目次
もくじ
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原色宇宙人大図鑑
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祝辞
先生からの祝辞イラスト その1
先生からの祝辞イラスト その2
先生からの祝辞イラスト その3
先生からの祝辞イラスト その4
先生からの祝辞イラスト その5
先生からの祝辞イラスト その6
「未来アイテム研究所」大友そーりん
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「未来は既に腐っている」 諸星ゆびわ
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「 宇宙についての6つの物語」 松田リアル
「宇宙についての6つの物語」
1<ふたご座流星群>
2<不穏色の空>
3<夕暮れの流れ星>
4<流線型アリス>
5<夏の椿>
6<宵待月>
「美女」画ギャラリー Mono-Chrome 氷魔
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スタッフ募集
めさき出版スタッフ募集のお知らせ
第四回新脈文芸賞
トビラ
「恋人」夢沢怪奇
「恋人」の選評
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「黒い葬式」の選評
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「魔女の森」の選評
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「知らぬが仏、知ったが仏 」の選評
「猫の檀家さん」小島パブロン
「猫の檀家さん」の選評
「時をかける脱衣」遠藤玄三
「時をかける脱衣」の選評
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「猫の檀家さん」小島パブロン

「猫の檀家さん」小島パブロン

 

 春眠暁を覚えず。

 穏やかな季節は眠りを誘います。

 春の温かい日差しの中で、住職は、今日も縁側でうつらうつらとしていました。

 誰かが来る、なんて心配は、この寺には一切ありませんでした。なぜなら檀家は、もう一人もいなかったからです。

 この寺を訪れるものは、誰もいません。

 前の住職のときには、この寺は大勢の檀家を抱えていました。先代の住職はまめで、冠婚葬祭はもとより、とかく檀家の人に何かちょっとしたことがあっては、すぐに直接出向くような気配りようで、ある檀家が具合が悪いと言っては、精のつくものを届けやり、またある檀家がお金に困ったと言っては、工面して何とかしてやり、そして山向こうの檀家の子で勉強ができない子がいると聞いたら、山を越えて読み書きを毎週教えに行っていました。

 当時のお坊さんは、単にお葬式でお経をあげるだけでなく、村一番の学者であり、医者であり、そしてその村の「世話人」だったのです。

 しかし、この今の住職ときたら、葬式でお経をあげる以外は何もすることなく、昼から酒をあおりうつらうつらとしていましたので、檀家たちは次第に離れ、みな隣村にある寺の檀家となり、やがて誰もいなくなったのでした。

 当然寺は荒れる一方です。境内の石畳の間からはぺんぺん草が生え、掃除をしないので床は埃まみれで歩けば足あとが付くほどです。そして古い畳は湿気を帯びて、やがて腐っていきました。

 しかしそんなこととは関係なく、今日も、のどかな一日がゆっくりと時を刻み、過ぎて行きます。

 そこへ一匹の猫が来ました。のそのそとやってくるとけだるげに縁側によじ上り、住職の横に来ると、これまた住職に合わせてうつらうつらやり始めました。

 住職は気配を感じ、薄目を開けその猫を確認しました。

 その猫は、この寺に住む猫でした。そして言うなればこの寺唯一の「檀家さん」でした。

 いつ頃からか知りません。そう住職がこの寺に来た時分から、この猫はいました。そしていつもこの縁側で寝ていました。灰色のきれいとは言えない毛並みで、ふてぶてしい態度でいつもそこにいました。先代も大事にしていましたが、この住職もこの猫だけはとても大事にしました。

 そして、この住職がする一日の仕事はこのぐらいでした。

 その猫の飯を作ってやって、それを出す。その日課だけは欠かしませんでした。ただしそれは猫にせかされるから、というだけ。

 住職は、面倒くさそうに重い腰を上げると、いつものように土間へ行き朝餉(あさげ)の残りを適当に茶碗へ放り込むと、猫に差し出しました。

「さあ……」

 猫はまたいつものように、その「さあ……」が言い終わらない内に茶碗に顔を突っ込んでいました。そして顔を上げることなく、一気に平らげてしまいました。

 また、住職もその姿を見ることなく寝入っていました。わざわざ見るまでもなく、それはいつものことだったからです。

そして、またいつも穏やかな時間が流れるはずでした。すると。

「ああ~あっ!」

 突然、人のあくびのような声が聞こえてきました。

 住職は驚きました。

 誰もいないのに人の声がしたから当然です。

「坊様、日に日に飯が貧相になっていきますなあ。」

 その言葉の先には、猫の憎らしい顔がありました。

「すまんな。檀家もいない。自分が食べるのもやっとじゃ。」

「そうでしょう。これでは坊主丸儲けならぬ丸つぶれ……。」

 猫の生意気な口に、住職は、たしかに最初は驚いたものの、以降は余り不思議さを感じませんでした。最近はお酒を飲み過ぎているのか、夢の世界なのか、現実の世界なのかがよくわからなくなることが多くなっていたので、きっとここは夢の世界であろうから、猫も人の言葉を話してくるだろうなどと、一人合点していました。

それよりも、猫の減らず口がいら立ちます。

「金もないのに、昼間からお酒とは……いやはや。」

 猫は、にやにやしながら言います。

「猫も世話できずに、仏の世話もできないでしょう。」

 ここで住職は、堪忍袋の緒が切れました。

「おまえは誰に今まで養ってもらったんだ。その恩、忘れたか。」

 住職は、猫を怒鳴り付けました。

 猫は肩をひょいとすくませてばつが悪そうな顔をすると、しっぽを ぱたぱたと左右に振りながら、さらに続けます。

「ご恩は忘れもしませんよお。特に先代の坊様には大変よくしてもらった。私は親を知りません。草むらで目も開かずみゃあみゃあやっているのを先代の坊様は取り上げてくれて、そりゃあ助かりましたよお。」

 猫が、自分のどなり声を意に介さず、余りにゆったりと間の抜けた調子で話すので、住職はすっかり怒る気力もなくなりました。

「しかし、この寺の住職が坊様になってからは、ロクなものをいただけていませんな」

 住職は再び腹が立って、また猫を怒鳴ろうとしました。しかしその言葉をさえぎるかのように、猫はすっくと立ち上がりました。

「いえいえ、お世話はもう十分。お暇(いとま)をさせていただきたいのです。」

「どういうことじゃ。」

 猫は周りをゆったり見まわしながら、こう言いました。

「お世話になったおかげで私も、とてもとても長生きし過ぎて、こう妖(あやかし)となりました。言いましょう、年取った猫は化けると。つまり『化け猫』です。こうなってしまっては、私は人の世界に住むことはできません。このように猫も人の言葉を聞き、そして話してしまう。さらに……。」

 猫は続けました。

「こう妖となりますと不思議な『力』が身についてしまうようです。何と申しますか全身に目がついたように、全てのものが見えるようになったのです。前もそして後ろも……。それだけではありません。明日や明後日や、もっともっと先のことが見えるようになったのです。たとえば……。」

 猫は自分のえさの入った茶碗を、さびしそうに覗き込みました。

「この飯も、もう最後でしょう。」

 図星でした。

 実は一週間前に托鉢(たくはつ)、というかただの物乞いで、近所のお百姓から分けてもらったお米ももうなく、明日食べるものがありません。あるのは酒と少々の大根の葉だけだったのです。

「ですからお暇しようと……。私の食べるもので坊様にご迷惑をお掛けするのはしのびない。もうここへは参りません。」

「……。」

「妖になったら、人間の言う『恩』というものも分かるようになったようです。ただの猫のときには及びもつきませんでしたが、今は、これまでのご恩をいたく感じ入ります、もう私のえさで、迷惑をかけるわけには参りますまい。こう考えまして、私は今日、それを言いに来たのです。私は猫。私は私で、これからはすずめや家守(やもり)でも捕ってやっていきます。」

 住職は、猫が余りに殊勝なことを言う一方、自分が猫のえさも出せぬほどに甲斐性がないため、大変情けない気持ちになり、自然と首がうなだれました。

 猫は、そんな住職の姿を認めて、自分の言いたいことを言い終わるとひょいと縁側から地面に降り立ちました。

「そう、坊様。」

 地面から縁側に座る住職を見上げつつ、またも猫は話しかけてきました。

「最後に、今までのご恩を返しとうございますな。」

「何を猫が……。」

 住職は苦笑いをしました。

「この村の西に庄屋様のお屋敷がある。そこの娘さんが今重い病で臥せっております。」

「なぜそれを知る。」

「ですから見えるのです。さらに……。」

 猫は目の中の瞳を大きく見張って言いました。

「一週間後に、その娘さんはなくなります。」

「それも見えると言うか?」

 住職のことばを無視して、猫は話し続けます。

「その後葬式がございますから、坊様、来てください。そうしたら庄屋の娘の葬式ですから、お布施もたんまり入りましょう。これで明日の飯の心配もなくなります。」

「なんと……」

 住職は軽く一笑しました。

「やはりけだものの浅はかさよ。『力』があっても浅薄なことだなあ。庄屋ほどの金を持っている者が、どうして葬式に、この貧乏寺のこんな粗末な坊主を呼ぶだろう。第一、あれは隣村の大きな寺の檀家じゃ。その娘が死ぬとわかっても、わしはどうしようもできない……。」

「いいえ、ですから私に一計がございます。葬式の日、娘さんをお墓に埋めるために長い列が山に向かいましょう。その時私が陰から、棺おけがお墓に向かうすきを狙って、その棺おけを宙に浮かすのです。何、私は『妖』ですから、そんなこともできるのです。空高くまで宙に浮かせてみましょう。したらきっとみんな慌てるでしょう。大事な仏様がどうなるか、はらはらと心配するでしょう。で、そこへ坊様が来られる。そしてお経を唱えるのです。えいっとか何とか。まあ、法力(ほうりき)を発揮するような真似ごとをしてください。それを聞いたら私は、棺おけを宙からすうっと降ろします。そうしたら庄屋もその周りの者の坊様に感謝するでしょう。そしてこれは徳のある僧よ、ということになり多くの礼金を……」

「そんなわけのわからない話、信じられると思うか……。」

 いぶかしがり、言葉を捨てるように吐く住職を前に、猫は思わず黙りました。

 「……しかし……お前の恩返し、本当だったらありがたい。まあ乗っかって話を聞いてやろうじゃないか。では、わしはどうしたらいい。まさか呼ばれもしない葬式に行くわけにはいかないじゃろう。」

 猫はまた話し始めます。

 「その娘さんの葬列は、この村の西にある川べりの道を通ります。ですから午(うま)のときぐらいにその道の辺りを歩いていてください。葬列にたまたま出会ったという塩梅で……。」

 猫は言い終わると、住職に背を向けて歩き始めました。

「そうそう。坊様は葬式くらいしか面倒くさがってやらない、そんな坊様へ、私が考えたのがこの『恩返し』なんですよ。では一週間後。待っております。絶対うまくいきますよ。では……。」

 猫はそう言い残すと、草の茂みの中へと立ち去っていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 猫が立ち去ってしばらくすると、住職は静かに、まず自分が酒を飲み過ぎたことを反省し始めました。

 猫が話した内容もそうですが、そもそも、よくよく考えてみれば、猫が話していること自体が全くありえないことです。こんなおかしな出来事は、きっと酒を飲み過ぎて、酔って夢を見ていたとしか思えません。そして住職はそう思い込むことで、自分を納得させました。

 これは夢なんだ、これは夢なんだと。

 そう自分の中で繰り返すことで、話が一件落着すると、住職はその「夢」を消し去るつもりで立ち上がりました。しかしそれに反して、住職の体は大きくよろめいてしまいました。

 ほらやっぱり飲み過ぎだ。こりゃ、いかんいかん。

 酒を飲み過ぎて夢かうつつかわからなくなるのは、いつものことです。

 住職は体勢を立て直しつつも、酒に飲まれた自分の情けない姿に、ひとり苦笑いをしました。ちょうどそのときでした。

 かつ。

 住職の、右足のつま先に、固い何かが当たりました。

 見ると、それはあの茶碗でした。

 そう、たしかに猫は、この茶碗でえさを食べ、そしてその後猫は、住職に話しかけてきたのです。

 そう思い直すと、今度はさっきまでのことが、住職の中に急にはっきりとよみがえるではないですか。合わせて、住職の頭の中に、あのときの猫のことばが思い出され、繰り返されました。

 先ほどのあれは、実際のことだったのだろうか。

 あの化け猫は、ここで「奇妙な恩返し」を本当に約束したのだろうか。

 住職は、今度は、さっきのことが本当に起こったことのように思えてきて、次第に妙な体のこわばりを感じました。

 「一週間後、村の西の庄屋の娘が亡くなる……」

 住職の頭に猫のあのときの言葉がまた繰り返されます。

 こうなると、猫はたしかに恩返しを約束してくれたのだと、住職は思わざるをえない気持ちになりました。

 そしてそのとき、猫は、たしか最後に、こうも言いました。

 「坊様は葬儀しか面倒くさがってやらない。」そんな坊様だからこうした「恩返し」を考えたのだと。

 住職は、頭の中で繰り返されるその猫の言葉に、「いや……」と否定をすると、やがて、さみしく笑いながら、杯に酒を注ぎ始めました。

 

 

 

 人は、死んだらおしまい……。

 こんな悲しい気持ちにとらわれるようになったのはいつからだったのでしょうか。しかし、いつしかその気持ちが住職の胸にいっぱい満たされ、そのときはもう気付いたら、毎日酒を飲み、満足に住職としての仕事をしなくなっていました。

 あの猫は知らないでしょうが、この寺に来る前、住職だって実は、若い修行僧の頃は多くの檀家さんにやさしく接する僧でした。あの頃は仏の道をただひたすら極め、多くの苦しんでいる人や悩んでいる人を仏の力で救いたいという気持ちを、強く熱く持っていました。

 修行先のお寺では、お経の研究はもとより、病気を治すおまじないや雨を降らす方法など、いろいろなことを貪欲に学びとりました。

 仏の教えには、死んだ人を弔う他、病気を治したり、人を災難から遠ざけたりする。そういう術(すべ)がたくさんあったのです。

 そのときの、若い住職には、多くの人のいろいろな苦しみを救うために、そうした仏教の全てを学びとろうという情熱がありました。ですから、当時その寺では、一番熱心に勉強する者として、その寺で一番偉い僧正にほめられたこともありました。

そんなある日、ついに、その修業の成果が試される日がやってきました。

 その寺の檀家のお母さんが急に熱にうなされて、床に臥せってしまったのです。

 その寺の僧正は、当時一番修業を積んでいる、若い住職を連れて、その檀家のところに行きました。

 急いでその家に向かうと、玄関先で待ちわびていたであろうその檀家の男が、取り乱しながらも、うやうやしくその僧正と住職を出迎え、お母さんが寝込んでいる部屋へそそくさと案内しました。

 見れば、熱があるのか真っ赤な顔をし、玉のような汗をとめどなく流し、苦しそうな顔をしています。そして余りの苦しさの余り、食事はおろか話すこともできない有様です。

 そのとき若い住職は、何とかこの人を救ってあげたいと思いました。

 また仏は、この家はとても信心の深い檀家さんであったので、必ずご慈悲をお与えになるに違いないとも思っていました。

 早速、僧正と若い住職は護摩を焚くと、仏の力によって、そのお母さんの中にいる病を祓い(はらい)きろうとしました。目の前で立ち上がる火の前で、若い住職は僧正の横で、必死の思いでお経を唱え続けます。

 早く良くなってほしい……。

 そんな気持ちだけが若い住職を突き動かしていて、もうそれ以外のことは考えられません。また、必ずやこの本願は叶えられるという確信に近い気持ちが、若い住職のお経を上げる声をますます強くしました。それは、仏を信じる力の強さでもありました。

 時間の経つのも忘れて、僧正と共に病を体から消し去るための経を、読み続けました。

 そうしていると、いつしか朝になっていました。外は白々としてきて、やがて遠くから鳥の鳴く声が聞こえてきて、また夏だったので、それを追うかのごとく蝉の声が降り注いできました。

 そのとき二人はまだお経を読んでいました。

 額から、汗が滴り落ちます。

 しかしそのお母さんはよくなるどころか夜よりもっと悪くなっているようです。

 熱で赤くほてっていた顔はいつしか青ざめ血の気が引き、荒々しく吐かれていた息もやがてとぎれとぎれとなり、息を吸っているのか吐いているのかもわからなくなっていきました。滝のように流れていた汗もいつしか引き、お母さんは、夏にも関わらず、やがて細かく震えだしました。

 そしてしばらくそうあって、突然急に小さくうめくと、お母さんは、やがて動かなくなりました。

 その瞬間、ぴたりと僧正も読経を止めました。驚いて、若い住職は僧正の方を見ました。

 「もうしまいだ……」

 僧正は若い住職にこう小さくつぶやくと、檀家の家族を呼び、そのお母さんが亡くなったことを淡々と告げ、すぐ葬式を挙げる準備をするように言いました。それは、横でうろたえているばかりの若い住職の一方で、とても手際よく行われました。

 その檀家の家族は、僧正と住職に泣きながらお礼を言うとお金を包んで渡し、葬式と、亡くなったことを村々に告げる準備をするためにか、蜘蛛の子を散らすようにいなくなりました。

 その中で、お母さんを救うことができなかったことに対して、若い住職は肩を落としました。そしてその命を救えなかった気持ちを、何とも整理できずにいました。一方そのかたわらで、もらった礼金をしまいこみ、とっとと帰り支度を済ませた僧正が住職を促すと、住職は放心して抜け殻のようになりつつも、やっとの思いで帰り道を辿りました。

 さて以後は、「これの繰り返し」でした。

 この後も多くの檀家さんを救おうとしましたが、結局どんなに一生懸命にお経をあげても、助かる人はおらず、甲斐なくみんな死んでいきました。それに悲しむばかりの若い住職に、そんなとき、僧正はこれを「寿命だから仕方がない」と言いました。けれども、若い住職はちっとも納得がいかず、ただ悲しみが深くなるばかりです。

 以降、日増しにむなしさが強くなりました。

 そして何と、ついには「仏は救ってくれないのだ」と、住職は悟るようにさえなってしまいました。

 死ぬものは死ぬし、どんなにお経を唱えても、何をやっても、それを仏は助けてくれないのですから。

 果てには、どんなに頑張っても、仏は苦しんでいる人を救ってくれない、仏を信じない、という境地に、住職は、なんと至ってしまったのです。

 しかし、もちろんこんなことは、周りの僧には言えません。仏に仕える身である自分が、こんなことを言ったら大変なことになります。ですからこれは決して誰にも言いませんでした。

 しかし、絶対言いませんでした……けれども、それは思わず住職の態度に顕れてきていました。

 このときには、自然と修行も手を抜くようになり、儀式として決まりきったことを、ただ形だけやりさえすればいいと考えるようになっていました。しまいにはお経も、どうせ素人が聞いても何を言っているのかわからないのだからと、適当に唱えるようになりました。

 何だか、今まで頑張っていた自分が馬鹿らしく嫌になってきていたのです。

 中でも、若い住職が自分自身一番嫌だったのは、僧である自分が仏を信じなくなっていたことです。そう思うと、自分が何のためにここにいて、またこんな大変な修行をしているのか意味がわからなくなり、悲しくなりました。

 ちょうどそのときでしょうか。若い住職は隠れて、仏の教えで固く禁じられている酒を飲むようになっていたのです。

お酒を飲むと嫌なことがすぐ忘れられるし、深刻な悩みが渦巻いていてもお酒はそれをかき消してくれます。そして少し楽しい気持ちにさせてくれたので、住職に嫌なことを考えさせないようにしてくれました。

 自分が毎日やっていることの無意味さに加え、それを誰にも言えなかったことが、若い住職にとって大きな苦しみとなっていました。そしてその苦しみを消し去るために、酒を飲んでいたのです。

 お坊さんは、酒や「生臭もの」をとることを修行上固く禁じられています。

 当然、こんな生活が修行僧として許されるはずがありません。

 そしてやがて、誰かの告げ口によって、とうとうこれが僧正にばれてしまいました。

 よく修行をした優秀な僧は、僧正から、大きな立派なお寺の住職に推薦されるのが普通ですが、僧正は若い住職に、そうした大きなお寺でなく、人里離れた小さな山寺に行くように言い渡しました。それがこのお寺だったのでした。

 ここへ来てからの住職は、専ら「葬式のお経あげ」だけを、やるようになりました。

 厄除けや病除けの護摩焚きなんて、頼まれてもまっぴらごめんです。どうせやっても効かないのですから、むなしくなるだけです。どんなに頑張ってお経をあげても、病気の人が全く良くならず死んでいくなんて……。もう一切、住職は悲しい思いになるのは嫌だと思っていました。

 しかし、その点葬式は、「安心」です。

 死んでしまった人は、「もうそれ以上死なない」からです。その人が死ぬ際(きわ)が、その周りにいる人たちの悲しみの最高潮であるとしたら、死んでしまった者はもうこれからはそれ以上死なないのですから、この先、その人の周りの人に「新しい悲しみ」がさらに付け加わることは、ありえません。またその人がこれ以上悪いことになることもありません。

 「死んだらおしまい」なのですから。

 その点で、住職にとって「安心」だったのです。

 住職が「葬式のお経あげ」しか仕事としてやらないのは、こういう理由からだったのでした。

「やはり、けだものの浅知恵じゃ……。」

 そう言うと住職は軽く目を閉じ、その杯の酒を、またぐいっと口に放り込みました。

 

 

「おお、こりゃ、どうしたことじゃ。」

「うわー、やめてくれ。」

 庄屋の娘さんの葬列は、たちまち大騒ぎになりました。

 なぜなら、葬儀を終え墓まで行く途中で、その亡くなった娘さんが入っている棺おけが、何の力も借りず、すうっと天に昇っていき、やがて手の全く届かない、空高いところに上ると、そこでピタリと止まってしまったからです。

 庄屋の娘さんの葬儀に参加していた人たちは、わーわーと、上へ下への大騒ぎです。何せ前代未聞のことですし、なぜそうなったのか、みな理由がわからず、そして解決策もわからず、ただ騒ぐばかりでした。

 特に庄屋は、自分の娘のことですから、心配で心配でなりません。このままずっと娘のお棺が空中にあったら、墓に入れてあげることもできず弔うことができません。娘は往生することができないでしょう。そう考えると、庄屋は何としても、あの娘の棺おけを、空中から下へ降ろしたかったのです。

「だ、だれか、娘を降ろしてくれ。だれか……。」

 しかし、そうは言っても、誰の手も届かない頭上高くですから、誰もどうすることもできず、結局庄屋含めて全ての人が右往左往するばかりです。

 さて、どうしてこんなことになったのでしょうか。

 たしかにその娘の葬列は、厳かに、庄屋の家からお墓へ向かう途中でした。

 しかし、その葬列の前に、いきなり猫が飛び出してきたのです。

 そしてその猫が棺おけをぐっとにらみつけるや、それはなぜか宙へ浮かび上がっていったのでした。

「きっとあの化け猫の仕業じゃな…。」

 葬列の先にいた、この葬儀をしきるお坊さんは、冷静にこの状況を見ていて、看破したごとく、こうつぶやきました。

 一方猫は先ほどからずっと、葬列を道の中央で通せんぼして、宙に浮く娘の棺おけをじっとにらんでいます。

「何でもいいから。お、お坊さん、どうにかしてくれ、娘を降ろしてくれ。」

 庄屋はすっかり取り乱して、このお坊さんに泣きつきました。

「……。」

 しかし、泣きつかれたそのお坊さんも、化け猫の力で棺おけが宙に浮くなんて、今まで聞いたことも見たこともありません。

 状況を見ていて、この化け猫が原因、というところまでは薄々わかりましたが、宙に浮いた棺おけを一体どのように降ろしたらいいのか、全くわかりません。そして、そんな棺おけを降ろす呪文や、化け猫を退治するお経なんて、いまだかつて聞いたことがありません。

 このあでやかな法衣を着るお坊さんは、隣村の大きくて立派な寺の住職で、とても高い位を持つ僧でしたが、さすがにこの「難問」にはどうすることもできず、困ってしまいました。

 とそのとき、その葬列の後ろの、遠くの方から、あの住職がやってきました。

 あの猫に言われた通りに、住職はやってきたのです。

 そして庄屋の娘の葬列にいた一人が、その住職の姿を認めて、声を掛けました。

「ああ、そこに歩くお坊さんよ、困ったことになっちまって……助けちゃくれないですかい。」

住職は答えました。

「……どうしました……。」

「旦那の娘さんが入った棺おけが空に浮いてしまって降りてこないんで……、どうしようもねえ。どうにかならないかい……。」

 「どうしました」と聞きながらも住職には、そこで何が起こっているか、もちろん分かっていました。というよりもむしろ、その出来事に出会うために、住職は、猫に言われたように、この川べりの道を、半信半疑ながら歩いていたのです。

 しかし、いざ目の前で棺おけが見事に宙高く止まっているのを見ると、驚きました。

「ほお……たしかに、見事に空に浮いていますな……」

「なに、のんきなことを言ってやがる……しかし、そんなみすぼらしいなりで、大丈夫かねえ……」

 葬列にいた別の一人が言いました。たしかに住職は、この葬儀を仕切っているお坊さんのあでやかで立派な法衣姿と違い、擦り切れた袈裟をまとっているだけでしたから、貧相な身なりには違いありません。これには住職は、返す言葉がありませんでした。

 しかしそのとき。

「うん、うん、うん……」

 葬列の前方にいた、その立派なお坊さんが、あまりに庄屋にうながされて覚悟を決めたのか、なにやらお経を唱え始めました。

「この方は、徳の高い坊様じゃ。何とかしてくれる…。」

 庄屋を始め、葬列にいた全ての人々は、固唾を飲んで宙に浮かぶ棺おけを見守りました。

 しばらく、そのお坊さんはお経を唱えていました。

 今は真夏の暑い盛りです。

 大きな蓮の花の刺繍の入った法衣は幾重にもなっていますから、このお坊さんの額からは汗がとめどなくふき、目にも落ちていきます。しかし力強くお経を唱えていました。

 でも、棺おけは、その間ぴくりとも動きません。何の音沙汰もありません。

 お坊さんは焦りの表情となり、葬列にいた人々は失望の表情となってきました。

「なんとも……、ならんな……。」

「びくともせん……。」

「お経に効き目がないんじゃ……。」

 やがて、人々は口ぐちに勝手を言い出すと、それを聞いたのかそのお坊さんも、お経を止め、「申し訳ないが……、わしには、どうすることもできん……」と言うと、諦めてしまいしょんぼりしてしまいました。

 この立派なお坊さんのお経をもってしても、棺おけを空中から降ろすことはできませんでした。

「なあ……、こちらの坊様に頼んでみちゃあどうだい……。」

 葬列から声が上がりました。

「おおっ、そこの方。な、なんでもいいから、早く娘を降ろしてくれ……たのむ。これじゃ、娘がお天道さんの下で腐っちまうよ……」

 庄屋もようやくこのみすぼらしい住職の姿を認めて、泣き顔で駆け寄ってきました。また周りの人も、住職だけが頼りといった様子で、住職を見ていました。

「あ……、うん。承った……」

 住職は必要以上に神妙な面持ちをすると、猫にちらっと目配せをしました。そのとき、猫もうなづいたように見えました。

「あ、あ、えへん……。おい、猫。頼むぞ……なむさんまいだ~」

 住職は大声でお経をあげ始めると、庄屋や葬儀をしきるお坊さんを始め、葬列に参加した全ての人が不安げな面持ちで、中に浮かぶ棺おけを見つめました。「猫と住職のお芝居」であるということを知らずに。

 やがて……。

「お、おい今お棺が下がったんじゃねえか。」

「ああ、何か動いたぞ。」

「おおっ。下がった下がった。」

 棺おけは、たしかにゆっくりと、地面に向かって降りはじめました。

「……よかった。……よかった。」

 庄屋さんは、周りの人と抱き合って大喜び。やがて、歓声の中、棺おけは、無事に降りてきました。

「よかった……よかった……。坊様よありがとう。ありがとう。一時はどうなるかと……、安心したよ…・・・」

 庄屋は安堵の表情で、住職の手をとると、何度も何度もお礼の言葉を述べました。

 しかし、住職は別の意味で安心しました。全て猫との打ち合わせ通りにうまくいき、庄屋たちを見事にだませたのですから。

「坊様は身なりはこのようだが、きっと徳の高いお坊様なのでしょう……。お葬式が無事終わりましたら、気持ちだけですが坊様に礼金をお渡ししたい。」

「いやいや、礼には及ばない……。わが身は仏に仕える者ゆえ……。」

 かたちだけの断り文句を言いながら、住職は内心ではしめしめと思っていました。これも猫との話の通りです。思わずにやけてしまいそうになりましたが、そこは我慢我慢。ばれてはいけませんので、ぐっとこらえました。

「いえいえ、ここで功徳(くどく)を積まねば、娘も極楽往生に行けないというもんだ。是非お礼をさせてください。きっと坊様は、子どもを守る地蔵菩薩の化身なんじゃろう。だから娘を助けてくれたんじゃ。ああ、ありがたい、ありがたい。」

 庄屋は手を合わせ、そして周りの人たちも住職に手を合わせました。そして口ぐちに感謝と礼賛の言葉を述べるではありませんか。

 住職は、こそばゆい気持ちとだまして申し訳ない気持ちとが入り混じり、何とも言えない表情になってしまいました。

 ちょうどそのとき、向こうから若い男の怒号が聞こえました。

「このっ、いたずら猫めっ! 仏にいたずらするたあとんでもない猫だなっ!」

 見ると、がたいのいい男の大きな右手には、あの猫が、首をしっかとつかまれているではありませんか。あまりに力強く握られているせいなのか、ばつが悪いのか、しょぼんと情けない表情で、あわれ囚われの身になっていました。おそらく逃げ損ねて、捕まってしまったのに違いありません。

「旦那あ、この猫でさあ、悪さしたのは…」

 猫を見ると、庄屋は眉根を寄せ、とても不機嫌な顔になりました。そして……。

「うちの娘によくもこんなことをしてくれたなっ! 死人にいたずらするとはほんとひどい畜生だ! きっと前世は悪人だったに違いない。それで畜生道へ落ちたものだろう。ロクなもんじゃない。ねえ坊様…。」

「……う、うむ……」

 とっさに話しを振られた住職は、答えに窮しました。実はこの猫と話を合わせて一芝居打ち、いい思いをしようとしてたなんて、知られるわけにはいきません。でもふと、猫の悲しげな目と合ってしまい、助けられない自分に少し後ろめたさを感じました。

「その猫も……悪気があったのではないだろう……悉く生けるものを照らすのが仏……。離しておやりな……」

 住職の何とも歯切れの悪い、猫への弁護の言葉もむなしく、辺りには怒号が鳴り響きました。

「おう、この猫はお痛が過ぎたな。おいみんな、痛い目に合わせてやれっ。」

 猫をつかまえていた若い男は、若くて血の気があるのか、言うが早く、持っている猫を、何度も地面に、びたんびたーんと音が鳴るほど、たたきつけました。一方猫は逃げられず、なすがまま、ぶんぶんと振り回され、そして固い地面に、何かのもののごとく、たたきつけられ、どうすることもできません。

 そして、やがて放り出されると、その猫に、今度は多くの人が群がり殴ったり蹴ったりの大騒ぎです。猫はなす術もなく、踏みつけられたり押しつけられたりと、されるがままです。

 住職は、全くの計算外の展開にただうろたえてばかりで。助けることができません。いえ、助けたくてもできないのです。なぜなら、助けたら、猫との芝居がばれてしまうからです。

 ですから住職はなにもできず、ただただいたぶられている猫を黙って見ているだけでした。

 

 

 

 

 多くの人が猫をいたぶり始めると、住職の方から猫の姿が一切見えなくなりました。そして住職の前には、ただただ、多くの人たちの猫を痛めつける背中と、また猫をたたいたり蹴ったりしている際に出る湿った音がありました。

 もちろん住職は、猫を早く助けたいと思っていました。

 しかし、それをしてしまったら、猫の恩返しを無駄にしてしまうこととなり、またそれは猫も望んでいないはずです。ですからやはり、多くの人の輪の中に入り、猫を救い上げることができません。

 ただ住職も人間です。この「猫との計画」を決して周りに悟られぬよう、平静を装いながらも、しかし、完全に装うことができず、意とせず両こぶしをぎゅっと固く結んでしまいました。一方、その横では庄屋が、満足げに、うなずきながら見ています。

「おーい! この猫はくたばっちまったようだ!」

 やがて、その中の一人が大声を上げました。みんなの猫をいたぶる手が止まります。

「こりゃあ、ぼろ雑巾みてえだ!」

「こてんぱんにやった方がいい! ……中途半端にやると、化け猫だ。呪ってくるぞ!」

「おい、死んだのか? 本当に死んだのか、皮はいで見てやろう!」

 しかし多くの人の興奮と怒りは収まることがありません。そしてその火に、庄屋が油を注ぎます。

「こいつあ、娘の亡骸(なきがら)をもてあそんだ、ひでえ畜生だよ! 娘との別れのときを、こいつはめちゃめちゃにしてくれたんだ! 情けかける必要などありゃしない!」

 それに呼応して、また再び、多くの人が猫をいたぶろうとする、そんなときでした。

 庄屋の横から住職が脱兎のごとく走ると、その猫をいためつけている人の輪の中に入っていき、その猫をだき抱え大声で叫びました。

「……めろ! やめろ! ……やめてくれ!」 

 庄屋も多くの人たちも、一瞬何事が起きたのかと、呆気にとられました。何せ、住職が猫を助けると、だれも思ってもいないのですから。

「もう……もういいじゃろう……もう。お前さんたちは何が望みか…。このいたずら猫への罰か。それならこいつは、もう、十分過ぎるくらいに……、受けておるわ!」

 猫の目は薄く閉じていましたが、その奥にある瞳はかすかに宙を映すばかり。おそらく住職に抱えられていることもわからないでしょう。やがて、猫の口からだらしなく舌がのぞきました。

「見よ! ……この猫を! もうこやつに命はないのじゃ……。この世にこやつはいないのじゃ! ……これで満足か! お前さんたちは、……これで満足か!」

 住職のあまりの剣幕と勢いに、庄屋も多くの人も水を打ったように静かになって、押し黙りました。

「……よいか、こいつをこうしてなぶり殺して……、娘さんが生き返るならまだわかる……。しかし! この猫が一匹死んだところで、娘さんは生きかえりゃあせん! ……それとも何か。娘さんの大事な葬式を邪魔されて怒っている? 仏を弔わないとんでもないけだものに天誅か? そんなのは……娘さんの勝手じゃなくて、お前さん方の勝手だろう! いい葬式やって満足するのは娘さんじゃない! お前さん方だろうが! ……いいか『死んだらおしまい』、『死んだらおしまい』なんじゃ……。だから、猫に葬式邪魔されて亡骸を宙に上げられた娘さんだって、このことは知りゃあしないんだ……。死んだら、丁重に墓に入れられようが、糞と共に肥だめに入れられようが、本人にはわからぬことだ! 死んだらおしまい! おしまいなんじゃ……。」

「……あんた、それでも坊主かね……」

 庄屋は、住職を険しい目でにらみつけました。

 住職は、それを無視して話し続けます。

「死んだ人間が生き返ったことなんて、私は一度も見たことない……。ないんじゃ。死んだらおしまいじゃ。なーんもかーんも残りゃせんよ。この猫だって……、お前さんたちは罰を与えるためにやったんじゃろうが……、ほれ、見てみい……。この猫は、罪の意識を持つ前に、こときれたんだろうよ……。死んだもんに罰を与えて何になろ? ……極悪人の亡骸でも、お前さん方は、牢屋に閉じ込めて反省を促すというのか? いいか『死んだらおしまい』なんじゃ……。この猫ももう『おしまい』じゃ……、もう戻りゃせんのだ……。全部おしまいじゃ……。」

 住職が話す中、自然と目からは、ぽろりぽろりと涙が流れ出していました。

「なるほど……、合点がいったわ……。仏を愚弄する、このインチキ坊主めが!」

 先ほどの、住職に面子を潰された、きれいな法衣のお坊さんが、住職に言いました。

 庄屋が聞きます。

「どういうことですか。お坊様。」

「この化け猫とグルになって一芝居打って、礼金でもいただこうってわけだな。仏に仕える身でありながら、なんてことを……。」

「この乞食坊主が。とんでもんねえ! 人をバカにしやがって!」

 これを聞いて、多くの人もようやくことの真相を知って、怒り心頭です。

「この坊主はたぶらかしだ! 叩き出しちまえ!」

「猫と同じ目に遭わせてやる! 猫と同じ目に……」

 多くの人の罵声の中で、住職は猫をぎゅっと抱きしめると、鼻をすすり、おもむろにひょろひょろと立ち上がりました。

「で……今度はお前さん方は、わしを嬲り殺そうと言うか……。え……。わしが死んだら、気分はすっとするのかね……。それで、その後どうなるんかね……。いいか、『死んだら全ておしまい』だ。わしが死んだら、お前さん方の怒りは今度はどこに向かうのか……。わしが死んだところで、娘さんも猫も生き返らん……。むろん、わしも。死んだらおしまいじゃ……。そいつがどんなにいい人だろうが悪い人だろうが、何もないものは何もないんじゃよ。お前さん方もやがて死ぬ。……その後、こんな猫が棺おけを宙に浮かしたなんざ誰も信じないし、誰も何とも思わん。何もなかったのと同じことじゃよ……。『死んだらおしまい』『死んだらおしまい』おしまいじゃ……」

 住職は「死んだらおしまい」をつぶやきながら、正面をうつろな目で見やり、猫の亡骸をだき抱え直すと、静かに元来た方向へゆっくり歩き始めました。

 庄屋を始め、多くの人たちの輪は、住職が余りにも悠然と立ち去るので、ゆるゆるとそれはほどけ、やがて自然と住職を送り出す花道のようになりました。

 

 さてその後、住職は自分の寺に帰ると小さな猫塚を作り、その後の余生はその猫を弔うことだけに費やしたとのことですが、その寺がその後どうなったのか、またそもそもその寺がどこにあったのかは、今となっては誰も伝え聞いていません。

 


「猫の檀家さん」の選評

大友宗麟 

 和やかな昔語り……なんて、優しい文字運びに騙されてはいけない。
 のんびりとした山村に、見たもの、感じたもが価値観の全てを物語る、閉ざされたムラ社会の闇を見ることになる。
 物語は救い処のない、蓋の開け放れた井の中のような暗い独居感がするが、バランスに優れた軽妙な文章のおかげで滅入ることなく読むことができた。
 「死んだらおしまい」とは、人間の形成具合により受け取られ方が異なるだろう。「死んだらおしまい」だから生きていても仕方ないのだ。「死んだらおしまい」なればこそ今を懸命に生きねばならないのだ。
 それを図る尺度の一つに、猫の存在がある。猫が自分を支える導くもの、客体としてあるのか、果たして自身そのもの、主体であるのか。時を経て、立ち位置は変わるだろう。自らの生きる灯台と、物語は道を照らしているのだ。

モチヲ

「『童話からの逸脱』を評価」

 彼も北橋氏同様、前回の本賞受賞者であり、二回目の受賞である。
 前回の選評にも書いたが、彼とは旧知の仲であり、彼の素晴らしい部分もダメな部分もよく知っていると自負しているのだが、これを読んだとき、「何とまあ彼らしい」と思った。
 私が彼から直接聞くところによると、彼がこれを書いたきっかけは、「知り合いの国語嫌いの小学生に、国語の面白さを伝えるために書いた」とのことで、前回受賞作に先駆けて書いたものであると言える。そして、子どもに読ませるために昔話や童話の体をとった作品を書いたのであろう。
 つまり彼にとって、童話的な作品はこれが最初であるわけで、私はこれを聞いたとき「彼に子どもに読ませる童話など書けるのか」と不安に思ったが、その嫌な予感は的中で、読んでみるとやはり書けていないようである。これは童話の体をとっているが、童話の概念や規則から逸脱しているのである。……これが彼らしいところだと私は思うのである。
 彼は以前から「(小説は)ダメ人間について書きたい」と言っていた。彼は町田康とか好きなのだが、「(町田氏の作品のように)ダメ人間が生きていって、とどのつまりどうなるのかを書きたい」と言っていた。それは「自分がダメ人間である」というコンプレックスに端を発しているようだが、その辺の事情は措いておいて、この作品を見ると、主人公の住職に、彼のダメ人間観が反映されていると言えなくもない(それが意図するものか、偶然かはわからないが)。だから、彼らしい作品になったのだろう。
 結論から言うと、この物語は、ただ住職が、自分の中にあるニヒリスティックで後ろ向きな人生観を、どんな出来事に応じても変えることなく、愚直に守り切った。ただそれだけの話である。ドラマティックに何か進んでいるように見えて、住職自身は何も変わることなく、やっぱりダメな破戒僧として一生を終えたのである。
 猫との出会いは、本当は住職の人生においては勿怪の幸いだったのである。しかし、その経験とチャンスを活かしきることなく、またそれに影響されて人生観を変えるでもなく、「ダメなもんはダメ」「死んだらおしまい」と頑なに言い続け、一生を終えたのである。愚直、不器用と言えば言葉はいいが、酒に身をやつす破戒僧なわけだから、結局は、堕落というのが正しい。住職は、その堕落から這い上がることができなかったのだ。
 彼は受賞以前に、この作品を自分のホームページ上でアップしているのだが、その際読者から「この住職はこの猫から何を得たのか」という感想の弁をもらっている。彼に代わって私がこれに回答するなら、この住職は、この猫どころか、全ての人生経験から何も得なかったし、ただ若き日の挫折を慢性病のようにこじらせてそのまま終わった、つまらない男だ、だから何も得ていない、ということになるだろう。
 これを、人間の業(カルマ)などともっともらしい理屈をつけて評論することもできるが、彼が、想定内か想定外かは知らないが、この作品で自分の考えるふさわしいダメ人間を表現してしまったことこそがここでは注目すべき点なのである。
 よくまあ、こんな「不健康な内容」の話を子どもに読ませようとしたものである。童話とは、良くも悪くも、ある種の教条や教説を持つ。しかし、その肝心の童話のアイデンティティーに欠けている。こんな話では、読んだ子どもは何も学ぶことはないし、こんな住職のような人間を学ばれても困るというものだ。
 何かぼろくそ言ってしまったが、これは、彼と私の知らざる仲の成せることとして、お許しいただきたいが、最後にもう少し皮肉を加えるとすれば、こんな童話まがいのものを「童話です」と言い切る(彼のホームページ上などで言っている)彼の図太さだけは評価したいものである。こんな童話から逸脱した童話は、彼の描写する「ダメ人間」に比肩する「ポンコツ童話」であると言わざるを得ない。これもまた小川未明などと同様の「童話」であると彼は嘯くのだろうか。


佐藤家清

 まず文章がうまい。基礎がしっかりしていて話運びもうまいので、落語や、子ども向けの童話を連想して読んでいると、最後に民衆の狂気、住職の狂気にしてやられる。とんでもない怪奇小説。
 「猫の恩返し」と「重い病気にかかった庄屋の娘」と来たら、本来は婚姻譚の方向に向かいそうなものだが、庄屋の娘がそのまま死んでしまう時点で、「おや?」とは思ったけど、ここまでの変化球はなかなか想像つかない。
 民話としての世界観がしっかりしてるから、魔法的なものがでてきても違和感がないし、昔話のパロディとしても秀逸な作品になっているが、パロディなんて言葉で終わらせない作者の迫力を感じさせる。
 また神や仏はいないし、化け猫がいたとしても、しょせんは化け猫のやることでしかない世界観のドライさというのが一周して心地よさすらあるのが、この作品が「物語」として優れている証拠だろう。

「時をかける脱衣」遠藤玄三

「時をかける脱衣」遠藤玄三

 

 

 その歩みは異様にスムーズであったという。

「ありゃあ達人の動きだったね。けンどもあんまり自然だったろ、見逃しちまって」

 そしてその場の誰もが異常だと認識できぬまま、

「足をこう――軽く動かしただけ、みたいな感じで」

 それだけで飯坂雄大(21)の身体は気付けば宙に浮いていたという。

 当人がそれを認識する前に、やや小柄といえる体躯の男は飯坂のものである半分湯に浸かったタオルを拾うと迅雷のごとき一閃、小気味よい音と共に飯坂の身体は吹き飛び、浴場の床を滑った。

 この段に至って温泉に浸かっていた地元住民三名が事態を認識、ひとりが同じ『使い手』として今の行為をやりすぎだと咎めようと男の肩を掴み、次の瞬間には顔に巻きつけられたタオルによって視界を奪われていた。

 生まれた隙を逃さずこめかみへの一撃が意識を刈り取り、膝から崩れるように湯に浸かりなおす渋風儀一(57)を見て、大笠清吉(79)と海道信平(79)は相手の力量を悟ったという。

 とはいえ二人とも戦前生まれ、老骨なれどここで退くは日本男児の名折れなりと闘志を滾らせ、しかし同時にこの状況での最善手を模索していた。

 信じがたいことだが、目の前に立つ男が自分たち二人よりも格上であることは間違いない。生まれてこの方この街に暮らし、数多の使い手を見てきた彼らが知らない顔が、である。

 これはもしや『のぼせた』のだろうか。

 伊達に長く生きてはいない、何度か『のぼせた』奴らは見てきた、しかし目の前で対峙する経験は――――流石に初めてだ。素人の自分らが下手を打てば死ぬかもしれない。どうするか。

 高まる緊張の中、七十年来の親友はほぼ同時に答えを見つけ出す。撤退戦だ。

 二人で攻撃を受け止めつつ隙を見て片方が身体を拭いて、扉の前で倒れる若者を踏み越え、脱衣場まで逃げ切って助けを呼ぶ。それしかない。

 この戦術を取れば片方が犠牲になるのは見えている。しかし躊躇する時間はなく目と目で合図するが早いか阿吽の呼吸、タオルを首にかけると二人はとても喜寿を過ぎたとは思えぬ身のこなしで湯から飛び出るや否や、着地したときの足元の滑りを利用して置いてあるかけ湯用の桶を掴み、逸物を巧みに隠しながら低く構える。

 湯けむり真拳桶の型、『玉壁』の構えであった。

 対して、男は自然体で温泉から上がってくる――――前を隠そうともせずに。

 流派最大の禁忌を侵さんとする男に大笠と海道は驚愕し、しかしそれは更なる驚きに上書きされる。

「なんと……!」

「これは……!」

 予想だにせぬ光景に動揺が走る。見せ付けられた格の違いと立てた戦略が瓦解したことに慄く身体を抑えて、海道は囁いた。

「セイちゃん、逃げろ」

 思わず目をぎょろりと動かして隣の知己を睨む大笠。対して海道は視線を外さず、

「ありゃバケモンだ、隙なんかねぇよ。だったらオレが残ったほうがいいだろ」

 そう言って空いている手を差し出す。長い付き合いゆえにその意味するところを即座に理解した大笠は逡巡の後桶を手渡した。

 海道の構えが変わる。湯けむり真拳桶の型、『双月』の構え。両の手に構えた桶により防御力においては他の追随を許さぬ型であり、桶の型を得意とする海道の最も自信のある型であり、

 そして、両手が塞がる故にタオルを扱うことが不可能になる型でもある。

「十五、いや十秒が限界か。とにかく凌ぐ。後は任せたぜ」

「――――おうよ」

 それだけの言葉を交わして、二人は動き出す。大笠はタオルを固く絞りつつ濡れた床でも滑らぬ湯けむり真拳独特の歩法を最大限に生かして脱衣所へ、海道はまるで自分たちを待つかのように動かなかった、自分よりは若いが十分年寄りといえる男へ。

 数瞬の後、海道の呻き声と共に飛来した桶が自分を追い越していく。それでも振り返らず、タオルを固く絞り身体を素早く拭いていく。

 海道信平が持ちこたえると言ったのなら、持ちこたえぬわけがないのだ。

 ずいぶんと古い記憶が蘇る。そう、あれは確か――――

 

 

「――――ここからは昔の思い出が走馬灯のように蘇るシーンですがどうしますか?」

 古鏃温泉郷、その中でも四番目の老舗、江戸からの由緒正しき温泉であり、三度の改築を行った今は昭和のレトロな雰囲気を色濃く残す『さらき屋』の待合室。

 穴川鈴花(24)はここで語りを止め、隣に座る古鏃市湯あたり課長松憲三(49)にこの先を語るかを問うた。

「あー、いい、いい。それよりちょこちょこあるぼやかされてるシーンね、そこもうちょっと何とかなんなかったの」

「すいません、どうしてもドラマチックになってしまって」

「あー、まあいいよ。その人たちはみんな既に助かってるんだよね?」

「そうですね。脱衣所まで蹴り出されてたそうです。そっちの証言も聞きますか?」

「いやいいよ。えー、横紙さん、お宅の旦那さんですけれども」

 いきなり名前を呼ばれて、二人のやりとりを前にソファーに座って手持ち無沙汰に麦茶を飲んでいた横紙りん(53)はびくりと身体を震わせた。

「どうやら『湯あたり』を起こされましてですね、えー、湯けむり真拳にですね、覚醒なされたようなんですね」

「は、はあ」

「それでですね」

「あの」

 なおも説明を続けようとする松を遮って、横紙が口を開く。

「さっきから出てくる『湯けむり真拳』ってのは一体なんなんでしょうか」

「あー、ご説明いたしますとですね」

 足元の鞄を持ち上げ、『古鏃市役所』というシールの貼られたノートパソコンを取り出す。手早く操作すると横紙に画面を向けた。

「こちらの動画をですね、まずはご覧になっていただければ」

 訳も分からぬまま、横紙はエフェクトの端々に前世紀特有の安っぽさの見える七分ほどの動画をぼんやりと鑑賞する。

 最後に『制作:古鏃市広報課』の文字が表示されたところでノートパソコンは閉じられ、

「えー、今ご覧いただいたようにですね、湯けむり真拳というのはですねー、えー、古くからこの地に伝わる『温泉』での戦闘を前提にした武術なんです」

「はあ」

「VTRにあったとおりですね、えー、小学校なんかでもですね、基礎を教わったりする、この辺では非常に身近な武術なんですけれども」

「はあ」

「なんでこれを学んでるかというとですね、えー、失礼ですが横紙さん、梅こぶ茶が嫌いとかありますか」

「……いえ、ないですけど」

「そうですか、では」

 松がぱちりと指を鳴らす。穴川が露骨に嫌な顔をした。

「えー、横紙さん、その麦茶飲んでいただけますか」

 ぽかんとした表情のまま横紙はコップを口に近づけ、

「え?」

 そこで異変に気付いた。鼻をつく香りが麦茶のそれではない。

「えー、お気づきになられたと思いますが、その麦茶は既に梅こぶ茶にですね、変化してると思います」

 一口啜ってみる。香りだけではない、確かに味も梅こぶ茶。

「実はですね、えー、それは私の超能力によるものなんですね」

 真顔で言い切った。ごく当然のこととして言い切る様に、横紙も何を言い出したかは分からないがかくりと頷くより他にない。

「えー、あまり公にはなっていないんですが、ここら辺の温泉にはですね、えー、何か特殊な成分みたいなのがあるようでして、えー、体質が合う人にはですね、『湯あたり』と言うんですが、超能力が目覚めることがあるんです」

 なおも真顔である。横紙も頷く。頷くより他にない。

「それでですね、まあ初めて超能力に目覚めるわけですからですね、えー、つい暴走してしまう人も出てくるわけです。この辺では『のぼせる』なんて言うんですが、えー、そういった時にですね、最低限身を守れるようにしようというのがですね、湯けむり真拳というわけです」

「…………はあ」

 訳がわからない。

 横紙の顔にははっきりとそう書いてあるが、松はそれをあえて無視した。前任者からの引継ぎ資料によれば、50代を過ぎるとどう説明しても理解度は急激に落ちるらしい。

「それで、主人はどうなるんでしょうか」

「あー、はいー、その件についてですが」

 ちらりと視線をやると、穴川が書類を取り出して口を開く。

「まずご主人様ですが、おそらく湯けむり真拳の素質に開花したのだと思われます。この場合、市の条例でその結果生じた被害及び損害については全て市が負担させていただきます。また、能力の発言からあまり時間が経過していませんので、一旦温泉から離せばクールダウンすると判断し、湯あたり課が対処いたします。つきましては」

 『湯あたり者取扱許諾確認書面』と書かれた書類と、『古鏃市湯あたり者取扱方針』左上をホチキスで留められたちょっとした束が横紙の前に置かれる。

「こちらの書面にのぼせられました方への対処時の市の方針等記されていますのでよくお読みいただきまして、サインいただければ」

 そこまで一息に言って、横紙がまたも呆然としているのを見やりつつ自分のコップに口をつける。よく冷えた梅こぶ茶の味が広がる。顔を顰めるのを辛うじて我慢する。

 狙ったものだけを変えられない課長の能力の無差別性に腹を立てつつ、横紙がよく分からぬままサインをするのを確認して安堵した。

「ありがとうございます」

 素早く回収する。増えすぎた条項のせいで今や改訂をきちんとチェックされないのをいいことに、『とにかくサインしてしまったほうがよさそうだ』という気にさせる為の分厚い書面である。しっかり読まれると結構無茶苦茶書いてあるから困るのだ。

「えー、それではですね、担当者がこちらに向かっておりますので、えー、到着するまでしばらくですね、お待ちください」

 その発言に横紙は少々驚いた顔をして、

「担当者さんは別にいらっしゃるんですか」

「あー、それはですね。旦那さんの湯あたりが不明でしたので、一応最高戦力である私が出向いてきたんですけれども、湯けむり真拳のですね、えー、習得ということでですね、私でなくてもなんとかなるということでですね、さらき屋さんのほうから要請がありましてですね、えー、湯けむり真拳担当の者で対処させていただくことになりまして」

「……最高戦力、ですか」

「恥ずかしながら」

 梅こぶ茶が最高戦力というのは恥ずかしいでは済まないのでは。

 喉まで出かかったその言葉を横紙はなんとか飲み込んだ。頼りなくとも専門家というのだから、きっとどうにかしてくれるだろう。いや、しかし専門家というのは案外――――

(ああ、また回想に引っかかった――)

 面倒なのでそこで『読む』のを中断し、穴川は表情には出さずに苛立つ。

 彼女の湯あたりは『相手の記憶や思考をドラマチックに読む』能力。視界にいる相手であれば誰であろうと即座にその人物の思考や記憶を読み取ることができるが、長所とも短所ともいえるのがその脚色具合である。

 それらは彼女の脳内に文章として、それも盛り上がりを重視した形で再現される。そのため長い回想や不自然にぼかされた記述が時として登場し(どういうわけか、リアルタイムで思考を読み取ってもそうなる)、穴川を悩ませることになる。

 冒頭の件も穴川が大笠の記憶を読んだものであるが、あの後には彼らのエピソードが三篇も収録されている。しかしそれらを書くには余白が足りない。

「すいません、遅くなりまして!」

 まさにその時、である。

 ぺたぺたとスリッパの音を鳴らしながら、一人の男が現れた。全員の視線が彼に集中し、横紙の表情が今度は隠しきれない不安を示した。

 声も動きも若々しく、まだ二十代のフレッシュさを残している。そこまではいい。問題は格好だ。スーツにグラサンに野球帽、胸には『古鏃市湯あたり課 李下 新次郎』の文字。左腕に腕時計、右にはリストバンド。さらに軍手をはめており、明らかにそれと判る付け髭をつけている。だがなぜスリッパの下は裸足なのか。

 社会人として、というか社会的動物として致命的に間違っているその格好を、しかし市職員の二人は平然と受け入れる。「状況は?」「はい、『 その歩みは異様にスムーズであったという。』……」

 再び冒頭から語り始めた穴川の話を、李下は頷きながら聞いていく。その間にと松は横紙の方へ向き直り、

「えー、驚かれたと思いますが、あれはですね、業務上の必要性からあのような格好になっておりまして、何卒ご理解いただければ」

 どんな必要性からだ。

 その言葉を横紙は本当に済んでのところで抑えた。仮にもご迷惑をおかけしているのは自分の亭主であり、こちらはどうこう言える立場にはない。胸のうちで三度唱える。

「外見こそああですが、えー、一応李下はうちの課ではトップの湯けむり真拳の使い手でして、えー、あの年にして師範代なんですね、はい」

「へえ」

 師範代というのはそんなに凄いのだろうか。わからない。

「その上ですね、湯あたりがなかなか強力でして、まあ彼に任せておけば旦那さんにも勝てるでしょう」

「あのう」

「はい」

「えっとですね、その、主人はそんなに強いんでしょうか。普段運動も小さな畑いじりくらいしかしてないんですけれども……」

 最近は下っ腹が出てきたといって烏龍茶しか飲まなくなったというのに。

「強いですね」

 しかし、松は断言した。

「例えばですね、えー、ここに銃を持った兵士が100人攻めてくるとします。旦那さんは難なく勝ちますね」

 全裸の男と兵士が戦って勝つ、そんな夢物語を当然のことのように言う。

「これは冗談でもなんでもなくてですね、えー、湯けむり真拳はそれほどまでに『風呂』での戦闘を想定された流派なんですね。まして旦那さんの場合は『奥義』にまで目覚めていらっしゃるようですし――」

「課長」

 そこで李下に声をかけられて、松はくるりと振り向く。表情だけで言いたいことを察し、「すいません、ちょっと打ち合わせをしてまいりますので」と横紙に断って立ち上がり、部屋の片隅で穴川も含めた三人でなにやら話し合いを始める。

 ひとり残されたりんは、先ほど言われたことを改めて反芻してみる。

(あの人が軍隊と戦って勝てる、ねえ)

 昨日、神社の二百段あるとかいう石段を登るのですら難儀していたというのに。

 そうだ、昨日の今ごろはもう宿にチェックインしていたはずだ。それがどうだろうこの状況は。途中に立ち寄るだけの予定だった温泉のせいで、勤続三十年でもらった休暇での旅行のプランはもうがたがただ。

 自分が出てきたら男湯の方で何やら騒ぎが起きていて、何事かと待合室で牛乳を飲んでいたらそのうちに温泉の人が申し訳ありませんが本日の営業は終了となりまして、と言ってきて、でも主人がまだ上がってないんです、と答えたら顔色を変えられて、それからあれよあれよという間にこうなった。

 今や主人を倒す算段をされていて、しかもそれがあの男である。

(……つまり、あの人も軍隊と戦って勝てる、ってことかしら)

 どう考えても無理な気がする。あの課長さんも「最大戦力」なんて言っていたが梅こぶ茶だし、どこまで本気なのか。いや、そもそもこの状況がどこまで本当なのか。超能力に目覚めたというのがまずおかしいだろう――――

「お待たせしました」

 いきなり声をかけられて肩が少し跳ねる。

 市職員の三人は横紙の前に姿勢を正して座り、

「えー、古鏃市湯あたり条例に基づきまして、再確認させていただきます」

 それまでとは打って変わって流麗な口調で、松が喋りだす。

「これより横紙太助氏の無力化を行わせていただきます。なお、同条例により横紙氏の行動は一切の罪に問われません。また、この件によって発生したあらゆる損害への補償は行政の方で行わせていただきます。以上の条件の下、横紙太助氏の無力化に同意なされますでしょうか」

「は、はい」

 よく分からない圧力に押されて、横紙は即座に同意した。

「「「ありがとうございます」」」

 三人が頭を下げる。そして李下が立ち上がり、

「では行ってきます」

「あー、いけそうか」

「当然です」

 自信に満ちた足取りで、男湯の方へ向かっていく。打ち付けられた両の拳がぼふっ、と鳴った。

 

 

 横紙太助(53)は、扉越しに向けられる気配に即座に気付き、湯船から飛び出した。その瞳はただ好敵手の予感に輝き、理性ではなく多分に本能の影響を受けている。「のぼせて」しまったが故であり、今の彼は己の力を試したい一匹の獣とすら形容しても差し支えはない。

 滑りやすい石の床に音もなく着地すると、扉を真正面から見据える位置に腕を組み仁王立つ。構えるにはまだ早い、相手の姿を見てから、その相手に最も合った構えを取る。さあ扉が開いた、はたして次の相手は――――

 目の前にいた。

 反応する暇もあらばこそ、顎を打ち抜く掌底が横紙の身体を浮かし、そのまま湯船へと落ちていく。普通ならば盛大な水しぶきが上がるところであるが横紙も目覚めたばかりとはいえ達人、空中で姿勢を僅かに変えればその身体は一流の飛び込み選手の如くほとんど飛沫を上げずして温泉へと吸い込まれる。

 さらに水の抵抗を生かして衝撃を吸収、全身を丸めると腰より少し高い程度の湯船の中で一回転、足をつくと立ち上がる。全身に気合を籠めると体表面のお湯がすべて一瞬で湯気と化した。

 改めて敵の姿を視認する、瞬間横紙の中で激しい怒りが湧きあがり、激情のままに湯船を飛び出し強烈な一撃を繰り出そうとする。

「期待通り――」

 喰らえば致命傷は免れぬ一撃に対し、李下新次郎は構えも取らずに満足げに呟くと――――ネクタイを緩めた。

「あなたは最初に若者を攻撃している。その理由は『タオルを湯船につけていたから』」

 そのままするりとネクタイを抜き取り、

「湯けむり真拳を使うタイプの湯あたりは温泉のマナーに厳しくなることが多い。まして自我を失っている状態で今の僕を見れば、必ず怒りに任せた攻撃をしてくると読んでいた」

 放り投げると床に屈む。

 そして、時は動き出した。

 事態を理解するより前に、渾身の一撃を空振った横紙の視界をネクタイが塞ぐ。僅かな動揺を見せながらも着地、そこに床の滑りやすさを利用して威力を増大させた廻し蹴りが背後から来た。咄嗟に防御するも止めきれず、床を滑る。

 位置関係は先ほどと逆転し李下が湯船側、横紙が扉側。立ち上がった横紙は、この日初めて警戒の構えを見せた。

「どうした? かかってこいよ。許せないだろ、風呂に服を着たまま入ってくるなんて、さ」

 李下の見え透いた挑発に顔を歪める。呼応するように湯気が立ち上った。

 湯けむり真拳はその正式な仕合においては裸を原則とし、股間以外を隠すことは認められない。一方で股間を隠しておかなければ反則であるのが湯けむり真拳の奥深いところであるが、それからすれば先ほどと比べればスーツを脱いでいるとはいえ李下の姿は許しがたい行為である。

 もちろん李下とて湯けむり真拳の師範代、そのことを理解していないわけではない。むしろ申し訳ないとすら思っている。

 だがこれは仕事であり、負けられない戦いである。故に、この状態で戦わねばならない。

 古鏃市湯あたり課李下新次郎、課内はおろか市内ですら「戦闘力」ではトップクラスと称される彼の強さの根幹はふたつ。ひとつは湯けむり真拳の腕前、もうひとつはその湯あたり。

 彼は身につけたものを脱ぐたび、二秒時を止められる。

 発動はコントロールできず、脱ぎ始めた時点からカウントは始まり、同じものは一日に一度しか発動の対象にならない。

 奇襲を仕掛けるためにスリッパと腕時計とスーツの上で六秒、さらに今ネクタイで二秒。それでもなお彼には二十秒近い猶予がある。

 そこから発生する絶対的な後の先によるカウンターこそ彼の真骨頂であり、湯あたりによって常人のはるか高みに上り詰めた男を相手にしてなおも挑発を仕掛ける余裕が彼にはあった。

 横紙もそれを直感的に理解したのか動こうとしない、だがそれならば攻撃に転じればよいだけだ。じりじりと距離を詰めていく。いかな達人でも時を止めての攻撃は避けるも防ぐも――――

 違和感。

 咄嗟に一歩下がる、次の瞬間さっきまで顎があった位置を鋭い拳が刺し貫いた。その事実を理解するや否や、大きく飛び退いて壁際の洗い場付近で壁を背にして構え、ワイシャツの袖で鏡の曇りを拭き払う。

 しかし、その曇りは二秒と経たずに元通り、いやそれ以上になっていく。

「参ったな……」

 ぼそりと呟く。垣間見えた湯けむり真拳の深淵に、新陳代謝によるものではない汗が背筋を伝った。

 ――――湯けむり真拳とはひとりの天才が創設した流派である。

 それ以前も湯けむり真拳に似たような技術に目覚める湯あたりはいた。しかし彼は別格であり、とりわけ個人のものであった技を一般人にも使えるものに昇華させ継承できるようにした功績は大きい。

 しかし、その中でもひとつだけ伝承が不可能とされた技が存在した。たとえ湯あたりによって湯けむり真拳に目覚めたものであっても殆どは真似できず、開祖を含めても三人しか使えるもののいない湯けむり真拳の『奥義』。

 李下は今、歴史に刻まれるであろう四人目のそれ――――湯気の操作による攻撃を受けていた。

 視界を遮り、距離感を曖昧にし、これ以上ない股間のモザイクにもなる。湯けむり真拳において、湯気のもたらすアドバンテージはあまりに大きい。もしそれを操作できるのであれば、それは戦場を支配することに他ならないのだ。

 李下が動けずにいる間にも、湯気はその周りに濃く滞留していく。もはや一寸先も見通せぬほどの白い世界において、立場は一気に逆転していた。

 神経を張り詰めていたにも拘らず、真正面から攻撃がやってきた。腹を打ち抜こうとする掌底を済んでのところで首を振り、サングラスを振り飛ばして『止める』。この状態からでは反撃は不可能、ひとまず全力で距離を取る。流石に全体を湯気では覆えまいとできるだけ後退する。案の徐々に視界が開けてきて、

 次の攻撃を防御できたのは、幸運というより他にない。

 正確に右目を狙って飛来する液体、それを手で弾く。軍手に染みこんだ匂い――シャンプーだ。ただのシャンプーも達人が押せばその飛び出す勢いは小石を砕くほどになるというからとんでもない。当たれば右目は死んでいた。

 そこを起点として、湯気に紛れたラッシュが飛んでくる。なんとか弾くが、そこで足が止まり湯気が周りを覆い尽くせばもはや戦いにならず、時を止めては離脱する。

 破り捨てたワイシャツで再び視界を奪おうともしてみたが二番煎じは流石に通じず、じわじわと裸に剥かれていくばかりだ。

 誰の目にも明らかな窮地、しかし李下の目は希望を捨ててはいない。

(ここだ――)

 湯気に隠れて放たれるあまりに鋭い上段の蹴り、それを紙一重で避ければいつの間にか手にされていたタオルによる追撃が飛んでくる。もちろんしっかりと防御して、飛来してくるであろう桶に備える。

 読める。劣勢に追い込まれるまでが長くなっている。

 湯あたりによってどれほどの才を開花させようと、実戦経験は補えない。李下は知っている、「達人が自分の能力にどう対処しようとするか」を。

 彼らの導き出す正解はいつでも回避されることを前提とした隙の少ない攻撃を打ち込み続ける、だ。反撃を貰わぬように、確実に時を止める回数を削ってジリ貧に持ち込む。

 だからそれを利用してやる。当人は気付いていないのだろうが、繰り返すうちに攻撃は単調になっていく。表向きは不利を装いながらパターンを読み、自信満々の一撃にカウンターを合わせて押し切るのがいつもの勝ち筋だ。

 しかし――

(タイミングは掴める、防御もできる、だが)

 湯気がどこまでも邪魔をする。

 そもそも李下がカウンターを用いるのは、そうせねば勝てないからだ。実力で格段に劣ることはなくとも、一発や二発を叩き込んだ程度では有利はつかない。決定的な一撃を打ち込んでやらねばペースは握れないのだ。

 だが自分の足元すら見えぬこの湯気の中ではその「決定的な一撃」が難しい。正確に相手の位置を把握しなくては。

(……一か八か、だな)

 策はある。ここまでの傾向を見るに、十分成功すると信じてはいる。だが、これはしくじれば後はない――――

 その逡巡が反応を鈍らせた。不規則な軌道を描くシャワーヘッドが脛を捉える。痺れるような痛みは足を止めさせるに十分、すかさず連打が襲う。

 迷っている余裕はない。

 付け髭を毟り取り、痛む足を堪えて思い切り跳ぶ。これでついに残すはボクサーパンツのみ。ギリギリの状態で飛び込むは湯船、ほとんど波紋を起こさない見事な着水をするとパンツの濡れないギリギリの深さのお湯の中で構える。

 湯けむり真拳はその性質上湯を利用した技も多数存在する。迂闊に飛び込めば自分の首を絞めるだけであり、それゆえにここまで湯船から出て戦っていたのだが、ここには李下の戦闘スタイルにとって見逃せない利点がひとつある。

 いかなる達人でも、水をまったく揺らさずに湯に入ることや移動することはできない。ほぼ消すことは可能だが、それでも微かな波は起こる。ただ足に伝わる波のみに集中していれば、敵の位置は正確に知ることができるのだ。

 気付けばまた辺りを湯気が包み、桶が幾つか飛んでくるが問題はない。散々練習はした、この程度は難なく弾ける。さあこい、直接対決をしようじゃないか。

 ぱしゃり。

 その誘いに乗るかのように、湯船に降り立つ音がした――ふたつ。

 目の前と背後、正反対の位置に落ちたそれらは全く同じ音、同じ波を伝えてくる。バカな、と思う。ひとつは桶によるフェイクに決まっている、だがこれほどまでに見事に波の大きさを合わせられるものだろうか。

 そこで思考を断ち切った。ここまでの傾向を信じて、背後に攻撃を繰り出す。不意打ちのために背後を取っていると信じて、水の抵抗を低減する特別な蹴りを。

 その足が桶を捉えたとき、李下はその技術と、絶対に前に立っていても気付かれないという湯気の操作への自信に心からの拍手を送った。

 やや不安定な姿勢のまま、強引にボクサーパンツに手をかける。短すぎる二秒の中、片足でなんとか跳躍し空中でパンツを脱ぎつつ目と鼻の先に迫っていたタオルを掴み取る。

 体制を整える時間がなく、目くらましになるよう祈りながら水しぶきを盛大に上げ着水。時が動き出し、湯船に足をついたとき、李下は隠そうともしない動きを察知した。

 それは水中。足の動きによって湯の中に強い流れを生み、水弾を撃ち出す湯けむり真拳の秘法「破滴」。ほぼ垂直といってよい角度で李下の顔面を狙うそれを、

「――――――ありがとう」

 李下は時間を止めて回避した。正真正銘最後の切り札、ボクサーパンツの下、内腿に貼られた絆創膏を剥がして。

 策は実った。あえてパンツ一丁で湯船に飛び込み、「これさえ脱がせればいい」という印象を植え付けた上で攻撃を放たせる。それこそが李下の描いた絵。そして今、横紙は完璧に自らの位置を教えてくれている。

 しかし着水したばかりで体勢はあまりよくない、強烈なカウンターを叩き込めないほどには。

 だから、発想を変えた。

 パンツとタオルを湯に浸からぬよう真上に放り投げつつ、膝を更に曲げて全身を湯に浸ける。湯気は水中には届かない、はっきりと見える横紙の軸足を一歩踏み出し担ぐように持ち上げ前に倒す。そこにあるのは横紙が自ら放った水弾で――――そして時は動き出す。

 零距離から叩きこまれた水弾が、横紙の身体を高く持ち上げた。

 もはや横紙に為す術はない。湯けむり真拳は空中での戦闘を前提にはしていない。そして、落下位置を予測するのはこの湯気の中でも非常に容易い。

 完璧なタイミングの掌底が、横紙の飛ぶ方向を90度変える。石の床を勢いよく滑るその音だけを聞きながら、落ちてくるパンツとタオルを受け止めた。

 いよいよ大詰めだ。勝ってシチューを食べよう。

 腰にタオルを巻きつつ湯船から飛び出せば、湯気を集中させすぎたかクリアな世界の中、脱衣所への扉の前で横紙がふらふらと立ち上がっていた。それでもなお股間にだけは湯気が滞留しているのを見て、李下の目が見開かれる。

「魂だけは守りきるってか」

 二人、視線を合わせてにやりと笑う。誰の合図があるでもなく同時に構えを取り、

「いざ、推して参る」

 風呂場という戦場で出会ったもの同士の、裸の付き合いが始まった。

 この距離ではもはや湯気も意味を為さず一発入れれば一発返される、どちらかが先に限界を迎えるかというだけのどこまでも単純な殴り合い。技術では横紙が確実に勝っている、しかし二度の直撃を受けたその身体は微かに悲鳴をあげ始め、それが技量の差を埋めていた。

 どちらも声ひとつ上げず、ただ笑顔だけが張り付いている。李下の腰に巻かれているタオルはおそらく追加の二秒を提供してくれるはずだが、それを使おうという気は欠片も起こらなかった。

 この勝負を、これ以上濁らせてはいけない。

 そして、双方死力を尽くした攻防の末――――――先に膝をついたのは、李下だった。

 立ち上がろうとするも盛大に笑う膝を見て、覚悟を決める。その前に立つ横紙は、どこか寂しげな表情をしていた。

「早く止めを刺せよ。手遅れになるぜ」

 しかし、横紙は動かない。まるで李下が立ち上がるのを待つかのように立ち尽くしている。

 その姿はさながら楽しい時間が終わるのを恐れる子どものようで、

「――――早くしろ!」

 思わず強く叱りつけてしまう。

 びくりとした横紙は、何かを観念したように一歩踏み出し――――――そのままバランスを崩し、倒れた。

 驚いたような顔で立ち上がろうとするが、全く身体に力が入らない。さっきまでは身体中に力がみなぎっていたのに。

「時間切れ、か」

 どこまでもやるせない声で、李下がつぶやく。大きく息を吸い込むと、梅こぶ茶の風味が肺に広がった。

 仕掛けた時限爆弾は『勝ってシチューを食べよう』がキーワード。脱衣所で待機する穴川がリアルタイムの思考を読み、意図して考えなければ絶対に出ないであろうこのキーワードに反応して松が能力を発動する。

 古鏃温泉にはそれなりに観光客が訪れ、その中には横紙太助のように『のぼせる』ものも珍しくはない。しかし、超能力者となった彼らが地元でトラブルを起こしたという話を聞かないのは何故か?

 答えは簡単だ。湯あたりを安定して使用するには、一年や二年では済まないだけの時間を古鏃の湯に浸かって生きねばならない。『のぼせた』場合でも温泉から離せばおとなしくなるし、単なる観光客では家に着く頃には能力はきれいさっぱり消えてしまうのだ。

 それが「温泉すら問答無用で梅こぶ茶に変える」松が最大戦力たる所以であり、湯を入れ替えねばならない温泉側が彼による事態の収拾を拒んだ理由だ。

 今回はごく狭い範囲の湯気を梅こぶ茶に変えただけだが、それでも力の源を失った横紙は倒れることとなったのだ。

 文句なしの作戦勝ちである。しかし、李下の胸中には快感など欠片もなかった。

 もっと力が欲しい。小細工に頼らずとも相手を圧倒できる力を。

『あー、そういうものですよ、世の中は』

 脱衣所の扉越しに、松の声が聞こえる。わかってる、と呟いて、股間を丸出しにして倒れる男を見る。

 その姿が、なぜかとても格好良く見えた。

 

 

「しまってるのかしまってないのか分かりませんね」

「じゃあその辺カットしてくださいよ!」

 古鏃市役所、湯あたり課のデスク。

 コンピューターに今回の報告書を打ち込んでいた穴川の呟きに、李下が強く反応した。

「いや、報告書なんですからちゃんと最後まで書かないと」

「これほんと恥ずかしいンすからね!? そのくせ過去の事例確認しようとすると回りくどいし!」

「それはこのフォーマットでいいって言ってる課長が悪い」

「……たしかに」

 小声で囁きあうふたりの後ろをそっと松が通り過ぎる。

 穴川が地獄耳の課長による報復の梅こぶ茶を味わうことになるのは、これより二分後である。

 


「時をかける脱衣」の選評


大友宗麟 

 遠藤玄三、あなた疲れてるのよ……私は原稿を受け取るなり、彼の身を案じた。だがそれは杞憂というものだった。
 熱い。おバカなことををくそまじめに描くと、ふだん意識しないオトコノコの血が、こんなにも燃え滾るのか。これぞ人知を超えた、スーパースパだ! スーパー戦闘だ!
 もはや説明など必要ない。読むべし。決してかっこいい技が繰り出されるわけではない。派手なエフェクトが見えてくるわけでもない。
 だが、なぜ、こんなにも熱いのか!
 読んでいてなんとはなしに、PVにしたら面白そうだな、とかCMだと15秒間でどんな表現にするかな、などと空想にふけった。李下新次郎は主人公格だし、イケメンで格闘技経験も豊富なV6の岡田准一でどうだろうか。松憲三は温水洋一、穴川鈴花は田部未華子なんていいと思う。ぜひ映像でみたい作品だ。 


モチヲ


「まじめにふざける」ことを評価

 今まで新脈文芸賞をとってきたベテラン。力あるものが「まじめにふざける」とこうなる。……おもしろい。素直に楽しんで読んだ。
 どうでもいい話だが、私は格闘技とか大好きで、メジャーな格闘技の試合や「まともな格闘技マンガとかも好きなんだが、中でも好きなのはB級(?)格闘技やマイナー武術が大好きなのである。したがって、この「湯けむり真拳」は、私にとってたまらない。こういうの、大好物なのである。「しかし躊躇する時間はなく目と目で合図するが早いか阿吽の呼吸、タオルを首にかけると二人はとても喜寿を過ぎたとは思えぬ身のこなしで湯から飛び出るや否や、着地したときの足元の滑りを利用して置いてあるかけ湯用の桶を掴み、逸物を巧みに隠しながら低く構える。湯けむり真拳桶の型、『玉壁』の構えであった。」この辺など、たまらない。くだらないが、それがたまらないのだ。
 しかしながら、このトンデモ拳法があたかも実際にあるかのように見え、またその拳法や能力のバトルがさも現実かのごとく思わせられるのは、作者が自身の筆力に依拠し、いわば「まじめにふざけている」からに他ならない。「ちんこまるだしのおっさんが裸踊りしている」のは実はどうしようもなくつまんないが、「ケロヨン桶で逸物を器用に隠して、よくわからないマイナー武術の構えをしているおっさん」の方がはるかにおもしろい。「くだらない」と思いながら、筆者が(また書かれる世界に登場する人物各々が)「まじめ」なので、引き込まれて読み続けてしまうのだ。
 また、この作品は、穴川鈴花の特殊能力によって見たバトルの報告という体になっている。これがまた、このふざけた世界にリアリティーを与えている。
 これは、物語に現実味を与えるにはもっとも有効かつ典型的なやり方である。たとえば、宇治拾遺物語などの日本の説話文学にある「昔、男ありけり」のアレである。伝聞調の報告というスタイルが、その話しを聞いた者が「いやいや……そんな話ないだろう」と思うより早く「聞いた話だから、俺も信じられなかったんだが……」と語り手に言われるかのごとく、妙なリアリティーを生んでいる。「直接見た、体験した」というよりも、「これ、姉の友だちが体験したらしいけどね……」と言われると、当の語り手もそれが本当かどうかわかっていないから、語り手も聞き手も「確証ないままその話を聞くしかない」共犯構造を作る。この作品は、それが非常にうまくいっている例と言わざるを得ない。マンガ「魁!男塾!」の「民明書房」や、「グラップラー刃牙」の「専門家によると……」を想起させるこの技法は、この作者は自身の筆力によって、巧みにやらかした。
 ……いや、ほんと、おもしろいわコレ。評というか読者の感想になってしまう……。他の選評者は「面白いけどこれは売れない!」と言っていたが、誰かこれマンガにしません。私は画力がないので、誰かたのみます(笑)。

佐藤家清

 読みながら、思わず「おもしろいけど、これは売れない!」という非営利出版サークルの編集長としては柄にもないことを考えてしまったほど奇抜(もしくは、直球)なテーマを持った作品。
 すごくおもしろいからこそ色んな人に読んでほしいけど、登場人物のほとんどが全裸のおっさんという設定が世間にどう受け入れられるかというのは非常に興味深いところである。
 作品としては富樫義博も顔負けな超能力バトルのアイディアも素晴らしいし、話の構成も文句ないし、何より、このバカげた設定を力強く書き切る文章力も申し分ない。
 蒸気と汗と全裸の男だらけの物語だが、一応、穴川鈴花(24)の報告書という体裁にしてあり、物語全体に広がるむさくるし絶妙な感覚で抑えている素晴らしいバランスをもった作品とも言える。
 他の湯あたり課の報告もぜひ読んでみたいと思った。



めさき文庫、第一弾「二十五度サマー」遠藤玄三


新脈文芸賞に連続入賞している噂の大型新人作家「遠藤玄三」の作品が文庫化されます。
各作品に修正を加え、挿絵なども入っております。
よりパワーアップした遠藤玄三ワールドをお楽しみください。現在、鋭意製作中!!



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