ」
「……なぜ」
「言うことを聞かなければ娘を殺す、と脅されていた。協力を断れば娘は殺される、のがれるために自殺なんてしようものなら、調べられて理由が表沙汰になるかもしれない、腹いせに娘が狙われるかもしれないと思ったんだろう。殺害されたのなら、彼は国に協力していた重要人物だから、娘も保護してもらえると思ったんじゃないのか。脅迫から逃れるために、無関係のところで死んだんだろう」
チンピラに金を脅し取られた挙句に殺されるようなこと、よくある話だ。警察が詳しく調べ上げることもないだろうと踏んだのかもしれない。
「お前たちは、何をしようとしているんだ」
「本当に知りたいのか?」
銃口を額に向けられたまま、カーターは薄く笑った。
「ストレイキャッツ。好奇心は猫をも殺すぜ」
「言えよ、トムキャット。俺だって頭に来る相手は殺すかも知れないぜ」
ジェディディアは静かな目でカーターを見て、銃口を彼の額に押し当てた。カーターは焦る様子もなくジェディディアを睨む。
静かに答えた。
「レイエスは企業ともつながりを持っている。そいつらが新しく創る会社に協力するよう要請してたのさ」
「新しい会社?」
「市民監視だよ。お前みたいなケチな個人事務所とは違う、調査会社による一般市民監視だ。公的組織とは違う民間の企業団体で、市民を監視しようとしている。政府やら公の組織では国民の反発を食らうことを、調査、警備という名目で外部がやるのさ。そしてやつらに売りつける」
「愛国者法の大義か」
「そう、対テロと銘打った、な。数年前に市民団体の監視が表沙汰になってから、国民の反発も強い。組織内で行うことには多少問題があるが、民間会社なら、都合が悪くなったときには会社をつぶして創ればいいからな。対テロなんざ、そんなのは建前だ。国民の統制、監視、管理が目的になっている。すでに衛星、監視カメラによる、国民の管理は始まっているが、エリオット・ハーヴェイの研究は更に役立つものだったから、協力を要請していたのさ」
いいように利用されたことと、自分への苛立ちでジェディディアが舌打ちをする。
「俺は、そんなことの片棒を担がされていたのか」
「後悔する必要はないぜ。聞かされないことは聞かない、首を突っ込まないのがルールだ。死にたくなければな」
それは言われるまでもないことだった。この町で生き抜きたければ、ボーダーラインを守らなければいけない。
依頼主の内情にまでは踏み込まないのがルールだ。詮索はしない。しがらみが増えて、知って得することなどない。カーターのように情報を集めたがる人間なら別だろうが、余計な厄介事に巻き込まれる結果になるだけのこと。
そしてジェディディア自身も、余計なことなど、何も知りたくないと思っていた。知って巻き込まれて、取り返しのつかないことになるのは、もう二度とごめんだと思っていた。それが、どうだ。
「どのみちレイエスは娘を殺すつもりがなかったから、お前に監視させたのさ。恐喝に加担してると知らなければお前は一生懸命仕事を果たすだろうしな」
「黙れ」
いいように利用されたことと、自分への苛立ちでジェディディアが舌打ちをする。
「エリオット・ハーヴェイが死んだ以上、その娘の頭に詰まったインプラントは何よりも重要だ。サイボーグの噂が本当だったのなら尚更」
ジェディディアは気がつくと、拳を握りこんでいた。
鈍い音がしてカーターが吹き飛ぶ。壁に肩を打ちつけ、そのままずるずると座り込む。負傷していた腕が筆になって、血の跡をつけた。殴られて切れた口の端をぬぐい、てめえ、とカーターが唸る。
「その娘は金になる。レイエスに突きださなくても、どこかに売りつければ高く買ってもらえるんだぞ!」
「黙れっつってんだよ!」
「裏切ったと思われてるんだぞ! レイエスに逆らうつもりか!」
「故郷の妹に、女子供は絶対に傷つけないと約束してる!」
「お前正気か! 馬鹿だろう!」
馬鹿なのは、知っている。ジェディディアが何か言うより前に、少女が叫んだ。
「探偵さん、後ろから追手が来てる! 五人はいるわ!」
少女の言葉を聞くが否や、ジェディディアは彼女の手をひっつかんで再び走り出した。カーターに構っている場合じゃない。こんな路地で挟み撃ちなどされては冗談ではない。早くこんな町から少女を出さないといけない。
「探偵さん、前に車!」
少女の警告と、ブレーキ音が鳴り響くのは同時だった。彼らが向かう路地の出口を、つんのめるようにして車が停まってふさいだ。男が降りてくる。ごついミリタリーのブーツが地面を叩く。革のジャンパーを羽織った男は、くわえ煙草の唇を吊り上げて笑っていた。体はごついくせに思いのほか整った顔をしている。威圧するような空気をしていながら、冷淡な目をした男。細長い筒のようなものを車から取り出して、軽々と担いだ。
「チクショ……!」
ジェディディアは慌てて止まり、踵を返した。拳銃を掲げるようにして、追手に構える。
その後ろから何かが飛来して彼らの横を過ぎ、道路脇に止まっていた車に激突した。爆音がして、車が燃える。とっさに腕を上げ少女をかばったジェディディアたちの髪や服を爆風がもみくちゃにする。硝煙の臭いやらガソリンの臭いやらが鼻の奥を襲っていく。爆音でまた耳がやられたようだった。吹き飛んだサイドミラーが降ってきて、彼らの横に落ちた。
「いかれてやがる!」
爆煙と粉塵の中、ジェディディアはたまらずわめいた。わめかずにいられなかった。RPGを持ち出してくるなど正気を疑う。対戦車擲弾など使って、市街戦でもやらかすつもりか。金儲けの前に自分がテロリストとして逮捕されるつもりなのか。
その間にも、銃撃が彼らを襲う。道の端にある鉄のごみ箱の影に少女を押しこむようにして隠れながら、ジェディディアは舌打ちした。
「レイエスめ。くそっ」
逃げ場がない。毒づいたジェディディアに呼応するようなでかい声が、弾幕の向こうから聞こえてきた。
「グラント、いるんだろ! さっさとその嬢ちゃんを渡せ!」
後ろから来ているはずの追手はやってこない。これだけの爆撃と銃撃の中心に駆けつけてくるやつもいないだろうが、銃撃もない。多分最初から彼らを逃がさないために路地をふさいでいるだけなのだろう。レイエスが微妙に照準を外してくるのも、少女を殺すつもりがないからだ。
「探偵さん、危ない!」
少女が叫ぶ。
再び、鈍く空気を裂く音がした。強い硝煙の臭い。ジェディディアはとっさに少女を抱え込もうとしたが、間に合わなかった。大きな長い弾が、彼らのいる間近の壁にぶちあたって爆発した。爆風に吹き飛ばされて、少女が壁に叩きつけられた。鈍い音がする。
ブロンドが赤く染まった。ジェディディアの貸したジャケットの下、白いブラウスがどんどん赤く染め変えられていく。その上に後から後から、粉塵やら瓦礫やらが降ってくる。
「シット! 馬鹿か、あいつら!」
死にさえしなければ、手や足がなくても、というのはどうやら本気らしい。
サイレンが聞こえたのは、そんな中だった。
「警察だ!」
誰かが叫ぶ声がする。当然だ。家の爆破から、カーターの店の爆破から、果ては路上で銃撃戦だ。治安のいい街ではないとは言え、警察くらい来るだろう。
黄昏時に赤と青のワーニングライトは賑やかで、パトカーがやってきてから、ギャングたちの撤退はあまりにも素早かった。路地の行き先をふさいでいた車が急発進して、タイヤで地面をこすりつけるような甲高い音を響かせながら去っていく。
やれやれ、とジェディディアは大きくため息をついて、まったく役に立たなかった銃を放り捨てた。
「大丈夫か?」
壁にもたれて座り込んでいた少女は人差し指を唇にあてて、静かに、という仕草をした。
両手をそれぞれ輪の形にして目に当てる。男は不審に少女を見て、眼鏡をしていないのに気がついた。
「見えないのか?」
少女は男をしっかりと見て、首を横に降る。
「もしかして……聞こえないのか?」
少女の目はジェディディアの唇を見ている。そして、頷いた。
眼鏡は探し回るまでもなく、少女の間近に落ちていた。持ち主よりも先にボロボロになっていた眼鏡は、それ以上の傷を負わなかったようだ。最初のヒビ以外に問題が見当たらない。ジェディディアが拾って渡すと、少女はゆっくりと眼鏡をかけた。汚れてひび割れたレンズの向こうに、青い瞳が隠れる。
「ありがとう」
ゆっくりと確かめるように言った。
「大丈夫か? 頭から血が出てる。動かないほうがいい」
「そうね。じっとしておく。痛いし」
少女は大きくため息をつく。
「インプラント、壊れたみたい。聞こえなくなっちゃった」
そういう彼女の表情は、どこかあっけらかんとしている。
頭を強く打ったせいか。爆撃のせいか。ひどい爆音ばかり聞かせたせいか。よくわからないが思い当たることばかりだった。
「しゃべれてるじゃないか」
「パパは心配性だった。これは、眼鏡型の骨伝導式補聴器なの。人工内耳が不具合を起こした時のための予備よ。普段はスイッチを切ったままで、これを使うのは本当に久しぶり」
「そうか」
ジェディディアも、深く息を吐いた。
「馬鹿だな……」
少女も、ギャングたちも。人騒がせな、エリオット・ハーヴェイも。
「あなたもね」
少女はジェディディアの腕を指さした。そこもべっとりと血がついている。気付かなかったが、いつの間にか負傷していたらしい。どこかにぶつけたのか、爆風のせいか。これも心当たりがありすぎてもう分からない。
「インプラントは、パパでないとメンテナンスできなかった。どちらにしても壊れる運命だったのよ」
言いながら、少女は唇をゆがませた。震える唇をかみしめて、嗚咽を懸命に飲み込もうとしていた。けれどそれに逆らうように、眼鏡の奥で涙は静かにあふれて少女の頬を流れていき、次から次へと彼女の膝に落ちて行く。
ジェディディアは、無事な方の腕伸ばして、少女の手を握りしめた。
へたり込む彼らのところに、スーツの男が駆けてきた。
「ミス・リリー・ハーヴェイ? 探しましたよ。ご無事で何より」
FBIと大きく印刷された身分証を見せながら、若い男は言った。皺ひとつないスーツも革の靴も、戦場跡のように瓦礫や煙だらけになった路地裏には、違和感しかなかった。ネクタイが妙にポップでおかしい。
少女のこれが無事に見えるかと悪態をつきたかったが、やりあうのが面倒でやめた。彼らなりに、勝手に行方をくらませた少女に対して思うところがあるはずだ。FBIの護衛を振り切って、ギャング相手に無茶をやらかしたにしては、無事な方だろう。
「彼女は頭を打ってる。念のため病院に連れて行け」
ゴミ箱にもたれてへたり込んでいるジェディディアに、FBIの捜査官は不審の目を向ける。
「彼は探偵よ。変な奴らに追われてるところを助けてくれたの」
少女の言葉にも、捜査官は視線を緩めない。
「とりあえず、後で話を聞く。先に手当を受けろ」
「ありがたいね」
ジェディディアは無事な方の手を挙げて、降参のポーズをして見せた。
カーターがどうしたか分からないが、とっくに逃げたかもしれないし、捕まったにしてもものらりくらりとかわすだろう。そうでなければ、やつがレイエスに殺されるだけだ。
捜査官の指示で、瓦礫の中にキャッシャーが持ってこられた。少女は大事に抱えあげられて、キャッシャーに横になった。後頭部の傷をかばうように横向きに寝かされて、ジェディディアを見る。眼鏡がずれて少し間が抜けて見える。
「探偵さん。今回の報酬は、言い値で支払うわ」
彼女は笑う。したたかさが戻ってきたようだ。
「正直、俺はあまり役に立ったと思えないぜ。逃げ回っただけだしな」
「でも助けてもらった」
それは良かった、とジェディディアも笑う。彼のところにも救命士が駆けてきてキャッシャーに乗せようとしたが、それを断ってジェディディアは立ち上がる。傷の痛みに思わず呻いた彼に、少女は言い足した。
「ねえ、この街で生きていくのが難しくなったら、いつでも私が雇ってあげる」
確かに、ジェディディアの家は爆破されたままだし、ギャングのボスに逆らったままだが、あまりにもこりていない言葉だ。
「アイアイ。考えておくよ」
ジェディディアは苦笑して、ひらひらと手を振った。
「じゃあな、リリー」
「さようなら、探偵さん。またね」
少女は応えるように少しだけ笑った。
終わり
この本の内容は以上です。

みさくらまこと