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それはふとした拍子にいつでも顔を出す。なぜかは分からない。母との思い出なんて途方もないくらいあって、もちろんこれからもたくさん作られていくのだろうけど、その記憶だけは何かの象徴のように、道標のようにわたしのどこかに刻まれている。

 わたしは公園にいて、いじめられていた。今から考えてみれば、なんてことはない。女の子が男の子に混ざって遊んでいれば何かしらいじわるをされるというものだ。そのときは和豊もおろおろするばかりで、頼りにならなかった。

 ゴールの無いサッカー遊びみたいにわたしは色んな手から手へ乱暴にパスをされ、ぎゃあぎゃあ泣いていた。やめてよう、と叫んでもいた。

 日曜の昼下がり。本当になんてことはない一日だった。もみくちゃにされながらも母が遠くのほうにいることに気付くまでは。

 何をしているのだろうと思った。よくよく見てみると屈伸運動をしている。両膝に手をついて、身体を曲げ、伸ばすということを繰り返していたかと思うと、こちらに向かって走り出した。

 あと数歩でわたし達のほうへ到達する、というところで母は飛んだ。そう、飛んだのだ。それは優雅で力強く、きれいだな、と母親ながら感じたものだ。

 そうして放たれた「ドロップキック」は、すんでのところで一人のいじめっ子の頭をかすめ、母はオリンピック選手のようにわたしの隣に着地した。

「あんたたち、次は確実に頭に当てるよ」

 その場の空気が一瞬にして凍りついた。それまでわたしをいじめていた奴らは一様に、当然だろうが、恐怖におののき一目散に逃げ出した。なかにはあまりの衝撃におしっこを漏らす者までいた。

 もちろんわたしも度肝を抜かれた側の一人だ。普段は家事をこなしている母と、どこかのヒーローがやりそうなドロップキックの組み合わせは、犬の新体操みたいに現実味が無かった。

 母は地面に膝をつき、顔を目の前に持ってきて、両手でわたしの顔を優しく包んだ。

「みさき、負けちゃだめ。これからつらいことがたくさん起こると思う。でも負けちゃだめなの。今回はお母さんが助けたけど、女だからって奥に引っ込んでいないで戦う強さも持たないと」

「うん」

 まだ小学校に入学して間もない頃だ。そんなときに精神論みたいなことを諭されても、うんとしか言えない。

 母はそのあとすぐに立ち上がってどこかへ行ってしまった。

 わたしは中学生になった。母の希望にはまだ応えられていない。

 はっきりしている人だ。間違ったことをしたり嘘をついたりすると怒る。暴力はふるわないが、壁にパンチで穴があいたことはあった。たまのヒステリーはご愛嬌。ほめるときは全力で抱きしめてくれる。理性と感情の競争の結果は常に決まっているようだった。

 母は離婚したあと、少し変わってしまった。

 

 

 ワラビーの捕まえ方をご存知だろうか。そもそもワラビーは? 簡単に言えば小型のカンガルーである。

 つぶらな瞳で草原をぴょんぴょんと飛び跳ねる姿は愛らしさを感じなくもない。

 お昼のニュースで、カナダにある動物園からワラビーが脱走し、長時間に渡る逃走劇の末、保護されたという内容が紹介されていた。

 太陽の光にキラリと輝く並びの良い歯を見せながら飼育員のお兄さんが、身振り手振りを加えながら軽やかに一部始終を語っている。

 尾の付け根を持つんだ。そのときは後ろ足で蹴られないように気をつけることが大切なんだよ。

 そうかあと思った。わたしは尻尾に注目する。触ったらふさふさの毛が手のひらを優しく刺激してくれそうだ。

 体育座りの体勢から、そのまま足を開きうつぶせになる。最近のわたしは「尻尾」だとか「尾」だとか、そういった言葉に弱い。 

 劇中で尻尾は「もふもふ」と呼ばれる。いつもはあんなにかわいく真ん丸なもふもふが水色の刀みたいになったり銃にも変形したりして、悪者に鉄槌を下す武器となるのだ。ツンデレにも似たその変貌振りにわたしは虜になった。

 もふもふはついに発売されることとなったのだが、購入するにはいくつかの条件があり、それがわたしを苦しめている厄介なものなのだ。

 この世に生を受けて十年と少し。わたしは初めて挫折という言葉の書き順と意味だけでなく、どんな状態を指し示すのかを知った。一つの出来事でこんなに心をかき乱されたことはない。

 勘違いされることがないように言うが、決してわたしはオタクではない。

 

 朝仕事に行く前に母が作ってくれたお昼を温めなおして食べ終わると、わたしは軽くため息をつきながら自室に戻った。部屋のいたるところにフィギュアが埋め尽くされ、本棚にはアニメやゲームに関する雑誌で溢れている。机の上にはわたしが空想の道へ足を踏み入れるきっかけになったと言っても過言ではない、アニメ『宇宙戦記モルアーガ』のお菓子についていたおもちゃが置かれている。宇宙船ドタンクから主要なキャラクターであるミチオやマナミまで揃えることができた。

 できることなら好きな声優のポスターを部屋の壁という壁に貼りたいのだが、突然母が掃除をしにくることがあるので、なかなか実行に移せないでいる。

 ベッドに飛び込み、うつ伏せのまま、むーん、とうなった。身体を起こして机の上に手を伸ばし、コピー用紙の半分くらいの大きさの一枚の紙をつかみ取る。

 

「先着百名様に漏れなく〈水色もふもふ〉をプレゼント! 

 ※親子同伴のお客様に限ります」

 

 毎月十五日発売の雑誌『アニMAX』に挟まっていたものだ。イベントの開催日は一週間後の日付が記載されいている。DVD第一巻発売記念イベントが日本一の電気街で開催されるとのこと。わたしはどうしても水色もふもふが欲しいのだが、親子同伴は不可能に近い。

 第一に母は全くそういうものに興味がない。いや、興味を持って欲しいとまでは言わない。せめて一ミリだけでも理解を示して頂きたいのだ。

 あるとき深夜にそのアニメをテンションも高く見ているときに背中に違和感を感じて後ろをがばりと振り向くと、母が見てはいけないものを見てしまったような、いかにもバツの悪そうな視線を投げかけていたことは今でも鮮明に覚えている。

 第二に恥ずかしい。何が悲しくて中学生にもなって、母親と旅行しなければならないのだ。わたしはこの企画を考えた者をこちらに呼び出して説教したくなった。全く分かっていない。視聴者は純粋無垢なお子ちゃまだけではないのだ。

 携帯のメール受信音が鳴った。もちろん逃亡王女マリーの主題歌、「誰がために」が設定されている。ディスプレイには「和豊」と表示がある。時間は決まっていないがほぼ毎日メールを送ってくれる。

 内容は学校でどんなことがあったとか、自分が何をしたとか簡素なものだ。そしてなぜか敬語である。

『今日はたいへん雪が降っていたのに、体育の授業は通常通りに行われました。岩松先生のことがとても憎いです』

 和豊はわたしのことが好きだ。以前に告白された。

 そのときは驚いたが、結局断った。恋だの愛だのというものはどこか別の世界のことで、自分がそこの住人なることはどうしても想像できなかったし、和豊とは友達でいたかった。

 申し出を断った後しばらくは気まずかったが、すぐに元の状態に戻った。和豊は元来楽天的でひょうきんな性格で助かった。

 嬉しく思う一方で、たまに胸が痛くなるときがある。相手の気持を拒絶したくせに、と誰かが呟くのだ。そんなときはただ、ぐだぐだと過ごす。いつしかこんなことはすぐに処理できるような日がくるのだろうかと、感傷的になって苦笑する。

 

 

全ての始まりは先月から放送が開始されたアニメだった。

 そのときのわたしは、おもちゃを買ってもらうために地べたに這いつくばる子供のように動きたくなかったし、何も考えたくなった。何の基準もなくチャンネルを変え、視線を素っ気ないブラウン管に向けていた。

 始まりは唐突だった。まず画面いっぱいに真紅の色彩が広がる。長いマントが風に雄々しくたなびいているのだ。

 引きが入り、ある人物の後ろ姿が見えてきて、その者は高い崖から何かを眺めている。外壁が白く、天を突くように大きな城だった。

 画面が切り換わり、やっと横顔が出てくる。優雅に揺れている黒髪の間から見える非常に大きい瞳は可愛さだけでなく、揺るぎない覚悟を持った強さが感じられた。

 そしてナレーション。

『マリーの現実はぶち壊された――。さあ逃げよう。真実を知り、母を取り戻すために』

 風が強くなり真紅に染まったマントがさらに形を変え、のたうつように舞う。入道雲のように白く丸い尻尾が目を引く。

 ギターを素早くかき鳴らす疾走感溢れる音が聞こえ、主題歌が始まる。

アニメの題名は、『逃亡王女マリー』。

 

第一話 「さらば故郷! 命をかけた逃亡」

 

 炎をまとった矢が木に命中し、火が爆ぜる音がそこここで聞こえる。何よりさっきから相当な量の煙を吸っている。今でも、ひゅんひゅんと音をたてながら矢は自らの役割を果たす場所を求めていた。

「マリー様。こちらに」メシルが片手で顔を覆いながら、もう片方の手で、ある方向を示している。わたしは体勢を低くして無言で歩を進めた。

「グラン王国の王女を殺そうとしてるの」虚勢をはり、冗談交じりに言おうとしたが、飛び出た声は十分に恐怖を孕んでいた。

「あなた様が突然逃げ出し、私とウルもそれに続いた。わたし達を殺す以外に馬鹿みたいに矢を放つ理由がありますか」

「ないわ」

 メシルは代々グラン王国に仕える近衛兵の血筋に生まれた家臣で、こんな状況でもわたしの味方をしてくれた。ウルも赤ん坊の頃から世話をしてくれている信頼のおける召使いだった。

「このまま道なりに進むと大きな川にでます。船に乗ることができれば、とりあえずは落ち着けるかと」

「分かった」

 整えられた道を通ると待ち伏せされている可能性があるので、見たこともない植物が鬱蒼と生い茂る道なき道を駆ける。しばらくすると視界が急に開けた。どどど、という轟音と共に細かな水の粒が頬に触れる。滝だ。

「ここを下れば船渡し場に着きます。行きましょう」

 再び走る体勢になった瞬間目の前が暗くなった。とっさに後ろに飛ぶ。思わずわたしは息を呑んだ。

「ランス」

「マリー様、誠に残念でございます」

 グラン王国近衛隊隊長のランスが夜の闇に溶け込むような漆黒の甲冑に長剣を帯び、普段通り背筋をぴんと伸ばして姿勢よく立っていた。 

「わたしを殺すためにきたの」

「めっそうもございません。マリー様、城に戻りましょう」一言一句、いたずらをしてしまった子供をさとすように言う。だがその言葉は重く身体に響いてくる。

「戻ったところでどこにマリー様の居場所があるというのだ!」怒鳴り声を挙げ、メシルが応える。 

「マリー様」メシルには一瞥をくれただけで、ランスはわたしを細い目で見つめ、低いのだが、ぬるりと耳に入り込んでくる声音で呼びかてくる。

「わたしは帰らない」

「そうですか」いつも見慣れた無表情が、悲しかった。いっそ大声をあげて怒ってくれたほうがましだ。「それでは、私があなた様の命を頂戴します」

「ランス殿、私がお相手しましょう」わたしの隣から、、メシルがすっと前に進み出た。

「下がってなさい。協力してくれるのであれば、メシルとウルの家族の命は保証しましょう」

「家族の身の危険などとうに――」

「いいわ。わたしが戦う」

「しかし」

「いくわよ、ランス」言うが早いか、斬りかかる。戦いの始まりに呼応するかのように炎の勢いは増し、その身体を不気味に揺らしていた。

 

 

 わたしは今、休学している。特に理由はない。毎日学校に行く必要性を感じないのだ。二ヶ月を予定し、もうすぐ一ヶ月が過ぎようとしている。これは突発的で、無計画なものでは決してない。日本の中学校では年間二百十日の授業日数があるが、三分の二以上出席すれば問題ないのだ。単純計算で七十日は休める。

 休学したいことを告げたとき、母は身体中の酸素が出ていくのではないかと心配するほど長い長いため息をついた。

 父と母はわたしが小学校を卒業したあとすぐに離婚した。それからというもの、母は元気が無かった。表情はいつものように起伏の激しいものでなく、物事を斜めから見ているような、とげのある顔つきになることが多く、笑うことも少なくなった。

「何で」

「いや、そんなに毎日学校に行く必要ってないかな、って思って」

「知らないわよ、勉強に遅れちゃっても」

「勉強は自分一人で頑張る」

 一時しのぎの適当な言葉だった。

 母はリビングの椅子に深く腰掛けていた。立っているわたしを眉間にしわを寄せて見上げながらまた深いため息をつき、言った。

「勝手にしなさい」

 母の階段をのぼっていく足音がやけに胸に響いた。

 

 DVDに録画した『逃亡王女マリー』を見ることにした。

 今わたしが視聴している話ではマリーの尻尾について、その秘密の一部が明らかになる。マリーが生を受けたグラン王国では「一の人」から「五の人」という具合に人種が区別されている。「一の人」が最も上級の階級である。「三の人」までが住居や職業の自由を認められている人々で四、五の人々は住居が決められており、社会から完全に切り離されている。彼らは外見で区別される。すなわち尻尾がついているかいないかだ。ちなみに無尻尾人(むしっぽじん)、有尻尾人(ゆうしっぽじん)という呼称だ。

 一般民衆には稀に有尻尾人が生まれる。その赤ん坊は不吉のことが起こる前兆であるとしてすぐに殺される。なぜかというと、それはグラン王国の歴史を紐解く必要がある。

 もともとこの土地では有尻尾人も無尻尾人も関係なく幸せに暮らしていたが、あるとき有尻尾人たちが反乱を起こしたのである。

 騒ぎは現在の無尻尾人たちの手で収められた。それ以来、有尻尾人たちは虐げられる存在となったのである。

 ここで大きな疑問が一つ。なぜそんな歴史的背景があるなかマリーが生まれたのか。このことが『逃亡王女マリー』最大の謎であり、どんな真相が待っているのか楽しみでもある。

 エンディングテーマ「悲しみの果てに」までしっかりと堪能してテレビを消す。やっぱりこのアニメはすごい。内容が内容だけに話が暗くなりがちなのだが、マリーが現実をしっかりと受け止め、果敢に敵に立ち向かう姿に視聴者は心をつかまれるのだ。

 迫力満点の戦闘シーンも毎回楽しみの一つだ。マリーの尻尾が様々な形状に変化し、敵をぶちのめしていく。戦いのあと毎回マリーは、鼻筋の通ったきれいな顔をゆがませて、こう言うのだ。

「どうして憎しみは減らないの」

 かーっ! やっぱマリーは最高だわ、と思って床をどんどん叩いていると呼び鈴が鳴った。時計を見る。母だ。アニメを見ていた痕跡を残さないため急いで片付けて、わたしは玄関に向かった。

 

 晩御飯はチャーハンとわかめスープだった。部屋は幸せな匂いで満ちている。家に一日中居ても、やはりお腹は空く。

「いただきます」

「いただきます」

 しばし食器とスプーンがぶつかったり、わかめスープをすする音が辺りを支配する。テレビはつけない。

「今日は何してたの?」

「テレビ見たり、ちょこっと勉強したりとかかな」

「そう」

 会話が続かない。最近の母の様子も気になるが、今のわたしには、もふもふを手に入れるという大事なミッションがある。しかしわたしにはマリーのように武器がない。例えば学校に行っていれば、テストで何点とっただとか、部活で優秀な成績を残しただとか、それを交換条件に交渉できる。ただ毎日家にいるだけの人間に何ができようか。

 それでも物は試しということもある。そう思って、最後の一口を食べ終えると恐る恐る声をかけてみることにした。

「ねえお母さん、ちょっと、お願いがあるんだけど」

「何?」

 一瞬わたしに向けられた母の瞳に込められた強さに驚いた。

 なぜだろう、必死さが滲み出るような視線だった。

「いや、やっぱなんでもないや。皿洗いわたしがするから」

 怪訝な表情をする母を避けるように席を立つ。抱えている食器の一番上にある、母が少しだけ残したスープがゆらゆらと波打っていた。

 

 部屋に戻ると、和豊からメールがきていた。

『外にお届けものを置いておきました』

 首をひねりながら階段を降りる。出かけてくる、とリビングに向けて言ったが返事はなかった。

 玄関を出ると目の前に「←」のマークがあった。どうやら踏み固められているようだ。こちらに進めということか。

 矢印は等間隔にわたしの進む先を指し示していた。雪を踏んだときのさくっさくっと小気味良い音が、しんと静まり返った夜道をにぎやかにする。

 和豊が一人で雪と格闘している様子が浮かんだ。暇な奴だなとあきれつつも表情が緩む。

 角を何回か曲がり行き着いた先には、膝ぐらいまでの背丈がある雪だるまがいた。大きさの違う黒いボタンでできた目、人参の鼻が愛らしい。ようこそ、とでも言うように木の枝でできた両腕を広げている。右手にガシャポンで出てくるカプセルを持っていたので、開けてみる。折り畳まれた紙が入っていて、「はずれ」と書かれてあった。

「え」

 しばし無言で突っ立っていると、拍手が聞こえてきた。

 振り返ると、果たしてそこには和豊がいた。

「たどり着いたようだね」

「こんなとこに女の子呼び出して何なのよ」

「はいこれ」

 クリアファイルを渡してくる。ノートのコピーが入っていた。国語、数学といった具合に分かれていて、意外に几帳面さを感じる。

「勉強遅れまくってるんじゃないか? 早く学校戻って、宿題の答えをうつさせてくれよ」

「……何であんたの宿題のために学校行かなきゃいけないの」

「冗談だよ」和豊はへらへらと笑いながら、詰め寄るわたしから逃げるように後ずさりした。「でもさ、たまには外に出るのもいいだろ。それじゃ」

 そう言って帰っていく。

 街灯の弱い光にぼんやりと浮かび上がる背中に向けて、わたしは小さく、ありがとう、と呟いた。

 

 家に戻ると、やけに騒々しい。嫌な予感がしてわたしは自室に飛び込んだ。母がゴミ袋を抱え、何か詰め込んでいた。それが何かすぐに分かった。

「何してるの」

 母はわたしが保管していたアニメのDVDを乱暴にゴミ袋に入れながら、叫んだ。「もうこんなものは見てはいけないの。お母さんと一緒に病院に行きましょう」

「嫌だ。お母さん、お願いだから捨てないで」

 わたしが言うことを聞かないことを悟ると、母はさらに動きを激しくした。

 頭の片隅で何をしているんだと自分を情けなく思いながら、母に取りすがってわめいた。しかしそんなことに効果などあるわけがない。

 苦心して集めたフィギュア、ポスター、DVDがゴミ袋に吸い込まれていく。

 特別に作った『逃亡王女マリー』の棚に手が伸びたとき、最後のあがきで母に後ろから飛びついた。わたしを引き剥がそうと揉み合いになっているうちに、あやまってわたしは机の角に頭を打ち付けてしまった。

「みさき」

 意識が澱み、視界がぼやける。倒れる、と直感して手を伸ばすが、緊迫した場面にそぐわない、へっぽこ打者が空振りをするように滑稽に、指先は空を切っただけだった。

 

 

 ところで、マリーの尻尾は武器にだけ変化するわけではない。例えば何か危険物が落下してきたときに下にいる者を守ってくれる大きな手になってくれたり、川では対岸へと渡してくれる橋に変化する。

 今わたしの目の前でマリーが何物かと戦っている。敵の姿形は一切分からない。それは黒い塊で、巨大で、手強い相手のようだった。わたしは何もできずに見ているだけ。

 突然マリーがこちらのほうに向かって走ってきた。わたしのもとに来ると、焦った様子で何か伝えようと必死に語りかけてくるが、わたしはそれを聞き取ることができない。

 そうこうしているうちに、黒い塊はゆっくりと近づいてくる。やがてわたしはマリーと、黒いヴェールに覆われてしまう――。

 

第××話「喪失! 壊れていく過去」

 

 キィンという甲高い音だけを耳に残し、わたしが持っていた剣は何度か回転したあと地面に突き刺さった。

「マリー様、脇ががら空きです。相手への攻撃力が弱まりますし、このように簡単に剣も飛ばされてしまいます」

 唖然とするわたしを横目に、ランスが言い放つ。

「……もう一度お願いします」 

再び剣を手に持ち、息を整え、構える。と、ランスが剣を鞘におさめた。

「マリー様はなぜ剣を持っているのですか」

 唐突の質問に驚きながらも、わたしは答える。少し休憩できそうだ。

「何でって……。今は鍛錬の時間だから」

「もっと根本的な理由です」

「え? そんなの別にないわよ」

「そうですか。月並みな理由ですが、私はグラン王国の民、そして家族のために剣を持ちます。だからこそ身に力が入り、戦いに惜しげもなく自身の命もかけることができます」そこで肩をすくめ「まあ、死にたくはないですけど」そしてまたランスは剣を抜いた。わたしの身長ほどもある長い刃が太陽の光を反射し、輝く。

「何をするにも理由を追求するのです。なぜ、なぜ、なぜ、と。それが腹に落ちたなら、やることに対してしっかりと向かい合うことができます。強くなれます」

「ふーん。それならわたしはランスを倒すために剣を持つ。だって、いつも負けてばかりで悔しいもん」

 ランスが微かに笑った。珍しいことだ。「それはいい。立派な理由です。是非倒してください」そう言って地面に刺さった剣を指差す。「さあ、剣をとって」

 

 暗く、冷たい水の中を漂っていた。このままどんな光も届かない闇のなかに身を任せたかったが、そんな気持ちとは裏腹に、わたしは口から吐き出されたあぶくとともに浮上していく。

 ひどく疲れていた。両手足を死んだ蛙のように開くことしかできない。自身のことが情けなく思えて笑おうとしたが、さらにあぶくが出ただけだった。

 あのときランスに斬りかかり、気がつくと彼は腹から大量の血を流していた。目をこれでもかと開き、絶命していることは明白だった。意味が分からず気が動転しているところを両側からウルとメシルに抱きかかえられ、訳を問うこともできないまま崖を飛び降りていた。

 なぜだ。なぜわたしが王国に追われる? なぜランスは気がつくと死んでいた? なぜ――。

 突然手を何者かにつかまれた。とっさに振り払おうとするが、力が強く、あっさりと抵抗をあきらめた。

 ほどなくして水中から顔を出すと、即座に酸素を求めすぎ、おおいにむせた。気づくとわたしは二人に両腕をつかまれていた。そして砂場にゆっくりと寝かされる。メシルとウルだった。

様々な疑問が頭に浮かぶなか、わたしは言葉には出さず目に感情を込め、二人を交互に見つめた。

「尻尾が」とウルが言った。メシルが言葉を続ける。

「尻尾が長い刃になり、目にも止まらぬ速さでランス殿を何度も切りつけました。マリー様は何も覚えていないのですか」

「覚えてない」

「そうですか。人が変わったようで、何だか戦いを楽しんでいるかのようでした……」

 メシルはわたしに話しかけているというよりも、つい数時間前に起こった出来事が信じられず、もう一度記憶をたどっているようだった。瞳をのぞきこめば、そのときの情景が見えてきそうだ。

 現実感が持てなかった。尻尾にそっと触れてみる。水を含んでいて、ぎゅっと握ってみると、水があふれてくる。本当にこれが人間の身体を切り裂くことができる刃に変化したというのだろうか。

「驚いたでしょ。わたしが有尻尾人だったってこと」

 メシルとウルはじっとうつむいている。表情が見えない。黙ったままでいるとメシルが言った。

「例えマリー様が有尻尾人であっても、お仕えした日から今まで心に誓った忠誠が変わったことはありません」

「慰めはいいわ」言ってからすぐに後悔した。彼らには感謝こそすれ、否定する理由は一つもない。「ごめん。ありがとう。……ねえ、わたし何か言ってた?」得体のしれない「わたし」を知った今、少しでも想像を具体的にしてくれる手がかりが欲しかった。

「どうして」

「え?」

「『どうして憎しみは減らないの』と言っていました」

 

 

 まず蛍光灯が目に入った。太陽のような眩しさを感じ、すぐに目を閉じる。両目を手でほぐし、少しずつ開いていく。

 病院に運ばれたのだ。消毒液の匂いがする。清潔感あふれるベッド、周囲はカーテンで仕切られており、雨粒が窓を叩いていた。頭には包帯が巻かれている。

 ふとこの世にはもう自分しか存在していないのではないかという考えがよぎった。とてつもなく孤独になったような気がして、以前にもこんな気持ちになったことを思い出した。

 母が夜遅くなっても帰ってこないときがあった。携帯に連絡しても反応はなく、そのときはすでに離婚していたので、父に連絡することも避けた。

 あんなに心細くなったことはない。わたしは不安に身体を乗っ取られたように、家のなかをうろうろしていた。アニメを見る気も起きなかった。

 朝になって母は若い男に連れられて帰ってきた。彼は気まずそうにしながら自身が母の友人であり、昨晩酒を飲んでいたが母が泥酔し、送ったのだと説明した。職業が医師だからというわけではないが、悪い人には見えなかった。

 戻ってきて安心したが、母が飲む以外に何をしていたのか考えると憂鬱になった。

 心配かけてごめん、とわたしを抱きしめる母からは確かに酒の匂いがした。

 

 仕切りが開けられて母が顔を出した。

「わ」

「起きたのね。よかった」

 そうしてすぐに仕切りを閉め、どこかに行ってしまう。

ほどなくして白衣をきた中年の男性がやってくる。その医師は家に帰っていいが、念のため後日精密検査をすることを告げ、退室した。

「みさき、ごめん」

頭を下げて、こちらの様子を伺うようにおずおずと何かを取り出す。水色もふもふ発売を知らせるチラシだった。

「連れて行っていいわ。その代わり、また学校に行くことが条件。分かった?」

 突然の申し出に、どう返事すればいいのか分からない。黙っていることをどうやらわたしが願いを受け入れたと思ったらしく、母は帰り支度をしている。結局何も言えずにわたしは母の隣でとぼとぼと家路をたどることになった。

 病院を出て、眼下に住宅街を眺めながら坂道を下る。天気は快晴で雪はすでに溶けており、足元が太陽の光を受けて輝いていた。

「じゃあ、お母さん仕事に行くから。ご飯は適当に冷凍食品でも温めて食べて」

「うん」

 小走りに駆けていく母を見送りながら、わたしは心が黒い液体がじっとり染み込んだスポンジみたいにずしりと重いものに変わっていくことを感じていた。

 

 急に思い立って、近くのおもちゃ屋に行くことにした。我が街唯一のおもちゃ屋で、小さな頃から和豊と通っており、今も暇があればフィギュアなどを物色しにきている。

 店は一目見たところでは一軒家なのだが、中に入ってみると無数の玩具で溢れている。

 店主の駒田さんの最終目的は、宇宙へ行くことだそうだ。以前に理由を聞いたときに凛とした目で応えてくれた。

「助けたい人がいるんだ」

 木製の引き戸を開ける。玄関を土足で上がり、すぐに地下へと続く階段を下りる。短い廊下を進むと自動ドアがあり、プシューという近未来的な効果音と共に開く。

 店内へ足を踏み入れた瞬間、矢が飛んできた。見事に額へ命中する。

「ひゃっ」

 思わず情けない悲鳴を上げる。

「誰だ」

 鋭い声が奥のほうから問いかける。わたしは渋い顔になって答えた。

「客に決まってるでしょ」

 しばしの沈黙のあと、いらっしゃい、と駒田さんのつまらなそうな声が耳に届いた。

 前方の天井にボウガンが吊るされていた。客に矢を放つとは、なんてことをするのだ。

 店内は敷地面積に比べて品数が多くごちゃごちゃしているのだが、それなりに楽しい。それぞれの玩具にストーリーがあるからだ。天井に吊るされている戦闘機の向く先にはアダムスキー型のUFOがあるし、粘土アニメ、『恐竜パラダイス』に出てくるティラノサウルスのバルクーダの背後には捕食した獲物の肉片が散らばっている。

「今日はどんな用だい」

「ちょっと寄っただけ」

 初対面の人は愛想のない態度に、快く思わないかもしれない。しかし駒田さんは宇宙とか異星人の襲来とかそういうことにしか興味がないので仕方がないのだ。むしろ今日は話をしてくれるだけ機嫌がいいとすら言える。

 店内をぶらぶらしていると、新商品、とポップに書かれたおもちゃを見つけた。正方形のプラスチックでできた台座にプロペラが付いている。持ってみると手にすっぽりおさまるサイズだった。

 どんなものなのか全く想像ができない。

 台座にあった赤いボタンを押すとプロペラだけがどこかに飛んでいってしまった。

「……」

 いい加減ばからしくなってきたので店を出ることにした。何だかんだこの店がつぶれないで続けられているのは、宇宙へ旅に出るなんて突飛だけど、少しワクワクしてしまうような空想を本気でしてしまう駒田さんの人柄による部分が大きいのではないかと、わたしは分析している。

「宇宙に旅立つ日は決まったの」

 わたしが訊くと駒田さんは神妙な顔つきになり、十分すぎる間をあけて答えた。

「年内には出発できそうだよ。見送りにきてくれるかな」

 このような会話を毎年繰り返しているのだが、駒田さんの主張することが現実になる兆しはない。そのあとも駒田さんは宇宙船の設計図を見てくれなどと、興奮した様子で話し出したので逃げるように外に出た。

 

 急速に流れていく景色を眺めながら、わたしと母は新幹線の背もたれに身を預けていた。平日の昼間なので、乗客はまばらだ。

 出発前の駅のホームに和豊が見送りにきてくれた。無言で風呂敷に包まれたものを差し出されたので受け取る。バスケットボールよりも少し大きいぐらいのサイズだ。わたしも無言で問いかけると、駒田さんから、とのことだった。

 ここだ、と思ったとき以外は開けてはいけないらしい。

「何? ここだ、って」

「開けないなら開けないで帰ってきていいんだ。でもみさきが一瞬でもあっちに行って、ここだ、って思う瞬間があったら開けてほしい」

「全く意味が分からないよ」

「ま、お守りみたいに思っておけばいいんじゃない」

「……分かった」思わずため息をつく。このまま突き返すのも何だか気がひけるので持っていくことにした。

 母と何を話せばいいか分からない。先ほどから無言が続いている。学校のことは話したくない。かと言って好きなアニメやフィギュアのことも話す気にはならなかった。

 母は窓の外の景色を見ている。視線を動かそうともしない。つまらなそうにも見えるし、もしかしたらわたしと話すネタを必死で探しているのかもしれなかった。

 普段であれば、元気ないね、と声をかけたいのだが、その原因は恐らく、いや確実にわたしにあるだろうからそのことは口が裂けても言えない。夜中に馬鹿みたいに長電話をして、翌朝相手に寝不足なの、と聞くようなものだ。

 そんなことをうだうだと考えていると、急に母が立ち上がった。

「トイレに行ってくる」

 すたすたとデッキのほうへ歩いていく。その後三十分ほどしても帰ってこなかったので、さすがに心配になってわたしはデッキへ向かった。自動ドアが開くと、乗降口で外を向いて母が電話をしている姿が目に入った。わたしは反射的にトイレの陰に身を隠してしまった。幸い、乗客は少なく誰も来る様子はないので、しばらく居ることにする。

 なぜか驚くほどに気が動転している。そんなことあるはずないが、心臓の音でばれる気がして胸を両手で押さえた。もう一人の自分が席に戻れと叫んでいるのだが、身体が動かない。

 誰と何を話しているのか分からないが、語調が激しい。

「……あなた……が嫌だったん……しょ。何…か……みたい」

 あなた、という言葉で自然と答えが分かる。父と話しているのだ。離婚しているのに何か話すことでもあるのだろうか。男女関係は不思議なものだ。

 二人が別れた理由をわたしはよく知らない。母からは、別れるから、とあまりにもあっさりとした報告があっただけだった。

 何かしらけた感じがして、わたしはそっと席に戻ることにした。自動ドアが開く寸前、母から発せられた言葉は誰かのいたずらのようにしっかりと耳に届いた。

「壊れ物だから」

 自動ドアが開く。わたしは席に走って戻り、寝たふりをした。あまりにもベタだ。あまりにもベタな方法だが、今はそうすることしかできなかった。

 壊れ物。

 この言葉はきっとわたしを指して母が言ったものだ。一瞬目の前が真っ白になった。

 わたしには関係がない言葉だったのだと自身を言い聞かせようとするが、効果はない。

 母が戻ってきても、わたしはずっと目を閉じ続けた。

 

 

 物語の前半、目次で説明するならば序章にあたる箇所で、マリーは別の「自己」があることを知る。それは、感情の高ぶりにより覚醒する。絶対的な力を持ち、途方もない怒りを抱えている。

 目を背けたくても、そんなことはできるはずがない。マリーは受け入れようと試みるが、求めれば求めるほど距離は離れていく。

 ただただ彼女は翻弄されるばかりだった。

 

第××話「悲哀! 忘れ去られた約束」

 

 その村は地図にものっていないような小さな集落だった。わたし達が打ち上げられた川の近くにあり、藁にもすがる思いで門をくぐった。追手がこないか気になるが今はとにかく身体を休めたかった。

 村人は男二人に女の子が一人という組み合わせに奇異の目を向けながらも受け入れてくれた。さっそく安宿に入り、今後の作戦を練ろうとしたが、三人ともすぐに寝てしまった。

 飛び起きるように目を覚ます。メシルとウルはまだ寝ていた。すっかり夜になっている。

空腹を覚え戸をあけると食事が置かれていた。部屋のなかに引き寄せて、すぐに食べ始める。こんな無様なところ王国の誰かに見られたら……、と考えたが、今となってはどうでもいいことだった。二人も起こし、食事をすすめる。

「このあとどうする?」

 世話役を務めていたメシルをついつい頼ってしまう。

「もうすぐ夜が明けます。ここはもう出ましょう。追手がどこまできているか知れませんから。その後はどうしましょう。いくつか候補は浮かんでいるのですが」

「わたしは何でこうなったのか知りたい。例えば王国の歴史について調べられるところとかある?」

「そうですね。もちろん一番いいのは王国図書館ですが」メシルは少し思案したあと、「確か王国図書館の別館を作った村があるのですが、いかがでしょうか。女王様がお生まれになったところです。そちらも危険でしょうから忍び込むしかないですが」

「今はどんな情報でもいいから欲しい。行きましょう」

 立ち上がり自分の荷物に手をかけようとするところで転んでしまう。

「マリー様、大丈夫ですか」ウルが声をかける。

「うん、だいろぶ」

うん大丈夫、と言ったつもりだった。怪訝な表情を浮かべるウルにもう一度話しかけようとするが、うまく口がまわらない。それどころか視界もぼやけてきた。わたしはそのまま荷物に突っ伏してしまう。

 

 怒号で目を覚ました。野太い声、甲高い女性の声、子供の泣き声。何より部屋のなかはとても煙たかった。

 ほどなくしてメシルとウルも異変に気づき身を起こす。

「追手ですね」

「そうね。メシル、ウル、もちろん逃げるなんて言わないよね」

「しかしここは――」

「わたし達のせいでひどいことにあっている人がいる。逃げられないよ」

 メシルの言葉を途中で遮る。

「仰せの通りに」二人がひざまずき、応える。メシルが静かな声で言う。「しかしマリー様、外にいる『追手』と戦うということがどういうことがお分かりですね」

「もちろん」声が震えているのを隠すのに必死だった。自身を奮い立たせるために腿を力任せに叩く。「よし、じゃあ行きましょう」

 部屋を出ようとしたところで、戸が乱暴に叩かれる。わたしは剣を抜き二人に目配せをして、相手が入ってくるのを待った。こじ開けられた瞬間に侵入者との距離をつめる。喉に刃先をあてたところで宿屋の主人だということが分かる。胸元を深々と切り裂かれており、大量の血が流れ出ていた。

「どうしたの」

「自分が……食事に……睡眠薬を」

 主人はぜえはあと息が切れ、話すこと自体がとても苦しそうだった。喉から血が吹き出している。時折、ぴゅーぴゅーという音が声に混じる。

「この薬を入れなさいと命令されてやっただけなのに、なんで」

 主人は誰かに話しかけているのではなく、虚空を見つめて呟いているだけだった。なんで、なんで、と繰り返している。

「もういい。もう喋らなくていいから。ウル、まだ包帯とか薬あったわよね。用意して」

「マリー様、行きましょう。その者は、もう」

「早くしなさい。わたしの命令がきけないっていうの」思わず声が大きくなる。動揺していた。宿屋の主人はわたしのせいで命を失おうとしている。「いいわ。わたしがやる」

 ウルから荷物を奪い、中から適当にみつくろって、主人のもとに持っていく。だが彼はすでに動きを止めていた。両眼はその視線で何かを突き刺そうかとするように力いっぱいに開かれている。

「ちくしょう」

 そっと瞼を閉じてやり、宿屋を飛び出した。様々な叫び声と炎と煙と異様な匂いが立ちこめている。

 口と鼻を腕で覆い、目をこらす。戦っている村人もいたが、普段から訓練を積んでいる兵士に勝ち目はなかった。女性が後ろから斬りつけられている。子供がはぐれてしまった親を探し泣き叫んでいる。

 わたしは近くの兵士に斬りかかっていった。相手はわたしのことを認識したようだが、応戦した。見たことはないのだが、その目は敵と刃を交えるときの目なんだと冷静に悟った。自身が生きるために、生命を奪う覚悟のできている目だ。

 身体が思うように動かない。ランスと戦ったときは無我夢中で戦っていた分大丈夫だったのかもしれないが、周りで起こっている風景、嗅いではいけない匂い、それらが胸を苦しくさせる。普段は感じることのない心臓の鼓動がわたしを挑発する。

 びびっているのか?

 気がつくと地面に尻をついていた。顔を上げると剣の刃先がわたしの身体を貫こうと無機質な表情を向けていた。身体が動かない。

 兵士が剣を持ち上げた瞬間、いきなりその兵士の腹から剣が生えてきた。血が勢いよく噴き出しわたしの顔を洗う。

「マリー様大丈夫ですか」メシルが抱き起こしてくれる。そして頬をはたかれた。「大変なご無礼申し訳ありません。ですが、しっかりしてください」

 わたしは何度もうなずいた。戦わなければいけない。真実を知らなければならないのだ。

 血の味を感じながらわたしは駆け出した。出会う者を一人ずつ屠っていく。兵士は何名いるのだろう。煙があたりにたちこめているので、全体の様子が把握できない。

 一人の兵士が女性に斬りかかろうとしていた。その女性は逃げることも抵抗することもあきらめているようで目が虚ろだった。

「やめなさい」

 助けようと足を踏み込んだ刹那、剣が首を真横に裂き、女性は絶命した。

 何でこんなことになっている。これは一体何なのだ。

全身の血という血が沸騰してコポコポと音を鳴らしているような錯覚におちいる。怒る、ということでは処理しきれない、単純な感情の変化ではなく、精神の胎動を感じた。

 尻尾が動いている。長い間海にもぐったあとようやく顔を出したときのように空気を求めあがいているようだった。

 全身が熱を帯びる。痛い。皮膚、骨、身体の内側の全てが声にな

らない悲鳴をあげている。

 しかしそれと同時に得体のしれない何かが体内に満ち満ちていく。

べき、ばき、という不可解な音がしたあと、目の前に大きな影が現れた。尻尾だ。尻尾がすさまじい速度で大きくなっている。

 始まりの合図なのだろうか。わたしは咆哮した。

 

 

 ついに訪れた憧れの場所はよそよそしい感じがした。もちろんわたしが散々自分勝手な想像をしていたせいもあるのだろうが。

路肩に並ぶ露店のいかにもな店員の笑顔に気後れし、友達と連れ立って嬉々とした表情で足早に通り過ぎていく人々を見ては、戸惑っている自分がみじめになった。

「みさき、緊張してるの?」

「してない」

 脳内では先ほど母が言っていた、壊れ物、という言葉がずっとリピートされていた。

「お母さん、あそこのビル」

 金髪でポニーテールでありえないくらい顔の小さな女の子の絵が窓の部分全面にペイントされている。『放課後ロンリーガール』の主人公、新藤美樹だ。ウインクした愛らしい笑顔はそれだけで誰かをビルへ誘う魅力がある。 

 ビルは5階建てでDVDや書籍、キャラクターグッズなど3万アイテムを取り揃えるオタクの聖地だった。

 入り口につくと様々なアニメのポスターや、テレビモニターから流れるアニメの映像がわたしを迎えてくれた。もちろんその中にマリーの等身大パネルと共にグッズプレゼントの告知もある。

 会場を確認し、わたし達は観光もそこそこにホテルに向かうことにした。買い物をする気にはなれなかった。

 チェックアウトを済ませ部屋に入り、荷物の整理を終えてしまうと、母はすぐに寝てしまった。身体は睡眠を欲しているのだが、わたしは寝付けなかった。シーツの清潔な匂いに包まれながら、低くて真っ白な天井を見つめる。

 壊れ物。

 それはあまりにもストレートで、怖いくらいに客観的に表現している言葉だった。母自身を指して言った言葉かもしれないが、理由が思い当たらない。

 本当にわたしを指して言っていることであれば、それは悲しいことだった。人は大きすぎるショックを受けたときは怒りさえ感じないのだろう。ただただ悲しいのだ。

 思えば今回の旅行は、両親が離婚したあと久しぶりに母と長い時間を一緒に過ごす良い機会になるはずだった。

 仲が良いとは言わないまでも、決して悪いわけではないと当然のように感じていた。いや、そう自分に言い聞かせていただけかもしれない。離婚後の態度の変化、日常会話、休学することを告げたときの反応――。真相を知るためのピースは与えられていたのに、ほったらかしにしていた。母に直接聞いたほうがいいのだろうが、そんなことできるわけがない。疑いが確信になった後、母とどう向き合っていいのか分からない。

 悪い方向へと思考が傾く。それでもわたしはまどろみの中へ意識を投じていた。


 

 わたしは夢のなかで「これは夢だ」と認識ができる。「わたし」は夢のなかの「わたし」をどこでもないどこかから何が起こっているのかを見ることができる。そのことが嬉しいときもあるし、嫌なときもある。今回は、嫌なほうだ。

 父が出ていった日だった。

 冬の、朝方は氷点下になるような寒い日で、雨が降っていた。家の近くで子猫のあどけない鳴き声がひどく耳障りで、開いていた漫画を閉じた。

「みさき、ちょっと話があるんだ」

 父にそう声をかけられて、不思議に思ったことを覚えている。いつもはそんなこと言わずに話かけてくるのに。

「お父さんは今日で家から出ていかなくちゃいけない」ひざまずき、わたしと目線を合わせる。「だから、みさきとバイバイしないといけないんだ」

「え」

 まさにそのときの心情を一言で表すと「え」だった。いきなり何なのだ。

「お父さんとお母さんは考えていることが違うから、いつもけんかしちゃうんだよ。みさきもそんなお父さんお母さんを見たくないだろ?」

「見たくないだろって言われても、いきなりすぎるよ」

 母はどこにいるのだろう。周りを見渡してもいない。

 父はまるで喋らなければならない内容が決まっているみたいに、淡々と話を進めた。

 母と父と三人で遠くまで観光に行ったことを思い出した。

 こんなもんかと思った。

 運動会で父が活躍したことを思い出した。

 こんなもんかと思った。

「みさき。お母さんと仲良くするんだよ」

 父がわたしの頭を優しくなでる。そんなことをしてほしいわけじゃない。にらみつけながら手を払いのける。そのことを特に気にする様子もなく、雨が降っているのに傘も持たずに出て行った。わたしも外に出たが、父がこちらを振り返ることはなかった。

 靴箱の上に置いていった鍵を見ると、よけいに悲しみがこみ上げてくる。唇は震えたが、泣くことはなかった。泣いても自分の思い通りにならないことは、分かっていた。

 思い出した。わたしはあの日を境に人が分からなくなった。いつもの日常。とりたてて良いことがあったわけでも、悪いことがあったわけでもないが、そんな生活が意識するでもなく当たり前に続いていくのだろうな、と薄ぼんやりと考えていたことが一瞬で崩壊する絶望的なあっけなさが怖かった。

 何でいまさらこんな夢を。あまりに突然の出来事にぽかんとしたまま玄関に立ち尽くす幼い頃のわたしを見ながら、誰とも知れぬ誰かに毒づいた。

 夢には何かしらの意味があると聞いたことがある。何かに追われる夢は日常で閉塞感を抱えながら生きている。空を飛ぶ夢は様々なしがらみから解放されたい――。

 この夢の意味は何だろう。「現実と向き合え」だろうか。そう思った途端に、胸の奥のほうに重いものがのしかかってくる感覚におそわれた。なんて自分は弱い存在なのだろう。わたしはいつまで大事な問題を無視しようというのだろう。

 水中で手足を動かしたときのように大量の泡が目の前に広がっていた。夢の終わりだ。わたしは幼い頃のわたしに別れを告げた。

 

 

 覚醒したマリーの前に敵はいない。全ての障害物をなぎ倒す。アニメ『逃亡王女マリー』の見せ場である。ただ覚醒が終わった後のマリーは悲しそうだ。敵を倒したときの充実感や達成感はそこには無い。

 以前に和豊にそのことを話したときは、「ギゼン」だと言われてけんかになったことがある。

 マリーは高い壁があっても乗り越えることをあきらめようとせず、ばかでかい障害物があるからといって回り道することを考えない。重すぎるからといって受け取らないという選択肢はなく、どうやったら持つことができるか、それがどんな形状でどれくらいの重さなのかを調べることから始める。そんな女の子なのだ。

 彼女の尻尾は輝くような白から今にも雫が垂れそうな水色に変わる。それが涙を表していることは簡単に想像できるのだが、マリーが泣いたところを見たことがない。

 

第××話「覚醒! 悪夢の始まり」

 

 いまや全く別の形に姿を変えたわたしの「尻尾」は完璧なほどに従順で、強かった。倒したい者に意識を向けるだけで、目的は達成する。

 ためらいや悲しみといった感情が全くない。ただただわたしは機械的に敵の命を奪っていくことに集中していた。

 メシルとウルが呆然とわたしを見ている。おもしろいくらい「恐怖」という感情が顔面に映し出されていた。何でそんな顔をしているのだろう。

 熱い。身体のそこかしこがもぞもぞと波打っている。わたしはわたしであるはずなのに別の誰かが身体のなかにいて、出てこようとしているようだ。

 また別の兵士に意識を向けたとき、突然、懐かしい映像が脳裏に映し出された。城の中だ。

 そこには母がいた。大きな窓から差し込む光に黒髪が輝いている。まだ若い。

 わたしはベッドに寝ていて、自分の身長ほどもある枕に背中を預けて母の話に聞き入っていた。「お母様、わたしにはなぜ尻尾があるの? お母様にはないのに」

「マリーは選ばれた者だからよ。強い者の証拠なの」

「強くなくてもいいから、こんなのいらない。服を着ても何だかお尻がむずむずするの」

「そんなこと言っちゃだめよ。尻尾もあなたの一部なんだから」そう言って母はわたしの頭をなでてくれる。「いつか尻尾が生えててよかったと思えるときがくるから」

「本当に?」

「ええ、本当よ。だからもう寝なさい。ずっとここにいるから」

 言われた側からわたしは船をこいでいた。心地よい浮遊感にも似た眠気に身を任せる。

 目の前に腹から血を壊れた樽のように流している兵士がいた。現実の世界に戻ってきたのだと分かる。今なら母の言葉の意味が分かる。

 目の前の敵を殺さないと、殺さないと。尻尾の、殺戮を渇望する思いが否が応でも伝わってくる。もはや追手達は散り散りになっていた。

 狙いを定めて意識を集中すれば尻尾はすぐに期待に応えてくれる。頭、腹、腕、脚……。どんな願いにでも――。

「マリー様!」

 メシルの声がどこかから聞こえる。

「マリー様、もういいです。やめてください」

 やめる? 何でやめる必要があるのだ。兵士達を殺さないと、こちらがやられる。

 抗議の声をあげようとしたが、口から発されたのはくぐもったうめき声だった。驚いて思わず手を口に持っていくと血が大量にこびりついている。

 周りを見渡すと凄惨な光景が広がっていた。腕を失って泣き叫ぶもの、下半身しかない死体。そして村人が今まで見たこともない形相でこちらを見ていた。

 恐れ、怯え、憎しみ、様々な表情が顔面を埋め尽くしていた。ある者は眼前に広がる光景を少しでも見せまいと子を一心に抱きかかえ、ある者はただ呆然と立ち尽くしている。

 ふっと力が抜けた。操り人形から無数に生える糸を全て切った光景が浮かんだ。地面に顔面から突っ伏してしまったが、起き上がろうとする気力が起きない。それどころかこのまま土に溶けていってしまいそうな眠気が襲ってきたきた。

 頭が揺れている。それはあまりにも強欲な睡魔だった。果てしない脱力感に身を預ける。

 いつの間にか、行き場を求め暴れていた熱はどこかに消えていた。

 

 何かがまぶたを叩き目を覚ました。手で触ってみるとそれは水だった。わたしは寝ていて、頭上は葉っぱでいっぱいだった。

 相変わらず身体には力が入らない。起き上がることもできない。しばらくすると物音がしてわたしの顔をのぞきこんでくる。メシルだ。

「マリー様、大丈夫ですか」

「見ての通りよ。身体が動かない。あれからどれくらいたったの」

「今ちょうど夜が明けたところです。……ここでしばらく休みましょう。ウルに何か食べ物を調達させてきます」

 ウルがどこかへ行ったあと、わたしとメシルの間に沈黙が訪れる。たまに周囲から聞いたことのない鳥の鳴き声がする以外は静かだった。

「わたしじゃなかった」誰に言うでもなくわたしは呟いた。「あんなの尻尾に操られて殺人を繰り返すだけの怪物よ。いつか尻尾に自分自身が飲み込まれてしまうかもしれない。わたしを殺そうとする理由が分かった気がする」

 メシルはこちらの話を静かに聞いている。何かを訴えたい気持ちはあるようだが、言いあぐねているようだった。

 無理もない。グラン王国の王女であるわたしが、奴隷同然に扱っている有尻尾人であったのだから。

 かつて、無尻尾人と有尻尾人は今と違って身分の違いもなく平穏に暮らしていた。ただ三百年前に暴動――、『血の日』が起こったばかりに完全に有尻尾人の自由は無くなった。

 王国で生きることによって有尻尾人がどのような境遇にあるのか、目の当たりにすることは無かったが、学習を受けるにあたって、当然わたしは自身に尻尾が生えていることが普通でないことを知れた。

 母はわたしが尻尾が生えている事実を他言することを禁じた。知っているのは父と母だけなのだから、と。

「誰にも言っちゃいけないの?」

「尻尾が生えていることはおかしいって思う人もいるからよ」

「おかしいことなの? だってお母様はわたしが大きくなったらすばらしいってことが分かるって言ってたじゃない」

「そうね」母はそこで初めて困った笑顔を見せた。詳しいことは分からないが、母は葛藤していたのではないか。尻尾を持って生まれてしまった娘につらいようでも真実を伝えるべきか、ほんの一瞬だけでも希望を見せるべきなのか――。「でもね、これだけは信じて。あなたの尻尾は絶対に悪いものじゃないの。きっと、分かる日がくるから」

 いつ、どこで言われたのかも分からない。ただその部分だけが切り取られて記憶に残っていた。

 この世界で尻尾を持つという意味について知ったとき、わたしは一つの疑問に常につきまとわれることになった。つまり、「なぜ母は尻尾を持つ子供を産んだのか」。

 母は無尻尾人で、国王である父もそうだ。母が有尻尾人である誰かと禁を犯したとは考えたくはないし、決してそんなことをする汚れた人間ではない。

「過去に災いをもたらしたからといって、それがすなわち全ての有尻尾人が否定されないといけない理由にはならないと思います」

 有尻尾人の肩を持つなんてことはありえない。ただ、悲しい考え方をしないでほしいという必死さが静かな口調ながらも伝わってきた。

「ありがとう」

 それだけ言うと、メシルは声には出さず、深くうなずいた。

「その気持ちだけで嬉しいわ。でもね何がどうなろうと無尻尾人と有尻尾人の関係が変わることは無いの」

 メシルがさらに言葉を続けようとしたところで、ウルが戻ってきた。メシルは何事も無かったかのように、前のめりになっていた姿勢を正した。

「ウル、それは何」

 何やら得体の知れないものをウルが両手に持っていたので、わたしは思わず顔をしかめながらたずねる。

「ホレホレ鳥ですよ。知りませんか?」

「初めて見た」

 鳥、というが「ホレホレ鳥」なるものは翼が無かった。代わりに、というのも変だが嘴が異様に発達しており、もし突進されたら、腹を貫通するのではないかと言うほどに鋭利にとがっており、幅が広く、長かった。大人の片腕くらいはあるだろうか。

「こいつら、何があったのかは知りませんが、進化の途中で羽根が退化してしまったようで、獲物を探すときはこの嘴で地面を掘って、食料を調達するんです」

 白い全身の体毛は普段から餌を求めて地面を這いずりまわっているせいか、茶色く汚れていた。

「それで、ホレホレか」

「はい。早速支度しますね。丸焼きにするとうまいんですよ」

 そう言ってウルはすぐに皮を剥ぎにかかった。

 

 ほどなくしてホレホレ鳥の丸焼きが出来上がり、わたしたち三人は特に会話を交わすことも無く、熱々の肉片を口に運んだ。昨日あんなことがあったばかりなのに、よく食事ができたものだ。だが、「生きている」ということを、それこそ食物が胃に落ちるように、すとんと実感させてくれた。

 どんなことがあっても、身体は空腹になれば、食べ物を求める。

「メシル、ウル」

 食事を終え、一息ついたところで、わたしは覚悟を決めた。メシルはすぐにひざまずき言葉を待つ。ウルはがっついていたところを突然声をかけられたので、目を白黒させている。

「ここで解散しましょう」

 二人とも固まってしまっている。当然だろう。

「別々に逃げたからって大丈夫というわけでも無いけど、王国の狙いはわたしなんだから、一緒に逃げるよりも助かる見込みはあると思うの。もし見つかったらわたしに命令されて逆らうことができなかったとでも言ってもいいわ」

「そんな……。あまりにも無責任じゃないですか」

「ウル。失礼だぞ」メシルが一喝する。ひざまずいたままで、わたしの目を、真っすぐに見つめる。「マリー様、不躾な質問をします。先ほどのお言葉は本心から、そうおっしゃっているのですね」

「もちろん、そうよ」

 内心でメシルの迫力におされていることを気づかれぬように胸を張り、応える。

「承知しました。今後マリー様にお仕えできないことは何にも代え難い残念なことですが、命令とあらばしょうがありません」深く礼をする。横では信じられないという目をしてウルがメシルを見ているが、にゅっと伸びてきた腕がウルの頭を無理矢理下げさせた。

「今まで、本当にありがとう。世話になったわ」

 二人はわたしがじっとしている限り動きだしそうに無かったので、わたしから立ち去ることにした。気が変わりそうだったので、後ろを向くことはしなかった。

 

 村人を人質にとった兵士と出会ったのは、それからしばらく歩いたあとだった。

 

 

 

 何とも寝覚めの悪い一日の始まりだった。あんなに来ることを願っていたはずなのだが、頭が重く、思考することを脳が拒否している。

「水色もふもふ」を手に入れて何かが変わるのだろうか。そもそも、そういう期待を持つこと自体意味が無いことかもしれない。

 ベッドに内蔵されているデジタル時計のアラームが鳴り、母が目をこすりながら起きた。

「おはよう」

「おはよう。もう起きてたのね。あ、早く並ばないといけないんでしょ。朝ご飯を食べに行きましょうか」

「うん」

 ホテルのレストランにはバイキングが用意されていた。ロールパン一つ、目玉焼き、ウインナー、牛乳を盆に乗せ席につく。母はトースト二枚にスクランブルエッグ、卵スープ、オレンジジュースをよそっていた。

 まだ早朝だというのに多くの宿泊客がいた。周囲には朝ならではのゆるやかな空気が漂っている。

「みさき、あんたそれで足りる? もしかして食欲無いの」

「ううん、朝は何も食べる気しなくて」

「いつも昼近くまで寝ているからよ。学校行ってないにしてもこれからは早起きしなさい」

「うん」

 食事している間、わたしと母は会話しなかった。朝起きてからわたしは思考停止中だ。目の前の料理を口に運ぶことだけに集中する。

「昨日新幹線で聞いたことから目を背け生活することはできない。必ず母に確認しなければいけないことだよ」

 もう一人のわたしの全うな囁きが脳内に響く。それにふたをするようにわたしは残りの食べ物をかきこんだ。

 

 部屋に戻り携帯を開くと和豊からのメールが届いていた。

「今日はついに、もふもふの発売日ですね。早めに会場に行って並びましょう。101番目に並ぶとか笑えないですからね(笑)」

 本当に笑えないことを言う。そんなことありえない。

「もちろんだよ。変なこと言うな。そんなことより学校で勉強してろ」

「いや、それはこっちのセリフ……」

 わたしは返信せずに、慌ただしく準備をしてホテルを出た。

 

 すでに会場には長い列ができていた。母の手をこれでもかと引っぱり、列に並ぶ。渡された整理券には「89番」と記されている。「親子同伴」の壁を超えられず、列を遠巻きに見守っている者も何名か見受けられた。

「間に合ったわね」

「うん」

 男性の姿が大半かと予想していたが、案外女性も多い。皆出で立ちは様々だが、興奮しているようだった。マリーの顔のイラストが描かれているお手製のうちわを作ってきている者、コスプレをしている者……。

 そんな光景を見ているうちに、怒りとも、悔しさともつかない感情が勝手に体内で渦巻いてくる。自然、手を握りしめていた。

「みさき、どうしたの」

 何やら異変に気づいたのか、母が声をかけてくる。

「ううん、何でもない」

 何でもない訳がない。まずはお手製のうちわ。ネットから拾ってきたものをそのまま貼付けるのではなく自らの手で描いてくることは賞賛に値するが、全く似ていない。不自然な頬の膨らみ、何より目に全く生気が無い。マリーの目は、時に言葉よりも雄弁に語ってくれる。黒目がとっても大きく、ありきたりな言い方だが、本当に吸い込まれそうなくらいなのだ。

 そしてコスプレ。男性にも関わらず果敢な挑戦恐れ入るが、完成度は高くない。まず全体的な安っぽさ。もちろん、あくまでアニメに登場してくるものを、ありあわせのもので表現しようと言うのだからそこに少しイメージと異なってしまう部分が出てしまうことはしょうがないのだろうが、こちら側はしらけてしまうというものだ。

 主題歌でマリーの背丈よりも大きく描かれている大きなマントだが、彼の身につけているそれは風が吹いてもあまり揺らぐことが無さそうな、厚手のものだった。手に取って確認してみないと詳細は分からないが、恐らくカーテンの生地に用いられているものだろう。触れると布が手の中をすり抜けていくような滑らかで柔かな生地でないと……。

「すみません、身分証を確認させてもらってもよろしいでしょうか」

「ひゃっ」

 ほぼ偏見しかないファッションチェックの途中で声をかけられて変な声を出してしまう。

「あ、はい。お母さん」

 こんなに最悪な気分のときでも別のことを考えることができるのだと、あきれるしかなかった。

 それにしても、色んな形で『逃亡王女マリー』への愛情を表現することはいいのだが、親も同伴なのだ。わたしが言うのも変だが、そういう姿を見せることは嫌ではないのだろうか。

 ただ母の目を気にしてPコートにデニムのジーンズという何とも平凡な格好をしているわたしよりは幾分ましかもしれない。

 それぞれの親の表情を何気なく観察するが、大半は、やれやれ、という疲労の色が見え、仕方なく付き合わされている様子だった。

 やがて、拡声器を持った男性が話し始めた。ようやく発売が開始されるようだ。太っていて、髪の毛をこれでもかと横に寄せている。整髪料を大量につけていて、テカテカしている。

「えーっ、皆様大変お待たせ致しました。『逃亡王女マリー』DVDと親子同伴のお客様限定商品である水色もふもふの販売を開始します。慌てず、前の人を押さないようにしてくださいね」

 野太い歓声が巻き起こる。ひゅー、とかふぉーなどあちこちから奇声にも似た声が上がり、異様な雰囲気になる。

 ついに待ちに待った水色もふもふが手に入るのだ。抑えきれない胸の鼓動を表情には出すまいと努力するのにわたしは必死だった。

 一人目に並んでいた人が商品を手に入れ、わたし達の脇を通り過ぎていく。思わず中を覗こうとしたが、すんでのところで思いとどまった。もう少しの我慢だ。

 徐々に列は進んでいく。待っている時間は永遠に思えるほど長く感じたが、前に並んでいる人を数えられるようになるまで、30分とたっていなかった。

 自分の順番まで、心の中でカウントダウンを始める。あと7人、6人……。

「みさき」

「うん?」

 わたしは水色もふもふがどんな形なのか想像の世界の彼方まで飛んでいるため、母の声音の変化に気づかなかった。

「これが終わったら、また学校行ってくれる」

 突然の問いかけだった。母は刺すように真っすぐな視線をこちらに向けている。わたしはその迫力に微動だにすることができない。

 別にこんなときにそんな質問をしなくてもいいじゃないか。心の叫びはもちろん母に届くはずがない。無言がこんなにもプレッシャーを与えてくるものとは知らなかった。

 新幹線で聞いたあの言葉が何度も繰り返される。

 わたしのことなんて別に興味ないんでしょ? 酸素を求めて言葉が喉を叩く。

 母がわたしから視線を外した。同時にため息をつく。吐き出したものにどんな感情が含まれていたのだろう。

「ごめん」

 それだけしか言うことができなかった。わたしはどうしようもない臆病者だ。

「いらっしゃいませ。大変お待たせ致しました!」

 店員が即席の笑顔で声をかけてきた。わたしの順番がきたのだ。母が会計を済ます。商品を受け取る。思っていたよりも袋が軽い。

 すると突然、誰かが肩にぶつかってきた。わたしは思わず尻餅をつく。それと同時に目の前を誰かが駆けていく。赤いマントに丸い尻尾……、あ、マリーだ、と一瞬頭によぎった考えを振り払う。あれはさっきわたしが勝手にファッションチェックしていた奴だ。

「みさき! とられた!」

 え、と声を出す前に絶望感に全身を覆い尽くされる。立てない。

 わたしはそいつの背中を見つめることしかできなかった。

 

二日前

 

 酔っ払いがするようなおかしなステップを踏みながら、和豊は掃除用具入れにぶつかった。

「おい、何とか言えよ。てか笑ってんなよ。気持ちわりい」

「いてえ、とか言えばいいのか? 助けてください、とか」和豊は立ち上がり、手で軽く尻をはたいた。埃が舞う。何かに祈りを捧げるように手を恭しく組んだ。「痛いです。助けてください」

「ふざけんじゃねえぞ」

 今度は蹴りを腹にもらった。脳内に一つのイメージが結ばれる。前に観た海外映画のワンシーンだ。刑事が犯人の立てこもる部屋に突入する。そのとき蹴破られる哀れな木製のドアが自分だ。

 声が出ない。完璧にみぞおちに入ったようだ。

 のたうちまわる和豊を見て、ようやく満足したのか、いつも勝手な因縁をつけ暴力をふるってくるいじめっこ三人は声をたてて笑った。

「ごめんなさいって言えば許してやるよ。言えよ、ごめんなさいって」

「なあ、今学校でこんな事件起こってるって知ってるか」

「はあ? お前何話始めてんの。今の状況が分かって――」

「学校中のチョークが無くなってんだよ。先生達が今犯人を探している」

 三人は今にも殴りかかってきそうだ。一様にいらいらした表情を見て和豊はほくそ笑んだ。全うな中学生であれば殴り返すのが正解だろうが、自分は暴力が似合わない。いじめっ子達を半身を向け、膝を床につく。クラウチングスタートの態勢だ。

「おい、何してんだよ」

「犯人は、俺だ」

 その言葉と同時にスタートする。そしてすぐに引き戸を閉める。振り向き様に三人がまごついているのが見えた。放課後で廊下に人はいない。一気に加速をかける。足の早さだけが取り柄と言ってもよかった。

 後ろから、ばらばらとした足音と罵声が聞こえる。そうだ、ついてこい。

 長い廊下を駆け抜けながら、過去の思い出を掘り起こす。幼なじみのみさきはいつも攻撃担当だった。男顔負けの果敢さで、あるときはみさきがいじめの主犯なのではないかと疑われたほどだ。思わず笑ってしまう。あのときの必殺技には度肝を抜かされた。

 今、みさきは悩んでいる。理由は分からないが、側にいたい。いじめられていた自分をいつも救ってくれたから。いくつもの楽しい時間を一緒に過ごしたから。


階段を駆け上る。息が切れる。ちくしょう。乳酸菌でうるおう膝をしかる。

「みさき、戻ってこい。早く戻ってこいよ」

 ようやく屋上のドアがあるところまで到着した。隠していた布袋をよっこらせと手すりまで持ち上げる。心臓が体内で、もう無理です、と激しく鐘を打ち鳴らしている。

 三人の頭が見えたところで叫ぶ。

「先生、あいつらが僕をいじめるんです」

 三つの頭がこちらを見上げる。え? という文字が顔に浮かんでいる。和豊は布袋を逆さまにした。無数のチョークの成れの果てである白い煙がいじめっ子達を包む。

 うわっ。なんだこれ。うえっ。驚きの声を上げながら彼らは激しくむせている。その脇を素早くすり抜けて下駄箱へと急ぐ。このまま家へダッシュだ。笑いが止まらない。

 目に入ったチョークの粉を拭おうと目に手をやったとき、涙を流していることに気づいた。きっとチョークの粉のせいだ。和豊は残りの階段を飛び、浮遊した。

 

             

 

 しばらくの間呆然としていた。いや、それは瞬間的なことで、わたしはこの状況を打破すべく、行動を起こしていた。和豊が出発のときにくれた風呂敷を広げたときはまだ犯人の背中が見えていたからだ。

 真っ先に丁度ソフトボールぐらいの形状のものに目がいった。全体は白で、黒字の明朝体で「命中君」と書かれてある。そしてヘッドギアと言っていいのだろうか、ゴルフのときに被る帽子に似たものが入っている。装着した際に目の位置にあたる場所に薄いレンズが取り付けられていた。

 わたしは思考することもなく、ヘッドギアを装着し、ボールを手に持った。ヒュイーンという電子音が鳴りだしかと思うと、レンズに緑色で、英語やら、分からない記号が次々と映し出されては下から上へスクロールしていく。

 突然、「TARGET?」という文字が点滅を始めた。戸惑うがどうやらわたしの目の動きに反応しているらしく、見る人見る人に四角いマスが浮かんではピコーンピコーンと音が鳴る。

「みさき、あんた何してるの」

「ちょっと黙ってて」

 呆けた声を出す母を制して、わたしは犯人を射るような視線を向けた。ピコーンピコーンという音がピピピピと連続した音になった瞬間、「LOCK ON!」という文字が視界を埋める。間髪入れず手に持っていたボールを思い切り犯人に向かって投げる。

 以前に学校で行われたハンドボール投げで二メートルを記録したわたしの肩からは想像できない見事な放物線を描き、それは命中した。

 犯人の背中が緑色に染まる。恐らく球が割れてそこから流れ出したものが付着したのだろう。

 レンズには「SEARCH……」と出ている。犯人の場所を特定しているのだろう。使ってからものの数分でこの機械を信頼していることに驚く。わたしは本当にこいつで犯人を捕まえられると思っているのか。

「みさき」

「お母さん、だからちょっと待っ――」

「みさき! 説明してくれないと分からないでしょ」

 母が大声を張り上げる。

「わたしだって分からないの! 和豊からもらった風呂敷広げたらこれが入ってて、夢中で変なボール投げて……」

 身振り手振りを交えて出てくる言葉が自分でも分かるくらいまとまっていなかった。とにかく今は「SEARCH……」の結果を待つしかない。

 気がつくと2人とも地面にへたり込んでいる。周囲の目も気になるので、とりあえず店の入り口脇にある植え込みのコンクリート部分に腰を下ろす。

 母は思いつめた表情で虚空を見つめている。先ほどわたしが怒ったせいだろうかと考えたが、そんなことで黙る人ではない。

 レンズの画面は先ほどから変化はない。和豊に電話をかけてみる。授業中であるという当たり前のことに気づいたのはかけたあとだ。しかし電話はつながった。

「もしもし。俺の声聞きたくなっちゃった?」

「違うわよ。それより授業中じゃないの」

「かけておいてそれはないだろ。体育をさぼり中だよーん」

 相変わらず能天気なやつだ。話を変える。

「あっそ。それより、例の風呂敷のことなんだけど」

「何かあったのか」

「……もふもふ盗まれた」

「『命中君』はもう使ったんだな」

「あ、やっぱり名前それなんだ」

「きちんと使ったならもう大丈夫だ。駒田さんのお墨付きだ。必ず犯人は見つかる」

 まるで開発者が語るように、和豊は冷静だった。

「ちょっと思ったんだけど、あれって塗料を付着させて目印にするんだよね。服脱がれたら終わりなんじゃないの」

「いや、あれはべらぼうに浸透性が高くて、服に付着した数秒後には肌にまで到達しているはずだ。目には見えないけどね。ここからがおもしろいんだけど、その液体は空気に触れると微弱の電磁波が出るようになっている。それを衛星がキャッチして、今みさきが装着しているであろう、『命中君・ブレーンキット』まで情報を届けてくれるんだ」

「ちょっと待って。何か突っ込みどころ満載なんだけど」

「安心しろ。液体は2、3日もすれば自然と落ちる。もちろん害はない」

「そんなことじゃなくて」

「とにかくみさきは犯人を捕まえることだけに集中すればいいんだ」

 遅ればせながら不安が押し寄せてくるがこのまま、もふもふを渡すわけにはいかない。何としても取り返さないといけないのだ。

「分かってるよ。何とかやってみる」

 電話を切り、一応母に和豊に聞いたことも含めて説明しようとすると、母はさっきまでどこかを見つめていたときの調子とは変わって、鋭い視線をわたしに向けていた。

「盗んだ人を捕まえるの」

「そうだよ」

「だめ。危ないわ」

 母の口調には何も寄せ付けない強さがあった。

「でも」

「刃物でも持ってたらどうするの。絶対にそんなことはさせない」

「お母さん、でもやだよ。せっかく手に入れたのに」

 無意識に母の腕をつかんだのだが、わたしは熱いものに間違って触れてしまったように、すぐに手を離した。

 母の腕は震えていた。娘の大切な物を奪った得体の知れない誰かに恐怖していた。

 なぜ。何でこんなことになってしまったのだ。煩わしさを感じ、ヘッドギアを外す。

「警察に届け出だして、わたしたちは戻りましょう。ね?」

 母の言葉にわたしは力無くうなずいた。ふらふらと立ち上がる。わたしの周りは笑顔でいっぱいだった。友人に自慢する者、電話に向かってうわずった興奮した口調で話している者、全ての人が恨めしい。

 風呂敷に命中君を戻そうとしたところで、ピンピロリーン、という間の抜けた音が鳴る。レンズを確認すると地図が表示されていた。

 ヘッドギアを装着する。2つの点が点滅している。自分がいるところと、犯人の居場所だろう。ここからそう離れてはないようだ。

 母を見やると無言で、なに、と問いかけてくる。

「犯人の居場所、分かったみたい。でももう帰るんだよね。しまうから」

 母は何も応えない。頭に手をかけようとしたところで、目の前に手が差し出された。

「貸して、それ使えないようにするから」

「でもこれ借りたものだから、返さないと」

「いいから」

 抵抗することもできず、命中君を母に渡す。

「あなたはここで待ってなさい」

 いきなり母がわたしを突き飛ばした。とっさのことで何もできず、わたしは本日二回目の尻餅をつく、あっという間に母は人ごみのなかに消えていった。

 すぐに立ち上がり、追いかける。走り去ったほうに急いで行くが、それらしき姿は無い。路上に立ち尽くす。わたしは携帯を手に取り、コールボタンを押した。

「ハロハロー。もふもふは取り返したかい」

「命中君取られた」

「犯人に?」

「違う。お母さん」

「みさき、君はそんな奇想天外なことを言う子じゃないだろう。ちゃんと事実を言ってくれよ」

「だから事実なの!」どんなときでも和豊は冷静さと、能天気な性格を失わない。ある意味評価すべきことだ。でも今は携帯を地面に叩きつけたくなるほど、むかついた。「きっとお母さん1人でもふもふを取り返そうとしてるんだ。でもどこに行ったか分かんない」

 風景が滲む。泣いても事態が変わらないことぐらい分かっているはずなのに、涙がどんどん溢れ出る。

「みさき。実はな、駒田さんには家族がいたんだ」

「何話してんの。もう電話切るよ」

「みさき。聞いてくれ」

「だから何よ。何なのあんた」

「駒田さんの家族は自動車事故で亡くなったんだ。奥さんと子供が一人いたんだけど、死んじゃって、駒田さんだけ生き残った」

 真剣な顔をして、店内を奇想天外なおもちゃで埋め尽くし、奇妙な発言を繰り返す駒田さんを思い出す。そんなこと、少しも知らなかった。

「その事故の衝撃のせいで駒田さんの記憶は少し変わってしまった。家族が宇宙人にさらわれてしまったと思い込んでしまったんだ」

「記憶は戻らないの」

「何でその必要があるんだ」

「悲しいと思うけど、でも、事実を受け入れないと」

「その必要は無いと思う。それが正しいこととは誰にも判断できないだろ。そもそもそうなったとして、駒田さんは幸せなのか」

 普段とは違う和豊の勢いに気圧される。着の身着のまま生きているように見えていたのに、こんなこと考えていたのか。

「ごめん、どうしたほうが正しいとか、何が正解とかそんなことでうでもよくて、俺が言いたいのは、みんなどんな状況にいたって、家族のことを考えない人なんていないってことなんだ。この世界は色んな人々の色んな思いでいっぱいだ。――だから、みさき」電話口だが、和豊が息を大きく吸い込んだ、気がした。「しっかりと立って、両目をいっぱいに開くんだ」

「……分かってるよ。そんなことぐらい」

 わたしは慌てて腰を上げた。両手で顔を拭って、さきほど一瞬だけ命中君で見た地図を記憶の底から引っぱりだす。確かかどうか分からないが、そこを目当てに行くしかない。

「和豊」

「うん」

「また駒田さんのとこ遊びに行こう」

 和豊に感謝の念を込めて通話終了ボタンを押し、わたしは携帯のPCサイト閲覧機能を起動した。検索したい単語を入力する。通信時間がもどかしい。やがて素っ気ない携帯のディスプレイにずらりと結果が並び出る。そのうちのいくつかを確認し、次に携帯の電話帳を開き、二人の電話番号を探した。一人は父。もう一人はある日母を担いで家にやってきた、あの若い人だ。

 和豊は、家族のことを考えていない人なんていない、と言った。母の言動もその言葉にあてはめると、表面上からしか伝わってくるものとは別の意味があるかもしれないと思ったのだ。根拠は一切ないのに、確信していた。

 過去に危機から救ってくれた、あのドロップキックが蜃気楼のように目の前に浮かび上がる。

 父の携帯番号を呼び出し、わたしは発信ボタンを押した。

 

 

 

 怒りが引き金となり尻尾の巨大化を発端とした暴走。マリーはもう一人の自分の存在に恐怖を抱くようになる。

 王家の者にも関わらず、なぜ尻尾を持って生まれてしまったのか――。出生の謎がさらに彼女を苦しめる。

 暗闇のなかを疾走しているような状況のなか、彼女は一人で解決をはかることを決意する。しかしその選択の正否も分からぬまま、新たな敵が襲いかかる。

 

第××話「異世界での邂逅! 謎の氷解」

 

「あなたの狙いはわたしでしょう。早くその人を放しなさい」

「黙れ。言うことを聞かないと、こいつを殺すことになる」

 その兵士は口調自体は落ち着いているが、手に持つ剣を見ると、不気味なくらいがたがたと震えていて、錯乱していることは間違いなかった。何を言っても効果がありそうにない。

「武器を捨ててこちらに来い。頼む」

 びき、という耳障りな音がする。身体中が蒸発してしまいそうな熱さが頭からつま先まで支配しようとしていた。

 尻尾も徐々にその意思を示し、巨大化していく。

 このままでは駄目だ。意識が朦朧とするなか、わたしは剣を抜いた。

「だから武器を捨てろと言っているじゃないか。何度言ったら分かるんだ」

「あなたを倒すためじゃない」

 思いっきり太ももに剣を刺す。痛みが脳を突き抜ける。血が剣から咲いた花のように太ももを彩った。

 声にならない声を上げ、わたしは半身を地面に叩き付けた。

 意識が冴えたのは一瞬で、身体の熱は上昇を続けている。そのうえわたし自身は相手にこれ以上ない隙を与えてしまった。

 兵士がじりじりと距離をつめてくる。

「すまん。命令なんだ。あんたを殺さないと王国に帰れないんだ」

 何度も謝りながら、ひたっひたっと近づいてくる。わたしはあらん限りの力を振り絞って剣を抜き、倒れたままの姿勢で構えた。しかしそれは持ったという表現が合うような不格好さだった。

 何度シミュレーションしても、殺されるイメージしか浮かばない。もう兵士は目の前まで迫っている。

 突然、二つの人影が目の前に現れた。

「メシル、ウル。どこかへ行けと言ったはずだろう」

 言葉とは裏腹に、ふっと力が抜ける。

「命令を聞けぬ至らぬ家臣で申し訳ございません。ここは私にお任せください」

「マリー様、こちらに」

 ウルがわたしを起こそうと差し出した手に触れた瞬間、世界が変わった。

 

 そこはかつて何度も来たことのある、過去の一場面だった。

 大きなベッドにはわたしが、その横には椅子に座っている母がいる。何の話をしているのか、2人とも口を大きく開き、笑っている。ただし、その世界の時は止まっていた。

 今までだったら、ただその情景を「見る」ことしかできなかったのだが、今わたしはそこに「いる」。歩くことができ、そこにある家具や人に触れることができるのだが、一様にその感触は食器を触るように冷たく、固かった。

 そして、決定的に異なる部分がもう一ヶ所。もう一人のわたしがいる。

「初めまして。マリー」

 わたしの声はこんなに高音だったのだろうか。人はあまりにも突飛な出来事に遭遇すると戸惑うことすらしなくなるのか、そんなどうでもいいことを考えていた。

「やっと会うことができたわね。今まであなたが嫌がっていたからよ」

「そんなこと知らない」

「もう一人のあなたがそう言っているのよ? 嘘を言うわけないじゃない。そもそもわたしはあなたの嫌な記憶を押しつけられるために生まれてきたの」

「嘘よ」

 自分でも驚くようなか細い声で、反論するが、もう一人のマリーは軽く肩をすくめただけだった。

「よくやるわ。そんなかわいい顔して」

 軽やかな足取りで幼い頃のわたしに近付き、頬に触れながら彼女は言った。そして視線をすっと上げ母を見据える。

「お母様は実験台にされたの」

「何を言ってるの」

「有尻尾人の奴隷制度を廃して手を結ぶ。そんな夢のような計画の一助となるため、お母様は身を投げうってあなたを身ごもった。簡単に言えば実権争いにまきこまれたのよ。王族を追い出すための理由作りのため、お母様は利用された」

「だってお父様はグラン王国国王として、今も国民のために頑張っておられるわ」

「反王族派が操っているの。今や実権は彼らの手にある。反王族派はかっこうの武器を手に入れた。お母様が有尻尾人を生んだことが国民に知れたら、たちまち王族は今の地位も命さえも失うことになるかもしれない。ついでにいうと過去に有尻尾人が反乱を起こしたとされる言い伝えも嘘よ」

 様々な疑問が行き場を求めて喉元まで押し寄せるが、何一つ声にならなかった。

 もう一人の自分。母に対する実験。塗り替えられた歴史。城から命からがら逃げ出したときは、分からないことを明らかにしようと息巻いていたのに、とんだ笑い者ではないか。

「わたしなんて何の役にも立たない。そう思ってるでしょ。あなたの考えていることなんて全部分かるんだから」

「目的は何なの」

「あなたと一つになるの。もういい加減わたしだけにつらいことだけを押しつけて、逃げるのはやめて」

「逃げてなんかいない。わたしは――」

「逃げてるじゃない。だからわたしはここにいるの」

 もう一人のマリーがこちらにゆっくりと近づいてくる。部屋全体がぐにゃりとゆがみだした。一歩一歩脚を踏み出すごとに、世界は形を変えていく。

 足下も変化が起きていた。ずぶずぶと黒い液体のなかに両足が沈んでいく。身動きがとれないまま腰まで液体が達した。熱さや冷たさ、何かに浸かっているという感覚すら無い。

 思わずわたしは手を伸ばした。もう一人のマリーの手がわたしの手を包む込むように優しく握ってくれる。

「さあ、一緒になりましょう」

 再び世界が変わった。

 

 もう一人のマリーの姿が見当たらない。記憶の一部には違いないのだが、覚えはない。目に映し出される光景は残像のように揺れていた。誰かがわたしの名前を呼んでいる。そう、これは母の声だ。

「マリー。ごめんね。ごめんなさい」

「お母様何で泣いているの。どうして謝るの」

 わたしと母は手をつなぎ、二人で城の屋上にいた。星一つない夜で、上半分が欠けた月が振り子のように揺れていた。

 かちり、という音がした。鎧のそれぞれの部位を留め具で合わせたときの音と似ていたが、それは脳内で響いたようだった。そのことをきっかけに、堤防を破壊した濁流のように記憶が再びわたしに満ちていく。

 そのとき母は実験体にされていたという事実を知り、衝動的に命を絶とうとしていた。

 母は何を問いかけてもごめんね、と謝るばかりでわたしの不安を最大限にかき立てた。気がつくと屋上でわたしと母はあと一歩でも踏み出せば身を中空に投げ出せる場所に立っていたのだ。

 ずっと遠くを見ていた母が膝を折り、わたしの顔を両手で包んで言った。

「マリー、人間はね、ぐるぐると時間や世界を超えて、巡るの。だからね、ここで終わりじゃない。またきっと会える」

 わたしは今にも泣き出しそうな情けない顔で母を見返した。

 言葉とは裏腹に母は震えていた。死にたくない、と母の身体が訴えていた。

 母はゆっくりと立ち上がり、姿勢を整えた。

「お母様」もう聞こえないかもしれない、襲ってくる胸騒ぎを抑えながら、わたしはその言葉を喉から何とか絞り出した。「本当は死にたくないんでしょ」

 張りつめていた糸が切れたように母の表情が崩れた。眉根を寄せ、目を苦しみの形に変えた。

 問いかけには応えず、母の身体が浮いた。母の手に誘われ、わたしも続く。

 それからの出来事は一瞬だが、とても長く感じた。

 尻尾を使うのはそのときが初めてだった。まだ死んではいけない。死ぬ必要なんてない。

 何かを強く願う気持ちを源にして、尻尾は無限に形を変える。尻尾が巨大な手のごとくわたしと母を包んだあと、地上へと達した。その際に大きく弾んで、木にぶつかってしまった。

「お母様」

 額から血が流れていたが、軽傷のようだった。

「わたしは大丈夫。マリーは」

「大丈夫。……ねえ、お母様。まだわたしの質問に応えていないわ」

 母はまた、顔をくしゃくしゃにして、わたしを骨が折れてしまうかと驚くほど強く抱きしめた。

「そうね。まだ生きていたいわ。ありがとう」

 尻尾が生えていてよかったと初めて思えた。

 母が実験体にされていたこと、尻尾を初めて使ったことによる事態の急激な変化に耐えきれず、わたしはもう一人の自分を作り出した。そしてそのまま記憶の底に追いやってしまった。

 あの後母は幽閉され、わたしは王族追放を画策していた者達に捕まりそうになり、城を逃げ出したのだった。

 わたしは光に包まれる。抱きしめられたときに感じた母の体温に溺れているようだった。自然と身体が浮く。そのまま身を任せ、わたしは目を閉じた。

 

 意識が戻った。今まさにメシルが村人を人質にとっていた兵士の刃を弾いたところだ。意識がとんでいたのは、そう長い時間では無いらしい。

 ウルが心配そうな顔をしてこちらの顔を覗き込んでいたので、強く頷いて立ち上がった。

 村人をウルへ任せ、わたしは兵士のほうへ近づいていった。メシルに目で合図し、兵士の前に立つ。相手は構えたまま表情一つ変えない。

 わたしは尻尾に意識を集中させた。手足のように動かせる確信はあった。テーブルの上の飲み物を取るように、それは無意識に近い動作だった。尻尾が目にもとまらぬ早さでわたしを通りすぎて兵士の剣を奪った。

「逃げなさい」

 兵士はまだ驚きを隠せない表情でついさっきまで剣を持っていた手を見つめていた。そのあとようやくこちらを見る。

「逃げなさい」

 森中に響き渡るように叫ぶ。兵士はこちらに背を向け、ふらふらと走り始め、姿を消した。

 振り向くと、メシルとウルがひざまずいていた。

「マリー様、私どもはとんだ愚か者ですが、今少し、お仕えさせてください」

「そんなことないわ。あなた達がいなければ、わたしは死んでいたかもしれない」

「ありがとうございます」メシルが顔を上げ、問う。「これから、いかがなさいますか」

「城へお母様を救いにいく。あなた達もついてきて」

 鳥がどこかで鳴いている。わたしは前を向いて歩き出した。

 ありがとう。わたしはどこかにいるはずのもう一人のわたしへ礼を言った。


 

 見知らぬ道をわたしはひたすら走った。足がもつれ、肺が酸素を求めるが、一度止まってしまうと座り込んでしまいそうだったので、迷子になったときのそれのように母の姿を探した。

 胸の痛みは突然の急激な運動からくるものだけでは、もちろん無かった。犯人が母を襲う可能性もある。心臓は何かのカウントダウンをしているように激しく鼓動していた。

 もふもふを買いたいなどと言わなければ――。今更ながら後悔が胸を突く。

 ようやく目星をつけていたところまで到着したが、母は見つからない。そこは商店街で、人ごみをかき分けて視線を巡らせるが、にこやかに店の者と客がやり取りする光景ばかりが目立っていた。

 立ち止まって膝に手を乗せ、肩で息をする。もちろん既にこの場所を通り過ぎた可能性もある。もう一度辺りを見回してみる。すると店と店の間に小さな雑居ビルが建っていることに気がついた。足場が組まれており、全体をシートで覆われている。

 身体が勝手に動いた。足早に近付いて、そっとシートに手をかけたとき、母の声が耳に飛び込んできた。

「返しなさいよ」

 低く押し殺した声が中から漏れてくる。わたしはシートを押しのけ足を踏み入れた。まず母の背中が見え、奥の方に犯人がいた。わたしの顔を確認すると、なぜか少し笑みを浮かべた。

「みさき、あんたは外出てなさい」

「嫌だ」

 黒髪のカツラ、恐らくアルミホイルで作ったであろう胸あて、真っ赤なマント、肘ほどまである手袋に、ウール地のパンツ、ブーツ……。

 コスプレをしていても、顔がヒゲを生やした男なので、やはり気持ち悪さを感じてしまう。おじさんではないが、若くもない。

「あのお、しつこいですよ、あなた。僕をこんなところまで連れ込んで。いい加減いいじゃないですか。これをください」

「あなた、自分が何をしているか分かってるの? 人の物を盗んだのよ? それは私の娘の物なの。返しなさい」

 男はふむ、という様子で手をあごに当てた。何を考えているのか表情からは読み取れない。

 犯人には色々と聞きたいことがあったが、わたしにはまず母に伝えることがあった。

「お母さん」

「みさき、あんたはいいから下がってなさい」

 母は犯人はから目を離さず、手でこちらへくるなとジェスチャーをする。わたしはそれを無視して、言った。

「お母さんは壊れ物じゃない」

 母の動きが一瞬止まった気がした。わたしのほうへゆっくりと顔を向ける。

「みさき、何でそれを――」

「お父さんと、あの若いお医者さんに電話した」

 母は次の言葉を探していた。何度も何かを言おうとしては、それを飲み込むという動作の繰り返しが微かに動く口から伝わってくる。

「そう……」

 母の苦い表情は落胆しているようにも見えたし、ばれてしまってはしょうがない、という安堵も少し混じっているように見えた。

 

 

 この場所にたどり着く前にわたしは二人の人物に連絡をした。

 初めこそ、思いがけない娘からの突拍子もない連絡に父は驚いていたが、案外すんなりとわたしに話をしてくれた。先日母と電話をしたこと。そのときに母が自身のことを「壊れ物」と表現したこと。学校の話にもなったが、わたしは時間もなかったし、休学のことを伝えなかった。

 電話を切る前に父は、こうなったのは自分のせいだ、と力なく言った。その言葉を聞いて感傷的になったり、何を今更、と怒る気持ちも湧かなかったが、もう少し父と話をしておけばと後悔した。問題から目を背けていたのはわたし自身だ。

 次にわたしはあの日の朝母を家まで送ってくれた若い青年に連絡をした。これは賭けだったが、番号は父が知っていた。電話がつながりわたしが母の娘だと告げたとき、青年は一拍の間のあと、ああ、と感慨深げに言った。

「何から話せばいい?」

 口調は穏やかで、それに爽やかさが伴っていた。記憶の中の彼はきれいな顔立ちをしていた。

「まず、名前を教えてください」

 青年の柔らかさのおかげで緊張を解かれたわたしはとんちんかんなことを言ってしまった。自然に好印象を与えることは精神科医を職業とするうえで役に立っているかもしれない。

「葛西といいます。葛西臨海公園の葛西。分からないか」

「いえ、アニメで出てきたことあるから、知ってます」

「そっか。じゃあよかった」

「わたしはみさきっていいます」

「みさきちゃんね。分かった。この前は突然驚かせたね。それで、今日連絡してきたのは自己紹介をし合うためじゃないだろ」

「すみません。母の病気について連絡しました」

「うん。お母さんは怒るだろうけど、君は自力でここまできたんだ。お母さんはね――」

「解離性障害、っていうんですよね」

 先ほどの場面の再生のように、一瞬の沈黙の後、葛西さんは言った。

「驚いた。もうそこまで分かっているんだね」

 以前と比べて性格が変わってしまったこと。朝帰り。新幹線で聞いた「壊れ物」という言葉。今まで起こったことの断片を集めてわたしは心の病を疑った。

 先ほど携帯で調べたとき、引っかかりそうなキーワードを打ち込むと、解離性障害について紹介したサイトが出てきたのだ。

 かつてはヒステリーと呼ばれた神経性の一種で、ヒステリーという言葉が差別的に使われているので、今現在はこのような言い方をしているらしい。

「普段わたし達の意識や感覚や記憶は統一されている。しかし何か困難な状況、その人にとって強いストレスに感じられることなどに直面したときに人格面の統一性が失われる可能性がある。それが解離性障害――。葛西さん、こんな感じですか」

「うん」

「解離性遁走、という症状があるそうですね。家への帰り方を忘れてしまい、見知らぬ町をさまよってしまうこともあると、あるサイトに記載がありました。朝帰りしたときの母はこの症状が起きていたんじゃないですか」

「恐らくね。君のお母さんから電話がきたときは驚いたよ」

「そうでしたか」

「他に知りたいことは?」

「ないです。ありがとうございました」

「どういたしまして。……お母さんを怒らないでくれよ」

「いいえ、怒ります」冗談半分、本気半分だった。電話の向こうから葛西さんの吹き出した息が耳に届く。「正直母にどう言っていいのか分かりませんが、思えばちゃんとぶつかったことないので、ガツンといきます」

「はは。ガツンとか。またその話聞かせてよ。みさきちゃんはお母さんのこと好きなんだろ?」

「はい。もちろん」

「なら、大丈夫だ」

 

 

「感情を表に出すと病気の症状が出てしまうかもしれないからお母さんは演技をしてたんでしょ」

 母はこう考えたのではないだろうか。解離性障害は強いストレスなどに反応して症状が出る可能性がある。だから何も感情を感じないように振る舞えば、病気を抑えることができるのではないか――。

 母は表情を固くしたまま何も話そうとしない。犯人はといえばなぜか楽しそうに、にたにたと笑っている。

「ねえねえ、親子げんか? まさかこんなとこで見れるなんて」

「黙って」

「面と向かって犯人と言われるとさすがにショックだな」

 わたしの迫力に負けたのか、それきり何も言わなくなった。

「私は、みさきのためと思って――」

「それは違う」わたしは今まで出したことのない大きな声で叫んでいた。商店街にいる誰かが見にくるかもしれないと一瞬思ったが、そんなことどうでもいい。「わたしのことを考えてくれてるのは嬉しいけど、逆効果だよ。元のお母さんのほうが、絶対いい」

 母はひどく驚いている様子で口をぽかんと開けていた。

「離婚したときわたしは何で、って思った。別に二人が仲良くしてるってわけでもなかったけど、別々になるなんて思ってなかった。人ってこんなに簡単に離れるんだって悲しかった。だからわたしも演技してた。誰かと仲良くなっても意味なんかないんじゃないかって、適当な理由考えて学校休んだ。でももうこんなの嫌だ。おもしろかったら笑って、むかついたら怒鳴って、普通が一番いい」

 母は、泣いていた。地面に膝をついて子供のように、身体を震わせている。

「ごめん……、ごめん」

「自分のこと壊れ物なんて言っちゃだめだよ」

 母の涙をわたしは初めて見た。人の涙を目の当たりにしたとき、悲しくなったり、嬉しくなったりする。今母が流している涙を見て、変な言い方だが、わたしは嬉しかった。小さな雫がこぼれるたび、今まで母がまとっていた見えない鎧が少しずつ壊れていくような気がした。

 わたしは犯人を真正面に見据え、言った。

「なんで盗んだんですか。一つはもう手に入れているじゃないですか」

 使う必要などないのに、なぜか敬語になってしまった。情けないことに声が震えている。

「一つはこのもふもふを自分で付けて楽しむ用、もう一つは観賞用だよ。分かるかな。お部屋に飾ってずっと見ていることだよ」

 気持ち悪い。話し方もそうだが、こちらが中学生だからといって、猫なで声になっているところに鳥肌がたった。

「おかしいじゃないですか」

「どうしてかな? だってもう一個欲しいって思っちゃったんだもの。それで盗んだからといって、誰にも文句を言われる筋合いは無いよ」がっかりだよ、という表情をして犯人は首を振った。「だから、そこをどいてくれないか。僕はここを出て行きたいんだ。もっと言うと早く家に帰ってもふもふを取り出してみたいんだよ。あ、今君はなぜ僕が商品を受け取ってなぜすぐに中身を確認しなかったのかなと思っただろう。僕は幼い頃から給食のデザートは最後まで残す派でね。つまりはそういうことなんだ。ちなみに君はどうなのかな」

 この時点でわたしは背筋に忍び寄る、うすら寒さを感じていた。気持ち悪い、というよりも犯人の思考は何かがズレている。気がつくと後ずさりを始めていた。その動きと合わせて犯人がゆっくりとした動作で近付いてくる。

「どうかな。どっち派なの」

 母が犯人にタックルするように抱きついた。

「返しなさい」

「ほんとにしつこいおばさんだな」

 犯人が母を突き飛ばした。地面に倒れ込むがすぐにまた起き上がり、追いすがる。

 すぐにまた突き飛ばされるが、母はまた立ち向かっていく。

「渡さないから」

 犯人の足にしがみつく。

 おかしな話だが、そんな姿を見て、わたしはこれから母とうまくやっていけるような気がした。母の病気のことも、学校のこともきっと何とかなる。根拠なんてこれっぽっちもないが確かな思いが湧いてくる。

 マリーだって、前を向いて戦っていたじゃないか――。

 わたしは犯人との距離をはかり、息をゆっくりと思いっきり吸って、吐くと同時に走り出した。そして地面を蹴る。空中で両足を胸に引き寄せるように曲げ、しっかりと狙いを定め、両足をちぎれんばかりに伸ばす。

「いってえ」

 渾身のドロップキックは見事犯人の顔面をとらえた。

 脳内にはマリーの決め台詞が拳銃を撃ったときの残響のようにこだましていた。

 どうして憎しみは減らないの。

 

 母と二人手をつなぎ名も知らない商店街を走る。もちろんわたしの手にはあいつから取り返した水色もふもふがある。母がはあはあと息をしながら聞く。

「後ろから来てる?」

「分からない」

 走りながら母はくつくつと笑っていた。久しぶりにみる笑顔だ。わたしもつられてしまう。

「みさき、あんなキックどこで練習したの」

「お母さんのまね」

「え」母は一瞬固まったあと、思い出したのか、恥ずかしそうに顔を伏せた。「あれか」

「お母さん」

「うん」

「わたし、また学校に行く」

「そう。ま、当たり前のことなんだけどねー」

「う。ごめんなさい」

 母を近くに感じる。物差しなどで計れる距離では無くて、もっと別な、ふわふわとした感覚の話だ。母とわたしの間ではほんの一瞬、時間が止まっていた。もう一度時計の針を少しずつ進めていこう。

「あと、その……お母さんの心の病気の話だけどさ、わたし正直どうしたらいいか分からない。でも分からないって場所にようやく立てたんだって思う」耳が異常に熱くなっている。何を言っているんだ。「わたしに何ができるか分からないけど、いつも近くにいるから」

 母が足を止め、問いたげな表情をしたあと、何かに納得し、再び笑顔になった。「ありがとう」

 恥ずかしくなったわたしは母を置き去りにして、走り出した。

 群衆をすり抜け、偶然ぽっかりと空いていた空間で立ち止まり、わたしは後ろを振り向いた。

 

 

 無意識のうちに作り出していた分身とマリーはついに一つとなり、城へと向かう。

 母を救出するために。

 次回、『逃亡王女マリー』最終話――。

                                           〈了〉


この本の内容は以上です。


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