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トンネル

【トンネル】

もう随分昔の話ですが・・・。

山口県のある温泉を訪ねたおり、間違えて三つほど手前のバス停で、路線バスを降りてしまったことがあります。

その日のバス便はそれが最後で、地図で見ると温泉旅館まで4Km程度の距離だったので、そのまま歩くことにしました。

海岸沿いに岬を廻りこんで、人家も途絶えた先に黒々と古いトンネルが現れ、どうやらそれを抜けて岬の反対側に出たところが、今日泊まる旅館のある海岸のようで、暗いとはいえ向こう側の出口が見通せる長さでしたので、勇気を振り絞って通り抜けることにしました。

 

内部に照明はありませんが、暗さに目が慣れると道路の状況も何とか確認できて、歩くのに苦労することもなく順調に歩を進めました。

天井から落ちる水滴が、床に跳ねて長くこだまします。

トンネルの真ん中辺りに来たときです、背後に気配を感じて振り返ると、入り口の陽光にシュルエットとなった人物が何やら大慌てで駆け寄ってきます、同時に辺りが急に暗くなって、それまでぼんやりと感じていた周囲の視界が消えました。

暗さが増したというより廻りを何かに包まれた感じで、目の前に暗幕が下りているようでした。

出口も入り口も見えなくなり、方向感覚を失って強い恐怖に襲われました。

暗い大気に体を委ねていると、見たことのない客間の畳や、食べたことも無い和食懐石の膳が、一瞬のフラッシュバックとなって脳の中に再生されます。

それに続いて、覚えの無い様々な情報が濃密に集積され、まどろう意識の中に激流となって流入してきました。

旅館業法、食品衛生法、温泉法、瀬渡し業者や、近くのゴルフリンクスとの斡旋契約・・・等々。

現実が薄れて五感がひとつに融合します。

高貴な甘さが内腔を満たし、上下の感覚がなくなって四肢が弛緩します。

バランスを失って床に転がった途端、親しみに溢れた優しい顔が覗き込んできました。

「大丈夫ですか?お客様!」

脇に腕を廻して体を起こしてくれます、長い髪が爽やかな香りの、女性でした。

「お姿が、急に見えなくなったものですから・・・。」

「ああ・・・、もう大丈夫です、女将さん。」

思いがけず、異性を前にしたときめきよりも、出生の環境を共有する兄弟のような温もりを感じました。

見つめ合う瞳孔の奥に、相手の事情が手にとるように分かります。

「さあ行きましょ、あなたが今夜泊まる部屋はもうまもなくですよ・・・。」

お互い微笑んで、手を繋いで歩き始めました。

 


「でも、どうしてあなたの事、こんなに分かるのかしら?何だかもう何年も一緒に暮らしているみたい・・・。」

「私も同じ気持ちですよ、本当の姉さんみたいだ。」

「妹じゃなくて、姉さんよね・・・アハハ。」

初対面にも関わらず、明るく笑う女将の笑顔には、紛れもなく身内の親しみが溢れていました。

 

トンネル出口の光が網膜を満たすと、現実の喧騒が戻ってきます。

道が大きくカーブした先が穏やかな砂浜で、船着場を兼ねた桟橋の根元に、瀟洒な和風旅館が見えてきました。

背後の林間から、温泉の湯気が立ち上っています。

硫黄の香りとともに、閉鎖中と書かれた露天風呂が見えてきました。

設備が老朽化して、配管の所々から湯気が漏れています。

「あの、露天風呂改装するんでしょ、どうです、デザイン私に任せてくれませんか?」

「よく分かるわね、でもあなた住宅専門でしょ、ユニットバスじゃ駄目なのよ、温泉旅館のお風呂は・・・。」

「大丈夫ですよ、巨大なものから、古風なもの、如何わしいのも含めて風呂は随分設計しましたから。」

「・・・・・・。」

二人の間に、親しみと安心感からくる心地よさが、往来し始めました。

 

ウォーキングシューズの紐が解け、歩を止めて道端にかがむと、急に背後に廻って・・・。

「ほら、首の後ろに少し残っている・・・。」

そう言って、私の首筋に伸ばした白い指の先に、べっとりと黒い物体が付着していました。

「――気持ち悪いわ、私たち、さっきこれに全身包まれてたのよ。」

光沢も無く、質感も無い、さながら空間の欠損とも言うべき漆黒の物体でした。