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ロイド来社

「なに?」
 イマムラは受付から連絡を受けて怪訝な表情を浮かべた。その驚きは表情通り、疑問や違和感に満ちていて、それを部下から隠す余裕がない。部屋の中のメンバーも首を傾げ、不思議そうにイマムラをながめた。
 突然に予告もなく、運輸交通部本部の責任者が来社したというのである。肩書きから見て、あのロイドに違いない。部長クラスの役人が中小企業を直接訪問するというのは前例がない。連絡を受けたイマムラがまず考えたのは、社長に連絡をしておくかと言うことだ。しかし、別のルートでウルマノフに連絡が入ったらしい。出張中の社長から、すぐに帰社するという連絡があったという。そのウルマノフからストヤンに指示があった。
『自分が戻るまで、一時間の間、陣地を死守して守り抜け。』
と言い放ったらしい。その任務をストヤンとイマムラが背負った。

「お気になさらないで。仕事の都合でシンカンサイ市に来る機会があったので、ついでにお寄りしただけですから」
 オスマイルを伴ったロイドはさり気なく言った。
「今日はどんなご用件ですか?」
 ストヤンがロイドの迫力に圧倒されているようだ。
「時間がありませんから手短に。まず、工場を見せていただけないかしら」
 時間がないというのは事実だろう。部長というポストに大きな権限が集中している。有能な部下に恵まれているとしても、その忙しさは半端ではないはずだ。ロイドはすでに席を立ち上がっている。ストヤンは慌てて、工場に入るための作業着とヘルメットの準備を命じなければならなかった。既に主導権は彼女に握られている。
 イマムラの案内で、ロイドは工場を巡回した。あまりこういうものを見る機会は無いらしいが、取り立てて彼女の興味を引く物もないらしい。
(雰囲気は悪くない)
 ロイドはそう思った。自分と同じく技術的な素養のないイマムラが、生真面目に製造ラインやライン上の船体について、説明してくれるのだが、技術的なことはどうでもいい。そんなものは部下に任せればいいのである。彼女はイマムラの説明を聞く振りをしながら、工場の中を見回し雰囲気を味わっていた。
 床にはゴミ一つなく、機械部品は名札をつけた棚に整理されている、機械工具は所定の位置にある。設備は新しいとは言えないが、綺麗に磨き上げられていて、そこで働く従業員はちゃんと教育されているようだ。
 全て製造ラインには、船体や船体を構成する部品がのっかっていて、遊んでいるラインがない。この企業が設備を稼働させるだけの仕事を受注しているのは間違いがない。
 製造部長が部下を怒鳴りつける場面に遭遇したが、怒鳴りつけられた部下の様子がはきはきと明るく、内にこもる暗さがない。モノを作ることに誇りと責任を持っている証拠だと思った。
「イマムラさん。もう、これで充分」
 ロイドは工場半ばで見学を打ち切った。全てを見てもらって、今一度、再考してもらいたいというストヤンとイマムラには、ため息が付きたくなるほど残念だった。彼女が判断を変えるつもりでやってきたのかと、都合良く考えないこともなかったのだが、彼らの思惑とは別に、この女には彼らをソロモンドックに吸収させることしか頭に無いらしい。この来社はその為の下見なのだろう。
「次は、あなたの仕事場も見ておきたいわね」
 ロイドは再び主導権を握った。新型船設計の現場も見ておきたいというのである。
 彼女を技術部まで導いたイマムラは、その入り口でガーヤンに遭遇した。ガーヤンは彼らに愛想笑いを残して、ばたばた賑やかな足音をたてて廊下を駆けて姿を消した。
(あの重戦車が偵察か?)
 ストヤンが呆れたような小声で尋ねたので、イマムラはそうかもしれないと小さく頷いた。ウルマノフの接近を知らせる警報システムが、ロイドには適用できない。部下達はガーヤンを技術部の入り口まで偵察に出していたらしい。じっと物陰に身を潜める狙撃兵のシンか、軽快な機動力を持った偵察部隊のバレでもいい、もう少し適任者がいるだろう。ガーヤンという重戦車は目立ちすぎる。人選ミスだろうと非難するストヤンに、イマムラも同意したのである。
 ロイドはガーヤンに気づいているはずだが気にする様子はない。機動部隊が示威行動のために遊弋するように、存在を露わにしておくことが目的のようで、敵方が偵察することすら意味がないのである。技術部内部の部屋を回って行くロイドにそういう存在感がある。職場を見ておきたいという言葉と裏腹に、彼女は工場を巡回したときと同様に、大して興味を引かれるものはないらしい。イマムラやストヤンがオスマイルの質問に答えている内に、ロイドが次の部屋に移っていると言うことがあり、気付かない内に彼らは、ロイドが居なくなった部屋に取り残されていた。彼女は抵抗を受けないまま、この建物の最も奥の技術開発課にたどりついた。
 イマムラが導き入れた技術開発課には、いつものメンバーがそろっている。ロイドは部屋を見回した。孫に読んで聞かせた童話に出てきた小さな魔法使いの家に似て、この部屋は随分小さい。この部屋から溢れるほどの人間がいて、みんな新型船開発という馬鹿馬鹿しい夢を見ている。
(でも、みんな素直でいい目をしているわね。このイマムラという男に似ているのかしら)
 ロイドは技術開発課のメンバーを見回しての感想だった。彼らの目は卑屈でもなく奢ってもいない。ロイドに多少の心理的変化がある。彼女の信念が変化したわけではない、ただ、この連中の顔が微笑ましく見えるのである。
「ストヤン君。ストヤン君。ちょっと用があるんだけど」
 スメタナがストヤンに用があるらしく小声で声をかけた。ストヤンにも心当たりがある。作業報酬の件でスメタナから相談を受けている。会社の規模は小さいながら、彼女は社長で社員の生活を守っているのである。今日、彼女と相談して報酬額と支払い方法について再検討する約束になっていた。しかし、ストヤンは彼女に手を振って見せて、彼女の言葉を無視した。今はそうせざるを得ない。ロイドの相手で手一杯だ。
「こら、寝ションベンたれ。用があるって言ってるのよ」
 スメタナがストヤンをその別名で呼んだので、今度はストヤンはスメタナと向き合わざるを得ない。
「イマムラさん。あのお行儀の悪い方はどなた?」
 ロイドの質問は視線の先のスメタナのことを指しているらしい。ロイドには及ばないが、スメタナも独特の存在感を持っていて、ロイドはこの部屋で初めて興味を引かれるものを見つけたようだ。
「スメタナシステム開発の社長で、いまここで働いてもらっています」
「あら、イマムラさん。あなたたちは、彼女の会社を吸収してしまったというわけかしら。あなた達は弱者を吸収しても、強者に吸収されるのはお嫌?」
「ロイドさん。あれが吸収された様に見えますか?私たちが彼女に吸収されそうだ」
「でも、貴方達に協力して働かされて居るんでしょう?」
「あなたがどう見るか分かりませんが、喰ったり喰われたりする関係じゃない。お互いに敬意を持てる能力があるから、お互いを利用し合ってるだけです」
「吸収とは別の関係という事かな」
 オスマイルがそう結論づけた。普段は気難しいロイドが、この時にはオスマイルの言葉に同意を示し、スメタナの後ろ姿を眺めていた。
「なるほど、興味深い関係ね」
 イマムラはロイドやオスマイルと共に応接室に戻った。成否は分からないが、彼女がこの企業に不満を持っている様子はない。オスマイルは彼女の表情からそう判断して胸をなで下ろした。ウルマノフの帰りを待つ間、途切れた会話をロイドが繋いだ。
「ねえ、イマムラさん。あなたは子供に何を与えてやれるのかしら」
 イマムラはオスマイルと顔を見合わせた。二人ともロイドから発せられた言葉だとは思えなかったのである。
「残念ながら、私は子供に恵まれていません」
「あら、ごめんなさいね。でも子供はいいものよ」
 ロイドの人柄からは信じられない言葉である。この時に、ようやく社に戻ったウルマノフが早足で応接室に現れた。
「敵の寝込みを襲うような、見事な奇襲攻撃だ」
 ウルマノフはそう言った。予告もなく自分が不在の間にやってきた事を指摘しているらしい。ウルマノフが応接室に顔を見せたために、ロイドは会話の相手をウルマノフに代えた。
「いえ、この間お会いしたときに、ご招待いただいたでしょう?」
 そう言えば、前回会ったとき、ウルマノフは彼女に言い捨てた覚えがある。
(一度うちに招待してやるから、現場を見て見ろ)
「だから、一度、現場を見せていただいていたの」
 ロイドの言葉に皮肉が満ちていた。ロイドが来社してくれたと言うことは、事態が好転する兆しかもしれない。イマムラのそんな甘い期待は裏切られた。
「ど素人に分かるもんか」
 ウルマノフは皮肉ではなくストレートに言い、ロイドも応じた。
「あらっ。図面は読めなくても。企業の決算書ぐらいは読めますわよ。なんでしたら、御社の貸借対照表について、御社の悲惨な状況をご説明して差し上げましょうか?」
 もと経理部出身のウルマノフに対する強烈な皮肉である。新型船開発の経費が経営を圧迫して、経営状況は悪化している。たった一枚の表からはっきり読みとれるのである。彼女は言外にあなたにはこの経営危機が自覚出来ないのかと問うているのである。彼女は説得の言葉を続けた。
「会社の規模ではなく、この火星で占める役割について、あなた方を随分評価しているつもりです。それゆえに、私たちは火星市民のために、地場産業が、致命的な打撃を受けることだけは回避しなければなりません」
「そのために、あなた方の提案に従えと、」
「会社を潰さず存続させるために、企業を統合するというのは最も適した方法です」
「統合と言えば聞こえは良いが、要するに弱者が吸収されるって事だ」
「もう少し幅広い視野で見ていただけないかしら」
「ロイドさん。あなたは企業というものを理解していない。私たちは積み木じゃない。あなた方の勝手な都合で組み立てられてはたまらない」
「ウルマノフさん。あなたは、社員を道連れにこの会社を潰すおつもり?」
 場所を変えただけで、二人の会話にはまったく進展がない。オスマイルとイマムラは、互いに疲れた顔を見合わせている。
(強情で頑固な上司を持つと、お互いに苦労する)
と言うのである。
 どちらも譲る気配はない。話は物別れに終わったのである。帰って行くロイドとオスマイルを見送ってストヤンが言った。
「イマムラ。君が交渉の時に直接、社長を呼びだした理由が分かった。あの女はエリ・スメタナ以上だ」
「あら。寝ションベンたれが、何か誉めてくれているの?」
 後ろから現れたのはスメタナである。
「さあ、払うものはちゃんと払ってね」
 スメタナはストヤンの腕を掴んで、報酬の相談をするために会議室に連れ込んだ。彼女は自分がロイドにとって大きなきっかけの1つになったことに気付いていない。
 

アトラとなかま

 早朝、イマムラに社外から連絡が入った、シルチス市のオスマイルから時差を考慮した通信だった。
「イマムラさん。23日にこっちまで来られるか? 無理は承知だが、社長も同行してもらえばありがたい。まだ内容は明かせないが、我々と企業の関係について話し合いたい」
 社長と同行というオスマイルの言葉で、イマムラは連絡の内容をウルマノフの耳に入れざるを得ない。イマムラが恐る恐るウルマノフに伝えると、彼はやる気満々だった。
「なに? まだ、やり足りないって言うのか? 上等だ。あのションベン臭い小娘に言ってやりたいことが山ほどある」
(あのロイド部長がションベン臭い小娘? なんて好戦的な言葉だろう)
 ウルマノフは即座に秘書課に命じて、3日後の予定を全てキャンセルした。そうしてまで、彼女と一戦交える準備を整えて、明くる日の戦闘への意欲に腕を揉みながらシルチス市に旅立った。

 求められた日に、ウルマノフとイマムラは指定された部屋に入って首を傾げた。風格だか人間的な迫力だかわからない。中小企業の社長というのは大企業と違う一種独特の雰囲気がある。その雰囲気が室内に満ちている。事実、ダロス社のクルーガーなど顔見知りの中小企業の社長の姿を見受けることが出来るのである。
 議事進行はオスマイルだった。困ったなぁと髪を掻き上げる癖を連発して今回の説明をした。
「一部の企業の方々には、企業の体質強化についてのご相談を申し上げていたのですが」
(企業の体質強化?素直に吸収合併と言え)
 ウルマノフはそう思った。他の出席者も同感であるらしい。
「今日は新しいご提案について皆さんのご意見を伺いたいと思います」
 この言葉も民間企業から見て、被害者意識にも似た反感を買う。行政の提案というのは揺るぎ無い決定事項だし、ここで出席者が放つ意見は、決定事項に反映されないまま、民間の意見を聞いたという行政の実績になるばかりだと考えるのである。
 そんな聴衆を前に、髪を掻き上げながら語るオスマイルの話はこうである。彼ら行政のの目的は初期の目的と変わりがない、火星の地場産業の体質強化である。つまり行政として従来の主張を譲ったわけではないと言うのである。次に国産機開発という目的で協力する企業を募る。それらの企業を高速通信回線で接続して国産機開発を目的とした巨大企業に育て上げる。
(一種の巨大プロジェクトか)
 イマムラはそう考えた。今回のケースが順調に運べば、資源開発、テラフォーミング事業など他の業種にも拡大する。今回はそのテストケースに当たるため、ネットワークを構築する高速通信回線は運輸交通部本部から無償で貸与する。というのである。
「ウルマノフさん、いかがでしょう?」
 オスマイルは尋ねた。彼の話に、指名されたウルマノフを始め、出席した経営者達の反応が全くない。確かに、経営者として難しい判断を要する問題だろう。しかし、イマムラにとってはありがたい。探査機器、通信機器、電力供給機器など、イマムラがこれから協力を求めて回ろうと考えていた企業がここに一堂に会しているのである。
 参加期限表明に指定された7日後までに、大半の企業が参加を申し出ていた。かれらはロイド達の提案を受け入れたのである。更に行政にとって予想外な企業であったらしく、リストに漏れていたウルド特殊車両など関連企業の参加も認められた。

 ウォルヒたちは開発作業を中断して、ネットワークの再編成に追われていた。ネヤガワ工業の技術開発課を中心に協力工場との間に高速通信回線を確保し、指示連絡網を確立する。関係部門は火星全土17カ所に分散していたが、このネットワークによって、新型船開発を業務目的とした新会社が出来上がったに等しい。17社に渡る企業の関連部所が宇宙船の自主開発という1つの目的で結ばれて動き始めたのである。
 必ずしも、情熱という点でまとまったわけではない。火星の地場産業にとって小型船の自主開発という選択肢しか残されていないことは明白である。この時勢の中でいち早く自主開発に参画すると言うことは、同業他社に抜きんでることになるに違いない。そういう利害関係で繋がった。その自主開発の波の中で、他社に抜きんでてより優位な地位を築きたいと画策するのは企業の持っている本質といえる。このプロジェクトは一面、そんな危うさを秘めている。纏まるか分解するかは新型船の成否と、成功した場合のみの公平さにかかっていると言っても良い。ネヤガワ工業にとっても今後の展望が開けた思いと共に、油断していれば出し抜かれるという危惧を捨てきれないのである。
 ストヤンは1つの決断を迫られた。自分が出るか、と言うことである。新型船開発はもとはネヤガワ工業から始まった。その技術の総責任者である自分がプロジェクトのトップなら、表だった文句は出ないはずだった。新型船開発においてネヤガワ工業が主導権を握れるはずだ。しかし、強引なゴリ押しとも映るだろう。公平さを欠いてプロジェクトが瓦解する危険性もある。
 再び、ストヤンはイマムラを(面白い男だ。)と思った。イマムラが先に主導権を握ったのである。最初のミィーティングの席上、各社は偵察がてら、中堅の技術者を派遣していた。もちろん今回の件に関わりの深い人材ばかりである。セキュリティー保護の意味で、高速回線網ではなく、生身の技術者が、ネヤガワ工業の技術部の会議室に顔を揃えたのである。言葉や雰囲気が直にしみいってくる。イマムラはこの会合を非公開とした。
 イマムラの部下は火星の各地を回っていた。その報告の中で、あるいは彼自身が出会った者も含めれば、出席者の7割方の顔や経歴、癖に至るまで見知っていたし、相手も自分を知って居はずだ。
 その会議の冒頭でイマムラは立場上、ネヤガワ工業がいかに重要な位置を占めているかを宣言する必要があるのだろう。集まった人員も、当然、それを想像していたに違いない。
イマムラは彼らの顔をゆっくりとみわたした後、
「良いものが造りたいなあ」と、言ったのである。
 少年のように夢を見る口調で、やや現実味にかけてはいるが、言葉に体温がこもっていて暖かい。その言葉が人々の感性に響いた。各メンバーは落ち着きのある笑顔で頷いた。ものを造るという手段で、夢を現実化する、各自の企業を離れてただ一点で価値観を共有したのである。ウルマノフが技術者という連中は信用できないと語ったことがある。その言葉が鮮やかに的中した。イマムラが言葉を発した瞬間からメンバーは各社の集まりでありながら、所属する組織の利害から独立してしまっている。
 人々はイマムラの言葉にうなづいていた。この連中は会社の利益という価値観を放り出して、メンバーの夢という価値観で結びついたのである。経営者の目から見れば、緩やかな裏切り行為と言えるかもしれなかった。後年、ウルマノフやクルーガーはこの時のイマムラを評して(あのテディベアーは狐の心を持っていやがった)と笑いあった。
 イマムラが一方では無垢な少年の心を持っていながら、もう一方では、ずる賢くたちまわったのは、この関係を維持するために、ここに集まった技術者の上司の面子が立つような工夫をした点である。イマムラも必死である。善意や夢や情熱だけで繋がっているわけではない。各社の利害で繋がっている。その利害を調整しなければならないのである。
 

データー流出

 開発作業は川の流れのように、細い流れがいつの間にか太くなったり、いくつかの流れが平行線を辿っていたり、合流したりしながらその河口で新型船として集約される。この川に16社もの流れが加わって、MSC─X開発という川は随分太くなった。
 その川が氾濫しないように、かつ、1つの流れに合流させる役割を担っているのがウォルヒである。昔風に言えば主任設計者や設計責任者と呼べるかもしれない。職務の肩書き上はイマムラになるのだろうが、イマムラ自身は技術的なことについては部下に任せて、黒子に徹している。
 そのウォルヒが、幾つか同時に抱え込む作業の中で、現段階でやっておかなければならないことに頭を抱えていた。今回開発するMSC─Xの場合は、保安局への納入の可能性が高い。引き渡しやその後の販売を容易にするために、協力メーカーのジェクト社で、MSC─Xの訓練用のシュミレーターの開発を始めておくのである。先のMSB─Xの時には経験しなかった作業だった。
 現在が火星歴70年20月、彼女たちは船体の完成を71年18月と見込んでいる。火星時間で約1年弱、1ヶ月の期間は地球とほぼ同じだから、22ヶ月先だと考えればいい。保安局への船体の納入をこの時期だと考えて逆算すれば、保安局はこの時期に合わせて搭乗員の訓練を始めなければならない。彼女たちは船体の開発と平行して、搭乗員の操縦訓練用のシュミレーターを開発しておく必要が生じたのである。当然だが、訓練用シュミレーターというのは、MSC─Xの操縦席や操縦性能を再現したものだから、MSC─Xの概略が定まっていなければならないのである。その概略が変更に次ぐ変更でまとまらない。MSC─Xの開発には様々な企業の参画を経て、開発力は増大しているはずだった、しかし、考えてみれば、ダロス社の『銀河特急』は、地球メーカーの競合するエンジンの性能と同等かやや上回る程度なのである。
 当初、ライセンス生産エンジンだあったライン89を搭載していた時に比べると、出力は向上し、なおかつ2トン近い重量軽減になった。ダロス社の努力には敬意を払わざるを得ない。現在の所、船体の本体の重量が約26.7トン、搭載する推進剤が22.6トン、合わせて49.3トンになると見積もられている。
 しかし、ウォルヒは、宗教の信者が教典をそらんじるように保安局が新型船に求めた7つの要求項目の一字一句を記憶していた。最初の項目で加速性が要求されている。要求を満たすために更に重量軽減が求められるのである。航続時間に関わる要求があって、推進剤の搭載量を減らすことは出来ない。ウォルヒたちは船体そのものの重量を26.7トンから、更に2トン近く削るという無茶な必要に迫られている。
 先のMSB─Xの時に、周囲の仲間から反感を買っていたような強引さで、今のウォルヒは、協力メーカーに重量の軽減を求めていた。
 これは『ウォルヒ・パクのダイエット』と揶揄されていた。不要な体重を絞り尽くしたボクサーや長距離ランナーから、更に体力まで奪うように体重を削ると言うことを、痩身のウォルヒがダイエットするという無謀さにたとえ、メンバーは自虐的に笑っているのである。MSC─Xのオプションの装備は任務によって変更するように設計していて、現段階で船体から外せるような余分な搭載機器はない。船体の強度は安全係数3.0、ぎりぎりまで下げていて、これ以上強度を削るのは搭乗員の生命をいたずらに危険に晒すことに他ならない。もともと、やせっぽちに設計されていたMSC─Xの船体から、無駄肉どころか、強度に影響がないと判断された骨まで削りきっているのである。
 ここまで来て、彼らの夢は、周りから寄せられる期待という重圧を加えて、再び行き詰まってしまっている。かといって、全体のスケジュールを遅らせるわけにも行かないまま、イマムラは現段階での船体の能力のデーターを、ジェクト社に転送させた。取りあえず、仮のデーターで訓練用シュミレーター開発を始めておいてもらうほか無いのである。
 MSC-Xはネヤガワ工業やダロス社を始めとする民間企業が主導権をもって推進している。行政の関わりを見れば、ロイド部長の運輸交通本部がプロジェクトの立案推進という点で関わっている。しかし、もともと、MSC─Xの要求性能を提示した保安局は事態を静観していて、船体開発に関与する気配を見せない。自分たちには関わりがないと言わんばかりである。
 その保安局からネヤガワ工業に、突然の警告が入った。通信が外部に漏れているというのである。イマムラがジェクト社に転送させたデーターについて、ジェクト社の技術部員から通常通信で問い合わせがあった。その会話内容が外部に漏れた形跡があるというのである。もちろん会話で触れたMSC─Xの概略に付いても、情報が漏れたと見なければならない。新たに構築した高速回線による、船体のデーターについてのやり取りには、厳重なプロテクトがかかっていて、あのバレやスメタナでさえ解析は無理だと断言するほどである。
 今回の場合は通常通信である。イマムラたちが迂闊だったと言えるだろう。しかし、一般市民の通話も含めて、膨大な通信量に混じった特定の会話が外部に漏れたというのは、首を傾げたくなることだった。ネヤガワ工業を狙って、通信が盗聴されていたと言うことかもしれない。いずれにせよ、誰がどんな目的で通信を盗聴したのかと言うことは現段階では捜査中であるらしい。保安局としては、MSC-Xが要求性能通りに仕上がって運用することになれば、その性能の細部は外部に秘匿しておきたい。その情報の流出を防ぐ意味での警告だった。
 保安局の警告から一歩遅れて、警察本部から今回のデーター流出問題について、捜査員がやってきた。通信が無断で傍受されていたということは、刑事事件として扱われ、彼ら警察組織の捜査対象になる。ウォルヒたちは、やや意外に思った。宇宙空間で捜査を行うと言うことから、保安局を警察本部と同一視していたのである。考えてみれば、行政組織上、両者は互いに独立している。分かりやすく、現代に例えて言えば、保安局は海上保安庁に該当する。宇宙空間での捜査権を持っては居ても警察ではないのである。つまり、彼らは今回の事件の第一報を、管轄外の部局から受け取ったのである。イマムラはやや眉を顰めて聞いた。
「バレ。運輸交通部から貸与された高速回線の盗聴は可能かな?」
「どういうことですか?」
「各社とやりとりをしているMSC-Xのデーターの秘密が、通信を経由して外部に漏れると言うことはあるんだろうか?」
「スピカの運行システムのプロテクトの解析程度ならともかく、運輸交通部から貸与された高速回線は政府のセキュリティの管理下にあります。私たち程度のレベルでは回線に割り込むことすら出来ませんわ」
「情報が漏れる可能性はないと言うことか」
「それに、政府で管理をしているとはいえ、各部局間でもセキュリティのレベルや暗号化の手段に差があります。政府関係者であっても他の部局の情報にアクセスするのは困難だと思います」
「もし、同じ部局なら?」
 そのイマムラの問いに、バレは首を傾げつつ、行政組織を頭に思い描いた。複雑な組織を整理してみれば、バレにも思い当たることがある。
「運輸交通部の中に、回線を貸与してくれた運輸本部と、今回の警告を発した保安局が所属する機動空間部が並列で存在します」
「我々のプロジェクトの情報は、行政側に漏れていると考えても良さそうだね」
「ネットワーク上の情報に、こちらでプロテクトをかけてはどうでしょう」
「いや、情報はオープンに。ただ、この件については部長と社長に報告して処置は任せよう」
 保安局が極めて適切な時期に警告を発してきたと言うことは、盗聴犯のみならず、今までは国産機開発から距離を置いているように見えた保安局が、開発の状況に片時も眼を離さないほど関心を抱いて、監視を続けていると言うことである。なにやら、ややこしい状況の中に組み入れられてしまっているらしい。
「私たちは、いいモノを造るだけだ」
 イマムラは、彼自身がそんなややこしさを振り払うように、部下にそう言った。現場は隠し事をしなくてはならないことは何もない。部下を物作りに専念させたいと思ったのである。行政が密かに彼らの情報をモニターしているというのは、行政サイドのきわめて違法に近い行為である。この弱みは行政との様々な交渉の切り札になるだろう。そういう腹の探り合いは、ロシア者に任せておくに限るだろう。イマムラはウルマノフを信じてこのカードを預けることにした。

飛翔

 ウォルヒは立体映像モニターの前で考えがまとまらない。ダロス社の技術陣が生み出した核融合エンジンモジュール銀河特急64の核融合炉が最高出力159tの推力を生み出している。地球側には一回り大型だが178tの推力を有するエンジンが存在する。しかし、核融合エンジンが様々な技術の集大成であることを考えれば、彼ら火星市民の手で生み出された最高の小型船用のエンジンであることは間違いがない。彼女の専門ではないが、いささか無理をしているのではないかと考えるほど、限られた条件の中で、巨大な推力を絞り出しているのである。
 それだけに、これ以上の出力増大を求めることが出来ない。とすれば、保安局が提示する性能を満たすために、あと700Kgもの重量削減が必要になる。今まで27tの船体を1g単位で削減して24tに絞り込んでいる。正確に言えば239,663,124gになる。その末尾の数字まで知っているほど、メンバーの苦労にも関わらず、この値は数週間の間、変化する気配がないのである。
 700Kgどころか、これ以上1gの削減も不可能だという事実を突きつけながら、彼女たちは事実を受け入れることが出来ずに過ごしている。

 この時期、肩書き上は責任者として判断を迫られるイマムラは、現実にやや妥協を見せ始めていた。仮に、競合他社の船体の能力に劣るものであっても、技術供与制限法や搭載する機器の輸入制限が強まる傾向の中で、火星で製造できるというメリットが必ず生じるはずだ。ここに集められた技術は、火星市民の技術の粋を尽くしたと表現しても過言ではない。これが自分たちの能力の限界だろう。現段階が考え得る能力の限界なら、もう、実際の船体の製造に移っても良いのかもしれないと考えていた。その場合に備えて、各メーカーを説得する手はずを整えている。機は熟して後は、彼らが事実を受け入れて妥協するかどうかにかかっているものと思われたのである。しかし、イマムラは最後の判断はウォルヒに任せようと思った。
「これが、私たちの限界なの?」
 ウォルヒはMSC─Xの映像から目をそらせて、体をイスの背もたれに預けて目を閉じた。
それが、彼女の体に蓄積していた疲れをどっと澱のように沈殿させた。
「コロン」
 イマムラはウォルヒの思考ロボットに語りかけた。
「部屋をもう少し暖かめに。ウォルヒの席をリクライニングさせて。そっとだぞ。私とアサハリが出た後でライトの灯を落として。あとは彼女が目を覚ますのを待つように」
 パブリックモードになっているから、コロンはイマムラの指示にも従うだろう。コロンの主人の方は、帰ってゆっくり休めと命じても従うまい。それよりも、ここでゆっくり眠らせてやる方が良かろうと思ったのである。イマムラはアサハリに目配せをして上着を手に取った。
 やや暖かみを増した部屋にウォルヒが取り残された。彼女の脇にうっすらとMSC─Xの映像が浮かんでいる。その姿はMSB─Xによく似ている。火星の技術の集大成と呼んでも良い船体だが、恩師ラベルに受けた指導を、素直に受け継いでもいた。
 暗い部屋の中でコロンだけが起きていた。耳を澄ませたコロンにウォルヒの呟きが聞こえた。しかし、その内容は支離滅裂で意味を成さない。コロンは彼女が夢を見ているのだろうと結論づけた。
 確かに、彼女は夢を見た。突然の開放感として記憶が残っている。淡い真珠色の空が彼女の目の前一杯に広がっていた。彼女は期待に胸を膨らませて、彼女は空を抱くように腕をいっぱいに広げた。翼に変わった腕に空気をはらんで、彼女は空に飛び出したのである。心地よい香りを全身に感じる。風も音もなく、そんな香りが風のような上昇気流になって彼女を空の高みに運んだ。彼女は羽ばたきもせずに、星の瞬く空間を自在に滑空した。
(星が?)
 気付いてみれば彼女は成層圏から離れて、星々に囲まれる宇宙空間を飛翔している。飛翔するという表現は彼女にとって不自然かもしれない。周りの景色が、つむじ風のように彼女の周りをくるくる舞ったり、そよ風のようにゆっくり彼女の傍らを流れ去ったりした。再び、空の真珠の色に気付いてみると、彼女は火星の空にいた。彼女の体は淡い大気に昇華して、この星と彼女を分けることが出来ない。その一体になったこの星が、我が子のように愛おしい。
 彼女は静かに目を覚ました。目の前にMSC─Xの立体映像が浮かんでいる。ぼんやりした頭で、夢と目の前の映像の整合性を付けようとするように、指先でなぞるようにMSC─Xの機首から後方のノズルまでなめらかに鳥のフォルムで覆った。この後、白鳥とも評されるMSC─X「アスカ」が、姿を現した瞬間である。
 彼女は何故か、ラベルと共に作り上げたMSB─Xの最後を想い出した。宇宙塵との衝突を想定した試験では、宇宙塵の代わりの金属片はすさまじい破壊力を発揮した。その宇宙塵や宇宙線から船体を保護するための装甲がモジュール毎に施されている。破壊され吹き飛んだ装甲。その重々しさと頑丈さを思いだしたのである。あの装甲の頑丈さは、船体にかかる様々な荷重を支える強さも持っているはずだ。個々のモジュールに施された装甲を繋いで一体化すれば、船体の中で最も重量がかさむフレームの代わりになるはずだ。彼女はそう思いついたのである。
 別段、突飛な発想ではない。モノコック構造と呼ばれる構造で、空力学的に滑らかな形状の船体を軽量で造ることが出来るという特徴があり、航空機の構造として一般的に見られる。
 彼女の目覚めは鮮やかだった。
「コロン。ドノバンにつないで」
 まず、ドノバンに相談しようと思った。夜中の2時である。彼女はこの思いつきに夢中で迷惑だろうとは思いもつかない。
「ドノバン、こういう装甲は出来ないかしら?」
 『装甲』という表現は適切ではないかもしれない、もはや保護するためのものではなくて荷重を支えるフレームの用途を果たしている。画面にあらわれたドノバンに彼女は思いつきを説明した。
 ドノバンはモジュールの装甲の担当ではないが、この場合、担当であるというより、幅広い知識を要する。この点で、ドノバンは最適だろう。勤勉な勉強家というわけではないが、何にでも新鮮な興味を抱く男である。
「なるほど。面白いかもしれない」
「ドノバン。出来るの?」
 彼女は不安だった。新たな解決策を思いついたものの、しかし、専門外の彼女が考えてさえ、新たな構造は、薄い外板で荷重を支える。船体にかかる荷重を上手く分散させるために、その荷重を支える外板は角や繋ぎ目が無いことが望ましいことが分かる。しかし、新型船の全長は少なくとも30メートル、推進剤を搭載した場合の総重量は現段階で50地球トンを越えるものになる。そんなものが、彼女たち火星市民に利用できるかたちで存在するものかどうか想像もつかなかったのである。
「出来るさ、きっと。君はこの都市の外壁を造る技術を知っているか?」
 宇宙船の製造メーカーの技術者でありながら、都市を造る建材にまで思考の枠を広げてしまうところがドノバンの面目躍如と言ったところだった。
「複雑な曲線を持った巨大なパネルがあちこちに有るだろう? あのパネルは都市を支え、温度差や紫外線や砂嵐に耐えるんだぜ」
 思いもかけないところに彼ら火星市民の技術があった。
「もっと詳しく知りたいわ」
「以前に会ったじゃないか。タイペイ建材の専門家にワルデンさ。あの不良を叩き起こして尋ねてみよう。でもね、」
 ドノバンは言葉を継いだ。
「今のうちに、課長にも相談した方が良いだろう」
 ウォルヒもうなづいた。大幅な設計変更になることは間違いなく、協力メーカーとの折衝も必要になるに違いない。
「今から?」
 ウォルヒは眉を顰めた。ここで初めて、今が深夜の2時過ぎであることに気付いたのである。
「俺は今からワルデンに連絡を入れる。君も課長をたたき起こせ」

「そうか。やってみよう」
 ウォルヒに叩き起こされたイマムラは顔を伏せて少し考え込んでいたが、表情を明るく変える演技をしてそう言った。イマムラはメンバー間の調整をウォルヒに一任し、ストヤン部長の説得と、協力メーカーへの連絡は、自分が受け持つよう役割を決めて通話を終えた。妻のアマリアが見るところ、夫のその明るい顔と裏腹に、通話を追えたイマムラの表情は硬い。ウォルヒたちに比べれば、イマムラはやや醒めた目を持っていた。
 ウォルヒたち開発メンバーが、このモノコック構造という古典的とも言える構造に思い至らなかった、或いは、この構造を最初から捨てていたのかと言えば、スピカの構造のメリットに至るのである。船体の荷重を支える頑丈なフレームにモジュールを取り付ける。もともとフレームには充分な強度の余裕があるから、必要に応じて個々のモジュールを最新型のものに換装したり、用途に応じて、新たなモジュールをつけることが出来る。
 船体の外形を、いわば装備品の容器を先に作ってしまえば、容量が決まった容器の中には、限られた装備品しか入るまい。容器の強度を増そうとしたり、容量を大きくしたりすることは困難になるに違いない。拡張性の無い寿命の短い船体になるだろう。メンバーは性能の良い船体と言うことに目を奪われているが、より性能を増すための可能性が見えたと言うだけのことである。
 しかも、基本構造の変更は、ここ数ヶ月の間の開発活動を白紙に戻すことになる。そればかりではない、製造メーカーの製造設備、ユーザーとしての保安庁や防災庁の宇宙船の整備施設、宇宙港における宇宙船の係留設備、そして、そこで働く工員や搭乗者、整備士など、小型船を包み込む環境はスピカのようなフレーム方式の構造と共に進歩してきている。ここ30年来、全ての技術的・設備的な蓄積をも白紙に戻すに等しいのである。技術的な用語を用いて語ることは出来ないが、イマムラは漠然とそう言う不安を抱えていた。
 しかし、今の彼らの目の前にある問題の解決は、その構造変更しか残されては居ないだろうと判断したのである。一時の思いつきや直感ではなく、フレーム構造のメリットとデメリット、モノコック構造のメリットとデメリットを評価して決断した。イマムラはそういう能力をラベルから与えられていたのかもしれない。

 道が開けると言うことはこういうことかとウォルヒたちは思った。この数ヶ月の停滞が嘘のように前進し始めたのである。火星全土に渡る仲間たちも、モノコック構造に転換するというネヤガワ工業の提案に面食らいながらも同意を示した。確かにこういう方向に向かえば道は開けるかもしれない。少なくとも船体構造の変更は、現段階ではそのメリットの方が大きい。基本構造が変わることで、2次的な軽量化の余地も生じたのである。
 更に、シンが居住モジュールを上半分を透明にし、船体上部に張り出させることを思いついた。搭乗員がコックピットに収まった時に、胸から上が機外に露出するような格好になる。まるで大昔のジェット戦闘機のキャノピーのようだった。しかし、このキャノピーは開閉はしない。悪趣味だと安全性を確認するアサハリは言ったが、本体と一体化してあることで強度は大きな変化はない。
 一方、今までのMSC─Xでは、機外の状況を目視確認するためのビデオカメラと、コックピットモジュール内の投影装置が備えられていた。重要度が高い機器なので故障に備えて予備の機器も搭載されている。搭乗者が肉眼で機外を見ることが出来るようになったため、この重量のかさむ機器が不要になり、小型のビデオカメラ1台になったのである。
 設計に携わった技術者たちに言わせれば見晴らしは良いかもしれないが、今までがっしりしたモジュール内にいた搭乗者には不安感や動揺を与えることになるかもしれない。このあたりが限界かとイマムラは思った。搭乗者という職業の人々は非常に慎重で頑固な一面を持っているとイマムラは考えていた。ただでさえ、今までの船体と異なった点が多い、これ以上違ったものになれば、船体の性能はともかくも、搭乗者に受け入れてもらえない船体になるだろうと思った。
 こうして、MSC─Xの外見は一変した。無骨な肉食獣が、柔らかみのあるツバメの姿に変身したのである。社外の仲間からも、ウォルヒたちの提案に対して、新たな提案が出た。
 中でもタイペイ建材の連中の提案は、複合素材の特質を良く知り尽くしている。
船体に用いた複合素材は、堅さと同時に適度な粘り強さを持っていた。彼らは軽量化のために船体の安全性や強度の重要度の低い部分の肉厚まで削ったのである。翼のように両脇に張り出した放熱板などは、船体の急激な機動の変化に対して、目に見えない程度にだが変形し、たわみ、しなる。ネヤガワ工業の技術者など宇宙船の設計に携わる者なら怖くて思いもつかないだろう。荷重を重く頑丈な素材で受け止める代わりに、素材に弾力性を持たせて柔らかく受け流すのである。軽量化を図り、なおかつ船体の充分な安全性を維持しているのだった。
 肉厚を削るといっても、簡単な話ではない。1枚の素材は、引っ張り強度を得るために配向させた炭素繊維素材、放射線を防ぐための金属素材、その他、セラミック、等の素材を特殊高分子で接合させたもので、船体に用いた場合、船体の各所にかかる強度に合わせてその厚みを調節しつつ、一体成形するなど非常に困難な技術に違いない。彼らの技術を尽くしたものなのである。
 そういう苦労を口には出さず、無造作に無精髭はやし、疲れを見せる表情で、誇りを込めて連中は言った。
「どうだい。もっと鳥のようになったろう?」
 ウルド特殊車両の連中は、彼らがテストしていた緩衝装置の技術を提供してきた。彼らの秘蔵の技術と言っても良い。コックピット内で搭乗者が操縦装置に手をかけた状態で、コックピット内に、彼らがカオスと名付けた高濃度の特殊なガスを放出する。ガス分子は簡単な電気的な刺激で、編み目構造を形成して、ゼリーのような粘性が生まれる。搭乗者はまるで母親の子宮の羊水の中ではぐくまれるように、コックピット内で加速度から保護されるのである。使用後、そのゼリーに再び電気的な刺激を与えれば気体に戻って装置に回収される。理論や装置の基本構造自体は技術文献に見られたが、ガスの安全性やガスの回収再利用の技術に大きな難点があり、地球ですら開発が諦められていた装置である。
連中は言った。
「赤ん坊でも安全に乗せてみせるぜ」
「赤ちゃん以前に、お嫁さんを見つけて結婚なさい。坊やたち」
 ウィリアムスがウルド特殊車両の若い技術者達に、投げキッスをして応じた。
「あんたらにこき使われて、嫁さんを捜す暇もない」
 彼らはウィリアムスの肩越しに見えたウォルヒに言った。彼らはウォルヒを『首を絞めたくなることがある。』と笑顔で評したことがある。無理な軽量化を押しつけられて、彼女が正しいと分かっていても、殺意に近い反感を抱いてしまうことがある。ネヤガワ工業のメンバーもその点は良く分かる、既に経験済みである。ウィリアムスやバレに比べて、ウォルヒは立場上、評判が悪いのである。

 MSC─Xには様々な新しい工夫が盛り込まれた。彼らの力を注ぎ尽くしたと言っても良いかもしれない。カルロス部長はどうだいと言いたげに、ストヤンの肩を叩いた。
「よくもまあ」
 ストヤンは呟いた。8ヶ月はかかるだろうと思われたMSC─Xの基本構造の変更を、技術開発課の連中は3ヶ月でやり遂げていた。彼ら自身の努力もあるが、彼らを支えて、共に開発に当たった社外の多くの技術者達の努力も忘れるわけにはゆくまい。(よくもまあっ)という曖昧な感嘆文に、そのストヤンの複雑な思いがこもっていた。
 その技術開発課のデーターが上がって、ストヤンの目の前にある。タイペイ建材やウルド特殊車両を初め、各社が国産機のために提供してきた技術や努力には驚かされると共に敬意を払いたくなる気分だ。各社の最新技術が彼らの熱意と共に込められていると言っていい。
「さあ。2月で仕上げて見せるぞ、目標は7週間だ」
 カルロスはそう言った。タイペイ建材は設計図に合わせて新型船の外板をネヤガワ工業に発送したという。ウルド特殊車両は、3日以内に彼らの開発した緩衝装置を技術者と共に派遣すると連絡してきている。バレとスメタナが作り上げた運航システムは、アリオン電子機器の技術者の手が加わってメモリーチップとして完成して、彼女たちの手元に届いている。
 既にMSC─X製造は火星各地で始まっているのである。新型船の開発スケジュールは、計画段階で空回りし、随分と遅れを出していた。
(彼らに免じて、その遅れは我々が補ってやるさ。)
 カルロスは思った。MSC─X製造の主要な任務は、彼らネヤガワ工業製造部員の手に移っているのである。ストヤンは(我々の手でやる)と言ったカルロスの言葉を反芻して、今度の船体は、MSB─Xのような幸薄い船体にならずに済むだろうと思った。妙な話だが、人の手によって生み出されたものには人の運命と同じく、幸運なものや、不運なものが存在する。ストヤンはMSC─Xという船体と人生を重ねて、人々の愛情を受けて幸せに育つのではないかと考えたのである。
 

待機

 メンバーの心にやや不安がある。量子コンピューターのシュミレーションの上では要求性能に達してはいる。しかし、何もかも新しいといってもよい。その一つはこの船のモノコック構造に由来する外観である。この構造一つとっても、彼らに気付かなかったどこかに重大な綻びがあって、根本から破綻しそうな予感にも襲われるのである。
 ただ、イマムラはメンバーのように、この船体に盛り込まれた斬新さについては、疑問を抱いては居ない。開発の現場にいて、この船に盛り込んだ機能の必然性については熟知していた。開発状況を密かにモニターしているらしい保安局は、彼らの意向に反する方針で開発に臨んでいれば、その途上で何かの警告を発してくるだろう。保安局から何の警告もないまま開発が進んでいると言うことは、おおむね、彼らの意向に沿う船体になっていると見てよいのではないかと考えているのである。
 しかし、そのイマムラでさえ、『君たちの感性を信じている』と言った恩師の言葉を何度反芻しても、MSB─Xの最後が心の中に蘇ってくる。不思議なことに、自分自身の能力に対する不安ではない、もしも、今回失敗したら、自分たちのために犠牲になったMSB─Xに申し訳がないという不安なのである。MSB-Xは彼らの中で血や肉や意志を持った一個の生命体のようになっていた。
 既にMSC─Xはその柔らかなフォルムをメンバーの前に現しつつある。美しいかもしれないが、スピカを見慣れた人々の目には、見るほどに奇異な形状の様にも思えるし、俗に言う流線型の外観は、何世紀も前の画家が空想で描いた宇宙船のようで、古くささを感じさせる。不安は日を重ねるにつれ、濃霧のように漠然と広がっていくのである。

(そろそろ、MSC-Xの試験の日程についてシルチス大学と交渉を始めなければならない)
 イマムラやドノバンがそう考えていた矢先のこと。突然の連絡が保安局から彼らの業務に割り込んだ。新型船の試験を保安局が所有する施設で実施するというのである。ネヤガワ工業にとっては莫大な経費が掛かる作業を肩代わりしてもらうのはありがたい。しかし、何か一方的な通知で高圧的な感じがし、やや不愉快にもなるのである。セキュリティーの面で信頼されていないのかもしれない。推測ではなく、間違いなくそうだった。開発の進展と保安局の連絡のタイミングが絶妙で、保安局が開発経過を見守り続けている様子が推測できた。イマムラは協力メーカー間の調整を図り、最後の艤装を急がせた。艤装を終了し、機器の細部の調整を追えたネヤガワ工業の元に協力工場から完成を祝う通信が寄せられた。
「ほらっ、シンの顔を」
 アサハリがウィリアムスに、協力メーカーから通信を受けるシンの様子を見ろと促した。
「本当、ちょっとは成長したようね」
 ウィリアムスが笑顔で頷いた。彼女の視線の先のシンは、戸惑いながらも相手の笑顔に、彼自身も笑顔で応じている。以前の彼なら、開発経験者だというプライドを振りかざして、協力工場の仲間を見下すように言い放っていたに違いない。
「甘いな。お前たち素人は、これで完成したとでも思っているのか」と。
 しかし、今のシンには、開発に携わった者全員で完成の喜びを分かち合いたいという気持ちが、素直に表れているのである。技術開発課のメンバーは、社外の笑顔の通信に丁寧に応対しつつも、MSC-Xが未だ、ただの機械の塊に過ぎないという経験をしていた。
 確かにMSC-Xはその外形を現した。しかし、顧客の保安局の手で試験が実施されて要求性能に達していなければそれで終わる。要求性能に達していても、その後に、運輸本部による認可を得る複雑な手続きを要する。手続きに不備があれば宇宙空間を航行しすることは出来ない。更に、宇宙空間での試験航行では未だ経験したことがないトラブルが幾つも待ち受けているだろう。保安局の試験は、機械の塊に過ぎないMSC-Xが宇宙船として認められるかどうかの最初の関門なのである。

 船体を保安局に運搬する日、メンバーがなるほど、と思ったのは、保安局の職員が手際よくトレーラーの荷台の四隅に支柱を立て、シートを張った点だった。バレは彼らが犯罪捜査の面で慣れているせいだろうと評した。ネヤガワ工業の社員がMSB─Xの運搬にシートをそのままかけただけだというのと扱いに大差がある。以前の試作機は、そんな彼らの不手際によって、ウォーデンのような素人にも運搬中のものが小型船だと見破られていたのである。
 このシートによってMSC─Xはその外形さえメンバーの目からも隠されてしまった。
(縁起でもない)
 イマムラがそう思ったのは、彼らがトレーラーを見送る姿に、MSB─Xの姿が重なったせいである。MSB─Xは随分多くのものを彼らに教えてくれたが、その別れの姿を彼らの心にトラウマとして残しているのである。保安局の試験には3週間を要するとされていたが、その内容は深いベールで閉ざされて、彼らにはハッキリ明かされていない。
 イマムラたちは遠ざかるトレーラーを見送りながらラベルが彼らに残した言葉を唱えていた。
「火星市民は信念に祈る」
 自らの手で運命を切り開く。その信念の象徴が、トレーラーの上のMSC-Xと言えた。

 MSC-Xが彼らの前から姿を消したとはいえ、仕事は山積みで、彼らは忙しく時を過ごし3週間が過ぎた。ただ、その間片時もMSC-Xのことは忘れては居ない。手元を離れてみると、設計時の自信が徐々に薄れて不安が高まってくるような気がするのである。
 昨日が保安局における試験の最終日で、メンバーは昨日の内に採用通知の第一報が有るのではないかと期待していたが、途中経過の連絡はない。期待した連絡がなかったということが不安を煽る。彼らに残されているのは悪い知らせだけかもしれないと思うのである。
「手が止まっているわよ」
 ウォルヒが、シンやアサハリに非難じみた口調で注意した。試験の結果が気になって、仕事が手に付かないに違いない。試験を保安局の係官にまかせているとはいえ、彼女たちの手が空いているわけではなかった。開発作業は常に幾つかの作業が平行して行われていて、彼女たちがこの段階にやっておかなければならないことを抱えている。マニュアル造りもその作業の1つである。
 1つの船体を製造運用するために、工場における製造マニュアルやユーザーで使用する整備マニュアル、搭乗者たちが使用する航行マニュアルなどが存在する。製造マニュアルはすでに原案が出来上がっていて、MSC─Xを組み立てる際に使われている。しかし、製造部からその内容に、幾つもの矛盾点を指摘されて、改訂箇所は800カ所を越え、その製造マニュアルも書籍のページ数に換算すれば実に3万ページを越えるだろう。メンバーの中で文章を書き慣れているはずのアサハリでさえ、机の傍らに『初心者のための作文技術』とか『サラリーマンのための文章表現』という表題の書籍を積み上げており、メンバーはその書籍のお世話になっていた。
 彼女たちの思考を、誰にでも正しく伝えるために、文章の表現、図や表の使い方、ページのレイアウトづくりなど様々なテクニックを要する。メンバーは文章表現や単語の使い方を、学生に戻って学び直さなければならなかったのである。
(船体の強度計算の方が、よほど単純で楽ちんだ)
 ガーヤンはそう呟いていた。
 思考ロボットに任せてしまいたい作業だが、彼女たち自身が未経験で、マニュアルづくりの手順や方法を指示できないまま、自ら文章づくりに頭を悩ませているのである。
 ウォルヒの役割は、「監修」と言えば耳に心地よく響く。仲間が作り上げた個々のページの内容の妥当性をチェックし、キーワードを抜き出す。目次に添ってマニュアルに挿入して、キーワードをもとに索引を作って行く。ウォルヒはふと手を止めて目次をながめた。
(私たちの歴史ね)と思ったのである。
 目次の1項目毎に、泣きたくなるほどの思い出がある。最初からこれほど気苦労が多いと分かっていたら、とっくの昔に投げ出していたかもしれない。
 モニター上でマニュアルのページを繰って行くと、冒頭の部分にMSC─Xの三面図があり、各部の説明が添えられている。
 多目的レーダーや光通信の送信機を収納した船首から、核融合エンジンを包み込む船尾までの柔らかく滑らかな曲線は、船体の軽量化に困り果てた彼女の夢の産物だ。大空を飛翔する鳥の夢を見た。彼女はその事を胸にしまい込んで内緒にしている。その夢を現実に結びつけ、鳥のような姿に結実させたのは、ガーヤンの強度計算と共に、タイペイ建材という予想外の業界の技術者だった。
 居住モジュールが船体の上に大きく張り出して、透明な突起部分は、まるで大昔のジェット戦闘機のキャノピーを思わせる。MSC─Xの外形を構成する曲線の中で、レーダーを包み込む船首部分が嘴なら、このモジュールの外観は鳥の頭部を想像させるのに一役買っていた。キャノピーが随分すっきりしているのは、やはり軽量化に頭を悩ませたドノバンが、搭乗者を1名に削った結果である。本来、モジュールの中で搭乗者を包みこんで動きを制限する計器類の一部はキャノピーに形を変えて、搭乗者の前方上方に移動している。航行状況、船体の姿勢状況、推進剤の残量などのデーターは、コックピット内部に配置した計測器に表示するのではなく、キャノピーをスクリーンにして投影されるのである。キリキア計測機器の技術者の技術が投入されていた。搭乗者はモジュールの中で空間に余裕を感じるはずだ。
 頭部から続く曲線にも無駄はなく、その内側はインテグラルタンクとして使われ、汚水処理タンクやウルド特殊車両が提供した緩衝装置の特殊ガスのタンクとして使用されている。更にその内側には内蔵のように頑丈な2基の推進剤のタンクがある。その後方、大きく膨らんだ腹部は言うまでもない、ダロス社の「銀河特急」が搭載されているのである。上面図でながめてみると、この鳥は大きく翼を広げている。この翼によって体内の余分な熱を放出し、外部の情報を受け止めるのである。
「ウォルヒ」
 アサハリとシンが非難じみた口調で、何度も彼女の名を呼んでいた。
(手が止まっている、空想に耽っていないで仕事に精を出せ)というのである。
 この作業を進めながら彼女たちは共通の不安を抱いている。時間を掛けたマニュアル造りも、MSC─Xの成否にかかっている。保安局における試験に合格しない限り、マニュアルも彼女たちの思い出もMSC─Xと共に無に帰すのである。
 ネヤガワ工業が窓口になっているために、保安局からの連絡の第一報は彼女たちが受けるはずだった。協力メーカーから再三、結果について問い合わせがある。彼女たちは、協力メーカーの仲間に対する返事を、(合否はともかく)間もなく連絡があるだろうと言う希望的観測から、結果が分かればすぐに連絡するという返事に代えなければならなかった。試験終了予定日から2日を経ても連絡を受けなかったからである。
(仲間の中に不安が高まって動揺し始めている)とウォルヒは思った。
 彼女たちは彼女たちに与えられた物で性能を得ようとして、随分と無茶な背伸びをしている。大きな事例で言えば、複座や三座が常識のパトロール艇を単座にしている。船体の構造は信頼性のあるフレームではなく、使用者が見慣れないモノコック構造である。奇抜といえる程の変化をもたらしたのである。
「その事なんだけれど、」
 ウィリアムスが、いつもの陽気な彼女と雰囲気を変えて、多少しんみりとした口調で語りはじめた。少し考え込み戸惑う感じだが、話しておかなければならないような気がしたのである。多少、今の話題から少しずれてしまうかもしれないと戸惑いつつ、彼女は言葉を続けた。
「食事の時にね。工場のジェニファーさん達に同じテーブルに誘われたの」
 ジェニファーさん。ウォルヒたちも名前や顔は知っている。製造部で働いているパート社員だが、仕事のキャリアーは長く、下手な新入社員より上司から信頼され、存在感がある。パートさん達の親分格という存在である。ウィリアムスはその性格で、気が付けばいつの間にか自然に心を通わせて対等の友達づきあいをするという羨ましい長所を持っていた。60歳を越えるというジェニファーさんも、彼女の歳の離れた親友の一人なのだろう。
 その食事の時に、隣のテーブルにいた試作課の男達が、今、まさしくメンバーが危惧している、MSC─Xの奇抜さを指摘したというのである。開発に携わったメンバー自身が危惧しているくらいだから、彼らの指摘には説得力がある。明らかにテーブルにいたウィリアムスに対する当てつけである。
 その時にジェニファーさんの向かいにいたおばちゃんが言った。怒り出すと言うより、あきれて静かにたしなめる口調であったという。
「くやしかったら、あんたらが作ってみたらええねん。出けへんくせに大きな口を叩いてほしないわ」
 訛りがあるが、きっぱりと歯切れの良い口調だったらしい。ジェニファーさんが補足し、ジェニファーさんを囲む仲間が頷いたという。
「あのMSC─Xはね、私たちの手で造ったんだ。勝手なことを言ってもらっちゃ困るね」
 メンバーの前で、その話をしたウィリアムスが穏やかな笑顔のまま、華奢な指先で目尻の涙を拭った。MSC─Xの組立に携わった人々が、その船体を『私たちの手で造った、私たちの船体だ』と表現してくれた。それが嬉しいというのである。メンバーは黙って彼女の話を聞いていた。しっとり暖かな雰囲気が心の底に染み込んできて、ウォルヒは不安をため息に変えて吐き出した。メンバーは黙って、しばらく語りだす者がいなかった。

 保安局からの最初の連絡は、思いもかけないルートでもたらされた。スピカの販売を担当するネヤガワ工業の営業一課にもたらされた。
「スピカの増産は可能だろうか?」というのである。
 不可解な問い合わせだった。新型船導入を検討している中で、今更、スピカのような旧型機の追加購入を検討しているのだろうか。メンバーが待ち望んでいたMSC─Xの試験結果については、素っ気ない回答である。
「試験の予定が延びている。終了まであと2週間ばかりかかるだろう」
 彼らは協力メーカーの仲間にそのまま伝えざるを得ない。結果の連絡を待っていた協力メーカーの仲間も、その連絡を聞くと、張りつめていた気が抜けたように言葉がない。
 突然に思いもかけず、2週間の間が空いた。イマムラは部下に休暇を勧めた。気の抜けた状態で仕事をしていても、作業効率は上がるまいと考えたのである。たとえ数日であっても、休日らしい休日を取っていない部下を休ませてやりたかったのである。

「シンは?」
 バレが聞いた。
「一度、気密服でオリンポス山に登ってみたいけれど、今回は無理だね」
 太陽系最大の火山に歩いて登りたいと言う夢を語るのである。東側と南側を主流にして、いくつかの登山ルートがあり、ルート沿いに避難小屋がある。また、避難小屋のいくつかは小規模なエアーポートも備えていて。このシンカンサイ市と結ばれているのである。その交通機関を利用して登山を楽しむ人は少なくない。
 そのオリンポスの中腹からでさえ、火星の丸みが実感でき、頂上から見える光景は、暗い宇宙空間の中にぽっかりと赤い惑星が浮かんでいると実感できるのだという。何より、大地に足を着けているという感覚が、衛星軌道上から見る火星の光景とは全く違った感慨を生むらしい。彼はその噂に聞いた景色を自分の目で眺めたいと思ったのである。ただ、完全装備の気密服で歩いて登るとすれば、1ヶ月はかかるに違いない。今回は登山を諦めなければならないようだ。
 シンはそんな夢を見ながら、目の回るような忙しさに耐え続けていたらしい。この仕事が一段落着いたら、という仮定で語り出したのはシンばかりではなかった。
「で?、ドノバンはカティアと遊園地。バレは彼氏とデート。ウィリアムスはペーネミュンデ市の観光。さあ、君たちの夢は分かったから、さっさと休暇届を出せ」
 部下達は、イマムラがそう声を掛けなければ、(休暇があれば、、、)と想像を口にするだけに終わってしまうだろう。
「課長は?」
 ウォルヒは首を傾げてそう聞いた。
「帰りに旅行会社に寄って、パンフレットを選んで帰るよ」
 会社に留守番が要る。イマムラは休みを取れないようだが、パンフレットの写真を見ながら、妻のアマリアと共に楽しく話をすることぐらいは出来るだろう。そして、男同士では機密扱いのMSC-Xの開発が障壁になって会話しづらいが、セリーヌとアマリアという女性を介すれば、通常通信でラベル夫妻とのお喋りが楽しめるかも知れない。そう考えるイマムラの表情には休みが取れない不満感はない。

(私にはみんなのような帰るべき故郷や、頼るべき親戚がない)
 ウォルヒは寂しく思った。彼女はこのシンカンサイ市で生まれ育っている。しかし、この都市で父母や弟を失ったという想い出が、無意識のうちに、この都市を故郷という認識から切り離してしまっている。イマムラが提示した1週間の休暇を彼女は5日に値切っていた。その5日間の内、既に4日間を、新しく迎えた家族と自宅で無為に過ごした。
「ねえ。ハム。あなたの故郷はここなの?」
 ウォルヒは新しい家族を手の平に乗せて尋ねた。一匹のシャンガリアン・ハムスターが、ケージの枠を囓って、出してくれと催促していたのである。ハムスターなので、彼女はその名を「ハム」と名付けていた。単純で不慣れな命名の仕方だった。手の平に乗せると、この小さな生き物の腹の温く味を感じることができた。
 数年前に、ドノバンが幼い娘を連れて来た時に、そのカティアを抱くことが出来なかった。子供の柔らかさや温かさが、彼女の腕の中で死んだ幼い弟を思い起こさせるのである。女性として、子供を見るのは好きだが、触れることが出来ない。自分は女として大きな欠陥を持っていると、生真面目に自覚していた。彼女はその自分の欠陥を、この小さく自分勝手に動き回る生き物で補おうとしているのである。子供をハムスターと同列に置くというのは、世の中の母親から見れば笑い出したくなるほどの馬鹿馬鹿しさだが、彼女は大まじめである。以前の彼女なら、その欠陥を自覚はしていても気にもとめなかったろうが、笑い出したくなるほどの愚かさでも、彼女は自分に足りないものを無意識のうちに補おうとしているのである。
 もしも、コロンに感情があれば、彼女がハムと交わす返事のない会話の中に、彼女の成長を嬉しく見守っていたかもしれない。彼女の表情が明らかに穏やかな優しい女性の笑顔に変わっている。
(そう。明日は北公園に行こう)
 休日の最後の日、彼女は指先で碑の中に父母の名を求めながら思った。
(私は、何故、)
 その言葉が続かない。ただ、何かをやり遂げつつある満足感があって、指で辿る父母の名に自慢したいほど誇らしいのである。

 自宅で妻と過ごすイマムラは、「スピカの増産が可能か」という保安局の奇妙な問い合わせの疑問が、やや解けてきた。ウルド特殊車両の連中が、彼らがモニターしていた地球の報道番組を録画して、イマムラの自宅に転送してくれたのである。
 アマリアは夫がため息を付くのに気付いた。またしても、技術供与制限法である。植民市での高速艇開発を禁止すると言うのである。「植民市」と対象をぼかしているが、高速艇を開発する設備や技術は、月を除けば火星以外に無く、事実上は、彼ら火星市民をターゲットにしているのである。さすがに法律で開発の禁止を強制することは出来ないらしいが、そういう風に指導するという。火星行政府の権力は、地球で考えるより遥かに幅広く強大である。行政側から「高速艇開発は好ましくない」と言われれば、事実上禁止すると言うほどの強制力を持っているのである。
 仮に、保安局が今すぐに、MSC-Xの性能を認めたとしても、その後の宇宙空間を航行するための許認可を求める審査には通常一ヶ月はかかる。先の通達は審査前に出されるに違いないと思われた。
「開発が望ましくない」
 そういう通達が出されれば、認可が下りることはあるまい。
 保安局は新型船採用を放棄して、スピカを使用し続けることを選択したに違いなかった。試験結果の通達がずるずる長引いているのはその混乱の結果に違いないのである。運命の分岐点で、彼らに選択肢が与えられないという閉塞感がのしかかっている。
 その報道番組は、後半をテロ事件に費やしていた。数日前、フォボス宙港でおきたテロ事件で、イマムラも日常のニュースで知っていた。比較的、警備が手薄だった、軍関係者の居住区画を狙った爆破テロ事件だったらしい。この録画は地球のメディアのニュースであるために地球市民のニュースキャスターが、火星の報道関係者が踏み込むことがない爆破現場に、深く踏み込んで取材しているのである。アマリアが眉をひそめて顔を背けた。
 爆発によって火傷を負った子供や、瓦礫の下からのぞく女の死体の上半身、手足を吹き飛ばされて治療を受ける人々が映し出されている。アマリアはイマムラの胸に顔を埋めた。
「あれは、私たちがやったの?」
 もちろん彼ら自身が手を下したわけではないが、彼らと同じ火星市民の行為に違いない。地球市民との関係で、彼らは被害者と言って差し支えない状況に遭遇する。しかし、目に見えないもう一方で、加害者でもあるらしい。
「私たちは、宇宙船を造り、運命を自分で切り開きたいたいだけなのに」
 宇宙船の自主開発という夢が、閉ざされていくように思われるのである。イマムラは保安局から、明日、船体を返還するというメールを受け取っていた。試験の結果について触れられていない。イマムラは傍らの妻をそっと抱いて、この妻に恥じないような態度を保ちたいと思った。
 


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