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はじめに

「草生人」とは

「草生人」は埼玉県草加市に密着したフリーペーパー、いわゆるタウン誌です。
2012年6月に創刊以来、ほぼ隔月刊のペースで発刊。インタビューを基本とし、お店の紹介だけではなく、生活に密着したテーマに沿った記事や、市内のイベント、出来事などを掲載しています。
合い言葉は「草加再発見」。
部数は現在2500部。ご協力いただいている店舗で配布させていただいています。

「草生人メルマガ」とは

「草生人メルマガ」は「草生人」編集部が制作する「草生人メイキング」メールマガジン。 
メルマガだけのコラム、編集部日記、取材時のこぼれ話(本誌に載せきれなかったこと)を掲載しています。オリジナルのメルマガは月に3回発行しているテキストベースのメールマガジンですが、3回分をひとつにまとめて読めるようにしました。
スマートホンの場合はePubでお読みください。

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もくじ

編集部コラム
おもに編集長による日々思っていること
  1. 「「気が散る」ものが多すぎる
  2. 私的ジブリVSディズニー
  3. 「ふるさと」って何だろう
編集部日記
イベントレポート速報版+α
  1. 2500部シール貼り!
  2. 電子出版エキスポへ行ってきた
  3. 「朝顔市」は暑かった
  4. お祭りと露店と賑わい
  5. 「草加市立市民活動センター」という場所
  6. 「よさこいサンバフェスティバル」雑感
起業日記
編集長兼社長による1人会社の「起業」にまつわるいろいろ
  • その1:「会社」を作ること
  • その2:「株式会社」の設立準備もろもろ
草加小話
じつに彰による草加レポート
  1. 神輿の作法

「気が散る」ものが多すぎる

 中学生の娘の期末試験が近いある日、書いているものを見ると「予定表」みたいなものだった。学習計画表。科目別に、いつ、何を勉強するか計画して、それがちゃんとできたかも記入するようになっている。まあ埋まってなかったので結果は推して知るべしだけれど、このことについて、先日先生に会う機会があったので聞いてみた。

「私たちが子どもの頃はこんなの無かったんですよね」

 すると

「今の子は気が散るものがたくさんあるから、こうやって計画を立てさせないとダメなのよ」。

 

 そうか、《気が散る》ものが多いのか。

 楽しみが多いということは、そういうことなのね。

 

 私が子どもの頃はなかった「娯楽」を思い出してみた。

 

 テレビゲーム、インターネット。Youtube、ニコニコ動画。

 携帯電話やスマホとコミュニケーションツール(掲示板やSNSやLINE)

 ビデオ、DVD、Blu-ray(レンタルビデオ)、Hulu、スマホで見られる動画サイト。

 当時もあったけれど、数が圧倒的に少なかったマンガとテレビ番組。

 

 ニコニコ動画やYoutubeでいろいろな動画見ているだけで、1,2時間なんかあっという間にたってしまう。

 「気が散る」というか、見たい、読みたい、体験したいことが、これでもかと世の中に溢れている。

 で、欲望に任せれば社会生活に支障をきたすので、そのお誘いに「耐え」ることを常に強いられる。日常的に「ストレス」が生まれているんだなあ、以前に比べて。

 世の中がピリピリしてきている原因のひとつは、あきらかにコレだよね。

 

 私たちが子どもの頃は、もっと世界は狭くて、シンプルだった。

 夏休みはエアコンも無いから暑くて、とりあえず1日中ずっと高校野球を見ていた記憶しかない。 

 テレビも7時からは父親がニュース見る時間で、もちろん録画できないから、黙って裏番組をあきらめていた。そういえば「チャンネル争い」は完全に死語か。

 

 グローバルなこの世の中を生き抜くためには、いろいろな欲望をスルーする術、膨大な情報から自分に必要なことを選択する術、膨大なコンテンツから自分が見たい・体験したいことを選択する術。こんな技術が必要だろう。

 しかし、今の大人は、これらを教えることができないでいる。

 

 「気が散るから計画表を作らせる」というやり方は、ちゃんと機能しているんだろうか。


私的ジブリVSディズニー

 今回はしばらく熱くて頭がうだってしまい、ネタがなかなかまとまらなかった。

 ネタのメモは溜まるのだが、それに対して自分なりにどう考えているのか、そこまでを書かないと「コラム」とは言えない。

 しかし、うだうだ文章を綴っていても「結論」みたいなところにたどりつかず、そもそも「結論」を出すべき問題ではないだろうそれは、とか、結論どころかこんなことみんな気がついているよね、的なところに至ってしまうこともしょっちゅうだ。


 で、今回は夏なので「私的ジブリVSディズニー」の話でお茶を濁すことにした。

 すみません。


 さて、私はアニメファンだ(マニアまでは行かないと思う)。


 小学生時代、「東映まんが祭り(※1)」と「東宝チャンピオンまつり(※2)」は定番だった。東映の長編アニメーションはけっこう気に入っていて、特に「太陽の王子ホルスの大冒険」(※3)は、当時小学校での夏休みイベントで再上映すると聞いて、わざわざ2回目を見に行ったくらい。

 他にも「東映まんが祭り」で見た「長靴を履いた猫」「わんわん忠臣蔵」や、「東宝チャンピオンまつり」で見た「パンダコパンダ」(※4)など、大人になってLDやビデオを購入し、子どもといっしょに何回も見た。

 

 で、ディズニーアニメの方。なぜか子どもの私にとって、ディズニーアニメはいまひとつだった。「東映まんが祭り」の頃に確か「おしゃれキャット」に連れて行ってもらった記憶はあるが、なぜかそれくらい。

 子どもが生まれてから、ディズニーのビデオもけっこう購入はしたが、どうものめりこめないのだ。


 なぜだろう。

 まあこれについてはすでに結論は出ていて、「ぴっちりとした勧善懲悪がしっくりこない、なんとなくイヤ」。

 ただ、これは多くの日本人がそう思ってるらしい(ジブリ ディズニー 比較 で検索するとたくさん出てくる(^_^;))。


 ディズニーを代表とするアメリカのアニメは、対象をしっかり「子ども」と設定して、暴力を排除したり、悪は悪とわかりやすく表現したりしている。けれど日本のアニメは、そういう意識があまり感じられないし、逆に人生訓とかのメッセージが込められたりしている。


 たぶん文化的・歴史的に、日本ではアメリカほど子どもと大人の境界線がきっちりひかれていないので、その曖昧な部分に、いろんなことが入り込んでるんだろうと思う。

 まあもともと「子ども」という概念自体が作られたものと言われているし個人的にも「子どもらしく」とか、そういう感覚は嫌いだし。


 そういえば、「神さま」も「絶対的な神が居てそいつがいろいろなものをコントロールしている」のではなく、「八百万(やおよろず)の神」という、そこらへんじゅうにあるものが全部「神さま」で、みんなでなんかやってる感じだもんなあ、日本は。

 そんなところが、もろもろをはっきりさせない国民性を作っていったのかなっと思うけど、まあそれはさておき。


 で、なぜ子ども時代の私は「太陽の王子ホルスの大冒険」にものすごく惹かれたんだろうか、などとあとから考えたんだけれどたぶんそれは、「善悪が同居しているヒロイン」の存在だと思った(初めは悪だが、自分の中の善にめざめて変化する)。

 そういえば子ども向けでも、日本のアニメは「根っからの悪人(サイコパス的な)」があまり描かれていないように思う。

 ジブリアニメの方に惹かれているのは、大人向けとか子ども向けとかの内容以前に、そこにあるかもしれない。


 ちなみに、善悪をはっきり区別することに嫌悪感を感じてしまうのは、私自身のトラウマかもしれないとも思う。

 子どものころ、父方の祖母は初孫ということで私をものすごくかわいがってくれた。しかし、母と仲が悪かったのだ。母にとって、祖母は鬼のような人だった。父は母に頭があがらず、もめるとどちらにもつくことができず逃げていた。私には優しいが母にはきびしい祖母。小さい子どもから見たら、これは善悪の同居に見えてしまうのではないだろうか。


 ううむ心理学の分析のようになってしまったが、この自分の家族のことについては、今の「家族を大切にしよう」的な授業があることも含めて、いろいろ思うこともあるのでいつかまとめてみたい。


 というわけで、オチは無いけれど、私はジブリのアニメが大好きです。


※1 東映まんが祭り

http://ja.wikipedia.org/wiki/東映まんがまつり


※2 東宝チャンピオンまつり

http://ja.wikipedia.org/wiki/東宝チャンピオンまつり

ゴジラメインのシリーズ。シリーズ名を「東宝怪獣祭り」だとずっと思っていた。


※3「太陽の王子ホルスの大冒険」

http://www.toei-anim.co.jp/lineup/movie/movie_horus/

http://ja.wikipedia.org/wiki/太陽の王子_ホルスの大冒険 

宮崎駿の原点的な話になると必ず登場する作品。

当時としてはものすごくお金をかけた力の入った作品だったが、私みたいに2回見たい

なんて子どもは少数派で、子ども向けじゃないってことで評判はあまりよくなかった。

後から評価が上がり「傑作」となった作品。


※4 パンダコパンダ

http://www.ghibli-museum.jp/panda/

40周年記念サイト

http://www.pandakopanda.jp/

もう40周年なのか………。現役コンテンツなのが凄い。

宮崎・高畑コンビの作品をリアルタイムで見ることができていた自分は幸福かも。




「ふるさと」って何だろう

 私には「ふるさと」と呼べるものが、無い。


 前のコラムでも書いたけれど、乳児、幼児、幼稚園児、小学生、中学生でそれぞれ1回ずつ引っ越していて、固定した「生まれ故郷」というものが無い。

 まあ、この引っ越しの回数は、よく言われる転勤族に比べたら少ない方だとは思うが、私の場合、中学生の時の引っ越し時に、父親の実家ごと引っ越してしまったため、「じじばばがいる故郷」という存在も無くなった。ちなみに、父の父は私が生まれる前に亡くなっている。

 また、母方の実家もすでに無い。小学生時代は毎年夏休みに行っていたが、引っ越し後は行かなくなり、母の兄弟は祖父母の死後だれもそこに残らなかった。


 で、何がここで書きたかったかというと、一番身近な人である旦那に「ふるさと」があり「幼なじみ」がいる、そのことがとってもうらやましいよ、ということだ。

 たまに行く同窓会について楽しそうに話す。小さい頃から住んでいた町の変遷をなつかしそうに話す。そして、生まれ育った場所に帰ることができる。

 なぜこんなに「うらやましい」って思ってしまうのかな、と考えた。

 小説とかでも、「ふるさと」や「実家」の存在は、心のより所というか、ほっとするところ的に描かれることが多い。それが無いと感じるということは、何を意味しているんだろう。


 いろいろ思い出しているうちに、ふと「過去の自分と『対』になっている『何か』」が無いってことかな、と気がついた。過去の自分の存在を確認できる何か。

 人が生きるときに関わった、見聞きしたさまざまなこと、環境………育った家、子供の頃よく行った公園、学校帰りに必ず見た景色、地元でお世話になったお店、小学校・中学校同じ学校で過ごした友人。

 例えば「育った家」が残っていれば、そこに結びつく小さな頃の自分の記憶が甦ってくるから、確かに小さな自分が居たことが確認できる。

 「小学生の頃いつも見ていた山」が相変わらずそこにあれば、小学生の自分が確かにそこに居たと確認できる。

 幼なじみと会って中学生の頃の思い出を語り合えれば、中学生の自分が確かに居たことが確認できる。

 そんな感じ。

「確認できる」なんていうと大げさだけれど、「ほっとする」のはそういう意味かなって思った。


 いや、もちろん今の私が「ふるさと」が無くて自分の過去が確認できず自己喪失に悩んでいる、なんてことはない、とは思うのだけれど、ときどき無性に切なくなるのは、心の奥でそんなことを感じているのかもしれないかもかも、と思ったり………。


 ちなみに、今は自分の子どもが羨ましい。

 じじばばのいる「田舎」が近くに存在し、「ふるさと」にあたる生まれ育った場所もあり(それが草加になる)、幼なじみもたくさんいる(はず)。


 草加がこれから素敵な「ふるさと」になってくれること、将来子どもたちが草加を出たとしても草加が「心のよりどころ」になってくれたら嬉しいな、と思ったのだった。


~~以下私的な付け足し。


 「実家」が無いってことについて。これは今の世の中の流れで言えばけっこうめずらしいと思うのだけれど、長女の出産の時には「旦那の実家」にお世話になった。

 「実母の居る実家」が転々としていたことに加え、母が大病を患い、しばらく療養が必要だったこともあって、私が結婚、出産したときには「実家に帰って出産」という選択肢が無かったのだ。

 嫁入りしていれば「実家に帰らない」という選択肢があるが、わざわざお世話になりに行くっていうのはね。

 

 その後、子どもが生まれてからしみじみと思ったのは、「子どもにとっての《田舎》があって良かった」ということ。

 父親が育った土地に「実家」があって、盆と正月には子どもと孫が集まってわいわい食事する。

 まわりはそれなりに畑と田んぼが残るのどかな風景。


 休耕田(原っぱ)で、実家で飼っている犬をいとこといっしょに散歩に連れて行って、犬といっしょに走り回っている子どもたちを見たとき、不覚にもうるうるした。

 こんなイメージ通りのことがあっていいのか、というような。あこがれの「田舎」の情景がそこにあったから。


 まあ子どもたちにとっての、だけれど。



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