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石渡(いしわた)さんの部屋は、存外男っぽい匂いがした。というと語弊があるかもしれない。正確には、女っぽい匂いはそこまでしなかった。乾燥した、冬の日差しが埃をかぶってそのまま封じられたような匂いだ、と、言おうと思いながら私はお茶を用意する石渡さんの背中に話しかけられないままでいる。

 中学生にしては破たんしていると思えるほど、部屋は広かった。真ん中より窓際に大きなグランドピアノが置いてあるのだから当然だけれども、ピアノがあることで部屋はより、その広さを強調しているようだった。クロゼットはなく、木目調の小さなカラーボックスが三つ綺麗に並んでいる。あとは折りたたまれた薄いピンク色の布団。漆黒のグランドピアノの横に布団がある光景を、私は、後にも先にも見たことがない。

 突っ立ったままの私を後目に、石渡さんはピアノの傍に置いてあったキャスター付きのチェストテーブルをごろごろと動かして自分はピアノの椅子に腰を下ろした。カラーボックスと同じ明るい色の木目をしたチェストの上には、いつのまにかポットとガラスのティーカップが二つ、白磁のティーポットが一つ、ちゃんと乗っている。

「ティーコゼー、この間汚しちゃったのよ。紅茶こぼしちゃった」

「……なくても、あっても」

「格式ばったエゲレス人はああいうのにこだわるのよ。それに、あれがあった方が蒸らす時間が無駄にならないわ」

 何がおかしいのか、石渡さんはくすくす笑った。

 

 石渡さんと会ったのは、最近できた駅前の紅茶専門店だった。日曜日、何もすることがなかった私は、ふらふらと駅前の本屋に行き、ドーナツを食べ、紅茶が飲みたいと思ってその店に入った。ファストフードのドーナツは好きだけれど、油と砂糖がそのまま舌先に残る後味が好かない。

 店内は静かなクラシックが流れていて、壁は真っ白、カウンタ―のようなところに袋詰めされた無数の紅茶と香りのサンプルが置いてあった。店員は若い女性一人だけで、白いブラウスに若葉色のエプロンをつけている。静かに何か、作業をしていた。石渡さんの後ろには金色に輝く、牛乳瓶をもっと寸胴にしたような缶が、天井まで区切られたスペースにずらりと並んでいた。出たい。入った瞬間にそう思ってしまう。何も、こんな本格的なお店に入ることはなかったのだった。スーパーに打っている、安いティーバッグでいい。引き返そうと思って振り向くと、そこに石渡さんがいた。石渡さんの周りだけ別世界、というよりも、私だけが別世界だったのだろうと思うほど、石渡さんは店の内装にすっぽり馴染んでしまうぐらい綺麗だった。

 石渡さんは白い丸襟のついた、サテン地のワンピースを着ていた。店内の淡い光に、サテンの細かい生地がきらきらと輝く。紺色が虹色に見えた。対する私はさえないメガネをかけ、着古したトレーナーにジーンズという出で立ちで、クラシックよりも横断歩道の信号から流れるとおりゃんせの方がお似合いな格好だ。

「いらっしゃいませ。ご試飲はいかがですか。ミルクティーにぴったりのアッサムロイヤルです」

 女性の店員がカウンターの奥からやってきた。手には小さなお盆を持ち、その上には白い小さな紙コップが乗っている。石渡さんはごく当然のようにその細い指でコップをお盆から持ち上げ、三口で飲み下した。私はなかなか手が出ず、結局曖昧に首を振って断った。

「飲まないの」

「……いいの」

 石渡さんは笑いもせず、怒りもせず、無表情のまま私の傍を通り過ぎ、ディスプレイされていたガラスのティーカップを眺め始める。私はそっと後ずさりしながら、ドアについたベルが鳴らないように慎重にノブに手をかけてゆっくろ店から出て行った。お店の外は大通りに面しているから、車の音がうるさく、クラシックなどとは無縁の世界だった。どこかから、とおりゃんせが聞こえてくる。

 次の日、廊下ですれ違った人に腕をつかまれた。細い指が思いのほか強い力で私の腕にめり込む。図書館に返そうと思った本が二冊、腕から落ちて行った。その音に、他の生徒も私たちを見た。

「あ、」

「やっぱり同じ学校だった。紅茶好きなの?」

「え、いや、別に……」

「どこ行くの? 図書館?」

 下に落ちた本に張り付けられたバーコードをちらと見て、私の腕をつかんだままの石渡さんは尋ねた。私はそっと頷く。丹精な顔がぐいと近づいて、頬にある金色の産毛がさらりと光った。

「私も一緒に行く」

「え、」

「あなた、えーと、それ、なんて読むの。サカン?」

 胸についた名札を、石渡さんはじっと見た。

「さぬき、です」

「さぬき、下は?」

「紅子(べにこ)、です」

「ねえ、知ってた、紅茶って紅色のお茶って書くのよ」

 腕が圧迫から解放され、石渡さんはごく自然に床に散らばった本を拾った。さっきまで思いきり力をこめていた指は白く、しなやかに動いていた。

 それから、クラスも違うのに石渡さんは休憩時間にはちょこちょこと私のところにやってきて、紅茶のハウツー本なんかを持ってきては時間いっぱいまで紅茶のことを話して帰っていく。なつかれる、という言葉がぴったりのように思った。他のクラスは結界が張ってあるようで入りづらいと感じる私とは違って、石渡さんはそんなもの全く感じないのだった。いつも席で本ばかり読んでいて根暗な私はクラスでも静かに過ごしていて、よくも悪くも誰の興味も集めなかったのに、石渡さんがクラスに入ってくるようになって、クラスの意識はそれとなく私の方へ集まっているのはよくわかった。

「ねえ、佐貫さん、石渡さんと友達なの? 仲良しだよね?」

 次の授業が体育のときの休憩だけは、さすがに石渡さんはやってこず、その代わりなのかクラスでも中心的な存在の蛯名(えびな)さんが数人の女の子と一緒に私の席の目に座った。石渡さんが私のところに来ると決まって座るその席は、島内くんの席だった。石渡さんがそこにいるときは思いもしないのに、なぜか今、島内君には早く席に戻ってきてほしいと願う。

「……え、あ、ううん、そんな」

 石渡さんもそうだけれど、蛯名さんのようなかわいくて自分とは接点のない女の子に話しかけられるとどうしていいのかぎこちなくなる。私は話していていいのか、変な風な声をしていないか、口は臭くないか、そんなことばかりが気になってしまって、一瞬で手のひらに汗をかいた。

「べにこ、なんて呼ばれてるのに? ねえねえ、前から思ってたんだけど、紅子ってなんか古い名前だよねえ。なんで紅子って言うの?」

「し、知らない」

 私の名付け親はおじいちゃんだった。私が生まれた日の朝に、綺麗な紅色の椿が庭に花をつけていたそうで、それを見て感動したおじいちゃんが紅子と名前を付けてくれた。それを言ったところで、きっと蛯名さんは笑うだろうから、私はそう言うしかない。それを言うので精いっぱいだった。

「じゃ、石渡さんがどういう人かも知らないね?」

「……う、」

 一瞬教室がざわめいて、机ががたがたと揺れ、それに気づいたと同時に蛯名さんが痛い! と叫びながら頭をかかえて前のめりになる。その後ろから現れたのは、白い肌を紅色に染めて息を荒くしている石渡さんだった。石渡さんが、蛯名さんの頭を思いきり叩いたのだった。いつのまにか席に戻ろうとしていたらしい島内くんも近くにいて、ただただ唖然とその光景を見つめていた。

 その日の帰り、靴箱の並ぶ二年生の玄関に行くと、私のクラスの靴箱の前で石渡さんが待っていた。西日を集めるその場所は、白い床に光が反射して、石渡さんをシルエットだけにして浮かび上がらせていた。グレーのワンピースの制服さえ、真っ黒になっている。私を見つけた石渡さんは、とたとたと走り寄ってきた。また、細い指が私の腕をつかんだ。どきりとする。

「一緒に、帰らない? 昨日、紅茶を買ってきたの。紅子と飲みたいと思って」

「え、でも、」

「私と一緒にいられない?」

「……ううん、大丈夫、ですけど」

「じゃあ、行こう。ねえ、今日、びっくりした?」

 靴を履きかえて玄関を出たところで落ち合うと、夕日に照らされた石渡さんの髪の毛が茶色く透けた。

「……うん、びっくり……した……なんであんな」

「紅子がいじめられたんじゃないかって思ったの。何、話してたの」

「……私の名前がどうして紅子なのって聞かれて」

「ふうん、私も聞きたい。どうして?」

 私は蛯名さんのときのように若干戸惑いながら、石渡さんには言ってもいいかと思い、由来を放した。石渡さんはふんふんと頷きながら聞いて、素敵ね、と一言言って笑った。ほっとして、きっと、蛯名さんには言えない、というようなことも言うと、言わなくて正解、私が殴っておいて正解だった、と石渡さんはなおも笑った。

「……授業、体育じゃなかったの?」

「さぼりよ。バスケで突き指でもしたら大変だし」

 美しくて細い指はそうして保たれているのだった。私は小さい頃に何度か突き指をしていて、なおかつ小学生の頃に鉄棒から落ちて右手の小指を骨折しているので、変な風に曲がっている。生活に支障はないけれども、小指だけはうまく力が入らない。だから、石渡さんのようにしっかりと、誰かの腕をつかむことはできない。

 

「さあ、どうぞ」

 そうして案内された部屋で、私と石渡さんは紅茶を飲んだ。ガラスのティーカップは、あの駅前の紅茶専門店で買ったのだそうだ。

「うーん、やっぱりコゼーないとなあ」

「……十分、おいしいと思う、けど」

「なんか、雰囲気でないでしょ」

 石渡さんは一口二口飲んでは、いろんな角度から紅茶の色を見極める。少し薄い褐色は、陽の光で透けた石渡さんの髪の毛を思い出させた。ピアノ椅子から立ち上がりカップをチェストに置いて、石渡さんは私の方へ足を投げ出して寝転んだ。はらりとスカートがめくれあがり、肌色のシュミーズが見える。つい最近衣替えしたばかりで夏用のスカートとは違い透けないのに、そういうものをちゃんと履いているところが、どことなく石渡さんらしいと思った。私は夏でも冬でも黒いスパッツしか履かない。

「……グランドピアノ、大きいね。音楽室のものより」

「当たり前よ。あんなのより何百倍もいい音が出るの」

「弾くの?」

「そうだよ」

 馬鹿な質問をしている、と、自分でも思っている。石渡さんは有名人で、両親も音楽家で有名で、そんなことはきっとこの日本中で知っている人が多いのに、なぜか本人の口から聞きたいと思って尋ねた。石渡さんは寝転がったまま黙っていたけれど、不意にけらけら笑い出した。鈴が鳴るような声、というのは、こういう声なのだろう。寝返りを打って私の方を見た石渡さんは、顔を少し赤くして、潤んだ瞳をしている。思わずティーカップを落としそうになる。

「紅子は面白い。ピアノが飾り物だと思ってた?」

「ううん、知ってた、知ってたけど……」

「お店で紅子を見たときに、私、あ、この子いつも図書館にいる子だって思ったよ。ねえ、みんな、子どもっぽいでしょ。でも、紅子だけは本をたくさん読んでいて、きっと大人っぽいと思ったの」

 大人っぽいのは石渡さんの方だ。私はあんな、白い丸襟のついたワンピースなんて持っていないし、スカートの下にシュミーズは履かない。紅茶はダストと呼ばれるような茶葉のティーバッグで十分だし、周りのクラスメートを子どもっぽいと思ったことはない。ピアノも弾けないし、音の良しあしもわからない。

「紅子、一緒にピアノ弾こう」

「私、弾けない。音符も読めない。石渡さんの演奏が聴きたい」

「読めることなんてどうでもいい。私が教えるから」

 がばりと起き上がり、私の腕を、またつかむ。あ、と声が漏れ、ガラスのティーカップが下に落ちた。幸い割れなかったが、温くなった紅茶が私のスカートを濡らす。

「あ、ああ」

「あら、ごめんなさい」

 石渡さんの声はどこか楽しそうだった。私が立ち上がると、スカートの裾からぽたぽたと水滴が落ちた。

「おもらししたみたいになっちゃって。タオル持ってくるから」

 結局、その日は、石渡さんとピアノを弾くことはなかった。

 それから、石渡さんの家を訪れる回数が増えた。お互い部活には所属をしていなかったので、ほぼ毎日二人で帰って、三回に一回は石渡さんの家に行った。休日も、二人で遊んだ。というのはやっぱりちょっと語弊があって、石渡さんの行きたい紅茶のお店や、紅茶がおいしいというカフェに私も連れて行ってもらった、という方が正しかったかもしれない。私は紅茶が特別好きなわけではなかったけれど、石渡さんが話してくれることや、貸してくれる本から紅茶の種類や知識をたくさん覚えた。輸入ショップで香辛料を買ってきて本格的なチャイを作ってみたり、ジャムを入れてフレーバーティーを作ってみたりもした。自分から何かしようと思うのは読書ぐらいだった私が、休日も外へ出ていくことを、両親が亡くなってから育ててくれた祖父母は驚きながらも喜んでいた。

 ちなみに、例の一件以来、蛯名さんたちは私に何かを言ってくることはなかった。最初で最後の、蛯名さんとの接触だったと思う。蛯名さんや他のクラスメイトは、私をというよりも石渡さんを恐ろしがっているようだったけれども、そのおかげが私はまた、クラスの中では静かな存在になった。相変わらず教室の境界を破ってくる石渡さんにも、いつのまにか誰もが慣れていった。

 

 石渡さんはよく、私たちは似ている、と話した。

夏休みに海を眺めに行った日の帰りの電車の中や、冬休みに初詣に一緒に行った帰りのバスの中や、そういうことを石渡さんが言うときは、大体寂しいんだということも、私は知っていた。石渡さんのご両親は死んではいないけれど、海外のオーケストラに所属しているために世界中を飛び回っていて、石渡さんは兄弟もいないから一人だった。長期の休みには一週間ほどご両親に会っていたみたいだけれど、いつも祖父母と一緒にいる私にとっては、一週間だけしか一緒にいないのは、短すぎる気がしていた。

中学三年の夏にまた、一週間だけご両親に会って帰ってきた石渡さんに、なぜ向こうで一緒に暮らさないの、と尋ねたとき、石渡さんは夏祭りで買ったりんご飴に悪戦苦闘しながら笑った。

「両親が日本人で、私も日本人なのに日本を知らないのはよくないって、統(おさむ)と紗子(さこ)が言ったの。大きくなってからはわからないけど、別に、私、ピアノで食べていこうなんてこれっぽっちも思ってないけど。紅子がいるし、私、日本でふつうに暮らしていけるし」

 口の周りを飴の着色料で赤くして、石渡さんは笑った。一緒に歩くとき、石渡さんは決まって私の右腕をつかんでいて、その時少しだけ、その手に力が込められたのは、気のせいだと思う、きっと。

「でも、石渡さん、この間も賞をとってたじゃない。今度、海外の演奏会に行くんでしょ。力があるのに、なんで」

 私の声にはあまり感情がなかった。そのことに、自分でも驚いた。どん、と背後で花火の音がして光が輝いて、周りの人は振り向いて歓声を上げたのに、私たちは反対方向へと歩いた。屋台の列が切れて、神社の境内がひっそりとたたずむ前に来て、やっと足を止める。

「紅子は最近、意地悪だね」

「そんなこと、ないよ」

「意地悪だよ。……私は、海外へは、行かない」

 すっと手を放して、石渡さんは境内の賽銭箱の前にある石段に腰を下ろした。きれいなシフォン生地の水玉のワンピースが汚れないか心配している私をよそに、近づいたこちらの腕をぐいと石渡さんは引っ張って無理に座らせた。距離は思いのほか近く、石渡さんが息をわずかに吐くたびに、砂糖の甘い匂いがする。



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