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士気

 職場の士気が低下している。今まで全力で突っ走ってきただけに、立ち止まってしまった今の士気の格差は大きい。市民から寄せられた支援のメールには随分励まされた。しかし、メンバーたちはその士気の格差をメールの返事を書いていて気付いたのである。とうてい、その全てに返事が書ききれない。一方で、イマムラはやや醒めた目を持っていた。市民が彼らに送ったメールの内容は、好意的だが、その20万通のメールの中にただの1通も、当然のことだが、MSB─Xを導入を検討するという内容は見られないのである。間違いなく、開発が失敗に終わったと考えた。
 イマムラの立場は微妙で苦しい。
(MSB─X失敗の責任を取って辞表を、、、)
 そう考えなかった訳ではない。部下も彼の意図を推し量って不安気にイマムラを眺めることがある。しかし、彼らの精神的な支柱になっていたラベルが帰国するとなったいまは自分まで抜けるわけには行かないのである。その状況でもたらされた火星市民の励ましは、彼を少し変えたようだ。
「課長、何処へ?」
 ウィリアムスが席を立ち上がったイマムラに尋ねた。
「ちょっとクレーム処理に」
 イマムラはぼかして言い、心の中で付け加えた。
(心配するな、辞表を出しに行く訳じゃない)
 ローウェル工科大学での処理はドノバンとウォルヒに任せてある。しかし、社内での事後処理がまだまだ残っていると考えている。

「困るな。こっちの指示と違うじゃないか」
 試作課の担当者が気色ばんで工場関係者に詰め寄っていた。キム課長が部下をなだめて製造課長に要求した。
「これは間違いなくおたくのミスだ。納期が迫っているから、明日までに此方の要求した物を揃えてくれ」
 一方的な要求を伝えてキム課長は引き上げていった。
 多少、イマムラにとって運の悪いタイミングだったかもしれない。同じ給料をもらいながら、自分たちが汗まみれで仕事をしているときに、技術部員は空調の利いた清潔な部屋に閉じこもって仕事をしている。たまに顔を出すことはあっても、今のように文句を付けに来るだけだ。口に出しては言わないが、製造部員にとって、技術部にそんな感情的なしこりがある。イマムラはそのしこりが最高潮に達したときに、居合わせたのである。
「アデン君」
 イマムラは言いにくそうに間近にいた顔見知りの若い作業者に声を掛けた。MSB─Xのフレームの溶接に携わった工員である。MSB─Xの製造中に何度かここに顔を出して、彼らの顔を知っている。アデンを始め彼を囲む工員達が怪訝な表情をイマムラに向けた。開発が終わった今、イマムラは自分たちに用はないはずだ。
「アデン君。それから他のみんなも、もう知ってるとは思うけど、MSB─Xの開発が不調に終わった。君たちにも製造を手伝ってもらったけれど、申し訳ないね。私の力不足だった」
 イマムラは寂しそうに微笑んで頭を下げた。
(変な人だ)
 アデンやその仲間はイマムラの後ろ姿を目で追い、顔を見合わせてそう思った。今までにこんな人物に出会ったのは初めてだった。今もまた、パートのおばちゃん達と話し込んでいるから、イマムラはおばちゃん達にアデン達に言ったのと同じ事を繰り返しているらしい。
(君たちに手伝ってもらった)
 そう表現されるのは悪い気はしなかった。そして、別にイマムラは彼らに詫びる必要はないとも思うのである。
 世間では大した波紋を呼ばなかったが、数日前、ウォーデンはラベルとの会話を小さなニュースとして、ラベルの意向を汲んだ報道をした。その内容はうわさ話として広まって、この社内では知らない人間が居ない。ラベルという地球出身の古い頑固な技術者が、あの失敗作を全面的に指導したことを知っていた。実際に現場で接したラベルの印象から想像しにくいが、番組が事実だとすれば、MSB─X失敗の責任は、彼ら火星市民ではなくラベルという地球市民にある。アデン達はイマムラの寂しい笑顔を共感した。随分と慌ただしい思いをさせられた船体だったが、振り返ってみると、自分たちもあの船体によってずいぶんいろいろな経験を積んで自信をつけているのである。アデン達ばかりではなく、技術開発課の連中もこの工場で彼らから学んでいたはずだ。その彼らをどんな言葉で表現して良いのか分からないまま、技術開発課のメンバーを、イマムラの後ろ姿に集約させて
(変な人だ)というイマムラの奇妙なイメージが工場の中で定着しつつある。
 イマムラの後ろ姿を見送っていたアデンはそんな思考を途切れさせた。通りかかったカルロス部長を見つけたからだ。カルロスにスピカの工作について相談したいことがあった。
(ここの所、部下が多少マシになった。)
 カルロスはそう考えていた。もともと仕事について妥協のない厳しい男で、部下をしょっちゅう怒鳴りつけるほどの激しさで指導管理している。その男が部下の変化に気付いて、言葉に出して誉めるほどではないが、好ましい変化だと見守っているのである。ただ何故、彼らがそういう変化を起こしたのか、首を傾げるような気分でいる。
 今もまた、アデンが溶接の手順を変えてみたいと提案している。正確な溶接が短時間で出来るというのである。カルロスは自身の直感を判断基準にする男で、アデンの提案をその場で支持した。もちろん、実際に作業を変更するのは、その変更がスピカの船体に悪い影響を及ぼさないと言う確認が取れてからだが、長年、小型機造りに携わった経験から考えて、このヒヨッ子の提案は満足していい。

 イマムラが工場を訪れたのと同じ目的で、製造部長カルロスの部屋に訪れたときに、彼は工場を巡回し終わって、満足気にくつろいでいる様子だった。若い連中がマシになったと言うこともあるが、MSB─Xというモノにならない仕事が片づいて、工場は以前の状態に戻って順調に稼働していて、本来の仕事に専念できるのである。
(君はロシア者がみんなコサックダンスを踊ると信じているのか?)
 ウルマノフが呆れて彼に尋ねたことがある。激しいリズムはカルロスを高揚させる。悪意のない偏見だが、彼に当てはまるものは、サンバのリズムをロシア舞曲に置き換えて、ウルマノフに通用すると考えるらしいのである。同じ種類の偏見で部屋に入ってきたイマムラを眺めていた。先代のニシダに対する敬愛の情があって、ニッポン血筋に対してブシドーとかハラキリというイメージを抱いている。任務の失敗を詫びるために、短刀で腹部を掻き切って自殺するという派手さと衝動性はカルロスの好みに合う。
(こいつはここへ腹を切りに来たのか)と思ったのである。
 MSB─Xが失敗作に終わったという事実が、怒りどころか、冷淡で無関心な態度で社内に受け入れられている。その社内に生じたヒビにイマムラは愕然としていたのである。数日舞うの報道で、彼らをかばったラベルの言動がありがたいと思いつつ、イマムラは困惑を抱え込んでもいる。ラベルの言動がラベルとネヤガワ工業との間にヒビが入ることを恐れたのである。特に、カルロスの誤解はといておいた方が良いだろう。
(なるほど)とカルロスは思った。
 イマムラが一生懸命にラベルの立場を釈明するのを聞いたからではない。現場のヒヨッ子共が変わった理由が納得できたからである。奴らの変化はラベルの影響かと思い至ったのである。このイマムラという男もラベルの影響に染まって、カルロスと同じ職人気質の香りを放っている。カルロスは釈明を終えて部屋を出るイマムラに声をかけた。
「俺はお前みたいな奴が好きだぜ」
 声音は荒っぽいがカルロスが年下の者にかける言葉として優しい部類に入る。MSB─Xの失敗ではなく、イマムラという男の職人気質で、彼と彼の部署を信用し評価してもいいと考えたのである。
 

火星の子どもたち

「何か、課長に聞き出して欲しいことはないのかね」
 終業時間を迎え、ラベルが技術開発課の部屋の中を見回してそう言った。この男は今の状況でもユーモアーを忘れては居ない。以前、技術開発課のメンバーたちが、ラベルが火星にやってきた理由を聞き出そうとしていた時のことを指摘しているのである。技術開発課のメンバーにはもう知らない者は居なかった。
「これはもう不要なようだ。私がもらっても良いかね?」
 ラベルが手にしたのは、部屋の隅に飾られていたMSB-Xの模型である。設計段階での映像に代えて、製造段階で工場の片隅の工作機械を使って作ったものである。模型の縮尺は二百分の一で、ラベルが方手で支えるほどの大きさがある。
 MSB-Xの開発失敗で、設計データーと共に倉庫の隅にでもしまい込まれるはずのものである。ネヤガワ工業にとって財産としての価値はなく、誰かが記念品として保管するならラベルにこそ、その資格があるだろう。イマムラは職場の責任者として頷いてラベルに引き渡すことに同意した。
「では、一足先に失礼するよ」
 ラベルの挨拶にイマムラが応じた。
「それでは、お待ちしています」
 ラベルはイマムラのそんな誘いに、片手を振って笑顔で応じて部屋を離れた。足取りは意図して明るく軽い。その目的地には迷いはなかった。ラベルは帰宅途上、玩具屋に立ち寄り、一体の人形を買い求めた。以前、店頭でちらりと見かけてドノバンの娘のカディアを連想させた人形だった。ラベルにとっても一つの転機になった少女だった。商品を梱包する店員に依頼して、腕に抱え込んでいたMSB-Xも包んで青いリボンをかけてもらった。これから隣人の家に寄る。

「エリカとレイはいますか」
 呼び出しのベルに応じて顔を見せたワイス夫人に、ラベルはそう尋ねた。
「まだ、帰っていませんが」
「それでは、これをエリカとレイに」
 ラベルは二つの包みを差し出した。ピンクのリボンと青いリボン。そのリボンの色で受取人が想像できた。
「お茶でも飲んでいかれませんか」
「いえ、この後、出かける予定がありますので」
「お帰りになるんですの?」
「ええ、一度帰宅するところです」
「いえ、地球に」
「ええ、ここでの仕事は全て終わりました。あとは故郷の妻が待っていますので」
 ワイス夫人はラベルに手を回した。柔らかな腕の感触や体温とともに思いが伝わるようだった。彼女はラベルの耳元で囁くように言った。
「いつまでもお元気でね。素敵な奥様にもよろしく」
 ワイス夫人はラベルを抱く腕を解き、贈り物を受け取った。

 シャワーを浴びて身だしなみを整えても、外出の予定時間まで30分間が余った。この時に呼び鈴が来客を告げ、部屋の環境システムはドアの外にいる来客の姿をスクリーンに投影した。
「ドアは開いているから入っておいで」
 ラベルは優しく語ってドアを開けた。
(ほぉっ)
 ラベルは心の中で感嘆の声を漏らした。来客はエリカとレイである。日々のように挨拶を交わす友人だが、それだけに彼女たちの変化に気づかなかったのだろう。二人がドアの所に立っていると、ドアの枠との対比で彼女たちの体格を正確に推し量ることが出来るのである。
 肩幅はともかく、エリカの身長はラベルの身長に近く、並べばラベルを見上げずに会話をしている。幼かったレイも手を上に伸ばせばドアの上の枠組みに届くだろう。気づかないうちにこの二人の友人はずいぶんと成長したものだ。二人が先ほど彼女たちの母親に託した贈り物を手にしていたことで、贈り物の返礼に来たと言うことを知った。
「ありがとう」
 よほど気に入ったらしく、いつもは姉に促されて行動するレイがこの時には自ら礼を言った。ラベルが技術開発課からもらってきたMSB-Xの模型である。
「これ、ありがとう」
 エリカは等身大の金髪の赤ちゃんの人形を差し出して見せた。人形は樹脂製で関節が動き、本物の赤ちゃんのような姿勢を取らせることができる。衣服や帽子を身につけさせることも出来た。他にも陶器やブロンズ製のものもあり、火星市民たちはこの赤ちゃんの人形を「エリカ人形」と総称している。ラベルの目の前のエリカと同じ名だが、もちろんこのエリカとは関係がない。
 エリカ・マクガイアー。この火星で初めて生まれた赤ちゃんの名である。そして、その少女の誕生年は彼らが使う火星歴という暦の元年にあたる。この人々は、神話や宗教や権力者にかかわらず、この地で生まれた少女の誕生を元年とし、人形にその姿を留めているのである。
 この二人に出合った頃のラベルなら、自らの出自を象徴するように、二人に地球を象徴するものを与えていただろう。いまの彼は火星の人々から数多くのものを学んでいた。この子どもたちに地球への郷愁を要求する必要はない。この星で生まれ育まれたことに誇りを持って欲しいと思うのである。地球の大地に根ざした地球という樹木の枝葉に火星市民が居るわけではなく、人類という一つの種から発芽した人々という意識が根付いていた。ラベルは短い会話の後、二人を優しく帰した。外出の予定が迫っていたのである。

 ラベルはイマムラ家を時間通りに訪問する必要があった。訪問に地球にいる妻を伴うためである。ラベルは到着までの歩調を整え、腕時計で時間を確認してから、イマムラ家のドアの呼び鈴を鳴らした。イマムラと妻のアマリアがラベルを出迎え、迎え入れた。
 三人は軽食と飲み物を囲んでテーブルについてスクリーンを眺めた。好奇心豊かなアマリアは夫やラベルの顔を眺めて微笑んでいた。やがてスクリーンが明滅して、通信回線が開かれて、最後の来客が姿を現した。
「イマムラさん、イマムラ夫人。初めまして、セリーヌ・ラベルです。私のことはセリーヌと呼んでちょうだい。普段、夫がお世話になっています」
 そう挨拶をした初老の女性は、写真で見たことがあるラベルの妻だが、彼女の声を聞き、微笑む表情の変化を見ていると、温厚で上品な女性の雰囲気が伝わってきた。彼女は言葉を続けている。
「タダシさん、アマリアさんと、呼ばせてくださいね」
 夫婦はその言葉を受け入れて頷いて言った。彼女からファーストネームで呼ばれるのは光栄であると言うより、肉親にでも慣れるような嬉しさがある。
「初めまして、セリーヌさん。お目にかかれて光栄です。私がアマリアです。ラベルさんにはいつも夫が世話になっています」
「初めまして、タダシ・イマムラです」
 もちろん、この瞬間のセリーヌはそれを知らない。この瞬間、彼女の姿は十数分の時を経て届いた映像であり、イマムラ夫婦が返した挨拶は、十数分の時を経て地球のセリーヌに届く。
 彼女は自己紹介代わりに近況を語り、膝の上に乗っかってきた愛猫のウォルターを紹介し、夫との出会いを語った。
「話しすぎたかしら。では、おしゃべりをお譲りするわ」
 十数分ばかり話し続けた彼女は、そんな言葉で話を締めくくって、喉を潤すようにテーブルの上の紅茶をすすった。猫のウォルターは彼女の膝の上で温和しく撫でられている。この猫の興味を引く変化は何もないのである。回線が開くと同時にこちらの映像も送られているはずだが、情報が地球にいるセリーヌに届くのは未だ先だろう。こういう場合、アマリアは好奇心豊かで積極的だった。マリアは今まですすっていたココアのカップをテーブルに置いてスクリーンに話し始めた。
「可愛い猫ですね」
 アマリアがそう言った瞬間、映像に映し出されていたウォルターが、セリーヌの膝の上でひょいと頭をもたげて、不思議そうにスクリーンを眺めた。通信回線が開かれた瞬間の、こちらの映像がセリーヌに届き始めたのである。スクリーンの画面が自動的に分割された。右側の大きな画面に地球から送られてきているセリーヌの姿が映し出されている。左側が上下に分割されて、上はこの瞬間に地球に送信されている映像が表示されている。左下はこの瞬間にセリーヌが見ているはずの過去の火星側の映像に、この時彼らが発した言葉が文字のテロップ重ねてある。両者の時をすりあわせる工夫だった。
 ウォルターがスクリーンに映し出されている主人に気づいて、懐かしそうに、しかし、不思議そうに接近し、スクリーンを撫でた。ラベルはその老猫に優しく注意を促した。
「ウォルター。スクリーンを引っ掻くんじゃない」
 前足の肉球がスクリーンを叩いた。主人にこの画面から出てこいと促しているようにも見えた。セリーヌはそんなウォルターを再び膝に抱いた。アマリアはそんな映像を眺めながら、セリーヌと同じく、近況や、火星での生活のことを語った。ラベルの見るところ、イマムラより妻の方が話題が豊富で饒舌であるようだった。アマリアもまた、10分ばかり話し続け、未だ話し足りないことがある。ただ、時計を確認してみればそろそろ話を打ち切って、セリーヌに話の番をゆずらねばならない。
「このウォルターはね、今から十六年前、夫が火星から帰ってきた日に、町の隅で見つけて拾ってきたの。まだ小さな子猫だったのよ。でも、酷い夫だと思わない? 四十年以上連れ添った伴侶を地球に残して、火星に出張したあげく、三年間もほったらかし。帰ってきたのは良いけど、火星から手ぶらで帰ってきて、地球に着いて帰りがけに拾った子猫が、3年間の出張のお土産だったの」
 彼女は朗らかに笑って続けた。
「文句の一つも言ってやろうと思ったら、その時の夫は大あわてでね。子猫が死にそうだって。確かに、冬の冷たい戸外に捨てられていて、寒さで弱っていたのね。それから、獣医に診せたり、大変」
 セリーヌの回想に、イマムラはラベルの若い時代に意外な人柄を見つけたようで、微笑んでラベルの顔を眺め、ラベルは不機嫌な表情で照れくささを隠した。セリーヌの回想は続いた。
「でも、ウォルターも良い思い出を作ってくれたわ。今はこの子が、私たち夫婦の子どものようなものね」
 セリーヌの言葉にアマリアが頷いた。子どもがいないという点でこの二組の夫婦は一致していた。セリーヌが話の番を火星側に譲り、アマリアはセリーヌの言葉を引き継いで話し始めた。
「うちは、動物は居ないんです。でも、この人が子どもみたいなものですから」
 アマリアは肩をすくめて苦労を訴えた。
「髪が乱れているから直しなさい。下着は毎日着替えるのよ。お風呂に入りなさい。遅くまで起きていないでちゃんと寝なさい。毎日そんな事を言わなきゃいけないんです。子どもの相手をするように疲れるんですよ」
 ラベルはイマムラが困惑する表情を眺めて笑った。この言葉が届く十数分後、地球ではセリーヌも笑うだろう。果たして、三十分近い時を経て、スクリーンにアマリアに同意して笑うセリーヌの笑顔が届いた。アマリアの言葉に逐一頷き、イマムラを困惑させた。アマリアが時計を確認して話を終えて順番を譲って間もなく、先ほどアマリアが話し始めた話題に応じてセリーヌからの返事が届いた。
「夫が言うのよ。もしも、私たちに本当の子どもが居るなら、この連中かも知れないって」
 この連中というセリーヌの言葉に、イマムラ夫婦は耳を澄ませて次の言葉に期待した。
「火星の子どもたち。彼は貴女たちのことをそう呼んでいるの」
 夫婦は顔を見合わせてにんまりと満足げにほらってラベルを眺めた。セリーヌの思い出話は、夫のネヤガワ工業への技術指導という目的での火星生活に触れ、この数年の出来事について語った。最後に時計を眺めたセリーヌは言葉を締めくくった。
「では、名残惜しいけれど、ここでこちらの通信を終わるわ。またいつかこんな機会があると良いわね」
 セリーヌは膝の上のウォルターの前足を取って、ウォルターにも別れを告げさせるように、前足の先を振って見せた。あとは、火星からの返事を受け取って回線を閉じるのである。
「火星の子どもたち。良い言葉ですね」
 アマリアはセリーヌの言葉を繰り返して頷いたが、同時に、セリーヌの表情に僅かに浮かんだ妙な満足感を読み取った。彼女の視線は、アマリアの背後に映り込んでいるラベルと夫のタダシに向けられているらしい。アマリアは背後に居た二人を振り返った。二人の男、特にラベルは今まで心に秘めていた思いを妻にバラされてしまった照れくささに、視線を合わせることを避けて黙りこくっていた。
(あらっ)
 アマリアはふと思い出して、言葉を押さえるように口元に手を当てた。ジャン・ラベルを照れくさくさせたものがセリーヌの言葉なら、夫のタダシが気まずそうに視線を避けるのは、彼女が暴露した夫の生活習慣のせいらしい。しかし、二人の男を並べて眺めてみると微笑ましい。二人の夫の様子は本当の父と息子のように似通っていた。アマリアはセリーヌの笑顔のわけを察してスクリーンに向き直って言った。
「ひょっとしたら、若い頃のジャンは、今の私の夫のようでしたか? 夫って、いつの時代も世話をするのに子どものような手間がかかるのかしら」
 そんなアマリアの言葉が届く十数分後、地球ではセリーヌが笑いながら頷いているだろうと、二人の男は顔を見合わせた。アマリアは名残惜しそうに手を振ってから通信回線を閉じて、背後のラベルを振り返って言った。
「どうして、他の子どもたちも誘って下さらなかったの?」
 彼女は技術開発課の他のメンバーもみな誘って、セリーヌを交えて談笑すればよかったというのである。
「そんな恥ずかしいことが出来るものかね。私は君たち二人の前にいるだけでも恥ずかしくて冷や汗が出てる」
 事実、ラベルは暑くもない部屋の中で、ハンカチを額に当てていた。
「そろそろ、お暇しよう」
「お宅まで、ムーヴァーでお送りしましょうか」
「一人で歩いて帰りたい気分なんだ」
 ラベルはそこで言葉を途切れさせ、思いついたように言葉を翻した。
「いや、やはり頼めるかね?」
 イマムラは笑顔で応じ、思考ロボットに四輪ムーヴァーを準備するよう指示をした。

 ムーヴァーが待つ表通りまで並んで歩きながら、イマムラはラベルに言った。
「でも、火星の子どもたちということは、部下にも伝えてやりたいんですが」
 イマムラの言葉にラベルがぴくりと反応して、顔をまじまじと見つめて言った。
「髪が乱れているから直しなさい。下着は毎日着替えるのよ。お風呂に入りなさい。遅くまで起きていないで、ちゃんと寝なさい!」
 言うまでもなく、アマリアがイマムラを表した言葉である。ラベルは諭すように良い添えた。
「いいかね、アマリアの言葉は部下に内緒にしておいてやる。だから、セリーヌの話も内緒だ。わかったかね?」
 ラベルの提案にイマムラも苦笑いで応じざるを得ない。
 ラベルがイマムラに指定した目的地は、ラベルの行きつけの店で、市街地の一角にあるレストランだった。ラベルの自宅から徒歩で10分の距離の場所である。ムーヴァーを操作するイマムラの思考ロボットは、二人を降ろして駐車場へと走り去った。本日貸し切りというプレートが掛かっているのにも気にせず、ラベルはドアのノブに手をかけた。ノブ、ドアを手で開けるという古くささを火星に持ち込んでいるのがラベルのお気に入りなのだろう。
 イマムラがラベルに肩を抱かれたままドアをくぐると、店内には数十人の人々の姿があった。男、女、老人、子ども様々な人々が、新たな客に気づいて笑顔を浮かべ、店内にラベルを迎える拍手が広がった。ラベルは手を上げて店内の人々に挨拶をし、イマムラにちらりと囁いた。
「店内でくつろいでいてくれ。今夜は、知り合いがお別れ会を開いてくれるというのでね」
 イマムラは納得した。技術開発課のメンバーから敬愛を集めるのと同様、ラベルは私生活でも周囲の人々と暖かな関係を作り上げていたに違いない。そんな人々の中から両親らしい夫婦の手を引いてきたのはエリカとレイである。
「おやっ、君たちも来てくれたのかね」
 ラベルは子どもたちの頭を撫で紹介をした。
「これは、私の息子でタダシ・イマムラ。こちらは私の隣人のワイス一家だ。ダン、トレイシー、エリカ、レイ」
 ラベルは、トレイシーと二人の子どもに導かれて友人たちの輪の中に入り笑顔に包まれた。イマムラは距離を置いて見守ることにした。この時間は、ラベルの友人たちのものだ。ただ、それにしては、どうしてラベルはこの中に自分を誘ったのだろうという疑問も湧いた。
「ラベルさんとのご関係は?」
 イマムラはそんな言葉と共に、ビールで満たされた大きなジョッキを差し出され、自分が下戸だと断る隙もなく、ジョッキを抱えていた。飲み物を勧めたのはワイズ夫妻の夫のダンである。
「ラベルさんの指導を受けながら宇宙船を造っています」
「では、MSB-Xは、貴方たちが?」
 その質問に頷くイマムラに、ダンは部屋の中に息子の姿を探して呼び寄せた。
「おいっ、レイ。ちょっとおいで」
 何事かと不思議そうに近づいてきた息子の肩を抱いて、ダンはイマムラを息子に紹介した。
「このおじさんたちが、MSB-Xを作ったんだぞ」
 その一言で、レイは表情を一変させ、イマムラに尊敬の眼差しを注いだ。
「すごいや。ホント?」
 レイの言葉に頷くイマムラはやや気恥ずかしいが誇らしげでもある。レイは父親を振り返って言った。
「父さんも、宇宙船をつくればいいのに」
「ダン、あなたのお仕事は?」
 その質問にレイが答えた。
「緩衝器を作ってるんだ」
「緩衝器というと、高速鉄道の連結器や四輪ムーヴァーのバンパーですか?」
「いや、そっちじゃなくて、エアバッグ。高速走行する乗り物の中で乗員の体を保護する必要があるね。現在使われるものは、構造に信頼性があるので21世紀の頃から変わりない構造。つまり風船を膨らませて人の体を保護するんです。でも、搭乗員をスポンジの中に入れておけば、全体を柔らかく保護できるよね。そう言う装置の開発です」
「そんな事が出来るんですか」
「特殊な高分子を空間の中に浮遊させておくんだ。匂いもないし、普段は分子間で反発しあっていて、そんな分子が漂っていることに気づかない。そこに一定の周波数のエネルギーを与えて分子の立体構造を代えると、今まで反発しあっていた分子同士が結合して、目に見えないスポンジのような状態になるんだ。スポンジの硬さを調節も出来るし、その中では呼吸も出来るし、目も見えるよ」
「搭乗員に害はないんですか?」
「分子量が大きいから、目の細かいフィルターのマスクをすれば吸い込まないですむし、分子内の結合は人間の体内で簡単に分解されてしまって、体外に排出されるから無害だよ」
「なるほど」
 イマムラは頷いた。仕事について熱く語り始めるダンに、仕事は違ってもこの男にも技術者の香りを感じ、自分と同じタイプの人間だと納得したのである。人々が談笑し、ラベルとの関係や思い出話を語る中、ダンはラベルが店の中で一段高いピアノを置いたステージに登ったのに気づいて、大きく手を打ち鳴らして、人々にラベルに注目するように促した。人々はしんっと静まりかえってラベルの言葉を待った。
 ラベルはスピーチのお膳立てをしたダンに笑顔で手を振って礼に代え、ラベル自身が心の底から言葉が湧いてくるのを待つように一呼吸の間をおいて語り始めた。

「みなさん、今日は私のために集まっていただいてありがとう。この星に来てから私は数多くの友人や家族を得ました。そして、この星や人々から数多くのものを学びました。意外なことに、私は生まれ故郷から遙かに離れたこの星で、人類の本質に触れることも出来ました。繰り返しますが、私たちは友人であり家族です。しかし、その関係は様々な理由で引き裂かれ、距離が出来ます。ただ、私はこの星でKIZUNAという古い地球の言葉を知りました。友人や親子兄弟、親しい人々の全ての関係を含め、その関係が時や距離に隔てられ途絶えることなく続く。そう言う関係を示す言葉です。たとえ遠く隔てられても、私たちを友人として、家族として結びつけているのです」

 ラベルの質朴な性格を物語るように1分足らずの短い別れの挨拶だった。その言葉に共感する人々の拍手に包まれ、イマムラは自分もまたその一員なのだと言うことが嬉しく誇らしかった。
 

ラベル帰国

 小さなトランクがラベルの人柄をよく現していた。質素な生活を物語って、このアパートを引き払う時にも、ラベルの私物が全て収まってしまったのである。ラベルはその荷造り作業を、メンバーに見守っていてもらうように、テーブルの上の立体写真を荷造りの最後まで残した。出発まで半日を残して、荷造りはほとんど済んでしまった。ラベルは黙って、その立体映像を眺めて残りの時を過ごした。技術開発課の内部でラベルを中心に彼の教え子達が映っていた。
 既に、最後のつもりで、昨日会社を去るときに別れの挨拶を交わしていた。
「何か、やり残したことは無いだろうか?」
 ラベルは映像に語りかけるようにそう呟いた。メンバーの一人一人の姿や癖を思い浮かべた。
 イマムラ、縫いぐるみのクマのような男だった。何より自分が素人だと自覚しているのが良い。本人は気付いていないのだろうが、メンバーがのびのび育っているのは、彼がそれを自覚して、技術的なことを部下に任せているからだ。ただ、気苦労は多いだろう。
 シン、叱りつけたときに最も真剣に食らいついてくるのがこの男だった。
 アサハリ、存在感の薄い男だが、たぶん、メンバーの中で最も忍耐強い。いい技術者に育つだろう
 ムハマド、この男との出会いは衝撃的だった。電車の中で彼の演説を聞いたのである。
 ガーヤン、やや無頓着な性格だがメンバーの中で彼の素直な明るさは棄てがたい長所だ。
 ドノバン、若いくせに私以上に頑固な男だ。とうとう親しい会話も交わさずに終わってしまうらしい。ただ、この頑固な男と娘の表情はずっと記憶に残るに違いない。
 ウォルヒ、彼女に誘われて北公園に出向いたことがある。そこの展望室から見える景色を見て欲しいと語ったのである。彼から見れば荒涼とした光景だが、いまは何故かその景色が懐かしい。
 バレ、ウィリアムス、この二人は仕事より、二人の掛け合い漫才のような楽しい会話が記憶に残っている。
 ひょっとすれば、ラベルよりも彼の妻セリーヌの方がこういうエピソードを記憶しているかもしれない。ラベルは頻繁に、この火星の子供達のことをメールにしたためていた。一方で口に出しては言わなかったが、過去に何度か帰国しようかと考えたことがある。いつだったか具体的な日付は記憶にないが、セリーヌにメールを送った時の記憶が残っていた。
 地球と火星市民の関係が悪化するにつれて、火星行政府が火星に在住する地球市民のメールを盗聴しているのではないかという噂が、火星に住む地球市民の間で囁かれていた。ラベルはアパートの部屋が盗聴されていることを願いつつ、大っぴらに火星市民への不満や悪口をセリーヌへのメールにしたためたのである。
『時折、君と一緒に山の峰で風に吹かれた事、風の香りが懐かしくなる。ここの連中はまるででたらめで、そんなことも理解できないようで話が合わない』
 普段はまめに返事をよこす妻が、このときは3日ばかり間をおいて4日目に返事が返ってきた。
『ご苦労はお察しするわ。がんばって下さいね』
 この短い返事が、セリーヌの笑顔の映像と共に帰ってきたのである。
ラベルは頭を冷やすための時間の後で『まだ、帰って来ちゃだめよ』という宣告を受け取ったのだった。まったく、女って言うのは、世紀末までこうやって男を欺き続けるに違いない。
(ニシダとウルマノフのおかげでいい想い出が出来た)
 20年前、デメテル社から技術調査の目的で火星にやってきたラベルを、大胆にもニシダという中小企業の親父がヘッドハンティングしようとしたのである。会社の規模を考えれば象と蟻の差がある。この男とは妙にウマがあった。そして、ウルマノフという男がラベルの名を記憶して思い出したらしい。
 時計のブザーが鳴った。もう出かけなければならない時間だった。
「教え残したことは山ほどあるが、考えることは教えてある。この老いぼれがいなくても自ら考え、道を切り開くだろう」
 ラベルはその写真を大切に厚手のセーターに包み込んだ。その包みがラベルが荷作りをした最後の荷物である。部屋を見回して荷造りに漏れたものが無いか確認した。この地の思い出と学んだことは心から溢れて、トランクに入りきらない。

 シンカンサイ市の西方のアスクレウス港から定期便で火星軌道上のフォボス宙港に行き、貨客船アトランティックオーシャン号に搭乗して地球に帰国するのである。意外にもフォボス宙港の埠頭に着いてみると、ウルマノフが彼を待っていた。二人は顔を見合わせて黙って並んで歩いた。火星という星が丸みを見せて彼らの眼前に見える。ウルマノフがここまでやってくるとは思わず、別れの挨拶は全て昨日の内に済ませたつもりだった。交わす言葉がない。ウルマノフが重い口を開いた。
「すまない。あんたを守りきれなかった」
 シルチスの火星行政府に出向いたが、彼の在留許可を得ることが出来なかったと言うのである。
「いや。別のことを考えていたよ」
 ラベルは考えをまとめつつ切れ切れに言った。
「今度は、地球の大地の上で、夜風に吹かれながら、空をふり仰いで思うんだ。あの赤い星の連中は、土の香りが染み込んだ風に吹かれることがない。なんて、不幸な連中だ?」
 ラベルの話を黙って聞いていたウルマノフが苦笑いをした。ラベルの表情がお前もその不幸な連中の一人だと語っているのである。
「そのくせ、奴らは荒涼とした赤い砂漠や砂嵐に感動する。なんて変てこな連中だろう。しかし、最後に私は考えるんだ。人類ってのはなんて大きな可能性を持ってるんだ?」
 その言葉を聴くとも無くウルマノフは同じことを繰り返した。
「すまない。あんたを最後まで守りきれなかった」
「おい、おい。何か誤解してやしないか?」
 ラベルは笑って言葉を継いだ。
「私は責任を全うして故郷に帰る。やり残したことは何も無い」
 ラベルは言葉を途切れさせた。イマムラの姿に気付いたのである。地球に向かう貨客船の出発ロビーに技術開発課のメンバーが顔を揃えていた。ウルマノフはラベルに言った。
「最後はあの連中と居てやってくれ」
 ウルマノフの言葉の通りになった。彼らは、ただ一緒に時間を過ごした。別れの挨拶の後だという気恥ずかしさがあったのかもしれない。バレやウィリアムスが何かを口にしようとしたのだが、口ごもってしまうのだった。意を決したようにドノバンがラベルに進み出た。
「先生、随分お世話になりました。感謝しています」
(やっと心を開いてくれたらしい。この日この時まで頑固な男だった)
 ラベルは腕時計を外して時を調節した。
「今日の記念だ。メンバーの人数分、9分ほど時間を遅らせておこう。時計を見る度に、この火星の、のろまな連中の顔を思い出してやる」
 彼の最後の毒舌だった。アナウンスが、出航準備が完了したことを告げた。ラベルが立ち上がってメンバーを見回していった。
「とうとう、飛ぶこともなかったが、みんなで作り上げた船だ。MSB─Xが教えてくれたものを忘れるな」
 搭乗口から振り返って言い加えた。
「『火星市民は信念に祈る』そういう君たちの感性を信じているよ」
 火星の人々が頼るのは神ではなく、自分自身の信念だろうと言うのである。ウルマノフの心にこの言葉が刻まれた。
 遠ざかって行くアトランティックオーシャン号に音がない。静かに闇の中に消えただけである。この後、ドノバンやシンはラベルと会うことはなく終わる。ウォルヒはラベルと再会を果たすのに地球時間で9年という年月を要するのである。

 ウルマノフは、技術開発課メンバーと距離を置いて遠ざかる貨客船を見送っていた。発着する船が宙港の大型スクリーンに拡大して映しだされていた。宇宙船が拡大された姿すら、闇に溶け込んで消えたとき、彼は大きくため息を付いた。ラベルが帰国せざるを得なかった。それは技術開発課のメンバーばかりではなく、ウルマノフにとっても大きな痛手になっていた。
(夢は、破れた)と考えていたのである。
 MSB─Xの開発が不調に終わって、ラベルまで失った。多額の投資はネヤガワ工業に大きな負債としてのしかかっており、次の自社開発には見込みが立たない。現実的に見れば、国産機開発という夢は放棄しなければならないだろう。この時に、目つきの鋭い男がさり気なく一人になったウルマノフに接近した。
「ウルマノフさんですね? 運輸部保安局のリーです。あなた方の新型船について話を伺いたい」
 男は運輸部保安局の局員と名乗った。男が称した局名は略称で、厳密には火星自治州・運輸交通部・軌道空間本部・保安局という長い名称になる。その役割を現代の組織に強引に当てはめれば海上保安庁と言えるだろう。火星近傍の宇宙空間で、捜査や海難救助に当たる。このリーという男の眼光や身のこなしは、そういう任務によるのかもしれない。ウルマノフはもちろんこの男とは初対面だが、この部局については良く知っている。ネヤガワ工業にとって有力な顧客の1つである。通常は、ネヤガワ工業の営業第一課がこの保安局の中の船体整備係という部署に接触していて、この部局からネヤガワ工業のトップのウルマノフに直接接触する例はない。ウルマノフには大きな違和感がある、しかし、このリーという男の出現は、何かの新しい展望も予感させるのである。
 リーはウルマノフを彼のオフィスに案内した。リー個人の話として聞いて欲しいと切り出した。
(提示する能力を持った小型機を造ることが出来るだろうか)というのである。
 リーの提示は文書化されているわけでもなく、日常会話の中のただの冗談にもとれないことはない。おそらく、彼らにとってメーカーに新型船開発を依頼したという事実は、記録には残したくはないのだろう。しかし、単純な理由で、リーの提示はウルマノフにとって魅力に満ちている。MSB─Xはたとえ開発に成功したとしても、売れるかどうかの見込みが立たなかった、むしろ競合他社の船体に対して苦戦したに違いない。リー個人、、、現段階で少なくとも保安局という部局ではない、が提示する条件を満たす船体が開発できれば、導入を検討するかもしれない、つまり、売り上げが期待できるのである。そして、一旦、正式採用されれば、その後のまとまった受注にも繋がるばかりではなく、他の顧客に対してアピールする販売実績にもなるのである。
 日常会話とも取れる面会で、正式な返答をすることは出来ないし、ウルマノフはそれほどお人好しではない。
「返答には1ヶ月、時間を頂きたい」
 ウルマノフは次の接触時期だけ約束した。この1月でリーの提示がネヤガワ工業で実現可能かどうかを探るのである。二人の話題は既に、ネヤガワ工業がフォボス宙港に置いている品質保証部の出先機関に移っている。
「ジーン・フランクリンさんとは再三、」
 ジーン・フランクリンとは、ネヤガワ工業の品質保証部に所属する男で、このフォボス港で製造後のスピカを顧客引き渡し前の試験を担当している。彼らの仕事ぶりを誉めるリーの口振りには、眼光の鋭さを笑顔で隠して、もう先ほどの新型船の話題の片鱗も見られないのである。
 ウルマノフが笑顔で握手をしてリーのオフィスを離れたとき、ウルマノフ個人がこのオフィスで、リーと接触したという事実は残っているものの、その本来の目的は、品質保証部に所属する検査官に付いて会話をしたという事実で覆い隠されていた。
 アスクレウス発着場への連絡機の搭乗時間までの空き時間に、ウルマノフは副社長エバンズと技術部長ストヤンに連絡を付けた。彼がリーに約束した一ヶ月、それは相手がネヤガワ工業から興味を失う限界期間である。その期間内にネヤガワ工業として、技術的な目処をつけて、再びリーと接触しなければならないのである。あまりにも短い期間だろう、余裕は残されていないのである。
 技術部長ストヤンと製造部長カルロスは、N&B社が申し入れてきた予定外の品質監査の対応に忙しく、直接に監査の応対をする設計課などは、従来の作業に加えて、突然の品質監査の準備が加わった。手の空いている人材を回してやりたいところだが、手が空いていそうな技術開発課の連中は、失敗作MSB─Xの破壊試験のためめに慌ただしい。1ヶ月に区切った時間の短さと、そんな約束をしたウルマノフに文句を言う二人の表情が目に浮かぶようだった。

 一方、帰宅するウォルヒも、僅かながら新たな出会いを経験していた。声をかけてきたのは相手の方からである。
「ドノバンじゃないか?」
「ワルデン。どうしてこんな所に」
 そんなやりとりで、ウォルヒは初めて出合った人物がドノバンの友人だと悟った。
「以前、説明したことがあるだろ。都市の外壁を作ってるタイペイ建材ってメーカーの技術者で、ワルデンっていう不良さ」
 ドノバンは不良という言葉で幼なじみの友人をウォルヒに紹介したのである。その表現に相応しく、ワルデンは初対面の人物に対する礼儀を欠いたように率直に、しかし親しげに尋ねた?
「それで、こちらの綺麗なお嬢さんは、お前の彼女?」
「ウォルヒ・パクです。彼女という関係ではありませんが」
 笑顔で応じたウォルヒだが、その笑顔ではなく、「彼女」という関係を否定されたドノバンの残念そうな表情にワルデンは笑った。彼はこの宇宙港の拡張工事に伴う立ち会いでここに居るのだと言った。地表で都市を守る建材は宇宙でも利用されているのである。仕事に戻るワルデンと、地表に戻るドノバンとウォルヒ。僅か数分の出会いだったが、ウォルヒはラベルがちらりと言った絆という言葉を思い出した。彼との出会いが、自分たちの新たな関係や展開に関わってくるのではないかと予感したのである。
 

オスマイル

 遅めの夕食の後、妻のアマリアがイマムラに背を向けたまま言った。
「ねえっ『火星に初めて着陸した船の名』は?」
 妻は突然に妙なことを聞く。イマムラは首を傾げて答えた。
「マリナーかな?」
「ブー。当てはまらないわよ」
「じゃあ『バイキング』だ」
「ピンポーン。正解のご褒美にお煎餅を上げましょう」
アマリアはクイズ番組で正解が出た時の効果音を口まねして返事に代えた。彼女は立ち上がって正解のご褒美の煎餅を取りに台所へ姿を消した。ここ最近、妻のアマリアはクロスワードパズルに凝っているようだ。
(妙な質問を)
 妻の背に視線を転じたイマムラは、ふと、彼女を追って背中から抱きしめたいような思いに囚われた。彼は家庭内で仕事の話をする事がほとんどないのである。まして、仕事が順調とはいえない今は、意識して話を避けている。妻に余計な心配を掛けないようにとの配慮である。イマムラの一方的で押しつけがましい思いやりと言っても良い。疲れて帰宅して、妻との間に会話が少ない。妻との間に一家団欒の片鱗が維持されているのは、妻のクロスワードパズルのおかげだ。彼女はずけずけとイマムラの心に踏み込むことを避けながら夫と会話し、ここに、家庭を作り上げている。もしも、自分に何か功績があったとしたら、その半分は彼女のものだと思った。しかし、残念なことに今の彼には功績らしきものの欠片もないのである。何故かラベルが語った彼の妻の話とダブった。もしも、この二人が出会うことがあったら、気の合ういい友人になったろうとも思うのである。ただ、イマムラは先の初対面の会話以降、アマリアとセリーヌは意気投合して、時々、夫についての不満を慰め合う関係になっていることに気づいていない。
 台所から戻ってきたアマリアと視線が合って、イマムラは戸惑ったように壁のディスプレイに目を転じた。ランプが点滅している。緊急を要するニュースではないが、予め登録してあったキーワードに該当するニュースが録画されているという印だ。イマムラはスイッチを入れた。
 画面に映し出された人物に『運輸交通部 技術担当官オスマイル氏』という補足のテロップが重ねられている。オスマイルにマイクを向けたレポーターが尋ねた。
「いま、火星行政府内で攻撃機に転用しうる小型機を独自で開発するという噂を聞いたのですが、」
 テロ事件が続発して地球との間にきな臭い雰囲気が漂っている。そういう物騒な噂もあるのだろう。
「その問題は同じ運輸交通部でも保安局の管轄でしょう。私どもとしても正確なお答えはしかねます」
 オスマイルは質問をさらりとかわした。浅黒く髭が豊かな顔立ちに温厚そうな微笑を浮かべている。ただし、得てしてこの手の人物はひどく頑固だ。
「知っているけれど話せない?それともご存じ無い?」
「分かりやすい事例を上げてご説明しましょう。最近、一地方企業で新型船開発に取り組みました。運輸交通部側から見て注目していた企業です。販売シェアから言えば火星を代表する企業といえるかもしれない」
「ネヤガワ工業ですね」
 レポーターはそう念を押した。オスマイルはレポーターには直接答えず言葉を続けた。
「しかし、結果は皆さんの方がよくご存じだ。冷静に見て、それが私たちの実力です」
「技術的に見て、攻撃機の自主開発の可能性はないと?」
「私たちはそう判断しています」
 オスマイルは朗らかに笑った。

「いいかしら?クイズ番組でも見ましょうよ」
アマリアが夫を気遣ってさり気なくチャンネルを変えた。イマムラはため息をついた。この前は専門家の評価に叩きのめされた気分だったが、今度は行政側の人物から同じ評価を繰り返し聞いたのである。誰がどんな角度から見ても、彼らはピエロに過ぎないらしい。
 

ムクテイ部長

「妙に、早いな」
 というのがストヤン技術部長の感想だった。N&B社から品質監査の日程を繰り上げたいと打診があったのである。
 宇宙船メーカーとしてのネヤガワ工業の唯一の主力製品は言うまでもなくN&B社のライセンス生産品である。その品質を確保するために、ネヤガワ工業の品質検査に関わる月々の資料はN&B社に送られてチェックを受けている。それ以外に、N&B社の品質保証部は地球時間で4年に一度の割で、ネヤガワ工業の品質監査を実施していた。その製造ラインが、N&B社の定めた条件を満たしているかどうか、作業者がN&B社が定めたマニュアルを遵守しているかなど、事細かくチェックするのである。全ての監査に一週間を割いていた。監査の期間はその製造ラインの一部は止まる。N&B社にとってもネヤガワ工業にとっても大きな手間がかかる。前回の監査が2年ばかり前になる。次回の監査は2年後のはずだ。
 イマムラは品質監査と言うことは聞き知っていてもその経験がない、製造部と品質保証部が対処するはずで、技術開発課には直接には関係はないはずだ。そう思いこんでいただけではなくそれを部下に確認していた。上司のストヤン部長に確認しても、やや冷たい口調で特に君たちの手を煩わす事は無かろうという返事だった。その冷たい口調が、技術開発課解体という噂を思い起こさせる。
 そのストヤン部長から突然の連絡だった。イマムラは首を傾げた。今日までストヤンは監査にかかりっきりのはずで、イマムラは今日までストヤンの顔を見ずにすむはずだった。
「イマムラ君か? MSB─Xの資料を揃えてこっちへ来てくれないか。そうだ。ウォルヒか誰かを連れてくると良いだろう」
 彼がすることはMSB─Xの資料を必要に応じてオープンに出来るようにセキュリティーを調節した。イマムラにとって社内のどの位置でも資料を利用できるはずだ。次にウォルヒに、MSB─Xのガイド役を指示する。イマムラ自身の説明では心許ないと言うことなのだろう。3番目にすることはウォルヒと会議室に向かうことだ。イマムラの選択の余地は全くない。まだまだ、ストヤン部長の信頼は得られていないらしい。
 5分後にイマムラとウォルヒは会議室で紹介を受けていた。キム設計課長の姿も見られる。
来客はN&B社の品質保証部長ムクテイとその部下合わせて3名である。くつろいだ雰囲気が伝わってきた。なにやら笑顔で会話を楽しんでいる感じだ。品質監査は順調に終わったに違いない。
「イマムラ君。N&B社の方々がMSB─Xを見学したいそうだ。案内してくれないか? キム課長を補佐に付ける」
 もちろん、MSB─XはN&B社のライセンス生産品ではなく、ネヤガワ工業の独自の船体である。求められたとしてもN&B社に見せる義務は全くない。むしろライバルとなるかも知れないメーカーには隠すべきだろう。それを求めに応じて見せると言うことは、ネヤガワ工業自身がMXB─Xが失敗作であったと認めて、以降の開発を放棄するということに他ならない。イマムラにとって自らの失敗を責められているような気がするのである。その上、イマムラにとって、ストヤン部長がキム課長を見学の補佐に付けるというのは、次の開発があるにしても、キム課長にその任務を引き継がせようとしているようにもとれるのである。
 MSB─Xは工場の敷地の片隅に放置されている。半ば打ち捨てられていると言ってもいい。ムクテイ部長にとっても監査の途中でシート越しにその姿を見かけているはずだ。
 既にシートが外されて、MSB─Xは久しぶりにその姿を現していた。
「ほぉっ」
 ムクテイ部長は、感嘆ともため息とも判別できない感想をもらした。設計思想というほどの大げさなものではない。宇宙船の設計に技術者の好みといったものが反映されている。その好みは血脈の様に引き継がれて、その好みに技術的なノウハウが蓄積されメーカーの癖として、自然に表面化する。
 この種の小型船の場合、その特徴が最も顕著に現れるのが船体を支えるフレームの構造である。N&B社は前方の居住モジュールと後方の核融合エンジンを一本の太いフレームで接続するという形態に特徴が見られる。構造が単純で、なおかつ、様々な配管やケーブルをこの頑丈で中空のフレームの中に収容する為に、重要なケーブルや配管を保護する意味でも信頼性がある。
 対照的なのがラベルが所属したデメテル社の船体で、フレームが外部に露出しているという点では同じだが、一体化した頑丈なフレームではなく、細い鋼管を幾本も繋ぎ合わせて1つのフレームを構成している。配管やケーブルを集中させずに分散配置していた。
 一長一短があり、どちらの構造が優れているとは言えないが、どちらの基本構造を使うにせよ、船体の強度解析にはそれぞれ異なる経験の積み重ねが必要で、今まで、N&B社の技術の影響を受けているネヤガワ工業が、単独で新たな構造の船体を設計できるはずはないのである。
 そのために、ムクテイ技術部長の目から見て、自分たち以外の技術が入っている、ということが一目瞭然なのである。
「近づいて、触れてみて構わないかね」
「ええ。構いませんよ。質問は私が承りましょう」
 キムがイマムラを制して言った。お前には答えられないだろうと言わんばかりである。
 あくまでもネヤガワ工業として好意で見せている。ムクテイの態度に偵察するという程の不躾な様子はなく、笑顔を浮かべているのだが、目が時折、鋭く光っている。
「リチャード、シルビア、ゆっくり見学させてもらいなさい」
「へぇ。ずいぶんしっかりしたものなのね」
 シルビアと呼ばれた女性が愛犬の頭でも撫でるように船体を撫でた手つきは、その感触で、船体を構成する部品の表面の仕上げを確認しているのである。キムが否定するように言った。
「いえ、やはりスピカにも遠く及びませんよ」
 キムにとって、スピカという船体が物事の良否を判定する材料になっている。ムクテイ部長がMSB─Xの全体像をみて感想をもらした。
「フレームがスピカと違って、随分特徴的ですね」
 さり気なく、何処から得た技術なのか探りを入れているのである。
「ええっ。その通りですね。ご存じの通り、細い鋼管でトラス構造に組んだフレームは構造が複雑で、製造に手間がかかります。私たち設計課で開発を担当していればスピカの構造を引き継いだものにしたでしょう」
 キムが主張したかった点である。
「でも、この構造は軽量化に向いているんだよね」
 リチャードと呼ばれた男は実にうらやましそうに言った。どのメーカーのどの技術者も同じなのだ。強度と軽量化の狭間で頭を悩ませる。彼らは構造が単純化できるというメリットから、筒状のフレームを用いてモジュールを搭載しているのだが、その単純な構造の恩恵に与りながらも、この違った構造が新鮮でうらやましく感じることもあるのだろう。
 トラス構造。橋梁や大型クレーンのアームなどを思い出せばよい。構造材の組み合わせが三角形になっている。その三角形が幾つも組合わさって荷重を支える構造の形式である。MSB─Xの場合、船首のコックピットモジュールから船尾のエンジンモジュールまで5本の鋼管が伸びている。その鋼管を、短い構造材が縦や斜めに走って繋ぎ合わせているのである。
「私たち設計課で作っていれば、、、、」
 キムがその構造について自分の考えを披露した。キムが言うのは、柔軟に大きさの異なる三角形を組み合わせた構造で軽量化するというのである。リチャードが笑って反論した。
「そんなことをしたら、さっきあなたが非難したように、複雑で製造の手間がかかる物になるよ」
 リチャードはキムにも分かるように説明を補足した。
「この船体のいい点はね、バランスが取れてるんだ。軽量化と同時に構造を単純化する工夫が随所に見られる」
「シルビア。あれを見てごらん」
 ムクテイはシルビアと呼んだ部下にフレームを2カ所、指さして見せた。
「なるほど、構造材は同じ形だけれど、接合するモジュールに合わせて素材を変えてあるのね」
 二人の会話にリチャードが参加した。
「あっちはチタン合金だろう。推進剤タンクの当たりはアルミ合金を使ってるんだ」
「接合の仕方も面白いわね」
「エンジンマウントの緩衝構造を見てごらん、エンジンの振動を分散させて逃がしてるんだ」
(技術屋の会話だ)
 少し引きながらイマムラは思った。内容がよく分からない。しかし、リチャードの指摘の通りである。イマムラから見れば同じ形で同じ銀色の構造材である。彼らは、色調か表面の光沢か何か分からないが、構造をその素材まで正確に判別しているのである。生真面目なイマムラは彼らの応対に備えて、船体の全長や総重量やエンジンの出力などについて記憶していた。彼らはそんな物には興味はないらしい。ただ、船体の素材や構造材の隙間の間隔や表面の光沢などを、距離を置いたり、近づいたりしながら、絵画でも見るように鑑賞するのである。
 彼らの会話はよく分からないが、はっきりしているのは、奇妙な物を面白がるということだ。彼らの対応は、キムが言ったようにキムに任せるのが良さそうだった。イマムラはキムを振り返ったが、この同僚も一歩、間をおいていた。技術的な用語が分からないと言うより、価値観が違うのだろう。
 MSB─Xという稚拙な絵画は、N&B社の人々を堪能させたらしい。ムクテイは満足気に言った。
「イマムラさん。私が地球時間で25年前に船の設計に携わり始めた頃は、船の性能というのは、この程度の性能だった。私達にとっても、こういう船が原点なんだ」
 イマムラ達を自分と同列に並べて励ましてくれているのだろう。イマムラを励ますムクテイ部長の手が優しく暖かい。しかし、一方でその言葉がイマムラにショックを与えたのは、彼らが必死に作り上げたものが、25年分の性能の格差があるというのである。もちろん、ラベルの指導が古くさいというわけではない。彼らが入手できる素材が25年分古いというのである。

 品質監査の予定を2年間縮めた。N&B社ではその2年間で、ネヤガワ工業との関係が切れると見ていた。スピカという旧式機のメンテナンスは利益にならない、彼らに与え続けても良い作業だが、新型船アンドロメダのライセンス生産権が得られなかったことに不満を抱いて、N&B社の影響下から離脱しようとするかもしれない。そうなっても、旧式機のメンテナンスを、余った製造ラインでこなせばいいからN&B社にとってネヤガワ工業の動向は影響がない。
 ただ、最近、ネヤガワ工業が独自で小型機開発を試みているらしい。その状況を確認しておく必要がある。今回の品質監査を理由にした実質的な目的だった。
「彼らなら、やるかもしれないね」
 帰社する車内でムクテイが部下のリチャードとシルビアに言った。
「エンジンモジュール周りの補強材は後から追加した物だわ。船体の形状から考えれば、もともと、彼らはタイド社のフェニルⅡを搭載するつもりだったんじゃなくて?」
「もしも、初期に予定していたエンジンを搭載していたら、、」
「俺たちにとっては幸運だったね」
「運不運で片づけるんじゃない。これから私たちは彼らよりも努力するんだ」
(うちの若手にも良い刺激になった)とムクテイは考えた。
 続けて、脅威と言うほどではないが、敬意が入り交じった漠然としていて複雑な感覚を抱いた。ネヤガワ工業が自分たちの影響下にある内は怖くはない。しかし、彼らは何とかその中から羽ばたき、飛び立とうともがいているのである。
 しかし、設計課のキム課長の話によればあの船体も、9日後には破壊試験に供されるはずだ。宇宙を航行するどころか、MSB─Xという略称のまま、正式名称も与えられずにスクラップになるのである。
 ネヤガワ工業の技術開発課のメンバーは、その試験の準備に追われていた。

 数日前から、ひっそりしていたMSB─Xの周りが再び活気づいている。見た目には奇妙な化粧が施されている。新しいエンジンが外されて古びて錆の浮いたエンジンに換装され、塗装が施されたのだが、ガルグレイ一色で塗装されているだけで、スピカのように細かなマーキングもなくのっぺりした外観だ。ただその表面の要所に直径一センチばかりの赤いマークがついており、前後左右、10センチ間隔に線が引かれている。これから受ける衝撃試験で各種モジュールの変形の度合いを確認するための基準になる線と点である。外されたエンジンは既に他社に転売の手続きがされている。
 外観ばかりではない。内部の通信機器、探査機器、他に流用できる機器は全て剥ぎ取られて、今は使い物にならない中古品、或いは鉄や鉛のバラストに置き換えられているのである。破壊するための船体に、新品のモジュールや部品をつけておく余裕はないのである。
 ウォルヒたち技術開発課のメンバーにとって、文字通り心血を注いだ船体に、破壊検査の準備が進められているのである。真っ白な死に装束ではなくて、死刑囚が粗末な囚人服を着ているよう、とウィリアムスは思った。
「でも、惨めで、悔しいよね」
 彼女の言葉に、アサハリが黙って手を止めたのは、ウィリアムスに同意するものがあるのだろう。
 イマムラは試験の立ち会いをドノバンとウォルヒに命じていた。二人にはローウェル大学での性能試験の実績がある、という名目である。自ら望んでいくのは嫌だろう。事実、ウィリアムスやシンなどは性能試験の時には、自分も行かせろと要求したのだが、今回は黙ってイマムラの指示を受け入れた。ウォルヒとドノバンは先にシルチス大学に飛んだ。試験の打ち合わせである。破壊試験のために小型機を大学側に無償で提供する。その代償に大学は分析データーをネヤガワ工業に提供する。ドノバンがそう言う交渉をした。ここでも、余分な資金を使う余裕がない。
 


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