閉じる


 この星の薄く濁りのない大気は、満天の星々の光を 静かに伝えていた。一つ一つを見分ける事が難しい。そんな無数の輝きは全天を染め、広大な空間と悠久の時の流れの中、人々を包んでいるようだった。
 その輝きの中、その星は澄み渡った夜空にひときわ大きく青く輝いて、幼いアランにも、一目で見分けることが出来た。しかし、傍らの老人たちが見上げるものが、地球という星ではなくて、生まれ育った思い出だと言うことを、彼は幼いながら理解している。
「おお、アラン。ちょっと見ない間に大きくなったな。幾つになった?」
 マレンゴ爺さんは節くれ立った大きな指でアランの頭を撫でて、その背丈を測り、過去に何度繰り返したか分からない質問をした。だから、アランの答えはいつも同じ。
「五歳だよ」
「五歳? これは成長しすぎだな」
 マレンゴ爺さんは地球の子どもを基準にアランを眺めていた。いつもの冗談で、アランはそれをいちいち補足しようとは思わなかった。アランが言った五歳は火星の年月。火星が太陽の周りを回って人々が一つ歳を重ねる間に、地球は火星の内側をぐるぐる二周して、人々は二つ歳を重ねている。二つの星は一年の時間の長さが違うのである。この星の人々の年齢を地球の人々の歳に換算すれば、彼は間もなく十一歳になる。この星の低い重力の影響で、同じ年頃の地球の子どもに比べると身長がやや高い。その分、肩幅が狭く華奢に見える。アランが眺めるマレンゴ爺さんの厚い胸板と広い肩幅、それを支える頑丈な骨格は、地球で生まれ育った人のものだ。火星と地球、二つの星は、もともと一つだった人類の外見すら分けていた。
 アランの視線は空を離れて地平線を泳いだ。砂嵐が去って澄み切った空と地を隔てる地平線、そこに黒々となだらか見える隆起は、古来、エリシウム山と名付けられてきた山の稜線である。手前に視線を移せば、都市の周辺に白煙を吐く噴気口がある。都市機能を維持するエネルギー源の廃熱を、地中のドライアイスを溶かして排出しているのである。老人たちが築き上げたこの都市が、火星の大地で人と共に息づいている証拠だった。
 マレンゴ爺さんたち老人は、この場所を展望室と呼んでいた。この町の南の区画にある公園で、都市を覆う白い外壁がこの箇所だけ透明になっていて、外の景色を眺めることが出来るのである。幾本かのヒマラヤスギが地球からこの公園に持ち込まれて久しい。この地に根を張り、尖った葉を茂らせてるのだが、季節のないこの都市の中で時を止めたように、年輪を刻むことが無くなった。老人たちはそんな樹木の傍らのベンチで、透明な天井を通して夜空を眺め続けている。
「いいかい。私たちはあそこからやって来た。いつかあそこに戻るだろう」
「せっかく来たのに?」
 老人たちの言葉にそう問い返すアランの肩を抱いて引き寄せたのは、この都市を造り、この大地で子どもを育てた人物の手である。アランはその人々に、大切なものを残して地球に帰れるのかと問うたのである。
「あれは私たちの根っこだ。樹は枝を伸ばし葉を付ける。時が来て役割を終えた葉は散り落ちて土に戻り、次の葉の養分に変わる」
 老人たちの言葉の言い回しは、アランには難しすぎてイメージがわきにくい。アランは膝に置いた玩具を眺めた。この玩具の方がアランにとって現実的なイメージを伴う夢である。彼はこの玩具を通して宇宙を夢見る。そんなアランにポターお祖母ちゃんが生徒を見守る教師の口調で言った。
「アランは、いつもアスカに夢中ね」
「うんっ。火星の人たちがみんなで作った船なんだよ」
「そうだな。わしはこの街の外壁も作ったが、アスカも作った」
 数年前まで、建築素材を扱うメーカーにいた経歴を持つマーが自慢気にそう言った。過酷な環境から都市と人を守る外壁を作る技術が、アランが手にしたアスカと名付けられた小さな宇宙船の製造にも生かされていると言うことである。
 笑い話のように語られる事実だが、そもそも、火星には宇宙船の独自開発をする技術はないとささやかれていた。そんな中で、アスカに夢を抱いた人々は、この星で生み出した技術を無数に積み重ねた。この船は火星の人々の技術と工夫の結晶と呼んでも良い。高出力のエンジンが得る技術の無かった彼らは、避けられない妥協策として、外殻に強度を持たせた航空機のような構造による軽量化を選んだ。柔軟性を秘めた強靱な外皮で船にかかる荷重を支えた船である。
 そんな必死で何かを生み出そうとする人々の、いじましいほどの微笑ましさが、鳥のようななめらかな曲線を持ったアスカの美しい外形を生み出した。火星の人々によって作られたばかりではなく、彼らの人生すら反映する船である。その姿は儚く美しい。しかし、この町や宇宙船アスカを作った老人たちにはこの土地の時間ではなく、地球の時間が流れているとアランは考えていた。
「お婆ちゃん」
 アランは隣の老人の上着の裾を引いた。今のアランの目的は、祖母を夕食の席に連れ帰ることである。
「お祖母ちゃん。早く帰ろう。エリーが来るよ」
「そうだね」
 ここで思い出に浸って、気分を落ち着けた後のお祖母ちゃんは物わかりが良い。アランは右手にアスカ、左手に祖母の手を握って立ち上がり、周囲の老人たちに、アスカを持ったままの手を別れに振った。老人たちも会釈や手を振って応じた。
「風邪を引かないよう注意するんだよ」
「またおいで」
「次はガールフレンドを連れて来てね」
 思い出話を聞かされるという経験を繰り返して、アランはこの老人たち名前や顔だけではなく、一人一人の人生の一端を共有していた。


「こんにちわ。アラン」
 エレノアは優しく笑って、帰宅したアランの肩を抱いた。出征した兄が帰ってきて結婚すれば姉になる女性である。アランは親しげにショートネームで呼んだ。
「ようこそ。エリー」
 彼はエリーの体温を感じながら思った。
(きっと、この人はティムの存在を、ボクに求めている)
 自分をかき抱く優しい腕のたおやかさに、彼女が婚約者の存在感を、その弟の体温や息づかいに求めたのだろうと感じたのである。それは出征した恋人の生存を祈る思いも籠もっていた。エリーは視線をお祖母ちゃんに転じて、人なつっこい笑顔で、お祖母ちゃんにも聞き取れるようゆっくりと声を大きくして挨拶をした。
「こ、ん、に、ち、は」
 アランはお婆ちゃんの耳元で、(ティムの婚約者のエリーだよ)と囁こうとしたのだが、今日のお祖母ちゃんは、ちゃんと覚えていた。
「よく来てくれたね、エリー」
 アランはそんなほのぼのした雰囲気の隙を狙って二階に駆け上がり、戻ってきたときには、彼の手から宇宙船の模型は姿を消していた。
「アラン。台所のサラダを運んでちょうだい」
「うん」
 アランは母親の指示に従って料理を食卓に運んだ。食卓には既に席に着いたお祖母ちゃんと皿を並べるエリーが居る。四人で食卓を囲んでみると、いつもの三人にエリーが加わって、仲の良い家族の景色になる。自分の分を取り分けたエリーが、アランに回してくれた大皿のサラダ受け取って、アランはこの食卓を囲む一員である嬉しさで笑顔を浮かべた。お祖母ちゃんもアランと同じ笑顔を浮かべていた。ただ、母親のマーガレットとエリーがぴくりと滲ませる臆病な雰囲気は、この仲の良い家族を演出にすがって心の不安を覆う気配を感じさせた。
「みなさん。新しいニュースがあります」
 どこからともなく部屋の中に響くのは、思考ロボットと呼ばれるダニーの声である。ロボットを利用する人々には様々な個性がある。例えば、家事ロボットに濃いめのコーヒーを提供しろと指示をしても、ある人にとっては香りが強めならば満足できても、別の人にとっては強い苦みを感じるほどでなくては満足できないだろう。ロボットが人間の指示に適切に応えるためには、利用者の嗜好や個性を把握している必要がある。
 この時代、ロボットは思考機能のみを利用者に従属させる形に進化をした。ダニーはその1つである。この家でダニーと呼ばれる思考ロボットは、現在はこの家の環境システムに常駐して、家の形をしたロボットとして、その中にいる家人のために、部屋を暖かく保ったり、風呂に湯を準備する。夜は寝付きの悪いアランのために子守歌を歌って聞かせもする。そして、その思考機能を電気自動車に転送して、家族のために運転手の役割もつとめることもある。思考ロボットのダニーはきまじめな男性の個性を持ち、この家で熟練した執事の役割を果たしているのである。
 ダニーはこの家族の会話の中から、この家族一人一人の性格や嗜好を学び取り成長する。今、彼はこの一家に何かの変化をもたらすかもしれないニュースをキャッチしたと知らせたのである。マーガレットは少し考えて、ダニーの提案を受け入れた。
「いいわ、教えてちょうだい」
「では、テレビモニターに流します」
 この時代、テレビカメラに向き合ったアナウンサーが、ニュース読み上げるのは、20世紀の昔のテレビと変わりがない。ニュースを自動音声と映像で流すことは可能だが、火星の人々はこの古くさい方法を堅く守っている。
 男性のアナウンサーが、解放軍の発表を伝えた。

【統合参謀本部 定時発表
 我が解放軍は 敵前線基地アコンカグヤ攻撃を決行せり。
 判明したる戦果、
 敵前線基地を使用不能の損害を与え、付随する艦艇の一部に重大なる損害を与えた模様。
 我が方の損害は、
 主力攻撃機アスカ168機を損失、支援艦艇2隻沈没、
 現在の所、更なる詳細は調査であります】

 火星市民の動揺を防ぐためか、戦闘の映像は使われてはいない。映し出された映像には太陽を回る火星の軌道を現す円周に、火星とアコンカグヤ基地の位置が表示されていた。その距離は時間にしてわずか四日の距離である。
 戦略的に語れば、連邦軍が地球の衛星軌道上から古い衛星都市アコンカグヤを牽引してきて火星の公転軌道に近い軌道に乗せていた。火星攻略のための足がかりになる敵補給基地である。その敵補給基地を無力化するために、火星解放軍が攻撃をかけたと言うことである。
「もういいわ、止めて」
 マーガレットの叫ぶような声に、ニュース映像はモニター上に映し出された美しい外形を持った小型船の映像を静止させて消えた。アランは画面にいくつも映し出された美しい船が、兄が乗るのと同じアスカと呼ばれる小型の宇宙船だと知っていた。一瞬の沈黙の後、凍り付いた表情を笑顔に変えたエリーが、話題を深皿のシチューに向けた。
「美味しいわ。独特のコクというか、ほのかな甘みがあって……」
「知りたい?」
「教えて」
「一つかみのレーズンを良くすり潰して入れるの」
「なるほど、レーズンの甘みと香りなのね」
「私もこの家で義母から習ったの」
「ラッセル家の母の味という訳ね。私もこの味が出せればいいな」
 料理の隠し味について、祖母から母に、母からエリーへとささやかな伝統が引き継がれてゆくのである。食卓からは、ものの見事に戦争の気配は消えて、微笑ましい家族の食事の景色に戻っている。アランは女性たちの会話が弾んでいる隙を狙って、スプーンでニンジンを突いて皿の端に寄せた。
「ティム、残さずちゃんと食べるんだよ」
  お婆ちゃんが眉をひそめてアランの行為を叱った。普段はぼんやりしているのに、こういう時だけは目ざとい。ただ、アランと兄のティムの区別がついていない。そのティムは、母親の言葉によれば、生まれ故郷を大きく離れて、アスカと共に遙か離れた小惑星帯にいる。この火星の軌道の遙か外側を回る無数の小さな星々が創る帯である。アランの脳裏に、星々の間を飛翔する兄の姿が浮かび、やがて兄の姿は自分に置き換わった。

 食事の後、母親のマーガレットは再び展望室へ行こうとする義母をなだめて、明日の夕刻まで延期させた。食事の後片付けを手伝うエリーは、既にこの家族の一員のようにとけ込んでいて違和感がない。アランは何やらぶつぶつ文句の多いお婆ちゃんを部屋に連れて行った。アランは幼い頃のティムになって祖母の話し相手を務め、過去に何度か聞いた思い出話をいくつか聞いた。思い出話をする祖母の相手が、ティムから少しづつお婆ちゃん自身の心に向いて、目を閉じた独り言になり、やがてベッドに横たわって発する言葉が無くなった時、アランは祖母に毛布を掛け、あとの世話を思考ロボットのダニーに引き継ぐことにした。ドアの外に出てそっと中を振り返ってみると、ダニーは照明を少し落として、室温にも気を配り、ほんのりと香るバラの香りと、お婆ちゃんのお気に入りのワルツのメロディで部屋を満たしていた。
 アランが居間に戻ってみると、母親が一人いたきりでエリーの姿がない。見回すとエリーのバッグは居間に残されたままで帰宅した様子もない。アランはこの状況に少し眉をひそめながら階段に足を向けた。
「アラン」
 母親が息子の名を呼び、目配せをして、エリーをそっとしておいてやりなさいと指示した。アランは頷いたが、この不都合な状況に、戸惑う視線を階段の上に向けた。階段を登りきって左がアランの部屋、右が出征した兄のティムの部屋である。
 開けっ放しになっていた右のドアから、そっと中をのぞき込んでみると、ベッドに腰掛けて無言で部屋を眺め回しているエリーの姿があった。
「エリー。ちょっと入って良い?」
「なあに?」
 アランはエリーが腰掛けていたベッドの下を手探りして、母の目から隠した玩具を引っ張り出した。
「ここ、ボクの宝物の隠し場所なんだ」
(なるほど)と相づちを打ちたくなる思いでエリーは微笑んだ。
 自分の部屋なら、散らかしていれば母親に片付けられる。隠している宝物を見つけ出されることもあるだろう。しかし、この部屋なら、この子の母も祖母も、思い出と共に大切に状態を保管して触れることはあるまい。アランにとって安全が約束された隠し場所なのである。
「アスカね」
 エリーはアランが手にした玩具の鳥のような宇宙船の外形を見てそう言った。
「うんっ。ティムが休暇で帰ってきた時にプレゼントしてくれたの。ティムが乗っているのと同じ型なんだ」
「男の子は幾つになっても、そういう玩具に夢中ね」
「ボク、大きくなったらアスカに乗るんだ。エリーとボクだけの秘密だよ。ママが聞いたら反対するから」
「だから、隠してるのね」
「早く乗りたいんだけど、ボクはティムよりずっと子どもだから」
「まだ時間がかかるのね」
「そう、ティムが言うんだ。『お前は父さんの三度目の航海の子どもだから』って。分かる、この意味?」
 首をかしげるアランに、エリーは屈託無く笑った。まだアランの歳では分からないかもしれない。地球にせよ、火星にせよ、エネルギーの資源大部分を木星に豊富に存在する重水素に頼っている。アランの父親は火星のエネルギー源を支える木星航路の輸送船の乗組員だった。往復に3年は要する航海で、長男のティモシーの誕生の後、三度の航海を経て帰港したときに夫婦が授かったのが次男のアランである。そして、四度目の航海の事故によって、この一家は主を失っていた。アランには父親の記憶はあるまい。あるとすれば、年の離れた兄に父親のイメージの一部を感じ取ることぐらいだろう。
「ティムも、子どもの頃は宇宙船に乗る夢を見ていたんだって」
「いま、私とお話をしているのは、小さな頃のティムかもしれないわね。今日はアランと話せて本当に良かった」

 一家にとって平凡な一日が終わり、エリーが帰宅して姿を消す時間になると、アランは宿題が気になりつつ眠気に襲われる。
「アラン。宿題はすんだのかい?」
 勉強机の前のアランにそう声をかけたのは、思考ロボットのダニーである。もちろん今はこの家と一体で、姿らしきものはない。
「ダニーって、ボクのパパの名前をもらったの?」
 アランは机を離れ、腕を枕にベッドに寝っ転がってそう聞いた。
「アランのお母さんに聞かないと分からないね」
「パパがいたらきっと、ダニーみたいだと思うよ」
「光栄だ」
 ダニーの心遣いは本当の父親のようで、声のトーンがアランの眠気と共に低くなり、最後に一言言い添えてこの部屋から消えた。
「宿題がまだのようだから、明日は早めに起こすからね」
 アランの母は、夫を亡くして以来、一人でティムとアランの二人の息子を育て上げた。その気丈な女性が、思考ロボットに亡くなった夫ダニエルの略称を付けて心の支えにしたのかどうか、本人に問うても答えることはないだろう。


 やや薄暗かった街の中の照明が、日の出と共に明るくなると、この町の人々は一日の始まりを実感する。太陽の光が差さない町の中ではこうして一日の区切りをつけているのである。
 母親のマーガレットは自ら息子のために朝食を作った。物資の統制でじゃがいもが手に入らず、キャベツやニンジンにジャガイモのデンプンを加えてミルクで煮た粥である。アランは文句も言わずにそれを食べ、友達と誘い合って登校した。
「また、あいつ、お前を見てるぜ」
 アランにそう囁くクラスメートのボビーの視線の先に、優等生のミッシェルが居たが、今のアランは、子ども同士の人間関係には余り興味がない。
 クラスメートの大半は両親が居り、子どもは父親の顔と体温を記憶していた。そういう事実に目を向けたとき、アランは写真の父親と重ねて、悲しみのない死のイメージを作る。しかし、最近のアランに、もう一つの死のイメージが出来上がっていた。ミッシェルがアランの視線を追って指さす先に黒塗りの自動車がある。彼女は感情を込めず呟いた。
「あっ、また……」
 漆黒の電気自動車が、ある家の戸口に留まる。黒い制服の人物がなにやら封筒を手にしている。その人物の一挙一動を、家人はカーテンの陰からのぞき見るように追っている。そして、制服の人物がいよいよ自分の家の玄関のチャイムを鳴らしたとき、ドアを開けた家人は玄関で泣き崩れるのである。
 アランは目の前で起きている出来事を何度か目にして、その後、その家から葬儀を出すことにも気づいている。アランのクラスメートにはあの黒服が、悪魔のごとく邪悪で、死神のごとく冷徹な妖怪だと語る者も居た。しかし、アランはあの制服の人物が、残された家族に戦死通知を届けているのだと気づいている。
 もともと軍という組織を持たなかった火星行政府には、大勢の家族に戦死を通知するという行政上の仕組みはなかった。その手続きの必要に迫られたとき、この星の人々は一編の通知を送るのではなく、軍の関係者が家族の元に届けるという古くさい仕組みを作り上げた。事故であれ、戦いであれ、この星のために命を投げ出した人物には敬意を尽くさねばならないという心遣いである。

 あの車がアランの家にやって来たのは五ヶ月程前のことである。
「ティモシー・ラッセル一等航宙士のご家族の方ですね?」
 母がドアを開けたとき、一人の黒い制服を着た年配の女性が礼儀正しく、戦死者との関係を確認した。アランは絶句する母の背後に寄り添って、その女の一瞥を浴びた。決して邪悪でも冷徹でもなく、敬意と慈愛と憐憫に満ちた目だった。アランの母は気丈にも泣き崩れはしなかった。ただ、通知の受け取りを拒否しただけである。

 アランたちはここ二週間の間にあの自動車を二度も目にしていた。大人たちは、先般の解放軍のアコンカグヤ基地攻撃の際に、軍の発表を遙かに上回る戦死者が出たのだろうと噂しあっていた。子どもたちはこの町の微妙な変化を肌で感じているのだが、教師たちは以前と変わらず、解放軍の軍律を持ち出して宿題を忘れた子の怠慢を叱り、元気のない子どもを前線で戦う勇敢な解放軍兵士を例に挙げて励ました。学ぶ内容は以前と変わりないのだが、大人たちの不安や混乱が、そんな形で子どもたちの中に入り込んでいた。この日も最後の算数の授業が避難訓練に置き換わったことを除けば、子どもたちは日常の日々と変わりがないスケジュールを終えた。
 大人の思惑はどうあれ、町の子どもたちはアコンカグヤという名を繰り返し耳にして、その名を連邦軍基地として覚えていた。今も下校途上の子どもたちの脇で町の中心部に設置されたモニターがその名を伝えていた。

【タルシスTVより、定時ニュースをお伝えします。解放軍統合参謀本部は、火星公転軌道付近に展開する連邦軍のアコンカグヤ基地が、機動部隊主力の補給を終え、出撃体勢整えた模様との発表を行いました】

 子どもたちが記憶したアコンカグヤは、火星攻略の足がかりの整備補給基地としての機能を整え、やがてやってくる陸戦隊の編成や出撃の根拠地ともなる。陸戦隊の攻勢前に、既に入港して整備を終えたフリゲート艦隊の来襲が考えられる。戦火はアランの兄のティムが戦っていたという小惑星帯を離れて、火星市民に近づきつつあった。
 教育を制度として語るなら、アランたちは火星の暦で6年間の義務教育を受ける。子どもたちの登下校の姿は、重い教科書やノートの持ち運びが無くなったことを除けば、数百年も昔の地球の子どもたちと変わりない。そして、親が子どもの宿題に頭を悩ませるのも同じ。
「アラン。宿題はちゃんと済ませたの?」
 帰宅した息子が身軽な姿で家を飛び出そうとしているのをめざとく見つけた母親はそう言った。
「帰ってからするよ」
 子どもがする言い訳も三百年も前と変わりがない。習慣は人々と共に火星にやってきて、しっかりこの地に根付いていた。
 アランが住む町は人口三万人程。シャクルトン市とサモア中継所を結ぶ118号線沿いにあり、他の都市に比べるときわめて小さい。118号線の補修や道路に沿って施設された通信網の維持整備の仕事を除けば、取り立てて産業らしいものはない。だから、住民はここで生まれて、出て行く。アランはそんな町の中を緩やかに駆けて展望室に向かった。

「どうして?」
 アランは自分以外の子どもには縁の無さそうな場所に、優等生のミッシェルが居るということに疑問を呈して首をかしげた。ミッシェルは言った。
「だって、先生から、この町のことを調べなさいって言われてるでしょ」
 アランが少し首をかしげる様子を見た彼女があきれて口を開けた。
「あなた、宿題のこと、聞いてなかったの?」
 そう指摘されると、下校の後の遊びを考えているときに、先生がそんなことを語っていた記憶が、僅かにある。
「名案だね」
 アランは素直にそう言った。ここは正面の透明な壁面を通して都市の南方方向を眺められるほか、東西や北の景色を映し出した全周モニターがあり、この町の立地条件を眺めることが出来る。僅かながらここを訪れる観光客のために案内板があり、この町の簡単な歴史が記載されている。この町を調べるには絶好の場所に違いない。ミッシェルは目ざとくここを見つけていたのである。
「いいわ。私が手伝ってあげる。アラン。あなたがここのことを書くのよ」
「ミッシェルは?」
「私はもう図書館と市役所の資料室を回って調べてあるから」
 彼女は基本的な調べ物はすませて、最後の仕上げにここにやって来たというのである。なんという用意周到さだろう。アランは彼女の真面目さに舌を巻いたが、彼女のその真面目さが、今はアランに向いている。彼女はアランに宿題をさせるつもりなのである。今日の老人たちは、アランを捕まえて思い出話をすることもなく、少年少女の関係を優しく見守っていた。彼女は周囲をぐるりと指さして、エリシウム平原の地形を教え、案内板に導いて町の歴史について指導した。
「ここは118号線建設の基地だったから、道路よりこの町の歴史の方が古いのよ」
 ミッシェルは勉強熱心ではない同級生に、案内板に記載された最後の行について指導し終えた。彼女の言葉は優等生らしい確信に満ちていて、アランは言葉を挟む余地がなかった。
「目の前に見えるのはエリシウム山、ヘカテストロスはあっちよ。間違わないでね」
 ようやくアランを解放する気になった彼女はこの町の地理について、山の方向を指し示し、念を押して駆け去った。彼女はアランと違って、まだまだやらねばならない勉強がある。
 アランは背後の老人たちを振り返って、黙って肩をすくめてみせた。老人たちの良い点は、人を身分や知恵で上下に隔てることはないと言うことだ。この場合も、アランを一人の親友として扱って、マレンゴ爺さんは年長の男性として語りかけた。
「歳を取って良いと思うことは、物事を見る目が確かになることだな」
 彼はアランに何かを示唆するようにウインクして続けた。
「あの子は、気だて良しのいい奥さんになる」
 奥さんというキーワードがアランの心を刺激した。母の姿が浮かび、兄と結婚するはずのエリーの顔が浮かんだ。ただ、結婚というイメージが儚くて、ミッシェルをその対象として感じることは出来ない。
「結婚? でも、ボクには出来そうにないよ。ボクは宇宙船のアスカに乗るんだ。だから、誰かを悲しませたくはないんだ」


 この小さな町は、人の通過点に過ぎないという理由で、悪意のある思想は人と共に流れ去って、戦時下であるにも関わらず、人々の心の静けさが保たれていた。ただ、戦局の悪化と共に、不満や不安、混乱が心の中に淀んで、歪んだ愛国心として吹き出す。地球排斥や火星への忠誠と服従を叫ぶ人の群れが生じていた。
「我々は火星人民の自由を死守する!」
 推測を交えて判断するなら、そういう意味の言葉になるだろう。街宣車両から発せられる音量は大きく、歪み、雑音も混じって意志を正しく伝えることが出来ないが、彼らはそれを顧みる様子はない。彼らが何かを口から発する目的が、意志を伝えることではなく、他者を威嚇し、優越感に浸るためだということだろう。
 更に、彼らには難解な言葉や言い回しを使って自らを飾る癖がある。アランたちには意味が理解できず、耳を覆いたくなる雑音に、下校途中の小学生たちは耳をふさいで迷惑そうに顔を見合わせた。
「我々の汗と血で、この大地を更に赤く染めて、地球連邦の圧政から、火星人民を解放してゆくのである」
 子どもたちはそんな言葉を残して走り去る街宣車両を見送った。
「うちの父さんが言ったんだけど、奴らの血や汗で汚さなくてもこの星は綺麗な赤い色だってさ」
 クラスメートのボビーの言葉に、皆は同意してくすくすと笑いあった。道が校区を抜け、緊急時には閉じられる巨大なシャッターがついた通路を通って行政区画を抜けるとき、アランは集団の一人、ミッシェルの態度が気になった。何かを思い悩むようにちらちらとアランに視線を送ってよこすのである。居住区画に向かう通路を抜け終わると、いよいよ生徒たちの住居の方向は分散して、集団はバラバラになる。集団から離れ無くてはならなくなったとき、ミッシェルは立ち止まり、はにかんだ笑顔で、不意にアランの手を取って誘った。
「ねぇ、アラン。面白い映画があるの。うちで一緒に見ない?」
 アランは生真面目に考え込み、決心したようにため息と共に言葉をはき出した。
「だめなんだ。今日は展望室にお婆ちゃんを迎えに行かなきゃ」
「アラン。あんたって、若い子より年寄りが良いの?」
「うん。わかんないよ」
「あんたなんか大っ嫌い」
 アランは困った表情で、走り去るミッシェルの後ろ姿を見送った。

 その一時間後、アランはミッシェルに語ったとおり展望室にいた。ここから宇宙を眺めて、アスカに乗る兄を思うことなのか、ここの老人たちと人生を共有することなのか、町中の不安や怒りの混じった戦時下の雰囲気を避けているのか、この展望室にやってくる目的はアラン自身にもよく分からない。ただ、独特の居心地良さがアランをこの場所に引きつけるのである。
 その居心地の良さをかき乱す集団が現れた。火星解放戦線と称する数十人の者どもが軍服を模したおそろいの衣装で、人数と怒号で周囲を威圧しつつこの展望室に侵入してきたのである。彼らの視線と隊列が老人たちに向いていた。
「地球に未練を抱く爺どもには、火星市民としての誇りはあるまい」
 リーダー格の若者がハンドスピーカで罵声を振りまく姿と、静かにそれを眺める老人たちを、彼らの仲間がカメラを構えて中継していた。自己宣伝の手段として、この光景を各地に配信しているのだろう。そのカメラが被写体としてアランを捕らえた。子どもを通した映像は人々の共感を得やすいに違いない。集団のスポークスマンらしい女が、アランに寄り添ってカメラを意識しつつ語りかけた。
「ねぇ、ボク。このおじいちゃんたちに、何か吹き込まれているの? ほらっ、火星は地球よりみすぼらしいとか」
「それって、なあに?」
 女はアランが自分の質問を理解しなかった様子に、苛立ちを隠せず言葉を続けた。
「坊やは、地球が大好きな裏切り者じゃないわね? 火星のために役に立ちたいって思うわよね?」
 その質問に、アランは素朴な疑問を呈した。
「マレンゴおじいちゃんたちはこの町を作ったの。みんな何かを作ったのに、あなた達は何をしているの?」
 彼らの驕慢さと自信はリアルタイムでこの映像を配信している。アランの疑問と、疑問に戸惑う彼らの姿は、既に各地に配信されているだろう。
「このガキは、連邦の思想に毒されている」
 アランの襟首をつかんで持ち上げようとした男の手首を、マレンゴの手が包んだ。長年、建設労働者を勤め上げた人物で、その筋力はまがい物ではない。男は手首の骨を握りつぶされるのかと、哀れな悲鳴を上げた。
 マレンゴは静かに言った。
「この子の父は火星のために命を尽くした。この子の兄はアスカ搭乗員を志願して小惑星帯に渡った。火星市民の誇りは生き様で表すものではないのかね。臆病者の弁舌で火星市民の誇りを汚すものではない」
 ポッターお婆ちゃんが笑顔でマレンゴの言葉を継いだ。
「私はここで長年子どもたちを教えてきたけれど、あなた達程、できの悪い子は居なかったわ」
 その言葉に、長年ここで生きてきた人の存在感がある。
「我々、火星解放戦線のメンバーは連邦の圧政と、火星における裏切り者の存在を断固許さない」
 彼らが幾分利口であったのは、老人たちの人生に、彼らの言葉の勇ましさでは抗し得ない事を悟ったことだろう。彼らは矛先を転じ、捨て台詞のように勇ましい言葉を並べながら去った。
「アラン、よく言ってくれたね」
 マー老人に頭を撫でられながら、アランは周囲を見回して素直に言った。
「みんな、凄いんだね」
 徒党を組んで勇ましい言葉を吐く集団より、老人たちの人生が背負ってきた重みを感じたのである。ふと、マーが首をかしげた。
「今日はあの子は見かけないが」
「ミッシェルのこと?」
 アランが悩む様子を察したポッターお婆ちゃんが気を回してたずねた
「あの子と、ケンカでもしたのかい?」 
「知ってる? 女の子って難しいんだ。特に、年頃の子はね」
 そのため息をつきながら呟くアラン言葉に、老人たちは声を上げて笑いあったが、アランにとって不快ではなく、老人たちにも心地よい。この少年は老人たちに幼い頃の自身の姿を映して見せてくれるのである。

 


「朝食の準備が出来たから、お婆ちゃんを呼んできて」
  いつもはアランよりずっと早起きのお婆ちゃんが、今朝は起きてこない。朝食のテーブルについていたアランは、コップにオレンジジュースを注ぐ母親の指示で奥の部屋に姿を消した。
「お婆ちゃん。ボクはアランだよ」
 家の中に響き渡る息子の声に、何かの異変を感じたマーガレットは、義母の部屋に駆けつけた。穏やかな笑顔を孫に向ける義母の姿は微笑ましいのだが、発する言葉にぞっとする違和感がある。
「ダニー、ダニー、何を言ってるの?」
「お婆ちゃん、ボクはアランだってば」
「お義母さん、どうなさったの?」
「あら、新しいベビーシッターさんね? 今日は良いのよ。私が息子のそばにいますから」
「お義母さん」
 マーガレットは、来るべきものが来たという達観で言葉を失った。義母は息子と孫の区別もつかず、嫁の自分のことも忘れてしまっているのである。マーガレットはエプロンを脱ぎ、思い詰めた目でアランを見つめて言った。
「今日、ママは帰りが遅くなるわ。お婆ちゃんを連れてシュワルツ先生の所に行くから」
「うん」
 アランの前にいるのは、ここのところ、時折、弟のアランと兄のティムの二人の孫を間違えた祖母ではなかった。精神科医シュワルツ医師の患者であり、この火星にやって来てから40年の記憶を封じ込めてしまった老人に過ぎない。医師に連絡を取る母の傍らに、現実から乖離し、黙って幸福そうな笑顔を浮かべている祖母がいる。今の自分はお婆ちゃんに寄り添っても慰めにはならず、母にまとわりついても手助けにはならない、今の自分に出来ることを。アランというのはそんな物の考え方をする男の子だった。彼は黙って、そういう景色を背にして家を出た。

「アラン・ラッセル!」
 授業も聴かず、黒板から目を背けて、ぼんやりと外を眺める生徒に、女教師の叱責が飛んだ。さすがに三度目になると、教師の失望の声音に怒りが混じるようになる。普段から授業中に空想に耽っている子だが、いつものことだと寛容的になるには、今日のアランはあまりにも授業に無関心すぎた。斜め前の席から振り返ったミッシェルが、そんなアランを眺めていた。唇を結び。頬をぷっと膨らませて眉をひそめて見つめる様子は、優等生が不真面目な生徒に投げかける表情ではない。不満と心配、戸惑いに混じってその隙間から好意がにじみ出している。そんな彼女は火星生まれとか優等生という特別な存在ではなく、昔からどこにでもいる思春期の女の子である。アランはミッシェルに気づきもせず、一人つぶやいていた。
「マレンゴ爺ちゃんたちに知らせに行かなきゃ」

 下校時間、学校の区画から南へ5分ばかり駆けると町を貫く118号線があり、立体交差の下を抜けてしばらく歩くと、町と公園を隔てる遊歩道の隔壁にたどり着く。都市は頑丈な外壁で包まれてはいる。しかし、外壁に損傷が生じた時のために、この都市は区画ごとに壁で区切られ、緊急時は損傷区画が遮断される構造なのである。
 公園に沿って伸びるトンネル状の遊歩道の突き当たりにあるシャッターをくぐれば公園の中である。町に面する壁面には町の地図や官公庁の利用案内、緊急時のシェルターの利用方法を記載したパネルの他、この町の歴史を示す写真が掲示されていた。公園と遊歩道を遮る壁面には幾つかの四角い大きな窓があり、遊歩道の中から公園の中を眺めることが出来た。アランはその窓の一つの前で足を止めた。もちろん、まだ陽は高く、昼間の空の明るさが公園の中を満たしていた。地球の人々が空を海の青さに例えるなら、火星の人々はこの空の色を真珠の色に例えている。素朴な温みを感じさせる色である。その光の中で老人たちがたたずむ姿が窓によって四角く切り取られ、1枚の絵のように見えたのである。
 しばらく間をおいて、アランは再び駆けだして遊歩道端のシャッターを抜けた。いつもより早く、祖母を連れずに一人で公園に現れたアランに、老人の一人が尋ねた。
「サマンサはどうしたんだい?」
「みんなのこと、全部、忘れちゃったの」
 アランの一言で老人たちは事情を察した。アランの言葉が涙に変わる前に、ナターシャ婆ちゃんがアランの唇に手を当てて、代わりに言葉を紡ぎ出した。
「そう。サマンサの心は、先に地球に帰ったのかもしれないね」
 その言葉に、アランは反論したい。しかし、それを表現する具体的な言葉が見つからず、断片的な思いを心の中に広げた。
(でも、本当の笑顔なんだよ)
 祖母の笑顔は澄んでいて濁りがなかった。あの笑顔が祖母の人格が抜け去った残渣だとしたら祖母がここで生きて残したものは何だろう。アランは立ち上がった。
「また来るよ」
「そうだね。今日はサマンサのそばに居ておやり」
「うん」

 同じ頃、アランの家では思考ロボットのダニーが行政区から市民に発せられた緊急ニュースを報じていた。
【解放軍統合参謀本部発表
 敵前線基地アコンカグヤに駐留する敵艦隊は出撃の準備を整えた模様。我が方はフォボス、ダイモス基地に展開する軌道艦隊がこれを迎撃、撃破すべく出撃体勢に入りました】

 ニュースを要約すれば、いよいよ、この火星の大地は本格的な空襲にさらされると言うことである。そんなニュースをこの家の人々は聞いていない、心の底に長子のティモシーが、ここから遙か離れた小惑星帯で戦っているという意識があり、遠く距離を隔てた戦場を自然に感じるのである。ここのところ騒がれるようになった連邦軍基地アコンカグヤというのは、寝耳に水のような感覚があって実感として感じていない。
 もともと奇妙に見える戦場だった。自治権拡大を叫んで始まった運動が激しい独立運動になり、それは発火して拡大した。その火種は連邦軍がテロ事件を巡って火星の警察権力に介入したという、政治上は些細な事件だが、両勢力の面子に大いに関わった。火星軌道近傍で、両勢力の衝突が潰えて僅かな安息の時間を迎えた。
 地球連邦政府が叛乱と位置づけた火星行政府の自治宣言を鎮圧するためには、少なくとも数百隻の戦闘艦艇で火星を取り囲んで封鎖し、その地上に90万人の兵員を送り込む必要があると見積もられていた。もちろん、兵士と軍需物資を運ぶ輸送船やそれを護衛する艦艇も必要となる。そんな大規模な兵力について、地球と火星の長大な距離を補給を支えることはできず、直接の戦闘は頓挫した。
 互いの星を直接に攻略する足がかりを掴めない両者は、相手のエネルギー資源の枯渇を目的に、両惑星に共通するエネルギーの補給源の木星航路の遮断を計った。当然のように、かつ、一般市民にとって意外にも、戦場は地球や火星ではなく、その外側を回る小惑星帯の無数の小さな星々に移動した。小さな星の一つ一つを巡って、互いの命をすり潰す凄惨な戦場に、数多くの兵士が送られ、この一家の長兄のティモシーもその一人だった。残された家族はここにいる。しかし、祖母のサマンサの記憶は遠く彼方に去ってしまったようだ。

 今ひとつ、この家族に別離が生じていた。エリーが故郷の両親の元に返るという決心とともにマーガレットのもとを訪れたのである。
「そう、帰るのね」
「ええ、明後日のバスで、この町を発つつもりなの」
「いつでも、この家に帰ってきてちょうだい。ここはあなたの家と同じだから」
 事実、マーガレットがエリーを抱きしめる様子は娘を抱くのと同じ優しさを持っていて、エリーが浮かべるのも家族との離別を悲しむ涙である。この時に、玄関先にドアの開閉音が響いた。アランの帰宅を察したエリーはマーガレットに尋ねた。
「ティムのことは?」
「あの子にはまだ話してないの。だって、あの子にとって父親も同然だから」
 彼女は息子のティムの戦死通知の受け取りを拒否している。小惑星帯という遠く離れた戦場で戦死をしたと言われても信じがたく、この家に残るティムのものは生きているティムの思い出そのもので、遺体すらない死の通知より、遙かにイメージが強いのである。死んだと思われていた兵士が医療技術の粋を尽くして生還したという奇跡のようなニュースがあり、息子もまたその奇跡の恩恵に浴するのではないかと僅かな期待を持っていた。彼女はアランにとって父親も同然の長男の死の宣告を、次男に語っていないのである。
 しかし、戦場は小惑星帯を離れて火星近傍に移り、戦火を身近に感じてみると、息子ティムと遠く隔てられたという意識になる。息子の生存を信じる心に亀裂が生じている。そんな二人の背後に、いつの間にか、二人を眺めるようにアランがじっと立っていた。

 ティムの部屋で、エリーとアランはベッドの端に並んで腰掛けて、ティムの思い出を共有した。エリーが切り出したのは、突然の別れ話だったが、アランは泣きもせず、悟っていたように言った。
「エリーにだって、大切なお父さんやお母さんがいるもんね」
「そう、今は両親の側にいてあげたいの」
「でも、離れてしまったら、ボク、エリーを守れなくなっちゃう」
「ありがとう。今まで私を守ってくれていたのね」
「そう、ティムとの約束なんだ」
「そんな約束をしていたの?」
「これ」
 アランがベッドの下から取り出してエリーに差し出したのは宝物にしているアスカである。アランにとって兄の形見とも言えるだろう。
「いいの? ティムからもらった大事なものでしょ」
「いいんだ。ボクはそのうち本物に乗るから」
「あなたがアスカに乗って宇宙を飛ぶのが、平和な時代でありますように」
 エリーはそう祈った。
「私は思うのよ。百年前も、二百年前も、もっとずっと昔も、人はきっとこんな会話をしていたのね。誰かを愛して、誰かと別れて……、でも、誰かに何かを遺して思いを継いできたのね」
 エリーが託されたアスカを見つめて語りかけるその先に、ティムの姿があるのだろうとアランは思った。
 アランと母親はエリーが帰る日にバスターミナルまで見送ると約束した。その夜、アランはいつもの時間にベッドに横になったが、目がさえて眠れない。ティムの部屋にアスカの模型を取りに行こうと考えて、エリーに託してこの家にないことを思い出した。いつもアランの心を満たした物が無く、空っぽになった心に様々な疑問が入り込んでは、次の疑問に押し出されるように消え失せた。どの疑問にも回答は得られなかったが、ふと、展望室の老人たちの姿が浮かんだ。あの老人たちならば。
 思考ロボットのダニーは、黙ってアランを見守るように声はかけず、アランが安らかな眠りにつくように空調に気を配っていた。明くる日の学校は休みである。就寝がやや遅くなっても差し支えはあるまい。

 



読者登録

塚越広治さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について