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エリ・スメタナ

 技術開発課が抱え込んでいる問題を挙げればきりがない、しかし、最も大きな問題を挙げろと言われれば、船体を構成する構造材の中で最も大きなエンジンモジュールと、小さな運航システムが挙げられる。エンジンモジュールについては、ウィリアムスの報告で、進展しそうな気配がある。しかし、バレが抱え込んでいる運航システムの問題は、彼女の努力のかいもなく、行き詰まって進展のきっかけがない。

「ストヤン部長。玄関にご面会の方がいらっしゃっているそうです」
受付の事務員から連絡が入ったのだが、その声の調子が戸惑う声音なので、ストヤンは首を傾げた。
「今日は人に会う予定はなかったはずだぞ」
「昔からの親友だそうですが、」
「映像を回してくれ」
 親友を名乗る人物を見てストヤンは息を飲んだ。長身の者が多い火星市民の中でも、ひときわ長身だというばかりでなく肩幅がある。その女性は受付嬢に豪快な笑いを見せている。
「エリ・スメタナ」
と、ストヤンはぽとりとペンを取り落とすほど表情を固くこわばらせて言った。彼女の名前らしかった。そして、彼は思いを巡らしたあげく、彼女の相手をイマムラに押しつけることにした。
(たしか、あの連中は運航システムの作製で行き詰まっていたはずだ。この女がいい刺激になるだろう。)

「あれがね、」
 スメタナはイマムラに要件より先に自己紹介を切り出した。『あれ』とは、ストヤンの事であるらしい。
「おねしょをしていた頃からのつき合いなんだから」と彼女は笑った。
 しかし、ストヤンは公私を混同することを極めて嫌う。その彼が優秀な人物だと言うからにはそうであるに違いない。イマムラは目の前の人物に
(やっかいな役目を背負わされた。)
と思いつつも
(面白い。)
とも考えた。このスメタナの豪快な人柄もそうだがスメタナの持つ技術が自分たちの知らない部分に埋もれていたのかと感じたのである。まだ、可能性はあると思うのである。
 この日から、彼らに新たな仲間が加わった。ただ、彼女の肩書きが面白い。「スメタナシステム開発社長」である。彼女の会社が倒産してストヤンを頼って仕事を探したらしいが、独立気概に富んだ人物で、ネヤガワ工業に媚びる気はないようだ。彼女のアパートには、夫と25歳になる息子がいてスメタナシステム開発の専務と部長である、それ以外の社員はいない。彼女はこの技術開発課に机を1つ置いて「社長室」と称した。技術開発課は、机一つ分の領土を彼女に奪われてしまったのである。
 関係者との調整は問題がなかった。スメタナとバレは親子ほど歳が離れているのだが、気があって仲がいい。あっけらかんとして朗らかな性格が似ているのと、趣味も一致しているのかもしれない、バレにとって信頼できる助っ人が現れたわけだった。
「運航システム? 何言ってんの、あたしゃ宇宙船には素人だよ」
 スメタナはバレの説明を詳しく聞いて、自分なりに解釈した。
「車を手動で動かすことを考えてごらん。まず、あたしゃ右の車線に移動したい。ハンドルを右に切るわね。ところが慣れないモンだから切りすぎてしまう、慌てて今度はハンドルを左に切りすぎてしまう、結果的にあたしゃ車を大きく蛇行させたあげくスピンして車は大破。あんたが言うのはそういうことだろ」
「そうね。だからそういう事故にならないように、まず安定して車を走らせるアルゴリズムが必要なの。そのアルゴリズムを基本にして人間がシステムに介入した変化を加えて修正するの、事故が起きない範囲で、、、」
しゃべっているバレ自身頭の中が混乱してしまっている。
「難しすぎてよくわかんないけどさぁ」
「私にもわかんないわ」
「でも、あんたはアルゴリズムとかロジックとか難しい事を言い過ぎるよ。もっと人を信用しなきゃ」
「人を?」
「まず、人がハンドルを握って運転すりゃいいのよ。事故がおきたら本人の運転が下手なんだからあきらめもつくでしょ」
 バレは黙って笑いながら聞いている。
「でも、あたしの旦那は優しいから黙ってみてないよ。事故がおきる前にハンドルに手を添えてくれるモン。その旦那に代わるモンがあればいいのよ」
「私みたいな独身者なら、ドライビングスクールの教官を彼氏にして、横に乗せとけばいいのね」
「そうね。論理より運転慣れした彼氏の方が役立つわ」
 バレはふと何かを思いだした様な表情を浮かべた。
「要するに、いままで私は操縦者と機械の間を繋ぐシステムを考えてたんだけど、宇宙船の操縦教官に代わるものを作ればいいのね」
「そう」
「ちょっと調べたいことがあるの。明日まで待ってくれる?」

 そのあくる日、バレはスメタナを捕まえて言った。
「ねえっ。ちょっとこれを見て」
 イマムラものぞき込んだが意味の分からない記号が並んでいるだけだ。しかし、スメタナは何か理解したらしい。
「今、製造部の改装ラインに救助機動隊からオーバーホールに回されてきたスピカ84号機があるでしょう。あの船体の最後の48時間分の運航記録なの」
 突発的な事故に備えて、1機づつ運航状況を自動的に記録している。昔の旅客機のブラックボックスと考えれば、それに用途や目的が近い。そのデーターの使用目的から幾重にもプロテクトがかかっていて、部外者には勝手に閲覧できないはずだが、彼女がそのデーターを表示させていると言うことは、彼女がその最初のプロテクトを外したと言うことだ。イマムラは危機管理部との保守契約を思いだした。守秘義務がある。オーバーホールした船体のデーターについて、社外に漏らしてはいけない。
(ここは、まだ社内だ)
 イマムラはそう思うことにした。各船体がパトロールに出かけて帰ってくる。その状況が記録されているだけだ。事故の解析以外に利用価値がないと思われるデーターである。普通はブラックボックスからこのデーターを手間暇掛けて読み出そうとはしないだろう。しかし、契約違反でなくても、データーを勝手に読み出しているという事実には、危機管理部側はいい顔はしないだろう。
「普通は、勝手に読みだそうとした段階でデーターが破壊される仕組みになっているんだけどね。あんたなら、事故の時にブラックボックスのデーターを偽造できるかもしれないね」
バレはそれに答えず、美味しいご馳走が目の前に並んでいるように、小さく舌なめずりをした。
「読み出せればこっちのものよ」
 彼女達は最も困難なプロテクトは外してしまったと言っているのである。
「でも、まったく意味不明の文字じゃないか?」とアサハリが聞いた。
「当然よ。このデーターは暗号化して圧縮したデーターだもの。でもね、データーの性質から考えれば、この文字の大半は数字のはずよ。たぶん、十進数か十六進数の数字だわ」
 彼女は自信ありげに彼女の思考ロボットに命じた。
「ナウシカ。このデーターを8ビット単位で表示させてみて」
 彼女の思考ロボットはディスプレイにアルファベットと数字が混ぜて表示した。まったく意味を成していない。
「分からないじゃないか?」
と、部外者のシンが口を出した。
「黙っててよ。ここはね、複雑に暗号化をする部分じゃないんだから」
「何故分かるんだ?」
「小型機に搭載する量子コンピューターは意外に処理速度が遅いの。そのコンピューターで変化する船体の状況をコンマ何秒という間隔で記録する必要があるの。複雑な暗号を掛けていたらメモリーに記録するのに間に合わないじゃない?」
 彼女はプロテクトを掛ける側と外す側の関係は、単純な知恵比べではなくて、ポーカーの様な駆け引きなのだと言った。コンピューターと人間の役割分担で言えば、こういう駆け引きは人間の役割だ。彼女の考えによればこの箇所には比較的簡単な処理がされているだけだ。
 イマムラにはこのやりとりが理解できないでいる。理解する必要はないだろう、下手をすれば犯罪行為にもなりかねない。ただし、彼の部下たちはこの危険なパズルに夢中になってしまっている。
 この後の彼らの会話は、物語の進行には全く関係はない。ただ、この部下の会話を聞いていたイマムラの困惑した心中が象徴されている。ただ、理由が分からないながら面白いと思ったのは、パズルを解析しているのは、膨大な情報と処理能力を持った量子コンピューターではなく、バレの直感だと言うことである。
「ナウシカ。データーを1ビットづつシフトさせて一番数字が多くなるようにして」
 イマムラにはよく分からない処理をいくつか施して、バレはデーターを精製してのけた。
「数字だけでよく分からないね」
「データーは一定のフォーマットで記録されているはずよ。その区切りの記号が入っていれば良いんだけれど」
「この記号が小数点を表しているのね。この小数点を見ていけば、同じパターンで繰り返し出てくるはずだわ」
「記録して有るはずのデーターは、船体の三次元座標、運動ベクトル、搭乗員の姿勢制御の操作情報、運動ベクトルの変化量、、、」
「推進剤の消費量も記録して有ればありがたいね」
「そのデーターの項目と、組み合わせと、記録順序を探し出せばいいんだな」
 イマムラは部屋を離れた。彼の立場は複雑である。作業を進める立場にありながら、違法行為すれすれの行為を注意すべき立場である。動機はともあれ、今は部下が仕事に熱心で、サボったり怠けたりする事はあり得ない。その点、信頼して良い。
(任せておこう)
 イマムラはそう思った。難しいことは分からないが、行き詰まっていた船体の運航システム開発が、新たな展開を迎えているらしい。その展開には顧客の船体の運航記録が関わっているらしい。
(しかし、メモリーチップと機密)
 彼は過去を振り返るようにそんな呟きを漏らした。ふと、営業時代の調査ファイルを思い出したのである。
 イマムラは研究棟を離れて、懐かしい営業部に向かった。昔の上司と世間話をするためだ。今後、シンプソン営業部長の力が必要になるかもしれないと考えたのである。抱えていた問題は、部下達がなんとかしそうな予感がある。
 数時間後、イマムラは興奮したバレに技術開発課に戻るよう呼びつけられた。
「課長。どこでサボってたんですかぁ」
 ウィリアムスが不満そうに言った。イマムラはただ、笑っていただけだ。搭乗員が船体にどんな指示を与え、その指示に応じて運航システムが、どんな信号を発しているのか、この運航記録の無機質な数値の並びの中で、搭乗員と船体の運航の関係を探り当てたというのである。理論的な数式から導かれた値ではないが、これ以上の適任者はいないと言うほどのベテラン搭乗員の船体操作が、新たな開発機で再現できる可能性を秘めているのである。ただ、データー数が足りない。このスピカ84号機以外の船体のデーターも必要になるのである。
「それで、その過去のデーターを保安局や危機管理部が持って居るんじゃないかというんだな」
 イマムラは部下に取り囲まれて言った。部下はイマムラにそのデーターを取って来いと要求しているのである。部下はその仕事をやり遂げていた。あとはイマムラの番だ。行政側とかけあって、彼らが運用する船体の運航記録を公式に公開してもらい、彼らのデーターベースへのアクセスを許可してもらう必要があるだろう。しかし、危機管理部にせよ保安局にせよ、一中小企業にこんなデーターを提供するはずがないのである。提供させるとしたら、どんな条件を提示しなければならないだろう?
「今の段階で、既にデーターを解析していると言うことは伏せておいてくれよ」
 イマムラはそう部下に命じた。違法行為に近いことをやらかしていると言うことで、今後の交渉を複雑にすることを避けたいのである。イマムラは上司のストヤンの部屋に向かった。この件でストヤンを共犯に仕立てる必要があるだろう。
 部長室では、目の前のイマムラにストヤンが言った。
「理屈は分かった。船の姿勢制御や操縦桿核に関わるパラメーターを、パイロットたちの操縦経験から割り出そうと言うんだな。しかし、我々の手で運航システムを作り上げる事が可能だとして、我社が作り上げるシステムを全て、他社にも公開するというのかね」
「たぶん、それが行政側として我々にデーターを使用させる最小限の条件になると思います」
「官公庁に誰か交渉のパイプはあるのか」
「営業部のシンプソン部長に中継ぎを頼もうと思います。彼なら危機管理部や保安局に顔が利きますから、」
「公開するという件については社長の許可がいるだろう。私が許可を取って置く。君は準備が出来たら、すぐに役所へ飛べ。どうした、さっさと行け」
 ストヤンはイマムラを部屋から追い出した。そして、彼の背後から付け加えた。
「データーの解析にはシュミレーションセンターの協力が必要になるだろう。この件を最優先に処理するように指示を出しておく」
 ストヤンはデーターを解析したという事実には大して気にとめる様子はない。こいつらは目的のために手段を選ばない、という性癖を持った連中なのかもしれない。
(技術屋ってのは、信用できん連中だ)
 そう言ったウルマノフの言葉が、今のイマムラには納得できそうな気がするのである。ストヤンの早急さは、その日の内にイマムラを危機管理部のあるシルチス市に送り出した。シンカンサイ市から見れば火星の裏側である。イマムラはスピカに使用しているN&B社の運航システムのチップと、営業時代の調査ファイルをカバンに忍ばせている。このチップが交渉の切り札になるかも取れないと考えているのである。

 シルチス市。火星自治州の行政の中心組織が集中している。シンプソンから与えられた情報と、思考ロボットの案内を受けてさえ、迷いそうな様々な部局の案内板を確認しながら、イマムラは危機管理部にたどり着いた。各都市の防災機能を管轄する組織で、その一部で火星近傍の宇宙空間でのレスキュー任務を持っている。ネヤガワ工業にとって、レスキュー仕様のスピカの主要顧客である。

「過去にそう言う例はないが、」
 危機管理部の担当官はそういう言葉で、情報の公開を尻込みした。予め予想できる、極めて役人らしい言葉だ。
「聞いて下さい。今の小型船の運航システムというのは、高加速時の船体制御能力が不十分で多量の推進剤のロスを生じています。姿勢制御能力についても現場の方々自身がご不満を抱いているはずです。私たちが何とかしたいと考えてもまったく手が出ないんです。私たちの手でシステムを作り上げる事ができれば、状況は一変します」
「そういうものが出来れば便利だと言うことは分かる。しかし、今まで無くてもやって来れたんでしょう?」
「この小さな部品が宇宙船の中枢の1つです。今後、技術供与制限法が強化されたときに真っ先に輸出制限されて我々の手に入らなくなる部品なんです。いま、この運行システムのチップを作って置かないと、我々は今後、運行システムどころか新しいパトロール艇を造ることも出来なくなるんです」
「イマムラさん、こう考えてはどうでしょう。今後、耐用年数が過ぎて廃棄するスピカが出てくる。そのスピカからこのチップを外して、あなた方に提供する。あなた方はそのチップを利用すればいい。別に問題はないと思うが、」
(頭の切れる男だ)
 イマムラは呆れるように思った。現体制を維持するための理由が、この男の頭に次々湧いて来るらしい。イマムラは営業時代の調査ファイルを広げた。
「見て下さい。ここに運航システムのメモリーチップの写真があります。地球で実際に使用されていたスピカの運航システムのチップが写っています。この横の位置にロット番号が表示されています」
 イマムラ自身、営業部員時代にひどく不思議に考えていた事実を披露した。彼ら営業部員は、危機管理部や保安局に所属する搭乗員から(ネヤガワ工業のスピカは性能が悪い)という苦情を受けていた。その全てが地球に派遣されてスピカの操縦訓練を受けた人々である。おおかた、その地球技術の信奉者の勘違い、もしくは、モジュールを作る工作精度の微妙な違いが積み重なって、火星で製造したスピカと地球のFW201には、性能に若干の違いが出るのかもしれないと理由付けされていたのである。
 イマムラは、当時まだ販売促進課の課長だったシンプソンのもとで、スピカのパンフレットや営業マニュアル造りをしていた時期がある。(高度な地球の技術を継承した)というセールストーク通り、その言葉を象徴する、運航システムのメモリーチップの写真をパンフレットに用いた。その写真の記憶と、バレから見せられたスピカのメモリーチップの現物の間に違和感を感じたのである。
 もちろんロット記号は1つづつ全て異なっているが、彼らがN&B社から提供されたメモリーチップのロット表記の中に、暗号のように共通して「N」の文字が忍び込んでいる。イマムラの相談を受けたバレとスメタナが、そういう回答を下していた。一方で、地球で製造したFW201のメモリーチップには、全くその気配がない。つまり、FW201とその火星仕様のスピカは同じ船体でありながら、その中枢部に目に見えない違いが現実にある。搭乗員の連中がいう、スピカは推進剤の消費効率が悪いとか、操縦時の応答が遅いという微妙に感覚の違いが説明できるのである。穿った見方をすれば、致命的な欠陥がシステムの中に意図的に埋め込まれていたとしても、火星市民はこのメモリーチップを使い続けるしかないのである。
「これが、私たちが地球から購入して使用する運航システムのチップです。目立ちませんが、よく見ると記号が違うでしょう? この2つは同じものじゃありません」
 イマムラは念を押すように2つのチップの製造記号を指さして比較した。担当官もつられてのぞき込んで納得したように頷いていた。
「私たちはね。知らず知らずの内に、地球市民にとって都合の悪い部分を削除したシステムを使用させられていた可能性も有るんです。それすら、私たちにとって分からないんですよ」
 担当官は黙ったままだ、事情を納得したのかもしれないが、ややこしい事実にあまり関わり合いになりたくもないのだろう。イマムラは情熱を込めて声のトーンを上げた。
「私たち自身の手で、小型船の運航システムを作ることで、今のレスキュー隊が抱える問題も解決できるんですよ。そのデーターをあなた方自身がその価値に気付かないまましまい込んでいるんです。私たちに利用させて下さい」
「何をごちゃごちゃ戸惑ってるんだ」
 ついたて越しに低音だが良く響く声で叱りつける声がした。イマムラに対してではない。目の前の担当官に対して怒っているらしい。その人物がぬっと姿を現した。体格が良く、50を過ぎているのだろうが、歳の割に身のこなしが軽い。柔和な目をしているが、何処かその眼光が鋭くイマムラの本心を刺す。デスクワークをやっている人間には見えない。
 男は部下の頭を拳骨で叩いてイマムラに言った。その声音は優しい。
「悪く思わないでくれ、こいつも悪い男じゃないんだが、」
 イマムラは、この種の部下のかわいがり方というのは、現場上がりの人間のものだろうと判断した。男はフランク・ローズと名乗った。
「で、イマムラさん。何がお望みだ?」
「貴方方の部の運航データーを我々に利用させてもらえませんか?」
「イマムラさん。悪いがデーターは我々の管轄じゃないんだ。データーは船体のメンテナンスの時に運輸交通部本部に転送する。今は、彼らの管轄だ」
「そちらに出向けば利用させていただけるんですか?」
「俺の操縦記録も残っているはずだが、大丈夫だ。俺は交通違反をしたことがないからな」
 フランク・ローズはそう笑った。
「イマムラさん。私は昔、地球でレスキューの訓練を受けたときに、スピカというのはこんなに優れた船体だったのかと驚いたことがある。言葉ではよく言い表せないが、こっちで乗るものと乗り心地が違うんだ。さっきのあなたの話でその理由がよく分かった」 
 ローズは担当官の頭をぐりぐり撫でて言った。
「運輸交通部にオレが許可していると伝えておけ」
 担当官はやや渋い顔をして繰り返した。
「私が連絡するんですか?」
「オレがサラ・ロイドが苦手だって事は知ってるだろう。オレが嫌なことはお前の役目だ」
とローズは笑った。サラ・ロイド。豪快なローズが苦笑いと共に、苦手だと口にした名前をイマムラは何となく記憶した。イマムラはやがて、彼女と出会うことになる。
「まったく、腹立たしい話だ。俺たちはスピカに命を託してるんだ、そのスピカに勝手に手を加えられているのか?イマムラさん。奴らの鼻をあかしてやってくれ」

 イマムラは運輸交通部に赴いて、先に保安局、正式には軌道空間部保安局と称している部署を回って彼らの了解を取り付けた。宇宙船の運航に関わる権限を有する部局である。ここでも危機管理局の担当官にしたのと同じ説明を要した。
 次に赴くのが、この軌道空間部と並列して存在する、運輸交通部本部である。フランク・ローズが言ったサラ・ロイドが取り仕切る部署である。この部署で交通行政を一元化して扱っており、イマムラが必要とするデーターはこの本部の下、航空宇宙局で保管されているはずだった。危機管理部と保安局の許可があったためか、たいした手続きも経ずにデーターの使用はあっさり許可された。もともと、日常の運行状況を記録しているだけだから、担当部局の許可があれば、民間に秘匿する必要もないのである。しかし、たいして重要度のないデーターの閲覧するために、行政はイマムラに丸一日の時間を費やさせたことになる。
 この日、出会うことの無かったサラ・ロイドという名に不安が加わって妄想が膨らんだ。戦車を踏みつぶし、口から炎を吐きそうなイメージである。
(出合う機会があるかもしれない)と、イマムラは思った。
 彼らは運航データーの管理だけではなく、新型船の許認可の権限も持っており、この後、イマムラ達の本業でお世話になる部署だった。
 取りあえず、イマムラは行政からデーターファイルを閲覧する許可をもらって、彼らのサーバーのドアをこじ開けた。あとはバレやスメタナに任せれば、ネヤガワ工業の社内の端末からデーターを利用するはずだ。
 MSC─Xは運航システムと言う点で行き詰まっていたが、これで何とか運航システムの問題は片づくかもしれない。イマムラはその僅かな希望にすがった。
 

運輸交通部本部

「リストはこれで全部なのね」
 サラ・ロイドはオスマイルに命じて作製させたリストをながめた。1ページ目にソロモンドックという企業の名があり、その下にずらりと並んだ企業名の一つに、ネヤガワ工業やダロス社の名もあった。
 彼女は立ち上がって窓の外を見た。見晴らしが良い。火星行政府の建物の4階、南側の壁面に面している。行政府を囲む広場や南に伸びる道路、道路に沿って立ち並ぶ建築物などが見渡せる。今は数百人のデモ隊と警護の警官たちが、広場を埋め尽くしている所である。距離がありすぎて群衆の叫ぶ声は伝わらず、彼らが何を主張しているのか分からない。
「『レオン事件』抗議する」とか、「駐留軍の撤退を求めて」だか、「地球市民の主権介入に抗議する」、「火星の自主独立」だか、今の火星でデモ隊がこの広場を埋める理由に枚挙に暇がないのである。
  火星市民の生活に密着しているという点で、ロイドはここから見える景色と、この場所が気に入っていた。オスマイルの見るところ、ロイド部長は国粋主義者ではないが、航空宇宙に関与する全ての火星の地場産業の振興も含めて、自分の使命だと固く信じて疑わない。運輸交通部本部が背負っている義務の1つに違いないのだが、その任務のために、権限の枠を無視する傾向がある。企業の統廃合という目標もその1つである。経済的な問題は、お隣の商工労働部の縄張りのはずだった。
 航空宇宙業界において、地球資本が相次いで火星に進出して、火星の地場企業の経営を圧迫している。その事実は、ネヤガワ工業など中小企業ばかりではなく、彼女たち行政サイドでも充分に把握していた。
 ソロモンドックという企業が衛星軌道上に本社を置いている。ネヤガワ工業と同じく、火星の生え抜きの企業と言っていい。衛星軌道上に、80万トンクラスの宇宙船を収容するドックを3基有しており、大型艦のメンテナンスや組立を行っている。企業の規模はネヤガワ工業より大きい。宇宙船のメンテナンスや製造販売を行うという点で両社は一致しているが、取り扱う宇宙船の大きさがまったく異なるために、所有する設備や技術は異なり、また、顧客にも違いがあって、競合関係はない。
 ロイドはネヤガワ工業を含め、中小の関連業者をこのソロモンドックに吸収合併させることを検討しているのである。いくつかの周辺企業を集約することで企業の体力がつく。地場の企業が地球資本に対抗し存続することが出来ると考えている。問題は、当然のことだが、ベースになるソロモンドックが、赤字部門を抱え込むことに対して、強い難色を示すに違いないことである。是が非でも、ネヤガワ工業には新型船開発の野望を放棄させなければならない。新型船開発という点でネヤガワ工業の財務状況は極度に悪化している。 ただし、この点を放棄すれば、彼らの経営状況は一変して改善されるのである。MSB-Xで挫折した彼らは自主開発に懲りて手を引くだろう。ソロモンドックが彼らを受け入れる余地が生じるに違いない。ダロス社にしてもネヤガワ工業と状況に大差はない。
 彼女の考え方は正しいのだろうし、自己の責任に忠実に違いない。ただ、幾分その枠を逸脱している。中小企業の振興という問題は商工労働部の管轄の問題だが、ネヤガワ工業にとってお役所の縄張り争いには興味はない。困るのは、行政の意図に中小企業の意志が反映されていないことである。
 その矢先、ダロス社から新たなエンジンモジュール認可申請があり、その納品先としてネヤガワ工業の社名が記載されていた。ロイドは、ネヤガワ工業が諦めていたと思われた新型船開発を継続していることを知ったのである。

 イマムラがMSC-Xの許認可に関する相談で運輸交通部本部を訪れたのは、こういう運の悪い時期だった。ニシダ社長の時代に作られたMSA-Xは形は出来上がったものの、売れる見込みがないと判断されて廃棄された。イマムラたちがラベルの指導の下で作り上げたMSB-Xもそれと大差がない。火星において小型船開発が試みられたのはその2件のみだった。つまり、法律上は新たに開発した宇宙船が運輸交通部本部の認可を受けなければ宇宙を航行することが出来ないと定められてはいても、今までの火星でその認可申請をした例は皆無なのである。その初めての手続きをするに当たり、担当部局に相談や調整を行おうというのがイマムラの意図だった。
「ネヤガワ工業のイマムラという人物が、新型船開発について相談したいことがあるという用件で、面会を申し込んできていますが」
 オスマイルはロイドに自分が対応しましょうか、と問う形を取りながら、既に自分が対応するつもりでいる。話を聞くだけなら自分で充分だし、責任者の部長を引っぱり出す事もあるまいと考えたのだった。
「いえ。私も同席しましょう。客を応接室に案内して」
 オスマイルにとって意外なことに、ロイドも新型船開発に興味を示したらしい。今の状況の中で、ネヤガワ工業の社員、まして、新型船開発責任者がやってきたというのは、彼女たちにとって手間が省けるのである。
 イマムラは応接室に現れた女性を見て、これがサラ・ロイドかと思った。以前に危機管理部を訪れたときに担当官がこの名を口にしたときの状況をもとに勝手な妄想を膨らませていたのである。彼の予想通りの人物だった。威張り散らす感じはないのだが、威圧感と言っても良い存在感が重々しい。
 一方、オスマイルもイマムラの態度に興味を抱いている。幾分、緊張感は有り、慎重な物腰だが、度胸があるのか、馬鹿なのか、ロイドの存在感に動じる様子がない。
 『西洋騎士の勇気とサムライの勇気』という例えがある。名誉を失する行為を恐れ、恐怖や怠惰をたくましく抑え込んで行く積み重ねを騎士を育てる勇気とするのなら、目的と自己を同一化し、恐怖や怠惰を失って純化する、その純化がサムライの勇気だと言うのである。ただし、程度を過ぎれば、どちらも暴走する。
 ロイドの場合は西洋騎士に近く、恐怖や怠惰を抑え込んできたという自己に対する自信が他者に対する敬意を薄めてしまって暴走している。イマムラの場合はサムライに近い。
国産機開発という彼の分限を越えた責任が、彼の容量から溢れだすほど満ちていて、ロイドの存在感はイマムラの体を素通りして影響を及ぼす気配がない。

「イマムラさん。あなたはネヤガワ工業の財務状況をご存じかしら? 私たちは航空宇宙産業を管理し、その振興を図るという責任を果たすつもりでいます。船体やエンジンの製造の許認可の権限を持っていますが、私たちの責任に反する事柄について積極的に許可する事は出来ません」
 ロイドはそれだけ伝えると立ち上がり、オスマイルに後の処理を任せた。
「後はお願いね」
 責任者として結論は決まっていて、イマムラの話など聞く必要はないと言うのである。オスマイルには彼女がこの席に同席すると言った理由が分かった。この席上で、この後の交渉の余地は無いという彼女の信念を、イマムラの頭に叩き込むつもりだったらしい。
 彼女の言い分は強引でやや飛躍がある。オスマイルが行政側の意図と、ロイドの結論の橋渡しをした。行政として、ダロス社とソロモンドックの合併計画を推進しているという事を明かしたのである。イマムラにとって初耳だった。地球メーカーの高性能機が存在する中で、性能の劣る船体や、その船体に搭載する核融合エンジンに需要はなく、ダロス社の経営を悪化させる。ダロス社がその合併計画を阻害するような小型機向けのエンジン開発は望ましくない。
 もちろん、イマムラは面くらい、承伏しかねた。そこまで、行政が介入するのかという不快感もある。オスマイルはもう少し露骨に、しかし、表現を和らげて言った。ネヤガワ工業もその計画に入っているとハッキリ断言したのである。ダロス社もそうだが、ネヤガワ工業もその計画が完了するまで、もう少し大人しくしていてくれないかというのである。
 彼ら行政の意図は分かる。まず、吸収合併させれば赤字を生じる部門は閉鎖される。小型機向けのエンジン開発や小型機の開発は放棄することになるだろう。そういう意味で、結果として、はっきりとものを言うロイドと、穏やかなオスマイルは同じ事を言っている。彼ら行政には他の選択肢は無いらしい。
 イマムラはシルチスの滞在を1週間延ばした。他の仕事も抱えていてこれがぎりぎりの延長期間だった。この期間でなんとかと思うのである。そのイマムラをオスマイルは飽きることなく、毎回きちんと対応した。もちろん、オスマイルとしてはイマムラの陳情を聞くためではなく、目的は別にある。今後、合併話をメーカーに持ち込むためにネヤガワ工業と接触する必要がある。イマムラという男と話してみると、技術部に身を置いている癖に、交渉事の勘が良く、話がしやすい。この男は交渉の窓口として役に立つだろう。ただし、お互いの主張を受け入れると言うことは別問題だった。オスマイルもイマムラも主張を譲る気配はない。
 イマムラはロイドに合うこともできないまま予定の期間が過ぎた。
(なんて熱心で頑固な男だ。)
 オスマイルはあきれるような思いで考えた。一度、2人で食事でもしてみるのもいい。彼は髪を掻きむしるよう掻き上げた。迷ったり困ったりした時の癖である。
「一度、場所を変えてお話ししようか」
 場所が変わればこのイマムラという男も、もう少し柔らかくなるかもしれない。

「こんなことなら、カフェの方が良かったかな」
 オスマイルは笑った。二人は酒場のカウンター席に並んでいるのだが、二人の心を和らげたのは、酒ではなくて、二人ともほとんど下戸だという共通点である。イマムラはオスマイルの表情を見ながら頭が下がる思いだ。
(ありがたい)と思うのである。
 オスマイルはたいして減りもしないジンのグラスを傾けながら、酔いで口が軽くなったように語った。吸収合併を意図していると言っても、行政サイドが勝手にやれるわけじゃない。必ず何かの形で企業を説得しようとするだろう。経営権を持った社長クラスの人物なら、ロイドも会おうとするだろう。と言うのである。
「私の力が不足していて、説得できなかったのなら、説得できるまで何度でも来ましょう」
 オスマイルは初めて出会った日に、イマムラがそう言ったのを覚えている。その言葉にオスマイルは応じていた。
「無駄だよ。あなたはあの人のことを知らない」
 ロイドの頑固さは手に負えないというのである。ただ、イマムラの見るところ、オスマイルという男の頑固さは組織に対して忠実だという点だ。その組織が方向を変えれば、彼も柔軟に方向を変える。頑固さと柔軟さを同時に持ち合わせているらしい。オスマイルという男の柔軟な部分が、(社長を連れてきて合わせればいい)という提案をさせたのだろう。
 しかし、オスマイルの頑固な部分は、彼の分も含めて支払いを済ませようとしたイマムラを制して、自分の飲み代をきちっと自分で支払わせた。その態度がさり気なく、他人を拒絶するような印象がない。こういう男らしい。
 

ウルマノフとロイド

「私では役不足だと考えているのかね」
 シルチスから帰社したイマムラにストヤンは渋い顔をした。最前線の小隊長が、直属の中隊長や大隊長を飛び越して最高司令官に前線に出てこいと主張している。イマムラが要求のはそういうことである。イマムラはストヤンの立場を察して黙って頭を下げ続けている。
 オスマイルの言うとおり、ロイド部長という人物は、繰り返し訪問することで、こちらの熱意に打たれて彼女の信念を変えると言うことはないだろう。次の面会で決着をつけなければならない。次の一度の機会に決着をつけるためにはウルマノフ社長というインパクトが必要なのである。ストヤンと共に社長室に出向いたイマムラにウルマノフが言った。
「事情は、クルーガー社長からも聞いた」
 ウルマノフにシルチス市に出向くのに異論はなかった、むしろ、自分から交渉に出向くつもりだったらしい。

 運輸交通部本部で彼らを迎えたオスマイルの笑顔がイマムラにはありがたかった。ようやくウルマノフとロイドを会わせ直接交渉させる事が出来るのである。
 ところが、ウルマノフとロイドは向き合ったとたんに互いに露骨な嫌悪感を露わにした。
「ほぉ。あんただったのか」
 まずウルマノフはそんな感嘆の声を上げた。初対面ではなかった。お互いに顔は知っている。ロイドの方は技術供与制限法の施行に反対して怒鳴り込んできた中小企業の社長として、ウルマノフはラベルの在留を認可しようとしなかった頑固な役人として、互いに相手の顔を記憶に刻んでいたのである。
「あんたじゃダメだ。まるで分かってない。図面の読める担当者を出せ」
 『図面が読める。』というのはラベルがよく使った比喩で、1枚の図面に込められた作成者の意図を読みとる能力を指している。ウルマノフはロイドに向かって、お前のような素人は交渉の相手にならないと宣言しているに等しい。
「ウルマノフさん。貴方は経営者として、今の状況が読めないの? 貴方は会社の財務状況をみて、事態が改善するとお考えなのかしら」
 ロイドはウルマノフにお前には経営者の資質が無いと言う。
 15分の面会時間に、二人の話は遂に平行線を保ったまま交錯することがない。オスマイルの協力にも関わらず、面会は不調に終わったのである。
「うちの会社に招待してやるから、あんたも一度は、現場をみてみろ」
 ウルマノフはそう言い残してロイドの前から姿を消した。

 ウルマノフが去った後、部屋に戻ったロイドの表情はいつもと変わりなく、彼女の信念に揺るぎがない。
「オスマイル君。中小企業の統合の話は早急に進めなさい。商工労働部との協議も必要でしょう。至急、調整を図ってちょうだい。必要なら私が交渉に出向きます」
 部屋から見える町並みに、その灯が幾つも消えて薄暗い。大気から閉ざされて太陽も見えない空間なのだが、この町にはこうやって昼夜の区別が存在するのである。時間は既に夜の6時を回っている。
(今夜も遅くなりそうだ)
 彼女は自分の帰宅時間を考えた。窓から見える街路に帰宅の人々が連なるように歩いている。
(あの一人一人に家庭があって、帰りを待つ家族が居るのね)
 眼下に人々を見ながら彼女はそう思った。感傷ではない、彼らを守る責務を思ったに過ぎないのである。彼女は夫を失ってから一人暮らしが続いていた。
 このあくる日、娘が孫を連れて彼女のもとに戻って来た。
 

ダニー・ボーイ

 ロイドは几帳面に机の上を整理して立ち上がった。
「部長、今から外出ですか?」
 部下の一人が驚いて声を掛けた。まだ、夕方の5時である。これから日が暮れ始めるところだ。出かけるには遅く、ロイドのいつもの帰宅時間にしては、随分と早いのである。
「娘から孫のお守りを頼まれていてね」
 彼女はそう言って、コートを羽織った。『孫のお守り』という言葉を部下は解しかねた。もちろん彼女は孫がいてもおかしくはない年齢だが、娘や孫という、ひどく人間くさい言葉と彼女の人柄を結びつけて考えることが出来なかったのである。部下は唖然とロイドを見送った。
「まったく、こんな時しか戻って来やしない」
 最後に言い残した言葉は、嫁に行った娘のことを表現しているらしい。

 彼女は今日はムーヴァーを使わずに歩いた。
(たしか、この通りに、、)
 古い記憶で不確かだが、この通りに玩具屋があったことを思い出したのである。彼女の思考ロボットに確認すれば良いのだが、彼女は頭の中の古い記憶に頼りたかった。ほぼ、記憶通りの場所にその店を見つけた。ビジネス街の一角で、この辺りで唯一の玩具屋である。勇気を出して踏み込んだのだが、場違いな場所に来てしまったような気がして戸惑いが隠せない。
「何かお探しでしょうか?」
 品の良い若い店員が彼女に尋ねた。普段、この店では客が自由に商品を選べるように、店員から客に声を掛けないと接客マニュアルで定められている。その規則を破らなければならないほど、ロイドは店内に一人で困り果てていたのである。
「孫にプレゼントしたいんだけれど」
 彼女は的確な商品のカテゴリーを指摘できないでいる。
「女のお子様ですか?」
「いえ、男の子」
「歳はおいくつ?」
「たしか、3歳の誕生日を少し過ぎたところだわ」
「室内で遊ぶような物がいいかしら」
 ロイドは店員の質問に頷くばかりで積極的な答え方が分からないでいる。店員は手慣れた様子で、彼女のために選択する商品を絞り込んで、宇宙船の玩具を選んだ。
「あらっ」
 ロイドは何かに気付いたように、店の隅を指さした。
「ごめんなさいね。やっぱりあれがいいわ。あれをちょうだい」
 人間の赤ちゃんほどの大きさのウサギの縫いぐるみである。店の片隅で時代に取り残されて、埃を被っていた縫いぐるみである。
「包みにはリボンもつけましょうか?」
「ええ。お願い」

 ロイドは託児所の前で、一つ、生真面目な表情のままで深呼吸をした。孫に会うということに勇気がいる。二人はまるで初対面のように向き合って、ぎごちなく手をつないだ。外見はおばあちゃんと孫娘に見える。目が大きい愛らしい顔立ちの子供で、男の子だが、ロイドが買い与えた縫いぐるみを抱いていると、女の子に見えるのである。この子の目の大きな顔立ちは、自分や娘の血を引いているとロイドは思った。孫に夕食のメニューの相談を持ちかける彼女の様子は戸惑うようで、仕事場での面影はない。
「ウィル。何か食べたい物はある?」
 ウィルは少し考え込んだ。
「ハンバーガーとフライドチキン」
 笑顔の孫に、祖母は渋い表情を浮かべた。
「あんた。もっと良い物を食べさせてもらっていなかったのかい?」
「じゃあ、ピザ」
「他には?」
「ドーナツ、ポテトチップも」
「ウィル。そんなものばかり食べてるとアメリカ人になっちゃうよ」
 孫は料理の名を考えあぐねて、困り果てたように首を傾げて祖母を見上げた。
「ねぇ、ウィル。おばあちゃんは、コーンスープやグラタンやニシンのパイ包み焼きなんて得意なんだけどな」
 もちろん、この数十年で腕が鈍っていなければと言う条件が付く。そのやや控えめな提案に、職場でのロイドの面影はない。食べ物の名をいくつか並べている内に、二人は家に付いてしまった。ロイドと孫の帰宅に合わせて明かりをつけ、部屋を暖めて風呂を準備しておくと言うことは容易なことだ。彼女の思考ロボットに命じればいいのである。ロイドは心の底で、空調を先に帰宅しているかもしれない娘に任せていた。娘はまだ帰っていないようだ。家の中はひんやり静まり返っていて、暖かみがない。
 孫を迎えて3日目になっても、彼女の料理をする手つきがおぼつかない。彼女ははるか昔を思い出しながら自分の手で料理をした。彼女はクリームシチューに母親と娘が絡む記憶を持っている。サラ・ロイドは、このシチューの味を母親から習って、娘に作り伝えてやったのである。
 ロイドと孫のウィルは、もくもくと食事をした。共通の話題が見つからない。彼女が買い与えた縫いぐるみは、薄汚れたウサギの縫いぐるみと並べて、ウィルの手を放れてベッドの棚に置いてある。古いウサギは彼女の夫が、昔、娘に買い与えたものだ。いまは、ウィルが母親の代わりに抱きしめて床についていた。洗ってやろうとしたらウィルが抵抗したた、諦めて新しいのを買い与えてやったのである。新しいのを手に入れても、ウィルは古い縫いぐるみを手放そうとしなかった。
「おばあちゃんと一緒に、公園を歩こうか」
 ロイドはそう提案した。その行動力は彼女らしい。もう、そうすると決めて孫にオーバーを着せていた。この時間、公園で孫を連れた年寄りが散歩している。この外出でウィルの友達を見つけることが出来るかもしれない、そんな理由付けしたのである。時間はまだ夜の8時でを少し回ったところで、ウィルを寝かしつけるには早く、ウィルの就寝時間まで会話をするには、二人に共通の話題が足りない。
 外は肌寒い。凍えると言うほどではないが、夜間はエネルギー節約のため、都市内部の温度が低めに抑えられているのである。多少暗く調節した照明と、この気温が、太陽の光が射し込まない都市の中に夜を作り出している。
 ベンチに座って孫を膝に抱き上げると、思いの外、重い。彼女は孫の温みに幼い頃の娘を思い出した。21歳で駆け落ち同然に家出をして音信不通になっていた娘である。きっかけは些細な理由だったような気がする。年頃に育った娘の連れてきた男が、夫や彼女の目から見て気に入らない。風采が上がらず娘を託すには至らないと思ったのである。世間一般から見ても、娘が連れてきた男に密かに反感を抱くのは珍しい事ではないだろう。彼女たちは若者の「愛し合っています」という言葉が信用できなかった。
 彼女の夫は、自分の自慢の娘が学校を退学し法律家への夢を断念するというのもまた、この男の責任であるような気がしたのだろう。強硬に娘の結婚に反対した、彼女も夫を支持した。その夫も5年前に他界した。寂しい葬式だった。口には出さなかったが、彼女は心の何処かで娘の帰宅を待っていたのである。

「『ああ、ウィル・ボーイ。
  パイプの音が、谷という谷に満ちあふれ、
  山の峰をかけ下ってあなたを呼ぶわ。
  夏は過ぎ去って、咲いていたバラは残らない。
  あなたはもう行かなくちゃ。』」
 ダニー・ボーイの詞を孫の名に変えて、彼女は古い民謡を口ずさんだ。このメロディは彼女が幼い頃に父親に抱かれて聞いた覚えがある。彼女にとって意外なことに、ウィルが膝の上で祖母のメロディを引き継いだ。
「『でも、また牧場に夏がめぐって来たら戻っておいで。
  たとえ、谷間が雪で白く静まり返っていても、
  晴れているときも曇っているときも、
  ここでずっとあなたを待っているから。』」
「あらっ、ウィル。この歌を知っているのね」
「うん。ママが歌ってくれるよ」
 娘のアレサがウィルの手を引いて彼女のもとに姿を現したのは3日前の休日のことだ。9年間も音信不通のあと、予告もなく母親のもとを訪れたのである。そして、娘は母親に、昨年、夫と死別したと伝え、彼女が初めて会う孫を紹介したのである。
「これ」
 彼女はマフラーを差し出して続けた。
「もうすぐママの誕生日よね」
 9年間の穴埋めがこの粗末なマフラーらしい。短い単語をいくつか繋いだ会話の後で、娘は彼女にウィルを託した。仕事が見つかるまで、子供を預かって欲しいというのである。
「よければ、あんたもここにいてくれても良いんだよ」
「ここは大きな事務所ばかりでしょ。ちょっと田舎で、小さな所で落ち着いていろんな経験をしたいのよ」
 娘はどこかの法律事務所に職を求めたいと言った。事務をしながら、再び法律家の勉強をしたいというのである。もう、娘は彼女の手を放れてしまったらしい。自分には娘の意志を変えることが出来ない、ロイドは愛する者に裏切られ捨てられたような気がした。では、このウィルを自分は娘を失った心の隙間を埋めるために利用している。そんな罪悪感がちらりとよぎった。

「お孫さんですか?」
 幼い子供の手を引いた老人が彼女に声を掛けた。小さな女の子が老人にまとわりついて、老人の足の向こうから此方をのぞき見ている。ウィルのことが気になるのだろう。
「ええ。娘に孫のお守りを頼まれてね」
「可愛い娘さんだね。目のあたりがおばあちゃん似だ」
「ボク、男の子です」
 ウィルがそう反論した。
「ごめん。ごめん」
 老人が勘違いを詫びつつウィルの頭を撫でた。
(おばあちゃん似?)
 彼女は不思議な感覚を込めて思ったが、言葉はやや愚痴を込めたものになった。
「まったく、こんな時しか帰って来やしないんだから」
「それは娘さんから?」
 老人はロイドの首に掛けたマフラーを指さした。編み目が大きく不揃いで手作りだと言うことが分かるのだろう。ウィルは彼女の膝から下りて、女の子と老人の足下をくるくる回った。
「ええ。子供の頃から、編み物が下手な子でしたわ」
 去って行く女の子に手を振ったウィルは、満足気に大きなあくびをした。もう、寝かしつける時間らしい。

 しかし、子供はこんなに気まぐれなものだったかと思わざるを得ない。眠そうだったはずのウィルは、ベッドの中で大きな丸い目をぱっちり開けてしまった。起きだそうとする孫を、ロイドはもう一度ベッドに押し込んだ。
「おばあちゃん。ご本を読んで」
 ウィルは彼女にねだった。彼女の心の底にじんと響く言葉だ。孫が初めて祖母に甘えたのである。
 絵本が書籍という形のままで、この時代にもある。幼児の枕元で読み聞かせるというコミュニケーションの手段が、ずっと人々に引き継がれている証拠だった。ウィルは縫いぐるみのウサギとともに、お気に入りの絵本を所有している。彼は母親がそうしてくれたように、枕元で聞かせて欲しいというのである。ロイドは孫の枕元で絵本を広げた。
「『ちいさい魔法使いのアトラは魔法の修行が嫌いで、今日もサボって、屋根の上に寝転がって夜空を見上げていました。空にはいくつものお星さまがきらきら光っています。』あらっ。このアトラは勉強が嫌いなのね。ウィル、あなたは?」
 念を押した祖母に、孫は笑った口元を毛布で隠して、自分と同じかもしれないと同意した。
「『ああっ。あの星がボクの友達なら、どんなに楽しいだろう。』と独りぼっちのアトラは思いました」
彼女の声に聞き入る孫の表情は、絵本の主人公より数段可愛い。ロイドはページをめくって読み続けた。
「『ねぇー。お友達になってよー。』アトラは大声で叫んだのですが、空のはるか上の方、お星さまはきらきら光っているばかりで、アトラの声は聞こえません。小さなアトラは独りぼっちのままでした。『ああそうか、ボクは魔法使いだったんだ。自分で作ればいいんだよね。』アトラは友達を自分で作ろうと思いました。でも、いままで、アトラは修行をさぼってばかりでした。あくる日から、まいにち、アトラの小さい家の中から、いろいろな大きな音が響き始めてとてもにぎやかでした。それは爆発の音だったり、アトラが泣いたり怒ったりする叫び声でした」
 ふと、ロイドの言葉が途切れた。この小さな魔法使いの馬鹿馬鹿しい雰囲気に、何故かネヤガワ工業の連中の顔を思いだしたのである。ウィルは祖母の手を引いて、早く先を読めと催促した。
「やっと、お星さまが生まれました。
アトラは友達ができてうれしくて大はしゃぎです。
でも、ちょっと変でした。お星さまに元気がありません。
アトラには良く分かりました。だって、自分がそうだったから。
アトラのお星さまは、この地上で、ほかのお星様から遠く離れて、独りぼっちでした。
また、寂しくなるかもしれないと、アトラはまず自分のことを考えました。
でも、アトラはお星さまを空に送り届けてやろうと思ったのです。
ちいさな魔法使いのアトラは、背伸びをしてみましたが、空に手がとどきません。
あんなにたくさん見えているのに、お星様はみんな空のずっと上でした。
このときでした。誰かがアトラを肩車で持ち上げてくれたのです。
それはアトラの仲間で、いちばんの力持ちのソユーでした。
それでもアトラの手は空の高さに届きません。
『みんなあつまれー。お星さまを空まで持ち上げるぞ。』
ソユーが声をかけたので、ものかげにかくれてアトラとソユーを見守っていた ちいさな魔法使いがいっぱい集まって、空にはしごをかけたり、虹の橋をのぼったり、にぎやかになりました。
みんな、ほんとうは、アトラのことを心配していた、やさしいなかまでした。
それでも、なかまが持ち上げたお星さまは、空にはとどきません。
ちいさな魔法使いたちは、先生の大魔法使いに、相談することに決めました。
『あなたたちも魔法使いでしょう。』
先生の大魔法使いは、そういって、手伝ってくれません。ちいさな魔法使いたちは、自分たちでやるしかなさそうです。
『そうだね。ボクたちは魔法使いだ。しんじることはなんでもやれる。』
『そうよ、魔法を使ってロケット花火が作れるわ。』
と、アリアが思いつきました。いい思いつきだとみんなは思いました。
みんなはお星さまを空に連れて行くのに、小さな魔法でロケット花火を作りました。
その花火は、アトラたち、ちいさな魔法使いの人数分だけあって、お星さまを空に運ぶのにじゅうぶんに思えました。
お星さまを空に運ぶ日がきました。アトラたちはロケット花火に火をつけて、花火につないだ紐にぶら下がったお星さまにお別れの手を振りました。
『あれれ、上手く上がらない、、、。』
空にあがったお星さまは、空のまんなかで宙ぶらりんでした。仲間のお星様の所に届きません。
『もう、あの子たちときたら。』
物陰で、アトラたちを見守っていた大魔法使いは、あきれたようにためいきをつきました。
『がんばれ、がんばれ、もっと、がんばれ。』
やさしい大魔法使いの声が、だんだん大きくなって、アトラたちの耳にも届きました。
『そうだったんだ。』
アトラたちは先生を振り返って思いました。
アトラたちは魔法使いです。魔法にとって大事なことは、お星さまの願いをかなえてやりたいという思いやりでした。
『がんばれ。』
『ぜったい、あがるぞ。』
『なかまのところへ、飛んでいけ。』
アトラのお星さまは、ちいさな魔法使いの声にのって、どんどん空の上に上がっていきました。
やがて、空にのぼってほかのお星さまにまじっていきました。
どのお星さまも幸せそうに輝いていて、とれがアトラのお星さまか区別がつきません。
でも、たくさんの光の中にの中に一つ、まんぞくそうにウインクする星がありました。
『きっと、あれがボクたちの星だね。』
アトラは周りを見回しましてそう言いました。
いまのアトラは、あのお星さまといっしょでした。お星さまと同じように、やさしい仲間に取り囲まれていました」
ロイドは読み終えて、最後のページを閉じた。
「よかったね」
 ロイドは孫の額を撫でて、物語の結末に同意を求めた。しかし、幼児の気まぐれさを思い起こさずにはいられない。孫のウィルの返事は、物語と全く関係がない。
「おばあちゃんのシチューはママのと同じ味がした」
 ウィルはベッドの中でそう言ったのである。
(おばあちゃん似?)
 さっき老人が言ったことを孫の顔の中で思い出した。この孫は私の血を引いている。そして、この子の母親が自分の生き方にこだわるのも、母親である自分の頑固さを引き継いでいるのかもしれない。
 ウサギの縫いぐるみが2つベッドに並んでいる。片方は自分がプレゼントしたものだ。ウィルは喜ぶふりをした。自分を喜ばせようとしたのだろう。孫の幼い演技はおばあちゃんにばれていた。
(でも、私はこの子に何を与えてやれば良いんだろう)
 親である自分の意志に反して、手を離れていった娘に対する、惨めな恨みが失せた。失った娘が残した心の隙間を、この孫で埋めてはならないだろう。この子を笑って送り出す時のために、ロイドはそう考えた。
 彼女は絵本を閉じて、眠りについた孫の枕を優しく直してやった。絵本の裏表紙にはアトラを囲んで大勢の小さな魔法使いが空を見上げる絵があって、彼女は真ん中のアトラを指で撫でた。ウィルのイメージを重ねたのだろう。
 

ロイド来社

「なに?」
 イマムラは受付から連絡を受けて怪訝な表情を浮かべた。その驚きは表情通り、疑問や違和感に満ちていて、それを部下から隠す余裕がない。部屋の中のメンバーも首を傾げ、不思議そうにイマムラをながめた。
 突然に予告もなく、運輸交通部本部の責任者が来社したというのである。肩書きから見て、あのロイドに違いない。部長クラスの役人が中小企業を直接訪問するというのは前例がない。連絡を受けたイマムラがまず考えたのは、社長に連絡をしておくかと言うことだ。しかし、別のルートでウルマノフに連絡が入ったらしい。出張中の社長から、すぐに帰社するという連絡があったという。そのウルマノフからストヤンに指示があった。
『自分が戻るまで、一時間の間、陣地を死守して守り抜け。』
と言い放ったらしい。その任務をストヤンとイマムラが背負った。

「お気になさらないで。仕事の都合でシンカンサイ市に来る機会があったので、ついでにお寄りしただけですから」
 オスマイルを伴ったロイドはさり気なく言った。
「今日はどんなご用件ですか?」
 ストヤンがロイドの迫力に圧倒されているようだ。
「時間がありませんから手短に。まず、工場を見せていただけないかしら」
 時間がないというのは事実だろう。部長というポストに大きな権限が集中している。有能な部下に恵まれているとしても、その忙しさは半端ではないはずだ。ロイドはすでに席を立ち上がっている。ストヤンは慌てて、工場に入るための作業着とヘルメットの準備を命じなければならなかった。既に主導権は彼女に握られている。
 イマムラの案内で、ロイドは工場を巡回した。あまりこういうものを見る機会は無いらしいが、取り立てて彼女の興味を引く物もないらしい。
(雰囲気は悪くない)
 ロイドはそう思った。自分と同じく技術的な素養のないイマムラが、生真面目に製造ラインやライン上の船体について、説明してくれるのだが、技術的なことはどうでもいい。そんなものは部下に任せればいいのである。彼女はイマムラの説明を聞く振りをしながら、工場の中を見回し雰囲気を味わっていた。
 床にはゴミ一つなく、機械部品は名札をつけた棚に整理されている、機械工具は所定の位置にある。設備は新しいとは言えないが、綺麗に磨き上げられていて、そこで働く従業員はちゃんと教育されているようだ。
 全て製造ラインには、船体や船体を構成する部品がのっかっていて、遊んでいるラインがない。この企業が設備を稼働させるだけの仕事を受注しているのは間違いがない。
 製造部長が部下を怒鳴りつける場面に遭遇したが、怒鳴りつけられた部下の様子がはきはきと明るく、内にこもる暗さがない。モノを作ることに誇りと責任を持っている証拠だと思った。
「イマムラさん。もう、これで充分」
 ロイドは工場半ばで見学を打ち切った。全てを見てもらって、今一度、再考してもらいたいというストヤンとイマムラには、ため息が付きたくなるほど残念だった。彼女が判断を変えるつもりでやってきたのかと、都合良く考えないこともなかったのだが、彼らの思惑とは別に、この女には彼らをソロモンドックに吸収させることしか頭に無いらしい。この来社はその為の下見なのだろう。
「次は、あなたの仕事場も見ておきたいわね」
 ロイドは再び主導権を握った。新型船設計の現場も見ておきたいというのである。
 彼女を技術部まで導いたイマムラは、その入り口でガーヤンに遭遇した。ガーヤンは彼らに愛想笑いを残して、ばたばた賑やかな足音をたてて廊下を駆けて姿を消した。
(あの重戦車が偵察か?)
 ストヤンが呆れたような小声で尋ねたので、イマムラはそうかもしれないと小さく頷いた。ウルマノフの接近を知らせる警報システムが、ロイドには適用できない。部下達はガーヤンを技術部の入り口まで偵察に出していたらしい。じっと物陰に身を潜める狙撃兵のシンか、軽快な機動力を持った偵察部隊のバレでもいい、もう少し適任者がいるだろう。ガーヤンという重戦車は目立ちすぎる。人選ミスだろうと非難するストヤンに、イマムラも同意したのである。
 ロイドはガーヤンに気づいているはずだが気にする様子はない。機動部隊が示威行動のために遊弋するように、存在を露わにしておくことが目的のようで、敵方が偵察することすら意味がないのである。技術部内部の部屋を回って行くロイドにそういう存在感がある。職場を見ておきたいという言葉と裏腹に、彼女は工場を巡回したときと同様に、大して興味を引かれるものはないらしい。イマムラやストヤンがオスマイルの質問に答えている内に、ロイドが次の部屋に移っていると言うことがあり、気付かない内に彼らは、ロイドが居なくなった部屋に取り残されていた。彼女は抵抗を受けないまま、この建物の最も奥の技術開発課にたどりついた。
 イマムラが導き入れた技術開発課には、いつものメンバーがそろっている。ロイドは部屋を見回した。孫に読んで聞かせた童話に出てきた小さな魔法使いの家に似て、この部屋は随分小さい。この部屋から溢れるほどの人間がいて、みんな新型船開発という馬鹿馬鹿しい夢を見ている。
(でも、みんな素直でいい目をしているわね。このイマムラという男に似ているのかしら)
 ロイドは技術開発課のメンバーを見回しての感想だった。彼らの目は卑屈でもなく奢ってもいない。ロイドに多少の心理的変化がある。彼女の信念が変化したわけではない、ただ、この連中の顔が微笑ましく見えるのである。
「ストヤン君。ストヤン君。ちょっと用があるんだけど」
 スメタナがストヤンに用があるらしく小声で声をかけた。ストヤンにも心当たりがある。作業報酬の件でスメタナから相談を受けている。会社の規模は小さいながら、彼女は社長で社員の生活を守っているのである。今日、彼女と相談して報酬額と支払い方法について再検討する約束になっていた。しかし、ストヤンは彼女に手を振って見せて、彼女の言葉を無視した。今はそうせざるを得ない。ロイドの相手で手一杯だ。
「こら、寝ションベンたれ。用があるって言ってるのよ」
 スメタナがストヤンをその別名で呼んだので、今度はストヤンはスメタナと向き合わざるを得ない。
「イマムラさん。あのお行儀の悪い方はどなた?」
 ロイドの質問は視線の先のスメタナのことを指しているらしい。ロイドには及ばないが、スメタナも独特の存在感を持っていて、ロイドはこの部屋で初めて興味を引かれるものを見つけたようだ。
「スメタナシステム開発の社長で、いまここで働いてもらっています」
「あら、イマムラさん。あなたたちは、彼女の会社を吸収してしまったというわけかしら。あなた達は弱者を吸収しても、強者に吸収されるのはお嫌?」
「ロイドさん。あれが吸収された様に見えますか?私たちが彼女に吸収されそうだ」
「でも、貴方達に協力して働かされて居るんでしょう?」
「あなたがどう見るか分かりませんが、喰ったり喰われたりする関係じゃない。お互いに敬意を持てる能力があるから、お互いを利用し合ってるだけです」
「吸収とは別の関係という事かな」
 オスマイルがそう結論づけた。普段は気難しいロイドが、この時にはオスマイルの言葉に同意を示し、スメタナの後ろ姿を眺めていた。
「なるほど、興味深い関係ね」
 イマムラはロイドやオスマイルと共に応接室に戻った。成否は分からないが、彼女がこの企業に不満を持っている様子はない。オスマイルは彼女の表情からそう判断して胸をなで下ろした。ウルマノフの帰りを待つ間、途切れた会話をロイドが繋いだ。
「ねえ、イマムラさん。あなたは子供に何を与えてやれるのかしら」
 イマムラはオスマイルと顔を見合わせた。二人ともロイドから発せられた言葉だとは思えなかったのである。
「残念ながら、私は子供に恵まれていません」
「あら、ごめんなさいね。でも子供はいいものよ」
 ロイドの人柄からは信じられない言葉である。この時に、ようやく社に戻ったウルマノフが早足で応接室に現れた。
「敵の寝込みを襲うような、見事な奇襲攻撃だ」
 ウルマノフはそう言った。予告もなく自分が不在の間にやってきた事を指摘しているらしい。ウルマノフが応接室に顔を見せたために、ロイドは会話の相手をウルマノフに代えた。
「いえ、この間お会いしたときに、ご招待いただいたでしょう?」
 そう言えば、前回会ったとき、ウルマノフは彼女に言い捨てた覚えがある。
(一度うちに招待してやるから、現場を見て見ろ)
「だから、一度、現場を見せていただいていたの」
 ロイドの言葉に皮肉が満ちていた。ロイドが来社してくれたと言うことは、事態が好転する兆しかもしれない。イマムラのそんな甘い期待は裏切られた。
「ど素人に分かるもんか」
 ウルマノフは皮肉ではなくストレートに言い、ロイドも応じた。
「あらっ。図面は読めなくても。企業の決算書ぐらいは読めますわよ。なんでしたら、御社の貸借対照表について、御社の悲惨な状況をご説明して差し上げましょうか?」
 もと経理部出身のウルマノフに対する強烈な皮肉である。新型船開発の経費が経営を圧迫して、経営状況は悪化している。たった一枚の表からはっきり読みとれるのである。彼女は言外にあなたにはこの経営危機が自覚出来ないのかと問うているのである。彼女は説得の言葉を続けた。
「会社の規模ではなく、この火星で占める役割について、あなた方を随分評価しているつもりです。それゆえに、私たちは火星市民のために、地場産業が、致命的な打撃を受けることだけは回避しなければなりません」
「そのために、あなた方の提案に従えと、」
「会社を潰さず存続させるために、企業を統合するというのは最も適した方法です」
「統合と言えば聞こえは良いが、要するに弱者が吸収されるって事だ」
「もう少し幅広い視野で見ていただけないかしら」
「ロイドさん。あなたは企業というものを理解していない。私たちは積み木じゃない。あなた方の勝手な都合で組み立てられてはたまらない」
「ウルマノフさん。あなたは、社員を道連れにこの会社を潰すおつもり?」
 場所を変えただけで、二人の会話にはまったく進展がない。オスマイルとイマムラは、互いに疲れた顔を見合わせている。
(強情で頑固な上司を持つと、お互いに苦労する)
と言うのである。
 どちらも譲る気配はない。話は物別れに終わったのである。帰って行くロイドとオスマイルを見送ってストヤンが言った。
「イマムラ。君が交渉の時に直接、社長を呼びだした理由が分かった。あの女はエリ・スメタナ以上だ」
「あら。寝ションベンたれが、何か誉めてくれているの?」
 後ろから現れたのはスメタナである。
「さあ、払うものはちゃんと払ってね」
 スメタナはストヤンの腕を掴んで、報酬の相談をするために会議室に連れ込んだ。彼女は自分がロイドにとって大きなきっかけの1つになったことに気付いていない。
 


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