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 人の姿をした神が、神の面を着けて舞う。
 静かに、息を詰めて、緩やかに歩を進める。
 無音の舞い。

 気の場を纏い、その場もまた身体と共に静かに動く。
 観客は無。

 ただ、空間のみが其処に在り、舞のみが存在のすべて。

 何故、人を纏った神が、また神を演ずるのか?
 人は神である事を忘れたのだろうか?
 人である事に疲れた神が、神に戻る事を欲しているのだろうか・・・?

 人の姿をした神が、鬼の面を着けて舞う。
 大きく胸をはだけ、筋肉に力を漲らせて「おぅ」と声を上げる。
 天を切り裂くような鼓の音に乗り、激しく地団駄を踏みながら舞台の上を舞う。
 観客は空。ただ、悲しみのみが其処にあり、舞うことによって昇華する。

 何も判らないままに、人の姿をした神は、舞う。






「もう夏ね。夾竹桃が咲き始めてる」
「ああ、めぐみはこの花も好きだったね」吉野が運転しながら言う。
「私の曾おじいちゃん、盲僧だったのよ」運転する元夫である吉野の横顔に目をやる。
「ん?それがどうしたの?」吉野が振り向く。
「それがね、この花の汁が目に入って見えなくなったって言われてるの・・・」
「毒があるのかな?」また前に目を戻して言った。
「さぁ?私は知らない」
「それなのに君はこの花が好きなの?」
「ええ。だっておじいちゃんさえ会った事もないのに、そのまたおじいちゃんよ。関係ないわ。でも、この花にはなんだか悪い方じゃなく、良い方の親近感みたいな物があるのよ」
「そんなものなのかな?」

 藤の花の下で、奇妙な事件に巻き込まれてから、一月が経った。あの後吉野は、週に一度、自殺未遂をした彼女の見舞いを欠かさずに過ごしている。それの甲斐も有ってか、彼女は順調に回復しているらしい。

「あなた、それで彼女との結婚に、踏み切れそう?」私が尋ねる。
「いや、それだけはやっぱり止めた方が良いと思うんだ。だって、僕には梶君みたいに一度に何人もの女性を愛するなんて事、出来ないよ。彼女を愛おしく思う事は出来るようになったけど、それと結婚して一緒に生活して行くのは違うって思うんだ。きっと子供を持つ資格がないんだよ。誰かの成長を楽しむって言うのがどうもピンと来ない」
「そう。そう言う事もあるかもね」
「君の方はどうなの?」吉野が尋ねる。
「私?私は何も変わらないわよ」
「五十嵐君との事はどうなの?」
「正巳はちゃんと自分で彼女を見つけるわよ。だって彼はまだまだ若いし、あんな良い男、女の子が放っておくわけないわ」
「でも、彼も君を愛してるんだろう?」
「ええ、でもそれと私は関係の無い事よ。それに、私もう結婚なんてしなくって良いわ」
「僕との離婚で懲りたのかな?」
「そう言うわけでもないけど・・・。元々私達って一般的に言われる結婚生活を送っていたわけじゃないでしょう?確かに誰かが家で待っててくれたり、受け入れてくれる場所があるって素敵だけど、それの為だけに結婚すると後が大変よ」
「どう大変なの?」
「だって、やっぱり結婚って二人だけの問題じゃないし、この年だったら急いで子供だって作らなきゃ成らないでしょう?私、もう、そう言うの面倒だわ。確かに歳を取った後、堪らなく寂しかったりするのかも知れないけど・・・」
「独りぼっちの老後の心配かい?」
「そうね。でも、幾つまで生きるかなんて分からないもの。それに、自分の寂しさを紛らわせるために子供を産むって言うのも変な話だし・・・。とにかく今私はこのままで良いって思ってる。別に誰とも結婚しなくても、愛し続ける事は出来るんだから」
「僕もそうありたいと思ってるよ。もしお互いに老後と言われる年になったら一緒に暮らせば良いじゃないか。そうすればどちらかが一人になるまで淋しくはないだろう?」
「でも、結局はみんな一人で生まれて一人で死んで行くのよね」
「寂しい事言わないでくれよ・・・」
 吉野は静かに車を歩道に寄せて止め私を降ろすと、後でまた迎えに来ると言って車を発進させた。

 私は、久しぶりに能を見たくなり、友人を頼ってやっとの思いで一枚だけチケットを手に入れたのだ。
 心地よく冷房の効いた会場の中は、ほぼ満員だった。年輩の人達がきちんと絽の着物を着て集まっている。
 私は指定された席に着き、開演を待つ。

 シンと静まり返った中、笛太鼓の音が響き、演者達が次々と登場し、静かに所定の位置に着く。そして、緊張感が飽和状態になったところで、鼓膜を打つ澄んだ鼓の音が私の中に広がった。それがきっかけに成り、私の意識は現実を離れ、幽玄の世界に遊ぶ。

 すべてが終わり、舞台の上に誰も居なくなった。それで私も席を立ち、現実の世界へ戻った。しかし、そこが本当に現実であるのかどうかは定かではない。何故なら、私の今居る現実とは、すべてが幻でしかない事を知ってしまい、死んだ者と語り合ったりする様な不確かなものなのだから・・・。

 入り口を出ると、吉野が黄色のニュービートルを静かに寄せてきた。
「ありがとう」私はそう言ってそれに乗り込む。
「思ったより長かったんだね」吉野が言った。
「そう?」私はそう言って時計を見る。彼と別れてから五時間近く経っていた。
「ごめんなさい。随分待たせちゃったのね」時間の感覚が無くなっていたのだ。
「構わないさ。どうせ僕は暇だったんだから。それより食事に行こうか」
「ええ」私はそう答えて微笑んで見せた。まだ、幽玄の世界の余韻が私の中に残っている。
「面白かったかい?」吉野が尋ねた。
「ええ、意味は良く判らないけど、雰囲気だけは堪能してきたわ」
「どんなだったの?」
「不思議な感じよ。ただ静かに歩いたり動いたりしているだけに見えるんだけど、悲しみだとか、苦しみなんかがヒシヒシ伝わってくる感じ」
「君が最近首を突っ込んでいる世界みたいな感じかな?」
「大体そんな感じよ。多分、昔の人の方がそう言う事を感じる力が強かったんじゃないかしら?」
「最近の僕達は、忘れてしまってるのかな」
「多分ね。誰もが持ってるけど忘れてしまっているものなのよ」
「何故なんだろう?」
「忙しすぎるからじゃない?だって今の人じゃ考えられないほどゆっくり動いてたもの」
「そう言う問題なのかい?」吉野が呆れたように言った。
「きっとね」私はそう言って笑って見せた。

 吉野は、繁華街の裏通りにある小料理屋に案内してくれた。
 彼は店の主人に声を掛け、奥の席に座る。私も彼の前に腰を下ろす。
 小鉢に入った料理が運ばれて来て、吉野は冷酒を一本といくつかの料理を注文した。
「最近日本酒も飲むの?」家では日本酒など飲んだ事がなかったので驚いて言った。
「ああ、少しだけね。燗をしたのはやっぱり苦手だけど、冷酒だったら結構いけるんだ」
「彼女が好きだったんでしょう?」
「ああ、そうだよ。妬いてるのかい?」
「いいえ、色んな選択肢が増えて良かったって思っただけよ」
「もう少し妬いて貰えると有り難いんだけど・・・」彼はつまらなそうにそう言った。
 私は運ばれてきた冷酒を注いで貰ってそれに口を付ける。
「美味しいわ」そう言って笑って見せる。
「君の方こそ、酒が強くなった」私は首を傾げてそれには答えない。
「さぁ、食べて」吉野はそう言って料理を勧めた。
 何か変な感じだ。まるで恋人ごっこをしているような、現実感の欠けた二人の関係。
 それでもそれに対して二人とも結構満足していたのだ。
 彼は、ゆっくりと料理を楽しみながら、彼女の状態などを話す。私はそれに相槌を打ちながらゆったりとくつろいだ気分になっていた。
 お酒をもう一本だけ追加して、彼はご飯を貰う。それで、酔いが冷めた頃店を出て、私を送ってくれた。九時を少し回っていた。

「寄って行く?」私はマンションの入り口で彼に尋ねる。
「いや、明日仕事だから・・・」
「そう。今日はどうも有り難う。それに、ご馳走様」私は礼を言う。
「どういたしまして。また、予約してから君の手料理を食べに来るよ」
「何時でもどうぞ」私はそう言って彼の車に手を振った。

 部屋に戻ったら留守電のランプが点灯していた。それを見て録音を聞く。
「めぐみさん。携帯を持っててって言ったでしょう!戻ったらすぐに電話して下さい」
 発信音の後流れてきたのは、正巳の声だった。
「やばい!あの子また怒ってる・・・」私は一人ごちながら彼の携帯の番号を押す。
 三度めの呼び出し音で彼が出た。
「五十嵐です」
「伊藤です」
「めぐみさん。どうして携帯を持ってないんですか!」
「ごめんなさい。今日はちょっと能楽堂に行ってたから途中で鳴ると困るし・・・。終わったらすぐに帰るつもりだったから・・・」
「それで今の時間ですか?」
「ええ、吉野が夕飯をご馳走してくれたのよ。それより何の用なの?」
「今から行っても良いですか?」
「私は構わないけど、あなた明日仕事でしょう?」
「明日から出張なんですよ。だから今日中に片づけたいんです」
「判りました。お待ちしてます」
「すみません。すぐに行きますから」彼はそう言って電話を切った。

 十分程で玄関のチャイムが鳴った。

 私は取り敢えず彼にソファーを勧めてコーヒーを入れる。
 彼の前に座って言う。「何があったの?」
 正巳はコーヒーを一口飲んで答える。「奈良奥山で会った古田さんから電話を貰ったんです」
「ああ、あのコンピューター会社の社長さん。それで、どうしたって?」
「なんか、通信が来てるみたいなんですよ」
 私もコーヒーを一口飲んで言う。「通信って?向こうの世界から?」
 正巳は静かに肯いて見せた。
 古田和彦。奈良奥山で神降ろしをした時に突然現れて、ニギハヤヒを我が身に降ろした男性。ニギハヤヒが自分自身を祀る為に生まれ変わった、特殊な使命を持った魂だ。
 彼、古田和彦も春樹や正巳と同じ様に、見えないものを感じる力を持っているらしい。しかしそれは、正巳達が見たり聞いたりするのとは少し違って、コンピューターを介して現れると言う事だった。
「あなた、あの後古田さんと会ったの?」私が正巳に尋ねる。
「ええ、一度だけ僕の会社に尋ねてこられました。でも、ちょうどチャネルの仕事が入ってたのと、次の日から出張があったのとで、その時に一時間だけ一緒に食事をしただけです」
「珍しいわね。タイミングが合わなかったなんて・・・」
「本当ですね。めぐみさんの時は大抵巧くタイミングが合ったんですよねぇ」
「多分まだ準備が整ってなかったのね」
「そう言う事でしょう。でも、今日は、本当にめぐみさんが捕まらなくってイライラしましたよ」
「馬鹿ねぇ、何故春樹を使わなかったの?」
「それが、梶さんも捕まらなかったんですよ」
「えっ?どう言う事?」
「梶さんが感じられないんです。いつも呼べば答えてくれるのに・・・」
「嘘でしょう?」私はそう言って春樹に話しかける。「春樹。どうしたの?私でも正巳でも良いから降りて」
 私はそう言ってから春樹の言葉を待つ。そして、しばらく黙ったまま正巳と顔を見合わせた。
 私はもう一度名前を呼ぶ。「春樹、正巳に降りて」
 正巳もそれに答えるように目を閉じ、身体の力を抜く。しかし、春樹は話し始めなかった。私に春樹のエネルギーは感じられている。彼の魂を見失ったわけでは無さそうだ。私は取り敢えず、正巳を呼び戻す。
「正巳、戻って」正巳はしばらくして目を開けて言った。
「どうしたんでしょう?梶さんは何か怒ってるんでしょうか?」
「あなたの力はちゃんとしているのよね。前の時みたいにあなたの方に問題があるわけじゃないわよね?」正巳に尋ねる。
「多分。他は支障無く出来てますから・・・。ただ梶さんだけが呼べないみたいです」
「春樹を感じてはいるのよ。アイツ、何かたくらんでるのかしら?」
「ばれたか?」突然春樹が私の口を使って言った。
 正巳は暫く呆気にとられたように私の顔を見つめ、その後気を取り直して言った。
「梶さん!いい加減にして下さいよ!」正巳は本気で怒っていた。
「春樹。いったいどうしたの?」
「いやぁ、たまには普通の人間に戻るのも良いんじゃないかって思って」春樹は悪びれた風もなくそう言った。
「あなたねぇ。大体、こんな変な世界に勝手に引きずり込んでおいて、今更普通の人間に戻るのも良いなんて・・・」私も呆れて後が続かない。
「そうか?でも、面白かったぜ」
「梶さん。僕が焦るのってそんなに面白いですか?」正巳が口をとがらせて言う。
「ああ、お前もそろそろ一人前になって良いんじゃないかって思ってな」春樹が笑いながら言った。
「それもそうね。ちゃんと今会えてるわけだし、問題は無かったわけだから・・・」私も何となく春樹の考えている事が分かってそう言った。
 正巳は、それについて考えている。私はそんな正巳をそのままにして春樹に尋ねる。
「春樹、それで、また何かが始まるの?」
「姉さん。そろそろ退屈し始めたんだろう?」
「そうじゃないわよ。あんな何度も死にかけるような体験はもう嫌よ。結構痛かったんだから」
「そうだな。さすがの俺もあの時は冷や冷やしたぜ。だけど、姉さんの魂は欲張りだからな」
「私がまた何かを作り出そうってしてるの?」
「多分。で、五十嵐、あのオッサンはなんて言ってきたんだ?」
 正巳は、考えるのを中断してそれに答える。
「何か、訳の分からない通信が来たから、それを見て欲しいって言ってきたんです。それも、出来るだけ早く。それで、めぐみさんを捕まえようとしてたんですが、捕まらなかったんですよ」
「さっき、姉さんが言ったようにまだ時が満ちてないんだ。お前、出張は何日までだ?」
「明日から、一週間です」
「だったら、帰ってすぐに会えるように段取りしていけ。どうせ、今日会えてたところで、どうしようもない事だ」
「梶さんはどんな事なのか知ってるんですか?」
「いや、しかし今日お前が姉さんを捕まえられなかったと言う事は、そう言う事なんだ。時の概念が理解出来れば、自ずと判る」
「時ですか・・・」
「やっぱりそうなのね。それを教えたかったんだ」私が春樹に言う。
「そろそろ、五十嵐にも落ち着いて貰わないとな」
「僕、そんなに落ち着きがないですか?」
「正巳、それがあなたの魅力なのよ。だから春樹の言う事を一々気にしないの」
「僕には分かりません」正巳はまたふくれっ面でそう言った。
「姉さん、ちょっと飲ませてくれないか?」春樹が言う。
「あなた、死んでるのよ。お酒を要求したりしないでよ」私はそう言って笑いながら、空になったコーヒーカップを片づけウイスキーを用意する。
「正巳!あなたも飲む?」キッチンから正巳に声をかける。
「はい!いただきます」
 私は二人分の水割りを持ってリビングに戻る。
「あなた明日、早いんじゃないの?」正巳に問いかけながら彼の前にグラスを置く。
「いいえ、午後の飛行機ですから大丈夫です。朝から会社でちょっと仕事をした後での出発です」そう言ってグラス半分のウイスキーをのどの奥に放り込む。
「巧く行ってるの?」
「大体ですけどね」そう言って笑って見せた。
「俺の会社、どうなったんだろう?」春樹がからかうように言う。
「梶さん。梶さんが放棄したのを僕が拾ったんですから、文句言わないで下さいよ」
「俺がお前に文句を言った事なんて有ったか?」
「さぁ、僕は覚えてませんけど・・・。多分、沢山あり過ぎて覚えてないんだと思いますよ」
「正巳、あなた少しアルコールが入った方が、柔らかくって良いわねぇ」
「そうそう、そのぐらいの心構えで居てくれると安心してられる」春樹が追い打ちをかけた。
 正巳は一気に残りのウイスキーを飲み干し、グラスを私に突き出して言う。
「どうせ僕は堅物ですから!めぐみさん、おかわり!」
「はいはい、ロックにしましょうか?」私はそう言ってキッチンから氷を持ってくる。
 正巳のグラスにその氷を足し、ウイスキーを注ぐ。
「なあ、五十嵐。恋をする時は、自分の力だけでしろよな」ウイスキーを一口飲んで春樹がそう言った。
「どう言う意味ですか?」正巳が尋ねる。
「お前は、今日、姉さんに会いたかった。それに用事をくっつけただけだ。だから俺は知らん顔をしてたんだよ。お前の恋のメッセンジャーなんか御免だからな」私は黙って春樹に喋らせる。春樹が続ける。
「お前は、もう少し自分の気持ちに正直になるべきだ。欲しい物は欲しい。それが物であっても、女であっても同じ。それを認める事が自分を愛するって言う事だ」
「でも、僕の気持ちを勝手に押しつける事にならないですか?」
「それの何処が悪い?」
「何処が悪いって・・・。梶さん・・・」正巳は呆れたような顔で私を見る。いや、私の中の春樹を見ているのだろう。春樹は、笑ってみせると立ち上がり、正巳の後ろに回る。そして、正巳を後ろから抱きしめる。
「自分が自分で居るのに、遠慮する事なんてないさ」春樹はそう耳元で囁いて、そのまま正巳の首筋に口づけをする。
「梶さん!止めて下さい。その身体はめぐみさんなんですから」正巳はきつく目を閉じて言った。
「俺じゃないか?」春樹が穏やかに言い、後ろから正巳のネクタイを解き、シャツのボタンをはずす。私はその展開がとても興味深くて、黙って春樹に身体を貸していた。
「梶さん!止めて下さいって!」正巳が春樹の腕を逃れようともがく。しかし不思議な事に、女の私の弱い力にも関わらず、正巳はそれを振り解く事が出来ない。
 春樹は、ボタンをはずし終わると、正巳の前に回り、かがみ込むようにして正巳の顔を見る。正巳は少し上気した顔で、しっかり目を閉じていた。
「目を開けて見ろ!」春樹が言った。正巳はそっと目を開ける。
「何が見える?」
 正巳は一度私に重なる春樹から目を逸らせてテーブルの上のグラスを取り、それを一気に飲み干して言った。
「女装した梶さんに見えます」
 私は堪えきれなくって笑い出す。「正巳!あなた凄いわ!」
 春樹も同じ様に笑っていた。「そうか、それは困った!」
「笑い事じゃないですよ。梶さん!からかわないで下さい」正巳は、そう言いながら春樹が開けたシャツをかきあわせる。
「せっかく抱いてやろうと思ったのに・・・」春樹がそんな正巳に言う。
「結構ですよ。そんな赤く染めた爪でボタンをはずされたら、おかまに犯されてるみたいです」
「それもそうだなぁ」春樹がそう言いながら私の手を見る。
「あのねぇ、私は女なの。だからマニキュアをしていても変じゃないでしょう?それなのにおかま扱い?」
「だって、めぐみさん。後は全部梶さんなんですよ。僕の聞いている声も、感じてるエネルギーも梶さんなんです。なのに、目を開けるとめぐみさんが見えるんだ」
「声も春樹に聞こえるの?」私は驚いて尋ねる。
「声って言ったら変ですね。ほとんど頭にダイレクトに入ってくるから音の振動で理解してる訳じゃなさそうです。だから、めぐみさんが喋ってる時にはめぐみさんの声として認識してるし、梶さんが喋っている時には梶さんの声として認識されてるんだと思います。めぐみさんの場合はどうなんですか?」
「んっ?私?私の場合、違うところで聞き分けてるって言う感じかな?それに、目を閉じていればあなたと春樹は全く違うものとして見えてるから・・・」
「大体そんな感じですよ。会話の時は、エネルギーで見分けてるんです。でも、さっきみたいに身体に触れられたりしたら、個体としてのエネルギーを強く感じるから・・・」
「それで女装した春樹か・・・」
「いえ、あれは冗談です。あのまま梶さんを受け入れたら、僕、自分をコントロール出来なくなってしまうから・・・」
「正直じゃない奴だ」春樹が言った。
「あなたみたいに正直に生きたら、身体が幾つ有っても足りないわよ。何人もの人を一度に愛したり、自分の欲望をそのまま相手にぶつけてたりしたら、周りが摩擦だらけよ」私が言う。
「そうですよね。普通は、その摩擦を避けるためにみんな我慢したりするんですよね」正巳が言った。
「それは認めるぜ。だけど、我慢して何か良い事があるか?問題が起こらないだけで、なにも変わらないじゃないか。俺はそんな退屈な人生を送るために生まれた訳じゃないのを知ってたからな。ところで五十嵐、さっきの話、判ったか?」
「なんでしたっけ。梶さんが変な事するから何も覚えてないですよ」
「恋の話だよ」
「僕の恋を手伝ってくれないって言う奴ですか?」
「そうだ」
「だったら何故僕にめぐみさんを紹介したりしたんですか?何故僕の身体を使ってめぐみさんを抱きしめたりするんですか?」
「そこが難しいところだな。要するに俺の問題とお前の問題は別だって言う事さ。俺は俺のしたい事しかしない。生きていた時も今もな」
「と言う事は、もしかして妬いてるんですか?」
「まぁな」春樹が答えた。
「じゃあ、梶さんは、今日僕はどうすれば良かったって言うんですか?」
「今日のやり方でOKだ。好きな女を追いかけて、捕まえる。それも自分の力でな。それだけの事だ。それに理由なんて何もいらない」
「あの古田さんからの連絡は、放って置いても良かったんですか?」
「違う。それが問題なんじゃなくって、お前が姉さんに会いたかったって言う気持ちを認めれば良いんだよ。本当に強情な奴だな」
「強情ですか?僕は用事も無いのにめぐみさんの仕事の邪魔をしたくないだけですよ。それの何処がいけないんですかねぇ」
 私が春樹に言う。「正巳は正巳なりに考える事があるのよ。それに、私なんかにかまけてる暇があったら、本当の恋人を見つけるべきだわ。だからそれで良いんじゃないの?」
「姉さんまで、そんな事を言う・・・」
「春樹、あなたみたいに純粋に人を求める事の出来る人なんてそんなに沢山居ないわ。私にはあなたが何を言おうとしているのか判るけど、だからと言って、あなたがしたように正巳に求められるなんて想像も出来ない」
「姉さんは迷惑なのか?」
「そうじゃないわよ。迷惑かそうでないかは、そう言う状態がやって来た時に考えれば良いわけだし・・・。そう言う先の事より、今そんな事が考えられないだけ」
「めぐみさんは、僕の事どう思ってるんですか?」正巳が尋ねる。
「可愛いって思ってるわよ。とってもハンサムだし、性格も悪くない。それに身体だって随分セクシーよ。だから、黙って春樹のしたいようにさせてたの。だって、私の身体なんですもの、嫌だったら何時でも止められるわ」
「酷い人だ。僕をおもちゃにして遊んでたんですね」
「まぁ、そう言わないで、もう少し飲めば?」私は笑いながらそう言って、ウイスキーの瓶を持って彼のグラスに注ぐ。
 正巳は、その瓶を持ったままの手を掴むと、乱暴に引き寄せた。
「落としちゃうでしょう!」
 正巳は、ニッと笑ってみせると、私の腕を掴んだままその瓶を取りあげてラッパ飲みをした。そして、それをドンッと音を立てて乱暴にテーブルに置くとそのまま両手で私を抱き寄せ、後ろから抱え込むようにして抱きしめた。
「めぐみさんが悪いんですよ」頭の上で彼がそう言った。
「鬼だった時のあなたみたいね」私は四国で見た彼の随分前の前世を思い出す。
「恐いですか?」抱いた腕をゆるめずに正巳が言った。
「いいえ、あなたは私を殺してくれないのを知って居るもの」
「そう言う意味じゃなく・・・」後ろから首筋にキスをしながら言う。    
「さっきの仕返しかしら?」私は彼の息づかいを感じながら言った。
 正巳は襟元から手を入れると、乳房を掴む。「今日は抵抗しないんですか?」
 私は振り向いて彼の唇を捕らえ、キスをする。「あなたの力が強いのは、良く知ってるわ。無駄な抵抗は止めたのよ」
 正巳はもう一度キスをすると、私をそのままソファーに押し倒し、身体を重ねた。
 正巳の重さが、肉体の実感として感じられた。私は腕を彼の背中に回し、彼の存在を感じてみる。両手に正巳の、しなやかな筋肉に覆われた骨格を感じる事が出来た。
「めぐみさん。僕は生きていますからね」正巳が低くそう言った。
 次ぎに私は、彼の頭を抱く。柔らかな栗色の髪を手のひらに感じた。
「子供の時の僕を思い出してるんでしょう?」正巳がそう言いながら私のセーターを脱がせようとしていた。
「あなた、こんな時に人の心を読むのは止めれば?」私は彼に抗わずに言う。
「めぐみさんこそもう少し集中して貰えませんか?」正巳がやっと私のセーターを脱がせて言った。
「だって、なんだか不思議な感覚なんですもの。初めてじゃないはずなのに、でも、やっぱり初めてで・・・」
「あの時僕は眠ってたんです。あれは梶さんだったんです。だから僕は今日が初めてですよ」正巳はそう言いながら、私の胸を掴む。
 私は痛さに顔をしかめて言う。「それがあなたのやり方なの?」
「鬼らしくって良いでしょう?」正巳が掴んだ手に力を入れて言った。そして、その乳房を口に含むと強く噛んだ。
「アッ」私は痛みに思わず声を上げながら、彼の頭を抱く。
 その時に正巳の思いが突然私の中に流れ込んで来た。それは寂しさと悲しみがない交ぜになった大きな辛さだった。
 そうだ、私は、いつかこの子を産んで一度も乳を与える事無く死んだ母親だったのだ。正巳は今それの仕返しをしようとしているのだろうか・・・。
 正巳は長い間私の乳房を噛み続け、私は彼の頭を掻き抱くようにしてその痛みに耐え続けた。
 正巳は顔を上げると言った。「もう許して上げますよ。母さん」
 私はそんな彼を抱きしめる。「あなた、思い出したのね」
 私の問いに答えずに正巳は優しい愛撫を始めた。私はそれを心地よく受け入れた。


「正巳、起きなさい!あなた明日出張でしょう」一人でシャワーを浴びた後、ソファーでうたた寝をする正巳を揺り起こす。
 横になったまま正巳はうっすらと目を開け、眩しそうな目で言う。「何時ですか?」
「一時よ」私が答える。
「だったらもう電車がない」正巳が眠そうな声で言った。
「あなた今日は車じゃなかったの?」
「ええ。この辺でタクシー捕まりますかねぇ」
「無理だと思うわ」住宅街なのでほとんど流しのタクシーは通らない。
「泊めて貰えます?朝一番で帰りますから」
「それはかまわないけど・・・」
「じゃあ、泊めて貰おう!」正巳が春樹と良く似た笑い顔で言った。
「あなた、もしかして計画犯罪?」私が言う。
「はい。梶さんに習ったんです。僕、めぐみさんの事、一晩中抱いていたいから」そう言ってかがみ込んでいる私を引き寄せるともう一度胸に抱きしめた。



 
 朝、正巳を送り出してから私はベッドに入り直す。
 そして春樹に話しかける。
「だんだんあなたに似てきたわよ」
「そうだろう?元々素質は有ったんだ。けれど、アイツは重い物を背負ってたからな。それを一つづつ降ろして、本来のあいつらしさが出て来たって言う事だ」
「勝手な事言って。まだ噛まれたところが痛いのよ」
「仕方ないさ。姉さんは死んじまってたから知らないだろうけど、生まれて生きていかなければならなかった奴にとっては、母親が無いって辛い事だったんだろう?その思いを解き放したんだから」
「彼、前世での事、思い出したのかしら?」
「ああ、姉さんが話した時の事は思い出してると思うぜ。元々知ってる事なんだから、きっかけさえ掴めれば誰にでも思い出せる」
「それで、私が母親だった時の事と、鬼と呼ばれてた時の事を思い出したのね」
「そう言う事だ。でも、許して貰えて良かったな」
「私には元々罪の意識なんて無かったけど、なんだか不思議なエネルギーの流れを感じたわ」
「五十嵐が自分自身を許したんだよ。ああ言う風に言う事で、自分を産んですぐに死んだ母親に対して持っていた、色んな思いを自分自身で許した。それで重い荷物を一つ降ろし、心の枷を外したんだ」
「そう。じゃあ良かったわ。他人は許せても、自分を許すのって難しいものね。それが前世での事だったら、もっと大変。私も少しは役に立ったのね。でもあなたも死んでまで息子のために働くって、良い父親ね」
「何馬鹿な事言ってるんだ。俺は妬いてたんだぞ」
「ホント?」
「ああ。あんな小僧に姉さんを取られるのは口惜しいからな」
「また、そんな事言って。あなたが正巳を抱こうとなんてしなかったら、正巳はただ話だけで帰ったはずよ」
「それが小僧だって言うんだよ。一人前の男になって貰わないと、俺が楽しめないからな」
「やっぱりあなたの楽しみの為なのね」
「まぁな。けど、姉さんも楽しめた。それで良いんじゃないか?」
「でも、何か変なのよねぇ。本当の息子って言う訳じゃないのに、あなたとの時みたいにそれに没頭出来ないの」
「それはそれで良いんじゃないか?それはアイツも判ってるさ。それでも、姉さんを求める気持ちに変わりは無い。取り敢えず昨夜はアイツの枷を外すためだったって思っていれば」
「そうね。そんなに一度に沢山求めても仕方ないわよね。でも、私欲求不満気味よ。あなた何とかしてくれない?」
「それは困った。アイツが戻るまで待ってろ。今度は俺が抱いてやるから」
「冗談よ」私はそう思って一人でくすっと笑って眠りに入った。

 携帯電話の音で目覚めた。
「もしもし」まだ半分夢の中のような感じで電話に出る。
「めぐみさん。寝てたんですね」正巳の声だった。
「ええ」
「昨夜は有り難う御座いました」
「どういたしまして」まだ眠気の残っている私は、つっけんどんに言ってしまった。
「怒ってるんですか?」正巳が少し心細そうな声で言う。
「ええ。今、ちょうど春樹に抱いて貰ってる夢をみてたの」
「だったら電話して良かった。梶さんに取られるところだったんですね」
「あなたねぇ・・・」
「駄目ですよ。僕が居ない間に浮気なんかしちゃあ」
「・・・」
「めぐみさん?聞いてます?」
「聞いてますよ」
「判ってますよね、浮気しちゃあ駄目ですよ!」
「そんな事を言うために電話してきたの?」
「冗談ですよ。そんなに怒らないで下さい。後でもう一度寝直したらちゃんと梶さんに抱いて貰えますから」
「あなたどこから電話してるの?誰も聞いてないでしょうね」
「会社からですよ。でも大丈夫です。まだ誰も来てないですから。それより、今着いたら古田さんからファイル付きのメールが届いてたんです。それを見て貰いたいんですけど」
「ファイル付きのメール?私コンピューターの事、全然判らないの」
「そうですか・・・。今度古田さんに教えて貰うと良いですね。彼、そっちのプロだから。で、今からそれをファックスで流しますから目を通して置いて下さい。僕、十五分ぐらい後にもう一度電話しますから」
「判った。見ておけばいいのね」
「はい。ちょっと面白いみたいですよ」
「それで、昨夜聞きそびれてたんだけど、あなた何処に出張なの?」
「札幌です。セミナーと、チャネル。その後帰りに東京でチャネルのマッチングがあります」
「そう、札幌か。篠田さんに会うの?」
「ええ、一日は篠田さんがやってくれます」
「きっと彼、あなたを見てびっくりするわよ」
「どう言う事ですか?」
「会えば判るわ。私が宜しく言ってたって伝えてね」
「判りました。じゃあファックス流しますから。それと、本当に浮気しないで下さいね」
「はいはい」私はそう言って電話を切り、ベッドから抜け出した。

 リビングの方で電話が鳴る。そして、自動受信でファックスが届いた。
 私はそれを確認してから顔を洗い、身繕いした後、そのファックスに目を通す。それは確かに興味深い物だった。
 一枚目にはその通信を受け取った経緯が記されていた。春日の山を撮った何枚かの画像に紛れ込んでいた物を、機械的に解析して取り出した物らしい。そして、二枚目がその取り出した画像と言う事のようだ。
 それを見た瞬間、私の全身から嫌な汗が噴き出した。
 私はそれを知っていた。多分、知っているはずだと言う確信があった。私には読めるはずなのだ。なのに、それが今は出来ない。
 もどかしかった。何度も何度もそれを見ながら読もうとする。しかし、今の私の知識に無い文字であり、記号であった。頭を掻きむしりながらもどかしさと戦う。そして、最後にはそれから逃れるためにバインダーに挟んで見えなくした。それでも、私はその文字から逃れる事が出来ないで居た。
 もう一度正巳から電話が入った。
「めぐみさん、見て貰えましたか?」
「ええ」私は何を言って良いのか判らない。
「大丈夫ですか?」正巳が私のエネルギーの変化を感じてそう言った。
「判らない」私には何も判らないのだ。
「めぐみさん!めぐみさん!しっかりして下さいよ!」
「・・・」私はとうとう言葉を失っていた。
「めぐみさん!聞こえてますよねぇ」
「・・・」
「梶さん!めぐみさんを助けて!」正巳がそう電話の向こうで叫んでいた。

 私はそのまま倒れ込む。赤と緑の斑模様が頭の中いっぱいに広がっていた。
 柔らかな草原に倒れていた。口から止めどなく血が吐き出され続けている。それが草の上に広がって、赤と緑の斑模様を作っているのだ。
 私の一部がまずいと思っていた。また、魂が離れかけている。心の何処かで戻らなければと思っているにも関わらず、それが思うようにならないのだ。
「呪い」それには大きな不安と悲しみ、恨みと恐怖が刷り込まれていた。
 私は「んぁ~っ」と声にならない叫びと共に気を失った。

 気づいた時私は、ベッドの上だった。そして、正巳が心配そうにのぞき込んでいる。
「あなた、どうして此処にいるの?」まだはっきりしない意識で私が尋ねる。
「仕事より、愛する者を取るのが男だって梶さんに教えられてたんですよ」正巳が静かな口調で答えた。
「馬鹿な事言ってないで、早く行きなさい。仕事でしょう?」
「ええ、行きますよ。でも、どうしたんですか?いったい何がどうなったんですか?」
「判らないわよ。ただ、あなたの流してきたファックスを見ていたらこうなっちゃったのよ。多分あれは・・・呪いの文字・・・」
「呪いですか?」正巳は驚いて聞き返す。
「多分。まだ良くは判らないけど。初めは、どうしても思い出せなかったのよ。私、知ってるはずなのに、あれが何なのかどうしても判らなかった・・・。でも、気を失う寸前に思い出したの」
「すみません。僕が迂闊でした。めぐみさんにそれが影響するなんて思いもしなかったから」本当にすまなそうな顔で正巳が言った。
「あなたのせいじゃないわ。それよりまたあなたに迷惑をかけたわね。御霊繋ぎ大変だったんじゃない?それに昼間忍び込むのも・・・」
 正巳は悪戯っ子のように笑いながら顔の前で鍵を振る。
「合い鍵作っちゃいました。貴重品はちゃんと隠しといた方が良いですよ」
「あなたねぇ・・・」後の言葉が続かない。
「恋人の部屋の合い鍵持ってても別に良いでしょう?此処六階だし、前回の時夜忍び込むのが結構大変だったから、こっそり作って置いたんですよ」
「あなたそれって、ストーカーよ」私は呆れながらも抗議する。
「どうせ、どっちにしても犯罪行為だから。忍び込むのも、合い鍵を作るのも」すました顔で彼が言った。
 何度も助けて貰った事もあり、私もそれ以上の事は言えない。「判ったわ。でも、私が恋人と会ってる時に踏み込むようなまねはしないでね」
「そんなに無粋な事はしませんよ。でも、そう言う事をしたい時は、出来るだけ僕が出張の時の方が安心ですよ」正巳が少しふくれっ面で言う。そして、その後真顔になって続けた。「でも、戻ってくれて良かった。僕はまた愛する人を失うのかと思って・・・」そう言って目を潤ませる。
「あなた、柔らかくなってきたわね。とっても心地良い波だわ。私はもう大丈夫。だから仕事に行きなさい。出来れば、そのバインダーに挟んであるファックスを処分して置いてくれると有り難いけど」私はそう言ってバインダーのある場所を指し示す。
「判りました。でも、もう一晩僕を此処に泊めて下さい。明日一番の飛行機で飛ぶように変更しましたから」そう言いながらそのバインダーからファックスを取り出すと、細長く丸め、灰皿の上で火をつけた。炎が揺らめきながらその紙を舐めた。
 正巳が燃えて小さくなった紙を灰皿の上に放すと、私の方を向いて笑顔を見せた。
「火で清めるのが一番です」
 私もそっと起き上がって肯いて見せる。
 正巳は肩を抱く腕に力を込めると私をのぞき込むようにして言う。「愛してます。もう僕一人を置いて行ったりしないで下さいね」
 私も彼の肩に頭を乗せて言う。「せっかく許して貰ったんですものね」
「今度はもう、許しませんよ」正巳はそう言って強く抱きしめた。

 正巳が駆けつけてくれたのが早かったので、その後何度か胃の中の物を戻しただけで、大事には至らなかったようだ。しばらく正巳に言われて横になっていたが、夕方には吐き気も収まり空腹感を感じるようになったので、食事の為に出かける事にした。そして、どうしても彼の仕事が心配なので、私の体を心配する正巳を説得し、空港まで見送って最終の飛行機で札幌に飛ばせた。
 新社長として半年、やっと軌道に乗ったとは言え、まだまだ気を抜くわけには行かない立場だ。それに、余り急に男と女の関係を深めるのには不安もあった。
 あくまでも、平常心を保った関係で居る事が私にとっては楽なのだ。

 空港で正巳の乗った飛行機を見送った後、夜空を見上げながら春樹に話しかける。
「これで良かったのかしら?」
「すまないな」春樹の意志を感じた。
「本当に。あなたが生きてさえ居てくれれば、こんな事にならなくて良かったのに」
「心細くないか?」
「ちょっとね。でも、あなたが居てくれるし、多分もう大丈夫よ」
「それにしても、思ったより姉さんの力が目覚めてるんだな」
「あなたねぇ、あなたが私に置いて行ったんでしょう?」
「いや、俺にはそんな力無かったぜ」
「もう!じゃあ何故私が古代の呪いに影響を受けたりするのよ!」
「前の時に記憶を探って翻訳したじゃないか。多分その中におまけで付いてたんじゃないか?」
「もぉ~、だったらやっぱりあなたのせいじゃないの!」
「だから、すまないって謝ってるんじゃないか」
「本当に、あなた、体が無くって良かったわね。もし、目の前にいたら殴りつけてるわよ」
「死んでて良かった。それにしても、姉さんだけじゃなく五十嵐も随分変わってきたな」
「本当ね。でも、私少し恐い・・・」
「まだ何を怖がってるんだ?怖がる必要なんて無いってちゃんと知ってるじゃないか」
「でも、彼のストレートな思いって、やっぱり重いのよ。四十過ぎのおばさんですからね。それに、彼の母親だった事さえ有るのよ。あんなにストレートに求められれば困るに決まってるじゃないの」
「まぁ、それも時が解決してくれるさ。それよりせっかく欲求不満を解消してやろうと思ったのに、これで良かったのか?」
「あなたねぇ、私また死にかけてたのよ。それもあなたのせいで。それどころじゃないに決まってるでしょう?」
「そう、怒るな。やっぱりその欲求不満を解消するべきだな」
「そうか、そうよねぇ。ごめんなさい。確かに怒ってばかり居るわね。気をつけるわ」
「まぁ、良いさ。それも姉さんらしくってな」
 私は一人でくすっと笑い、空港を出て、タクシーに乗った。 
 春樹は決して私を否定しようとはしない。意地悪な言い方をするが、それは彼のキャラクターであって、いつも溢れるような愛で包んでいてくれる。
 しかし、彼はもう居ない。殴りつけるべき身体さえ持っていないのだ。なのに私はこのやっかいな肉体を持ったまま、一人で生きて行かなくてはならないのだ。正巳に言ったようにもっと精神と体を鍛える必要があるのだろう。こんなに度々魂が離れるような状態は、どう考えても良い事では無い。それに、私のせいで正巳の仕事に支障をきたしてしまった。『山にでも籠もろうか?』私はタクシーの窓の外を流れ去る夾竹桃を見ながらそう思った。

 正巳の居ない間、私は自分の仕事をしていた。正巳は春日で殺されかけた後のように、日に何度も電話を掛けてくる。そして、私のエネルギーの質を確認するとすぐに電話を切った。多分、忙しい合間を縫って掛けているのだろう。どっちが保護者なのか判らない。
 正巳を見送って三日後、仕事先の都合で、突然丸一日が空いた。
 私は、空港帰りに思ったように山へ行ってみたくなった。もちろん修行する気など無い。ただ、久しぶりに自然の中に身を置く事も良いように思ったのだ。

 朝一番に正巳から入った電話で彼に尋ねる。
「ねぇ、今日一日暇になったから、何処か山へ行きたいって思うの。何処が良いと思う?」
「一人で行くんですか?」正巳が尋ねる。
「ええ、だから電車で行ける所が良いって思うんだけど・・・」
「そうですね」正巳はそう言ってじっと黙る。多分、私のエネルギーの質を読みとっているのだ。
「出来れば僕が帰るまで動いて欲しくないんですけど・・・。でも、そんな事を言っても聞いて貰えないだろうし・・・。出来るだけ穏やかな所が良いですねぇ」
「穏やかか・・・。だったら比叡山へでも登って来ようかしら?」
「そうですね。あそこなら結界がしっかりしてるし、今はもう呪術をやったりしないから影響を受ける事も無いでしょう」
「そうか、山って歴史的にはある程度そう言う役割を持ってるのよねぇ」
「そうですよ。でも、比叡山ならもう随分昔の事ですから大丈夫でしょう」
「じゃあ、比叡山へ行って来るわ。私の祖父があそこで修行した事もあるし、何となく親しみもあるから」
「そうだったんですか。めぐみさんにもそう言う血が流れてるんですね」
「さぁ?私が生まれる前に死んじゃって、会った事の無いおじいちゃんだから判らないけど・・・。とにかく有り難う。山だからもしかしたら携帯が通じないかも知れないけど心配しないでね。夜には帰ってるから」
「判りましたよ。だったら帰ったらめぐみさんから電話して下さい。でないと、僕、仕事をほっぽり出して大阪に帰りますよ」
「判ったわ。だから、ちゃんとお仕事して下さい」
「はい。あっ、それで篠田さんに昨夜会ったんですけど、めぐみさんが言ってたように驚かれてしまいましたよ」
「やっぱり。彼、なんて言ってた?」
「梶さんそっくりになって来たって・・・」
「でしょう?そう言うって思ってたのよ。篠田さんもちゃんと見える人だから」
「なんだか複雑な気分ですよ。梶さんに似てるって・・・」
「どうして?彼に憧れてたんでしょう?」
「はい。でも、それだとめぐみさんが僕じゃなしに梶さんを見てる事になるから」
「そんなはず無いじゃないの。似てるのは認めるけど、あなたはあなたよ。春樹じゃないわ」
「やっぱり複雑ですよ。それって・・・」
「深く考えない事ね。とにかく行って来るから」
「気をつけて下さいね。それと、ちゃんと携帯は持って出て下さいよ」
「ハイハイ、判りました。じゃあね」私はそう言って電話を切った。
 いつまで経っても、心配性なところは変わらない。あの調子だと、なかなか春樹の域までは遠そうだ。いい加減さをもう少し身につけると、かなり近付くのだろうけど。でも、それだと女好きの部分も引き寄せるのだろうなと思って、一人で笑った。
「悪かったな!」春樹の意志が私の頭の中に響いて、一人でもう一度笑った。

 私は一人で、電車を乗り継ぎ、滋賀県の坂本へ向かう事にした。
 駅迄の道の端に沢山の赤と白の夾竹桃が交互に咲いている。きっとストレスに強い花なのだろう。それで街の道路脇などに沢山植えられているのだ。一夏ずっと咲き続けるのだから、きっと生命力も強いに違いない。もしかしたら本当に毒ぐらい持っているかも知れない。そう思ってそっと目を閉じた。そして、今度は何かの拍子にでも花の汁が目に入ったりしないように、少し俯き加減に歩いた。今、視力を失ったら大変なことになる。見たくないモノばかりの中で生活しなければならないと言うことなのだから。

 坂本に着いて、比叡の麓からケーブルカーに乗って延暦寺まで登る。街では、ノースリーブで平気なぐらい暑くなっているにも関わらず、ケーブルカーを降りると、そこはひんやりとした空気に満たされていた。私は持っていたカーディガンを羽織り、チケットを買って延暦寺に入る。

 大きな坂道を降り、根本中堂へ向かう。入り口でサンダルを脱いで、素足で廊下に上がる。足の裏に板のひんやりとした感触を感じながら回廊を歩き、高い敷居をまたいでお堂に入る。其処に流れる空気は、長い年月を掛けて磨き上げられた上質のものだ。
 私は中央の賽銭箱の前に座って、焼香をし、静かに手を合わせた。
 その後、段を上って本尊に近づき、正座をして中を覗き込む。本尊の位置はちょうど目線と同じ高さにしつらえてあるが、その前に深い溝のような修行場がある。のぞき込むと黒光りする石畳が見える。それは長い年月を掛け何千人もの修行僧が磨き上げたものなのだろう。
 本尊が、修行僧にとっては高い位置にあり、一般人には同じ高さに見えるというのが何とも奇妙な感じがする。しかし、今は一般人もそこに入れるが、出来た当初は位の高いものしかその本尊を拝むことなど出来なかったはずだ。やはり権力というのは絶大なる力だったのだろう。それでも今の在りようもまた理にかなっている。神も仏も我が内にあるのなら同じ高さで良いのだ。それに、修行僧にとっては、高い位置にある方が励みになったりもするのだろう。
 私は静かに目を閉じ、般若心経を上げ、本尊薬師如来の真言を唱えた。「オンコロコロセンダリマトウギソワカ オンコロコロセンダリマトウギソワカ オンコロコロ・・・」
 全てが無と空であると言う般若心経と、薬師如来に帰依しますと言う真言の後、私は自分の望や誓いをその本尊に祈ろうとした。しかし、私には祈る事柄が見付からない。私は何を欲しているのだろうか?私はこの仏に何を祈れば良いのだろうか?これから先、私は何を目標に生きていけば良いのだろうか?私は、人としてどうありたいと思っているのだろう?
 また、判らない事ばかりが増えてしまっていた。
 ただ、生きれば良いだけなのに、何かの拍子に目的が必要だと思ってしまうのだ。
 私はもう一度般若心経を唱えながら、「そのままで良いんだ。このままで良いんだ」と自分に言い聞かせた。
 正座をしていた足が痛くなったので、私はそっと立ち上がる。そして、もう一度本尊に向かって静かに礼をして、また回廊を歩いて外に出た。

 初めに下りた坂を上って、会館の地下でお蕎麦を食べ、その後、シャトルバスに乗って横川に向かう。
『そう、龍の物語でも此処へ来てるのよね』窓の外遠くに琵琶湖を見ながらそう思った。
 ふっと目を動かすと、黒谷青龍寺と言う立て札が目に入った。『龍』の字に反応して、急いで峰道でバスを降りた。そして、その看板に近付く。振り向くとバスはすでに発車してしまっていたので、その札の矢印に沿って歩く事にした。
 比叡山スカイラインを逸れて、急な山道に入る。ミュールではなくしっかり足を包むサンダルを履いていて良かったと思いながら、車の轍の着いた砂利道をどんどん下りる。
 周りの木々は青々とした葉を茂らせ、あちこちで蝉が鳴いている。幾ら山の上とは言え、歩き始めるとすぐに汗だくになった。それでも、街の粘り着くような暑さとは違い、一陣の風が通るたびに木の香りと涼しさを感じられる。二十分程坂を下り、膝ががくがくと震えだした頃、右手前方にお墓が並んでいるのが見えた。私はホッとして、立ち止まり、汗を拭く。
 その後、長い石段を下り、やっと山門に着いた。
 山門横にある由緒書きには、浄土宗の開祖法然上人修行の地と有った。
 私はもう一度汗を拭き、中に入る。
 静かだった。蝉達も昼寝を楽しんでいるのか、何一つ音のない世界だった。
 こぢんまりとした簡素な本堂が正面にある。左手には修行中の法然を写した像が建っている。

「こんにちわ」私は声をかけて中に入る。
「御集印ですか?」と女性の声がした。
「いえ・・・」私はそう言って声のした方を見る。そこには元気の良さそうな尼さんが笑っていた。
「お参りですか」彼女がそう言ったので、「はい」と答えて笑って見せた。
「遠いところをご苦労さまでした。ゆっくりお参り下さい」と彼女は言って、灯りをつけてくれた。
「有り難う御座います」と礼を言ってから本尊の前に正座した。
 綺麗な阿弥陀如来だった。とても優しげな微笑みを浮かべ、静かに立っている。
 私は静かに瞑目し、その阿弥陀如来に心を沿わせた。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・」そう口の中で唱えながら、此処で修行したという法然上人は、この言葉を唱える事で浄土へ行けると説いたのだなと思った。
 浄土。それは何処にあるのだろうか?春樹は浄土へ行けないのだろうか?この現世に留まり続ける春樹の魂はいったい何を目的としているのだろうか?
 此処にもまた疑問ばかりが存在していた。
 判っているのだ。浄土もまた人が作り出した幻でしかない事も、春樹が現世に留まっている訳ではない事も。理解しているからこそ、説明の必要を感じるのだ。今の私には、この、現実と呼ばれている普通の世界で生きている自分自身を、納得させる言葉が要る。
 いつか龍が言った、「魂の世界を説明する言葉と、肉体を持っている世界を説明する言葉は、家を修理する道具と、時計を修理する道具程違う」と言う意味が、大きく私にのし掛かっていた。
 説明する必要など無いのだ。ただ、思いのままに生きれば、間違えることなど無いのだから。
 多分、尋ねれば龍はそう答えてくれる。春樹もそう教えてくれるだろう。しかし、今の私はそれを私自身の力で見つけ出さなければならないのだ。私の言葉でそれを説明し、自分自身を納得させなければならない。もし、それが出来たとしてその後私はどうしたいのだろう?春樹の居る世界と、私や正巳の居る世界を繋ぐのが私の仕事・・・。私は魂が知っている事を、この伊藤めぐみと言う名前を持った人間に説明したい。自分を自分の言葉で丸め込んで、その後私は何をするべきなのだろうか・・・。
 多分、すべき事など存在しない。それも私は知っている。ならば、私は本当は何をしたいのだ?何がしたくて今の力を春樹から譲り受けたのだ?ただ、春樹が勝手に置いて行った力だとは言え、私がそれを持ってしまったと言うことは、私の魂がそれを承諾したと言うことに他ならないではないか。
 いったい私は何がしたいのだ?
 春樹はそれを知っていた。だから私もそれを知ることは出来るはずだ。しかし、私はそれが知りたいにも関わらず、教えられることを拒否している。私は自分自身の神の言葉を、自分自身に伝える必要があるのだ。それが私の仕事・・・。それが私の生の意味・・・。
『それは、さにわの仕事だよ』春樹の意志がそう伝えてきた。
 神の言葉を「人」の為に翻訳する「さにわ」。
 私の場合その「人」が他人ではなく自分自身なのだ。そして、「神」すらも自分自身でしかない。何を手がかり足がかりにすれば良いのだ。ますます私の頭は混乱した。私の中には、いったい何人の人格が宿っているのだろう?それもとびっきりやっかいな奴ばかりだ。
『俺は姉さん程やっかいじゃないぜ』春樹がそう言ってよこした。
 私は『判ってるわよ』と心の中で言い返す。確かに自分を騙すことは、誰を騙すより難しい。しかし、それをしてしまわなければ、今の私は自分であり続ける事すら出来ない。
『騙す訳じゃないだろう』春樹が言った。
 確かにそうだ。しかし、この非現実的な自分の状態を肯定してしまうには、今まで教えられた事柄をすべて覆さなければならない。その上、知ってしまった大切な真理も、今のままでは絵空事でしかないではないか。何の役にも立ちはしない。私は腹が立ってきた。
『五十嵐はどうしてる?』春樹が考えるための道標をくれた。
 正巳は、自分の身体でそれを知っている。だから、私のように理屈をこねくり回して納得する必要など無いのだ。彼は怪我をすれば痛いのと同じぐらい当たり前の事として、春樹の存在を捕らえている。しかし、私は春樹も、春樹が置いて行った力も、受け入れてはいるものの、通常の時は自己防衛的に現実とは完全に区別している。春樹が生前自分の力を誰にも語らなかったのと同じだ。
 自己防衛?私はいったい何から自分を守ろうとしているのだろう?春樹は、世間から自分を守るために自分の力を隠していたのだろうか?
『俺は、俺の力を最大限に使うためにそれを隠したんだよ。そうする事が一番良い方法だったんだ』
『一番良い方法?』
『そうさ。その力は医者や薬と一緒だよ。一応症状を軽くしてはくれるが、本当に治すのは自分自身の力だって事。俺は、人との出会いでその力を利用した。確かに、効果はあったぜ。だけど、結局そのつき合いを維持したり、今のその人間に助けて貰おうと思ったら、生きてる人間同士としての交流が必要なんだ。その時点での繋がりは、その時点での関わり合い方であって、前世の問題なんかじゃない。だから、前世で裏切った奴に、助けて貰ったことも在る』
『どんな力を使っても、自分の力で生きて行く事には変わりないのね』
『そう言うことだな。生きている限り、何かが起こり、それに対処するしかないからな。そこで、どんな力を使おうと、結局同じなんだ』
『でも、あなたの不思議な力が無ければ、こうなりたいとも思わなかったんじゃないの?』
『俺は、何度も生まれ変わりながらその力無しでやって来た。それで、今回は、その力を持っていたらどうなるのかって言う実験だった。それで、その実験は成功したって言う事さ』
『やっぱりどんな力も道具でしかないって言う事なのね』
『ああ。そうだよ。ただの道具だ。家を建てない奴に家を建てる道具は必要ない。そりゃあ、ちょっとは役に立つこともあるかも知れないが、用が済んだら邪魔になるだけだ。だから、姉さんだって必要ないと思えば捨ててしまうことだって出来るさ。俺は、いつか使えるって思ったからずっと持ち続けてただけだ。それで役に立った』
『だったら正巳は?』
『その力を必要とする人生を選んで生まれたって言う事だろう。アイツの人生に必要な力だから、それを身につけられる環境を選んで生まれてきた。「そんな力を持ってきてしまったから、こんな生き方しか出来ない」って事じゃないんだよ。だから五十嵐も五十嵐の魂にとって完璧な環境で生まれ、完璧な形で育ってる。そして、誰もがそうだけど、沢山の感情を味わって、完璧な形で死を迎えるんだ。それが俺みたいに事故死であっても、自然死であっても、自殺であってもな。他人はそれを批判しながら何かを学ぶことは出来ても、それに本当の意味で関わることは出来ない』
『他人の人生に自分の価値観を押しつけて非難したりすることは出来ても、関与する、つまりその自分の価値観に沿った生き方をさせる事は出来ないって事なのね』
『そう、相手が自ら変わろうとしない限りそんなことは出来ない。相手が変わろうと思って変わるのなら、それは誰かに変えられたわけではなくその人の望むように成っただけの事。確かに、人はお互いに関わり合いながら生きてる。だから、俺は誰にも語らなかった力を姉さんには告げたし、それを預けたりもした。でもそれは、それが俺のしたいことだっただけのことさ』
『それのせいで私はこんなに悩んでるの?』
『そうなるな』
『あなたって言う人は・・・』
 いつものように文句を言ってはみたが、それがお門違いなのは自分自身良く知っていた。しかし、今の私は私の思っている普通の人間として生きようと足掻き続けているのだ。普通の人間は、そう言う時に文句を言うべきだと思うから。そして、また一つ疑問が湧いた。
『私の思っている普通ってどんなだろう』
『一番難しい質問だな。それは姉さんがそうありたいと思っている状況の事じゃないのか?』春樹が答えた。
『だったら、私はあなたの存在を否定したいって思ってるのかしら』
『多分な』春樹が答えた。
『でも、私、あなたを愛してるわ』
『それとこれは姉さんの中で別なんだろう?』
『そうね。確かにそうだわ。私の中に二つの現実が同居し始めているのよ。それのせいでこんなに不安なのかも知れないわね。正巳みたいに修行して、身体で理解するとその二つが上手く混ざり合うのかしら?』
『やってみるか?』春樹が言った。
『嫌よ。辛いのは大嫌い』私はそう思い、立ち上がって阿弥陀如来の前から離れた。

「有り難う御座いました」私は、尼僧にそう声をかけて外に出る。
 蝉が一斉に鳴き始めた。
 道案内に寄るとこのまま下り続ければ、大原に出られるらしい。登りは辛いので、来た道を戻らずに、また山道を下った。
 三十分程下った所にバス停があった。そこで私は十分程バスを待ってそれに乗って帰った。



 正巳が戻るまでの三日間、しっかり缶詰状態で仕事をした。呪いの文字など思い出す暇もなかった。先方の都合で、入るのが一日遅れ、比叡山に行けたのだ。しかし、納期はそのままなので四日分の仕事を三日でこなした事になる。それも、二日目は予想通り筋肉痛を抱えてだった。


 正巳から大阪に戻ったと言う電話があった。私は食事の用意が面倒なので、納品の後、外で彼と待ち合わせる。

 スーツ姿のまま正巳が店にやってきた。
「めぐみさん。会いたかったですよ」第一声正巳がそう言った。
「修行を積んだの?」私が尋ねる。
「どうしてですか?」正巳は意味を掴みかねて立ったままそう尋ねた。
「普通の男はそんな風に言わないわよ。そうやってストレートに言ったのは、春樹ぐらいのものよ。それも、随分修行を積んだ後でね」
「そうですか?でも、めぐみさんに嘘をついても、見栄を張っても仕方ないですから。正直が一番でしょう?」そう言って席に座る。
「私にはあなたみたいに相手の心の中なんか判らないわよ」
「でも、梶さんには判ります。僕が何を考えてるのかなんて梶さんにはお見通しですよ」
「そうか・・・。あなたは私の中に春樹を見てるんだ・・・」正巳の愛する対象はやはり春樹なのだ。春樹の代わりとして私を見ている。
「違いますって、僕はめぐみさんを愛してるんですって」正巳は私の心を読んでそう言った。
「やっぱりあなたには私の心の中が見えるのねぇ」
「すみません」正巳はうつむいて謝った。
「謝る事じゃないでしょう?確かに正直って良い事よ。ただ、それが過ぎると、相手を深く傷つけるけど。あなた、それの経験ならあるでしょう?」
「はい。それなら幾度と無く・・・」
「それで女性恐怖症だったのよね。でも、最近は大丈夫そうね」
「ええ」正巳はそう言ってにっこり笑って見せた。
「あなた、私に浮気するなって言うくせに、自分はちゃっかり遊んできたんじゃない」その笑顔を見て私が言う。
「めぐみさん。やっぱり判るんですね・・・」
「バーカ!そんなのに引っかかるんじゃないの」
 正巳が耳まで真っ赤になって俯く。
「こう言うのは経験なのよ。四十数年も生きてたら、あなた達みたいな力が無くっても判るものなの。それで良いのよ。あなたも一人前に成ってきたって言う事なんだから」
「すみません」正巳は小さな声で謝った。
「五十嵐、姉さんはそんな事気にしたりするもんか。それに、そんな事ぐらいで狼狽えてたら、この先いつまで経っても姉さんに子供扱いされちまうぞ」春樹が周囲に聞こえないように声を抑えて正巳にそう言った。
「梶さん」正巳がそう言って私に重なった春樹を見る。
 私はそんな正巳にウインクして見せた。
「で、何処で引っかけたの?」私が笑いながら尋ねる。
「めぐみさん、勘弁して下さいよ」情け無さそうな目でそう言った。
「良いじゃないの。沢山経験を積んで、一番良い人と結婚しなさい。春樹だって良いお嫁さんを持ってたわけだから」
「でも、梶さんは、めぐみさんも持ってた・・・」
「あなたまでそう言う言い方する?私は誰の持ち物でもないって言ってるでしょう。でも、お嫁さんじゃなくって愛人だったらなってあげても良いわよ」
「本当ですか?」
「冗談に決まってるでしょう!馬鹿なこと言ってないで、これからの事教えて」
「はい、すみません。僕、時間がなかったから社の方に戻ってないんですよ。東京から戻って一度出社してから、またすぐに出ちゃったから、お土産も会社に置いたままなんです。それと例の呪文も。だから、食事したら一度会社まで付き合って貰えませんか?」
「良いわよ。遠いの?」
「車だから、此処からだとすぐですけど。めぐみさん、会社は知らないんですか?」
「ええ。春樹と再会してから二ヶ月ぐらいしか時間が無かったのよ」
「そうですか・・・。だったらちょっとびっくりするかも知れない・・・」
「どう言う風に?」
「行ってみれば判りますよ」そう言って意味ありげに笑って見せた。

 その店で簡単に食事を済ませ、正巳の車で会社まで行った。
 大きなビルに埋れるように建つ、朽ちかけたレトロな建物だった。

「うわーっ。本当に此処なの?」それが車を降りた私の第一声だった。
「びっくりしたでしょう?」正巳が笑いながら言う。
「でも、あなた、これは何よ!」私が回りに集まっている沢山の霊達を指さして言う。
「この辺にいる地縛霊ですよ」正巳が事も無げに答えた。
 私はそれに声を失う。目を開けていたら寒気がするだけで見えはしない。しかし、瞬きの度に沢山の霊の姿が見えてしまうのだ。
「別に悪さする訳じゃないから。ほら、中に入りましょう」正巳がそう言って私の背中を押す。
「春樹はいったい何を考えてこんな所にオフィスを構えたのかしら・・・」私は独り言のように呟く。
「すぐに判りますよ」正巳は笑いながら私の肩に腕を回して誘った。
 メモリーのオフィスは其処の三階にあった。体中が泡立つような霊の気配を全身に感じながら暗い階段を登る。正巳が真鍮で出来たアンティックな鍵で扉を開け、明かりを点けた。
 其処は完璧に清められていた。その上部屋の真ん中からエネルギーの柱が立っている。
 私は中に入って振り向きながら言う。「この扉が結界なの?」
「ええ。梶さんと僕とでやったんです。本当は、建物全体をやれば良かったんですけど、梶さんがこの方が面白いからって言って、この部屋と、隣の社長室と応接室、要するに借りてる分だけ清めたんですよ。そのせいで、外の密度が高く成っちゃったんです」
「本当に春樹って、何考えてるんだか・・・」
「昼間はたいしたこと無いんですよ。ただ、みんな残業するのを嫌がるんです。帰る時が気持ち悪いって。お陰で、仕事が捗ります。時間内にやってしまおうって頑張ってくれますからね」
「社長としては、良い考えね。残業費を出さなくて良いし、仕事は早く片付くんですものね。でも、力を持った人達とも此処で会ったりするわけでしょう?此処に来るの嫌がらないの?」
「もちろん嫌がりますよ。だから、なるべくホテルを使うんです。イメージ付けって言う意味もありますけど」
「経費の関係でこんな所にしたのかしら?」
「違いますよ。此処は、特殊な場所なんです。良い物も悪い物もすべて集まる。だから、ちゃんと選り分けさえすれば、最高の場所ですから。それより、隣に行きましょう。今は僕の部屋になってますけど、梶さんが念入りに清めた部屋です。そっちのパソコンに例のが入ってます」正巳はそう言って中から繋がる扉を開けた。
 私も彼に続いてその部屋に入る。入ってすぐに座り心地の良さそうなソファーが置いてあった。そして、その奥にもう一つ扉があって社長室のプレートがかかっていた。

 正巳は私に背を向けたまま、その部屋の扉を大きく開ける。
 目の前に大きなデスクがあった。そして・・・、そして、春樹が生きていた時と同じ笑顔で其処に座っていた。

 私は呆然と立ちすくむ。頭の中が一瞬で真っ白になった。嬉しかった。愛する者がそこに座っていることがただ単純に嬉しかった。しかし、すぐに私は春樹が死んだことを思い出す。そして、それが歴然とした事実であることも哀しいことに知っているのだ。なのにも関わらず春樹がそこで笑っている。それはあまりにも残酷な事実だ。
「あぁ~ぁ」私はその場に胸を掻きむしるようにして座り込む。そして、そのまま止めどなく涙を流す。判っているのだ、それが残像でしかないのは・・・。それでも私は涙を流し続けた。
「めぐみさん。泣かないで」正巳がかがみ込んで抱きしめる。
「でも、目を開けているのに見えるのよ。霊じゃない・・・春樹が其処に座ってる・・・」私はやっと声に出してそう言う。
「梶さんが仕掛けて行ったんですよ。いつか此処にめぐみさんを連れて来るようにとも言われてたんです。僕は、本当は嫌だった。だから、今まで招待しなかったんだ。でも、梶さんが実力行使に出たんでしょうね。今日は本当に約束の時間まで振り回されてしまった」
『姉さん、俺のプレゼント気に入らないか?』机の前に座った春樹が、どちらもの声を使わずにそう言った。音の振動としてではなく思考がダイレクトに伝わるのだ。
「あなたは、本当に役に立たないものをくれるのね。あのピアスもまだ置いたままよ」私は気を取り直して、声を絞り出すようにしてその幻の春樹に言う。
『冗談が過ぎたかな?』春樹が言う。
「ええ・・・。あまりにも残酷なプレゼントだわ。私に何か恨みでもあったの?」
『いや、そんなものとっくに無くなってたよ。ただ愛していただけさ。だからもう泣くな。この仕掛けもそんなに長くは続かない。五十嵐、姉さんにあれを渡してくれ』
 正巳は私を抱いていた手を離し、自分の小指に着けていた指輪を外す。そして私の手を取って右の薬指に刺した。
「何?これ?」それは見た目よりも重みのある少し赤みを帯びた金属で、内側が細く外側が少し太くなったものだ。良く見ると、細かい装飾が彫り込まれている。
 正巳は春樹の方を向いて肯いた。
『それは、俺が五十嵐の式を封じる時に使った指輪だ。五十嵐にはもう必要ない。大昔から伝わる不思議な金属で出来ているんだ。その金属自体も力を持っているし、五十嵐が新しい目的をチャージしてくれている』
「ええ、一週間毎日祈祷をしてあります。でも、めぐみさんが望んで抜け出す時には機能しませんから注意して下さいね。でも、この前の時みたいに突然何かに影響を受けて抜けてしまうことは押さえられますから」
「正巳は本当にもう必要ないの?」
「はい」正巳は微笑んで頷く。
「でも、春樹の形見でしょう?それを手放してしまうのよ」
「その指輪ごとめぐみさんを譲り受けましたから」そう言ってまた私の頭を掴む。
「春樹!私いつからあなたのものだったの?」私は頭を振ってその手から逃れ、春樹に文句を言う。
『姉さんはずっと俺のものだ。だから、五十嵐にやった訳じゃないぜ』
「いいえ、僕は頂きますよ。会社の後始末をしているんですから当然の報酬です」
『お前、それはちょっと取りすぎだぞ。そんなに欲張ったら罰が当たる!』春樹が笑いながら言った。
「どんな罰か、当たってみたいものです」正巳がすました顔で言った。
「あなた達の間で私の所有権を論じるって、なんか変だって思わないの?」私は二人に向かって言う。
「いいえ」正巳が言った。
『俺も別に変だとは思わないが』春樹も言った。
 私は頭を抱えて目を閉じる。そして心の中で『馬鹿ヤロー!』と叫んだ。
 正巳が笑って言う。「はしたないですよ」
『姉さんらしいじゃないか。昔は俺と一緒で結構不良だったんだ』春樹が笑った。
 私は首を振って見せてから言う。
「で、どういう仕掛けなの?」
『いつか姉さんを驚かせようと思って、入れ物だけ作って置いたんだよ。この結界の中だったら、俺が死んだ後も固定されたエネルギーの波動程度なら暫く持つと思ってな。だからこうして喋ったり、動いて見せたりするためのエネルギーは、いつものように姉さんのものを使ってる』そう言って私の方に手を差し伸べてみせる。私はそれを見て思わず近付こうとしてしまった。それを押しとどめるように手を動かすと春樹は続けた。
『五十嵐、お前ちょっとこの形のまま物質化してくれないか。俺がそっちに行くから』
 正巳は少し考えるように間をおいてから、静かに肯いた。そして、素早く指を動かし、呪文を唱えた。

「サンキュー」春樹の声を音の振動として耳で聞いた。
 その声に振り向くと、春樹が静かに立ち上がっていた。そして、一瞬顔をしかめて見せた後、大きく伸びをする。確かに、春樹が其処に存在していた。声を発することの出来る肉体を持ち、確かな質感を持って。
 春樹は、呆然と見ている私に向かって、静かに歩いて来た。少しぎこちなくはあったが、キシキシと絨毯を踏みしめる音まで聞こえた。
 そして、私の後ろに回ると生きていた時と同じように強く抱きしめる。
 耳元に彼の息づかいも感じた。その上、その身体は暖かくもあった。
「姉さん。俺の身体で抱けるのはこれが最後だ。良く覚えて置いてくれよ。すぐにまた姉さんの中に戻ることになるから」耳元でそう呟いた。
 彼の身体がミシミシと悲鳴を上げていた。彼はそれを口にはしなかったが、私にはそれが判った。彼はその痛みに必死で耐えながら私の為に身体を持ってくれていたのだ。私の望みを叶える為、彼は死んでまでも痛みを引き寄せたのだ。それを感じて彼の胸に顔を埋める。彼はいつものように抱きしめる腕に力を込めた。
 私は、彼の存在を全身で感じ、それをしっかりと記憶に刻み込む。そして、こみ上げる涙を飲み込んで、ただ「有り難う」とだけ言った。
 正巳に向かって言う。「もう良いわ。消して頂戴」
 正巳も静かに肯いてみせると、また呪文を唱え、手を素早く動かした。
 春樹の感触が溶けるように無くなった。
 私はそのまま蹲り、飲み込んだ筈の涙を流した。




 メモリーコーポレーションを出て、ビルを取り巻く幽霊達に見送られながら、正巳と一緒に私の部屋に帰った。

「めぐみさん。これが本当のお土産ですよ」部屋に着いてすぐ、彼が持ってきた紙袋を差し出した。
「有り難う。開けて良い?」
「どうぞ。出来ればそれで一杯頂きたいものです」
 それは丁寧に包装されたアンティックガラスのタンブラーだった。
「あら、素敵。これ、吹きガラスね」私はそれを両手で包み込むようにして裏側にあるへそを見て言った。暖かみのある、とても柔らかな手触りだ。明かりに透かしてみると甘く輝く。
「ええ。今回小樽にも行ったんですよ。そこで見つけてどうしても欲しくなったんです。きっとそれでロックを飲んだら美味いだろうなって思って」
「立派なウワバミになったわね。じゃあ、これで飲みましょうか」私はそう言ってそれをキッチンで洗い、しっかり磨き込んでからロックと水割りを作った。

「やっぱり美味いですね」正巳がグラスを透かして見ながらそう言って笑った。
 私も同じように一口飲む。口触りもとても柔らかい。
「正巳にも辛い思いをさせちゃったわねぇ。ごめんなさいね」
「僕は平気ですよ。でも、あんなに早く消しちゃって本当に良かったんですか?」
「ええ、私の我が儘であれ以上春樹に辛い思いをさせたくなかった・・・。アイツには、本当に私の欲しい物が判ってるのね」私はそう言ってグラスを口に運ぶ。
「それが愛ですか?」正巳も残っていたグラス半分のウイスキーを喉の奥に放り込む。
「判らないわ。何が愛なのか・・・」彼の空になったグラスにウイスキーを注ぐ。
「めぐみさんはいったい何を望んでいたんです?そして梶さんは何を与えたんですか?僕には何も判らない」そう言って俯き、首を振った。
「そうねぇ。私自身が自覚してなかったから、あなたにも読めなかったのね。でも、春樹はちゃんと知ってた」グラスの中で氷がカランと鳴った。
「やっぱり梶さんには敵わないのか・・・」正巳は手の中のグラスを見つめる。
「特殊なのよ。アイツが特別変わってるの。でもあなた、この指輪を手放しちゃって、また式を使うの?」私は彼に貰った指輪に目をやる。
「いいえ、もう式の友達は要りません。人生に対して怒りも無くなりましたし、一人で居る事の寂しさも今は無いから。でもさっきは、僕も出来るかどうか心配だったんですよ。ずっと失ってた力だったし・・・。でも、梶さんがやれって言う限り出来るだろうと思ってやってみた」そう言って自分の手を見る。
「とっても上手に出来てたわよ。有り難う。でも、生きてるって本当に辛い事なのね。あの春樹があんなに痛がって・・・」
「?」正巳が首を傾げてみせる。私が続ける。
「もの凄く痛そうだった。それを彼は必死で耐えてたの。だから急いで消して貰ったのよ。春樹、それについて説明してくれない?」私はいつものように私の中の春樹に問いかけた。
「ああ、痛かったぜ。覚悟はしてたけど、あれ程だとは思ってなかった。でも、もう一度姉さんを抱けて嬉しかったがな」春樹が私の口を使って、いつもの調子で話し始めた。
「何故なんですか?」正巳もそれが当たり前のように春樹に尋ねる。
「五十嵐は、式を使う事はあっても、式に成った事が無いからな・・・。あれは生まれた赤ん坊をもう一度母親の中に押し戻すようなものだな。悪霊が憑く時よりも辛い。そう、精神の中に肉体を押し込む感じだ。肉体に精神を押し込むのもかなり辛いだろう?あれの反対バージョンだと思ってくれ。それと、再度肉体を持つ事で、死んだ時の恐怖や痛みも溢れ出す。俺は二回も飛行機で落ちたんだぜ。そう言うのが一気に押し寄せて来るんだ」
「なのにそれを望んだんですか?」正巳が尋ねた。
「ちょっと姉さんを抱きたかったんだよ」春樹が笑いながら言う。
「ちゃんと教えて下さいよ。やる事だけやらせてそれは無いでしょう」正巳が口を尖らせる。
「俺が望んでた。それだけの事さ」春樹はきっぱりとした口調で言い切った。
「そうか、自分のしたい事が、誰かの役に立つのね・・・」
「まぁな。それも一つの真理だな。だが、俺だって生きてた時には本当に自分のしたいことだけ出来た訳じゃない。いや、そうしてたはずなのに、生きている時にはそう思えないことが沢山あったって言った方が正直かな」
「それが答えなの?」私がもう一度尋ねる。
「いや、俺には何も判らないさ。答えは姉さんの中にしかないさ」
「めぐみさん、何を言ってるのが僕には判りません」正巳がそう言って私を見る。
「正巳。春樹は私に修行なんかしなくても良いって伝えたかったのよ。目を閉じなくても、見えるものとして自分が存在しているって実証してくれたの。春樹はそれを私に判らせたかったんじゃないかしら?私はあなたと違って突然こんな力を持っちゃったでしょう?それで凄く戸惑っているのよ。何も否定すべき物なんて無いって判っているのに、今の春樹の存在を無条件に認めると、自分が作り上げてきた全てが崩れる。だけど、春樹の存在を否定してしまうと言う事は、最愛の者を失ってしまうことでもある。そして、その続きには正巳の存在に対する否定までおまけで付いてくるわけ。だって、あなたの持つ力もそれと同じライン上にあるわけだし、あなたと知り合ったのだって春樹の不思議な力が働いたわけでしょう?だからと言って死んだ男と会話したりする事が当たり前だって言うのも、自分で納得しかねているのよ。自分が春樹を失った悲しみから逃れるために、現実逃避としてそれをやっているんじゃないかって思ったりしてね」
「めぐみさんは僕の存在をどう考えてるんですか?」
「あなたは現実の中に居るって思うわよ。ちゃんと仕事だってしているし、身体だって持ってるもの。あなたは辛い修行の末にその力を身につけたから、こんな風に悩んだりしないでしょう?」
「僕は生まれた時からこんなでしたから・・・。それで母親に捨てられたんだ・・・」
「でも、その問題は片づいてるんでしょう?」
「はい。綺麗さっぱりとね。めぐみさんはまだ片づいてないわけだ」
「そう言うことになるわね。私自身、この力を持ってこれからどう生きていくのかが判らないのよ。春樹はとても上手にこの力を使って仕事をしていたけど、私の仕事には全く必要ないしね。最近はあなたの仕事にまで支障をきたしちゃったし、嫌な物を見たり、辛かった時の事を思い出してしまったり、関係ない人達の哀しみまで背負い込むことになった。その上、三度も死にかけたのよ。あなたには何度も犯罪めいたことまでさせてしまったし。嫌なら捨ててしまうことも出来るって春樹は言うけど、私自身、必要があってこれを譲り受けたって言う感じもしてるのよね。なのにこの力が何を意味しているのかも判ってないの」
「だったら梶さんに教えて貰えばいいじゃないですか」
「きっと尋ねれば教えてくれるわ。いいえ、彼に尋ねなくても、私自身がそれを知る力も持っているのよ。でも、それを使って知った真理なんて、その力の意味が分かっていなければ何の意味も持たないわ。訳の分からない力を使って、先のことを知ったからと言ってそれが何になるって言うの?だから、私は先の事なんて知りたくないの。でも、それを知って楽になりたいと思う自分も持っている。矛盾だらけよね。前にも言ったと思うけど、私は自分自身しか信じていない。そしてその自分自身が今一番信じられない。要するに目一杯混乱してるって言う事」
「梶さんも信じてないんですか?」
「そうね。私は春樹を愛しただけ」
「愛すると信じるは違うんですか?」
「多分私の中ではそう言うことだと思う。私は春樹を信じたんじゃない。彼が私を愛し、私も彼を愛した。それだけの筈だったのに、どんどん変な方向へ流れて行ってしまってるの。それも、普通じゃない世界が私の周りに広がってきて、私はその中で足掻いてる。結局その問題は私が片づけるしかないことなのよ。だって、本当は私、それが何を意味して、なんのためにあるのかも知っているから。ただ、それを認めたくない自分と、知っている自分が喧嘩してるんだと思う」
「だったらめぐみさんは何故知ってるんでしょう?そして何故それを認めたくないんでしょうね」
「判らないわ。私のずっと奥深い場所がそれを知ってて、それが浮かび上がるのを私自身が押さえてるんだと思う。神降ろしをした過去生があったりするぐらいだから、ずっと昔にあなたのように体験的に理解したんでしょうね。でも、その過去生だって、否定しようと思えば幾らでも否定できるのよ。だけど、それをしたら春樹と再会してからの記憶を全部消去しないと、普通の人には戻れない。全部消去するって言う事は、この身体で感じた春樹のぬくもりさえ勘違いだとか、気のせいにするって言う事になる。それって普通の感覚さえ認めないって言う事でしょう?そんなのおかしいわ。結局そう言うのが混ざり合って居るものだから、どんどんストレスが大きくなっていくの。そんな私を春樹が見かねたのかしらね。それで死んだ自分をも五感を使って感じられるって教えてくれたんだわ。全てが同じ幻。触れられるものも触れられないものも、どちらも自分で作った幻でしかないって教えたかったんじゃないかしら。それでわざわざ自分を物質化することで、五感で感じられる存在として私の前に現れてくれたんだと思う。幾ら私が認めたくなくっても、触れられたら気のせいだって思いようがないもの」
「そうじゃないさ。本当に俺は姉さんを抱きたかっただけ。最近五十嵐に取られかけてるしな。ちょっと存在をアピールしときたかったんだ。俺はあんな辛さを他人の為に味わう程お人好しじゃないぜ」春樹が言った。
「梶さん。今更何をやっても無駄ですよ。さっきも言ったでしょう?めぐみさんはもう僕のものですから。だって僕もめぐみさんもまだ生きてる。梶さんはもう住んでる世界が違うんですよ。だからこれ以上僕のめぐみさんに手を出さないで下さい」そう言って私の身体を引き寄せる。
「俺を抱くのか?」春樹が悪戯っぽく私の口を使って正巳の腕の中で言った。呆れ顔で正巳が私に回した腕を解く。
「本当にあなた達いい加減にしなさいよ。子供がおもちゃの取り合いをしてるんじゃないんだから。その内私はあなた達の知らない良い男を見つけて、さっさと再婚してやる!それもとびっきりまともな男とね!」イライラが限界に達していた。
「あーあ、本気で怒らせたぜ」春樹が今度は正巳の口を使う。
「本当ですね。怒っちゃいましたね」正巳も他人事のようにそれに相づちを打つ。
「それより、五十嵐。大切な用事があったんじゃなかったのか?」
「そうでした。例の呪いですよね」そう言いながら胸ポケットからプリントアウトしたものを取り出す。
「姉さん。思い出せるか?」その紙を手渡して、春樹が言った。
「本当にあなた達って・・・」私は呆れて後が続かなかった。
 しかし、確かに迷ったりしてる場合ではない。私はその文字のために死にかけたのだ。そして、それの意味が意識できるすぐ傍まで登ってきているのも感じている。今は、春樹の置いて行ったこの力が必要なのだ。『迷うのはまた後で』私はそう思って目を閉じ、気持ちを静める為に大きく息をする。

 閉じた目の奥にまたあの赤と緑の斑模様が広がった。意識してゆっくり呼吸しているにもかかわらず、どんどんそれが速く浅くなって行く。
「姉さん。駄目だ。もっと心を静めろ」春樹が正巳の口を使って言う。
 私は、大きく息を吐き、少し集中を緩める。
「少しづつ集中してくれ。そのまま意識を合わせてしまうんじゃなしに、自分を保ちながら、向こうを覗く感じでやるんだ」
「ふぅ~っ。難しいわねぇ」
「めぐみさん。今ので何が見えましたか?」
「赤と緑の斑模様。前の時もそうだったの。多分あれは・・・草の上に吐いた血。誰かが草の上に倒れて、止めどなく真っ赤な血を吐き続けてる」
「他に何が見えます?」
「ちょっと待ってね。もう一度やってみるから」私はそう言って、今度は入って来るのを許すのではなく、自分でその赤と緑の斑をイメージする。すると、さっきより少し離れた位置からその斑が見えた。それで其処に倒れているのは白い服を着た男だというのが判った。
「白い服の男が倒れてる」
「血を吐いているんですね。それは傷から流れているんじゃないですね」正巳が確認するようにそう言った。
「ええ、そうよ。さっきまでは自分の口から吐き出していたみたいだったから、それは間違いないと思う」
「思いはあったんですか?」
「悲しみ・・・。それに何かが混ざってる感じ・・・。赤と緑の斑がそれを象徴して居るみたい・・・。誰も周りにいないわ。たった一人っきり。だから、誰かに傷つけられて血を吐いてるわけじゃないと思う」
「で、何故、呪いだと思ったんですか?呪われて血を吐いているのか、呪って死のうとしているのか、判りませんか?」正巳は的確に尋ねてくる。
 私はそれに対して判らないと首を振ってみせる。
「じゃあ、何か聞こえませんか?」
「音は、音は何も・・・。いいえ、風の音がする・・・。冷たい風が草原に吹き渡ってる。ああ、哀しいんだ。誰かに裏切られて・・・。違う、裏切りじゃない。愛されなかったんだ。求めても求めても与えられなかった。何故自分は生まれてしまったんだって思ってる。何故こんなに父親に疎んじられながら生きなければならなかったんだって・・・。でも、やっと終わらせられる・・・」
「めぐみさん。大丈夫ですか?」正巳がそこで私にめぐみと言う名前で存在している事を思い出させるように名前を呼んだ。
 私はそれを聞いて、もう一度大きく呼吸をする。
「有り難う。そのまま入って行きそうだったわね」
「大丈夫ですか?」正巳が心配そうに覗き込む。
「ええ。こうやって色んな事に慣れて行くのね。あなた、上手に手引きしてくれるわね」
「そうですか?だったら良いけど。続きはどうです?」
 私はもう一度目を閉じて大きく息を吐いてから赤と緑を呼び起こす。
 今度は、私の意志でその倒れている男に意識を重ねる。
『あなたは誰?』心の中で問いかけてみたが、その男は答えない。ただ哀しみだけが心を満たしていた。自分自身ではないのだが、私の心の一部分にその男の感情だけが感じられるのだ。
「駄目よ。答えてくれないわ」私が言葉に出して正巳に言う。
「思いは?」正巳が尋ねる。
「哀しみ。でもそれだけじゃないみたい。なんだか安堵感みたいなものも混ざってる」
「姉さん、呪ったのかって尋ねてみな」正巳の口を使って春樹が言った。
 私は心の中でその男に尋ねてみた。しかし、その男は何も答えない。
 私は首を振る。
「五十嵐。祟り神かもしれない」春樹が言った。
「また、神ですか?」
「そう言えば、あのオヤジが持って来たんだよなぁ」
「えっ?ああ、古田さんですか。そうですよ、彼の元に来た通信です」
「アイツがニギハヤヒだったとすれば・・・。そうか!姉さんオウスと言う名前で呼びかけてみてくれないか」
 小碓と言えば確かヤマトタケルのことだ。
「何故小碓とニギハヤヒなの?」
「記紀って言うのは本当のことを書いてあるわけじゃない。特に神話的に語られている部分はな。だけど、事実を元にして書かれているものも幾らか在る。この前姉さんの記憶を探った時に、スサノオ、ヤマトタケルって言うのが繋がっていたのを見つけた。スサノオとニギハヤヒの繋がりは判ってるだろう?それにだいたい同じ様な性格で記紀でもその二人は語られてる。きっと何か繋がりがあるはずだ。わざわざオウスと言う名前を書き残してあるからには、名前の呪術が使えるかも知れないんだ。オウスという名前で呼びかけてみてくれないか」
 私は春樹に言われたようにもう一度呼びかける。『あなたはオウスなの?』
 その男が少し動いた。相変わらず止めどなく口から血を吐き続けながらも、指先で草を掴もうともがく。
『あなたが呪ったの?それとも誰かに呪われたの?』私はもう一度尋ねた。
『父上・・・』その思いだけが私に伝わって来た。
 私はだんだん知っている誰かのような気がし始めていた。この男を知っている。私の良く知っている男だ。私はその思いから離れられなくなっていた。少し集中の度合いを深める。『あなたはいったい誰なの?』その思いを受けてその男はごろりと仰向けになった。
「あーーーっ」私は大声で叫んで、倒れ込む。胸が張り裂けそうに痛かった。
 正巳が急いで私を抱き起こす。「めぐみさん!めぐみさん!」
 私は正巳にしがみつくようにして彼を抱きしめた。「正巳・・・」
「姉さん俺に意識を合わせてくれ!」春樹が私を抱く腕に力を込めてそう言った。
「春樹?」百パーセント春樹のエネルギーを感じて私が言った。
「ああ、そうだよ。五十嵐じゃない。ちょっと力ずくで乗っ取った。五十嵐は今完全にオフの状態だ」
「そう・・・。彼、正巳よ」私は目の奥に残る血だらけの男の目を思い浮かべながらそう言った。顔は全然違う。しかし、目が同じなのだ。目の奥にある光の種類とでも言った方が良いのだろうか。四国で鬼だった時の正巳を見分けた時もそうだった。
「ああ、そうみたいだな。お園の時みたいに突然入り込んだらやばいから・・・」
「そう言う事・・・。ごめんなさい。気をつけるわ」
「大丈夫さ。その為に俺が居るんだ。ちょっとは役にも立たないとな」春樹はそう言って笑って見せた。
「笑ってる場合じゃないでしょう?それでどうすればいいの?」私は春樹を感じながら言う。
「やばいよなぁ、俺が出て行くわけにもいかないし・・・」
「どう言う事?ちょっとぐらい説明しなさいよ」私は訳が分からなくって怒る。
「多分姉さんが奴のおばさんだ。それで、俺が奴を追い込んだ張本人。やっぱりヤマトタケルの物語だ・・・」
「あの白鳥伝説の?」
「そうだ。今伝わってる話とは、かなり違うが、元になっている事は確かだ。でも、なんで今頃あれが出て来るんだろうなぁ。参ったなぁ~」
「ねぇ、オウスって確かあのヤマトタケルの事よねぇ?あなたヤマトタケルとどういう関係があったの?」
「それが・・・俺が奴の父親だったんだ。あの時の俺は権力にもの凄く執着があった。中毒してたと言っていいぐらいだ。それと、姉さんがアイツを可愛がりすぎたのが悪いんだ」
「また私が絡んでるの?正巳と私は関係ないって言ったじゃないの!」
「随分昔の事だし、姉さんとの問題はその時に綺麗に終わってたから・・・」
「あなたねぇ。本当にあなたって言う人は・・・。それで、あなたは嫉妬したって言う事?」
「まぁな」春樹は本当に困ったような顔で言った。そして続ける。「思い出してくれないか?」

 私は自分の奥底に沈んでいく。身体いっぱいに春樹のエネルギーを感じている事で、そこに恐れは無かった。心地良い波の中で私は不思議な物語を追いかけ始めた。

 全身に真っ白い衣を纏い、真っ黒な長い髪を後ろに垂らし、揺らめく炎の元で女が何かを書いていた。動物の骨を焼いた灰と、自分の血を混ぜた墨のような物を白い骨に含ませて一文字づつ丁寧に書き進む。書いているのは、あのファックスで流れてきた奇妙な文字だ。愛おしい者の魂を救う為、そして肉体に安らかな死を与える為に。
 心の中に嵐が吹き荒れていた。それを必死で押さえ込みながら、父親に対するオウスの思いが、祟りにならないよう、呪術を施した。あの頃の人間はまだ、フツシ達のように自分の魂が祟るのを一番怖れていた。

 次々とその頃の情景が頭に浮んでは消え、また浮かぶ。
 
 青い空の下、澄んだ空気が満ちている。
 良く掃き清められた庭に囲まれた美しい寝殿が在り、明るい光を浴びながら、そこを沢山の人が右往左往している。その中で一人の男がクローズアップされた。その容貌からして若き日のオウスの父親だ。そして、その目の光は春樹の物だ。まだ子供っぽさを残した面差しからして、即位前の太子の頃だろう。結婚の儀。華やいだ雰囲気の中、立派な衣に身を包んだ人達が集まり、その男と美しく着飾った姫が並んでいる。
 そして、場面が変わった。
 沢山の姫と文のやりとりをし、柔らかな炎の元、夜毎に違う姫の元に通う男が見えた。まだ一夫一婦制というのでは無い時代だ。
 その男は后にたいして何時も無邪気に笑いかけながら話す。その笑顔に、后もとても嬉しそうに答えている。通い婚の時代、后は、夫が通ってくるのを心待ちにしているようだ。夫が来る日にはそわそわと落ち着かない様子で、女官達と笑いながら、部屋を飾ったり、身繕いをしたりしているのが見えた。
 その時の春樹も、私の知っている春樹のように、少し浮気性ではあるが、愛情深いようだ。后の方も政略結婚ではあったがそれなりに愛情も湧き、幸せな日々を送っている。

 次ぎに見えたのが鈍色の衣の人達だった。空も暗く、低く雲がたれ込めている。婚儀の時とは違い、一様に沈んだ表情で、険しい目をした人々が寝殿の中を歩き回っていた。私はその中から春樹を捜す。
 その頃の春樹は、鋭い眼光に狂気をにじませている。ぞっとするような冷たい目だ。さっきまで見ていた彼とはあまりにも違う。
 私はその理由を知りたいと思った。

 薄暗い室内でひそひそと何かを話し合う三人の男達が浮かび上がってきた。そこで話し合われているのは、皇位継承をめぐる陰謀。春樹は、目を閉じ、二人の男の話を静かに聞き続ける。その話が一段落したところで、目を開け、一言も発しないままただ静かに頷いた。その目は温かさの一欠片も見えない冷酷な物だった。
 その計画は実行に移されたようだ。彼らは何人もの身内を陥れ、最後には、春樹自身の手さえも血で染めた。春樹は実の兄を手に掛けたのだ。騙し討ち。それも、表情一つ変えずに、兄の胸に剣を突き立てた。胸から吹き出す血潮を全身に浴びて立つ春樹。その顔には達成感も、恐怖も、憎しみすらも浮かんでいない。ただ、無表情に返り血を浴びて立つその時の彼は、心を持たないサイボーグのように見えた。
 そうしていくつもの謀略と、暗殺の結果、春樹は即位したようだ。
 即位の時の春樹は婚儀の時の彼とは全く別人の様に見えた。金の冠をかぶり、管玉と曲玉をつなぎ合わせて作った首飾りをかけている。何の表情もなくただ超然とそこにいる。そして、冷酷な目で周りの人々を見ていた。周りの者達もそんな彼を怖れている様子が見て取れた。
 その即位のすぐ後に問題が起こった。
 王として初めての神祀りの時、彼は巫女として神に仕えていた娘に目をつけた。彼の心の空洞に、その若き巫女の存在が流れ込み、それが彼の欲望に火をつけた。王と成った彼は、あろう事か巫女を女として欲し、神聖なる神殿で犯したのだ。
 殺人をも厭わずに、絶大なる権力を手に入れた彼は、何も恐れはしなかった。王として祀るべき神すらも彼を怖れさせる存在ではなかった。
 王は神祀りの度にその娘を求め、激しく愛した。まだ十三やそこらの娘にもそれが愛である事が判った。その愛の激しさに、巫女であることを忘れ、娘も王を受け入れた。しかし、それは許されるべき想いではなかった。その結果、妊娠した巫女は、親族によって屋敷奥、日の当たらない小さな部屋に閉じこめられ、密かに子供を産んだ。 
 産んだ子供を取り上げられ、都を追い出されるように出てきた巫女が、輿に乗って旅をしていた。神に対する恐れと、愛することの出来ない悲しみがその時の巫女、トヨツヒメを包み込んでいる。傘の下の顔は青ざめ、表情を失っていた。
 王は、巫女が子供を産んだ事も知らなかった。ただ、その巫女が突然自分の前から姿を消し、数ヶ月後伊勢に移ったことを知らされただけだった。巫女によって埋められていた心の空洞に狂気が流れ込んでいった。

 トヨツヒメの産んだ子供は数日前に生まれた姉の子と共に、オオウスの皇子オウスの皇子として、双子と偽って一族の元で育てられた。そう、その巫女は王の后の実の妹だったのだ。そして、その魂が私だった。やはりこの時代にも私は神を祀っていた。

 オオウス、オウスとも仲の良い兄弟として何も知らずに育っていた。五~六歳の二人が仲良くふざけ合っている姿が見えた。子供は何時の世も日の光を浴びながら無邪気に遊ぶ。
 数年後、その子供達が十歳ぐらいになった頃のことだ。周囲の者達の間で、皇位継承権を巡る争いが起こり始めたようだ。
 オオウスの皇子よりもオウスの方が王としての資質を備えていた。オオウスは気が弱く、貧弱な身体で、病気がちだった。それに比べ、オウスは剛胆で、身体も逞しく育っていた。しかし、オウスの誕生の秘密を知る氏族の長老は決してオウスに皇位を次がせては成らないと思っていた。同じ一族であっても、巫女の産んだ子を王にしては、神の怒りを買うと考えたようだ。
 しかし、オウスの秘密を知る者は、一族の中でもごく限られた人間だけだった。それで、オオウス派とオウス派でもめ事が起こり始めていたのだ。そんな時、とんでもない事故が起こってしまったのだ。
 オウスとオオウスが一緒に遊んでいた時に、ふざけたオウスがオオウスを突き飛ばし、そのまま倒れたオオウスの首に、運悪くそこに立っていた杭が刺さって死んでしまった。そして、オウスの立太子を阻止しようとする者が、それを事故として報告せず、オウスが意図的に兄であるオオウスを殺したと王に告げたのだった。悪意と陰謀の渦巻く社会。
 その報告を受けた王は、自分が兄を殺して即位しただけに、その自業にオウスを重ね合わせた。そして容貌も自分にそっくりに育ってきたオウスを怖れた。それというのも、王は兄だけでなく、父であった先王の命も呪術によって奪っていたからだ。
 次は自分がオウスに殺される番だと思い込んだ。

 その時の春樹は王の座を得たものの、何一つ満たされない心を抱えて、周りの人間に対する不信感と権力を失うことに対する恐怖ばかりを抱えているようだ。

 正妃にとっては、実の妹である巫女が、その身を汚すなど在っては成らない間違いだった。その上、相手は自分の夫であり、さらに妹の方が自分よりも深く王に愛されているのだ。それは妹である巫女を王から引き離した後の王の荒れ方から十分理解できた。そして、しとねの中で自分に向かって王が妹の名を呼んだのにも気づいた。嫉妬の地獄。それに加え、オウスの出生の秘密、つまり王が巫女を犯したことが公に成れば、氏族も、夫である王すら窮地に追い込まれる。それは正妃にとって耐え難い恐怖だった。その上、オオウスを失ったとは言え、まだ自分の産んだ子供の居る正妃は、決してオウスに皇位を次がせる訳にはいかなかった。しかし、オウスの出生の秘密を王に告げるわけにも行かず、燃えたぎる嫉妬心と、氏族の期待の重さに心を病み、自らの命を絶ったのだった。

 最愛のトヨツヒメに去られ、トヨツヒメの姉であり、面影の似た后にまで自害された事に激怒した王は、ますます傍若無人に振る舞う。罪もない人々を目の前で殺させたりしているのが見えた。そして、神祀りの度に違う巫女を犯し、側近達がそれをもみ消して回っている。王の怒りと狂気は全てのものに向けられていたのだ。

 伊勢にいるトヨツヒメの元には何通もの恋文が密かに都の王から届けられていた。激情のしたためられた文に、若いトヨツヒメの心はいつも揺れた。何度も何度も思いを綴り、それを使者に託そうとした。王の正妃である姉に対する嫉妬に身を焦がしもした。伊勢に着いた頃には、王を思う気持ちは姉よりも自分の方が遙かに強いと思っていた。そして、王が自分を姉よりも強く愛しているとも思っていた。涙ながらに都へ戻りたい、王の元へ戻りたいとヤマトヒメに訴えた。しかし、その度にヤマトヒメは叱りつけることも、諭すこともせず、ただ黙って抱きしめて癒してくれたのだった。多分、ヤマトヒメ自身も同じ思いを乗り越えてきていたのだろう。
 結局トヨツヒメは、王からの文と、自分がしたためた文を、想いと共にすべて焼き捨てたのだった。
 それを何度か繰り返し、穏やかな生活が出来るようになると、トヨツヒメは姉に対する嫉妬心もなくなり、自分の立場も理解できるようになった。
 人を愛するなど、神に仕える身として、決してあってはならない事だったのだ。氏族の権力のため、皇后の座を姉が担い、自分は神の祀りを担うと言う役割の元に生まれた。それが自分たちの宿命だったのだ。それに気づいたときトヨツヒメは姉に許しを請うための文を書いた。妹の産んだ子を、実の子として育ててくれた姉に、自分のしたことを詫び、礼を言いたかった。
 次の都からの使者にその文を託そうと白木の箱に大切に保管していた。そして、待ちに待った使者が着いたとき、その使者が姉である正妃の自殺を告げたのだった。姉は、妹である自分の犯した罪のために心を病み、自らの手で死を選んだ。なのに自分は、汚れているにもかかわらず、神に仕えることをやめなかった。神罰が当ったのだ。すべての罪は自分にあったのだ。自分が姉を死に追いやった。なのに自分はただ、こうして生き延びている。
 トヨツヒメは後悔の思いから半狂乱になった。そして我が身を鬼と化した。神聖でなければならない巫女であるのに、子供まで産んだのだ。その身の汚れ故か、元々その素質があったのかは判らないが、彼女は神を祀ることよりも、呪術に大きな力を発揮した。それでも、ヤマトヒメの存命中はヤマトヒメの霊力によってそれが押さえられていた。しかし、そのヤマトヒメもすでに亡く、姉の自害の知らせを聞いた後、トヨツヒメは進んで呪術を行うようになった。まず最初に姉への文を焼き捨てた。そして、自分たち姉妹の運命を呪うがごとく、鬼となった。
 トヨツヒメの呪術は鬼神をも震え上がらせるほど、すさまじい力を持っていた。都に嵐を呼ぶことも、長い干ばつを呼ぶこともあった。そして、王の住む宮殿を落雷が襲うこともしばしばあった。
 同じように心に鬼を住まわせた都の王は、それがトヨツヒメの呪術であることをすぐに理解した。そして、それに対して怒るどころか、その力を自分の欲のために使おうとしたのだった。
 人目を忍び、密かに伊勢に赴いた王と、トヨツヒメが神殿の中で抱き合うのが見えた。どちらの目にも狂気が燃えさかり、お互いの欲望を鎮め合う。そして、そのまま、王は何も語らぬまま都に帰った。
 その後王は、事在る毎にトヨツヒメに呪術を依頼してきたようだ。衣冠束帯の男性が、恭しく勅命を届けに来ているところが見えた。それを超然とした表情のトヨツヒメは押し頂くように受け取り、そのまま宮に引きこもり、火による呪術を行った。ほとんどが王の敵を調伏するためのものだった。
 洗い流せない汚れを持つトヨツヒメは神道本来の水による禊ぎではなく、火によって汚れを焼き尽くそうとしたのだろうか。その頃のトヨツヒメは何時も炎の中に見えている。めらめらと真っ赤に燃える火の元で、都の王のために数々の呪術を行っていた。それが自分の存在理由のように感じていたのかも知れない。王を助けるための呪術を行うことで、王に必要とされているという実感を味わっていたのだろう。それが巫女であるトヨツヒメに出来る唯一の愛の表現だった。

 オウスは遠征の度に伊勢を訪れ、叔母だと信じているトヨツヒメを母のように慕って甘えていた。トヨツヒメにとって、会うたびに父親に似てくるそのオウスの姿は、辛くもあり、喜ばしくもあった。オウスと会う時間は、トヨツヒメが唯一人の心を取り戻す瞬間だったのだ。
 オウスは、彼を怖れる王の命令でいつも死地に追いやられていた。そして、そのことを叔母であるトヨツヒメの元へ報告にやって来たのだ。「トヨツヒメ、私は父の求める立派な男になりたい」大きな逞しいからだのオウスが、何時も寂しげな微笑みを浮かべながらそう言った。
 そんなオウスをトヨツヒメは哀れみ、愛おしんだ。オウスの姿に彼の父親を見ていたのだろう。いかに冷酷非情の男であろうと、王は唯一自分を人として愛してくれた男だったのだ。そして、鬼で在る自分の心を理解してくれる、同じ鬼でもあった。
 トヨツヒメは、我が子オウスを愛していた。我が子と呼んで、抱きしめたいと思っていた。しかし、自分が母だと告げる事はオウスの父親を失脚させる事でもあり、絶対に告げることの出来ない事実であった。しかし、やはり権力争いに巻き込まれ、オウスは真実を知ってしまった。
 自分の出生の秘密も、公にはされていないが、オオウスが死んだ時に自分が殺したのだと父に報告されたことも。それで彼は父親の辛い仕打ちの意味を理解した。
 父を、父だけを純粋に愛していた彼には、父親が自分を厭う気持ちが理解出来た。それが誤解から始まったものだとは言え、今更取り返しの付かないことだというのも利口な彼は理解していた。それで、身の潔白を証明するために、自分の出自を明らかにし、自分は皇位を望んでいるのではないことを直接父に告げた。そうすることで皇位継承の争いからは逃れられると思ったのだ。
 それに対してオウスの出生の秘密を知らなかった王は驚愕した。自分以外でトヨツヒメの愛を受けるものが居ると言う事に激しく嫉妬したのだ。しかし、オウスの前では平静を装いただ肯いて見せただけだった。
 それまでの、自分の権力を守るためにオウスを恐れていたのとは別に、嫉妬心からオウスを厭う。歪な愛に捕らわれた王は、我が子が自分の立場を汚さぬよう、全ての秘密を持ったまま、武将として勇敢に死ぬことを望んだのだった。しかしさすがの王も、その為の呪術をトヨツヒメに頼むことも出来ず、都の呪術師にオウスの呪殺を依頼した。
 あまりにも未熟な愛だ。しかし、未熟なだけに、それは恐ろしい程の激しさを持っている。
 王の依頼した呪術の甲斐もなく、オウスが凱旋し勝利報告を聞く王は、いつも満面に優しい笑みを浮かべながら、「良くやった。父は、お前が国を大きくしてくれて嬉しいぞ。これからも頑張ってくれ」と次の遠征を指示したのだ。そして、呪殺に失敗した呪術師は暗殺されたのだった。
 父の思いにオウスは必死で応えようとしていた。その為に何度も父の言いつけ通り、遠征に出た。

 トヨツヒメは、オウスの遠征の度に、彼を生かすため呪術を施し、神に祈っていた。都の呪術師よりもトヨツヒメの呪力が何時も勝っていたのでオウスはいつも無事に戻ってきていたのだろう。彼自身は死を望んでいたにも関わらず、彼女は母としての欲のためにそれを与えなかった。
 何度も倒れ込み、胸を掻きむしりながらも、起きあがり、祈る姿が見える。彼女の心にはオウスとオウスの父が重なり、同じ者として存在していた。
 愛に対して未熟なトヨツヒメの心は、それを別の者として捕らえることを拒否していたのだろう。

 オウスの、父への愛もまた、愛しても愛しても報われない愛だった。与えられないからこそ、求める気持ちが強くなる。それは特殊な迷路に迷い込んだ愛の形。

 最後の討伐遠征の時も、オウスは伊勢までやって来た。
 彼は妻の抱える呪術師にトヨツヒメの呪術の存在を教えられていた。呪術師の間では、オウスの呪殺に失敗した者が、次々と殺されているという噂が広がっていたのだ。
 それを知ったオウスは、守るための呪術ではなく、殺すための呪術を実の母に依頼しに来たのだ。
 
 なんと罪深い物語だろう・・・。私はその先を見るのが辛かった。しかし、私の思いなど関係ないように、頭の中を終末に向かって物語が駆け抜ける。

 いつもの甘えた表情のオウスとは全く別人のようなオウスがトヨツヒメの前に立っているのが見えた。
 もちろんトヨツヒメは断った。泣き叫ぶようにして、それだけは出来ないと、オウスの前にひれ伏す白衣のトヨツヒメ。
 しかし、オウスは、王に良く似た冷たい微笑を浮かべて言った。
「トヨツヒメ。あなたは汚れた巫女だ。そして私の母上・・・。もう、私を自由にして下さい。あなたの王への思いのために私を利用するのは止めて下さい。もし、私をその呪術で殺してくれないのなら、私は自害することになるでしょう。父上は、私の死を心から望んでおいでなのです。私は父上の命に背くことなど出来ないし、したくもない。自害すれば私の魂は祟り神となって都に災いをもたらせてしまうでしょう」
 その時トヨツヒメは全身から血の気が引き、そのまま倒れ込んだ。
 オウスはそんなトヨツヒメに冷たいまなざしを投げかけると、そのままその場を離れたのだった。 


 嘆き悲しみ苦しみ抜いた後トヨツヒメは覚悟を決めて呪いの文字を書いた。
 そして神宝である草薙の剣と共に、自分の命とオウスの命を取るためのそれを与えた。神宝草薙の剣には叔母であり、最高の巫女であったヤマトヒメの霊力が宿っている。その力で自分の呪力を押さえ込んだのだ。
 剣と共に在る時には効力を発しない特殊な呪術。それを伝え、トヨツヒメは選択を彼自身に任せた。しかし、自分の命も共に封じてある事は伝えなかった。
 彼女もまた死を恐れては居なかった。死こそが自分を救う唯一の方法だと知っていたのだ。なのに、それまでそれをしなかった自分の欲が恐ろしかった。
 結局オウスは、死を選んだ。望んで望んでやっと与えられた安らかな死だった。それと同時にその呪いはトヨツヒメ自身の命も消し去った。
 草原に横たわる白い着物の男、そして、燃えさかる紅蓮の炎の中でじっと座り続け、全てを燃やし尽くし、火によって清められたトヨツヒメの姿が重なって見えた。オウス三十歳トヨツヒメ四十四歳の事だった。


 私は正巳の身体を揺さぶりながら彼の名前を喚ぶ。
「正巳!戻りなさい。正巳!あなたの身体に戻りなさい!春樹!正巳を返して!」
「姉さん、判ったよ」春樹はそう言って気配を消した。

「えっ?僕どうしちゃったんですか?」正巳が首を振りながら私を見る。
「男ならもっとしっかりしなさい。簡単に自分を明け渡したりしちゃ駄目よ」
「しょうがないですよ。梶さんが望んだら僕にはどうしようもない。だって梶さんは僕の師匠ですから。ところでどうだったんですか?」
「ヤマトタケルの白鳥伝説だったみたい」正巳の落ち着きがかえって私を苛だたせ、投げやりにそう言った。
「ヤマトタケルですか?死んでたのがオウスで、それが僕って言う事ですね。それでその僕を殺したのがめぐみさん」私の苛立ちなど気にもかけず、正巳は冷静に判断を下す。
「あなた、オウスの皇子はトヨツヒメに殺して貰ったって言ったわ」
「殺して貰った?殺されたじゃなしに、殺して貰ったって言ったんですね」
「そうよ。私があの呪術であなたを殺したの。だから、あれを見た時に絶対知ってるって思ったのよ」
「そうですか・・・。死にたいほど辛かったんだ・・・」正巳が遠い眼をして言う。
「そうみたいね。生きる事に対して、もの凄く失望していたもの。愛されない哀しみを一人で背負いきれなかったのね」私には見たばかりの未熟な愛の物語を説明する気力がなかったので、簡単にそう答えた。
「そうですね。ヤマトタケルの伝説ならそうなっていますね。伝説がどれだけ事実を伝えてるかどうかは判りませんけど」
「確か、伝説ではヤマトヒメがヤマトタケルに草薙の剣を渡したのよねぇ。その剣の力で何度か窮地を救われて、最後はその剣を持たずに伊吹山に入って、山の毒気に当たって死んだんじゃなかったっけ?それで、大きな白鳥に変身してヤマトへ飛び帰った。『ヤマトは国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる ヤマトしうるわし』とかって歌があったわよね」
「そうですね。確かそんな話だったと思いますよ。で、梶さんはなんて言ってられたんですか?」
「アイツの言い方だと・・・。息子であるあなたを、私が可愛がりすぎたから嫉妬したんだって・・・」
「それって、その時の父親が梶さんだったって言う事ですよね」
「そう言う事になるわね」私は大きくため息をつく。
「梶さんって、本当にずっと僕を育ててくれてるんだ」正巳は脳天気にも嬉しそうにそう言った。
「あなたねぇ。アイツの偏った愛のためにずっと被害を被っているのよ。あの時のあなたは、死ぬ事でしか愛を表現出来なかった。そんな馬鹿な事を春樹は本気で求めてたのよ。しかもそんな男が最高権力者だった。それに私もあなたも翻弄され続けて・・・」
「めぐみさん。多分、そうして梶さんは修行を積んだんですよ」そう言って優しげに笑って見せた。
 私はそれに首を振ってみせる。正巳が続けた。
「トヨツヒメの施した呪術のお陰で、僕は祟り神にならないですんだんだ。少しづつ思い出して来ましたよ。そうだ、冷たい風の音が聞こえて、僕は口から血を吐きながら父の暖かさを求めていた。これで父の愛を得られるって思ったら、なんだか満たされたような気がしたんだ・・・」正巳は静かに目を閉じて語り始めた。私は、彼を取り巻くエネルギーがオウスのものと良く似た波動に変わったのを感じた。

「あの時僕が欲しかったのは父の愛だけだった。僕は何時も幼子のように父の愛を求めていたんだ。妻も居た。そう、子供達も居た。でも、最後はどうでも良かったんだ。何時も僕は父の愛だけを求めていた。確か妻が全てを教えてくれたんだ。妻の一族はトヨツヒメの一族と対抗する氏族で、どこから漏れたのか判らないけど僕の出生の秘密も知っていた。妻の一族にとってもそれを公にすることは、王自体を失脚させてしまうから、それは絶対に守らないといけない秘密だった。その上、僕が死ぬことも失脚に繋がる・・・。つまり僕が王位につくことだけが、自分達の繁栄に繋がるからだ。でも、妻はそんな事よりも、僕自身のことを心配していた。僕が沈み込んでいるのを見かねて、妻は色んな事を教えてくれたんだ。遠征についてきてくれたこともある。確か、最後にトヨツヒメの居る伊勢に行った時も、すぐ傍まで一緒だった。僕は、トヨツヒメに呪術を依頼するために、妻を少し離れた場所で待たせて、一人でトヨツヒメの元へ行ったんだ。あの時には全然判らなかったけど、本当の母であったトヨツヒメにも、妻達にも僕は愛されてたんですね。なのに、父の愛だけを求めていた僕は、真実を知ることで、だんだん女はみんな自分の敵みたいな気がして来たんだ。多分、母の自殺がトラウマになってたんでしょうね。兄が死んだ後、母は僕の目の前で、兄と同じように喉を突いて死んだんだ。母もまた、僕がわざと兄を殺したと思っていたのかも知れない・・・。それまで僕は母の事も大好きだった。美しかったし、何時も優しかったから。なのに、その母が本当の母ではなく、叔母が、それも神に仕える最高の巫女が自分の母であったと言うことを知って、それまで愛していた妻さえも、そう、女そのものを信じられなくなったんだと思います。あの時代、結婚って言うものは氏族の権力争いのための手段でしかなかったし。そんなのが重なって、唯一父だけ信じて居たんだ。僕にとっては立派な王だった。何時も威厳があって、ただそこに居るだけで迫力を感じた。憧れの人だった。僕は、その立派な父親に少しでも近付こうとしてたんだ。父の望むように戦い、勝利し、立派な自分を認めて貰いたかった。別に皇位が欲しかった訳じゃない。ただ、純粋に父に誉めて貰いたかっただけだったんだ。なのに僕は、父が自分の死を望んでいるのも知ってしまった。妻の側近にいた呪術師がそれを僕に告げたんですよ。そして、トヨツヒメの呪術で守られ続けていたこともその呪術師に聞いたんだ。そうか、それでめぐみさんは今の力を怖れてるんじゃないですか?」
「そうね。それで今回はこの幻を呼び込んだのかも知れないわね。あの時トヨツヒメが呪力を持っていなかったら、全然違う結果だったかも知れないわね。でも、あの時の私には、あの方法しかなかった・・・」
「そうですね」正巳はそう言って肯いてみせると、またゆっくりとした口調で続けた。
「それで結局、完璧な死によってしか、父の愛を得られないと悟った僕は、喜んであの剣を置いて、たった一人で仮宮を出たんだ。伝説だと伊吹山か・・・。でも、確かに山じゃないですね。だだっ広い場所。冷たい風が吹き抜けて・・・。そうですね、めぐみさんの見た草原ですよ。緑の草が一面に生えているのに、何故あんなに冷たい風が吹いていたんだろう?あの風は心の中に吹いていたものだったんだろうか・・・。僕は妻の元に剣を置いて、黙って宮を出た。そして暫く一人で風に向かって歩いて行った。哀しみと、死に対する不安と、やっと父の意に添えるという安堵感・・・。随分歩いたのかな、気がついたら周りに何もない場所だった。僕は一人でそこに座り込んだんだ。そうしたら、剣の力で封じてあったトヨツヒメの強い呪術が効力を発揮し始めた。突然僕は血を吐いた。熱くてぬるっとした感触の血が、のどの奥から迸った。苦しかった、息が出来なくて、胸を掻きむしるようにして倒れ込んだんだ。その瞬間、やっと死ねると思った。父が喜んでくれるって、そんな事を思っていた。でも僕は最後まで、その呪いがトヨツヒメにまで及んでいるのを知らなかった。結局、トヨツヒメが僕を殺し、僕がトヨツヒメを殺したって事ですね」正巳はそう言い終わって閉じた目から一筋の涙をこぼした。
「みんなお互い様って言う感じねぇ。大昔の事だし諦めましょう。でも面白いわねぇ」私はその涙を指で拭ってやって、そう言った。
「何がですか?」正巳が眼を開けて言った。
「だって、あなたは祟り神にならなかったのに、父親だった春樹の方は、あなたの事を怖れ続けてたのよ。きっとトヨツヒメの強い呪力を受け継いでいるって思って怖れたのね。確か、天皇家は長い間ヤマトタケルを特別に祀り続けてきたはずよ」そう言って微笑んでみせる。
「そうですね。ちょっとは反省したんだ」正巳はそう言って優しげに笑った。
「まぁ、自業自得ではあるけど・・・。たまにはアイツも反省するんだ」私もそう言って笑った。

 春樹の見えない大きな手が、私の頭を掴んだような気がした。




「こんな意味があったみたいです」正巳が古田氏に説明をした。
 
 正巳が戻った次の日に、約束してあった古田氏と会った。

「ヤマトタケルの物語とは随分違うみたいですね」古田氏が言った。
「みんなそれぞれが必要な幻を作り出してるわけですから・・・」私が答える。
「幻ね・・・」
「ええ、今回のは僕とめぐみさんにとって必要な幻だったんじゃないかな」正巳がそう言って私に笑いかけた。
「それが何故私の所に来たんでしょうね」古田氏が納得できないような表情で言った。
「多分、そう言うのって色んな所に存在してるんじゃないかしら?ただ、気づかずに通り過ぎてしまうか、そうでないかの違いだけで・・・」私が言う。
「お陰で、僕はめぐみさんに愛された事があったって判って、かなりラッキーでしたよ」正巳が軽い調子で言った。
「正巳。みっともない事言わないでよ。私はあなたの母親だったのよ。あなたがちゃんと女性を愛さないからあんな事になったんじゃない。ちょっとは反省しなさい」
「それを僕に言っても駄目ですよ。それは梶さんに言うべきです」正巳が口を尖らせて言った。
「梶さんって?」古田氏が尋ねる。
 私も正巳も説明が面倒なので、春樹の事を彼には言ってなかったのだ。
 それで物語の説明も随分はしょったものになっていた。正巳は時代劇の悪代官のような存在としてオウスの父親を語ったのだ。私はそれを聞きながら、『こいつ、しっかりあの時の仕返しをしてる』と心の中で笑った。
 私は正巳と顔を見合わせながら、どう説明しようかと考える。そして、正巳が古田氏に向かって言った。
「僕とめぐみさんの共通の愛人です」そう言ってから私の方を見て笑って見せた。
 私もそれに対して肯いてみせる。
 古田氏は冗談なのかどうなのかを計りかねているような顔で、取り敢えず「そうですか」と答えた。
「でも、何故古田さんはあの通信を私達に伝えようと思ったんですか?」私が尋ねる。
「それが、自分でも良く判らないんです。ああ言うのは結構在るんですよ。でも、大抵自分で処理してしまうか、無視してしまうんです。一々関わっていたら、仕事になりませんからね。でも、あの文字は春日の山を撮った写真に紛れ込んでいたものだから、あそこでの神降ろしと関係有るのかと思ったんです」
「どんな感じなんですか?それを見つけた時って」私が尋ねる。
「そうですね。一瞬だけ違うものが見えるんですよ。その画像をモニターに映し出した時、画像の前を風がよぎるって言う感じですかね。それを無視してしまえば、それはその画像のままなんですが、その風が気になる時には特殊なフィルターにかけるんです。すると、何かがある時にはそれが浮かび上がる。そうだ、今日持っているのにもちょっと気になるものが在るんですが、見てみますか?昨日見つけた奴です」そう言ってノート型のパソコンを鞄から出してテーブルの上に広げる。
 私と正巳は興味深くそれを覗き込む。
 古田氏は電源を入れ、いくつかの操作をして一枚の写真を呼び出した。それは画面一杯に咲き誇る夾竹桃の花だった。しかし、その花の色が本物の夾竹桃と違って真っ赤な色をしている。それもたった今、口から吐き出したばかりの血のような生々しい赤だった。それが赤と緑の斑模様を作って・・・。


 古田氏が言う。「これをフィルターにかけると・・・」


 私はその言葉を遮って言う。「白い服を着た男が倒れているんでしょう・・・」




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