閉じる


プロローグ

【プロローグ】

去年、小鉢から植え替えた向日葵の苗が、今年は小さな花を咲かせました。

如雨露で水をやる妻の白いブラウスにも、鮮やかな黄色が映えています。

そして、庭の先の生垣の向こうには、地平線まで一面の向日葵畑が・・・・・・夏は黄色だとつくづく思います。

 

でも、本当にそうなのでしょうか?

向日葵の黄色は、誰でも同じように黄色なのでしょうか?

他人が見ている黄色を、私たちは感じることができません。

人と人との間には、大気しか無いのですから・・・・・・。

  

人を恋する心とは、重ねあわせた組織が互いに溶融し相互に湿潤して、渾然一体と混ざり合い、やがて感覚をも共有しながら、自己の意識の織り目に相手のそれを編込みたいと切望する、そのような心だと推定する。

 

 


【トンネル】

もう随分昔の話ですが・・・。

山口県のある温泉を訪ねたおり、間違えて三つほど手前のバス停で、路線バスを降りてしまったことがあります。

その日のバス便はそれが最後で、地図で見ると温泉旅館まで4Km程度の距離だったので、そのまま歩くことにしました。

海岸沿いに岬を廻りこんで、人家も途絶えた先に黒々と古いトンネルが現れ、どうやらそれを抜けて岬の反対側に出たところが、今日泊まる旅館のある海岸のようで、暗いとはいえ向こう側の出口が見通せる長さでしたので、勇気を振り絞って通り抜けることにしました。

 

内部に照明はありませんが、暗さに目が慣れると道路の状況も何とか確認できて、歩くのに苦労することもなく順調に歩を進めました。

天井から落ちる水滴が、床に跳ねて長くこだまします。

トンネルの真ん中辺りに来たときです、背後に気配を感じて振り返ると、入り口の陽光にシュルエットとなった人物が何やら大慌てで駆け寄ってきます、同時に辺りが急に暗くなって、それまでぼんやりと感じていた周囲の視界が消えました。

暗さが増したというより廻りを何かに包まれた感じで、目の前に暗幕が下りているようでした。

出口も入り口も見えなくなり、方向感覚を失って強い恐怖に襲われました。

暗い大気に体を委ねていると、見たことのない客間の畳や、食べたことも無い和食懐石の膳が、一瞬のフラッシュバックとなって脳の中に再生されます。

それに続いて、覚えの無い様々な情報が濃密に集積され、まどろう意識の中に激流となって流入してきました。

旅館業法、食品衛生法、温泉法、瀬渡し業者や、近くのゴルフリンクスとの斡旋契約・・・等々。

現実が薄れて五感がひとつに融合します。

高貴な甘さが内腔を満たし、上下の感覚がなくなって四肢が弛緩します。

バランスを失って床に転がった途端、親しみに溢れた優しい顔が覗き込んできました。

「大丈夫ですか?お客様!」

脇に腕を廻して体を起こしてくれます、長い髪が爽やかな香りの、女性でした。

「お姿が、急に見えなくなったものですから・・・。」

「ああ・・・、もう大丈夫です、女将さん。」

思いがけず、異性を前にしたときめきよりも、出生の環境を共有する兄弟のような温もりを感じました。

見つめ合う瞳孔の奥に、相手の事情が手にとるように分かります。

「さあ行きましょ、あなたが今夜泊まる部屋はもうまもなくですよ・・・。」

お互い微笑んで、手を繋いで歩き始めました。

 


「でも、どうしてあなたの事、こんなに分かるのかしら?何だかもう何年も一緒に暮らしているみたい・・・。」

「私も同じ気持ちですよ、本当の姉さんみたいだ。」

「妹じゃなくて、姉さんよね・・・アハハ。」

初対面にも関わらず、明るく笑う女将の笑顔には、紛れもなく身内の親しみが溢れていました。

 

トンネル出口の光が網膜を満たすと、現実の喧騒が戻ってきます。

道が大きくカーブした先が穏やかな砂浜で、船着場を兼ねた桟橋の根元に、瀟洒な和風旅館が見えてきました。

背後の林間から、温泉の湯気が立ち上っています。

硫黄の香りとともに、閉鎖中と書かれた露天風呂が見えてきました。

設備が老朽化して、配管の所々から湯気が漏れています。

「あの、露天風呂改装するんでしょ、どうです、デザイン私に任せてくれませんか?」

「よく分かるわね、でもあなた住宅専門でしょ、ユニットバスじゃ駄目なのよ、温泉旅館のお風呂は・・・。」

「大丈夫ですよ、巨大なものから、古風なもの、如何わしいのも含めて風呂は随分設計しましたから。」

「・・・・・・。」

二人の間に、親しみと安心感からくる心地よさが、往来し始めました。

 

ウォーキングシューズの紐が解け、歩を止めて道端にかがむと、急に背後に廻って・・・。

「ほら、首の後ろに少し残っている・・・。」

そう言って、私の首筋に伸ばした白い指の先に、べっとりと黒い物体が付着していました。

「――気持ち悪いわ、私たち、さっきこれに全身包まれてたのよ。」

光沢も無く、質感も無い、さながら空間の欠損とも言うべき漆黒の物体でした。


【証言①】

「あのガード下の通路は、駅からの帰宅にいつも通る道で、もう20年も毎日通い続けています。」

「昨日は仕事が速く終わって、6時には駅まで帰り着いていたんです。」

「周りは夕暮れの光がまだ残っていたんですが、あそこはもう真っ暗で・・・何か変だなとは、思いました。」

「丁度、真ん中辺りまで来たときだったと思います、いきなり目の前に蓋をされたようで・・・どっちを向いても何も見えません、全身が何かにゆっくり包まれていくようで・・・でも、危険は感じませんでした、むしろそれまで味わったことのない安心感に浸っていました。」

「なんというか・・・闇の中に自分自身が染み出しているみたいで、手や足の感覚はちゃんとあるんですが、そのずっと先に神経が伸び出ているようで、今まで経験したことのない感覚が、遥か遠方から入ってくるんです。」

「行ったこともない建物の中の様子や、見たこともない機械の仕組みなんかが――こう、ぎゅっと集積されて頭に入ってくるんです。」

「その量が膨大で、印象も強かったものですから、20年勤めている会社の人間関係だとか、養子の自分の自宅での立場とかいったごちゃごちゃしたことが、足の小指の爪の垢みたいに感じてきて・・・。」

「――そう思うと、急に自宅に帰ってビール飲みたくなりましてね、耳元でなんだか囁かれている気もしましたが、気がつくとこの黒いベタベタにまみれて、通路の真ん中に倒れていました。」

「人に襲われた気はしませんね、何も盗られていないし、以外に後味爽快ですから。」


【証言②】

「そうです!コンビニのまん前で襲われたんです。」

「そんな明るいところでって――仕方ないじゃないですか、いきなり暗いのが覆いかぶさってきたんですから!」

「周りに人間は沢山いたはずですよ、こっちは真っ暗ですから顔は見えませんけど、近くで人が囁く声は聴こえました。」

「大丈夫か?どこも怪我してないか?バッグ落としたから拾ってあげて。――あれは、周りにいた人の声じゃないんですか?」

「そういえば、穏やかな優しい声でした。少しも慌てた様子はなくって――でも、声のする方向は分かりませんし、声の質も男の声だか、女の声だか・・・ひょっとすると人の声じゃなかったのかもしれません。」

「確かに傍にいるのは分かるんですけれど、どこからがそうなのか・・・境界が曖昧になっていて、何だか私の中に何人も人がいるように思えて・・・。」

「こっちに来ないかって、自分たちと一緒にならないかって、その人達から何度も説得されましたわ。」

「――そうそう、そう言えばその人たち、私の体の悪いところを教えてくれるんです。直腸の直ぐ上に、小さなポリープがいくつか出来ていて、そのまま放って置いちゃヤバイって言うから、帰る!って大声上げたら、コンビニの照明が急に眩しく見えて、我に返りました。」

「――そりゃ、直ぐに病院に行きましたわ、教えられた通りのポリープでした、お陰で命拾いしたと思っていますわ。」

 



読者登録

南海部 覚悟さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について