目次
もくじ
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原色宇宙人大図鑑
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祝辞
先生からの祝辞イラスト その1
先生からの祝辞イラスト その2
先生からの祝辞イラスト その3
先生からの祝辞イラスト その4
先生からの祝辞イラスト その5
先生からの祝辞イラスト その6
「未来アイテム研究所」大友そーりん
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「未来は既に腐っている」 諸星ゆびわ
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「 宇宙についての6つの物語」 松田リアル
「宇宙についての6つの物語」
1<ふたご座流星群>
2<不穏色の空>
3<夕暮れの流れ星>
4<流線型アリス>
5<夏の椿>
6<宵待月>
「美女」画ギャラリー Mono-Chrome 氷魔
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スタッフ募集
めさき出版スタッフ募集のお知らせ
第四回新脈文芸賞
トビラ
「恋人」夢沢怪奇
「恋人」の選評
「黒い葬式」北橋勇輝
「黒い葬式」の選評
「魔女の森」松田リアル
「魔女の森」の選評
「知らぬが仏、知ったが仏」林ノ池
「知らぬが仏、知ったが仏 」の選評
「猫の檀家さん」小島パブロン
「猫の檀家さん」の選評
「時をかける脱衣」遠藤玄三
「時をかける脱衣」の選評
めさき文庫のおしらせ
めさき文庫、第一弾「二十五度サマー」遠藤玄三
編集後記
編集後記
奥付
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第四回新脈文芸賞

「恋人」夢沢怪奇

「恋人」 夢沢怪奇

 

 

 私はここ最近、生まれてはじめて恋をした。

 何せはじめての感情だから、私自身どういう風にこの胸の高鳴りや不安定な気持を制御すればいいのか、皆目見当がつかない。

 友人に答えを求めてみたが一笑されるだけだった。こんなやつ友人ではないと思ったが、しかし考えてみると無理もない。

 私は大学を卒業するとすぐに一介のサラリーマンとして仕事をし、女性ともあまり関わらず十年間、真面目に生きてきた。

 そんなやつが突然、恋をしたんだ、なんていっても現実味がわかない。きっと冗談だと思って取り合わなかったんだろう。

 いやそう考えてみても友人の対応は友人らしからぬものか、と私は思った。では何だ? そうだ! 友人ではなく、詐欺師と呼ぼう。ヤツは私のことを友人と呼ぶが、私はヤツのことを詐欺師と呼ぶ。純朴な人間を馬鹿にした罰さ……。

 友人が助言してくれないとなると、私は誰をあてにすればいいのだろう……親は病気で死んだ、兄弟はいない、仲のいいやつなんて詐欺師の他にいない。

 となると占い師やその他諸々が思い浮かぶが、いくら私とてそんな馬鹿なことはしない。どうせ誰にでも言えそうなお決まりの文句をいわれるだけさ、ならばどうするか? やはり孤独に黙然と歩を進めるしかあるまい。

 まず何をすればいいのだろう? ラブレターか、話しかけるか、いやどれにしても私のような不器用な人間には出来そうにない。やったとして気味悪がれるだけであろう。ならばどうすればあの麗人と添遂げられるんだ。いや結婚まで行かなくとも、せめて一遍話をしたい。

 麗人宅は、私の家の向かいにある。いつも二階の窓が開かれていて、薄地の白いカーテンが小さな風にはためいている。夕方になると、はためくカーテンに小柄な人の輪郭が浮び上って、時折カーテンの隙間から美しい顔が、密雲に隠見する蒼褪めた月のようにして確認出来る。

 それがまた憎くて憎くて、ずっと麗人の顔をみていたい私は、夕方になると密かにカメラを設置し、麗人がいる窓辺を撮るのだ。

 そして夜な夜なカメラにおさめた麗人の顔をみてはニヤニヤしていた。

 実にむなしく変態的だ。ところがそんな私にある日、一条の希望が射込む。

 それは暖かい春の午後だった。その日休暇だった私は家のなかで本を読んでばかりいて、これではストレスが溜まるうえに非健康的だと判断し、着の身着のまま靴を戛戛鳴らして外に出ると、あにはからんやあの麗人が私の家のブロック塀に寄りかかり、気分悪そうに俯いているではないか!

 これは僥倖だと思って麗人に声をかけた。

 しかし応答がない。

 もう一度声をかけると、麗人宅から女中が出てきて私に一礼、続いて流れるように謝罪を示すと、麗人を引き連れ、麗人宅に引っ込んでしまった。

 一人取り残された私は、あの麗人の虚ろな瞳を思い出した。映像のなかではわからなかったが、あの虚ろで仄白い瞳は、盲の瞳である。加えて話しかけても応答しなかったあたり、聾であるかもしれない。

 私は初恋の人の不幸を推測して元気を無くしてしまった。仕事は捗らなくなり、詐欺師もそんな私をみて幽かに心配の色をみせた。だから相談してみると、詐欺師は意外にも真剣になって応えてくれた。私は嬉しくなって洗いざらい話してしまうと最後にこういわれた。 「心配するな、なんとかする」

 私はこれを機に詐欺師を改め友人と呼び直すことにした。

 それから一週間、私は真面目に仕事をしていたのだが、日曜の朝、あらぬ光景を私の家の窓辺から目撃して、私は驚きとともに激甚な精神的ショックを受けた。

 目眩を感じながらも寝室まで駆け込み寝台に飛び込むと、あの呪うべき光景が頭のなかで浮かぶ。

 友人――いやあのどうしようもない詐欺師は、私を裏切り、私が見初めた麗人を奪ったのだ。詐欺師は麗人と抱き合ったまま麗人の家から出てきて、私が見ていることに気がつくと、微笑を! いや違う! 憎むべき嗤笑を! 私に差向けたのだ!

 私はショックのあまり、仕事へも行かなくなり、詐欺師をどうやって殺害しようか、そういう陰険なことばかり考えていた。詐欺師はなぜ私が仕事を休んでいるのか、訳をしっているくせして見舞いにもきてくれない。

 憎しみをあたためあたため、そうしているうちに私は、ある考えが思い付いた。

 やつとともに、死んでしまえばいい。詐欺師を踏切までつれてきて、轢死してやるのだ。見初めた女を奪われたんだ、それくらいしなければ罪は償われないだろう。

 実行する日は日曜日、やつが羨ましくも麗人とデートをする際に通るどこにでもありそうな踏切で、やつの躯を抱きしめ、私もろとも走っている電車に飛込むのだ。

 その日は実に静かに訪れた。空は澄んで空気は暖かい、眩しいくらいの陽光が私の不気味な雪白の肌を射抜く。何ということもない平穏な一日、二人のバラバラの死体が宙を舞う惨劇が起こること、私はそれを想像する度、今まで経験したことがないほど足や手が震え、氷刃で撫ぜられているかのような限りなく痛みに近い悪寒を背中に感じていた。

 そんな状態で踏切前の空家で麗人と詐欺師が来るのを息を潜めて待ち構えていた。

 しかしいつまでもたっても麗人と詐欺師が来ず、ついに夕方になった時分、帰ろうかとも思ったが、その時は不意に訪れた。

 しかも丁度よく警報機が鳴り、遮断機が降りた。

 夕陽に赤らみ、ぼんやりと霞んだ麗人と詐欺師は仲良さそうに腕を組み、遮断機が上がるのを待っている。その姿がまた羨ましくて羨ましくて、何も考えなしに空家から出ると、やにわに詐欺師に向かって突進した。

 そして詐欺師の目の先まで来た時、ハッとして驚く。  詐欺師では、ないのだ。

 しかしすでに時遅く、見知らぬ男は遮断機から飛出して踏切まで転がり込んでいた。そして助けだそうと足を動かそうとした刹那、物凄い速さで電車が走り去って行く。

 後ろから聞いたこともない不気味な悲鳴が上がった。振り返ってみたが、私が好きな麗人ではなかった。しかし雰囲気だけはなんとなく似ていた。

 何も罪のない人間を殺してしまったことに絶望していると、私は気付いた。視界の奥で、麗人と詐欺師が冷たい視線を私に送っていることに、そしてまた、麗人は軽やかに瞳を動かしたり指をさしたりして、詐欺師と喋っているところから、麗人がカタワではないことが、今さらわかった。

 私に勝ち目はない。そう思って轢死しようと踏切に向き直るが、電車はすでに止まっている。

 私は溜め息を吐いた。私は直に捕まるだろう。確かに悪いことはした。しかしなぜ私ばかり不幸な目に遭わなくてはいけないのだ? こんなこと不公平に相違ない。

 こうして私の恋は惨澹と幕を閉じた。

 ハハ、最高の恋だったよ。


「恋人」の選評

「恋人」の選評


大友宗麟 

 「私」の内と外をめぐる物語。救いが無く、また主人公の吐露が言いようも無くグロテスクである。怪作だ。
 この小説には成長や教訓と言った正の要素がまるでなく、読む者は地中に首だけ晒した、底の見えぬうっ蒼とした壷に返ることの無い呼びかけをしているかの錯覚をする。「私」の思考はそれほど、我々のそれとはかけ離れていて、常ならざる人間の闇がかいま見える。それを描ききった作者の手腕もそうだが、冷静に俯瞰した語り口が、「そこ」で行われていることがいま「ここ」にあるものと、我々のそばに臨場させている。
 私はこの小説を、「四コママンガの五コマ目」と感じた。まとめるとこうだ。
 1コマ目:僕には友人がいるが純朴な人間を馬鹿にした詐欺師だ!
 二コマ目:美しい人を見つけた。麗人だ。好き。
 三コマ目:友人改め詐欺師に相談だ。なんとかしてくれるって。良いやつだ。友人改め詐欺師改め友人だ。
 四コマ目:寝取られた! ギャフン!
 物語はここでも終われるが、こう続く。
 五コマ目:殺してやったら、別人だったよ…… 友人&麗人「ニヤリ」
 今回はたまたまこの結末であったが、分枝は限りなく考えられる。実に広大な懐を持つ作品だ。

モチヲ

「恋人」夢沢怪奇 選評

「『後味の悪さの中毒性』を評価」

 一読して思ったのは、「なんて『後味の悪い』作品なんだろう」ということである。そしてまた、私の精神にある防衛本能だろうか、「こんな『後味が悪い』はずはない」という思いもあった。それでもう一回読み直したのだが、やはり「後味が悪い」作品であった。
 小説ではギミックとして、いろいろなトラブルが引き起こる。やれ離婚だ、やれ子どもの非行だ、やれ恋人が不治の病だと、現実ではありえない量とタイミングで「悪いこと」が引き起こる。
 しかしそれは、結末、終局の、まさに「ハッピーエンド」をより強烈なものにするための、言わば料理のスパイスのようなものではないか。少なからず、一般的な創作技法論でいうとそうなるはずである。
 しかしこの話は、湿気を帯びた雰囲気のまま、最終的に報われない。もうこうなるとまたもや、こんな救われないわけがない、これはきっとバッドエンディングではなくて……。ははーん、そうか、これは最初から夢なのであってだな……。などと深読みの三読目に入り、またもやこの救われないオチに肩を落とす。
 しかし……、とここで、私は考え直した。
 なるほど、そういうことか、そう考えて合点がいった。
 私は、この「後味の悪さ」の虜となり、それを「うわあ」と忌避しつつ、その「うわあ」を言いたいがために、何度も読み直したのである。この中毒性……。これはすごい。
 私はラーメンが好きなんだが、あの「二郎」だけはどうもいただけない。そう、「ラーメン二郎」である。
 ぎとぎとのとんこつ醤油に太麺、これはいい。私は横浜出身。「横浜家系」で慣れた口には何の問題もない。
 しかし、生野菜を山盛りでラーメンにのせる意味がわからない。野菜を炒めも煮もせず、生でのっけたら、ラーメンの味になじまないし、そんなもやしや野菜が麺が見えぬ程に山に盛られていたら、麺に行く前に飽きる。「いや、野菜はいったんどけて、麺を先に…」などと言う「ジロリアン」もいるが、なぜ客にそんな二度手間をかけさせるのか…。
いや何度手間でもいい。はっきり言おう。うまければいいのだ。しかし、私は何百のジロリアンを敵にしても言える、「まずい」のだ。
 しかし、なぜそんなまずいラーメンがこんな人気になるのだろう。いや、ただまずいだけではないはずだ。何かあるに違いない。たとえばにんにくの量とか……そういうことで味が変わったりするのではないか?そうでなければ、みんな、あんなにまずいものを大量に食べるはずないと。
 それを確認するために、私は何度となく「二郎」に足を運んだ。しかし、いつも「まずい……言った通り、行かなけりゃよかった」という悔恨の念で終わるのだった。
 しかし、ある日、はたと気がついた。それは、この状態が既に「二郎」に魅せられている、ということではないか。このように、「まずい」と思わせつつも、客が何度も足を運ぶ事実を作った。これは、すでに私の中で「アリ」になってきているのではないか……。
 この作品は、そんな「二郎」のように、ありえないと思いながらも、何度も読みたくなる、そんな作品である。(※注:この作品が「二郎」のように「まずい」と言っているのではありません。)

佐藤家清

 「奇譚」という言葉が似つかわしい作品。
 完全なる主人公の主観からなる物語であり、彼の視点によって登場人物の名前や役割まで変わってしまうサイケデリックな味わいがあり、ストーリ構造の中にエロ・グロ・ナンセンスが含まれてないのにも拘らず、奇妙な退廃的な雰囲気と、どこにもいけない息苦しい閉塞感を出している。
 また片思いの情熱によるひとり相撲や、嫉妬心というものもよく書けていて、結局のところ友人も麗人も主人公には直接、何もしておらず、2人とも主人公とは別のところで行動を起こし、それを覗いていた主人公が勝手に自爆するという内容は、今まで恋をしたことのない人間が急に自分の中の感情に戸惑い、そのまま溺れて行くさまが描かれている。
 ラストの解釈は色々な見方があると思うが、踏切という『向こう側』と『こちら側』を分け隔てるものでクライマックスを迎えるところに着目したい。
 友人と麗人がどこへ行こうとして、主人公はそれをどうしたかったのかを考えると、この物語の本質が見えてくる。

「黒い葬式」北橋勇輝

 「黒い葬式」 北橋 勇輝

 

 

 

 学校から帰宅してリビングに向かうと、母が深刻な表情で誰かと電話をしていた。井畑賢介は傷だらけの黒いランドセルを床に下すと、母がそれを見計らったかのように受話器を置いて賢介の顔を見ながら、

「じいじ、亡くなったって。明日、お葬式するから学校休みや」

 祖父が亡くなったことに特別悲しさを感じたわけではないが、賢介は学校を休めることに嬉しさを感じ得なかった。

 三ヶ月前、賢介は家族と一緒に祖父の見舞いに行った。白いベッドに寝ながら呼吸器を付けている祖父を見た賢介は頭の隅っこで、もう長くないなとぼんやり思った。恐らく家族全員がそう思っただろう。祖父の顔からは生きる光が見えなかった。あの時、祖父は生きたいと思っていただろうか。祖父は八十歳だったが、そのぐらいの年齢になると、もういつ死んでもいいと思うものなのだろうか。

 二年前、賢介は父に連れられて、よく祖父の家に行った。賢介が物心ついたときから祖父は痴呆になっていたので賢介は祖父と会話らしい会話をしたことがない。だからだろうか、母から祖父が亡くなったことを告げられても悲しくなかったのは。その時、賢介は命日を予言していたかのようにその死を静かに受け入れた。

 

 

 翌日、賢介は母から黒い服とズボンを手渡され、

「これ着なさい。もう少ししたら行くから」

 賢介はそれに着替えると、不快な匂いが鼻先を掠めた。

 賢介が先に玄関で靴を履いていると、喪服を着ている家族がリビングのドアから出てきた。

 家族全員が車に乗り込むのを確認した父は何か考えているような表情で、運転をし始めた。偶然にもその車は黒色だった。

 助手席に乗った母は地図を見ながら、父に葬儀場の場所を教えている。

 賢介は車内を見渡しながら、自分を含め家族全員が黒い服を着ていることに薄暗い闇が立ち込める未来に突き進んでいるような不安を感じた。賢介がそう感じたのは家族全員が黒い服を着ているせいか、この車が黒色だからか、祖父が死んでしまったせいなのか分からない。

 賢介は母に焼香のやり方などを教わった。

「分からんかったら目の前の人の真似すればいいから」

「うん」

 賢介はこれから何かを選ぶとき、黒色の物を選ぶのは止めようと窓の外を見つめながら決意した。

 葬儀場に到着して中に入ると、静かな音楽が流れていて、もう親戚たちは席に座っていた。

 親戚たちは賢介の両親たちと目が合うと席を立ち、深々とお辞儀をして小さな声で何かを話し合っていた。やはり葬儀場の中にいる人は皆、黒い服を着ていた。

 賢介は街を守った英雄のように飾られている祖父の遺影をじっと眺めた。その遺影に使われている写真は賢介も見たことがある写真だった。

「じいじの顔、見るか?」と父は言い、返事をしていないのに、賢介を棺の所まで連れて行った。

 父が棺の上にある小窓を開けると、祖父の顔が見えた。その顔を見た賢介は死んでいるというより眠っているように思えて、不思議でならなかった。だが、すぐに賢介はじいじの顔を見つめながら、「初めて見た死体だ」と強く意識した。恐らく死体を見るのはこれが最初で最後かもしれない。

 気が付くと賢介と父の周りには、黒い服を着た人たちがいた。その人たちは賢介が初めて見る人しかいなかった。

 その人たちは祖父の顔を見た後、隣にいる人と小さな声で喋り合っていた。賢介の隣にいる父はその会話に耳を傾けるように祖父の顔を優しく見つめていた。

 

 

 賢介は不慣れな手つきで焼香を終わらせ、自分の席に戻った。ちゃんと出来ているかどうか不安だったので、賢介は母の顔を窺ったが母は違う方を見つめていた。

 賢介はまだ焼香をしていない黒い人たちの姿を見ながら、葬儀場の中に入った時から流れている音楽と葬式が始まった時から読み上げている坊さんのお経に少し飽きていた。

 火葬場に移動すると、黒いスーツを着たニ十歳後半ぐらいの若い男が灰になった祖父の骨を長い箸でつまみ、周りの黒い服の人たちに、これはどこの骨であるとか、これはそこの骨であるなどと小さく落ち着いた声で言っている。

 賢介は祖父の骨を見つめながら、祖父が棺に入れられて燃やされるところを想像した。

 賢介はその若い男の話を黙って聞いていると、すすり泣く声が聞こえてきたので、そちらに首を向けると、黒い服を着た五十歳くらいの女がハンカチを目に当てて泣いていた。この女は祖父とどういう関係だったのだろうかと賢介は思った。

 葬儀場に戻ると、たくさんあった椅子と棺は綺麗に片付けられ、代わりに横長のテーブルが横一列に三台並べられている。そしてそのテーブルの上には五人前の寿司が四個置かれ、それぞれの席に割り箸と小皿なども用意されていた。

 黒い服の人たちは祖父の葬式が面倒だったとでも言うように深い溜め息を吐きながら席に着き、寿司を食べ始めた。

 賢介はさっきまで葬式が行われていた場所で寿司を食うことに疑問を感じながらも、自らの空腹を満たすために小皿に取った寿司を割り箸で掴み、口の中に入れた。

 葬儀場から自宅に帰るため家族全員が黒い車に乗り込んだ。車内には若干、焼香の匂いが漂い、賢介はそれを匂いながら車の窓の外を見つめた。時刻は十八時を過ぎていて、空はこれから何かが起きるように赤かった。

 賢介は黒い車が道路を走る音に耳を澄ませながら、自身が小学三年生の時に行った運動会のことを思い出した。

 賢介は昼休み、家族と一緒に母が作った弁当を急いで食べた後、アイスクリームを買うための小銭をもらった。賢介はその小銭を握りしめ、同じクラスの岩井に会いに行った。岩井はまだ家族と一緒に、昼御飯を食べていた。

 賢介に気が付いた岩井が、

「あっ、もうちょっと待って。もう食べ終わるから」

 賢介は手の平にある小銭を岩井に見せながら、

「俺、アイス買うわ」

「えっ、コンビニ行かれへんで?」

「知らんの? グラウンドにある懸垂のとこで売ってんで」

 そう言うと岩井が母親の方を見て、

「母さん、俺もアイス買っていい?」

「しょうがないなあ」

 と岩井の母親は鞄から財布を取り出し、岩井に小銭を手渡した。

「ありがとう」

 岩井は玄関のようにブルーシートの外に置かれた靴を急いで履いた。

 グラウンドに行くと、さらに気温が上がったような気がした。地面を見ると二人の黒い影がはっきりと出ている。空を見ると太陽が雲に隠れておらず、自らの存在を見せつけるように輝いていた。

 アイスクリーム売り場に着くと、賢介たちの他にも体操服を着た生徒が四、五人ほど並んでいる。懸垂の傍でアイスを舐めている生徒やジャングルジムに登ってアイスを舐めている男子生徒もいた。

 賢介と岩井はアイスを買った後、それを舐めながらグラウンドの周りを喋りながら歩いた。すると岩井が突然、立ち止まり雑草が生えている場所を見ながら、

「うっわ。えっぐ。賢介、見てみ」

 賢介は岩井が指差した方を見てみると、そこには大群の黒い蟻が、もう死んだと思われるカマキリを取り囲んでいた。それを見た瞬間、賢介は鳥肌が立った。

「きもっ」

「これ食ってんのかな。カマキリ運んでるんかな」

 賢介は見慣れたせいか、岩井と一緒に食い入るように大群の黒い蟻とカマキリの様子を見ていた。

「いや、運んでるやろ。だって、もし食ってたら蟻、止まるはずやん」

「そっか」

 岩井は大群の黒い蟻がカマキリを運ぶところをずっと見ていたためアイスを舐めるのを忘れていたのだろう、流れ落ちる白いアイスを慌てながら舐めていた。

 賢介は大群の黒い蟻に見飽きて、人差し指で崖を登っているようにふらふらしながら歩く黒い蟻をぐっと地面に押し潰した。人差し指を地面から離してみると、砂だらけになった黒い蟻はびくびくともがいていた。賢介はその遊びを何も考えず、飽きるまでやっていた。

 

 

 翌日、目が覚め、学校に行く準備をし始めた賢介は昨日、祖父の葬式を行ったということが信じられなかった。だが確かに昨日、賢介は祖父が死んだ顔を見たのだった。「もういないのだな」と、賢介は母が作ってくれたトーストを齧った。

 黒いランドセルを背負い家を出ると、あの運動会のような暑さだった。空を見てみると太陽は輝いていて、ずっと見つめていることは出来なかった。

 教室に入ると同級生たちと担任の男の先生が賢介の所に駆け寄ってきた。

 担任は賢介と目を合わせながら、

「昨日、大丈夫か? 元気出していけよ」

 と、賢介の肩を優しく叩き、励ました。すると同級生たちも賢介に励ましの声を掛けていった。

 賢介はその励ましの声に嬉しくなっている状態で授業を受けた。

 

 

 

 


「黒い葬式」の選評


大友宗麟 

 北橋勇輝は内省を描くと非常に魅せる作家だ。
 前作「濁った精子」はカタルシスのみでストーリーの必然性を持たない一抹の火花の如き掌編だったが、今作ではストーリーを未完のままに幕を下ろすことで、根幹にある死の虚脱を読むもの全てへと追体験させている。物語の未結という青天の霹靂に、当然我々は戸惑い立ちすくむ。この一時停止こそ、我々の内面――歩いてきた道程を浮き彫りにし、主人公=読者へのすり替えを気付かぬうちに行っているのだ。
 文章はさらりとそつが無く、黙読のリズムを邪魔しない。ますますの円熟味をたたえた北橋勇輝は、今後どのような追体験をさせてくれるのか。楽しみだ。

モチヲ


「象徴的な色の使い方を評価」

 前回の新脈文芸賞受賞者の二作目である。
 今回も、「葬式」をテーマとして、前回同様、淡々とした自然主義的な描写に重きを置いた物語を書いていて、「ああ、これがやはりこの作者の世界観」なのだろうと納得するものがあった。
 しかし(偉そうなことを言うと)小説としては、前回よりはるかに「小説」であり、作者の物語構成力のアップが感じられた。前回は、ようやっと俵の際で小説の体をなした、というような感じだったが、今回は「小説」であった。
 「小説とは何か?」とは、余りに多様な問題群を含むテーマであるからしてここではその詳細を措くのだが、多くの文芸評論家や哲学者が指摘するように、その一構成要素として「象徴性」というものがあるということは、間違えないところだろう。たとえば中島敦の山月記における「虎」。梶井基次郎の檸檬における「檸檬」。三島の「金閣寺」。ある一つものが多様な意味を惹起しはじめ、それが後の物語展開の「兆し」となること…、「象徴性」。今回のこの作品は、その「象徴性」が物語構成にうまく寄与していると言える。
 全編に亘って出てくるのは、題名にあるように、「黒」という色である。葬式にまつわる「黒」は、単なる儀礼上のオフィシャルカラーから、主人公の中で、やがて今後起こる禍々しい、あるいは忌々しいものの象徴となっていく。「賢介はこれから何かを選ぶとき、黒色の物を選ぶのは止めようと窓の外を見つめながら決意した」のである。
 祖父の死と「黒」は直結するが、しかしそれは、祖父という固有の人物の死というよりも、死そのものを導き出す。このとき、「黒」という色、死を予見する全ての禍々しさや忌々しさの導き手となるわけで、主人公の賢介が「黒色のもの」を忌避するのは、こういうことである。
 「黒」の対極は「白」である。岩井と食べる「白いアイス」は、「黒」の象徴する陰鬱なものを遠ざける働きをしている。
しかし一方で「黒い蟻の大群」は「黒い葬式」をイメージさせるアイテムであり、その黒い蟻の大群を「ぐっと地面に押し潰す」のは、その「黒」にまつわるものを消し去る行為の象徴である。そして祖父の死から蟻の死へ受け渡された「死」なるものそのものに他ならない。
 こうした色の光のコントラストが、「祖父の死」という出来事が主人公に与えた心象風景を、非常にイメージしやすいものとなっている。
 緩急の大きなドラマではないが、日常にありうる心の光と影をリアルに写実的に描けているのはないだろうか。

佐藤家清

 「賢介はこれから何かを選ぶとき、黒色の物を選ぶのは止めようと窓の外を見つめながら決意した」というのがこの作品の焦点になっているように感じる。
 部屋の片付けをしていて見つけた昔のアルバムを開いた時のような懐かしい断片的な幼少時代のワンシーン。
 黒というものに込められた死。その黒を背負って登校する小学生、というのが、生まれた時点で大人の作った理不尽なルール(教育)の中で生きていかないとならないことと、生きていながら必ず死ぬという理不尽な自然のルール。
 前回の「濁った精子」にも同じことが言えるけど北橋勇輝さんは「表現したい空気」というのをしっかりと持っていて、そこを切り出すことができるし、自意識過剰にならず、そこだけを表現することができる。だからこそ作品に何かしらの格式や迫力が出ているように感じる。




「魔女の森」松田リアル

「魔女の森」松田リアル

  

 

 

第1章 少女 16歳 2013年4月20日

 

 コーヒーはぬるくなっていた。右からは黒い鳥のハミング。

 

 鬱蒼とした森は山のように見える。

 森の緑が黒に変わるくらい奥に行くと、お菓子の家がある。

 ドロドロに溶けたお菓子の家の壁は、アリンコでいっぱいだった。

 

 その家には魔女が住んでいる。

 

 魔女の家では人間と同じくらいの大きさのアリが、エプロンをつけて働いていた。

 アリは立ち上がると宇宙人に見える。

 もしかして、住んでいるのは魔女じゃなくて宇宙人なのかも。

 いや、ちがう。

 だってドロドロの家の裏には、タワレコの黄色い袋が落ちていた。

 宇宙人はタワレコに行かない。

 でも魔女は行くだろう。

 ヤバい薬をグツグツ煮る時には、BGMが必要だから。

 

 この前、タワレコの9Fのアバンギャルドコーナーで、試聴をしている魔女を見た。

 あとでこっそり魔女の聴いていたCDを聴いてみた。

 流れるようなピアノの中に、ザーっというノイズ音がまざっている曲だった。

 私はそれを買った。

 

 ある日森を訪れると、遠くからメロディーが聞こえてきた。

 流れるようなピアノの音・・・

 魔女もあのCDを買ったのだ。

 私はさらに森の奥へと進んだ。

 ピアノの音を頼りに歩いていくと、小さな広場へ出た。

 

 魔女がピアノを弾いていた。

 隣で大きなアリが、ザーっという音を出していた。

 

 いずれ世界は、彼女を見つけてしまうだろう。

 

 私はこの偉大な音楽家が、火あぶりの刑にならないことを祈った。 

 

 

 

第2章 会社員 27歳 2013年5月25日

 

 僕にはチャンスが3回あった。

 

 魔女の家に入るチャンスだ。

 子供の頃はよく、魔女の家の近くまで行くことができた。

 地図やナビがあるわけではない。なんとなく進めば、だいたいそこについたのだ。

 木陰で見張っていると、魔女が出かけることがあった。

 僕がたどりつき、相手が留守になる。

 そんなチャンスが全部で3回訪れた。

 だがあの頃の僕には勇気がなかった。

 そして大人になってからは、あの森に行っても魔女の家にたどりつくことはなかった。

 もしかして、僕が大人になったから、魔女の家が見えなくなったのだろうか。

 それとも、平凡なサラリーマンになったからか。

 そもそも僕は、大人になったのだろうか・・・

 

 昼の12時を過ぎた。

 何十年も続いていた昼の長寿番組が、今日で終わる。

 最後のゲストは僕の大好きな女優だし、絶対見ようと決めていた。

 取引先との打ち合わせも首尾よく終わり、駅構内のカフェに入った。

 携帯にイヤホンをつけ、チャンネルを合わせる。

 

『ザーーーーーーー』

 

 何故かどのチャンネルも砂嵐しか映らない。

 音も聞こえない。

 いや聞こえてくるのはザーっというノイズ音だけだ。

(なんで? 電波は十分だし……)

 携帯のボタンを押しまくっていると、ピアノの音が聞こえてきた。

 ザーっというノイズの中に、流れるようなピアノの音・・・

(これは……)

 今日が最後のチャンスかもしれない。

 

 そう思った僕は、ホームに引き返し電車に飛び乗った。

 

 

 

 第3章 カナ 14歳 2013年5月20日

 

「あなたは魔女なの。」

 

 14歳の誕生日に、お母さんに言われた。

 

 最初はどんな冗談かと思った。でもお母さんは真剣だった。

「死んだお父さんが、14歳になったら教えるようにって。」

「……じゃあ魔法が使えるってこと?」

「ううん、魔法は使えない。」

 私はちょっとがっかりした。

「じゃあお母さんも魔女なの?」

「そう。」

 ……どう見ても、普通の人間にしか見えなかった。

「魔女って、人間じゃないの?」

「う~ん、元々は人間なんじゃないかな。ただ私たちは、人間より長生きなの。」

「どのくらい?」

「300歳。」

「えぇ!! お母さん、今何歳?」

「150歳、くらい。忘れちゃった。」

「じゃあケーキのローソク、すごいことになるね。」

 自分でそう言ってから、ふと思い出した。

 私が幼稚園の時、お母さんの誕生日にお父さんが庭にろうそくを並べて

 「HAPPY BIRTHDAY」の文字を書いた。全部に火をつけたときはとてもキレイだった。

 その話をしたら

「そうそう、あれはお父さんが本気で年齢分のろうそくをたてよう! って。」

「ねぇ、どうして14歳になったらなの? なんか儀式でもするの?」

 そう尋ねると、お母さんは少し考えてからこう言った。

「進路を考えだす時期だからじゃない?」

 ……。聞きたいことは山ほどあったが、今日はリョウちゃんと約束があるのだ。

「ねぇ、私、20時からリョウちゃんとゲームする約束してるんだけど。」

「あらそう。いいよ行って。今は何が流行っているの?」

「『デッド・サイレンス』っていうホラーゲームだよ。森の中をさまようの。」

 お母さんは笑ってこう言った。

 

「それはそれは。魔女に会わないように気をつけてね。」

 

 

 

第4章 大学生 20歳 2013年2月12日

 

 あのCDが再発されるらしい。

 

 その情報は、ほとんどがうわさのサイトで拾った。

 だからさほど信じていなかった。

 僕はすでに1枚持っている。でも再発されたら嬉しいと思った。

 同時に嬉しくないとも思った。

 これについては、複雑な心境なのだ。

 自分だけのものにしておきたい気持ちと、多くの人に知ってもらいたいという気持ち。

 

 それは僕が生まれる前の時代のCDだ。

 僕が手に入れたのは3年前。中古屋でジャケ買いした。

 深い緑の森の写真に、グランドピアノの写真がコラージュされたジャケだ。

 

 僕の宝物だ。

 

 CDのタイトルは『ASLEEP』アーティスト名は『RAYJUTO』。

 アメリカのレーベルから出ているが詳細はまったく不明だ。

 この人のCDは、この1枚しか出ていないらしい。

 ジャケ買いだったが、家に帰って聴いたとき、最初の10秒で虜になった。

 ヘッドホンを耳に押し当てて、何時間も聴いていた。

 静かな砂嵐のような音から、そのCDは始まる。

 そして遠くの方から、流れるようなピアノのメロディーが混ざってくる。

 やがてその相反する2つの音が、恐ろしいほどぴったりと重なってくる。

 約40分。1曲しか入っていないCDだ。

 その当時仲の良かった友達に聴かせたが、誰1人興味を示さなかった。

 そしてそれは僕だけの宝物となった。

 僕は28分あたりの、ノイズがピアノを上回ったときが好きだ。

 あのCDは、スタジオではなく本当の森の中で録音されたのではないか。

 僕はいつもそう思っている。

 

 あのCDが再発されるらしい。

 それが本当の話だと分かったのは、音楽雑誌『QUINTETTE』に小さな記事を見つけた時だった。

 

 

第5章 エム 17歳 2013年2月22日

 

 煮詰まった。時間はあと15分しかない。

 

 新曲がいい感じで出来上がりつつあった。

 しかし、最後の最後でみんな止まってしまった。

 

「う~ん。どうしよっか。これ、せっかくだから仕上げたい。」

 ボーカルのエルが言った。

「そうだよね~。ざっとでいいから、最後を決めて通そうよ。」

 ノイズ担当のヨシくんが、そう言って機材をいじり始めた。

 

 ドラム、キーボード、ノイズ、ボーカル。

 編成の通り、私たちはちょっと変わった音のするバンドだ。

 ライブハウスのオーデションは、だいたい落ちていた。どうやら一般ウケはしないらしい。

 しかし新宿の老舗ライブハウスは、私たちを月1で出演させてくれている。

 

「ねぇエム、昔森で聴いたあの曲弾いてよ!」

 私とエルは双子だ。「森で聴いたあの曲」。それで十分わかるし、そう言いだすんじゃないかと思っていた。

「覚えてるでしょ?」エルが言った。

 もちろん覚えている。ただ、何となく、あれを弾いてはいけないような気がした。

 そんな私の気持ちはお構いなしに、エルはヨシくんに音のリクエストを始めた。

「ザーってね、いや、サーって感じかな。なんか軽い砂嵐のような音。出る?」

「こんな感じ?」

 ヨシくんがエフェクターのつまみを両手で操作しながら答えた。

「そうそう! そんなそんな! ねぇエム、近いよねこれ。弾いてよピアノ!」

 仕方なく、私は弾き始めた。

 ノイズと混ざり合う、不思議なメロディー。

「ちょっと待った。これって、『ASLEEP』じゃない?」

 今まで黙っていたドラムのケイタくんが言った。

「この曲知ってるの!?」私とエルは同時に答えた。

「よく知ってんな。オレCD持ってるよ。」

 私は驚いた。小さな頃森で聴いたあのメロディがCDになっているなんて。

 

 スタジオのランプが点滅している。終わりの合図だ。

 次の練習の時、そのCDを貸してもらう約束をして、その日の練習は終った。

 

 

 

第6章 山田 25歳 2013年5月10日

 

 退屈だ。

 私が好きな音楽は、このフロアには存在しない。

 でも仕事だから仕方がない。今月いっぱいの辛抱だ。

 「DEATH RAIN CHAINSAW」「SHYBER」「G.G.H」日本人なら「ザルポップ」「バクテリアガンズ」。

 私の好きなのはこの辺。ワンフロア下の階に売っている。

 9Fのアルバイトが急にやめたので、8Fの1番下っぱな私がヘルプでまわされた。

 このフロアはいつでも空いている。変なCDしか置いてないからだ。

 やってくるのも、ちょっとおかしな客ばかりだ。

 

「あ、あのぉ~、『ANDBAN SHIELL』のCD、あ、ありますか?」

 メガネでモサモサ髪の、どもり気味の男が訪ねてきた。

「は? えっと、アンドバン? アンドバン何ですか?」

 私が聞き返すと、首をブルブル左右に振りながら小走りに帰ってしまった。

 もう、変なのばっかりで嫌だ。

 かかってる音楽も、なんかよく分からないやつばかりだ。

 ここは音楽の無法地帯だ。

 早く8Fに帰りたい。

 

 でも昨日からなんかお客が多い気がする。

 右奥の試聴機、よく人がいるな。なんか新譜かな。

「ねぇ立山さん、あの試聴機、どんなのが入ってるの?」

 このフロアの主と言われている立山さんに聞いてみた。

 立山さんは、私が腕にしているトゲトゲのリストバンドをちらりと見てから

「君には言いたくない。」と言い、反対側に顔を背けた。

「なーーーんでですかーー!」

 そのしぐさがおかしくて、私はちょっと笑いながら聞き返した。

「……あそこにはねぇ、もうすごい! 伝説のCDが再発されて昨日から入ってるの!」

「へぇ~。伝説の。じゃあちょっと聴いてこよっと。」

 私はその試聴機まで走って行き、迷わずディスク1をセレクトした。

 『ついに再発!』って書いてあったから。

 ……ザーっという耳障りな音とピアノの音が混ざって聞こえてきた。

 

 私はヘッドホンを外し、大きくため息をついた。

 早く8Fに帰りたい。

 

 

 

 

第7章 リョウ  4歳  2003年5月3日

 

 ぼくは、カナちゃんともりにいきました。

 

「ほんとだってば、ぜったいまじょ!」

 カナちゃんはここで、まじょをみたんだって。

 

 こんなおはなしあったよなー。ほら、なんだっけ。

 もりに、とりをさがしにいってまじょにあうおはなし。

 たしかまじょは、おかしのいえにすんでいるんだ。おかしのいえについて、まじょにあって、

 それで、どうなるんだっけ。

 それよりカナちゃん、いったいどこまでいくんだろう・・・

 

 「ねーカナちゃん、よりみちバレるから、おこられちゃうよー。」

 ぼくたちのむねには、バッジがついている。

 これでぼくたちがどこにいるか、せんせいやおかあさんにすぐにわかるのだ。

「なーに、おこられるのがこわいのー? それともまじょがこわいのー?」

 ぼくのてをぐいぐいひっぱりながら、カナちゃんはニヤリとした。

「どっちもこわくないよ。」

 ぼくはそういったけど、ほんとはどっちもこわかった。

 ぼくはよわむしだ。

 よわむしはケムシだ。

 でもケムシはこわくない。

 カナちゃんはケムシがこわいっていってた。

 ぼくがケムシなら、いったいどっちがよわむしなんだろう。

 

 ずっとあるいていると、ピアノのおとがきこえてきた。

 ぼくはピアノをならっているけど、ピアノがきらいだ。

「あれ、まじょがひいてるんだよ! だからもうすぐ。」

 ぼくは、ちょっとまじょにあいたくなった。

 だってとてもすてきなメロディーだったから。

 

 だけどぼくとカナちゃんは、まじょのいえにいけなかった。

 ぐるぐるしてたら、もりのいりぐちにもどっちゃったから。

 そしてむかえにきたおかあさんにおこられたんだ。

 

 ぼくはつぎのひから、ピアノのレッスンにちゃんといくようになった。

 

 だってまじょのきょくが、ひけるようになりたかったから。 

 

 

 

 

第8章 カナ 14歳 2013年5月24日

 

「ねぇお母さん、この前の続きは?」

 

 この前、お母さんから『あなたは魔女なの』と告白された。

 でもあまりにも唐突すぎて冗談だと思ったし。あの日リョウちゃんとやったゲーム

 『デッドサイレンス』の魔女が強すぎて(魔女うんざり)っていうのもあったし。

 

 でもやっぱり気になって聞いてみた。

 

「あら、聞きたい?でももうお母さんは言うこと言ったし、あとは質問があれば受け付けます。」

 

 いやいや、『魔女なの』が本当なら質問は山ほどですけど。

「とりあえず、人間として普通に暮らしていく上での支障は?」

「とくにないよ。ただ、」

「ただ?」

「人間と同じ歳のとり方しないから、見た目がね、怪しまれちゃう。」

「え?」

「周りの人間が80歳になってヨボヨボになっても、カナはまだ20歳くらいにしか見えません。」

「えぇ~!それはかなりやばくない?お母さんどーしてるの?」

「見た目を変える毒薬を作れます魔女だから。」

「じゃあその薬の作り方、教えといてよ!」

「うん。そのうちね。」

「あとは? まだあるでしょう。」

「後は特にないよ。」

「ほんと~?」

「あ、そうそう。音楽は、あんまりやっちゃダメ。」

「どうして?」

「奏ですぎちゃうから。」

「?」

「魔女の奏でる音楽は、人間を虜にして、ダメにしてしまうから。

 そしていつか、異様な目で見られるようになるから。」

「お母さんは、音楽やりたかった?」

「うん、実は。カナも才能あるから、すごい残念だけど。」

 自分に音楽の才能があると思ったことはなかったので、すこし驚いた。

「あと人間の方が早く死ぬからね。3回くらい、悲しい思いをするよ。」

「そっか。だからきっと、虜にする音をだせちゃうんだね。」

 

 お母さんはにっこり笑って「わかってるじゃない。」と言った。 

 

 

 

第9章 エム  17歳 2013年2月25日

 

 次の練習まで待てなくて、ケイタ君の家に行った。エルと一緒にだ。

 

 最初はパソコンに音源を送ってって頼んだ。

 でもそのCDは特殊で、どうやっても送れないらしい。コピーもできないというのだ。

 30年くらい前のCDなのに、そんなプロテクトがかかっているはずがない。

「きっとケイタくんちのパソコンが壊れてるんだよ~。それかCDにキズがついてるとか。」

 向かう電車の中で、エルが言った。

 私もそう思う。

 でも。

 あの曲のCDなら、あり得るかもしれない……

 

「おまえらほんとモノ好きだなぁ。わざわざ来るなんて。」

 ケイタくんは、奇麗に片付いた部屋に私たちを招き入れてくれた。

「だーーって、うちら双子の過去が、明らかになるかもしんないんだよ~!」

 エルは大げさに言って、ケイタ君を楽しませていた。

 実際、その曲を聴いたときの記憶が曖昧なのは確かだ。

 あの森がどこで、いつ頃のことなのかも覚えていない。

 覚えているのは、ピアノのメロディーと、ザーっというノイズ音だけ。

 私たちの音楽の趣味は、あの曲から受けた影響が大きいのかもしれない。

 

「これだよ。」

 ケイタ君がCDを再生してすぐに、私たちは顔を見合わせた。

 間違いない。あの曲だ。

 

「1985年、アメリカのアーネストレコードってとこから出てる。」

 ケイタ君も、そう詳しくないらしい。CDの裏面の小さい文字を読んでいる。

 「オレたまにDJやっててさ、なんか面白い曲ないかな~と中古屋で適当に買ったうちの1枚。

でもけっこう気に入ってて、たまに聴いてたんだ。」

「何ていう人の曲?」

「RAYJUTO・・・読めないんだよね。レイジュト? 曲名は『ASLEEP』だよ。」

 ケイタ君は、すぐにパソコンで調べてくれた。

「あ・・・おい、このCD、再発されるらしいぜ。」

「ほんとっ? いついつ? 欲しい!」

「そこまでは書いてないな。まあウワサだなこれは。」

 

 私は自分が、エル以上にそのCDを欲しているのを感じた。

 

 

 

 

第10章 山田 25歳 2013年4月11日

 

 昨日は立山さんに、延々とそのCDの素晴らしさについて語られた。

 要するに、発売枚数の少なかった名盤なのだと。

 

 私にはどうしてもその曲の良さが分からなかった。

 放送終了後のテレビとピアノの早弾きの合体だ。

 だいたい1曲で40分て! 私の好きな曲はどれも3分で終わる。

 ただ、なんとなく、うん。耳には残っている。

 

 今日もそのCDの入った試聴機に、おかしな人がやってきた。

 

 魔女だ。

 

 いや、ただの年齢不詳のおばさんだったけど、一瞬そう見えた。

(あの人、日本人かな……)

 たぶん、いや絶対あのCDを聴いている。そんな気がした。

 10分くらいして、その人はCDを手にとり(やっぱりアレだ)

 ジャケットを見てからエスカレーターの方へ消えていった。

(買わないよな~、あんな変なCD……)

 

 そのおばさんの後に、髪の長い、白いワンピースを着た女の子がやってきた。

 そしてまた、あの試聴機のヘッドホンを耳につけた。

(うわ~あの子かわいい。お人形みたい。)

 私はレジからぼんやりと、その女の子を眺めていた。

 するとその子は、CDを手に取りスタスタとこちらへやって来た。

「あ、はいどうぞー。(ピッ)2500円です。ポイントはお貯めしますか?」

「はい。」

「ありがとうございましたー。」

 かわいい女の子はなんと、あのCDを買って行った。

 

「立山さん立山さん! 売れましたよあのCD! しかもかわいい子に!」

 私は在庫チェックから戻ってきた立山さんに報告してあげた。

 

「あのね山田さん。あのCDは、このフロアで今1番売れてるんだよ。

 君は8Fのフロアに行って遊んでばっかりいるから知らないだろうけど!」

 

 

 

第11章 魔女 1985年8月25日

 

 これで300枚目。

 

 少しずつ、けれども確実に集めなければならない。

 時には自分がCD屋へ出向いてそのCDを買った。

 大元を買い占めれば良いのだけれど、それでは私が怪しまれてしまう。

 

 まったく、どうしてこんなことになったのだろう……

 どういういきさつかは知らないが、これは確実に魔女が弾いている。

 

「魔女は音楽を奏でてはいけない」

 

 これは分かり切ったルールだ。

 500年前の魔女狩りだって、真相はこれだ。

 人間の前で、美しい音を出してしまったのだ。

 怪しまれた女たちは次々に処刑された。

 そこで本当の魔女も大勢殺されてしまった。

 大人しく生きていれば、普通の人間として一生を終えることができたのに。

 

 私は薬を作れないので、時がきたら居場所を点々としている。

 最後はこの国で死にたいと思う。

 

 私はこの同志が、人間社会で生きていくために、せっせとCDを買い集めている。

 これは下手をすると、世界中の魔女たちの破滅を導くものになる可能性もある。

 だから自分のためでもあるのだ。

 

 1000枚のうち、半分は回収したい。無理かもしれないが、できる限りのことはしよう。

 

 しかし、なんて美しいメロディーだろう。

 この機械的な音はたぶん、植物か何かに出させているに違いない。

 もうこの音の虜になっている人間は少なくないだろう。

 私はこの魔女が、どこかの森でひっそりと生きていることを願う。

 

 

 

第12章 リョウ 14歳 2013年5月25日

 

「ねぇ、カナ覚えてる? 幼稚園の頃に行った森のこと。」

 

 僕はとなりを歩いているカナに話しかけた。

 いま僕たちは『デッドサイレンス』というゲームの森の中にいる。

 

「うん、覚えてるよ。」カナはこっちを見ずに答えた。

「カナは、本当に魔女を見たの?」

「う~ん。どうだったかな~……」カナの返事はとても曖昧だった。

「あの曲は、覚えてる?」

「……うん。ピアノでしょ? メロディーまでは覚えてないな~。」

 なんか、今日のカナはちょっと変だ。元気がないというか、上の空というか。

 

 今は次のイベント発生ポイントまでの移動だけだから、敵は出てこない。

 カナはスタスタと歩いて行ってしまう。

 まるであの時みたいだ。今日は魔女に会えるだろうか。

 

「ねぇカナ。僕さ、ピアニスト目指すことに決めたよ。」

 僕がピアノに夢中になったのは、カナと行ったあの森で聴いた、魔女のピアノのせいだ。

 それを伝えたかったんだけど、カナはもうあの時の事、あまり覚えてないみたいだ。

 

「うん、リョウちゃんなら絶対すごいピアニストになれるよ!」

 カナはこっちをむいてニコッと微笑み、急に走りだした。

「ちょっとまってよカナ。」

 

 このゲームは、最後にプレイヤーが楽器を弾くシーンがあるらしい。

 僕はあの曲を、ピアノで弾くつもりだ。でもカナ、忘れちゃってるのか……

「カナは将来何になりたいの?」

「音楽家以外。」

「あはは、何それ、幅広すぎ。」

「じゃあお医者さん。」

「本気で?」

「うん。」

「そっか、じゃあお互いがんばろうね。」

「……」

 

 カナは突然、木に登り始めた。

「おいカナ! 何してんだよ、危ないよ!」

「平気だよ、ヴァーチャルだもん。」

「でも落ちたらそれなりに痛いよ。」

「次の村発見。」

 カナは木の上から遠くの方を見て言った。

 どうせその辺りは、まだ2Dの世界だろう。カナはそのまま前方を見つめながら言った。

 

「リョウちゃん、最後にあの曲、弾かないでね。」

 

 

 

 

第13章 マスター 30歳 1985年 夏

 

「珈琲の森」。

 この喫茶店は、1杯千円で珈琲を出している。

 

 ここに来る時はいつも、静かに何かを考えたい時だ。

 今日はゆっくりCDを聴くためにやってきた。半分は仕事、半分はプライベートだ。

 昨日手に入れた、面白そうなCD。

 会社で少し聞いたが、これは静かなところでゆっくり聞きたいと思い、ここにやってきた。

 

 珈琲が運ばれてきた。ここの店員は注文さえ揃ってしまえば、まったく干渉してこない。

 音漏れしないヘッドホンをつけ、CDプレイヤーのスイッチを押す。

 …………

 サーッと言う小さな砂嵐音からそのCDは始まる。

 やがて遠く近く、風に乗るように聞こえてくるピアノの音。

 小さな曲がりくねった小川に、キラキラ光る水が凄まじい勢いで流れてくるような

 イメージ。

 やがてピアノは穏やかになり、砂嵐がやってくる。

 しばらくすると、ピアノが大きな不協和音をかかえて戻ってくる。

 繰り返し押し寄せる波のように、そのCDは続いていく・・・

 

 珈琲にも手をつけず、私は約40分、身動きもせずそのCDを聞いていた。

 

 こんなバンドが、もっと演奏できる場所が日本には必要だ。

 前々から思っていたことが、このCDを聞いてはっきりした。

 あふれだす音は、ただそれだけで魅力的なのだ。

 作り込みすぎた音を、観客の視線を気にして演奏しているバンドばかりでうんざりしていた。

 

 ライブハウスを経営していこうと思う。

 どんな音でも受け止められるハコを作ろう。

 音を人に伝えるという点では、今の仕事と変わらない。

 私の書いたライナーノーツを読んで、後から感じるのではなく、一緒にその場で感じたいと思った。

 

 この演奏を生で、大勢の人と一緒に聞きたいと思った。

 

 

 

 

第14章 大学生 20歳 2013年3月22日

 

「で、いつ?」

 僕はチャット中のタカシに聞いた。

「4月だって。」

「ホントかよ。」

 

 あのCD、出る気配がまったくない。

 そこで友人のタカシに聞いてみることにした。

 タカシはどのジャンルでも恐ろしく詳しい。

 まあ最近は、ヴァーチャルアイドルばかり聞いているらしいが……

 

「アーネストレコードってとこが出しているらしいけど、ここって他に4、5枚しか出さないで潰れたらしいね。」

「ふーん。ま、他のアーティストには興味ないけど。」

「まあ待てよ、レーベルカラーとかから、普通分かるじゃん、そのアーティストのことも。」

「で、分かったの?」

「いや全然。」

「だめじゃん。」

「2ちゃんのウワサみたいのなら、けっこう拾ったけど。」

「どんな?」

「これ、最初1000枚発売されて、そのうち半分くらいは金持ちが買い占めて燃やしたらしいとか。」

「え?」

「その曲作ったのは魔女だとか、『レイ』っていう日本人だとか。」

 

 日本人・・・考えてもみなかった。本当だったら、ちょっと嬉しい。

 

「ま、全部うわさです。」

「しかし待ち遠しいな。ドラクエ11ぶりだよ、こんなに発売が待ち遠しいの。」

「おまえほどじゃないけど、おれも手元に置いておきたい1枚だ。」

「再発って、ジャケとかどうなるんだろ。あのままがいいな。」

「変わっちゃうんじゃない? やっぱ権利とかの問題があるしアーティストの後継者がまだ……」

 画面に打ち出されるタカシの文字は、途中から目に入らなくなっていた。

 

 僕の頭の中では、レイという日本人女性が、森の中でピアノを弾いていた。

 

 

 

第15章 会社員 27歳  2013年5月25日

 

(何やってんだろ……)

 

 電車に乗ってしばらくしてから、僕はようやく冷静に考えだした。

 さっきは電波が悪くて画面が砂嵐だった。

 そしてカフェで流れていたピアノの曲が、たまたま聞こえてきた。それだけのことだ。

 と、自分に言い聞かせてみても、子供のようにワクワクしたもう1人の自分が心の中にいた。

(とりあえず、行ってみよう。今日はたどり着ける気がする。)

 

 あの森は、東京から1時間くらいの場所にある。いとこの家の近くだ。

 目をつぶり、少年の日のことを思い出してみる。

 森の奥、魔女の家、聞こえてくるピアノの音……

 あとはそう、テレビの砂嵐のような音と、風に揺れる木々の音……

 

 社会人になってから行くのは初めてだ。

 スーツにネクタイの自分は、森にさえ入れない気がしてきた。

 

 森は何一つ変わっていなかった。

 

 木々がざわめく中へ、僕はゆっくり足を踏み入れた。

 僕はあの時、魔女の家に入って何がしたかったのだろう。

 あの音が何か、知りたかったんだ。

 今日、魔女に会えたら聞いてみよう。

 そしてあの曲が好きだと伝えよう。

 

 しばらく歩いていると、風に乗ってピアノの音が聞こえてきた。

 自然と急ぎ足になる。

 音のする方へ。

 突然目の前が開けて、小さな広場に出た。

 

 少女がピアノを弾いていた。

 いや、よく見ると、少女はピアノに肘をついてぼんやりしていた。

 ピアノの上に置かれたCDプレーヤーから、あの曲が流れていた。

 少女は僕に気付き、こう言った。

 

「魔女は逃げたよ。」

 

 

 

第16章 少女 16歳  2013年5月25日

 

 時々私は、魔女の家を訪れるようになった。

 

 魔女の入れたコーヒーは美味しかった。

 大きなアリンコはもういなかった。

 魔女はやっぱり魔女で、宇宙人ではなかった。

 

 私と魔女は、音楽の話をたくさんした。

 あれは魔女が作った曲だということも聞いた。

 

 新宿タワレコ9Fの、アバンギャルドコーナーはアツいという話で盛り上がった。

 立山さんという店員がすごく詳しくて頼りになるという情報を教えてあげた。

 そして本当は、魔女は音楽をやってはいけないというきまりも聞いた。

 でも魔女は、音楽が好きなのだ。

 薬をグツグツ煮る時のBGMはトムレッションだと言って笑った。

 

 私はピアノを教えてほしいと頼んだ。

 でも魔女は、もうすぐ引越すからダメだと言った。

 どこか違う国へ逃げるのだ。

 だって再発されたあのCDをたくさんの人が聞いたら、きっとつかまってしまうから。

 つかまって、火あぶりにされてしまうから。

 

 魔女はテルミンなら教えてあげると言った。

 魔女がピアノを弾いて、私がテルミンを奏でる。

 そんなセッションを何度かやった。

 私はテルミンという、不思議な音のする楽器をとても気に入ったので、自分でも買おうと思い

 色々調べていた。

 魔女の持っていたものは、古くてもう売っていなかった。

 あれと同じのが良かったのに。

 

 ある日森を訪れると、魔女はいなくなっていた。

 

 私は1人で、彼女のCDを聞いた。

 

 

 

第17章 会社員 27歳  2013年5月25日

 

 彼女と僕は、森でしばらく話をした。

 初対面の人と話すのは得意ではなかったが、その時はなぜだか言葉があふれた。

 きっと僕は、この事をだれかと話したかったのだろう。

 

 彼女は魔女と友達だったと言った。

 あの曲は、魔女が作ったもので、CDになっていて、それが再発されたと。

 そして魔女は逃げたと。

 

「どうして魔女は逃げなきゃいけないの?」

「魔女は音楽をやっちゃいけないんだって。その音で人間がおかしくなって、

 魔女は火あぶりの刑にされちゃうから。」

「確かに、忘れられない不思議な音だけど・・・この現代で、火あぶりにはならないんじゃない?」

「そう断言できる? もし魔女が人間に追い詰められたら、私たちで守ってあげられると思う?」

 少女は真剣な眼差しを僕に向けた。

「……うん、そうだね、僕なんかじゃ無理だ。」

 

 僕は全面的に、彼女の言う事を信じることにした。

 ちょっと妄想癖がある感じはするけど、嘘は言っていないと思ったから。

 実際僕も、ここに住んでいる魔女を見たことはあるし。

 20年前の話だけど。

 

「でも残念だなぁ。僕もあの曲を生で聞きたかった。あのザーって音は、何で出していたのかな。」

「わからない。でも、似たような音は出せる。」

「ああ、そうだね、エフェクターと圧電つないで、学生時代に僕もやったなぁ。今思えば、きっとこの曲の影響だったんだな。」

 

 歳は、10くらい余裕で離れているであろう少女に、僕は昔好きだった音楽の話をした。

 彼女は無表情だったが、静かに聞いていてくれた。

 そして突然、こう言った。

 

「私と音楽をやらない?」

 

 

 

 

第18章 リョウ 14歳  2013年6月26日

 

 ライブハウスって、もっと人でギュウギュウかと思っていた。

 

 カナがどうしても見たいライブがあるというので、塾をサボって一緒に来た。

 今日は全部で5つのバンドが出るらしい。

 カナのお目当ては次だ。

 

 ライブハウスは薄暗く、タバコのにおいがした。

 ここは昔からある老舗ライブハウスで、店長は海外でも有名なノイズバンドの人なんだって。

 こんなところに来ているのがバレたら、クラシック一筋の両親が怒り狂うな。

 いや、母親は気絶しそうだ。

 今はDJがセッティングの間をつないでいる。これは何ていう曲だろう。

 僕は、ここが気に入った。みんな音楽を楽しんでいる感じがした。

 最初のバンドが良かったせいもある。

 僕の人生の、記念すべき1バンド目だ。

 名前は分からないけど、白いワンピースのテルミンの女の子と、エフェクターだらけの男の人の2人組だ。

 うるさいけど切なげで、たまに歌っている女の子の声は聞こえなかった。

 

「はいリョウちゃん。」

 カナはビールを1つ、僕に手渡した。

「僕初ライブ初ビールなんですけど。」

「じゃあおめでとう!かんばーい!」

 何がじゃあでおめでとうなのか。ビールってにがい。ついでにタバコも吸ってやろうかと思った。

 

 DJの音が小さくなるのと同時に、ステージがぼんやり明るくなった。

 次のバンドが始まった。

 ドラム、キーボード、ノイズ(っていうパートでいいのかは分からない)、ボーカル。

 彼らはカウントもなしにいきなり全員が爆音を出し始めた。

 カナはピョンピョン飛び跳ねている。

 ボーカルの女の子とキーボードの女の子は、同じ服で同じ顔だ。

 いったい何で合わせているのか、全員がピタッと止まるブレイクは見事だった。

 カナほどではないけど、僕も体でリズムをとった。

 小さく聞こえるキーボードのメロディーは、あの曲に少し似ていた。

 

 急にカナが飛び跳ねるのをやめた。

「どうしたの?」

 僕が耳元で叫ぶと、カナは少しさびしそうな顔をした。

 そしてステージを見つめながら何かつぶやいた。

 「わたしも・・・」

 

 カナの言葉はノイズにかき消され、僕の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 


「魔女の森」の選評


大友宗麟 

 新脈新人賞も第四回を数え、とんでもない作品を召喚した。これが、新たな小説のカタチか。
 面白い。雑踏の中、意を向けずそばだてた耳に、いくつかの意のない単語が発覚される。
 性別も言語も順序もてんでバラバラのその断片をつなぎ合わせてみると、一つの意をはらんだ言葉が出来上がる。正にその驚きと喜びがない交ぜになった狂乱、それが読後の私を襲った感情だった。
 人は歴史を欲する。別に言葉となった過去を知りたいんじゃない。今を生きていたかつてを今、自分と重ね併せたいが為。魔女のCDを巡る人も場所も時もてんでバラバラな過去たちは、今のもの(リョウ・カナ)によって継続された瞬間、歴史と成り得た。
 ここに立ち会えたことを、私は光栄に思う。


モチヲ

「『バランス』を評価」

 非常に「バランス」のいい作品である。
 他の選評者も言っていると思うのだが、まずは目につくのは、この斬新で特異的な物語展開と構成である。細切れのような断章が入れ替わり立ち替わり出てきながら、物語は精巧なパッチワークのように構成されている。
 しかし、この物語展開そのものがこの作品の主たる特徴とは言えない、と私は思う。私は、この作品の「バランス」のよさを評価したい。
 まず文体だが、軽やかな、まるで散文詩のような文体で、読みやすい。説明調でしつこいこともなく、かと言って説明不足のところもない。まさに音楽で言えば、必要な音だけが必要なところに配置され奏でられているようである。またシチュエーションによって書き分けているところもよいと思う。
 次に構成だが、さっき斬新で特異的、と言ったが、それは現在の小説の主流の構成とは異なるということであって、実際は、どちらかと言えば、小説の伝統に根ざした構成である。「小説とは不連続な断章の連続的な展開である」というとある文芸評論家の言葉があるが、それを地で行くものであって、断片的な話が読み進めるごとに、まるで多くのジグゾーパズルのピースが集まってくるかのごとく、全体がおぼろげに見えてきて、やがてそのピースがぱちりぱちりと合わさって一つになっていき全体の姿を見せるかのような構成で、逆にこういう構成は、最初に全体が見えていないと出来ない分、非常に技術には高いものが要される。つまり、「書きながら落とし所を考え、上手い頃合いを見て落とし込む」というアドリブのような真似(行き当たりばったりとも言える)はできないのである。
 また内容だが、魔女のCDというアイテムを軸に多くの物語群が存在する。この魔女のCDが何か、最初に簡単に説明される程度で、後はそれが事細かに解説されることはない。しかしこれが、このアイテムに多様な象徴的な意味を持たせることに成功している。またそうであることによって、そもそも「カナは魔女なのか(それはお母さんの冗談ではないか)」「魔女のCDの音楽とは何か、そしてそれが人々を魅了するのはなぜか」などに、多くの回答を用意する(解釈の幅を用意する)。この「広がり」がこの話を面白くしている。
 ……さて、こうしてみると、この作品は一見変わった作品に見えながら、非常に、「小説としての基礎力」をバランスよくしっかり持った作品と言えるだろう。次回作も期待したい。


佐藤家清

 CDという次世代のメディアの登場によって失われつつあるテクノロジーと、かつては最新の理論であった魔法が見事に融合された、過去へと立ち返りながらも現代を強烈に描いたSF(奇想)小説。
 初めて読んだ時の感想は「ビビった」の一言で、幼い子どものラクガキのような理屈ではなく、力強いで魅力的な画の連続が、理解より先に脳を刺激して、妙な汁がほとばしった、とにかく新しさを感じる。
 「わかるやつにはわかる芸術性」というすべてのメディアについてまわる不思議な感覚や共感を「魔女の力」というわかりやすいものに落とし込めて表現しているのが、素晴らしい。
 一部に強烈な支持を持つマニアックなアーティストが一般に受けず、そのまま前に消えてしまうことや、また一般性に受けた時、まるで魔法が溶けたかのように過去の魅力がなくなってしまうような十代の頃に感じた音楽に対する強烈な感性がこの作品にはいっぱい詰まっている。

「知らぬが仏、知ったが仏」林ノ池

「知らぬが仏、知ったが仏」林ノ池

 

 

 

――あなたは、人の心が読めたらいいと思いますか?

 月田くん。彼の方を向いて、そう呟くだけで満足だった。いや、そこで満足することしかできなかったんだ。
 彼は皆から人気のある、クラスのムードメーカー。友達が多く、スポーツ万能で、彼の周りにはいつも人が集まっていた。彼に想いを寄せる女子はたくさんいて、私もその内の一人だ。
 でも私は、人と接するのがあまり得意ではない。だからこうして離れた所から、楽しそうに会話に花を咲かせている彼を眺めていることしかできない。そんな日々が、もう半年以上続いていた。
 でも本当にこれでいいのだろうか。たまにそう思うことがある。できることなら、私も彼とお話ししたいし、彼のことをもっと知りたい。
 だけどそう考えると、決まって「彼の邪魔になるのではないか」という考えが頭を過る。だから、ずっと一歩を踏み出せないでいる。
 せめて彼の考えていることがわかれば、少なくともそれに合わせることで、邪魔にはならないだろうと思う。
 私は、そんな力が欲しかった。


 × × × × ×


 通っている高校から家までの間に、神社が一つある。学校帰りにふらっとそこに立ち寄ったのは、特に意識してのことではなかった。
 ただ、気がつくと私は社の中にいて、賽銭箱に硬貨を投げ入れ、鈴を鳴らし、一心に祈っていた。『人の心が読めるようになりたい』と。
「……それがあなたの願いなの?」
 不意に、後ろから声が掛る。驚いて振り向くと、そこには小学生くらいの、紫色の古風な着物を着た女の子が立っていた。
 急に声を掛けられたことに少し動転しつつ、私はとりあえず自己紹介をすることにした。初対面の子を、びっくりさせないように。
「え、えっと、私は若田こころっていうんだけど、あなたは何て名前なのかな?」
 しかし少女は私の質問には答えず、ただ真っ直ぐな瞳でじっとこちらを見て、ゆっくりと話しかけてきた。
「……本当に、人の心が読めるようになりたいの?」
 ? どうしてこの子は、私が思っていたことがわかるのだろう。ひょっとしたら、無意識のうちに私の口から出てしまっていたのかもしれない。
「できることならね。まぁ、そんなことが起きるはずがないんだけど、ね」
 軽く笑ってみせる。無理だとは思っている。でも、ひょっとしたら神様がいて、私の願いを聞いていてくれているかも知れない。そんな気がした。
「……後悔しないと、いいですね」
 声が聞こえたかと思うと、既にその子の姿は見えなくなっていた。ほんの少し、眼を離していた間に。もう帰ってしまったのだろうか。
 私もそろそろ帰ろう。


 × × × × ×


 翌朝になって異変は起きた。
 普段、私の母は優しい。女手一つで私を育ててくれた、自慢の親だ。しかし今日は、水道で食器を洗っている背中から、色々な「思い」が伝わってくる。

『――今日は彼が来るわ。シーツ取り替えておかなくちゃ』
『――こころ、今日は帰ってこないといいのに……』

 これが、「人の心が読めるようになった結果」だとわかるのに、それほど時間はかからなかった。正直、かなりショックで、すごく悲しかった。あの優しかった母の、黒い裏側。それを垣間見てしまった私は、なんとも言えない気持ちになる。
 ……でも私は、月田くんの心が読めればそれでいい。少しくらいの対価は支払うべきだ。そう自分に言い聞かせることで、やっと落ち着くことができた。
 これ以上、母の思っていることを聞きたくない。私は複雑な思いを抱えつつ、早々に家を出て学校に向かうことにする。


「やぁ、こころちゃん、おはよう」
 家を出たところで、近所のおじいさんに出会った。昔から色々と面倒をみてくれた、優しい人だ。と、思っていた。

『――えぇ女になってきたのう。ワシがもう少し若ければ……』

そんな心の声を聞いたら、今までのイメージは全て消え去ってしまった。どこか裏切られたような気持ちがして、私はその場を急ぎ足で立ち去った。


 × × × × ×


 学校に着いてからは、それはもう酷かった。すれ違う男子は皆、破廉恥な考えしか持っていないし、女子は女子で『根暗』だの『どこか見下してる感じがする』だの、好きなことを言っている。
 ――正直、もう嫌だ! うんざりだ! 人の心を読むことが、こんなにも耐えがたいなんて全然知らなかった。今日、もう一度神社に行って、元に戻してもらおう。そうしたほうがいい気がする。
 ……それでも。私は思い直す。一度だけでいい。月田くんが私のことをどう思っているのかを知りたい。
 ひょっとしたら月田くんは他の男子とは違って、綺麗な心しか持ち合わせていないかもしれない。それに、もし私に気に入らないところがあったとしたら、とりあえずそこを直すところから始められるから。
「ハハハ、それでさ――」
 ちょうどそのとき、月田くんが私の席の前を横切った。私は思わず彼を呼びとめた。

「あ、あの、月田くん」
「? なにか用事でもあった?」
 彼はいつも通りの優しい笑顔で振り向いてくれた。ただ、

『――コイツ、誰だ?』

 それが彼の心の声だった。同じクラスになってから、既にかなりの時間が経っているというのに、彼は私の名前すら覚えていなかったのだ。
「や、やっぱり、何でもない……」
 それだけ言うと、私は机に突っ伏した。内心、かなりショックが大きかったからだ。

「そう? それじゃ」
 月田くんは何もなかったかのように去って行った。しかしその後、嫌なヒソヒソ声がそこかしこから聞こえてきた。

 ――なに、あの女。きもーい。
 ――月田くんに話しかけんじゃないわよ。
 ――根暗は寝てればいいのに。

 耳を押さえても、どんどん私の頭の中に気持ちが伝わってくる。

『――っていうか、あいつウザくね?』
『――死ねばいいと思うよ』
『――誰も悲しまないだろうし』

 やめて! もう、聞きたくない!

『――つーか、アイツ誰よ?』
『――あんなヤツいたか?』
『――どーでもいいよ』

 ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ――


 × × × × ×


 放課後になると私は神社に急いだ。一刻も早く、人の心を読めなくしてもらいたかったからだ。
 人の心が読めても、少しも嬉しくなんかない。知らないほうが幸せだった。どうしてあの時、気づけなかったのだろう。
 皆の本当の気持ちを知ってしまった以上、もう今まで通り接することはできない。これからどうやって過ごせばいいのだろうか……。
「キャッ!」
 不意に強い衝撃を受け、それと同時に悲鳴が聞こえてきた。夢中で走っていたため、スーツ姿の若い女性とぶつかってしまったのだ。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 私の差し出した手を掴んで、女性が立ちあがる。
「私は大丈夫。あなたは平気?」
 優しく声を掛けてくれた。しかし、心の声は違う。

『あっぶないわね、このクソガキ。どこ見てんのよ! 服が汚れたじゃない!』

 ――もう、嫌だ。
「ぁ……、あ……」
 私は何も考えないことに決めた。そうすれば、周りの人たちの心の声も、雑音くらいにしか聞こえない。
 私の急な変化に、さきほどの女性は驚きを隠せないでいるように見える。でも、もう何も考えることはない。いや、何も考えない方が楽なのだ。私は周りからの雑音をすべて聞き流しながら、ふらふらと力なく歩き始める。
 突然、放心状態だった私が意識を取り戻すくらい、とても大きな心の声を聞いた。

『――おいっ、信号は赤だろ! 危ない、どいてくれ!!』

 そして周りからも、たくさんの悲鳴が聞こえてくる。振り向くと目前に巨大なトラックが迫ってきていて――


 ~ ~ ~ ~ ~


「まだ息はある。急いで病院に運ぶんだ!」
「慎重に運べ! あまり動かすな」

『――これはもう間に合わんな』
『――ったく、めんどくせぇ』


「知らぬが仏、知ったが仏 」の選評


大友宗麟 

 胸のすくようなすがすがしいまでのバッドエンドにやられた。
 ショートショートの切り口に、いつ裏切られるかとどきどきして座していたら、突きつけられた、突然の死、そしておわり。これほどまでに見事などんでん返しがあろうか。私は思わず座布団の上からひっくり返ってふて寝を決め込んでしまったが、ふたたび読んでみると、まあその徹底された白と黒の世界の変異が我々の「いつ裏切られるか」というこころの機微を実に巧く陥れているのに気付く。疑う心を疑え、と、じつに千日手めいている。われわれの生きている世界は嘘にまみれ、そしてそれに気が付かない振りをしてひとは生きている。そうした、ふだん見たくないものをちらつかせ、甘言を操ってやがてその結末まで描いてしまう。これはわれわれの死の演繹である。
 つまり、この物語は哲学である。

ハラオ

「裏切らない裏切り」を評価

 他の選評文でも似たようなことを書いたのだが、「読者を裏切る」ことは小説を書く上で必要なことであって、たとえば悪い出来事からのハッピーエンドはその最たるものと言えよう。
 静と動、善と悪、そして幸と不幸。こうした対極のもたらすギャップを、話の展開でうまくギミックとして用いることによって、読み手に驚きを与える。「(小説を読んで)びっくりしたい」とは作家国木田独歩の弁だが、小説を書くこととは、その「びっくり」をいかに創造するかの作業とも言える。よくある話によくある展開、ならば、読者はその話に引き込まれないし、読み続けもしない。これは道理なのであって、読者が想定することをいかに裏切るかを、小説家は考えないといけないのだ。
 しかし、一方で「裏切らない裏切り」というのもある。この作品は、その好例と言えるだろう。
 人の心を読めたらいいと願う主人公が神社願ったその甲斐あって、「読心力」を得る。しかし、聞こえてくるのは人々から聞きたくなかった心の声、それに辟易として……と話は続くのだが、そもそもがこれ、好きな人の気持ちを知りたいという純粋な乙女心から生まれたこと。たとえ周りどんなに「邪悪な心」であろうと、好きな人の心さえ清らかであれば救われるものを……と大半の読者は考える。しかしこの筆者は裏切るのだ。
 ある意味、常套的に考えるとハッピーエンドになるであろうポイント(この話では好きな彼の心の声を聞くところ)でさえも、やはり他の人の心の声同様に「願ってない心の声」しか彼からも聞こえて来ず、主人公は周りへの疑心暗鬼をさらに募らせ、話はさらにエスカレート。しまいには、主人公は交通事故に逢うのだが、助ける救急隊員ですらも……。なんとも救われない終わり方をするのである。
 この話は、初期の「読心力を得て、知らなくてもいいことを知った主人公が疑心暗鬼になり、周りに絶望する」という話のまま最後まで突っ走るという、ある意味「読み手を裏切らない」展開になっている、とも言える。つまり、「裏切ることが小説」にあって、「裏切らない(前の話を受けて引き起こる事態として裏切りがない)」ことが、結果として「裏切っている(読み手はどこかで前の話をひっくり返すことを望んでいるため)」のである。これは高度な物語展開だと言えるだろう。
 読者や鑑賞者は、映画や小説を見て、「こうくるとは思わなかった」と言いたい。そして、それを楽しんでいる。この作者はそれを「最後まで報われることなく死」という話の筋道を転回することなく、見事に読者を裏切ってしまった。

佐藤家清

 「あなたは、人の心が読めたらいいと思いますか?」という質問から始まり、主人公の恋愛を軸に、一気に最後のアンサーへと駆け抜ける。
 本心と発言が一緒な人物を出したりしてもいいはずだけど、最後までダーク路線ですっとばしていくのがタイトな構成が気持ちいい。
 十代の頃にありがちな相手の気持ちを想像しすぎて、コミニュケーションうまくできなくなる青春時代のたくましい想像力をホラー小説化としたらこんな感じになるだろう。
 タイトルの「仏」の使い方がとてもうまい。

「猫の檀家さん」小島パブロン

「猫の檀家さん」小島パブロン

 

 春眠暁を覚えず。

 穏やかな季節は眠りを誘います。

 春の温かい日差しの中で、住職は、今日も縁側でうつらうつらとしていました。

 誰かが来る、なんて心配は、この寺には一切ありませんでした。なぜなら檀家は、もう一人もいなかったからです。

 この寺を訪れるものは、誰もいません。

 前の住職のときには、この寺は大勢の檀家を抱えていました。先代の住職はまめで、冠婚葬祭はもとより、とかく檀家の人に何かちょっとしたことがあっては、すぐに直接出向くような気配りようで、ある檀家が具合が悪いと言っては、精のつくものを届けやり、またある檀家がお金に困ったと言っては、工面して何とかしてやり、そして山向こうの檀家の子で勉強ができない子がいると聞いたら、山を越えて読み書きを毎週教えに行っていました。

 当時のお坊さんは、単にお葬式でお経をあげるだけでなく、村一番の学者であり、医者であり、そしてその村の「世話人」だったのです。

 しかし、この今の住職ときたら、葬式でお経をあげる以外は何もすることなく、昼から酒をあおりうつらうつらとしていましたので、檀家たちは次第に離れ、みな隣村にある寺の檀家となり、やがて誰もいなくなったのでした。

 当然寺は荒れる一方です。境内の石畳の間からはぺんぺん草が生え、掃除をしないので床は埃まみれで歩けば足あとが付くほどです。そして古い畳は湿気を帯びて、やがて腐っていきました。

 しかしそんなこととは関係なく、今日も、のどかな一日がゆっくりと時を刻み、過ぎて行きます。

 そこへ一匹の猫が来ました。のそのそとやってくるとけだるげに縁側によじ上り、住職の横に来ると、これまた住職に合わせてうつらうつらやり始めました。

 住職は気配を感じ、薄目を開けその猫を確認しました。

 その猫は、この寺に住む猫でした。そして言うなればこの寺唯一の「檀家さん」でした。

 いつ頃からか知りません。そう住職がこの寺に来た時分から、この猫はいました。そしていつもこの縁側で寝ていました。灰色のきれいとは言えない毛並みで、ふてぶてしい態度でいつもそこにいました。先代も大事にしていましたが、この住職もこの猫だけはとても大事にしました。

 そして、この住職がする一日の仕事はこのぐらいでした。

 その猫の飯を作ってやって、それを出す。その日課だけは欠かしませんでした。ただしそれは猫にせかされるから、というだけ。

 住職は、面倒くさそうに重い腰を上げると、いつものように土間へ行き朝餉(あさげ)の残りを適当に茶碗へ放り込むと、猫に差し出しました。

「さあ……」

 猫はまたいつものように、その「さあ……」が言い終わらない内に茶碗に顔を突っ込んでいました。そして顔を上げることなく、一気に平らげてしまいました。

 また、住職もその姿を見ることなく寝入っていました。わざわざ見るまでもなく、それはいつものことだったからです。

そして、またいつも穏やかな時間が流れるはずでした。すると。

「ああ~あっ!」

 突然、人のあくびのような声が聞こえてきました。

 住職は驚きました。

 誰もいないのに人の声がしたから当然です。

「坊様、日に日に飯が貧相になっていきますなあ。」

 その言葉の先には、猫の憎らしい顔がありました。

「すまんな。檀家もいない。自分が食べるのもやっとじゃ。」

「そうでしょう。これでは坊主丸儲けならぬ丸つぶれ……。」

 猫の生意気な口に、住職は、たしかに最初は驚いたものの、以降は余り不思議さを感じませんでした。最近はお酒を飲み過ぎているのか、夢の世界なのか、現実の世界なのかがよくわからなくなることが多くなっていたので、きっとここは夢の世界であろうから、猫も人の言葉を話してくるだろうなどと、一人合点していました。

それよりも、猫の減らず口がいら立ちます。

「金もないのに、昼間からお酒とは……いやはや。」

 猫は、にやにやしながら言います。

「猫も世話できずに、仏の世話もできないでしょう。」

 ここで住職は、堪忍袋の緒が切れました。

「おまえは誰に今まで養ってもらったんだ。その恩、忘れたか。」

 住職は、猫を怒鳴り付けました。

 猫は肩をひょいとすくませてばつが悪そうな顔をすると、しっぽを ぱたぱたと左右に振りながら、さらに続けます。

「ご恩は忘れもしませんよお。特に先代の坊様には大変よくしてもらった。私は親を知りません。草むらで目も開かずみゃあみゃあやっているのを先代の坊様は取り上げてくれて、そりゃあ助かりましたよお。」

 猫が、自分のどなり声を意に介さず、余りにゆったりと間の抜けた調子で話すので、住職はすっかり怒る気力もなくなりました。

「しかし、この寺の住職が坊様になってからは、ロクなものをいただけていませんな」

 住職は再び腹が立って、また猫を怒鳴ろうとしました。しかしその言葉をさえぎるかのように、猫はすっくと立ち上がりました。

「いえいえ、お世話はもう十分。お暇(いとま)をさせていただきたいのです。」

「どういうことじゃ。」

 猫は周りをゆったり見まわしながら、こう言いました。

「お世話になったおかげで私も、とてもとても長生きし過ぎて、こう妖(あやかし)となりました。言いましょう、年取った猫は化けると。つまり『化け猫』です。こうなってしまっては、私は人の世界に住むことはできません。このように猫も人の言葉を聞き、そして話してしまう。さらに……。」

 猫は続けました。

「こう妖となりますと不思議な『力』が身についてしまうようです。何と申しますか全身に目がついたように、全てのものが見えるようになったのです。前もそして後ろも……。それだけではありません。明日や明後日や、もっともっと先のことが見えるようになったのです。たとえば……。」

 猫は自分のえさの入った茶碗を、さびしそうに覗き込みました。

「この飯も、もう最後でしょう。」

 図星でした。

 実は一週間前に托鉢(たくはつ)、というかただの物乞いで、近所のお百姓から分けてもらったお米ももうなく、明日食べるものがありません。あるのは酒と少々の大根の葉だけだったのです。

「ですからお暇しようと……。私の食べるもので坊様にご迷惑をお掛けするのはしのびない。もうここへは参りません。」

「……。」

「妖になったら、人間の言う『恩』というものも分かるようになったようです。ただの猫のときには及びもつきませんでしたが、今は、これまでのご恩をいたく感じ入ります、もう私のえさで、迷惑をかけるわけには参りますまい。こう考えまして、私は今日、それを言いに来たのです。私は猫。私は私で、これからはすずめや家守(やもり)でも捕ってやっていきます。」

 住職は、猫が余りに殊勝なことを言う一方、自分が猫のえさも出せぬほどに甲斐性がないため、大変情けない気持ちになり、自然と首がうなだれました。

 猫は、そんな住職の姿を認めて、自分の言いたいことを言い終わるとひょいと縁側から地面に降り立ちました。

「そう、坊様。」

 地面から縁側に座る住職を見上げつつ、またも猫は話しかけてきました。

「最後に、今までのご恩を返しとうございますな。」

「何を猫が……。」

 住職は苦笑いをしました。

「この村の西に庄屋様のお屋敷がある。そこの娘さんが今重い病で臥せっております。」

「なぜそれを知る。」

「ですから見えるのです。さらに……。」

 猫は目の中の瞳を大きく見張って言いました。

「一週間後に、その娘さんはなくなります。」

「それも見えると言うか?」

 住職のことばを無視して、猫は話し続けます。

「その後葬式がございますから、坊様、来てください。そうしたら庄屋の娘の葬式ですから、お布施もたんまり入りましょう。これで明日の飯の心配もなくなります。」

「なんと……」

 住職は軽く一笑しました。

「やはりけだものの浅はかさよ。『力』があっても浅薄なことだなあ。庄屋ほどの金を持っている者が、どうして葬式に、この貧乏寺のこんな粗末な坊主を呼ぶだろう。第一、あれは隣村の大きな寺の檀家じゃ。その娘が死ぬとわかっても、わしはどうしようもできない……。」

「いいえ、ですから私に一計がございます。葬式の日、娘さんをお墓に埋めるために長い列が山に向かいましょう。その時私が陰から、棺おけがお墓に向かうすきを狙って、その棺おけを宙に浮かすのです。何、私は『妖』ですから、そんなこともできるのです。空高くまで宙に浮かせてみましょう。したらきっとみんな慌てるでしょう。大事な仏様がどうなるか、はらはらと心配するでしょう。で、そこへ坊様が来られる。そしてお経を唱えるのです。えいっとか何とか。まあ、法力(ほうりき)を発揮するような真似ごとをしてください。それを聞いたら私は、棺おけを宙からすうっと降ろします。そうしたら庄屋もその周りの者の坊様に感謝するでしょう。そしてこれは徳のある僧よ、ということになり多くの礼金を……」

「そんなわけのわからない話、信じられると思うか……。」

 いぶかしがり、言葉を捨てるように吐く住職を前に、猫は思わず黙りました。

 「……しかし……お前の恩返し、本当だったらありがたい。まあ乗っかって話を聞いてやろうじゃないか。では、わしはどうしたらいい。まさか呼ばれもしない葬式に行くわけにはいかないじゃろう。」

 猫はまた話し始めます。

 「その娘さんの葬列は、この村の西にある川べりの道を通ります。ですから午(うま)のときぐらいにその道の辺りを歩いていてください。葬列にたまたま出会ったという塩梅で……。」

 猫は言い終わると、住職に背を向けて歩き始めました。

「そうそう。坊様は葬式くらいしか面倒くさがってやらない、そんな坊様へ、私が考えたのがこの『恩返し』なんですよ。では一週間後。待っております。絶対うまくいきますよ。では……。」

 猫はそう言い残すと、草の茂みの中へと立ち去っていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 猫が立ち去ってしばらくすると、住職は静かに、まず自分が酒を飲み過ぎたことを反省し始めました。

 猫が話した内容もそうですが、そもそも、よくよく考えてみれば、猫が話していること自体が全くありえないことです。こんなおかしな出来事は、きっと酒を飲み過ぎて、酔って夢を見ていたとしか思えません。そして住職はそう思い込むことで、自分を納得させました。

 これは夢なんだ、これは夢なんだと。

 そう自分の中で繰り返すことで、話が一件落着すると、住職はその「夢」を消し去るつもりで立ち上がりました。しかしそれに反して、住職の体は大きくよろめいてしまいました。

 ほらやっぱり飲み過ぎだ。こりゃ、いかんいかん。

 酒を飲み過ぎて夢かうつつかわからなくなるのは、いつものことです。

 住職は体勢を立て直しつつも、酒に飲まれた自分の情けない姿に、ひとり苦笑いをしました。ちょうどそのときでした。

 かつ。

 住職の、右足のつま先に、固い何かが当たりました。

 見ると、それはあの茶碗でした。

 そう、たしかに猫は、この茶碗でえさを食べ、そしてその後猫は、住職に話しかけてきたのです。

 そう思い直すと、今度はさっきまでのことが、住職の中に急にはっきりとよみがえるではないですか。合わせて、住職の頭の中に、あのときの猫のことばが思い出され、繰り返されました。

 先ほどのあれは、実際のことだったのだろうか。

 あの化け猫は、ここで「奇妙な恩返し」を本当に約束したのだろうか。

 住職は、今度は、さっきのことが本当に起こったことのように思えてきて、次第に妙な体のこわばりを感じました。

 「一週間後、村の西の庄屋の娘が亡くなる……」

 住職の頭に猫のあのときの言葉がまた繰り返されます。

 こうなると、猫はたしかに恩返しを約束してくれたのだと、住職は思わざるをえない気持ちになりました。

 そしてそのとき、猫は、たしか最後に、こうも言いました。

 「坊様は葬儀しか面倒くさがってやらない。」そんな坊様だからこうした「恩返し」を考えたのだと。

 住職は、頭の中で繰り返されるその猫の言葉に、「いや……」と否定をすると、やがて、さみしく笑いながら、杯に酒を注ぎ始めました。

 

 

 

 人は、死んだらおしまい……。

 こんな悲しい気持ちにとらわれるようになったのはいつからだったのでしょうか。しかし、いつしかその気持ちが住職の胸にいっぱい満たされ、そのときはもう気付いたら、毎日酒を飲み、満足に住職としての仕事をしなくなっていました。

 あの猫は知らないでしょうが、この寺に来る前、住職だって実は、若い修行僧の頃は多くの檀家さんにやさしく接する僧でした。あの頃は仏の道をただひたすら極め、多くの苦しんでいる人や悩んでいる人を仏の力で救いたいという気持ちを、強く熱く持っていました。

 修行先のお寺では、お経の研究はもとより、病気を治すおまじないや雨を降らす方法など、いろいろなことを貪欲に学びとりました。

 仏の教えには、死んだ人を弔う他、病気を治したり、人を災難から遠ざけたりする。そういう術(すべ)がたくさんあったのです。

 そのときの、若い住職には、多くの人のいろいろな苦しみを救うために、そうした仏教の全てを学びとろうという情熱がありました。ですから、当時その寺では、一番熱心に勉強する者として、その寺で一番偉い僧正にほめられたこともありました。

そんなある日、ついに、その修業の成果が試される日がやってきました。

 その寺の檀家のお母さんが急に熱にうなされて、床に臥せってしまったのです。

 その寺の僧正は、当時一番修業を積んでいる、若い住職を連れて、その檀家のところに行きました。

 急いでその家に向かうと、玄関先で待ちわびていたであろうその檀家の男が、取り乱しながらも、うやうやしくその僧正と住職を出迎え、お母さんが寝込んでいる部屋へそそくさと案内しました。

 見れば、熱があるのか真っ赤な顔をし、玉のような汗をとめどなく流し、苦しそうな顔をしています。そして余りの苦しさの余り、食事はおろか話すこともできない有様です。

 そのとき若い住職は、何とかこの人を救ってあげたいと思いました。

 また仏は、この家はとても信心の深い檀家さんであったので、必ずご慈悲をお与えになるに違いないとも思っていました。

 早速、僧正と若い住職は護摩を焚くと、仏の力によって、そのお母さんの中にいる病を祓い(はらい)きろうとしました。目の前で立ち上がる火の前で、若い住職は僧正の横で、必死の思いでお経を唱え続けます。

 早く良くなってほしい……。

 そんな気持ちだけが若い住職を突き動かしていて、もうそれ以外のことは考えられません。また、必ずやこの本願は叶えられるという確信に近い気持ちが、若い住職のお経を上げる声をますます強くしました。それは、仏を信じる力の強さでもありました。

 時間の経つのも忘れて、僧正と共に病を体から消し去るための経を、読み続けました。

 そうしていると、いつしか朝になっていました。外は白々としてきて、やがて遠くから鳥の鳴く声が聞こえてきて、また夏だったので、それを追うかのごとく蝉の声が降り注いできました。

 そのとき二人はまだお経を読んでいました。

 額から、汗が滴り落ちます。

 しかしそのお母さんはよくなるどころか夜よりもっと悪くなっているようです。

 熱で赤くほてっていた顔はいつしか青ざめ血の気が引き、荒々しく吐かれていた息もやがてとぎれとぎれとなり、息を吸っているのか吐いているのかもわからなくなっていきました。滝のように流れていた汗もいつしか引き、お母さんは、夏にも関わらず、やがて細かく震えだしました。

 そしてしばらくそうあって、突然急に小さくうめくと、お母さんは、やがて動かなくなりました。

 その瞬間、ぴたりと僧正も読経を止めました。驚いて、若い住職は僧正の方を見ました。

 「もうしまいだ……」

 僧正は若い住職にこう小さくつぶやくと、檀家の家族を呼び、そのお母さんが亡くなったことを淡々と告げ、すぐ葬式を挙げる準備をするように言いました。それは、横でうろたえているばかりの若い住職の一方で、とても手際よく行われました。

 その檀家の家族は、僧正と住職に泣きながらお礼を言うとお金を包んで渡し、葬式と、亡くなったことを村々に告げる準備をするためにか、蜘蛛の子を散らすようにいなくなりました。

 その中で、お母さんを救うことができなかったことに対して、若い住職は肩を落としました。そしてその命を救えなかった気持ちを、何とも整理できずにいました。一方そのかたわらで、もらった礼金をしまいこみ、とっとと帰り支度を済ませた僧正が住職を促すと、住職は放心して抜け殻のようになりつつも、やっとの思いで帰り道を辿りました。

 さて以後は、「これの繰り返し」でした。

 この後も多くの檀家さんを救おうとしましたが、結局どんなに一生懸命にお経をあげても、助かる人はおらず、甲斐なくみんな死んでいきました。それに悲しむばかりの若い住職に、そんなとき、僧正はこれを「寿命だから仕方がない」と言いました。けれども、若い住職はちっとも納得がいかず、ただ悲しみが深くなるばかりです。

 以降、日増しにむなしさが強くなりました。

 そして何と、ついには「仏は救ってくれないのだ」と、住職は悟るようにさえなってしまいました。

 死ぬものは死ぬし、どんなにお経を唱えても、何をやっても、それを仏は助けてくれないのですから。

 果てには、どんなに頑張っても、仏は苦しんでいる人を救ってくれない、仏を信じない、という境地に、住職は、なんと至ってしまったのです。

 しかし、もちろんこんなことは、周りの僧には言えません。仏に仕える身である自分が、こんなことを言ったら大変なことになります。ですからこれは決して誰にも言いませんでした。

 しかし、絶対言いませんでした……けれども、それは思わず住職の態度に顕れてきていました。

 このときには、自然と修行も手を抜くようになり、儀式として決まりきったことを、ただ形だけやりさえすればいいと考えるようになっていました。しまいにはお経も、どうせ素人が聞いても何を言っているのかわからないのだからと、適当に唱えるようになりました。

 何だか、今まで頑張っていた自分が馬鹿らしく嫌になってきていたのです。

 中でも、若い住職が自分自身一番嫌だったのは、僧である自分が仏を信じなくなっていたことです。そう思うと、自分が何のためにここにいて、またこんな大変な修行をしているのか意味がわからなくなり、悲しくなりました。

 ちょうどそのときでしょうか。若い住職は隠れて、仏の教えで固く禁じられている酒を飲むようになっていたのです。

お酒を飲むと嫌なことがすぐ忘れられるし、深刻な悩みが渦巻いていてもお酒はそれをかき消してくれます。そして少し楽しい気持ちにさせてくれたので、住職に嫌なことを考えさせないようにしてくれました。

 自分が毎日やっていることの無意味さに加え、それを誰にも言えなかったことが、若い住職にとって大きな苦しみとなっていました。そしてその苦しみを消し去るために、酒を飲んでいたのです。

 お坊さんは、酒や「生臭もの」をとることを修行上固く禁じられています。

 当然、こんな生活が修行僧として許されるはずがありません。

 そしてやがて、誰かの告げ口によって、とうとうこれが僧正にばれてしまいました。

 よく修行をした優秀な僧は、僧正から、大きな立派なお寺の住職に推薦されるのが普通ですが、僧正は若い住職に、そうした大きなお寺でなく、人里離れた小さな山寺に行くように言い渡しました。それがこのお寺だったのでした。

 ここへ来てからの住職は、専ら「葬式のお経あげ」だけを、やるようになりました。

 厄除けや病除けの護摩焚きなんて、頼まれてもまっぴらごめんです。どうせやっても効かないのですから、むなしくなるだけです。どんなに頑張ってお経をあげても、病気の人が全く良くならず死んでいくなんて……。もう一切、住職は悲しい思いになるのは嫌だと思っていました。

 しかし、その点葬式は、「安心」です。

 死んでしまった人は、「もうそれ以上死なない」からです。その人が死ぬ際(きわ)が、その周りにいる人たちの悲しみの最高潮であるとしたら、死んでしまった者はもうこれからはそれ以上死なないのですから、この先、その人の周りの人に「新しい悲しみ」がさらに付け加わることは、ありえません。またその人がこれ以上悪いことになることもありません。

 「死んだらおしまい」なのですから。

 その点で、住職にとって「安心」だったのです。

 住職が「葬式のお経あげ」しか仕事としてやらないのは、こういう理由からだったのでした。

「やはり、けだものの浅知恵じゃ……。」

 そう言うと住職は軽く目を閉じ、その杯の酒を、またぐいっと口に放り込みました。

 

 

「おお、こりゃ、どうしたことじゃ。」

「うわー、やめてくれ。」

 庄屋の娘さんの葬列は、たちまち大騒ぎになりました。

 なぜなら、葬儀を終え墓まで行く途中で、その亡くなった娘さんが入っている棺おけが、何の力も借りず、すうっと天に昇っていき、やがて手の全く届かない、空高いところに上ると、そこでピタリと止まってしまったからです。

 庄屋の娘さんの葬儀に参加していた人たちは、わーわーと、上へ下への大騒ぎです。何せ前代未聞のことですし、なぜそうなったのか、みな理由がわからず、そして解決策もわからず、ただ騒ぐばかりでした。

 特に庄屋は、自分の娘のことですから、心配で心配でなりません。このままずっと娘のお棺が空中にあったら、墓に入れてあげることもできず弔うことができません。娘は往生することができないでしょう。そう考えると、庄屋は何としても、あの娘の棺おけを、空中から下へ降ろしたかったのです。

「だ、だれか、娘を降ろしてくれ。だれか……。」

 しかし、そうは言っても、誰の手も届かない頭上高くですから、誰もどうすることもできず、結局庄屋含めて全ての人が右往左往するばかりです。

 さて、どうしてこんなことになったのでしょうか。

 たしかにその娘の葬列は、厳かに、庄屋の家からお墓へ向かう途中でした。

 しかし、その葬列の前に、いきなり猫が飛び出してきたのです。

 そしてその猫が棺おけをぐっとにらみつけるや、それはなぜか宙へ浮かび上がっていったのでした。

「きっとあの化け猫の仕業じゃな…。」

 葬列の先にいた、この葬儀をしきるお坊さんは、冷静にこの状況を見ていて、看破したごとく、こうつぶやきました。

 一方猫は先ほどからずっと、葬列を道の中央で通せんぼして、宙に浮く娘の棺おけをじっとにらんでいます。

「何でもいいから。お、お坊さん、どうにかしてくれ、娘を降ろしてくれ。」

 庄屋はすっかり取り乱して、このお坊さんに泣きつきました。

「……。」

 しかし、泣きつかれたそのお坊さんも、化け猫の力で棺おけが宙に浮くなんて、今まで聞いたことも見たこともありません。

 状況を見ていて、この化け猫が原因、というところまでは薄々わかりましたが、宙に浮いた棺おけを一体どのように降ろしたらいいのか、全くわかりません。そして、そんな棺おけを降ろす呪文や、化け猫を退治するお経なんて、いまだかつて聞いたことがありません。

 このあでやかな法衣を着るお坊さんは、隣村の大きくて立派な寺の住職で、とても高い位を持つ僧でしたが、さすがにこの「難問」にはどうすることもできず、困ってしまいました。

 とそのとき、その葬列の後ろの、遠くの方から、あの住職がやってきました。

 あの猫に言われた通りに、住職はやってきたのです。

 そして庄屋の娘の葬列にいた一人が、その住職の姿を認めて、声を掛けました。

「ああ、そこに歩くお坊さんよ、困ったことになっちまって……助けちゃくれないですかい。」

住職は答えました。

「……どうしました……。」

「旦那の娘さんが入った棺おけが空に浮いてしまって降りてこないんで……、どうしようもねえ。どうにかならないかい……。」

 「どうしました」と聞きながらも住職には、そこで何が起こっているか、もちろん分かっていました。というよりもむしろ、その出来事に出会うために、住職は、猫に言われたように、この川べりの道を、半信半疑ながら歩いていたのです。

 しかし、いざ目の前で棺おけが見事に宙高く止まっているのを見ると、驚きました。

「ほお……たしかに、見事に空に浮いていますな……」

「なに、のんきなことを言ってやがる……しかし、そんなみすぼらしいなりで、大丈夫かねえ……」

 葬列にいた別の一人が言いました。たしかに住職は、この葬儀を仕切っているお坊さんのあでやかで立派な法衣姿と違い、擦り切れた袈裟をまとっているだけでしたから、貧相な身なりには違いありません。これには住職は、返す言葉がありませんでした。

 しかしそのとき。

「うん、うん、うん……」

 葬列の前方にいた、その立派なお坊さんが、あまりに庄屋にうながされて覚悟を決めたのか、なにやらお経を唱え始めました。

「この方は、徳の高い坊様じゃ。何とかしてくれる…。」

 庄屋を始め、葬列にいた全ての人々は、固唾を飲んで宙に浮かぶ棺おけを見守りました。

 しばらく、そのお坊さんはお経を唱えていました。

 今は真夏の暑い盛りです。

 大きな蓮の花の刺繍の入った法衣は幾重にもなっていますから、このお坊さんの額からは汗がとめどなくふき、目にも落ちていきます。しかし力強くお経を唱えていました。

 でも、棺おけは、その間ぴくりとも動きません。何の音沙汰もありません。

 お坊さんは焦りの表情となり、葬列にいた人々は失望の表情となってきました。

「なんとも……、ならんな……。」

「びくともせん……。」

「お経に効き目がないんじゃ……。」

 やがて、人々は口ぐちに勝手を言い出すと、それを聞いたのかそのお坊さんも、お経を止め、「申し訳ないが……、わしには、どうすることもできん……」と言うと、諦めてしまいしょんぼりしてしまいました。

 この立派なお坊さんのお経をもってしても、棺おけを空中から降ろすことはできませんでした。

「なあ……、こちらの坊様に頼んでみちゃあどうだい……。」

 葬列から声が上がりました。

「おおっ、そこの方。な、なんでもいいから、早く娘を降ろしてくれ……たのむ。これじゃ、娘がお天道さんの下で腐っちまうよ……」

 庄屋もようやくこのみすぼらしい住職の姿を認めて、泣き顔で駆け寄ってきました。また周りの人も、住職だけが頼りといった様子で、住職を見ていました。

「あ……、うん。承った……」

 住職は必要以上に神妙な面持ちをすると、猫にちらっと目配せをしました。そのとき、猫もうなづいたように見えました。

「あ、あ、えへん……。おい、猫。頼むぞ……なむさんまいだ~」

 住職は大声でお経をあげ始めると、庄屋や葬儀をしきるお坊さんを始め、葬列に参加した全ての人が不安げな面持ちで、中に浮かぶ棺おけを見つめました。「猫と住職のお芝居」であるということを知らずに。

 やがて……。

「お、おい今お棺が下がったんじゃねえか。」

「ああ、何か動いたぞ。」

「おおっ。下がった下がった。」

 棺おけは、たしかにゆっくりと、地面に向かって降りはじめました。

「……よかった。……よかった。」

 庄屋さんは、周りの人と抱き合って大喜び。やがて、歓声の中、棺おけは、無事に降りてきました。

「よかった……よかった……。坊様よありがとう。ありがとう。一時はどうなるかと……、安心したよ…・・・」

 庄屋は安堵の表情で、住職の手をとると、何度も何度もお礼の言葉を述べました。

 しかし、住職は別の意味で安心しました。全て猫との打ち合わせ通りにうまくいき、庄屋たちを見事にだませたのですから。

「坊様は身なりはこのようだが、きっと徳の高いお坊様なのでしょう……。お葬式が無事終わりましたら、気持ちだけですが坊様に礼金をお渡ししたい。」

「いやいや、礼には及ばない……。わが身は仏に仕える者ゆえ……。」

 かたちだけの断り文句を言いながら、住職は内心ではしめしめと思っていました。これも猫との話の通りです。思わずにやけてしまいそうになりましたが、そこは我慢我慢。ばれてはいけませんので、ぐっとこらえました。

「いえいえ、ここで功徳(くどく)を積まねば、娘も極楽往生に行けないというもんだ。是非お礼をさせてください。きっと坊様は、子どもを守る地蔵菩薩の化身なんじゃろう。だから娘を助けてくれたんじゃ。ああ、ありがたい、ありがたい。」

 庄屋は手を合わせ、そして周りの人たちも住職に手を合わせました。そして口ぐちに感謝と礼賛の言葉を述べるではありませんか。

 住職は、こそばゆい気持ちとだまして申し訳ない気持ちとが入り混じり、何とも言えない表情になってしまいました。

 ちょうどそのとき、向こうから若い男の怒号が聞こえました。

「このっ、いたずら猫めっ! 仏にいたずらするたあとんでもない猫だなっ!」

 見ると、がたいのいい男の大きな右手には、あの猫が、首をしっかとつかまれているではありませんか。あまりに力強く握られているせいなのか、ばつが悪いのか、しょぼんと情けない表情で、あわれ囚われの身になっていました。おそらく逃げ損ねて、捕まってしまったのに違いありません。

「旦那あ、この猫でさあ、悪さしたのは…」

 猫を見ると、庄屋は眉根を寄せ、とても不機嫌な顔になりました。そして……。

「うちの娘によくもこんなことをしてくれたなっ! 死人にいたずらするとはほんとひどい畜生だ! きっと前世は悪人だったに違いない。それで畜生道へ落ちたものだろう。ロクなもんじゃない。ねえ坊様…。」

「……う、うむ……」

 とっさに話しを振られた住職は、答えに窮しました。実はこの猫と話を合わせて一芝居打ち、いい思いをしようとしてたなんて、知られるわけにはいきません。でもふと、猫の悲しげな目と合ってしまい、助けられない自分に少し後ろめたさを感じました。

「その猫も……悪気があったのではないだろう……悉く生けるものを照らすのが仏……。離しておやりな……」

 住職の何とも歯切れの悪い、猫への弁護の言葉もむなしく、辺りには怒号が鳴り響きました。

「おう、この猫はお痛が過ぎたな。おいみんな、痛い目に合わせてやれっ。」

 猫をつかまえていた若い男は、若くて血の気があるのか、言うが早く、持っている猫を、何度も地面に、びたんびたーんと音が鳴るほど、たたきつけました。一方猫は逃げられず、なすがまま、ぶんぶんと振り回され、そして固い地面に、何かのもののごとく、たたきつけられ、どうすることもできません。

 そして、やがて放り出されると、その猫に、今度は多くの人が群がり殴ったり蹴ったりの大騒ぎです。猫はなす術もなく、踏みつけられたり押しつけられたりと、されるがままです。

 住職は、全くの計算外の展開にただうろたえてばかりで。助けることができません。いえ、助けたくてもできないのです。なぜなら、助けたら、猫との芝居がばれてしまうからです。

 ですから住職はなにもできず、ただただいたぶられている猫を黙って見ているだけでした。

 

 

 

 

 多くの人が猫をいたぶり始めると、住職の方から猫の姿が一切見えなくなりました。そして住職の前には、ただただ、多くの人たちの猫を痛めつける背中と、また猫をたたいたり蹴ったりしている際に出る湿った音がありました。

 もちろん住職は、猫を早く助けたいと思っていました。

 しかし、それをしてしまったら、猫の恩返しを無駄にしてしまうこととなり、またそれは猫も望んでいないはずです。ですからやはり、多くの人の輪の中に入り、猫を救い上げることができません。

 ただ住職も人間です。この「猫との計画」を決して周りに悟られぬよう、平静を装いながらも、しかし、完全に装うことができず、意とせず両こぶしをぎゅっと固く結んでしまいました。一方、その横では庄屋が、満足げに、うなずきながら見ています。

「おーい! この猫はくたばっちまったようだ!」

 やがて、その中の一人が大声を上げました。みんなの猫をいたぶる手が止まります。

「こりゃあ、ぼろ雑巾みてえだ!」

「こてんぱんにやった方がいい! ……中途半端にやると、化け猫だ。呪ってくるぞ!」

「おい、死んだのか? 本当に死んだのか、皮はいで見てやろう!」

 しかし多くの人の興奮と怒りは収まることがありません。そしてその火に、庄屋が油を注ぎます。

「こいつあ、娘の亡骸(なきがら)をもてあそんだ、ひでえ畜生だよ! 娘との別れのときを、こいつはめちゃめちゃにしてくれたんだ! 情けかける必要などありゃしない!」

 それに呼応して、また再び、多くの人が猫をいたぶろうとする、そんなときでした。

 庄屋の横から住職が脱兎のごとく走ると、その猫をいためつけている人の輪の中に入っていき、その猫をだき抱え大声で叫びました。

「……めろ! やめろ! ……やめてくれ!」 

 庄屋も多くの人たちも、一瞬何事が起きたのかと、呆気にとられました。何せ、住職が猫を助けると、だれも思ってもいないのですから。

「もう……もういいじゃろう……もう。お前さんたちは何が望みか…。このいたずら猫への罰か。それならこいつは、もう、十分過ぎるくらいに……、受けておるわ!」

 猫の目は薄く閉じていましたが、その奥にある瞳はかすかに宙を映すばかり。おそらく住職に抱えられていることもわからないでしょう。やがて、猫の口からだらしなく舌がのぞきました。

「見よ! ……この猫を! もうこやつに命はないのじゃ……。この世にこやつはいないのじゃ! ……これで満足か! お前さんたちは、……これで満足か!」

 住職のあまりの剣幕と勢いに、庄屋も多くの人も水を打ったように静かになって、押し黙りました。

「……よいか、こいつをこうしてなぶり殺して……、娘さんが生き返るならまだわかる……。しかし! この猫が一匹死んだところで、娘さんは生きかえりゃあせん! ……それとも何か。娘さんの大事な葬式を邪魔されて怒っている? 仏を弔わないとんでもないけだものに天誅か? そんなのは……娘さんの勝手じゃなくて、お前さん方の勝手だろう! いい葬式やって満足するのは娘さんじゃない! お前さん方だろうが! ……いいか『死んだらおしまい』、『死んだらおしまい』なんじゃ……。だから、猫に葬式邪魔されて亡骸を宙に上げられた娘さんだって、このことは知りゃあしないんだ……。死んだら、丁重に墓に入れられようが、糞と共に肥だめに入れられようが、本人にはわからぬことだ! 死んだらおしまい! おしまいなんじゃ……。」

「……あんた、それでも坊主かね……」

 庄屋は、住職を険しい目でにらみつけました。

 住職は、それを無視して話し続けます。

「死んだ人間が生き返ったことなんて、私は一度も見たことない……。ないんじゃ。死んだらおしまいじゃ。なーんもかーんも残りゃせんよ。この猫だって……、お前さんたちは罰を与えるためにやったんじゃろうが……、ほれ、見てみい……。この猫は、罪の意識を持つ前に、こときれたんだろうよ……。死んだもんに罰を与えて何になろ? ……極悪人の亡骸でも、お前さん方は、牢屋に閉じ込めて反省を促すというのか? いいか『死んだらおしまい』なんじゃ……。この猫ももう『おしまい』じゃ……、もう戻りゃせんのだ……。全部おしまいじゃ……。」

 住職が話す中、自然と目からは、ぽろりぽろりと涙が流れ出していました。

「なるほど……、合点がいったわ……。仏を愚弄する、このインチキ坊主めが!」

 先ほどの、住職に面子を潰された、きれいな法衣のお坊さんが、住職に言いました。

 庄屋が聞きます。

「どういうことですか。お坊様。」

「この化け猫とグルになって一芝居打って、礼金でもいただこうってわけだな。仏に仕える身でありながら、なんてことを……。」

「この乞食坊主が。とんでもんねえ! 人をバカにしやがって!」

 これを聞いて、多くの人もようやくことの真相を知って、怒り心頭です。

「この坊主はたぶらかしだ! 叩き出しちまえ!」

「猫と同じ目に遭わせてやる! 猫と同じ目に……」

 多くの人の罵声の中で、住職は猫をぎゅっと抱きしめると、鼻をすすり、おもむろにひょろひょろと立ち上がりました。

「で……今度はお前さん方は、わしを嬲り殺そうと言うか……。え……。わしが死んだら、気分はすっとするのかね……。それで、その後どうなるんかね……。いいか、『死んだら全ておしまい』だ。わしが死んだら、お前さん方の怒りは今度はどこに向かうのか……。わしが死んだところで、娘さんも猫も生き返らん……。むろん、わしも。死んだらおしまいじゃ……。そいつがどんなにいい人だろうが悪い人だろうが、何もないものは何もないんじゃよ。お前さん方もやがて死ぬ。……その後、こんな猫が棺おけを宙に浮かしたなんざ誰も信じないし、誰も何とも思わん。何もなかったのと同じことじゃよ……。『死んだらおしまい』『死んだらおしまい』おしまいじゃ……」

 住職は「死んだらおしまい」をつぶやきながら、正面をうつろな目で見やり、猫の亡骸をだき抱え直すと、静かに元来た方向へゆっくり歩き始めました。

 庄屋を始め、多くの人たちの輪は、住職が余りにも悠然と立ち去るので、ゆるゆるとそれはほどけ、やがて自然と住職を送り出す花道のようになりました。

 

 さてその後、住職は自分の寺に帰ると小さな猫塚を作り、その後の余生はその猫を弔うことだけに費やしたとのことですが、その寺がその後どうなったのか、またそもそもその寺がどこにあったのかは、今となっては誰も伝え聞いていません。

 


「猫の檀家さん」の選評

大友宗麟 

 和やかな昔語り……なんて、優しい文字運びに騙されてはいけない。
 のんびりとした山村に、見たもの、感じたもが価値観の全てを物語る、閉ざされたムラ社会の闇を見ることになる。
 物語は救い処のない、蓋の開け放れた井の中のような暗い独居感がするが、バランスに優れた軽妙な文章のおかげで滅入ることなく読むことができた。
 「死んだらおしまい」とは、人間の形成具合により受け取られ方が異なるだろう。「死んだらおしまい」だから生きていても仕方ないのだ。「死んだらおしまい」なればこそ今を懸命に生きねばならないのだ。
 それを図る尺度の一つに、猫の存在がある。猫が自分を支える導くもの、客体としてあるのか、果たして自身そのもの、主体であるのか。時を経て、立ち位置は変わるだろう。自らの生きる灯台と、物語は道を照らしているのだ。

モチヲ

「『童話からの逸脱』を評価」

 彼も北橋氏同様、前回の本賞受賞者であり、二回目の受賞である。
 前回の選評にも書いたが、彼とは旧知の仲であり、彼の素晴らしい部分もダメな部分もよく知っていると自負しているのだが、これを読んだとき、「何とまあ彼らしい」と思った。
 私が彼から直接聞くところによると、彼がこれを書いたきっかけは、「知り合いの国語嫌いの小学生に、国語の面白さを伝えるために書いた」とのことで、前回受賞作に先駆けて書いたものであると言える。そして、子どもに読ませるために昔話や童話の体をとった作品を書いたのであろう。
 つまり彼にとって、童話的な作品はこれが最初であるわけで、私はこれを聞いたとき「彼に子どもに読ませる童話など書けるのか」と不安に思ったが、その嫌な予感は的中で、読んでみるとやはり書けていないようである。これは童話の体をとっているが、童話の概念や規則から逸脱しているのである。……これが彼らしいところだと私は思うのである。
 彼は以前から「(小説は)ダメ人間について書きたい」と言っていた。彼は町田康とか好きなのだが、「(町田氏の作品のように)ダメ人間が生きていって、とどのつまりどうなるのかを書きたい」と言っていた。それは「自分がダメ人間である」というコンプレックスに端を発しているようだが、その辺の事情は措いておいて、この作品を見ると、主人公の住職に、彼のダメ人間観が反映されていると言えなくもない(それが意図するものか、偶然かはわからないが)。だから、彼らしい作品になったのだろう。
 結論から言うと、この物語は、ただ住職が、自分の中にあるニヒリスティックで後ろ向きな人生観を、どんな出来事に応じても変えることなく、愚直に守り切った。ただそれだけの話である。ドラマティックに何か進んでいるように見えて、住職自身は何も変わることなく、やっぱりダメな破戒僧として一生を終えたのである。
 猫との出会いは、本当は住職の人生においては勿怪の幸いだったのである。しかし、その経験とチャンスを活かしきることなく、またそれに影響されて人生観を変えるでもなく、「ダメなもんはダメ」「死んだらおしまい」と頑なに言い続け、一生を終えたのである。愚直、不器用と言えば言葉はいいが、酒に身をやつす破戒僧なわけだから、結局は、堕落というのが正しい。住職は、その堕落から這い上がることができなかったのだ。
 彼は受賞以前に、この作品を自分のホームページ上でアップしているのだが、その際読者から「この住職はこの猫から何を得たのか」という感想の弁をもらっている。彼に代わって私がこれに回答するなら、この住職は、この猫どころか、全ての人生経験から何も得なかったし、ただ若き日の挫折を慢性病のようにこじらせてそのまま終わった、つまらない男だ、だから何も得ていない、ということになるだろう。
 これを、人間の業(カルマ)などともっともらしい理屈をつけて評論することもできるが、彼が、想定内か想定外かは知らないが、この作品で自分の考えるふさわしいダメ人間を表現してしまったことこそがここでは注目すべき点なのである。
 よくまあ、こんな「不健康な内容」の話を子どもに読ませようとしたものである。童話とは、良くも悪くも、ある種の教条や教説を持つ。しかし、その肝心の童話のアイデンティティーに欠けている。こんな話では、読んだ子どもは何も学ぶことはないし、こんな住職のような人間を学ばれても困るというものだ。
 何かぼろくそ言ってしまったが、これは、彼と私の知らざる仲の成せることとして、お許しいただきたいが、最後にもう少し皮肉を加えるとすれば、こんな童話まがいのものを「童話です」と言い切る(彼のホームページ上などで言っている)彼の図太さだけは評価したいものである。こんな童話から逸脱した童話は、彼の描写する「ダメ人間」に比肩する「ポンコツ童話」であると言わざるを得ない。これもまた小川未明などと同様の「童話」であると彼は嘯くのだろうか。


佐藤家清

 まず文章がうまい。基礎がしっかりしていて話運びもうまいので、落語や、子ども向けの童話を連想して読んでいると、最後に民衆の狂気、住職の狂気にしてやられる。とんでもない怪奇小説。
 「猫の恩返し」と「重い病気にかかった庄屋の娘」と来たら、本来は婚姻譚の方向に向かいそうなものだが、庄屋の娘がそのまま死んでしまう時点で、「おや?」とは思ったけど、ここまでの変化球はなかなか想像つかない。
 民話としての世界観がしっかりしてるから、魔法的なものがでてきても違和感がないし、昔話のパロディとしても秀逸な作品になっているが、パロディなんて言葉で終わらせない作者の迫力を感じさせる。
 また神や仏はいないし、化け猫がいたとしても、しょせんは化け猫のやることでしかない世界観のドライさというのが一周して心地よさすらあるのが、この作品が「物語」として優れている証拠だろう。

「時をかける脱衣」遠藤玄三

「時をかける脱衣」遠藤玄三

 

 

 その歩みは異様にスムーズであったという。

「ありゃあ達人の動きだったね。けンどもあんまり自然だったろ、見逃しちまって」

 そしてその場の誰もが異常だと認識できぬまま、

「足をこう――軽く動かしただけ、みたいな感じで」

 それだけで飯坂雄大(21)の身体は気付けば宙に浮いていたという。

 当人がそれを認識する前に、やや小柄といえる体躯の男は飯坂のものである半分湯に浸かったタオルを拾うと迅雷のごとき一閃、小気味よい音と共に飯坂の身体は吹き飛び、浴場の床を滑った。

 この段に至って温泉に浸かっていた地元住民三名が事態を認識、ひとりが同じ『使い手』として今の行為をやりすぎだと咎めようと男の肩を掴み、次の瞬間には顔に巻きつけられたタオルによって視界を奪われていた。

 生まれた隙を逃さずこめかみへの一撃が意識を刈り取り、膝から崩れるように湯に浸かりなおす渋風儀一(57)を見て、大笠清吉(79)と海道信平(79)は相手の力量を悟ったという。

 とはいえ二人とも戦前生まれ、老骨なれどここで退くは日本男児の名折れなりと闘志を滾らせ、しかし同時にこの状況での最善手を模索していた。

 信じがたいことだが、目の前に立つ男が自分たち二人よりも格上であることは間違いない。生まれてこの方この街に暮らし、数多の使い手を見てきた彼らが知らない顔が、である。

 これはもしや『のぼせた』のだろうか。

 伊達に長く生きてはいない、何度か『のぼせた』奴らは見てきた、しかし目の前で対峙する経験は――――流石に初めてだ。素人の自分らが下手を打てば死ぬかもしれない。どうするか。

 高まる緊張の中、七十年来の親友はほぼ同時に答えを見つけ出す。撤退戦だ。

 二人で攻撃を受け止めつつ隙を見て片方が身体を拭いて、扉の前で倒れる若者を踏み越え、脱衣場まで逃げ切って助けを呼ぶ。それしかない。

 この戦術を取れば片方が犠牲になるのは見えている。しかし躊躇する時間はなく目と目で合図するが早いか阿吽の呼吸、タオルを首にかけると二人はとても喜寿を過ぎたとは思えぬ身のこなしで湯から飛び出るや否や、着地したときの足元の滑りを利用して置いてあるかけ湯用の桶を掴み、逸物を巧みに隠しながら低く構える。

 湯けむり真拳桶の型、『玉壁』の構えであった。

 対して、男は自然体で温泉から上がってくる――――前を隠そうともせずに。

 流派最大の禁忌を侵さんとする男に大笠と海道は驚愕し、しかしそれは更なる驚きに上書きされる。

「なんと……!」

「これは……!」

 予想だにせぬ光景に動揺が走る。見せ付けられた格の違いと立てた戦略が瓦解したことに慄く身体を抑えて、海道は囁いた。

「セイちゃん、逃げろ」

 思わず目をぎょろりと動かして隣の知己を睨む大笠。対して海道は視線を外さず、

「ありゃバケモンだ、隙なんかねぇよ。だったらオレが残ったほうがいいだろ」

 そう言って空いている手を差し出す。長い付き合いゆえにその意味するところを即座に理解した大笠は逡巡の後桶を手渡した。

 海道の構えが変わる。湯けむり真拳桶の型、『双月』の構え。両の手に構えた桶により防御力においては他の追随を許さぬ型であり、桶の型を得意とする海道の最も自信のある型であり、

 そして、両手が塞がる故にタオルを扱うことが不可能になる型でもある。

「十五、いや十秒が限界か。とにかく凌ぐ。後は任せたぜ」

「――――おうよ」

 それだけの言葉を交わして、二人は動き出す。大笠はタオルを固く絞りつつ濡れた床でも滑らぬ湯けむり真拳独特の歩法を最大限に生かして脱衣所へ、海道はまるで自分たちを待つかのように動かなかった、自分よりは若いが十分年寄りといえる男へ。

 数瞬の後、海道の呻き声と共に飛来した桶が自分を追い越していく。それでも振り返らず、タオルを固く絞り身体を素早く拭いていく。

 海道信平が持ちこたえると言ったのなら、持ちこたえぬわけがないのだ。

 ずいぶんと古い記憶が蘇る。そう、あれは確か――――

 

 

「――――ここからは昔の思い出が走馬灯のように蘇るシーンですがどうしますか?」

 古鏃温泉郷、その中でも四番目の老舗、江戸からの由緒正しき温泉であり、三度の改築を行った今は昭和のレトロな雰囲気を色濃く残す『さらき屋』の待合室。

 穴川鈴花(24)はここで語りを止め、隣に座る古鏃市湯あたり課長松憲三(49)にこの先を語るかを問うた。

「あー、いい、いい。それよりちょこちょこあるぼやかされてるシーンね、そこもうちょっと何とかなんなかったの」

「すいません、どうしてもドラマチックになってしまって」

「あー、まあいいよ。その人たちはみんな既に助かってるんだよね?」

「そうですね。脱衣所まで蹴り出されてたそうです。そっちの証言も聞きますか?」

「いやいいよ。えー、横紙さん、お宅の旦那さんですけれども」

 いきなり名前を呼ばれて、二人のやりとりを前にソファーに座って手持ち無沙汰に麦茶を飲んでいた横紙りん(53)はびくりと身体を震わせた。

「どうやら『湯あたり』を起こされましてですね、えー、湯けむり真拳にですね、覚醒なされたようなんですね」

「は、はあ」

「それでですね」

「あの」

 なおも説明を続けようとする松を遮って、横紙が口を開く。

「さっきから出てくる『湯けむり真拳』ってのは一体なんなんでしょうか」

「あー、ご説明いたしますとですね」

 足元の鞄を持ち上げ、『古鏃市役所』というシールの貼られたノートパソコンを取り出す。手早く操作すると横紙に画面を向けた。

「こちらの動画をですね、まずはご覧になっていただければ」

 訳も分からぬまま、横紙はエフェクトの端々に前世紀特有の安っぽさの見える七分ほどの動画をぼんやりと鑑賞する。

 最後に『制作:古鏃市広報課』の文字が表示されたところでノートパソコンは閉じられ、

「えー、今ご覧いただいたようにですね、湯けむり真拳というのはですねー、えー、古くからこの地に伝わる『温泉』での戦闘を前提にした武術なんです」

「はあ」

「VTRにあったとおりですね、えー、小学校なんかでもですね、基礎を教わったりする、この辺では非常に身近な武術なんですけれども」

「はあ」

「なんでこれを学んでるかというとですね、えー、失礼ですが横紙さん、梅こぶ茶が嫌いとかありますか」

「……いえ、ないですけど」

「そうですか、では」

 松がぱちりと指を鳴らす。穴川が露骨に嫌な顔をした。

「えー、横紙さん、その麦茶飲んでいただけますか」

 ぽかんとした表情のまま横紙はコップを口に近づけ、

「え?」

 そこで異変に気付いた。鼻をつく香りが麦茶のそれではない。

「えー、お気づきになられたと思いますが、その麦茶は既に梅こぶ茶にですね、変化してると思います」

 一口啜ってみる。香りだけではない、確かに味も梅こぶ茶。

「実はですね、えー、それは私の超能力によるものなんですね」

 真顔で言い切った。ごく当然のこととして言い切る様に、横紙も何を言い出したかは分からないがかくりと頷くより他にない。

「えー、あまり公にはなっていないんですが、ここら辺の温泉にはですね、えー、何か特殊な成分みたいなのがあるようでして、えー、体質が合う人にはですね、『湯あたり』と言うんですが、超能力が目覚めることがあるんです」

 なおも真顔である。横紙も頷く。頷くより他にない。

「それでですね、まあ初めて超能力に目覚めるわけですからですね、えー、つい暴走してしまう人も出てくるわけです。この辺では『のぼせる』なんて言うんですが、えー、そういった時にですね、最低限身を守れるようにしようというのがですね、湯けむり真拳というわけです」

「…………はあ」

 訳がわからない。

 横紙の顔にははっきりとそう書いてあるが、松はそれをあえて無視した。前任者からの引継ぎ資料によれば、50代を過ぎるとどう説明しても理解度は急激に落ちるらしい。

「それで、主人はどうなるんでしょうか」

「あー、はいー、その件についてですが」

 ちらりと視線をやると、穴川が書類を取り出して口を開く。

「まずご主人様ですが、おそらく湯けむり真拳の素質に開花したのだと思われます。この場合、市の条例でその結果生じた被害及び損害については全て市が負担させていただきます。また、能力の発言からあまり時間が経過していませんので、一旦温泉から離せばクールダウンすると判断し、湯あたり課が対処いたします。つきましては」

 『湯あたり者取扱許諾確認書面』と書かれた書類と、『古鏃市湯あたり者取扱方針』左上をホチキスで留められたちょっとした束が横紙の前に置かれる。

「こちらの書面にのぼせられました方への対処時の市の方針等記されていますのでよくお読みいただきまして、サインいただければ」

 そこまで一息に言って、横紙がまたも呆然としているのを見やりつつ自分のコップに口をつける。よく冷えた梅こぶ茶の味が広がる。顔を顰めるのを辛うじて我慢する。

 狙ったものだけを変えられない課長の能力の無差別性に腹を立てつつ、横紙がよく分からぬままサインをするのを確認して安堵した。

「ありがとうございます」

 素早く回収する。増えすぎた条項のせいで今や改訂をきちんとチェックされないのをいいことに、『とにかくサインしてしまったほうがよさそうだ』という気にさせる為の分厚い書面である。しっかり読まれると結構無茶苦茶書いてあるから困るのだ。

「えー、それではですね、担当者がこちらに向かっておりますので、えー、到着するまでしばらくですね、お待ちください」

 その発言に横紙は少々驚いた顔をして、

「担当者さんは別にいらっしゃるんですか」

「あー、それはですね。旦那さんの湯あたりが不明でしたので、一応最高戦力である私が出向いてきたんですけれども、湯けむり真拳のですね、えー、習得ということでですね、私でなくてもなんとかなるということでですね、さらき屋さんのほうから要請がありましてですね、えー、湯けむり真拳担当の者で対処させていただくことになりまして」

「……最高戦力、ですか」

「恥ずかしながら」

 梅こぶ茶が最高戦力というのは恥ずかしいでは済まないのでは。

 喉まで出かかったその言葉を横紙はなんとか飲み込んだ。頼りなくとも専門家というのだから、きっとどうにかしてくれるだろう。いや、しかし専門家というのは案外――――

(ああ、また回想に引っかかった――)

 面倒なのでそこで『読む』のを中断し、穴川は表情には出さずに苛立つ。

 彼女の湯あたりは『相手の記憶や思考をドラマチックに読む』能力。視界にいる相手であれば誰であろうと即座にその人物の思考や記憶を読み取ることができるが、長所とも短所ともいえるのがその脚色具合である。

 それらは彼女の脳内に文章として、それも盛り上がりを重視した形で再現される。そのため長い回想や不自然にぼかされた記述が時として登場し(どういうわけか、リアルタイムで思考を読み取ってもそうなる)、穴川を悩ませることになる。

 冒頭の件も穴川が大笠の記憶を読んだものであるが、あの後には彼らのエピソードが三篇も収録されている。しかしそれらを書くには余白が足りない。

「すいません、遅くなりまして!」

 まさにその時、である。

 ぺたぺたとスリッパの音を鳴らしながら、一人の男が現れた。全員の視線が彼に集中し、横紙の表情が今度は隠しきれない不安を示した。

 声も動きも若々しく、まだ二十代のフレッシュさを残している。そこまではいい。問題は格好だ。スーツにグラサンに野球帽、胸には『古鏃市湯あたり課 李下 新次郎』の文字。左腕に腕時計、右にはリストバンド。さらに軍手をはめており、明らかにそれと判る付け髭をつけている。だがなぜスリッパの下は裸足なのか。

 社会人として、というか社会的動物として致命的に間違っているその格好を、しかし市職員の二人は平然と受け入れる。「状況は?」「はい、『 その歩みは異様にスムーズであったという。』……」

 再び冒頭から語り始めた穴川の話を、李下は頷きながら聞いていく。その間にと松は横紙の方へ向き直り、

「えー、驚かれたと思いますが、あれはですね、業務上の必要性からあのような格好になっておりまして、何卒ご理解いただければ」

 どんな必要性からだ。

 その言葉を横紙は本当に済んでのところで抑えた。仮にもご迷惑をおかけしているのは自分の亭主であり、こちらはどうこう言える立場にはない。胸のうちで三度唱える。

「外見こそああですが、えー、一応李下はうちの課ではトップの湯けむり真拳の使い手でして、えー、あの年にして師範代なんですね、はい」

「へえ」

 師範代というのはそんなに凄いのだろうか。わからない。

「その上ですね、湯あたりがなかなか強力でして、まあ彼に任せておけば旦那さんにも勝てるでしょう」

「あのう」

「はい」

「えっとですね、その、主人はそんなに強いんでしょうか。普段運動も小さな畑いじりくらいしかしてないんですけれども……」

 最近は下っ腹が出てきたといって烏龍茶しか飲まなくなったというのに。

「強いですね」

 しかし、松は断言した。

「例えばですね、えー、ここに銃を持った兵士が100人攻めてくるとします。旦那さんは難なく勝ちますね」

 全裸の男と兵士が戦って勝つ、そんな夢物語を当然のことのように言う。

「これは冗談でもなんでもなくてですね、えー、湯けむり真拳はそれほどまでに『風呂』での戦闘を想定された流派なんですね。まして旦那さんの場合は『奥義』にまで目覚めていらっしゃるようですし――」

「課長」

 そこで李下に声をかけられて、松はくるりと振り向く。表情だけで言いたいことを察し、「すいません、ちょっと打ち合わせをしてまいりますので」と横紙に断って立ち上がり、部屋の片隅で穴川も含めた三人でなにやら話し合いを始める。

 ひとり残されたりんは、先ほど言われたことを改めて反芻してみる。

(あの人が軍隊と戦って勝てる、ねえ)

 昨日、神社の二百段あるとかいう石段を登るのですら難儀していたというのに。

 そうだ、昨日の今ごろはもう宿にチェックインしていたはずだ。それがどうだろうこの状況は。途中に立ち寄るだけの予定だった温泉のせいで、勤続三十年でもらった休暇での旅行のプランはもうがたがただ。

 自分が出てきたら男湯の方で何やら騒ぎが起きていて、何事かと待合室で牛乳を飲んでいたらそのうちに温泉の人が申し訳ありませんが本日の営業は終了となりまして、と言ってきて、でも主人がまだ上がってないんです、と答えたら顔色を変えられて、それからあれよあれよという間にこうなった。

 今や主人を倒す算段をされていて、しかもそれがあの男である。

(……つまり、あの人も軍隊と戦って勝てる、ってことかしら)

 どう考えても無理な気がする。あの課長さんも「最大戦力」なんて言っていたが梅こぶ茶だし、どこまで本気なのか。いや、そもそもこの状況がどこまで本当なのか。超能力に目覚めたというのがまずおかしいだろう――――

「お待たせしました」

 いきなり声をかけられて肩が少し跳ねる。

 市職員の三人は横紙の前に姿勢を正して座り、

「えー、古鏃市湯あたり条例に基づきまして、再確認させていただきます」

 それまでとは打って変わって流麗な口調で、松が喋りだす。

「これより横紙太助氏の無力化を行わせていただきます。なお、同条例により横紙氏の行動は一切の罪に問われません。また、この件によって発生したあらゆる損害への補償は行政の方で行わせていただきます。以上の条件の下、横紙太助氏の無力化に同意なされますでしょうか」

「は、はい」

 よく分からない圧力に押されて、横紙は即座に同意した。

「「「ありがとうございます」」」

 三人が頭を下げる。そして李下が立ち上がり、

「では行ってきます」

「あー、いけそうか」

「当然です」

 自信に満ちた足取りで、男湯の方へ向かっていく。打ち付けられた両の拳がぼふっ、と鳴った。

 

 

 横紙太助(53)は、扉越しに向けられる気配に即座に気付き、湯船から飛び出した。その瞳はただ好敵手の予感に輝き、理性ではなく多分に本能の影響を受けている。「のぼせて」しまったが故であり、今の彼は己の力を試したい一匹の獣とすら形容しても差し支えはない。

 滑りやすい石の床に音もなく着地すると、扉を真正面から見据える位置に腕を組み仁王立つ。構えるにはまだ早い、相手の姿を見てから、その相手に最も合った構えを取る。さあ扉が開いた、はたして次の相手は――――

 目の前にいた。

 反応する暇もあらばこそ、顎を打ち抜く掌底が横紙の身体を浮かし、そのまま湯船へと落ちていく。普通ならば盛大な水しぶきが上がるところであるが横紙も目覚めたばかりとはいえ達人、空中で姿勢を僅かに変えればその身体は一流の飛び込み選手の如くほとんど飛沫を上げずして温泉へと吸い込まれる。

 さらに水の抵抗を生かして衝撃を吸収、全身を丸めると腰より少し高い程度の湯船の中で一回転、足をつくと立ち上がる。全身に気合を籠めると体表面のお湯がすべて一瞬で湯気と化した。

 改めて敵の姿を視認する、瞬間横紙の中で激しい怒りが湧きあがり、激情のままに湯船を飛び出し強烈な一撃を繰り出そうとする。

「期待通り――」

 喰らえば致命傷は免れぬ一撃に対し、李下新次郎は構えも取らずに満足げに呟くと――――ネクタイを緩めた。

「あなたは最初に若者を攻撃している。その理由は『タオルを湯船につけていたから』」

 そのままするりとネクタイを抜き取り、

「湯けむり真拳を使うタイプの湯あたりは温泉のマナーに厳しくなることが多い。まして自我を失っている状態で今の僕を見れば、必ず怒りに任せた攻撃をしてくると読んでいた」

 放り投げると床に屈む。

 そして、時は動き出した。

 事態を理解するより前に、渾身の一撃を空振った横紙の視界をネクタイが塞ぐ。僅かな動揺を見せながらも着地、そこに床の滑りやすさを利用して威力を増大させた廻し蹴りが背後から来た。咄嗟に防御するも止めきれず、床を滑る。

 位置関係は先ほどと逆転し李下が湯船側、横紙が扉側。立ち上がった横紙は、この日初めて警戒の構えを見せた。

「どうした? かかってこいよ。許せないだろ、風呂に服を着たまま入ってくるなんて、さ」

 李下の見え透いた挑発に顔を歪める。呼応するように湯気が立ち上った。

 湯けむり真拳はその正式な仕合においては裸を原則とし、股間以外を隠すことは認められない。一方で股間を隠しておかなければ反則であるのが湯けむり真拳の奥深いところであるが、それからすれば先ほどと比べればスーツを脱いでいるとはいえ李下の姿は許しがたい行為である。

 もちろん李下とて湯けむり真拳の師範代、そのことを理解していないわけではない。むしろ申し訳ないとすら思っている。

 だがこれは仕事であり、負けられない戦いである。故に、この状態で戦わねばならない。

 古鏃市湯あたり課李下新次郎、課内はおろか市内ですら「戦闘力」ではトップクラスと称される彼の強さの根幹はふたつ。ひとつは湯けむり真拳の腕前、もうひとつはその湯あたり。

 彼は身につけたものを脱ぐたび、二秒時を止められる。

 発動はコントロールできず、脱ぎ始めた時点からカウントは始まり、同じものは一日に一度しか発動の対象にならない。

 奇襲を仕掛けるためにスリッパと腕時計とスーツの上で六秒、さらに今ネクタイで二秒。それでもなお彼には二十秒近い猶予がある。

 そこから発生する絶対的な後の先によるカウンターこそ彼の真骨頂であり、湯あたりによって常人のはるか高みに上り詰めた男を相手にしてなおも挑発を仕掛ける余裕が彼にはあった。

 横紙もそれを直感的に理解したのか動こうとしない、だがそれならば攻撃に転じればよいだけだ。じりじりと距離を詰めていく。いかな達人でも時を止めての攻撃は避けるも防ぐも――――

 違和感。

 咄嗟に一歩下がる、次の瞬間さっきまで顎があった位置を鋭い拳が刺し貫いた。その事実を理解するや否や、大きく飛び退いて壁際の洗い場付近で壁を背にして構え、ワイシャツの袖で鏡の曇りを拭き払う。

 しかし、その曇りは二秒と経たずに元通り、いやそれ以上になっていく。

「参ったな……」

 ぼそりと呟く。垣間見えた湯けむり真拳の深淵に、新陳代謝によるものではない汗が背筋を伝った。

 ――――湯けむり真拳とはひとりの天才が創設した流派である。

 それ以前も湯けむり真拳に似たような技術に目覚める湯あたりはいた。しかし彼は別格であり、とりわけ個人のものであった技を一般人にも使えるものに昇華させ継承できるようにした功績は大きい。

 しかし、その中でもひとつだけ伝承が不可能とされた技が存在した。たとえ湯あたりによって湯けむり真拳に目覚めたものであっても殆どは真似できず、開祖を含めても三人しか使えるもののいない湯けむり真拳の『奥義』。

 李下は今、歴史に刻まれるであろう四人目のそれ――――湯気の操作による攻撃を受けていた。

 視界を遮り、距離感を曖昧にし、これ以上ない股間のモザイクにもなる。湯けむり真拳において、湯気のもたらすアドバンテージはあまりに大きい。もしそれを操作できるのであれば、それは戦場を支配することに他ならないのだ。

 李下が動けずにいる間にも、湯気はその周りに濃く滞留していく。もはや一寸先も見通せぬほどの白い世界において、立場は一気に逆転していた。

 神経を張り詰めていたにも拘らず、真正面から攻撃がやってきた。腹を打ち抜こうとする掌底を済んでのところで首を振り、サングラスを振り飛ばして『止める』。この状態からでは反撃は不可能、ひとまず全力で距離を取る。流石に全体を湯気では覆えまいとできるだけ後退する。案の徐々に視界が開けてきて、

 次の攻撃を防御できたのは、幸運というより他にない。

 正確に右目を狙って飛来する液体、それを手で弾く。軍手に染みこんだ匂い――シャンプーだ。ただのシャンプーも達人が押せばその飛び出す勢いは小石を砕くほどになるというからとんでもない。当たれば右目は死んでいた。

 そこを起点として、湯気に紛れたラッシュが飛んでくる。なんとか弾くが、そこで足が止まり湯気が周りを覆い尽くせばもはや戦いにならず、時を止めては離脱する。

 破り捨てたワイシャツで再び視界を奪おうともしてみたが二番煎じは流石に通じず、じわじわと裸に剥かれていくばかりだ。

 誰の目にも明らかな窮地、しかし李下の目は希望を捨ててはいない。

(ここだ――)

 湯気に隠れて放たれるあまりに鋭い上段の蹴り、それを紙一重で避ければいつの間にか手にされていたタオルによる追撃が飛んでくる。もちろんしっかりと防御して、飛来してくるであろう桶に備える。

 読める。劣勢に追い込まれるまでが長くなっている。

 湯あたりによってどれほどの才を開花させようと、実戦経験は補えない。李下は知っている、「達人が自分の能力にどう対処しようとするか」を。

 彼らの導き出す正解はいつでも回避されることを前提とした隙の少ない攻撃を打ち込み続ける、だ。反撃を貰わぬように、確実に時を止める回数を削ってジリ貧に持ち込む。

 だからそれを利用してやる。当人は気付いていないのだろうが、繰り返すうちに攻撃は単調になっていく。表向きは不利を装いながらパターンを読み、自信満々の一撃にカウンターを合わせて押し切るのがいつもの勝ち筋だ。

 しかし――

(タイミングは掴める、防御もできる、だが)

 湯気がどこまでも邪魔をする。

 そもそも李下がカウンターを用いるのは、そうせねば勝てないからだ。実力で格段に劣ることはなくとも、一発や二発を叩き込んだ程度では有利はつかない。決定的な一撃を打ち込んでやらねばペースは握れないのだ。

 だが自分の足元すら見えぬこの湯気の中ではその「決定的な一撃」が難しい。正確に相手の位置を把握しなくては。

(……一か八か、だな)

 策はある。ここまでの傾向を見るに、十分成功すると信じてはいる。だが、これはしくじれば後はない――――

 その逡巡が反応を鈍らせた。不規則な軌道を描くシャワーヘッドが脛を捉える。痺れるような痛みは足を止めさせるに十分、すかさず連打が襲う。

 迷っている余裕はない。

 付け髭を毟り取り、痛む足を堪えて思い切り跳ぶ。これでついに残すはボクサーパンツのみ。ギリギリの状態で飛び込むは湯船、ほとんど波紋を起こさない見事な着水をするとパンツの濡れないギリギリの深さのお湯の中で構える。

 湯けむり真拳はその性質上湯を利用した技も多数存在する。迂闊に飛び込めば自分の首を絞めるだけであり、それゆえにここまで湯船から出て戦っていたのだが、ここには李下の戦闘スタイルにとって見逃せない利点がひとつある。

 いかなる達人でも、水をまったく揺らさずに湯に入ることや移動することはできない。ほぼ消すことは可能だが、それでも微かな波は起こる。ただ足に伝わる波のみに集中していれば、敵の位置は正確に知ることができるのだ。

 気付けばまた辺りを湯気が包み、桶が幾つか飛んでくるが問題はない。散々練習はした、この程度は難なく弾ける。さあこい、直接対決をしようじゃないか。

 ぱしゃり。

 その誘いに乗るかのように、湯船に降り立つ音がした――ふたつ。

 目の前と背後、正反対の位置に落ちたそれらは全く同じ音、同じ波を伝えてくる。バカな、と思う。ひとつは桶によるフェイクに決まっている、だがこれほどまでに見事に波の大きさを合わせられるものだろうか。

 そこで思考を断ち切った。ここまでの傾向を信じて、背後に攻撃を繰り出す。不意打ちのために背後を取っていると信じて、水の抵抗を低減する特別な蹴りを。

 その足が桶を捉えたとき、李下はその技術と、絶対に前に立っていても気付かれないという湯気の操作への自信に心からの拍手を送った。

 やや不安定な姿勢のまま、強引にボクサーパンツに手をかける。短すぎる二秒の中、片足でなんとか跳躍し空中でパンツを脱ぎつつ目と鼻の先に迫っていたタオルを掴み取る。

 体制を整える時間がなく、目くらましになるよう祈りながら水しぶきを盛大に上げ着水。時が動き出し、湯船に足をついたとき、李下は隠そうともしない動きを察知した。

 それは水中。足の動きによって湯の中に強い流れを生み、水弾を撃ち出す湯けむり真拳の秘法「破滴」。ほぼ垂直といってよい角度で李下の顔面を狙うそれを、

「――――――ありがとう」

 李下は時間を止めて回避した。正真正銘最後の切り札、ボクサーパンツの下、内腿に貼られた絆創膏を剥がして。

 策は実った。あえてパンツ一丁で湯船に飛び込み、「これさえ脱がせればいい」という印象を植え付けた上で攻撃を放たせる。それこそが李下の描いた絵。そして今、横紙は完璧に自らの位置を教えてくれている。

 しかし着水したばかりで体勢はあまりよくない、強烈なカウンターを叩き込めないほどには。

 だから、発想を変えた。

 パンツとタオルを湯に浸からぬよう真上に放り投げつつ、膝を更に曲げて全身を湯に浸ける。湯気は水中には届かない、はっきりと見える横紙の軸足を一歩踏み出し担ぐように持ち上げ前に倒す。そこにあるのは横紙が自ら放った水弾で――――そして時は動き出す。

 零距離から叩きこまれた水弾が、横紙の身体を高く持ち上げた。

 もはや横紙に為す術はない。湯けむり真拳は空中での戦闘を前提にはしていない。そして、落下位置を予測するのはこの湯気の中でも非常に容易い。

 完璧なタイミングの掌底が、横紙の飛ぶ方向を90度変える。石の床を勢いよく滑るその音だけを聞きながら、落ちてくるパンツとタオルを受け止めた。

 いよいよ大詰めだ。勝ってシチューを食べよう。

 腰にタオルを巻きつつ湯船から飛び出せば、湯気を集中させすぎたかクリアな世界の中、脱衣所への扉の前で横紙がふらふらと立ち上がっていた。それでもなお股間にだけは湯気が滞留しているのを見て、李下の目が見開かれる。

「魂だけは守りきるってか」

 二人、視線を合わせてにやりと笑う。誰の合図があるでもなく同時に構えを取り、

「いざ、推して参る」

 風呂場という戦場で出会ったもの同士の、裸の付き合いが始まった。

 この距離ではもはや湯気も意味を為さず一発入れれば一発返される、どちらかが先に限界を迎えるかというだけのどこまでも単純な殴り合い。技術では横紙が確実に勝っている、しかし二度の直撃を受けたその身体は微かに悲鳴をあげ始め、それが技量の差を埋めていた。

 どちらも声ひとつ上げず、ただ笑顔だけが張り付いている。李下の腰に巻かれているタオルはおそらく追加の二秒を提供してくれるはずだが、それを使おうという気は欠片も起こらなかった。

 この勝負を、これ以上濁らせてはいけない。

 そして、双方死力を尽くした攻防の末――――――先に膝をついたのは、李下だった。

 立ち上がろうとするも盛大に笑う膝を見て、覚悟を決める。その前に立つ横紙は、どこか寂しげな表情をしていた。

「早く止めを刺せよ。手遅れになるぜ」

 しかし、横紙は動かない。まるで李下が立ち上がるのを待つかのように立ち尽くしている。

 その姿はさながら楽しい時間が終わるのを恐れる子どものようで、

「――――早くしろ!」

 思わず強く叱りつけてしまう。

 びくりとした横紙は、何かを観念したように一歩踏み出し――――――そのままバランスを崩し、倒れた。

 驚いたような顔で立ち上がろうとするが、全く身体に力が入らない。さっきまでは身体中に力がみなぎっていたのに。

「時間切れ、か」

 どこまでもやるせない声で、李下がつぶやく。大きく息を吸い込むと、梅こぶ茶の風味が肺に広がった。

 仕掛けた時限爆弾は『勝ってシチューを食べよう』がキーワード。脱衣所で待機する穴川がリアルタイムの思考を読み、意図して考えなければ絶対に出ないであろうこのキーワードに反応して松が能力を発動する。

 古鏃温泉にはそれなりに観光客が訪れ、その中には横紙太助のように『のぼせる』ものも珍しくはない。しかし、超能力者となった彼らが地元でトラブルを起こしたという話を聞かないのは何故か?

 答えは簡単だ。湯あたりを安定して使用するには、一年や二年では済まないだけの時間を古鏃の湯に浸かって生きねばならない。『のぼせた』場合でも温泉から離せばおとなしくなるし、単なる観光客では家に着く頃には能力はきれいさっぱり消えてしまうのだ。

 それが「温泉すら問答無用で梅こぶ茶に変える」松が最大戦力たる所以であり、湯を入れ替えねばならない温泉側が彼による事態の収拾を拒んだ理由だ。

 今回はごく狭い範囲の湯気を梅こぶ茶に変えただけだが、それでも力の源を失った横紙は倒れることとなったのだ。

 文句なしの作戦勝ちである。しかし、李下の胸中には快感など欠片もなかった。

 もっと力が欲しい。小細工に頼らずとも相手を圧倒できる力を。

『あー、そういうものですよ、世の中は』

 脱衣所の扉越しに、松の声が聞こえる。わかってる、と呟いて、股間を丸出しにして倒れる男を見る。

 その姿が、なぜかとても格好良く見えた。

 

 

「しまってるのかしまってないのか分かりませんね」

「じゃあその辺カットしてくださいよ!」

 古鏃市役所、湯あたり課のデスク。

 コンピューターに今回の報告書を打ち込んでいた穴川の呟きに、李下が強く反応した。

「いや、報告書なんですからちゃんと最後まで書かないと」

「これほんと恥ずかしいンすからね!? そのくせ過去の事例確認しようとすると回りくどいし!」

「それはこのフォーマットでいいって言ってる課長が悪い」

「……たしかに」

 小声で囁きあうふたりの後ろをそっと松が通り過ぎる。

 穴川が地獄耳の課長による報復の梅こぶ茶を味わうことになるのは、これより二分後である。

 


「時をかける脱衣」の選評


大友宗麟 

 遠藤玄三、あなた疲れてるのよ……私は原稿を受け取るなり、彼の身を案じた。だがそれは杞憂というものだった。
 熱い。おバカなことををくそまじめに描くと、ふだん意識しないオトコノコの血が、こんなにも燃え滾るのか。これぞ人知を超えた、スーパースパだ! スーパー戦闘だ!
 もはや説明など必要ない。読むべし。決してかっこいい技が繰り出されるわけではない。派手なエフェクトが見えてくるわけでもない。
 だが、なぜ、こんなにも熱いのか!
 読んでいてなんとはなしに、PVにしたら面白そうだな、とかCMだと15秒間でどんな表現にするかな、などと空想にふけった。李下新次郎は主人公格だし、イケメンで格闘技経験も豊富なV6の岡田准一でどうだろうか。松憲三は温水洋一、穴川鈴花は田部未華子なんていいと思う。ぜひ映像でみたい作品だ。 


モチヲ


「まじめにふざける」ことを評価

 今まで新脈文芸賞をとってきたベテラン。力あるものが「まじめにふざける」とこうなる。……おもしろい。素直に楽しんで読んだ。
 どうでもいい話だが、私は格闘技とか大好きで、メジャーな格闘技の試合や「まともな格闘技マンガとかも好きなんだが、中でも好きなのはB級(?)格闘技やマイナー武術が大好きなのである。したがって、この「湯けむり真拳」は、私にとってたまらない。こういうの、大好物なのである。「しかし躊躇する時間はなく目と目で合図するが早いか阿吽の呼吸、タオルを首にかけると二人はとても喜寿を過ぎたとは思えぬ身のこなしで湯から飛び出るや否や、着地したときの足元の滑りを利用して置いてあるかけ湯用の桶を掴み、逸物を巧みに隠しながら低く構える。湯けむり真拳桶の型、『玉壁』の構えであった。」この辺など、たまらない。くだらないが、それがたまらないのだ。
 しかしながら、このトンデモ拳法があたかも実際にあるかのように見え、またその拳法や能力のバトルがさも現実かのごとく思わせられるのは、作者が自身の筆力に依拠し、いわば「まじめにふざけている」からに他ならない。「ちんこまるだしのおっさんが裸踊りしている」のは実はどうしようもなくつまんないが、「ケロヨン桶で逸物を器用に隠して、よくわからないマイナー武術の構えをしているおっさん」の方がはるかにおもしろい。「くだらない」と思いながら、筆者が(また書かれる世界に登場する人物各々が)「まじめ」なので、引き込まれて読み続けてしまうのだ。
 また、この作品は、穴川鈴花の特殊能力によって見たバトルの報告という体になっている。これがまた、このふざけた世界にリアリティーを与えている。
 これは、物語に現実味を与えるにはもっとも有効かつ典型的なやり方である。たとえば、宇治拾遺物語などの日本の説話文学にある「昔、男ありけり」のアレである。伝聞調の報告というスタイルが、その話しを聞いた者が「いやいや……そんな話ないだろう」と思うより早く「聞いた話だから、俺も信じられなかったんだが……」と語り手に言われるかのごとく、妙なリアリティーを生んでいる。「直接見た、体験した」というよりも、「これ、姉の友だちが体験したらしいけどね……」と言われると、当の語り手もそれが本当かどうかわかっていないから、語り手も聞き手も「確証ないままその話を聞くしかない」共犯構造を作る。この作品は、それが非常にうまくいっている例と言わざるを得ない。マンガ「魁!男塾!」の「民明書房」や、「グラップラー刃牙」の「専門家によると……」を想起させるこの技法は、この作者は自身の筆力によって、巧みにやらかした。
 ……いや、ほんと、おもしろいわコレ。評というか読者の感想になってしまう……。他の選評者は「面白いけどこれは売れない!」と言っていたが、誰かこれマンガにしません。私は画力がないので、誰かたのみます(笑)。

佐藤家清

 読みながら、思わず「おもしろいけど、これは売れない!」という非営利出版サークルの編集長としては柄にもないことを考えてしまったほど奇抜(もしくは、直球)なテーマを持った作品。
 すごくおもしろいからこそ色んな人に読んでほしいけど、登場人物のほとんどが全裸のおっさんという設定が世間にどう受け入れられるかというのは非常に興味深いところである。
 作品としては富樫義博も顔負けな超能力バトルのアイディアも素晴らしいし、話の構成も文句ないし、何より、このバカげた設定を力強く書き切る文章力も申し分ない。
 蒸気と汗と全裸の男だらけの物語だが、一応、穴川鈴花(24)の報告書という体裁にしてあり、物語全体に広がるむさくるし絶妙な感覚で抑えている素晴らしいバランスをもった作品とも言える。
 他の湯あたり課の報告もぜひ読んでみたいと思った。