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〈 はじめに 〉

 

本書は実話を基に構成したフィクションです

実在の団体・人物・事件などには一部を除き関係はありません

 

作中の批判的な表現は演出であり、特定の団体を非難・否定する意図はありません

 

作中のキリスト教は教派を特定していません

 

宗教の解釈は「無宗教の人間」の解釈に重点を置いていることをご了承ください

 

宗教、医療、その他の説明においては個人の解釈があるため

正確性に欠けている場合がございます

あらかじめご了承ください

 

【】内の文章は単なる蘊蓄なので

興味のない方は飛ばしてお読みください

 

 

 

 

 

〈 注意 〉

 

著作権は藤雅道に帰属します

 

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最終更新日 : 2017-09-02 13:31:30

一 2004年12月初旬

 年配の方であれば一度や二度は行ったことのある人は多いと思うが、若い人ではいまひとつ馴染みの薄い場所であろう接骨院とは、捻挫・挫傷・打撲・脱臼・骨折などに対し電気や手技を用いて施術をおこなう健康保険の使える施術所である。

 

 住宅街にある大きなスーパーを中心にいくつかの店舗が並ぶ一画の住居付店舗に目をつけ、その接骨院を僅かな自己資金と金融公庫からの借金で開業したのは三年も前のことだ。

 それなりに人通りも多く立地も良い環境に当初は儲ける意欲も少しはあったものだが、免許資格持ちの自分自身と二十半ばの受付嬢が一人、十坪程の狭い院内は規模としては最小の部類、おまけに患者に入れ込み過ぎる性格の為一人あたりの施術時間は長く回転率でいえば非常に悪く、露呈した経営能力の無さは忙しいばかりで経費や給金を支払えば僅かばかりの利益しか残らない貧乏接骨院が現状だ。

 それでも潰れず飯が食えればそれでいいかと独身ゆえの気楽さで、とくに何事も無く施術に勤しむ日々を送っていたものだった。

 

 

 十二月初旬、朝寒い時間帯はまばらな患者も、十時を過ぎる頃にはすぐ近くにあるスーパーの開店時間に併せて用事を一緒に済まそうとする主婦など中高年の女性の来院で幾らか賑わう。

 三、四人程座れる狭い待合室と、壁を挟んで施術用ベッドが三台ある施術室にベッド毎をカーテンで区切り、それぞれに電気の機械や赤外線などが備え付けてある。

 これにマッサージベッドもある手狭な院内では五人以上も入ればあっという間に満杯だ。

 今も待合に二人座っている中、扉を開けた音が聞こえ、受付嬢が順番まで時間がかかると説明する声が壁向こうで聞こえる。

 なにしろ一人頭の施術時間が長いので待たせることは確実だ。

 この心苦しさはなかなか慣れるものではない。

 買い物を済ませて再び来るとの声にひとまず胸をなでおろし、改めて目の前の患者に取りかかることにした。

 

「今日はどうされましたか?」

 患者は72歳、女性。

 昨日つまずいた時に右膝を捻ったとのことで、ベッドの上で投げ出された膝は全体が腫れ上がり痛々しい。

「だんだん痛くなってきて・・・」

 少し体を起こし、その動作が響いたのか顔をしかめ、膝を擦りながら訴える。

 捻った直後痛みはあったものの、大したことなく、とりあえず温めればいいのではと夜に風呂で湯船に浸かって一生懸命温めていた、と説明を受ける。

 

 確かに慢性的な痛みに対しては温めることが有効な手段ではあるが、急性、受傷した直後の捻挫などについては例外で、必ず冷やさなければならない。

 冷やすことにより腫れが悪化することを防ぎ、痛みを和らげるのである。

 温めてしまうとそこに大量の血液が流れ込み、腫れ・痛みともに悪化するのだが、意外にこのことを勘違いしている人は多い。

 

 風呂の所為もあってか翌朝膝は倍近く腫れあがり、腫脹著しく膝関節の屈曲困難といった症状であった。

 簡単な膝のテストをしたあと、膝に電気治療器をまず当てる。

 その後は患部を冷やし、施術後には包帯で固定しておいたほうがいいだろう。

 とにかく関節なぞは動かせば悪化するものだ。

「家の冷凍庫に保冷剤でもあれば、今日はそれでしっかり冷やしてください。お風呂は湯船に浸からずシャワー程度にしておいてくださいね」

 ベッドの脇で努めてにこやかな表情を作り説明を続ける。

 

 人付き合いも悪く愛想笑いも苦手だが、患者と接する時にはそれなりに態度はガラリと変える。

 身長百八十の些かゴツイ体躯に、昭和だったら二枚目だったかもしれないと妙齢の女性によく言われる若干強面の顔が乗っている姿を省みてのことだ。

 慣れていない相手には不要に威圧感を与えてしまうという自覚がある。

 三十路にはいり二年目、いい加減いい歳ともなれば分別というものを覚え、必要以上に愛想を好くしなければならないと努力はしていた。

 それでもやはり笑顔を「つくる」時は、未だにどこか顔が引きつっているのは内緒の話としておこう。

 

「しばらくこのまま置いときますね」

 中央のベッドの、膝の患者に笑顔を向けながらカーテンを閉め、両隣のベッドの段取りを考えながら次のベッドに向かう。

 変わらぬいつもの接骨院の日常だった。

 

 受付終了時間午後一時の十分前、最後の患者の施術も終わり、やることもないので受付嬢には先に上がって貰うことにした。

「それじゃあ失礼します」

 ナース服のまま明るく挨拶をして裏口から出て行く。

 歩いて三分程の距離に住んでいるので着替えるのが面倒らしい。

 彼女がアルバイト募集に応じて来たのがだいたい半年前になる。

 午前と午後の夕方六時までの時間帯に受付に入り、働きぶりに不満はないが、患者の居ない暇な時に溢す旦那ののろけと愚痴には時折辟易する。

 新婚だそうで、どうやら今が一番楽しい時期らしい。

 

 とりあえず午前はこれで終わりかと椅子に座り背もたれに体重を預ける。

 机の上のカルテのチェックをするつもりだったっが、そこそこ忙しかったこともあり、多少身体が気怠くやる気が起きない。

 先に煙草でも吸おうかと思った矢先、玄関扉を開ける音がした。

「まだよろしいですか?」

 「診療中」の札はかかっているのだが、終わり間際ということで気を遣っているのだろう。

 申し訳なさそうに開けたドアの隙間から声をかけてきたのは初めて見る顔、若い女性だ。 さしずめ二十代後半といったところか。

「大丈夫ですよ」

 気を遣わせないように普段より少し明るく返事をする。

 煙草への未練が残るが仕方がない、よくあることだ。

「初めてですね。保険証はお持ちですか?」

 問診表を取り出しながら受付を始め、改めてカウンター越しに顔を見る。

 とりたてて美人というわけではないが、童顔、丸顔で少したれた目は小動物の様のように可愛らしい。

「あの、交通事故なんですが・・・」

 そういうと彼女は交通事故で追突され首と腰がムチウチになったこと、整形外科に二ヶ月程通っているが症状が変わらず、知人に勧められ接骨院に変えてみようと思い来たことを説明した。

「そうなると健康保険ではなく自賠責になりますね。整形からこちらへの変更は保険会社にご連絡されましたか?」

 まだ、とのこと。

 帰ってから接骨院の名前と電話番号を保険会社に伝えるようお願いしたあと、問診表に必要事項を記入して貰う。

 

【 第三者により加えられた負傷については健康保険を使用することは出来ない。

 交通事故の被害者の場合、相手方の加入している強制保険、正式名称を自動車損害賠償責任保険、俗にいう自賠責や任意保険を使用しての治療となる。

 この自動車保険、普通の病院はもちろんのことだが、接骨・整骨院に対しても適用される。この場合整形外科などで診断書を出して貰う必要があるが、あとは保険会社に連絡するだけなので手続きも難しいものではない。

 原則、はり・きゅう・按摩マッサージや整体・カイロプラクティックなどは適用外であるが、長期にわたり症状が変わらないなどのケースでは医師が有効と判断した場合に限り適用されることがあり、このあたりは保険会社と要相談になる。】

 

 整形外科の診断書のコピー受け取り目を通す。

 女性の名前はユキコ・年齢三十三歳。

 年下かと思っていたが意外にも一つ年上だった。

 

 一通りの手続きを済ませベッドに案内する。

 横に立つと頭ひとつ分は身長差があり、一般的にみても小柄な部類に属すだろう。

 玄関に脱がれたヒールの高い靴はささやかな抵抗なのかもしれない。

 とりあえず荷物とコートは備え付けの籠に入れてベッドサイドに腰をかけて貰う。

 躰を包むゆったりとした色の淡いシャツに足首まで丈のあるスカートが、太っているわけではないが年齢相応に多少肉付きのよいボディラインを上品に隠し、清楚とでもいえる雰囲気を醸し出している。

 なんとなく、どこか浮世離れした印象を受けた。

 たまの若い女性患者に普段より細かい観察を行いながら整形外科で書かれた診断書に目をやる。

 診断書によれば申告通り首と腰の受傷であり、整形外科でのレントゲンなどの検査で骨に異常が無いことも確認済みのようであった。

 ここでは改めて痛みの原因を探る為に筋の緊張状態、神経痛の有無、背骨の歪みなどを診てみることにした。

 

【 ムチウチとは交通事故の追突などで首の急激な過伸展・過屈曲によりおこる頚椎(首の骨)および筋・靭帯・神経・血管などの損傷を指す。

 症状により幾つか分類されるが一般的な症状として知覚異常・頭重感・頭痛・項部痛・上肢疲労脱力感などがあり、神経痛や眩暈を伴うものもある。

 症状は数週から数年持続するものもあり、また症状が治まっても周期的に症状が再発することもある。】

 

 背後にまわりこみ背骨の状態を確認する。

 一般に背骨と呼ばれているものは脊椎と言い、頚椎・胸椎・腰椎の総称である。

 首の上部から脊椎の両脇に沿って指を滑らし歪みを診る。

 背部において筋に損傷が起こるとその筋、及び周囲が緊張し、背骨の歪みなども引き起こす。

 軽度の場合はマッサージなどで緊張をとるだけでも改善することもあるが、しない場合は歪みを治す必要もあり相応の手技が必要になってくる。

 受傷後から変わらず、首を傾けるだけでも痛みが奔るとのこと。

 予想通りに下部頚椎に大きな歪みを触知する。

 そのまま腰まで指を滑らし胸椎下部及び腰椎部に幾つか歪みを見つけたあと、状態の説明に移る。

 

【 本来、脊椎の歪みの矯正というものは接骨院の業務ではない。

 よく混同されるのだが、脊椎や骨盤の歪みの治療をうたっているのはカイロプラクティックや整体である。

 とはいえ日本にはこのような治療の資格は無く、講習を数度受けただけの素人同然の人間がおこなっている場合も多く注意が必要だ。

 また業務ではなくとも接骨・整骨院などで治療の一環として取り入れ、自費治療として別個に行なう処も少なくないのだが、その理由から技術にピンからキリまであり、これもまた注意が必要である。

 補足として、一口に歪みを治すといってもその手技の種類は多く、ボキボキ鳴らさず、体に負担をかけない手技もあるので自分にあった治療法を探して頂きたい。】

 

 首と腰を前後左右に動かし痛む場所を確認して貰い、とりあえずは腰椎部から始める。

 ひとつの脊椎に対して緩やかに力を加え歪んだ脊椎を整えていく。

 時間のかかるのが難点だが、弱い力の為、脊椎の関節や周囲の組織に対して負担も少ないのが一番の利点である。

 患者自身も軽い圧迫感、歪みのきつい場合でも多少の鈍痛を感じる程度で済む。

 痛くはないか、しんどくはないか、などの問いに、大丈夫です、と返事はするがどこか不安げで、初めてこの施術を受ける患者は大体この様な感じだ。

 こうやって歪みをとると言っても、ただ軽く押し続けているだけで何が変わるのかといったところだろう。

 三箇所ほど歪みをとり、改めて腰を前に倒し、後ろに反って貰う。

「・・・あ」

 確かめる様に同じ動作を繰り返す。

「今痛み、無いです・・・」

 まだ張ったような感じは残るけど、と言いながらも事故から二ヶ月、変わらなかった痛みの変化に驚きの声をあげた。

 もちろん個人差はある。

 損傷の程度や症状によっては変化がほとんど見られない場合もあるが、適応する症状であればその場で痛みの無くなることも少なくない。

「それでもまだ治ったわけではないので、時間が経つと元の痛みがでてくると思います。しばらくは続けないといけませんよ」

 一度歪むと癖がつく。

 その為、繰り返し施術することが必要であるが、特に症状が出なくなればそのまま様子をみてもいいと思う。

 歪み自体はあって当たり前なので、そう気にしなくても大丈夫だ。

 

 続けてほかの部位の施術に移る。

 安堵したのか全体の筋の緊張が緩んでいくのが触れている指先からも伝わる。

「どうなるかと思ってたんです」

 重かった口も、会話をする余裕がでてきたようだ。

「今まで行ってたところだと治療してもかえって痛くなったりして不安だったんです。そうしたらツジさんから紹介されて、あ、ここの大家さんの」

 裏手に住む接骨院の店舗の大家は四十代の夫婦と高校生の娘の三人家族で、つい先日、娘が寝違いで首を痛め来ていたことを思い出した。

 母親も付き添いでみえられ、その時の会話の中でムチウチのことを聞かれていたことを今更のように思い出す。

「お知り合いだったんですか」

 地元ではない為、人間関係の把握はしづらい。

「あそこのご家族とはもう前から、私が学生のころからの付き合いになるかな」

 何の接点があるのかが疑問だが地元の人間同士何かあるのだろう。

 詮索するほどのことでもない。

「だからよくツジさんのところに来るので、ここは知ってたんです。けど接骨院て何をするところかよく知らなかったから入りにくくて」

「確かに、初めてだと不安ですよね」

「たまたま首のことで話していたら教えて貰ったんです」

「まぁ、痛いことはしませんから安心してください」

 明るく話す横顔を背中越しに見ながら、幾らかは不安を解消出来たようだと感じつつ施術を続ける。

「そういえば先生、知ってます?ここって前は飲み屋さんだったんですよ。その前は・・・なんだったかな、それで―」

 気も弛んだのか先程までの無口が嘘のように、よく喋り、よく笑う。

 気がつけば施術を終えるまで、他愛もない会話を楽しんでいた。

 

「はい、そうしたら首と腰、先程と比べていかがですか?」

 楽しい会話に名残を惜しみつつ術後の様子を伺う。

 始めてから二十分程経過していた。

「だいぶ違います」

 首を前後に動かしながら答え、動かした時の鋭い痛みが消えていると申告した。

「とりあえずは痛みがとれただけと思ってください。まだ治ったわけではないので無理するとすぐ痛くなってきますからね。できるだけ安静にしてください」

 念を押す。

 痛みがなくなると喉元過ぎればナントヤラ、普通に動かしてしまう人が多く、その結果、前より痛みが酷くなる場合も多々ある。

 ただでさえ初めての場合、刺激の強弱に関係なく揉み返しなどの肉体の過剰反応がでやすく注意が必要だ。

 そのままベッドにうつ伏せで寝て貰い、首と腰に電気治療器の端子をあてる。

「しばらくこのまま置いておきます。何かあれば呼んでください」

 特に何事もなく、十分程でアラームが終了を告げた。

 新たな痛みがでていないか、気分が悪くなっていないかなどを確認し、今日はこれで様子をみて貰うことにする。

「それではこちらが診察券になります。今日は無理せず安静にしてください。」

 受付カウンター越しに診察券を手渡した。

 

【 自賠責の初診の場合、事前に保険会社と病院の連絡がとれていれば問題なく患者の費用の負担は無い。

 連絡がとれていない場合は院ごとに対応は違うが、全額、または一部治療費を現金で支払わなければならない場合がある。勿論あとで全額は還ってくるので心配はない。】

 

「ありがとうございました」

「お大事にしてください」

 玄関のドアを開け外に出ると、振り返りもう一度笑顔で会釈をして扉は閉められた。

 入ってきた時とは打って変わった表情だったことに満足する。

 やはり施術の結果がきちんと出せた時は嬉しいものだ。

 心地良い達成感と、やはり初診の患者にはエネルギーを使い膨れ上がった疲労感を共に感じながら白衣を脱ぎ二階に上がる。

 これでようやく煙草が吸えるというものだ。

 

 昨今の禁煙ブームのなか、当然ながら院内で煙草を吸うのは論外で、例え誰もいなくても匂いがつく為、吸うこと出来ない。

 幸いなことに住居付店舗であった。

 二階には六畳の畳部屋と板間の四畳半があり、エアコン・テレビ・冷蔵庫・電子レンジなどに布団を一組と寝泊りが出来る程度には揃えてあり、換気扇も設置した煙草も吸える完全にプライベートな空間を確保出来てある。

 休憩や、気が向いた時に寝泊りするなど何かと重宝していた。

 

 独身男にふさわしい散らかり方を見せる室内を横目に、換気扇を回し煙草に火をつける。

 吸い込まれる煙を眺めながら、いつしか考えていたのは先程の患者、ユキコのことだった。

 かわいい、綺麗、ではなく可愛らしいという形容詞がしっくりくる。

 とりたてて顔の造作に際立つものがあるわけではないが、全体の雰囲気から与えられる印象と愛嬌のある笑顔が「可愛らしい」という言葉を選ばせた。

 患者には手を出さない、その程度のモラルは一応ある。

 しかし以前の彼女と別れてはや一年、日々年配のご婦人の相手をしている身としては、滅多にない同年代の好みの女性に対して食指が動くのは致し方無いことであろう。

 それでもそれだけだ、だからといって何をするつもりもない。

 相手が未婚かどうかも判らないし、そもそも次回の来院があるかも分からない。

 取り留めのないことを考えている間に火はすでに根元まできていた。

 昼飯にしようと煙草を灰皿に押し付けて、冷蔵庫から祖母の手作り弁当を取り出す。

 蓋をとった弁当箱の中身は市販品であれば「特盛」といったところで、若いんだからと作ってくれる料理は弁当に限らず家でも常に油モノ中心の実にボリュームのある中身で三十過ぎの胃には少々重たい。

 祖母にしてみれば外見は成長しても孫はいつまでも幼い頃のままらしく、もう歳だからと言っても一笑に付され、量を減らすことすらして貰えない。

 残して捨てるのも気が咎める。

 これも祖母の張合いになるのならと残さず食べる様にはしているが、徐々に増えていく体重に懸念を感じる今日この頃だった。

 

 現在は父方の祖父母と同居の身である。

 両親は県を二つ程またいだ土地に健在であり、自分の育った地元と呼べる場所も当然そこに当たる。

 その地元ではなく、土地勘や知り合いがあるわけでも無いこの土地で開業を決めたのは他でもない八十を超えた祖父と祖母の為であった。

 場所にこだわりは無かったので四年前、他県で八年程勤めていた接骨院を辞めたことを期に、両親が何かと心配していた一軒家二人暮らしの祖父母のところで開業でもするかと割とあっさり決めてしまった。

「家を継ぐ気はないんだが・・・」

 遺産目当てと思われるのは心外である。

 相続などは面倒なのでそれだけは事前に断りを入れて同居を提案し、家の空き部屋に転がり込んだ。

 これだけ聞けばまるで絵に描いたような孝行孫息子だが、学生時代から高校は全寮制で家を出たのを皮切りに、各県を渡り歩き散々好き勝手して親に苦労をかけ続けの放蕩息子であった実績がある。

 ここらでひとつ罪滅ぼしでもしておかないとさすがに寝覚めが悪い、という幾分お仕着せがましい理由もあった。

 当初は祖父母の家を接骨院に改装する申し出もあったが、そこまでして貰うつもりも無く家から車で十分程離れた場所にある店舗を借りることにして開業した。

 人間関係を含め、家と仕事場はある程度距離を置いたほうが物事うまくいくものであることもあっての配慮だ。

 現状、歳の離れた者の同居はお互いに気を遣うことも多いが、それがまたいい刺激となっているようで二人とも元気なものである。

 どうなることかと思った時期もあったが、振り返れば同居して良かったと思える程度に今はそれなりの満足感を持っていた。

 

 電子レンジで温めた弁当を黙々と口に運ぶ。

 毎日のパターン通りなら、このあとは昼寝をして午後の診療、終われば家に帰り夕食のあとは祖父母の治療、その後は大抵風呂に入って寝るだけの生活。

 考えてみれば週末や休みの日は買い物などの家の用事に付き合い、食事はなるべく一緒に摂るように努めていると、一人の自由な時間など無く、遊ぶことにもとんと縁が無くなったものである。

 それでも今はこの平凡で平穏な日常を繰り返していることに、不満を感じることもなく過ごしていた。


二 2004年12月中旬から下旬

 まもなくクリスマスだが接骨院には関係ない。

 クリスマスセールで施術費半額、とでもやれば患者も倍増するかもしれないが健康保険を扱っている身では出来るわけも無い。

 とりあえず気分だけでもと置いてある、待合室の棚のサンタ人形や小物が僅かながらに季節感を出しているに留まっていた。

 寒さの所為か、年末行事で慌ただしいのか、やはりこの時期は患者も少なく陽が沈む頃には暇を持て余すことが多い。

 今日も夕方六時に受付嬢にはあがって貰ってから暫らくしての院内には患者一人のみと寂しい限りだが、相手の所為か少々浮かれていた。

 ユキコ嬢。

 初診から二週間経ち、ほぼ毎日のように来ていた彼女とは幾らか打ち解けてきたように思う。

 それほど踏み込んだ話をするわけではないが、他愛のない話を感情豊かに話し、笑う彼女に好意を抱き始めたのはいつの頃からだろうか。

 一度くらいメシでも誘ってみよう、などとクリスマスの雰囲気に流されて、つい不届きな考えが頭をもたげ始めている。

 彼氏がいるか直接は聞いておらず定かではないが、左手薬指が空いていることから結婚はしていないだろうということで勝手に判断していた。

 それもそろそろ確認してみたい気もする。

 とりあえずは今日も外面はあくまで品よく、先生の顔で施術を行なっていた。

 彼女は首・腰ともにズキズキした痛みは緩和するも、鈍痛・違和感去り難く只今施術継続中であった。

 うつ伏せで寝て貰い、筋緊張緩和の為に首周囲のマッサージを行ないながら話しかける。

「もうすぐクリスマスですね」

 待合室のテレビのニュースでクリスマス特集の声が聞こえていた。

「彼氏とデートとかするんですか?」

 この流れなら自然だろうと探りを入れながら質問してみる。

「クリスマスは・・・特に何もしません」

 少し引っ掛かる言い方だが、質問に気を悪くしたわけでもなさそうだ。

「誘ってくれる相手もいないですしね」

「なら一緒にメシでも行きませんか?」

 チャンスは逃さず、断られても冗談で済ませられるよう軽い感じで誘ってみた。

「・・・」

 数秒の沈黙、失敗だったか、まだ誘うには時期が早かったかもしれない。

 仕方なく戯れと誤魔化そうとする前に彼女の口から予想外の台詞が耳に届いた。

「ごめんなさい。私、クリスチャンなの」

 そう言ってキリスト教の一教派の名前を上げる。

 聞いたことがあるような気もするが、とりあえずキリスト教という大きな括りでしか理解出来ない。

 なにしろ仏教神道も含めて宗教には必要最低限、極力関わらず無頓着に生きてきた。

 思いもよらない唐突な告白にどう返答していいか言葉を探す。

 地雷を踏んだような気分、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。

「ああ」

 間の抜けた返答しか出来ない。

「だから未婚の異性と二人きりで会ったりするのはしないようにしているの。お誘いは嬉しいけど、ごめんなさい」

 宗教を理由に体よくあしらわれたわけではなさそうだ。

 うつ伏せで表情は見えないが本当に申し訳なさそうな声の雰囲気、真摯な答えに軽い気持ちで声をかけたことが今は心苦しい。

「厳しいんだね」

「そう、部屋とかでも二人きりになるといけないからドアは開けっぱなしにしなければいけないとか・・・」

 徐々に声がか細く詰まり気味になる。

 宗教の話が無宗教の相手には理解され難いこと、反応が得てして好意的にならないことを彼女は理解していた。

 だから今迄、あえて話さなかったのだろう。

 クリスチャンであること、誘いを断ったことの気まずさ、このあとの状況に対しての不安と緊張は施術中の身体に触れた手からも伝わってきた。

 

「じゃあ結婚しようか?」

「!?」

 驚きとともに顔を上げて小動物のように目をパチクリさせる。

 何を言われたのか理解出来ない、そんな表情だ。

「結婚すれば何も問題ない、それからメシを食べに行こう」

 あからさまに現実味の無い冗談に切り替える。

 道化芝居もいいとこだが、この際ノリで誤魔化すのが一番手っ取り早い。

 ちょっと呆けた顔があははと大きな声で笑い出し、その身体の緊張が解け緩むのを指が伝えた。

「駄目ですよ。私、同じクリスチャンの人としか結婚しないんだから」

 にこやかな返答にわだかまりは感じられない。

「そいつは勿体無い、こんなにかわいいのに」

 その言葉にまた、あははと屈託無く笑う。

 どうやらこれで余計な気を遣わせずに済む、これからも今迄通りに接していけそうだと胸を撫で下ろす。

「でも今この状況、二人っきりだけどキリスト教的には大丈夫?」

「それは・・・」

 困ったように答えに詰まる。

「・・・だって治療だから」

 これは許して頂けるらしい。

 

 受付終了後、シャッターを下ろし煙草を吸いに二階に上がる。

 改めて冷静に考えてみようと思いながら煙草に火をつけた。

 神様はいるかもしれないが興味は無い。

 宗教は特に信じていない。

 出席した冠婚葬祭での神道・仏教はあくまで慣習としてしか認識していなかった。

 経典や聖書なども一種の思想書、罰当たりを承知でいえば空想小説の類として捉え学生の頃には多少なりと目を通したこともあるが、それ以上の興味が湧くことはなかった。

 これからもそうだろう。

 そんな自分が宗教なぞを真面目にやっている相手と、よしんばつきあったとしてもうまくいく筈もない。

 宗教家との交際がいかに大変かは耳にする程度だが理解はしているつもりでいる。

 例え「愛」とやらがあっても生活習慣の違いはともすれば軋轢を生みやすいものだ。

 まだ深入りする前に知って良かった。

「ちょっと勿体なかったかな」

 理性は諦めを決断させ、呟きと共に煙を吐いた。

 

 

 一週間が経ちクリスマス・イブを迎え、その夕方。

 さすがイベント当日はとみに患者が少なく、今日は夫とお出掛けデートと朝から休みを取った受付嬢の空いた穴も一人余裕でこなせる患者数であった。

 午後の開始時にはちらほらいた患者も、陽が沈み暗くなってからは一人もいない。

 閑散とした室内を眺める。

 クリスマスのようなイベント時に一人でいると、寂しさもまたひとしお身に沁みる。

 月末、および年末の近いことからやらなければならない事務仕事もあるのだが、それもこんな日にはやる気が起こらない。

 暇を持て余していると玄関の扉が控えめに開いた。

「こんばんは、まだ大丈夫ですか?」

 ユキコだ。

「ヒマそうだね」

 コートを脱ぎながら悪戯っぽく笑う。

 雨降って地固まるというわけでもないだろうが、あれからいつのまにか他に患者がいない時などは友人のように互いにくだけた物言いになっている。

 関係はすごぶる良好だ。

「ほっとけ」

 いいからさっさと入れ、と言いながらベッドの用意をする。

 調子はどうかと尋ねながら首の施術を始めると、外出して疲れたからかいつもより首と腰が痛いと訴える。

 確かに筋は緊張気味だ。

「今日は外、寒いよ。天気予報で言ってたけど雪が降るかもね」

「クリスマスの上にそれだけ寒いんじゃ、今日はもう店仕舞いだな」

 シャッターを閉めてやろうか、そんな気さえ起きていた。

「やっぱりクリスマスとか暇?」

「まあね、こんな日に来るのはクリスマスに無縁な寂しい人ばっかりだな」

 寂しい、を強調して言ってみた。

「私は別に寂しくないですよ。だいたい日本のクリスマスって違うもの」

 ちょっとむくれたように反論する。

 彼女、キリスト教徒にとってのクリスマスは恋人達の聖なる夜でも家族サービスの日でもない。

 一般の認識と些か異なることを聞いたのは昨日のことだ。

 

【 十二月二十五日はイエス・キリストの誕生日ではない。

 起源は定かではないが、ミトラ教という太陽神を崇拝する宗教の影響を受けたと考えられている。

 元々ミトラ教の影響を受けていたローマでは、一年でもっとも日が短いこの日を太陽の誕生日とし冬至を祝っていた。そのローマにキリスト教が入り、布教する際に土着の宗教であったミトラ教を吸収し「イエス=真の太陽(神)」とこの日を誕生日として祝うようになったようだ。

 クリスマス・ツリーはヨーロッパの民間信仰を起源とし、常緑樹のモミの木は神聖な木とされ枝を悪霊除けとする風習がある。ドイツ中部ではモミの木に住む小人が住人によいことをするという信仰から木を飾りつけその周りを踊る祭りがあり、これが起源といわれている。

 どちらもキリスト教以前からの風習がキリスト教と迎合したものであることから、真面目なキリスト教徒にしてみれば「異教的」にでもなるのだろう。】

 

 彼女はどうやら「真面目」なキリスト教徒のようで、クリスマスは行事ごとに参加することはなく、家で心静かに過ごすという。

「そういう先生はどうなの?このあと。実は彼女とかいたりして」

「ないない。帰ったら酒飲んで鳥とケーキ喰って寝るだけ」

 クリスマスらしくワインと七面鳥、と言いたいところだがビールにから揚げ、日本酒に焼き鳥あたりが性に合う。

「誰かさんに誘いを断られたおかげで今年も独り寂しくすごしますよ」

「それはそれは」

 他人事のようにあしらわれるが、声にはどこか楽しんでいるフシがある。

「でも独りって、今日は家には帰らないの?」

「今日は二階に泊まり。年末近いから事務仕事がいろいろね」

 月末、月初めには保険の請求などで慌ただしいのはいつものことだが、それに加えて年末年始の用意も加わる為、雑務が夜遅くまでかかる。

 最近は寝るのが早い祖父母に気を遣わせない為にも泊まることは珍しいことではなかった。

「独りだと大変だね。私の父も自営業だからなんとなく分かるけど」

「そう、大変なんだ。だから結婚して手伝ってくれる?」

「独りで頑張ってください」

 あれからも以前と変わらぬ態度で治療に来ていた。

 「結婚」という言葉もネタとして受け入れられているようで普通に聞き流されている。

 あわよくば、という思いが無いわけでもなかったが、クリスチャンという壁がある以上そこまで踏み込む覚悟はない。

 同世代の少し仲の良い患者、それで十分だった。

 

「お大事に」

 施術が終わり見送ると、時計は午後七時四十分を指していた。

 受付終了まであと二十分。

 早く閉めたいところだが、そこは我慢して八時までは開けていなければならない。

 とりあえずは使っていたベッドの整理をしていると、玄関で扉の開く音がした。

「・・・」

 声がしない。

 無言で入ってくる患者もいるから珍しくはないが、扉の閉まる音がしない。

 手を止め待合室を覗き込む。

「どうした?」

 今帰ったばかりのユキコがそこに立っていた。

 少しうつむき加減で目を合わせようとせず、そのままゆっくりと扉を閉める。

「何か忘れ物でもした?」

 近づきながら声をかけるが返事はない。

 さっき見送ってから数分も経っていないから何かがあったわけでもないだろう。

 無言のままユキコは靴をゆっくり脱ぎ、目を伏せたまま一歩踏み出す。

 そして身体ごと、勢いよく胸に飛び込んできた。

「何を・・・」

 予想外の行動にそれでも冷静を保ちながら両肩に手をかける。

 肩が震えていた。

 体を離して顔を覗き込もうとするが離れようとしない。

 すがりつくような姿勢そのままに彼女が顔を上げた。

 その想いつめた表情と目が合う。

 好意と違う感情が湧き上がるのを抑えきれない。

 

 彼女は患者だ。彼女はキリスト教だ。彼女は・・・、彼女は・・・、彼女は・・・

 

 踏み止まらなければならない。

 踏み止まるべき理由が頭をよぎる。

 その全てが踏み止まる理由にはならなかった。

 奪うように唇を重ねていた。

 うつむいていた彼女の顔を両手で挟み、持ち上げ、なかば強引に唇を重ねた。

 驚いて離れようとする彼女の腰に腕を回し引き寄せ、片手で頭を後から鷲掴みにする。

 止まらなかった。

 止めたくはなかった。

 情動のままに、荒く、荒々しく唇を重ね、重ね続けた。

 抱きしめた腕から力が抜けていくのを感じる。

 気がつけば、彼女に抱きしめられていた。

 

 数分、もっと短い時間だったのかもしれない。

 立ったまま、抱き合ったまま過ぎた時間は。

「大丈夫?」

 少しばかり冷静さを取り戻し始め、抱え込んでいた手でやさしく髪を撫で上げる。

 ユキコの行動に疑問がないわけではないが、何故かなど野暮な台詞を言える場面でもない。

「うん、ちょっとびっくりしたけど」

 ちいさな声ではにかみながら微笑み、上気した桜色の頬は耳まで赤い。

 初めて、愛おしいと想った。

 強く抱きしめる。

 抱きしめられる。

 今はそれだけが想いを伝える術であった。

 

 過ぎた時間は覚えていない。

「・・・もう帰らなきゃ」

 名残惜しそうに少しだけ身を引きユキコは呟いた。

「帰したくはないんだけどね」

 泊まっていけとはいえない、キリスト教徒だ。

 「節度あるおつきあい」などと柄にもないことを考える余裕はあった。

「しょうがない、今日のところは帰してやろう」

 何それ、と腕の中で笑うのはいつもの彼女をもう一度強く抱きしめてから離れる。

「患者さん、入ってこなくてよかったね」

 備え付けの鏡で身だしなみを整えながら冷静に指摘された。

 玄関の扉が目の前の待合室で抱き合うなどと、確かに大胆なことをしたものである。

「さすがにあの状況は言い訳ができないな」

「変な噂が立つよ、あそこの接骨院の先生、女の子に変なことしてるって」

「変なことって、どんな?」

 ニヤニヤと我ながら意地悪な質問を返してみる。

「もう」

 顔を赤らめながら、照れくさそうにそっぽを向いた。

 少しむくれた顔が女性は一番可愛い。

 その為ついからかってしまうのは昔からの悪い癖だ。

「じゃあ今日は帰るね」

 靴を履いてから振り返りちいさく手を振る彼女は、返事を待つ間もなく扉を開けると逃げるように外へと踏み出す。

「気をつけて、な」

 結局はっきりとした気持ちを聞けずに狐につままれた気分のまま、扉の向こうに消えていく彼女には苦笑いしながらも送り出すことしか出来なかった。

 電話番号も聞いていないことに気付いたのはその後だった。

 

 ユキコは患者であり更に宗教家である。

 女性に不慣れでも奥手のつもりでもないが、つきあう以前に、抱きつかれたとはいえ半ば強引にキスまでしてしまったのは些か軽はずみであったかもしれない。

 後悔はしてないがさすがに軽い背徳感と自責の念は感じている。

 何もする気がおこらない。

 やることは幾らでもある。

 片付け、事務仕事、晩飯、風呂・・・煙草も吸わなければならないが、どれもする気が起きなかった。

 椅子から立ち上がる気力も無く、軽い脱力感に思考が鈍るが状況を整理してみる。

 いつの間にか惚れられたのだろうか。

 家が自営業、それなりにいいところのお嬢さん。両親がキリスト教で彼女も子供の頃からキリスト教。学校もミッション系。今は家の事務仕事の手伝い。

 彼女について知っていることといえば会話の中で知りえたそれくらいか。

 あと年齢三十三歳、恋人ナシ。

 男に免疫のない温室育ちの箱入り娘、といっても娘という歳でもない、三十過ぎればそれなりの人生経験は積んでいるはずだ。

 まさか「結婚しよう」などという言葉を真に受けたわけではないだろう。

 そもそもその件に関しても「宗教」を理由に拒否されていた筈だがどういった心境の変化なのだろうか。

 どうにも理解に苦しみ、くだらない推論がいくつも頭の中をまわる。

 直接聞くのが手っ取り早い。

 カルテを見れば住所も電話番号も分かる。

 それでも行動に移そうとは思わなかったのは、何故か今はこの気分のままでいたいと心のどこかで余韻に浸っていたこともある。

 結局焦らず、ユキコが再び姿を現すまで待ってみようと考えをまとめた。

 

 結論を出して表のシャッターを下ろしに外へ出ると、顔に冷たいものが当たる。

 こんな気分と場面には出来過ぎだ。

 見上げた夜空にはイブの夜に相応しい粉雪が舞っていた。


三 2005年正月

 クリスマス・イブの日からその後、結局ユキコは接骨院に一度も姿を見せることはなかった。

 二十九日の仕事納めの日まで多少の期待を胸に抱きながら過ごしていたが、いつもより忙しい年末の接骨院の患者の中に彼女の姿を見ることはなかった。

 鬱憤のたまる状況のなか、それでもやらなければならない大掃除や事務仕事を淡々とこなし、家に帰れば家の用事の手伝いなどで年末は過ぎていく。

 慌ただしいままに新しい年を迎えていた。

 

 

【 正月は歳神様とやらを迎え祝う神道の行事で、門松・しめ飾り・鏡餅なども歳神を歓迎する為のものである。

 歳神とは穀物の神らしく、農耕民族である日本人らしい神だと合点もいく。

 もとは氏神の風習らしい初詣は神社・仏閣どちらが正しいのか気なるところだが、神仏混合のお国柄らしくどちらでもいいらしい。

 明治時代初期に一応神仏分離の政策があったが、それまでの神道と大乗仏教および祖霊信仰が一体化した神仏習合の信仰の形は今でも慣習として残っているようだ。】

 

 正月休みは三十日から一月三日まで。

 祖父母の家ということもあり年始には両親や親戚が集まり賑やかなもので、大人数での酒盛りともなれば休みの間も休めたものではない。

 ここのところ酒の席で言われることは大概いつも一緒だ。

 祖父や父など男衆からは「そもそも商売とはな・・・」「常に腰をひくく、患者のことを考えて・・・」「こつこつと飽きずにやるから商い(あきない)というのであって・・・」などと、皆会社勤めの人間なのだが商売のやり方や接骨院の経営のやり方をこんこんと説き教えてくれる。

 商売について語ってくる人間は会社勤め・サラリーマンが多い。

 商売や経営に対し経験は無いがこうあるべきという固定概念でもあるようで、患者でも勤めの人間ほど「商売とは」と言いたがる。

 実際に自営業や経営している人間はまず商売云々を人に言わない。

 経験があればこそ人に対して商売を語ること、ましてや職種が違えばアドバイスなど出来るものではないことが分かるものだ。

 そうはいっても祖父として、父として心配しての言葉であれば無下にも出来ず、これは粛々と話は聞かざるを得ないだろうと酒の相手をしながら耳を傾けるふりをする。

 

 片や祖母や母など女衆からは「彼女はできたのか」「もういい歳なんだから」「早く結婚して孫(曾孫)の顔が見たい」などとせっつくように、ねだるように、その手の話をしてくる。

 気持ちも分からないでもないが、こればかりは一人でどうにかなるものではなく、これはいつものことながら聞き流すことにする。

 まだ彼女ではないが、今の相手がキリスト教徒だと言ったらどんな顔をするだろう。

 祖母は一応仏教で、いつだったかある親族の葬式に参列した際、キリスト教式だったことから帰ってきた時には「あんなよそさんの宗教はよく分からん」と納得のいかない表情を作っていた。

 母は神様はどれも一緒と、神棚に仏像も置いて拝む神仏習合であるが、さすがに十字架は見たことが無いのでキリスト教にまで寛容かは定かではない。

 こうみると、もし結婚したら祖母との同居は厳しそうだ。

 

 取り留めのない話題が続き、気の抜けた相槌を打ち続ける。

 軽いストレスを感じながら、かなり膨らんだ胃の腑に酒を流し込んだ。


四 2005年1月

 休み明けというのは大概混み合うもので、正月の不摂生に慣れた身体には些か応えた。

 施術の間も胃の辺りはムカつき、二日酔いの頭は動作のたびにふらついていたが、休み明けから三日目ともなればようやく身体も慣れ始めてきたところだった。

 

「正月の片付けでね、腰をやっちゃったのよ」

 五十代、少し賑やかな女性。

 押入れの中の物を出し入れしていた最中に傷めたらしい。

 体を前に倒すと腰に痛みが走ると言うが、まだ動けない程ではない。

「立ったり座ったりする時にちょっと痛むのよ。歩いてる時はそんなでもないんだけどね」

 ベッドに腰をかけた姿勢で陽気に喋る。

 懇切丁寧に自分の状態状況を説明しながら、興が乗ってきたのか正月に何をしていた何を食べたなど話は拡がり脱線していく。

 放っておけばいつまでも続きそうだ。

「じゃあちょっと腰のほう診させて貰いますね」

 適当なところで切り上げ後ろに回る。

 服をめくりズボンをずらして腰を出し、前に倒すと痛みの出る部位の周辺を指で押す。

「少し筋肉が張ってますね。これから痛みがきつくなるかもしれませんよ」

 思ったよりも腰部の筋肉の緊張がきつい。

 急性の腰部捻挫・挫傷で痛みの出方から分類すれば、痛みの強弱はさておき、何かをしたその時に痛みが出る場合と、その時はそれほどではなくても時間の経過とともに悪化する場合とがある。

 この場合、筋の緊張具合から後者の可能性が高い。

「そんなに痛いと思わないんだけどね」

 そういいながら腰を前に倒したり反ったりする。

 それを制して説明を続ける。

「どちらにせよ今日一日はおとなしくしておいてください。マッサージとか家ではしてはいけませんよ。炎症が酷くなりますからね」

 手首の捻挫などでも腫れている所を揉んだら余計に腫れる。

 腰が今その状態だということを理解して貰わなければならない。

「お風呂はシャワーくらいで、湯船に浸かって温まったりしないでください。あと寝る時はなるべく横向きで寝るようにしてください。」

「私、上向きじゃないと寝れないんだけど」

 人間、痛みの軽い時はなかなか素直に聞かない。

「その場合は枕か、タオルケットでも丸めて膝の下にかませてください。軽く膝を曲げた姿勢にしておくと腰への負担が軽くなりますから」

 上向きやうつ伏せなど、股関節と膝関節を真っ直ぐにした状態は意外と腰に負担をかけるので、朝起きた時に痛くて起き上がれないということになりかねない。

「先に電気あてて、あとで腰の歪みだけとっときますので、とりあえず横向きで寝て貰えますか」

 

 午後七時半、外は暗く、おまけに冷え込むともなれば今日の患者もこれで終わりだろうと、電気をあてている間はすることもなく受付の椅子に腰をかけていた。

 あれから十日以上経ってもユキコは現れなかった。

 施術中、玄関の扉が開くたびに彼女ではないかと期待に胸躍らしていた。

 その度に軽い失望を味わうことを繰り返している。

 今日も同じ、そう思っていた。

「こんばんは」

 不意に扉が開いた。

 考えごとの最中でまったく意識が扉に向いてなかった。

 我に返って人影に眼をやり、一瞬、言葉に詰まって返事をする。

「こんばんは」

 間抜けな表情は仕方ない、思い浮かべていた相手がいきなり現れたらこんな顔だ。

 ユキコが立っていた。

「お願いします」

 表情が硬い。

 少しよそよそしい態度が気になるが、まだ一人他の患者がいるので迂闊なことは話せない。

「用意できましたら、こちらのベッドにお入りください」

 ベッドへ案内する。

「お加減はいかがですか?」

 なんとなく小芝居じみたバカ丁寧な口調で尋ねる。

「あまり良くはないです」

 いろいろ聞きたいことや話したいことがあるが、とりあえず仰向けで寝て貰い電気をあて、もう一人の患者が終わるのを待つことにした。

「何かあればお呼びください」

 そういってカーテンを閉める時まで、視線はそれとなく逸らされていた。

 

「お大事にしてください」

 腰の患者を見送る。

 受付終了まであと十分程あるが「受付終了」の札に差し替える。

「おまたせ」

 カーテンを開けて声をかけるも返事がない。

「久しぶりだけど調子はどう?」

「首と腰、だいぶ痛いです」

 これには答え、起き上がり首の辺りを擦る。

「とりあえず軽くほぐしていこうか」

 言いながら状態を診ようと首に手を触れる。

 一瞬、体が強張るのを指先に感じた。

「・・・大丈夫か?」

 改めて正面から顔を覗き込むが、今度はあからさまに眼を逸らされて軽くショックを受ける。

 互いの気まずさと気恥ずかしさが場に漂った。

 

 彼女が今日までどのような想いで過ごしてきたのか、どのような想いで今日来たのかを理解するのが難しい。

 一般的にこの歳にもなれば今更「キス」に対して格別に神聖視することもないだろうが、クリスチャンある彼女なら別かもしれない。

 「純潔」やら「貞節」など色々ややこしいことも考えるのだろう。

 キスが挨拶の西洋で流行のキリスト教とはいえ、日本で挨拶になりえる道理はない。

 仏教、キリスト教どちらにおいても未婚の異性間の交流に関しては厳しく律することが多く、程度の差こそあれ、そのような環境で育った彼女にとっては交際の宣言すらしていない相手との接吻がどれほどの事態なのか、深刻なことなのかどうかさえ理解の外だった。

 

 どう接すればいいのか分からない。

 それでも今日ここに来たという事実に背中を押され、おどけたように普段の軽口を捻りだした。

「とりあえず治療は真面目にするから触ってもよろしいですか?」

 ユキコは表情を緩ませクスリと笑う。

 つられて頬が緩む。

 ようやく眼が合った。

 雰囲気は変わり、それだけで気まずさは消えたような気がした。

「ごめんな、たぶん色々悩ませたんだろうな」

 それでも最初に出たのは謝罪だった。

「それは・・・でも、嫌じゃなかったから・・・」

 思い出したように、恥じらい頬を赤らめ再び目をそらした姿に胸を撫で下ろす。

「それは良かった」

 そういって背後に回り施術の為に首に手を当てる。

 今度は少なくとも拒否の緊張は見られなかった。

 

 年末年始は何をして過ごしていたのかなどと他愛のない会話に一区切りつくと、ユキコは本題とでもいうように語り始め、その改めた口調に思わず気持ちが身構える。

「自分でも分からないの、どうしたいのか」

 背後にいる為、表情は見えない。

「相手は同じクリスチャンじゃないと駄目なの、そう決めてたから・・・この間みたいなことも駄目・・・だからもう逢っちゃいけないって思ったし来ちゃいけないって思ってた」

 まるで懺悔のような淡々とした告白に、その悩みの元である当人としてはかける言葉を見つけられずに、ただ聞くことしか出来ない。

「だからもう来ないって決めたの。これ以上先生に会わないって・・・決めてたのに・・・私、何してるんだろうね・・・」

 自嘲気味に呟く声に次第に微かな震えが混じり始める。

 その表情は容易に想像出来た。

「でも俺は来てくれて嬉しいよ」

 施術の手を止め、子供をあやすように右手で頭を撫でる。

「思い詰めさせるようなことをして悪かった。でもいい加減な気持ちでしたんじゃない」

「・・・」

 無言で振り向いた眼の端に涙が滲んでいる。

「つきあってくれないか?本当に結婚前提でもいい」

 いつからか彼女に本気になっていた。

「嬉しいけど、やっぱり駄目。私は同じクリスチャンの人としか・・・」

 予想通りの拒絶、それでもその口調には逆の想いが感じられた。

「じゃあ時間をくれないか?」

 可能性に懸けてみる。

「答えは急かさない、治療に来た時は治療に専念して極力おかしな真似はしないようにするから、これからも来てくれないか?」

 プラトニックなつきあいを覚悟しなければならないだろう。

 それでも何より彼女の想いに少しでも希望に沿った形で応えたかった。

 その気持ちが伝わったのか分からない。

 それでも心の靄も幾らか晴れたのか嬉しそうに頷く。

「・・・はい」

 頷き、上目遣いに見上げるその表情に、やはり思わず抱きしめたくなる衝動に駆られた。

 おそらくこれが良くないのだろうと自制はしたものの、代わりに軽口が口をついた。

「もっともキスが「おかしな真似」に入るかどうか」

 にやり、と笑ってみせる。

「もう、それじゃ駄目じゃない」

 少し怒ったような口調も目は笑っていた。

「とりあえず今後は節度をもって口説くように努力するから安心しておいで」

「でも私、やっぱり相手はクリスチャンじゃないと・・・」

「そのへんもお互い話し合って理解しようとしてもいいんじゃないか?どっかに落とし処があるかもしれないし」

 黙りこくって、悩み、少し困った表情をつくる。

 心の葛藤がそのまま顔に表れるのを見るとつくづく素直だと感心さえしてしまう。

 同時に、やはりこれ以上踏み込まないほうが彼女にとっても自分にとってもいいのではないのか、と今更ながらに頭の隅をよぎる。

 それは常に頭から離れることのない理性の囁きだ。

 それでも踏み込むことを選んだ。

 背後から両肩に手をのせ、横顔に想いを伝える。

「好きだよ」

 抱きしめながら言いたい台詞も「節度」を約束したばかりでは仕方がない。

「だからどうするか、もう少し考えてくれないか?」

 完全に納得したわけではないだろう。

 それでも一呼吸おいて彼女は無言で頷く。

 頬を桜色に染めて、微かに笑みを浮かべながら。

 

 なんとなく嬉しい気持ちで、再びユキコの頭を撫でる。

「なんだか子供扱いされてるみたい」

 一寸拗ねたように、上目づかいに見上げられた目がこちらを向く。

「私のほうがお姉さんなのに・・・」

「精神年齢からいえば妥当な扱いではないでしょうか?」

 出来るだけ優しく丁寧に答えてみた。

「もしかしたらキスも初めてだったんじゃないかと心配してたんだ」

 もしそうなら半ば強引だっただけにトラウマになってないかと、姿を見せない間、実はかなり心配していた。

「残念でした、それぐらい経験あります」

 これはこれで複雑な気分になり対応に困ったが、彼女のほうがそれどころではなかった。

 売り言葉に買い言葉、勢いで返した発言に、しまったというように口元を押さえてバツが悪そうにこちらに目を向けた。

「あ、でもそれ以上はしたことないから・・・」

 慌てて補足した言葉の意味を途中で気が付いたのか、今度は顔を真っ赤にしてうつむく。

「もうっ」

 むくれた横顔が可愛い。

 それを見たいが為にからかっていると知ったら怒るだろうか、呆れるだろうか。

 追及する気も失せ、この三十過ぎの乙女の言葉に、改めてプラトニックはやむなしと心の内で嘆息する。

 それでもそう嫌でもなかった。

 二人の関係が少しだけ前進したような雰囲気に流されながら、嫌がる彼女の頭をもう一度撫で、改めて施術に専念し始めた。

 

 帰り際、彼女はそっとメモ用紙の紙片を差し出してきた。

「はい」

 手に取って見ると携帯電話の番号とメールアドレス。

「それじゃあ、おやすみなさい」

 声をかける間もなく彼女は扉の向こうに消えた。



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