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まえがき

 この物語は、火星に進出し、その大地で子や孫を育んだ人々の物語です。しかし、厳しい環境の中で生きてゆくために、地球人類が長い歴史の中で纏った民族・政治・宗教・思想などの違いをかなぐり捨てて、1つの人類として共存の道を歩まざるをえませんでした。
 そう、彼らはややこしい虚飾をかなぐり捨てて、人類が本来持っている輝きや闇を体現している人々なのです。彼らは私たちに人類の本当の姿を見せてくれるのではないでしょうか。
 
 宇宙船開発を軸に未来の世界を描くことで、難解な単語も出てきますが、登場人物たちが専門的なことをしてるんだなという雰囲気程度を味わって適当に読み飛ばしていただいても、物語を追うのに差し支えありません。登場するのは、英雄ではなく私たちと同じ人間です。遙か未来を生きる人の中に、私たちの友人と同じタイプの人々を見つけることもできるでしょう。長い時を経ても、愛や憎しみ、喜びや悲しみの人間の本質は変わりないはずですから。
 
では、
本編をお楽しみください。

火星市民の風景

「ウォルヒ、ウォルヒ」
 夢にうなされていた、ウォルヒ・パクを気遣ったのかもしれない。コロンは優しい口調で、椅子の背もたれに身を任せていたウォルヒの目を覚まさせた。ゆっくりと目を開けた彼女の心に、何やら不安な夢の残滓がわだかまっているのだが、その正体は記憶の底に沈んでいて、姿を現さない。
  部屋の中央に映しだされた高速艇の立体映像が、早朝まで仕事のアイデアを練っていて、この椅子の上で、休日の朝を過ごしてしまった事を思い起こさせた。時間は既に朝の10時を過ぎていた。
 彼女は背もたれに身を横たえたまま、何気なく右手の人差し指を回した。その動きに合わせて高速艇の姿がくるくる回った。開発コードFW201-3fシリーズ、通称「スピカ」と呼ばれる汎用小型宇宙艇である。機動性に優れ、保安局や救助機動隊の有人パトロール艇という用途で、この21年間に既に3428隻の製造実績がある。その内343隻、火星の近傍で運用されるスピカの大半を、彼女が勤めるネヤガワ工業でライセンス生産しているのである。
 立体映像に映しだされる船体の姿は、この時代の一般的な宇宙船の姿だった。背骨を連想させるチタン合金の頑丈な骨組みに、操縦、生命維持、推進エンジン、推進剤タンク、電子機器など様々な目的を持ったモジュールが据え付けられている。その外観は、皮膚を剥ぎ取った肉食獣の体といったところで、滑らかさや美しさにはほど遠い。
 しかし、不要な美しさを一切排除した実用一点張りの構造は、安定感や信頼感を生み出して、操縦士を始め整備士たちからも、絶大な信頼を寄せられているのである。そして、試作機の初航行から、実に34年を経てさえ、現役の船体として製造され続けているのは、その時代に応じて、より高性能、より多機能のモジュールに換装し続けたことによる。換装を容易にしたのは、この構造に起因している。チタン合金の背骨から古いモジュールを外して、高性能のモジュールに取り替えるだけで、新たな新型機に生まれ変わるのである。
 これは、新型機開発に要する多額の設計コストの低減や、開発期間の短縮、新型機に機種を改変したときの、搭乗員や整備士の訓練期間の短縮、部品の共有化による維持コストの低減や稼働率の向上など、製造メーカーが見ても、使用者側から見ても、多くのメリットがあり、FW201という船体は、そのベースになった初期型のFW201─1aを始め、170を越える機種があると言われた。
 この構造はFW201以降の船体にも引き継がれて、今や太陽系内の小型船の大半は、骨格や内蔵を剥き出しにした外観と言っても良かった。男の子に、あこがれる宇宙船を描かせれば、間違いなく、まず頑丈なフレームを描いた。その特徴は彼女の目の前に浮かんだ小型機の姿に要約されているのである。
 彼女が勤めるネヤガワ工業では、ノーラン&ベイズ社、通称N&B社からFW201のライセンス生産権を得て、「スピカ」という名の火星仕様の船体として製造販売しているのである。しかし、出力増大によるエンジンの大型化、安全性強化に伴う操縦モジュールの重量増大など、様々な要因によって、この船体は限界を迎えていた。彼女たちは船体の老朽化と性能の限界を知りつつ、この船体にしがみついて、生計を支えなければならない事情を持っていた。
 彼女は開いていた指先を閉じた。その動作が、映像を縮小するための指示であったらしい。スピカの立体映像が、部屋の中央で30cmばかりの大きさに萎んだ。彼女はスピカを弄ぶように映像を眺め、やがて、指先を拳の中に握り込んで映像を消した。
 部屋の中は、しんと凍り付くように静まり返って、やや薄暗い。ウォルヒは部屋の端に一人取り残された。先ほど彼女に声をかけたコロンの姿もない。室内の構造を見れば明らかに居間であるはずの部屋の中は、彼女の性格を物語っていて、整理整頓が行き届いているばかりでなく、一切の無駄がない。普通の女性なら、縫いぐるみや花でも飾ってありそうな棚には、スピカの模型が置いてある。装飾目的ではないらしい、その構造を確認するための実用的な用途に使うに違いない。壁には写真のパネルが4枚掲げられているのだが、写っているものは組立ライン上のスピカとその実体図である。
 人間くさい生活感を探すのが難しい部屋の中で、テーブルの上に唯一、光を放っている写真がある。それを眺めれば赤ちゃんを抱き上げた5歳くらいの少女の傍らに、父母らしい男女が寄り添っている。少女を見つめる女の面立ちは、ウォルヒによく似ているが、その表情はずっと軟らかく、ウォルヒ本人ではない。彼女の母親だった。そして、微笑みつつも、生真面目に正面を見つめる男は彼女の父親である。少女の背後から肩を抱いた腕のがっしりした線に、父親の責任感が現れている。少女は、おそらく、5歳を迎える頃のウォルヒ・パクであり、その腕に抱かれているのは彼女の弟だろう。彼女は面立ちを母親から、性格を父親から受け継いだと聞いたことがある。
 彼女はこの家族について、彼女の想像を交えて作り上げた、虚構半分の記憶しか持たない。何故か、唯一、実感を持った記憶として残っているのは、初めて会った弟について、感想を求められたときの記憶だった。嬉しいとか可愛いという感覚ではなく、生命に対する不可思議な疑問だった。
「ぷにぷにしている」
 そんな妙な表現で自分の弟を表現した時、両親が顔を見合わせて笑った。彼女は新しい命が自分の腕の中にいる、その事が不思議でならないと言うことを伝えたかったのである。彼女は言葉を補って弟に頬ずりして言った。
「温かくて柔らかい」
 事実、この赤ちゃんの重みや感触は、彼女の気分を高揚させて、叫び出したくなるほど嬉しかったのである。
 彼女はこの記憶を、この写真の時の記憶だろうと思うのである。ただ、この記憶は短く断片的で、舞台が切り替わるように、別の記憶に繋がっている。はぐれてしまった両親が見つからない、という不安とともに、弟が彼女の腕の中で冷たく変わってゆくという記憶だった。面立ちや生命感ではなく、冷たく変わって行くという残酷な感触で、彼女は弟の存在を記憶していた。恐怖や不安の叫びを、頭を抱え込んだり、両手で顔を覆ったりして抑え込むほどの努力をして、彼女はこの後の記憶を心の底に封じている。彼女がうなされていたのは、底から湧き上がって漏れだした感覚の残滓が原因かもしれない。
 しかし、目が覚めてみると、地球時間で23年も前の記憶である。彼女は幼い頃の記憶をしっかり封じて、心を振るわす程の感慨はない。ただ、うたた寝によって、休日の朝の数時間を無駄に過ごしたという、小さな後悔があった。その後悔と、引継を済まさなければならない過去の仕事と、新たな仕事の不安で心が乱されて落ち着かない。
「北公園に行こう」
 彼女は思ったのみならず口に出して呟いていた。
(何のため?)
 自分でも良く分からないのである。彼女は思ったばかりではなく、それを独り言のように口にしている。彼女の癖の1つだった。他人が聞けば、指示か独り言か良く分からない、しかし、コロンは主人の性格を良く理解して言った。
「分かりました。ムーヴァーを表通りに準備します」
 彼女の外出準備に手間はかからない。鏡と向き合って髪の乱れを直して、淡いクリーム色のカーディガンを羽織って、全身の衣服の乱れを整えた。
 
 自宅玄関のドアをくぐると、幅6メートルほどの通路がこの区画を貫いており、通路に沿って画一化されたドアが並んでいる。ここは、この都市の居住区なのである。ただ、個々のドアには、手作りの表札、居住者の似顔絵、明滅する小さなランプなど、居住者たちが画一化に埋もれてしまうことに、ささやかな抵抗している様子が見受けられる。その抵抗の仕方に、家庭の数だけ個性があって面白い。
 今も1つの変化が現れている。ウォルヒが通りかかった1軒のドアの前で、若い男が自分と妻の名前を表記した四角く硬いアルミのプレートを、カンガルーだか、犬だか分からない、茶色の動物を型どったプレートに取り替えている。表札のプレートには幼い名前が増えていた。世間話をするほどの親しさではないが、ウォルヒは男の妻が妊娠していたことを知っていた。ウォルヒは軽い会釈で喜びを表した。感情を封じられてしまった彼女の笑顔は固い。しかし、男は、はにかみながらも、嬉しそうに頷いた。ユキコ、その新たな名と父親のアジア系の顔立ちから判断すれば、この夫婦に生まれたのは女の子に違いない。
 しばらく歩を進めると、白い高分子の通路一杯に、今日は、赤と青の色調で動物が描かれている。ウォルヒは首が長いのをキリンで、その横の人間の子供は、絵の描き手だと見当を付けたが、後は判別できない。通路の落書きをいやがる大人もいるのだが、この白い床は、子供にとって大きなキャンパスにも成り得るのである。ペンを持った少女は、ウォルヒが彼女の絵の理解者だと言うことを知っており、屈託のない笑顔を浮かべた。ウォルヒは自分の頬に指先を当てて、少女が誤って付けたらしい頬の赤い汚れを注意した。少女は左の腕で頬をこすって創作活動に戻った。数時間後には清掃ロボットによって消去されてしまう芸術だが、ウォルヒはその芸術を踏みつけないように注意して通り過ぎた。彼女は硬い表情の内側で、こんな変化を面白がる感性を持っていた。
 ウォルヒはいくつかの変化を味わいつつ、通路を100メートルばかり歩いた。エレベーターで植物プラントに上がる。地表は植物プラントであると同時に、都市の交通網の中心でもある。コロンは四輪ムーヴァーと呼ばれる電気自動車に姿を変えて道路に待機していた。
 ウォルヒを認識したコロンはハザードランプを点滅させて、自分がこのムーヴァーに乗り移っていることを知らせた。コロン、ウォルヒが所有する「思考ロボット」として、この時代の標準的な機能と能力を有している。
  ロボットは大地を均すにはブルドーザーの外観をしているのが都合が良く、重量物の運搬はトレーラーの形がよい。子守をさせるには人間の女性の形をしているのがいい。ロボットはその機能や用途に合わせて、その外観を多岐に分岐させた。ロボットの用途の数だけ、外形があったといえる。
 同時に、ロボットのインターフェース部分が、思考ロボットとして本体の機械的な構造から分かれて、人に従属したのである。思考ロボットは思考機能そのものであると言って良い。その存在は、システムに属する人工知能ではない。様々に形を変えて積極的に考え、人をサポートする存在なのである。ウォルヒが自宅を出るまで、コロンは自宅の環境システムのメモリー上にいて、空調を管理したり、飲み物を提供しメイドや執事としての役割を果たしていた。ウォルヒはムーヴァーの構造や操縦方法を熟知しているとはいえないが、今はコロンがムーヴァーの運転システムのメモリーに乗り移って、ウォルヒを目的地まで運ぶのである。極端な例だが、コロンを発電所のシステムに転送すれば、彼女が一人で核融合炉の制御をすることすら可能なのである。もちろん重要なシステムには幾重にもセキュリティーの鍵がかかっていて、実行は出来ないに違いないのだが。この時代、ロボットはこうして人に接して、人の生活と切り離せない存在になっていた。
 今、そのコロンはムーヴァーそのものとして、植物プラントの間を縫うように走って、ウォルヒを北公園に運んでいる。ムーヴァーの窓は開放している。ウォルヒは窓から入ってくる土の香りの乗った風を楽しんでいた。コロンはここの香りが、主人の好みだと言うことを記憶しているのである。
  木々の緑が目に心地よいばかりではなく、しっとりと湿った土の香りが漂ってくる。当然の事ながら、土の上には落ち葉がある。その落ち葉を分解して土に帰す微生物や、その土を掘り返すミミズは地球のものだ。彼女たちは、ここで経験する僅かな自然を、地球市民と共有しているのかもしれない。彼女たちは目に見えないものまで地球に依存しつつ、火星の大地の上で生活しているのである。
 コロンは28分でムーヴァーを目的地に着けた。路線バスの『北公園停留所』にも近く、若者で賑やかな中央公園に比べて、年輩者の姿が多い。ウォルヒはここでコロンと分かれて徒歩になる。
 賑やかさという点を差し引いても、都市の中央部と比べると、雰囲気が違う。ウォルヒは都市造りの専門家ではないが、その彼女にさえ、都市の構造が、中心部と違っていることが分かるのである。小さな区画で区切られている。この都市の旧市街なのである。天井のダクトや空調機や配管、ドアや装飾品によって変化は付いているが、よく見れば、どの区画のどの壁面も、長さ25メートル、高さ8メートルの画一化されたパネルを120度の角度で繋げて構成してあるのが分かる。今は、都市全体が巨大なドームで被われてしまったが、この都市の旧区画は、巨大な六角柱を成して繋がっていたのである。人々は、まるでミツバチが巣を拡張するように、居住区、動力区画、研究棟、植物プラントなどの役割を持った六角柱を継ぎ足しながら、火星の大地に都市の礎を築いた歴史をもっていた。
 ウォルヒは社内で密かにステンレス・プリンセスという異名で呼ばれている。彼女の表情が金属のように変化が無く、しかも、その特質が錆びることなく揺るぎ無いという意味らしい。歩を進める歩幅や速度も、性格を現して乱れがない。リズミカルであると言うより、秒針が時を刻む無機質な感じである。その秒針が突然に止まった。
 壁面から空調機の操作盤でも剥ぎ取った痕だろうか? 壁の一画が照明に彩られて浮き出して、真新しく、四角く、白い。彼女はその新たに出現した壁面に、文字を見つけたのである。当時の作業者が配管やケーブルの接続先をメモしたらしい記号に混じって、二人の人名が見受けられるのである。(2124.12.24)という日付らしい数字が並べて書いてある。たぶん、今の火星では使われなくなった西暦の日付だろう。とすると、人名もこの頃、パネルが設置された頃の人の名に違いない。数十年も前の文字であり、もちろん、彼女はこの2人には面識がない。
 しかし、『エド・キムラ』という黒く硬く几帳面な文字と、『トム・ブランドン』という赤く自由奔放な字体に、この2人が目の前にいるように偲ばれる。火星で生きてきた証として、この都市の一部を築いたのだという誇りを込めて、慎ましやかにこっそりと、隠れるはずの壁面に自分たちの名を書き残したものらしい。珍しいことではない。旧区画の不要部分を解体するときに、こうやって歴史にも残らない人々の名が蘇ることがあり、火星市民はまるで旧知の友に再会したような感慨を抱くのである。
  彼女は感情を表さないまま、指先で撫でるようにその文字の奔放さを楽しんでいたが、やってきた家族連れに気付いて、道を譲るように身を避けた。老人が誇らしげに傍らの孫に胸を張っている。ウォルヒは、彼らとすれ違いざま、父親らしい男が語る言葉を聞いた。
「この辺りはね、」
 ウォルヒには続く言葉が予見できるようだった。母親も子供の手を引きつつ建物の説明をする。
『あの辺りはね、あなたのお爺ちゃんが造ったのよ』、肩車した幼い息子に『この区画の移動システムは、俺が造ったんだ』と語る父親。ここだけではない、火星の地で生活する市民の大半が、そんな経験を持っているのである。
 しかし、彼女にその経験はない。彼女の父親は地質学、母親は惑星環境学の専門家であったらしい。彼女は母親が自分の職務を「大地との通訳」と称したのを朧気に記憶している。言葉少ない大地と、人類の橋渡しをすると言う意図を込めたに違いない。
 人類は温室効果ガスを放出して、この星に太陽の温かさを受け止める。時を経て上昇した気温は氷を溶かして地表に川や海を作り出すはずだ。水はバクテリアや植物をはぐくんで、やがては、この地表に人が呼吸できる大気を生み出すだろう。ただし、まだ、呼吸する大気を生み出すために、少なくとも350年、慎重な学者たちは二千年以上の時を経なければならないと主張していた。人類は文明と同じ時間をかけて、この星に根付こうとしているのである。地球時間で僅か28歳に過ぎないウォルヒに父母の業績の片鱗も感じることが出来ないことは当然といえる。
「すみませんが」
 彼女に語りかける者がある。未だ若い、10代、地球時間で言うと22、23歳の女である。おしゃれをして着飾った様子から他の都市からの旅行者だと知れた。祖母らしい年齢の女性を伴い迷っている様子である。そうだろう、旧区画は規格統一された六角柱が繋がっていて、慣れない者や長らくこの町を離れていたものたちが、自分の位置や方向を見失い迷子になることが多い。新区画なら環境システムに思考ロボットを転送して音声で道案内をさせることも可能だが、旧区画にはその設備が無い。その不便さを甘受しても、この区画は歴史の遺物のように、当時のありのまま保管されているのである。
「あっ、おばあちゃん」
 女はウォルヒを見て祖母を振り返った。その言葉から孫と祖母という関係が、ウォルヒの中で確証になった。孫に指摘されなくとも、老人はウォルヒの襟元のバッジに気付いており、老人は自分の襟についたバッジを握りしめた。
「あなたも?」
 ウォルヒは老人の問いかけを逸らして尋ねた。
「北公園、、、大地の碑へ行かれるのですか?」
「ええ」
「行く先が同じです。ご案内しましょうか?」
「ええ、、」
 老人とウォルヒの会話はそれだけで足りた。周りの光景を興味深く見回しつつ、歩幅がほとんど変わらない。ただ、彼女は老人に合わせて歩調を落とした。彼女は、ほぼ、想定していた時刻に目的地に到着した。都市の北西の隅、既に旧市街を抜けている。突然に、天井が高くなったところが、北公園の一部で、展望区画になっている。ドームの天井と壁面がこの区画だけ透明で、他は高分子素材の建材で被われて白い。更に、展望区画に近づくと、白い高分子の床が途切れて、火星の大地が赤く、素のままで露出して、シンカンサイ市の端に訪問者の足跡を刻んでいるのである。ウォルヒは踏み出す足の一歩毎に、しゃりしゃりと赤い砂の感触を味わっていた。訪問者の目の前には現在の火星を象徴する光景が広がっている。
 シンカンサイ市。タルシス台地の西部、アルシス山の裾野にあって、まるで、岩や古木の根に生える苔のような生命感を持って、火星の大地にしがみついているのである。東西の差し渡しが4.9km、南北が5.1km。上空から見ればやや歪な楕円形をしている。その楕円形が最大高さ57mのドームで被われて、34万人もの人々が、火星の大気から切り離されて生活しているのである。広大な地表から見れば、いかにも小さい。こういう小さな輝きが、火星の地表にへばりつく苔のように点在して、ふと気付いてみると、火星は既に12億人という人口を抱えているのである。
 展望室の透明な壁面を通して、北西方に淡い炭酸ガスの霧を背景にパボニス山が見える。そのゆったりした稜線から想像しがたいが、標高2万メートルに達する火山である。地球のエベレストに比べると、実に2.5倍の高さを有する。この山ばかりではなく、この山の稜線に隠れて、太陽系最大とも称されるオリンピア山、南西のアルシア山が分布していて、このタルシス台地は、火星でも屈指の火山地帯ともいえる。
 再び、北方に目を転じると、アスクレウス山が400キロメートルに裾野を広げているはずだが、地平線が淡い霧に被われてぼやけて見えない。景色はこの地平線によって、空と大地に切り離されていて、上空は大地に染まったように淡く赤い。地球市民が空の色を海の色にたとえるように、彼女たちはこの空の色を真珠の色にたとえている。人類が大気に放出した膨大な温室効果ガスが効果を現し始めていて、極冠のドライアイスが昇華して、大気中の二酸化炭素が僅かながら増加している。その為に、ウォルヒの父母の時代に比べれば、この真珠の色はやや赤みを増しているはずだ。この大気は太陽の熱を受け止めて大地を暖め、凍り付いた水を地表に戻すのである。この色の僅かな変化が、ウォルヒの父母たちテラフォーミング技術者の成果といえる。今、火星の水の一部は、薄い大気に溶け込み始めている。しかし、川や海という姿で液体の水を見ることが出来るのは、未だ数百年も先の話である。
 そんな火星の微妙な変化が、地球に住む人々には悠長に見えたのかもしれない。火星市民の心の変化を段階を追って区切るとすれば、これが地球と火星に住む人々の最初の価値観の分岐だったに違いない。地平線の手前に、縁が尖った真新しいクレーターを見受けることができるのである。『火星の息吹計画』の傷跡である。
 現段階で、乾いて干からびた地表を、液体の水で潤すことが出来れば、植物を育て、大気の中に酸素を作り出すことが数百年早まる。というのが、『火星の息吹』で地球市民が主張した趣旨である。もちろん、最初は藻や苔のような植物だが、地表が緑で被われると言うのは哀れな火星市民に対する最大の援助物資に見えたのだろうし、そうなれば、溢れ返った地球の人口を、更に火星に移すことも期待できるのである。
 ウォルヒの父母に代表される火星市民のテラフォーミングの試みは、地球の巨大資本が推進する『火星の息吹計画』に押し潰されるように、取って代わられることになった。火星市民は計画に疑念を抱いた。記録に寄れば、計画が推進される以前に、市民から正式な抗議がされているし、実施段階においても、このシンカンサイ市で大規模なデモやストライキが起きたという記録が残っている。巨大なエネルギーを注いで大地を掘り返すと言うことや、地中の水を取り出したとしても、数十億トンと推定される水や液体の炭酸ガスを計画通り制御することに不安を抱いたのである。
(我々の地は実験場ではなく、我々は実験用のマウスではない)という不安と不満である。
 彼らの不安は的中した。タルシス大地中央の地層深く眠っていた水の一部が、そそぎ込んだ巨大エネルギーによって、地盤を揺らして人間の制御を失ったまま吹き出した。数億トンもの水の噴流が岩を伴った濁流となって無防備なシンカンサイ市を襲ったのである。当時、一万人三千人を越えた都市である。濁流は都市と人の一部を流し去って、西方のノクティス・ラビリンタスの窪みの中に消えた。いま、大地と人々に傷跡を残した水は、再び地中に消えたり、空に昇華して液体の姿を留めていない。
 この事故によってシンカンサイ市は都市の中枢機能が破壊されて行政機能が麻痺したばかりではなく、空港・通信施設にも多大な被害を被り、医薬品、エネルギーの供給も途絶えてしまった。そして、この事故は彼女たち火星市民にとって様々な意識の転換点になった。
 
 この都市の古老たちが語ることがある。
「空は荒れて航空機が飛べる状態ではなかった。このまま寒さや渇きで死んでしまうのかと、腕に抱えた子供を不憫に感じたときに、砂嵐の中から物資を満載したトレーラーのキャラバンが出現した」
『出現した』という表現に、この時の人々の予想もしなかった驚きや感謝が溢れている。
 ルナ平原のピッカリング市から救援隊が到着し始めたのである。未だ、交通網は整備されていない時期だから、火星地表の荒れた大地の表面を数十台のトレーラーが全速力で駆け抜けたのだった。ほぼ同時にピッカリング市を出発したトレーラーが、到着したときには、最初のトレーラーの到着から最後の一台を迎えるまでに、11時間を要したという。その時間の間隔に、個々のトレーラーの運転手の技量が現れた。彼らが仲間を思いどれほど全速力で突っ走ってきたかが分かるだろう。
 ピッカリング市の人々ばかりではない、火星全土から補給物資、医師や看護士等の人員が到着し始めた。生き残ったシンカンサイ市の人々は彼らによって救われたのである。
 居住区から壁一つ隔てた外は、人の生存という観点から見れば、真空と変わりがなく、もちろん呼吸することなどかなわない、当時、赤道に近いピッカリング市やシンカンサイ市の辺りでさえ、平均外気温はマイナス60度、気圧は地球の百分の一に過ぎず、人の感覚では真空と代わりがない。耐寒与圧服を装着していなければ、人は5分と生存していられない環境である。この火星では、わずかなトラブルで人は死ぬ。
 限られた物資をシンカンサイ市の人々に分け与えて、ピッカリング市の人々自身が危険に晒されることもあり得るはずだ。
(何故だろう)と、古老は首を傾げるのである。
 彼らを救援に赴かせた動機についてである。人道的という、人が後天的に身につけた言葉で表現できるものではない。この火星の場合、救援するというのは聞こえはよいが、それがそのまま家族の命を危険に晒すことにもなるのである。英雄的な行為かもしれないが、とうてい、人道的という美しい言葉では語れない。
 と、すれば?
 人の性別や民族には関わりがない、特定の信仰とも無縁なようだ。人類はその誕生と共に民族、政治、宗教という衣服を身に纏い、憎しみや悲しみという感情をアクセサリーにしている。そのアクセサリーや衣服を剥ぎ取った時に、その奥底に善意の火種のような物があるらしい。都市の古老は、その正体をはっきり見極めることも出来ないまま、ただ首を傾げるのである。
 この北公園の碑はその時の記念碑で「記憶の碑」と呼ばれた。事故で亡くなった人々の名と合わせて、残された者の命を救ってくれた人々への感謝の言葉が刻まれているのである。
碑の基礎部分の後ろには出入り可能な空洞があり、事故で亡くなって人々の名前を刻んだプレートが収められている。
 遺体も見つからず、ウォルヒが心の中で亡くなったのだと納得せざるを得ない父母の名と、当時まだ幼かったウォルヒの腕の中で冷たくなった弟の名を刻んだプレートもあった。そして、その上方、碑の裏側には命がけの救出に関わった人々の名が感謝の念と共に刻まれていた。
 老人は黙ったまま、指先でその数々を愛でた。夫か、息子か娘、失った大事な人々への思いがこもっている。ウォルヒは老人にかける言葉が無い。
 ウォルヒは若い女に右手のほうを指し示して言った。
「お帰りのときは、あちらの区画をまっすぐに2つ抜けると、ムーヴァーの駐輪場があります」
 
 透明な高分子の壁面から見える火星の風景と、碑の裏に刻まれた名前が重なった。彼女はゆっくりと碑の周囲を回って正面に相対した。
『忘れないでください、私たちのことを』
 亡くなった人々が残された人々に投げかける言葉、
 生き残った人々が感謝を忘れていないということ
 そして、地球にも向いている。
 遠く離れてしまった自分たちのこと
 
 そして、救われたと思う反面、彼らは夜空を見上げて思うのだ。
(地球は、遠すぎる)
 ふと気付いてみると、彼女たち火星市民は、地球とずいぶんと距離を置きすぎてしまっていたのである。
 今や、細々と、と表現しても良い。火星の気温を上昇させるためには6千億トンという膨大な温室効果ガスが必要だと見積もられている。この地の人々は、温室効果ガスを放出し、極地のドライアイスを溶かして数百年先の海を夢見ながら生活しているのである。
 大地に根を張ると言えば聞こえはよいが、この時期の都市は人類にとって風に吹き飛ばされるのをようやく防ぐほどの僅かな足がかりにすぎない。
 
 この広場の入り口にはパトロールの警官が居る。この区画への立ち入りを制限しているのである。警官が姿勢を正した。ウォルヒの胸のペンダントに気づいたのだろう。事故の遺族だと言うことを証明する品だった。警官の姿勢は、幾つかの事実を示唆している。
 1つは、これらの人々が先達の命を代償に築いて来たものの上で、生活をしていることを知っていることだ。そして、人々は火星の大地を安息の大地だとは感じていないらしい。
 今一つ、この種の地球との接点となる史跡が、テロ事件の標的となりうる点だった。連邦宇宙軍施設爆破事件があり、軍関係者に死傷者を出していた。テロの警戒がこの一帯にも広げられているのである。人類という共通項で括られながら地球人の枠からはみ出しているのである。火星市民は我々が何者かと言う共通の不安を抱いた人々だった。
 ウォルヒは無表情で言った。
「お父さん。お母さん」
 ここに来る度に何かもやもやしたものを感じて口ごもってしまうのである。両親が果たせずにいたもの。テラフォーミングの夢かもしれない。ウォルヒが成人するのを見届けることが出来ないという思いかもしれない。或いはウォルヒの弟を幼いまま死なせてしまう後悔。同時にウォルヒは両親から何かを背負わされたような気もするのだが、それが何かわから無い。彼女は試みに言葉にした。
 
「私たちは、私たちの船を造る事になりました」
 
 父母とは異なった道を歩んだウォルヒ・パクが、彼女の決意を口にした最初の言葉だった。
 

大熊と小熊

場面は変わって、物語は一ヶ月ほどさかのぼる。
 ネヤガワ工業社長ウルマノフは、営業部のイマムラを伴って顧客訪問の最中である。
(人物にも、物事にも、長所と短所がある)
 そんな単純な持論をウルマノフは堅持している。この場合、彼の行為の短所というのは、顧客訪問のための移動時間のロスである。顧客と面談するために相手を訪問する必要はない。普通の家庭にもある通話装置を用いれば、スクリーンに相手の映像が投影されるし、気の利いた高級品なら、立体映像を映し出すことも可能である。離れていても、微妙な表情の変化や動作を感じ取りつつ会話ができるのである。にもかかわらず、この男は部下を伴って移動している。
 一方、長所というのは彼が「温感」と称するニュアンスを伝えることが出来ることである。交渉事では、何よりも相手の首根っこを掴んで放さず、彼の主張をじっくり話して聞かせるのがいいと考えているのである。その強引さは、『ロシア者』と呼ばれることがある。
 この時期の火星で、地球の様々な地域を示す用語を用いて、例えば、『ヤンキー血筋』とか、『インド者』と言われるような表現があった。地球外に生活圏を有する人々の間で、地球の束縛から逃れようとするほど、一方では故郷に関わる表現を生じた。そして、火星市民は夜空を見上げたときに、無意識のうちに地球という星ではなくて、自分の異名に該当する地域を探していたりするのである。
 ミハイル・ウルマノフの場合、凍てついた大地の上でも、失われることがない暖かな包容力を、長所として語る場合と、厚顔とも思える粘り強い交渉力を発揮するときに、『あれはロシア者だから』と理由付けされるのである。彼自身と父親は火星生まれだし、母親は月面都市で育ったから、地球とは直接には関係がない。ただ、地球儀の上で、祖父が生まれたというシベリアという地域を知っているだけだ。彼は幼い頃に、地球に住む祖父が語るのを聞いた覚えがある。
「我が家は、ロシア貴族の誇りを受け継いでいる」と
 成人してから、その祖父の言葉を父親に尋ねたのだが、全くのでたらめではないらしい。ただし、誰それの叔母だの、兄弟だの、姪だのという姻戚関係を示す言葉が幾つも並んだ後、ようやく一人のロシア貴族に行き着く関係だから、ほとんど血縁はないといってもいい。 しかし、ウルマノフはそういう祖父を、微笑ましく記憶している。もしも、機会に恵まれていれば、祖父の膝の上でそんな昔話をねだっただろうと思うのである。祖父のごつごつした無骨で質朴な指先を通じて、シベリアという土地を開拓して、生き抜いてきた祖父や曾祖父の人生が、火星で彼を育てた父親の人生と重なって、俺の血筋はこういう血筋かと考えるのである。血筋というものは敬意を払うべきものだが、身分制度ではなくて、子孫のために積み上げた労苦の大きさにに対して払うべきものだろうと、父母の人生が彼に教えていたのである。
「これは、シベリアのようだ」
 ウルマノフが社内を表現したことがある。地球市民なら、荒涼としたというイメージを描いて、使うはずがない表現だろう。しかし、ウルマノフは懐かしさを込めて、事務所の光景を称した。
 彼は社長就任に当たって、まるで地を均すように、社長室の壁を取り払うということをした。そのために、1つのフロアーがぶち抜きで、中央に社長の席が位置するという、事務所として珍しい構造になった。部下たちにはシベリアという意味は良く分からないが、地平線が見えるほど、見晴らしが良くなったという意味だろうと推測した。
 事務員にとって、社長の目が行き届くと言うことは、仕事をさぼる気はないなせよ、随分堅苦しくなる。ただ、ウルマノフにすれば、社員を見張るつもりはなく、仕事の全体の流れを、事務所の雰囲気の中で感じ取って身につけておくというノルマを、自分自身に課していたらしい。
 事務所ばかりではない。技術部や製造部からは、秘書課に対して『あのヒグマに、電波発信機付きの首輪を付けておいてくれ』という冗談が囁かれた。野生動物の行動をモニターしておいて、接近したときに警報を鳴らせというのである。ウルマノフが何の予告もなく、技術部や製造部に出現して作業者を驚かせることが、何度も生じたからである。社長が出向く必要はなかった。必要なら社長席の端末で作業の進行を確認できるはずだし、役員会議で各部署の責任者を呼ぶことも出来るはずだった。しかし、ウルマノフは技術者だった創業者より、現場に顔や口を出すことが多いとも言われた。これも、技術的な雰囲気を肌で感じようとするウルマノフが、自分に課したノルマだったに違いない。
 こういう中で、秘書が社長の居所を見失ったことが再三起きた。生真面目な秘書課長が、ウルマノフに行く先を端末に記録して置いてくれと懇願したことがある。ウルマノフはそれを黙って聞いていたが、次に席を離れたときには、ちゃんと秘書課長との約束は果たしていた。端末の表示板に、一言、”うんこ”と表示されていたのである。トイレから戻った彼は、秘書課長に黙ったまま笑って見せた。この種の馬鹿げた冗談と人なつっこい笑顔で、ウルマノフは社員を怒鳴りつけつつも、妙な人気があった。しかし、秘書課長を始め社員は、このヒグマを飼い慣らすことには成功していないのである。
 一方、陰では、ウルマノフが先代のニシダ社長から経営権を奪ったという噂があり、ウルマノフに同行しているイマムラも聞き知っていた。と言っても、彼が入社する以前の出来事だから、詳しい事情は良く分からない。ただ、先代社長のニシダについて、未だに、その人柄を懐かしむ社員が多いのも事実である。とりわけ、社内の技術者の中には、ニシダに対して信仰に近い感情があった。ウルマノフもそういった噂を知っているはずだが、経営権を引き継いだことについて、一切の論評をしたことがないのである。ウルマノフはその沈黙の中に、頑固さと、人懐っこさと、強引さを「ロシア者」という言葉に融和させているのである。

 そのウルマノフは車内で空を睨むように、上向いて黙りこくって機嫌が悪い。この時間のロスの対価は得られていないのである。販売拡大を目的として、彼自身が顧客を回っている。しかし、今回のイマムラとの顧客訪問でも色好い感触はない。
 ウルマノフとイマムラが乗るムーヴァーは、14号線を東方に走行してシンカンサイ市に戻った。二人は車の中で黙って過ごした。イマムラを黙らせているもの、ウルマノフに感じ続けている存在感は、彼の体から滲み出す「ロシア者」の香りであるらしい。他の人にない存在感を感じるのである。
 ウルマノフを黙らせているものは、いましがたも腹の底から湧き上がってきたげっぷである。彼はややうんざりした表情で運転席のイマムラを眺めた。この男と顧客を訪問すると、どの顧客でも、気さくな笑顔で飲み物の接待を受ける。二人は朝から既に顧客4社を訪問して、ウルマノフは断りきれなかったお代わりを含めて、7杯の飲み物を腹に入れている。(こういう男か)と、ウルマノフは思った。
 大抵の営業マンなら、顧客との相性と言うものを感じる。馴れ馴れしいほど仲がよいかと思うと、別の顧客では冷ややかな対応を受ける、という具合である。イマムラとの顧客訪問ではそれがない。イマムラは馴れ合いになることを避けて、礼儀正しく顧客との間に一線を画しているが、信頼を潤滑油にした仕事の話は、世間話の延長線のように滑らかだった。この信頼と、顧客の女性事務員から呼ばれる『テディベアーさん』というニックネームがイマムラという男を現している。売り上げ成績と言う点では、飛び抜けて有能とは言えないが、顧客の要望を製品に反映させるよう、工場との粘り強い調整を図って信頼を得ているらしい。
 ムーヴァーが走る14号線は、シンカンサイ市の南部に入ったこの辺りで高度を感じさせる。巨大な支柱に支えられて宙に浮かぶ感じである。居住区や商業区のある北部では、地下と地上合わせて最大8階層に積み重なっているのだが、この都市の本来の目的は南部に集中しており、いくつかの階層を上下に貫通して、中小の工場があるという構造である。
「あれか?」
 ウルマノフは何の脈絡もなく、突然、言った。この男の言葉に主語が欠落していることがままある。しかし、イマムラは良く察して答えた。
「ええ。あれですね」
(やはり、資本力が違う)
 二人ともため息を付きたくなる思いだ。二人の視線は、八分通り完成した巨大な工場施設に向けられている。建設が進んで、以前は見えなかったこの位置からも、その存在が見えるようになった。N&B社の小型機サービスセンターである。現在の火星と地球との微妙な関係を慮ったのか、N&B社は『工場』と呼ぶことを避けている。しかし、実質上、小型機を製造することを目的とした工場で、事実、このサービスセンターはネヤガワ工業より数倍大きく、設備も充実しているのである。立地条件も良い。この14号線に隣接して、彼らネヤガワ工業が、整備した船体をいくつかに分解して運搬しなければならないのに比べると桁違いに効率がよい。短すぎる会話の後、二人は再び黙ったまま時を過ごした。彼らが置かれている立場を考えれば、交わすべき言葉がない。
 皮肉なことに、ネヤガワ工業とN&B社には強い取引関係がある。地方中小企業に過ぎないネヤガワ工業と、N&B社という巨大資本の関係を、ウルマノフがロシア者の手腕で作り上げたのである。彼の就任当初、経営危機にあったネヤガワ工業は、N&B社の小型機FW201のライセンス生産権を得て、火星仕様の「スピカ」という名の小型機を製造販売することで、今に至るも存続しているのである。同時に、N&B社は火星に自社製品の販売や製品のメンテナンスの足がかりを得た。以降、両社が共存する時期が続いたのである。
 ここ数年来、ネヤガワ工業はN&B社に、FW201に続く新型機アンドロメダのライセンス製造を求めていた。市場では、N&B社がネヤガワ工業を経ず直接に、新型機アンドロメダの売り込みを図っている。ネヤガワ工業で製造する老朽化したスピカの販路が、日毎に閉ざされてゆくのである。しかし、一方では、FW201のライセンス製造を請け負っていた以上、続く新型機の製造も、自分たちが請け負うのが当然だという、ある意味で、虫の良すぎる期待を持ってもいた。
(何故か、ライセンス権に関わる交渉がうまく進展しない)
 そういう感触を持っていた彼らに対して、N&B社の回答がこの施設なのである。今後、小惑星資源の開発が飛躍的に活発化する。その時期に、大型艦以上に小回りが利き、汎用性のある小型機の需要が増大する。火星はその需要を満たす小型機の製造整備の中継基地になる。そう読んでいるのだろう。N&B社は、この火星に直接に資本を投入したわけだった。今やN&B社にとって、ネヤガワ工業の存在価値は薄い。現実的なウルマノフが、新型機の自社開発という極めて夢のような目標を、胸のうちに秘めているのは、こういう理由なのである。

 ウルマノフの脳裏に蘇る光景がある。この世でただ一隻だけ作られた高速艇の傍らにたたずむ、先代のニシダ社長の姿である。ウルマノフの脳裏に焼き付けられたイメージだが、不思議なことに、ニシダに漂う雰囲気は朧気で、彼の表情を読み取ることが出来ない。
 宇宙船の自主開発と言う点で、彼らは未経験ではない。経理部長として先代のニシダ社長に仕えていた時代に、その夢を試みたことがある。しかし、基礎技術の格差を思い知らされただけだった。現在、製造しているスピカを見ても、船体を構成する部品の1割は地球からの直接輸入品であり、7割はそのライセンス生産品である。とりわけ、核融合エンジンやエンジンに推進剤を供給する高圧ポンプなど、高い工作精度と信頼性を要求される部品は、火星では作れないと言うのが定説で、仮に国産品を付けたとしても顧客から信頼性を認めてもらえなかった。当時の状況は現在より遥かに悪い。また、船の運航を司るコンピューターは作れても、運航させるためのシステムは、小さなメモリーチップに収められた物を輸入するしかない。メモリーチップには地球企業が長年に渡って積み重ねてきた試行錯誤がノウハウとして詰め込まれていて、その宇宙船の運用における試行錯誤には、人命に関わった錯誤さえ含まれている。経験の浅い彼ら火星市民が、学問的知識だけで作れるものではない。MSA─Xと称された自主開発船は、出来上がったものの買い手が付くはずもなく、スクラップとして叩き売られるまで、工場の敷地の隅で晒し者になっていた。
 ニシダはしつこい男であったらしく、MSA─Xの失敗の後、目先を変えて夢に挑んだ。現在、ネヤガワ工業を支える副社長エバンズを筆頭に、技術部長ストヤン、製造部長カルロスなど古株の技術者は、地球のメーカーや研究機関への留学経験を持つ者が多い。ニシダが技術力の向上を目指して派遣したのである。しかし、戻って来た留学者の目が高慢に満ちて濁っていた。留学者たちは目にした地球の技術力に圧倒されて、その信奉者になった。地球に劣等感を持つ反面、そこで学んだと言うことが彼らの誇りの支えになった。当然、火星の技術力を貶め辱めることが、彼らの行動規範になっているように見られた。留学はネヤガワ工業にとっても火星市民にとっても、何も生み出すものがなかった。ニシダは気弱な面を人に見せようとはしない男だったが、ウルマノフには留学制度は失敗だったかもしれないと語ったことがある。
 ウルマノフは車内で過去の想い出を反芻したのだが、宇宙船の自主開発について明るい要素は何一つ無い。しかし、今やネヤガワ工業と社員の生活を守るためには自主開発に賭けるしかないようにも思われるのである。
「リーダーの欄は空けておけ」
 ウルマノフは技術部長のストヤンにそう命じていた。開発チームのメンバーの人選は、部課長連中に任せればいい。ただ、そのチームのリーダーはウルマノフの価値観を反映させて、彼自身が判断したかったのである。最も有望だったのが、技術部設計課に所属するキム課長である。設計課という部署で、顧客の要望を受け入れて、スピカに改修を施すための設計を行っており、経験も豊富に持っている上、顧客から工場に至るまでの仕事の流れを的確に把握しているはずだ。キム自身が有能であるばかりではなく、上司や部下の信頼も厚くリーダーとして適任だった。
 技術部長ストヤンを通じて、本人の意思を確認したところ、彼は机を叩いて、こう言い放ったらしい。
「そんな見込みのないものに手を付けて、私に会社を去れと言うのですか?」
 彼の言葉には二重の意味がある。新型機開発には全く見込みがないという判断と、この有能な自分を会社が手放せるはずがないという自信である。好ましいとは思わないが一理ある。順風満帆に人生を歩んできた男にとって、宇宙船の自主開発のリーダーを引き受けると言うことは、危険のみ多いと判断したのだろう。やや前向きといえるのは、彼が業務に関わる組織改編を、新たな部署の名と共に提案したことだ。
「技術開発課という程度の名で良いんじゃないでしょうか?」
 国産機開発をやるというなら、現在の設計課に持ち込むのではなく、専属の部署を作れと言うのである。ウルマノフは国産機開発を技術部設計課の内部でやろうとした。会社組織を複雑にはしたくなかったからである。しかし、技術部長ストヤンは、この時にはキムに賛同した。そして、『技術開発課』という任務から考えれば奇妙な名称は提案通り採用された。しかし、その名称には新しい技術に挑むというニュアンスをなんとかくみ取ることは出来ても、宇宙船の自主開発という本来の匂いを感じ取ることは出来ない。ストヤンやキムに自主開発という夢を追わせるのは難しそうだった。今のウルマノフには、技術部長ストヤンや設計課課長キムに代わる技術的な指導者のめどが立っていた、今のウルマノフが欲していたのは調整役としてのリーダーである。

 ムーヴァーで走っていると、N&B社の施設の巨大さが分かる。ウルマノフの真横に、N&B社のロゴマークを大きく描いた新工場が大きくそびえている。彼が想い出にふけっている間に、この施設を通り過ぎて遠ざかるどころか、工場の外周に沿って走行しているのである。唐突に、ウルマノフはイマムラの横顔を眺めて言った。
「よし。ひとつ、あそこへ表敬訪問といこうか」
 建設途上のN&B社の工場に乗り込んでみようと言うのである。イマムラを観察する感もある。イマムラは彼の思考ロボットから運転機能を取り戻して、彼自身が工場に向けて四輪ムーヴァーのハンドルを切った。
「そうですね」
 言葉に力みが無く、しっとり体温を帯びている。言葉の前に行動に移っていて躊躇がない。現在のN&B社との関係は競合メーカーになっていると言っても良い。そのメーカーにアポイントもなく乗り付けるのである。規模が桁違いで、彼らが相手にしてもらえるはずがなく、その強引さに多少の戸惑いがあってもいいはずだ。今後の交渉のために、呈の良い強行偵察をしておこうというウルマノフと違って、イマムラの迷いのなさには、心の奥底に人の善意を信じ切っている楽天的な面がある。その笑顔が透明で曇りがない。
(いい笑顔をする)とウルマノフは思った。
 そして、テディベアーさんという、小太りのイマムラのニックネームを想い出しながら考えた。
(この男も、苦労すれば。もう少し痩せられるだろう)
 新型機開発の指揮をこの男に任せようと思ったのである。新型機開発のための最後の人が終わったのである。

 出張から戻って2日目。イマムラが営業部長のシンプソンから呼び出しを受けたが、その理由には全く心当たりが無かった。普通なら、所属する営業一課の課長を経由して連絡があるべきだった。呼び出した部長自身にも心当たりがなに違いない。ディスプレイに映ったシンプソンの表情にも困惑が隠せなかった。
「いいニュースがある」
 部屋に顔を出したイマムラにシンプソンはそう言い、握手の手を差し出してその理由を付け加えた。
「おめでとう。君は、明日付で課長に昇進だ」
 しかし、シンプソンの笑顔の中に困惑が消えていない。普段は開けっ放しにしているドアを閉じるように、身振りで指示して続けた。
「そして、私にとって残念なことだが、優秀な部下を失うことになった」
 やや、二人の会話に間が開いた。両者とも困惑しているのに違いなかった。
「明日付で、君は今回発足する技術開発課に異動になる」
「技術開発課? 聞いたことがありません」
 中途半端な部署名で、その名称からは、何をするのか分からない得体の知れない雰囲気が漂っている。
「技術部の中で、新しい船の開発に当るそうだ」
「私が、ですか?」
 その声音は不思議さに満ちている。イマムラの入社時の部署は販売促進課で、スピカのパンフレットの作成にあたった覚えがある。その当時の直属の上司が、目の前のシンプソンだった。イマムラはこの男から、営業の仕事を基本から学んだのだった。その後、数回の人事異動は経験したが、営業部内に限られたもので、自分は根っからの営業マンなのだと自負していた。直接に顧客と触れ合う仕事は、成果が目に見えてやりがいが合った。苦労も多いが、この仕事が嫌いではなかった。
 シンプソンの立場から見ても、イマムラと顧客を回ると、嫌な顔をする顧客が居なかった。受付の女性事務員さえ、彼にテディさんというニックネームで呼ぶ者がいた。イマムラが小柄で小太りだったから、縫いぐるみのクマを連想したものらしいが、顧客と気さくに世間話が出来るというのは悪いことではなかった。営業マンとして派手さや強引さは無かったが、顧客の意見を良く聞いて、可能な限り意見を反映させる努力を怠らなかった。シンプソンがさっきの会話で、イマムラを優秀な部下と評したのはお世辞ではない。イマムラ本人から見ても上司から見ても、特別な欠点が無く嫌な仕事も無難にこなす男だった。
「ここだけの話しだが、何かやらかしたのか?」
 シンプソンは懲罰人事ではないかと考えているらしい。イマムラと直属の上司の相性は悪くは無いはずだったし、イマムラからの転属願いも出ていない。それならば、先の顧客への同行の時に、イマムラが社長の逆鱗に触れるようなことをしでかしたに違いない。しかし、イマムラにはその心当たりは無かった。二人の営業マンは、宇宙船の自主開発という目的から、この異動を懲罰人事に結び付けている節があった。
 自主開発については、彼らの立場で振り返れば、ネヤガワ工業の営業部は過去にひどい苦渋を嘗めていた。先代のニシダ社長はこの企業の設立当初から自主開発の夢を持っていた。その開発船をMSA─Xと称したが、その実体はエンジンモジュールに国産品使うという控えめな試みだった。社長の叱咤激励にもかかわらず、社の命運を左右するはずの船体は、営業部員の努力にもかかわらず全く売れなかった。工場には売れる見込みの無い船体が放置された。輸入コストを加えても、大量生産する地球製のエンジンの方が安かった。彼らの船体の信頼性は格段に劣っていた。高価で信頼性の無い船体を購入する顧客が居るはずは無かった。結局、スクラップとして叩き売るしかなかったのである。
 自分たちに作って売れるものは、チタン製の骨組みだけだと自虐的に囁かれた。自社開発は商売にならないという定説が、このときの思い出話とともに、ネヤガワ工業の新入社員に固く引き継がれていた。現在、ネヤガワ工業の営業マンにとって売上を支えているものは、
「我が社のスピカは、たとえ火星で作っていても、元は信頼性のある地球製の船体です」と言うセールストークだった。
 こういう経緯があって、先代のニシダ社長の意思とは別に、営業部員は自社開発について嫌悪感はあっても好感を持つ者はいなかった。その業務への異動と聞いた彼らが、懲罰人事を理由に挙げたのも無理は無かった。
 もう一つ、二人は口には出さないが、思い当たる理由がある。スピカのライセンス権を有する地球に拠点を持つN&B社が大規模なサービスセンターを火星に築いていた。先の顧客訪問でウルマノフと共に眺めた施設である。協力関係が競合関係に変わりつつあった。概して火星メーカーの方が不利な条件に立たされていることに違いは無かった。
 N&B社は彼らの新型機を売り込んで、協力工場のはずのネヤガワ工業の市場を食い荒らしつつあった。当然のことながら、彼らが新型機のライセンス権を、今や競合するネヤガワ工業に委譲するはずは無かった。防戦するネヤガワ工業にはスピカという旧式機と、顧客の要望に合わせて旧式機の改良型を作りますというノウハウだけだった。改良するにしても旧式の船体をベースにするのだから新型機に対抗できるほどの性能の向上は期待できなかった。顧客の新たな受注は明らかにN&B社に流れていた。
 売上が低迷する中で、社員にとってもっと身近な問題として、大規模な解雇が囁かれていた。イマムラやシンプソンから見て、会社が業績が上がるはずの無い部署を創設して、解雇する予定の社員を異動させ、業績不振を理由に社員ごと部署を消滅させるという手口は、いかにもありそうに思えたのである。なにしろ強引なウルマノフ社長のことである。やりかねない。しかも、根っからの営業マンとして、技術に疎いはずのイマムラをその部署のリーダーに据えているのである。
「まずは偵察がてら、新しい上司に挨拶に行くことだな。会議で顔を合わせる限り、頑固だが悪い男じゃなさそうだ」
 シンプソンは肩を叩いて励ましたつもりだったが、うつむいて部屋を出てゆくイマムラには、慰めもならなかったようにも思えた。彼はもう解雇されてしまったように、うなだれて妻の名を呟いた。
(アマリアにどう説明したらいい?)
 結局、その日の彼は妻に自分の得体の知れない昇進を告げることが出来ず、あくる日も、その次の朝も、自宅から彼を送り出す妻のアマリアにとって、夫はネヤガワ工業の営業部員のままだった。
 

ウォルヒ・パク

 出勤途上のウォルヒの表情は、柔和で落ち着きがあるものの、常に事務的な香りを漂わせていて近寄りがたい。彼女のウォルヒという名は、昔の地球の表意文字で表記すれば、「月のお姫様」というロマンチックな意味を持っていることが分かる。
 その名の持つ童話じみたほのぼのした雰囲気と、生身の彼女に漂う冷徹な雰囲気のギャップをもじって、同僚は彼女に『ステンレス・プリンセス』という異名を与えていた。
 自分の異名と、そう名付けられた理由を、彼女は自覚している。幼い頃から、彼女は感情を表に出すのが苦手だった。大勢の人の中にいることは、嫌いではなかったが、もっぱら感情の受け取り手としてであって、自分の感情を語ると言うことがなかった。他人に溶け込むために、努力を必要とするのなら、彼女は幼い頃からその努力を怠ってきた。
 しかし、その硬い表情の中で密かにだが、今日の彼女は機嫌がよいのである。上司のキム課長に提出する予定の提案書が出来上がったこと。そして、もう一つは起き抜けの歯磨きの時に”自分の鼻の頭が見える”という発見をしたことである。やや、寄り目で口にくわえた歯ブラシを見ると、視界の中に自分の鼻の頭が見えるのである。彼女は地球時間で28歳という歳で、初めてその事実に気付いたのだった。世の中の趨勢には、全く寄与することのない新発見だが、彼女は子供なら母親に報告に走るような衝動で、にんまりと笑いたくなるような感情が湧き上がって来るのを感じたが、それが表情に反映されることはなかった。彼女はそういう発見を面白がる子供じみた感覚を秘めている。しかし、彼女はそんな寄り目で、鼻を眺めている自分を人に見せたいとは思わない。
 コロンが操縦する四輪ムーヴァーで会社に着いたのが、8時11分。事務的な笑顔で保安部員に挨拶をしたのが8時19分。保安部員が挨拶を返しつつ、時刻を確認した。保安部員たちが、彼女の出勤時間に合わせて、時計の誤差を確認すると言うほど、この時間の正確さに定評がある。彼女にすれば、この時間に会社の正門を通過すると、二カ所のセキュリティーをくぐる時間のロスを含めて、8時30分には技術部設計課の部屋に着けるはずだった。
  ネヤガワ工業の技術部設計課という部署が、この日までの彼女の職場だった。加速力の増大、航続時間の延長、探査機器の出力増大など、顧客がスピカに求める要求を取り入れて、船体を改設計する。そのデーターをシュミレーションセンターに転送して、設計上の問題が無いことを承認してもらった上で、設計データーを製造部に転送して、彼らの作業は終了する。宇宙船の設計とはいえ、彼らが扱うものは、量子コンピューター上の数値と、映像だけなのである。その為に、設計課のドアをくぐると、室内は機械部品一つなく、清潔感に溢れている。職場内はラベンダーの香りがうっすら漂っている。キム課長の好みである。部下の集中力を高めるのだという。手前に机が6つ並んでいて、コンピューターの端末が置かれている。奥の仕切られたブースの中に課長の席がある。
 部屋の中は既に明るく照明がついており、空調機も働いていて温かい。コロンが四輪ムーヴァーから、社内の環境システムに移って、この部屋の環境をコントロールしているのである。彼女はいつもの席に手荷物を置いて、誰にともなく言った。
「コロン。ココアをちょうだい」
 まだ出社している同僚はいない。必要な会議の時以外は、出社時間が定められているわけではないから、おかしなことではない。彼女はいつものように『机の上を拭く』という行為をした。汚れているわけではないから、その必要はない。それでも、同僚が見れば驚くほど、念入りに拭いたのである。キム課長によれば、それが彼女が仕事を始めるための儀式だった。
 数分後、ウォルヒは小さなチャイムを合図に、ドリンクサーバーへマグカップに入ったココアを取りに行った。温度、砂糖やミルクの分量が彼女の好みに合わせてあるばかりではない。早朝、自宅で飲んだココアより濃いめにしてある。彼女の体調に合わせて微妙に調整されているのである。
 彼女はマグカップに口を付けて一口飲み、味に満足するように
「よしっ」と気合いを入れて、朝の儀式を締めくくった。
 既に、端末から電子ペーパーと称される液晶フィルムに、彼女の昨夜の仕事の結果が印字されている。コロンに任せればよい作業だが、彼女はあえて自分で端末を操作した。このデーターは彼女の自宅から会社のサーバーに転送したものだ。データーをそのまま課長の端末で表示させればよいのだが、古い体質の人々の中には印刷された物をありがたがる人々がおり、彼女の上司もそんな人間だった。
 データーの内容はスピカの推進剤タンクの増設に関わるものだ。推進剤タンクの重量増加による加速性能の低下というデメリットと、搭載する推進剤が増加することによる航続時間の延長というメリットを詳細に比較したものだ。彼女の考えによれば、この改良によりFW201スピカという旧式機は、顧客にとってより好ましい船体になるはずだ。スピカの主たるユーザーである保安局高速機動隊から、航続時間の不足を指摘されていた。搭載した推進剤タンクが小さすぎるのである。彼らメーカーから見れば、やむを得ない。西暦2134年のロンドン条例で大型艦に搭載するエンジンの出力規制、2年後のルナ条例で小型機を対象にして推進剤タンクの容量について制限という2つの制限が課せられている。
 この2つの条例の目的は、民間で製造される宇宙船を、許可無く軍事目的にに転用させないと言うことであり、一般の船にはほとんど関係がない。スピカの場合は高速機動隊のパトロール艇やレスキューの司令船として使われるため、どうしても緊急時に高加速度が要求される。そこで、この種の船体について推進剤タンクの容量を制限することで、惑星軌道近傍に行動範囲を制限し、軍事目的への転用を防止しているのである。
 ウォルヒはユーザーが求める航続時間の延長という要求に対して、核融合エンジンのやや前方に増槽をつけることを思いついたのである。船体に固定した推進剤タンクの容量を増やす代わりに、切り離し可能なタンクをつけること、そのタンクの容量を1基300リッター以下に抑えることで、規制の制限を免れる事に気付いたのである。しかも、そのタンクが船体の重心に極めて近い位置に取り付けられること、船体に特別な補強を要しない事など、彼女の思いつきは最適な改造方法のように思われるのである。

「おはよう。ウォルヒ君」
 キム課長である。上司の信頼ばかりではなく部下の人望も厚い。
「課長。見ていただきたいデーターがあるのですが」
 キム課長はウォルヒの手にある電子ペーパーにちらりと視線を送った。ウォルヒの意図が分かるのである。今回が初めてではない、また、何か新しい提案を持ってきたのだろうが、うんざりだと思った。
 営業部を通じて設計課に持ち込まれる仕事が山積みになっている。顧客がこれから購入するはずの新造船の市場は、地球の大資本に占有されていて、ネヤガワ工業が食い込むことは期待できない。しかし、老朽化しつつある現用船の寿命延長を狙った小規模な改造の要請は頻繁にあり、ネヤガワ工業は先行きの不透明さの裏腹の忙しさに、どっぷり浸かっているのである。しかも、このような作業は大きな利益を生み出すはずはなく、得られる利潤は企業の労力に見合っているとは言い難い。
 彼女には危機管理部から提示されているペイロード増大について、データーをまとめておくように指示してあるはずだ。たとえ、個人的な時間を利用しているとはいえ、もっと指示した仕事に専念してくれと言いたくなるのである。
 また、キムは営業部員を御用聞きと見下してもいる。彼の見るところ営業部員は顔なじみの顧客を回って、その要求を集めて来るのみで、こちらからの提案を顧客に説明し納得させて購入に結びつける能力など持ち合わせては居ないと考えているのである。
 しかし、彼は感情を隠して人の良い笑顔をを浮かべて言った。
「後で見ておこう」
 このあたり、この男が女子社員に人気がある所以だろう。しかし、ウォルヒは食い下がった。過去のデーターは全て、課長の机にしまい込まれてしまって、今度こそ、ものにしたいと思ったのである。このしつこさに、キムもやや腹に据えかねたらしく、ウォルヒの差し出す電子ペーパーを奪い取り、データーを消去するという行動で、感情を現した。何か言いたげなウォルヒに畳みかけるように言った。
「君に向いた仕事がある」
 新たな部署が創設されると言うのである。
「昨日、部長から新しい部署に一人出すようにとの指示を受けた。君を推薦して置いた」
「異動ですか?」
 ウォルヒは宇宙船の設計という仕事から離れてしまうのかという不安で、そう尋ねた。
「新しい部署で自社開発が始まるそうだ」
 始まるそうだという伝聞ではない、キム課長自身が新たな部署の設置を提案した。現実味のない任務を、この部署に持ち込まれて、作業が混乱するのを防ぎたいのである。ウォルヒはそのための、いわば人身御供だった。ウォルヒが抜けて、仕事が忙しくなるには違いないが、職場が混乱するより遥かにましだ。
「君が今抱えている作業は、キャロウェイとクラフトが引き継ぐ」
 次々出勤してきた設計課メンバーの中では、課長がやっかいばらいをしたのだという囁きがあったが、ウォルヒについて同情的な言葉がない。彼女のこの部署での立場を象徴している。彼女は同僚の噂を気にする様子がなく、心の中で課長の言葉を反芻していた。
(宇宙船の自主開発?)
 彼女の血の中に、かつて人が空を飛んでいたという、うずうずと心を震わす記憶があった。
 

ジャン・ラベル

 「火星に着いてから6日目の朝だ。昨夜、部屋の中がやっと片づいて、隣のワイスさんとチェスを楽しんだ。今朝が初出勤だ」
 短い単語を簡潔に繋いだラベルの言葉は、彼の木訥な性格を表しているのかもしれない。ただ、年老いた妻に対して、柔らかな愛情も感じさせる。思いつくまま語るラベルの声音は、少し落ち着いた穏やかな調子を取り戻している。火星での生活に馴染んできたという証拠だろう。彼は意図してチェスの話を挿入した。地球市民に対する火星市民の感情悪化を心配していた妻に対する配慮である。この言葉は電子メールにしたためられて妻に転送されるのである。電子メールという通信形態は、キーを押すという作業が、話し言葉に置き換わっただけで、基本的に200年も前と変わりがないのである。
 こうやってメールをしたためつつ、ラベルは20年前、初めてこの火星にやってきたときの事を思い出す。地球の妻と惑星間通信による会話を試みたのである。もちろん、計算上の時間は知っていたから、会話を始める前に、テーブルに飲み物と軽食を準備した。最初に言葉を発してから、妻の返事が返ってくるまで26分以上を要した。カップのコーヒーは2杯目になっていた。ラベルはぽつりぽつり言葉を区切って話し続けたのだが、妻の返事はラベルが26分以上も前に話した話題に向けられている。日常会話で、それほど以前に自分がどんな話をしたかなんて覚えているものではない。こちらが深刻な話をしているのに、ディスプレイに映った妻は、26分以上も前のラベルの冗談にけらけら笑っていたりするのである。当時、銀婚式を迎えようとしていた仲の良い夫婦に会話が成立しなかった。頭の中で想像する感覚以上に、二人は隔てられていたのである。
(随分、遠くまで来た)
 そんな感慨を抱かざるを得なかった。そういう苦笑いと共に想い出す記憶である。
 荷が少なく几帳面な性格にも関わらず、5日目の夜にしてようやく部屋が片づいたというのは、2日前にこの小さな部屋に引っ越したからだ。ネヤガワ工業が彼のために最初に準備した部屋は、彼に対する充分な敬意を表した部屋だった。
(経理出身のくせに、随分と無駄遣いをする)
 ラベルは部屋の中の贅沢な調度品を撫でて、苦笑いしつつ思った。自分を火星に招いたウルマノフについてである。
「老人には、部屋が大きすぎるようだね」
 彼は本音をそういう言葉で表して、この質素な部屋に移ったのである。周りは全て火星市民の居住区である。これから何年かかるかは分からないが、その間、この人々の中に身を置いて共に生活をする。それがラベルのやりかただった。ラベルは今では珍しいアナログの腕時計で時間を確認した。身なりを確認しながら椅子から立ち上がり、そして小さなスーツケースを手に取って、玄関から新しい仕事に向かって踏み出した。
「お早うございます、ラベルさん」
「お早う、エリカ」
 先に、挨拶の声をかけてきたのは、隣人のエリカだった。この区画で過ごした2日間で、ラベルは3人の友人を得ている。その内の一人だった。やや大人ぶる所があって、今もラベルに対する好奇心を抑えようと振る舞っているが、まだ11歳の好奇心は押さえきれず、ラベルを眺める目から溢れている。
「お早う、ジャン」
 ラベルをファーストネームで呼んで、その生意気さを姉にたしなめられているのは、エリカの弟のレイである。こちらは姉の背後に隠れながらラベルをのぞき見て、笑顔の中に好奇心を隠そうとしない。
(顔や体はライオンみたいに厳ついけれど、優しいお爺さん)
 ごつごつと工場労働者を想像させる手をしているが、ただ、頭を撫でられたときに、その分厚い手の皮を通して、じんわり暖かさが彼の人柄と共に伝わってくる。そういうことを、ラベルがやって来た日に、レイはたどたどしい舌足らずな表現で、母親に伝えたのである。日に3回はこうやって母親に報告に行く。彼らの新しい隣人は、がっしりした体格から見て地球市民に違いなかった。レイはまるで童話の言葉を語るライオンが隣に引っ越してきたかのような興奮を覚えているのだろう。
 ひょっとすると、この子供たちの感想が、火星市民の地球市民に対する心の奥底の意識を象徴しているかもしれない。言葉が通じる相手だ、しかし、それは血の滴る生肉を、ぼりぼり骨ごと囓る肉食獣に違いない、というのである。
 自分がこの地の人々にそういう印象を与えているのかもしれないと言うことを、ラベルはここにやってきた日から、なんとなく自覚している。11歳だというエリカの身長は、既にラベルの目の高さに達している。しかし、彼女のウエストサイズはラベルの感覚からすれば、随分と細いのである。レイがラベルの体格にライオンのイメージを抱くのなら、ラベルはこの2人にカモシカの姉弟のイメージを当てはめなければならない。生まれ育った星の重力の差が、ラベルと姉弟の体格を分けたといってもいい。
(面白い進化の仕方だな)
 学校に行く姉弟を見送りつつ、ラベルは思うのである。
 体格というものについではない。体格や外観についての多様性なら、地球に住む人々の中にもある。アフリカ大陸に誕生したという人類は、住む地域によって随分と多くの人種に枝分かれした。肌や目や髪の色、体格等の形質によって分かれ、、民族や文化の違いまで加えれば、その多様性は数えきれない。この火星に住む人々は、人種や民族という点では地球の縮図のはずだが、多様性という雰囲気が何故か薄い。地球市民の中に火星の人々を評して『神を感じ、人の信念に祈る人々』という表現がある。首を傾げたくなるような不思議な疑問と共に呟く言葉である。
 人類という樹木は、その幹の先に小さな枝を広げるのではなくて、古い幹の根本の辺りから、新たな幹を伸ばし始めているのかもしれない。

『ロボットを眠らせる』
 思考ロボットを停止状態にしておくことを、地球市民も火星市民もそう呼んでいる。いま、ラベルは彼の思考ロボットを眠らせていた。周りの状況を素直に眺め、自分で考え、自分で判断するのである。
 地上に出て辺りを見回すと、『都市の風景が技術よりも、コストや効率に左右される』と言う言葉を思い出させた。目の前の景色は近代都市のものとは言い難い。この都市は火星の中でも歴史のある部類に属する。しかし、地球のどの都市よりも若い。最新技術では都市間の移動にリニアモーター列車や有翼式の高速列車があり、その列車を市内を走らせることも可能だろう。しかし、この市内の移動手段は主として2つある。1つは小型の四輪ムーヴァーで、個人の思考ロボットが運転する。もう一つは燃料電池で走行するバスであり、前者はタクシー、後者は路線バスを連想すればいい。バスは市内で定められた路線を走行して、停留所で停止するようプログラムされている。主要な交通機関が、重力に逆らって浮遊する近代的な乗り物ではなくて、車輪で道路を走行するという点で、300年前の地球と変わらないのである。重力が小さいこの惑星で車輪の回転を効率よく地面に伝えるために車輪の幅が広い。違いがあるとすればその程度か。この都市の中で、人々を目的地にばらまくためには、この種の古くさい輸送機関の方が効率がいいと言うことなのだろう。
 ラベルは通勤の交通手段に後者を用いた。大勢の人々とふれ合うことが出来るという理由である。バスの停留所はすぐに見つかった。歩道に通勤者の流れが出来ていて、20世紀の地球の都市を思わせる。停留所の端のガイドウエィに突っ立っていると、乗客はコンベアーで振り分けられて、目的地に向かうバスの発着場に送られるのである。大規模停留所で、目的地へ行くバスを探さずに済む、という点だけが便利になった所かもしれない。
 ラベルは運ばれた停留所で、やってきたバスに乗り込んだ。ラベルは多少、人々の注目を浴びた。地球市民の骨格と、左手首の腕時計にである。この惑星の人々は、地球や地球市民に対して、最先端の技術や流行という偏見とも言えるイメージを抱いているのだろう。意外かもしれないが、この火星の生活は、旧式な技術の集大成で成り立っている。新たな技術の可能性より、信頼性や安全性が優先されるためである。その火星市民は、時計を耳飾りのように、耳の後ろに貼りつけている。時計を見て時間を確認するのではなくて、時間をイメージすれば、現在の時刻が頭の中に思い浮かぶ。火星市民にとって時計というのは、そういうものである。ただ、現在ではその時計すら旧式化し、地球では電子回路が糸のように紡がれて布の形に織り込まれ、情報端末が衣服の一部になっていた。大気に充満する様々な情報を受信、肌に接する部分から情報を選択して人に伝えるのである。時間など数多くの情報の一つに過ぎない。
 ラベルという男は、秒を刻むアナログ腕時計という記録映画の中の遺物を身につけていた。ラベルはこの頑丈な腕時計が気に入っている。祖父から父に、父から彼に受け継がれた時計だが、今でも休むことなく正確に時を刻んでいる。古い時代の地球で、地球の時間を刻むために製造されたものだから、当然、この火星では1日の長さに誤差を生じる。彼はその誤差を1日に一度、火星の時間に合わせ直していた。ラベルは几帳面な反面、この種の誤差を許容して受け入れるという寛容性を持っている。
 盗み聞きをすると言うわけではないが、ラベルは旅先で、人々の中から漏れ聞こえてくる言葉を聞くのが好きだった。言葉の訛りや語感が、その土地の風土を現していて、興味深いのである。このバスの中でもラベルは心躍るほど興味深い。まるで、祖父母の言葉を聞くようだった。火星市民の言葉の音感に訛りがある、しかし、自由闊達に語法を変化させて、文法を乱した地球市民に対して、この人々は、彼の祖父のように、よほど正しい文法で言葉を話すのである。ひょっとしたら、様々な人種を寄せ集めた人々は、互いに意志を伝えるために、この種の国語教育に力を注いでいるのかもしれない。
 その話題も面白い。姑が息子の嫁が気に入らないという不満だったりする。笑ってはいけないのである。ラベルの向かいに座った老女は、その隣の女に真剣に悩みを打ち明けている。ラベルの記憶は定かではないが、古代ギリシャかエジプトの記録に、息子の嫁に不満を漏らす老女の話しがあったという。もちろん、現代の地球で、ラベルの周囲にもそういう女性がいた。女たちは時代を経るだけではなくて、何百万キロメートルという距離を隔てたこの星にまで、そういう話題を持ち込んでいる。女の中に、何か永遠に変わることのない核があるらしい。
 目をつむって、周りの音を楽しんでいたラベルが、突然に目を開けて周囲を見回した。日常会話の中に場違いな専門用語が混じっていたことと、その声が他の音を圧する自信に満ちて大きかったことである。話の雰囲気から察すると、同僚を掴まえて仕事の苦労話を聞かせているらしい。
 その運の悪い同僚のダニガンは、車内の隅から自分の名を呼ばれて、気付かない振りをしていたはずだった。車内は、やや混み合っていて、座席に座る人々ばかりではなくも吊革に掴まって立っている人々がいる。そういう人々に紛れて、そんな演技が通用するように思われたのである。しかし、ムハマドはダニガンのもとにやってきた。同僚と会話をするために人混みをかき分けて移動した。それが周りの人々に迷惑な行為だとは考えていないらしい。
(出勤時間をずらしたはずなのに、)
 ダニガンは舌打ちしたくなる思いだ。悪い男ではないが、ムハマドと人混みの中で顔を合わせるのはありがたいことではなかった。案の定、ムハマドは大声で仕事上の苦労話を始めたのである。
「チタン合金を炭素繊維で積層補強するんだ。すると素材の弾性係数、つまり、、、」
 ムハマドに与えられた研究テーマらしいが、説明には意図して専門用語を多用し、周りに聞こえる大声なのだが、内容を理解させたいわけではない。
「俺の強度計算に寄れば、」
 ダニガンはムハマドの話をそこまで聞いて、口元を抑えてあくびを噛み殺した。会社の業績は思わしくはないらしいが、彼の職場は、その低迷した業績が嘘のように忙しく、残業が続いている。ムハマドの話を聞くよりも仮眠を取っておきたい気分だ。
「おいっ。聞いているのか?」
 ムハマドは念を押した。ダニガンに対して、そして周りの人々に対してである。自分が宇宙船の設計に携わっている。その事を周りの人々に知らしめたいのである。たぶん、彼は宇宙船の設計という仕事が、他の仕事に増して高級だと信じて疑わない。仕事に誇りを持つと言うことは良いことだが、ムハマドの場合は、それがやや鼻をついた。他人を見下した感がある。
 この二人は、他の乗客の視線をちらちら浴びていた。それがムハマドの声をいっそう大きくした。人の注目を浴びている、その事が心地よいのである。運の悪いダニガンは愛想笑いを振りまいて、周りの乗客にムハマドの非礼を詫びた。しかし、乗客の視線は冷たく、二人を刺すようでもある。
 しかし、中に一人だけ笑顔が混じっている。ラベルである。ムハマドから見れば、温厚で几帳面そうな男で、骨格が太い。地球市民に違いない。
(市役所の戸籍係を無難に勤め上げて、定年退職後、火星に観光旅行に来た)
 ムハマドはラベルの姿をそう推測した。ムハマドは声のトーンを、更に引き上げた。ムハマドにとって、こういう無学な男を啓蒙してやるのも自分の義務なのである。
 その後、迷惑にもムハマドの演説は10分に渡って続いた。その演説から、意味無く挿入された専門用語を取り去って要約すると、俺は仕事に理解のない上司の元で才能を持て余しているという愚痴である。挿入された専門用語やその解釈も文献から直に引用したもので、仕事に役立てると言うより、自慢をするために専門書を読んでいるらしい。
 現実には様々な制限が伴って、専門書に記述されている理論通りに事が運ぶことがない。慣れた技術者ほど、制限や課せられた条件をふまえた上で、現実を理論に近づける修正項を、経験的に持っている。その経験が彼らの言葉や行動の端々に、滲み出して、技術屋としての存在感になるのである。ムハマドの言葉には、そういうものがなかった。幾多の文献の引用を、自分の未熟な推測で繋ぎ合わせており、本人には悪気はないのだろうが、技術的な嘘が幾つも混じっているのである。しかし、初老の戸籍係は、ムハマドのそんな言葉を、終始、機嫌良く聞いていた。
  ダニガンにとって、やっと『工業団地前』停留所で停車したときに、彼は演説中のムハマドを車両から引っぱり出すように降りた。そして、明日からは四輪ムーヴァーの通勤に切り換えよう、と固く決心したのである。ムハマドはそんな同僚の考えに気付く様子はない。ただ、目聡く、さっきの戸籍係も、この停留所で降りたのに気付いていた。戸籍係も降りたムハマドに気付いたらしい、彼の演説に対するお礼のつもりか会釈を返した。全身から滲み出すほど濃厚だが、奢りのない透き通った笑顔である。
 人を誉めることのないムハマドだが、
(さすがは、、、、)と思った。
 戸籍係を真面目に勤め上げたことはある、というのである。ダニガンは会社からの送迎用の大型ムーヴァーにムハマドを押し込んだ。この男を会社の中に閉じこめて、社会から隔離しておくのが、一般市民に迷惑をかけずに済む方法なのである。
 


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