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11月25日。

「兄ちゃん、オシッコ連れて行っておくれ」

 食堂のダイニングテーブルで、昼食を終えた荒川タカヨが、古田健一に声を掛けた。

 

 健一は、食事が困難な男性の世話をしていた。スープンにのせたお粥を、男性の口元に運ぶ手を止めた。

 

 健一が荒川に近寄る。

 荒川は、グループホームの利用者で、九十歳を過ぎている女性だった。自分で歩くことは難しいのだが、人が手引きをすれば歩ける。

 

「オシッコしたい。便所に連れていきなさい!」

荒川は漏らしそうなのか、切羽詰まった表情で命令口調だった。

「わかったよ」

 健一は、荒川の両手を持って体を立たす。

 トイレは食堂と隣接されている。

 

 「しかぶってしまった・・・・・・」

 トイレに入った瞬間、荒川は落胆したようにボソリと言う。

 見ると、彼女のズボンはビッショリと濡れていた。どうやら、漏らしたようだ。

 健一は、うんざりとした表情をする。

 「早くしないから出てしまった! あんたが悪い!!」

 荒川は、急に健一に八つ当たりする。

 「もういい! 家に帰る!! 」と、荒川がむくれ顔をする。

 しばらく荒川は、便座に座るも、どこかイライラしている様子だった。

 「荒川さん、もう終わりましたか? ズボンを替えましょう」

 健一がタイミングを見て、濡れたズボンの着替えをしょうと思ったが、

 「もういい、あんたじゃダメ! 」

 荒川がふてくされたように言って、着替えを拒んだ。

 荒川の対応に困っていると、女性スタッフの千春がトイレに入って来る。

 

「荒川さん、うんち出ました? 」

千春は、笑顔で尋ねる。

「あんたかい、今日はダメやった」  

千春の顔を見ると、一変して荒川の表情がゆるんだ。

 「古田さん、ここは私がしますから、食事のお世話を続けて下さい」

 健一は、荒川の対応を千春に任せて、食堂に戻った。

 


健一は、食事を終えた中島カズヨを、車イスで居室へ連れて行く。

 

中島は、九十八歳の女性で、いつも疲れた表情をしている。

居室に入ると、大きなベッドがあり、木目が光るタンスが置いてある。そして、ベッド横には、アンティークなライトスタンドがある。どれも高級感があるものであった。彼女の子供さんから、家にいるような雰囲気で生活させてやりたいという希望で、自宅から持ってきたものだった。


戦後から彼女は、旦那さんと商売をして成功した富裕層である。彼女が大きな屋敷に住んでいて、いつも高価な家具に囲まれて生活していたことは想像できた。しかし、八畳ほどの居室では、ベッドとタンスだけしか持ち込めなかった。本人自身は、裕福な生活をしていたことも覚えていない様子である。お好みのベルサーチのシャツを着ていても無表情である。

 

「中島さん、入れ歯を出して下さい」

健一が、ボソリと言って、彼女の口元の前に右手を差し出す。

健一は、口腔ケアをしようとする。

口腔ケアとは、わかりやすくいうと食後の歯磨きのことである。中島の場合、義歯をしている。義歯とは、入れ歯のことをいう。彼女は総入れ歯である。上下の入れ歯を取り出して、きれいに水洗いをすることと、うがいをしてもらい、口の中の食べ残しのものを出すことが目的であった。

 

「痛っ!」

いきなり、中島が健一の右手を噛みついた。

健一の声に反応するように、ベテラン女性スタッフの北川が慌てて居室に入って来る。

「古田さん、どうしましたか? 」

北川は、厳しい表情で健一に尋ねた。

彼女は、介護スタッフのリーダーであり、健一の教育係りである。何かにつけ、健一の仕事ぶりに細かく口を出して指摘をする。

 

「中島さんが、入れ歯を出してくれないんです」

健一が、困った様子で答えると、

「古田さん、ちゃんと、入れ歯を洗うことを中島さんに説明したんですか? 」

北川は、健一を問い詰めるように、きつい言い方で尋ねる。

「いえ・・・・・・」

北川の圧倒感みたいなものに押されて、健一は小さな声で答えた。


「昨日も言ったはずです。入れ歯を洗うことを本人に説明することを・・・・・・・もう、ここは私がしますから、午後からの入浴の用意をして下さい」

北川は呆れ顔をして言う。

健一は、北川に言われるまま、浴室で風呂の準備を始める。


 


健一が歩行器を押して、織田康男の居室へ行く。歩行器というのは、手押し車のことをいう。

織田は、八十七歳の男性である。午後から入浴を予定していた。

 

織田はベッドに横たわっていた。

「織田さん、入浴の時間です。浴室に移動しましょう」

健一が優しく言う。

「風呂には入らん」

織田が、あっさり無愛想に言い返す。

「腰が痛いから、動けない」

 織田の場合、風呂に入ることを面倒くさがる時、腰痛のことを持ち出して拒む。そのことを知らされていたので、健一も根気よく入浴を勧める。

「腰が痛いなら、僕が起こしてあげますから、入浴しましょう」

 健一は、しびれを切らして強行的に、織田をベッドから起こそうとする。

「入らない! 離せ!! 」

 織田は、反発するため手をグーにした。そして、健一の右手の腕を払いのけるように思いきり叩く。

 「やめろ! 」

 一瞬、健一が織田に対して感情的になる。

 

 その声に反応するように、北川が居室に飛んできた。

 結局、北川が、織田の入浴の世話をすることになった。

 


ようやく仕事が終わった。

健一は、施設外にあるバルコニーのベンチに、ぐったりと腰かけた。そこが喫煙場になっている。雲ひとつない晴れた冬空だが、外に出るとひんやりとする。健一はタバコを吸う。

 

施設は男性2名、女性6名が生活している。現在、1名は入院中である。全員の年齢は、90歳前後の老人ばかりである。今日もなんとか仕事が終わった。だが、何ひとつ仕事ができなかった。介護の仕事が、こんなにきついものとは、思った以上だった。

 

健一は、大手自動車メーカーの製造の仕事をしていた。工場勤務で検査部門の責任者だった。工場内にも部下がいて、会社内ではいいポストにいた。だが、製造した自動車の中で、リーコル車が見つかった。事故などはなかったが、会社には多額な損失を出してしまった。責任者の健一も、何らかの責任をとらなければならない。

会社から言い渡されたのは、別会社への出向だった。

出向先は福祉施設でグループホームだった。

 

健一は、とまどうばかりだった。

今まで、機械ばかりあつかってきた人間には、人を相手にする仕事など、まったく未経験である。しかも認知症の老人ともなると、自分の言うことは聞かず、わがままばかりで、どう対応していいのかわからない。食事の世話、トイレの世話、入浴の世話と、どれも厄介すぎて、逃げ出したいくらいだった。


 


健一がタバコを吸い終わりかけた時、施設長の高倉が現れた。

「お疲れさまです」

高倉がにこりと笑う。

「お疲れさまです」

健一は、灰皿にタバコをもみ消した後、高倉に挨拶する。

高倉は、ズボンのポケットからタバコを取り出し、健一の横に座る。

「少しは仕事に慣れましたか?」

高倉がタバコに火をつけながら尋ねた。

高倉は、見るに穏やかそうな年配の男性で、のんびりとしている感じを受ける。

「いや・・・・・・まあ、なんとか・・・・・・」

健一は、あいまいな答え方をして、高倉に苦笑いをする。

「まあ、ゆっくりと、あせらずに、ここで生活している皆さんのお世話をして下さい」

高倉は笑顔で言う。それは、健一が介護の仕事に、うんざりしていることを察するように言っているようだった。

 

「私は、たまに自分の悩みを、ご老人の皆さんに話すことがあります。すると、いろいろなことを教えてもらえますよ」

「えっ!?」

突然、高倉が突拍子もないこと言い出したので、健一はキョトンとした。

「何しろ、ここで生活している皆さんは、私にとっては人生の先輩ですから」

高倉の言葉は、健一には冗談でしか思えなかった。確かに、ここで生活している人は、自分よりも人生の先輩である。だが、認知症のご老人に、健一が抱えている問題を理解してもらい、適切なアドバイスをすることなど無理なことだ。変なことを言う高倉に、健一は心の中で嘲笑った。

千春がバルコニーにやって来た。高倉に客人が来ていることを伝えた。

高倉は、慌てるようにタバコを灰皿にもみ消して、施設の中へ入って行く。

 

再び、健一がタバコに火をつける。

「そうだ」

健一は思い出したように、携帯電話を取り出して電話をする。

「ああ、俺だ。どうだ・・・・・・今夜あたり会えないか? ああ、わかった・・・・・・それじゃ、待っている」

健一は、約束をとりつけて電話を切った。

「なんとかしなきゃなぁ・・・・・・」と、思い切ったように言って、吸いかけのタバコを灰皿にもみ消した。




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