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はじめに


「草生人」とは

「草生人」は埼玉県草加市に密着したフリーペーパー、いわゆるタウン誌です。
2012年6月に創刊以来、ほぼ隔月刊のペースで発刊。インタビューを基本とし、お店の紹介だけではなく、生活に密着したテーマに沿った記事や、市内のイベント、出来事などを掲載しています。
合い言葉は「草加再発見」。
部数は現在2500部。ご協力いただいている店舗で配布させていただいています。

「草生人メルマガ」とは

「草生人メルマガ」は「草生人」編集部が制作する「草生人メイキング」メールマガジン。 
メルマガだけのコラム、編集部日記、取材時のこぼれ話(本誌に載せきれなかったこと)を掲載しています。オリジナルのメルマガは月に3回発行しているテキストベースのメールマガジンですが、3回分をひとつにまとめて読めるようにしました。
スマートホンの場合はePubでお読みください。

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もくじ

編集部コラム
おもに編集長による日々思っていること
  1. 「求める情報にすぐたどりつく」時代
  2. 「好き」のしくみ
  3. 「判断」のおまかせはちょっと不安
編集部日記
イベントレポート速報版
  1. 「街の音LIVE」のこと(告知)
  2. パリポリくん 観光大使になる
  3. 「街の音LIVE」1日目。
  4. 国際村一番地
  5. 草加環境フェア
  6. 歴史民俗資料館と「草加市の歴史と文化財ハンドブック」
  7. 7月のイベントは「朝顔市」と「よさこいサンバフェスティバル」(告知)
起業日記
編集長兼社長による1人会社の「起業」にまつわるいろいろ
  1. イントロダクション:会社をやめた。
草加小話
じつに彰による草加レポート
  1. 草加文化会館敷地内にある大きな樽
  2. ニュースポーツを体験しよう!

「求める情報にすぐたどりつく」時代

 前回のコラムで、生まれた時からインターネットがある「デジタルネイティブ」の世代は、もしかしたら脳のしくみが違うかも、というようなことを書いたけれど、その続きに思ったことをつらつらと。

 

 インターネットという世界が存在することは、無かった時代と何が違うんだろうか。


 ひとつ、世界中のありとあらゆる情報を直接知ることができるということ。言語の問題はあるにしろ、アメリカ合衆国のトップニュースもCNNのサイトを見ていればわかる。以前はマスコミ、テレビや雑誌や本など、もしくは実際に行った人の話を聞くことしか術は無かった。


 ふたつ、自分の言いたいこと、いわば自分の存在を、世界に発信できる手段を持ったということ。ネット上で公開すれば、ご近所だけじゃなく、全然顔も知らない誰かに知らせることができる。


 みっつ、「現実ではない世界」が存在すること。そこで、現実とは別の自分になれる、その手段を持ったこと。ネットゲームの場合、現実にはありえない別世界の空間がある。そこまでいかなくても、ブログや、掲示板、匿名性のあるSNS(ツイッターなど)では、現実とは違う自分を演出可能だ。


 具体的な違いってことではこんな風にまとめられるかなって思ったけれど、生まれた時からこの状況である、ということが、何か人間形成に影響を与えているのだろうか。

 ただ、まだこの状況になってから10年たっていない。現在進行形の目の前にいる娘たちが、まさにその「新人類」なわけだから、認識の変化はまだ目に見えないんだろうと思う。


 じゃ、目に見えている変化は何だろう。

 目の前にいる「デジタルネイティブ」人を見ていると、とりあえずネットを便利ツールとしてうまく使っている、ということだろうか。百科事典の代わりにインターネット。

 アニメで知らないスタッフの名前が出てきたらすぐにWikipediaをのぞいて、その人物を調べ、ついでに関連情報を見る。

 吹奏楽の課題曲がわかったら、タイトルを検索し、YouTubeにアップされた複数の演奏を見る。

 友だちとの連絡はメールとLINE。大学ではレポートをパソコンで作成して大学のサーバにアップする、というのがもうごく普通になっている。


 と見て、私が子どもの頃と具体的に違うことは何かって考えた。

 で、「求める情報にたどり着くまでの過程が無い」のかなと思った。相手に連絡を取ることも含めて。

 

 たとえば大学生の頃、ある事を調べるために複数の図書館を訪ねたことがある(図書館司書になるための授業だったと思う)。まずどの本に目的の情報が載っているかを調べ、そしてその本自体を探す。今考えるとえらい大変だったと思うが、その最中、大きな図書館の倉庫に眠る膨大な本に圧倒された記憶がある。今はGoogleの検索窓にキーワードを入力すればいい。海外の論文も探すことができる。

 旅行の予定を立てるときには、分厚い時刻表をぺらぺらめくり、路線を調べ、時刻を確認していた。そのとき、前後の電車の行き先や時刻も目にすることになって、時間が余るのならこちらも行ってみるか、なんて行き先を変えたこともあった。今は乗り換え案内アプリで日にちと時間と目的地を入力すれば、最適なルートがわかる。寄り道をする必要は無い。

 そういえば、人と待ち合わせるときも、なかなか来ない、どうしたんだろう、と探しに行くようなことも無くなった。迷子のように、駅のアナウンスで呼び出してもらうなんてこともあったんだよ。


 この、「求める情報にたどり着くまでの過程」が無くなって、すぐに目的の情報にたどり着くことは「便利になった」ということなんだけど、なんだか「はい次、はい次」というような、忙しいイメージが思い浮かぶ。

 次々とその先の情報を求めていく感じは、海の底にどんどん潜っていっている感じ。

 たまには漂って、周りを見た方がいいかなって思ったりする。湖なのか、日本海なのか、インド洋なのか、太平洋なのか。


 そういえば私たちの年代は、「テレビ」が登場して情報の量が格段に増えた時期に子どもだった。何かそれ以前と変化があったんだろうか。デジタルネイティブと私たちの間の違いと、何が違うんだろうか。


「好き」のしくみ

 突然だが、私は中森明菜はあんまり好きでは無い。というか、繰り返し聞きたいと思わなかったので、ヒット曲以外は知らない(ファンのみなさんごめんなさい)。人にはそれぞれ好き嫌いがあるし、特に音楽系はそれが出やすいと思う。

 さて、「彼」は中森明菜が好きなので、その意見がどうも気に入らない。当然だ。大好きな歌手を否定されたら、だれだっていい気持ちはしない。だから、なぜ嫌いなのかを私に問うわけだ。私は「声が気に入らないんだと思う」と答えた。すると、「以前、声が嫌いだと言っていた中島美嘉、いつのまにか好きになっていたじゃないか」。つまり、『声が嫌い』というのは、変化するかもしれないポイントだから、明確な理由には

ならない、中森明菜が好きじゃないのは違うポイントなのではないか、と問い詰めてくるのだ。

 

「いやでも中島美嘉の場合、最初聞いたときは嫌いな声だと思ったけど、その歌の声はいいと思ったんだと思う」と曖昧な解答をする。

 それでもどうも納得しない。

 「中森明菜はものすごく歌が上手なんだけど嫌いなの?」。

 「好き嫌いと歌の上手い下手はあまり関係がないと思うんだけど………」

 というわけで話はそこで終了。

 

 音楽の好き嫌いは、かなり個人の感性に寄っていると思う。もちろん、大勢の人に愛される「名曲」は存在するけれど、ある人はこちらの名曲の方が気に入っていてある人はあちらの名曲、という差はあるはず。ここで言う「気に入っている」は、つい何度も聞いてしまうような感覚のこと。

 と、この話で何が言いたかったかというと、「好き」という感覚と、その理由の関係。

 私の場合、「好き」という感情が先にきて、そうか、だから好きになったのか、と納得するパターン。

 しかし、彼は、「好きになるポイント」があって、それを満たすものについて「好き」になる、納得してから感情がわき上がるというか、そういう形なのかもしれない、と思ったのだ。

 前者のパターンは、結局理由がわからない場合も多い。「好きじゃない(嫌い)」の感情も同じだ。

 両者の一番の違いは、その曖昧さを残したままにするかしないかってことかもしれない。


 私の場合、その理由がわからないことを追求しようとは思っていない。というか、そんなことわからないよな、と思う。確かに理由は必ずあるんだろう。(「事象には必ず理由がある(c)ガリレオ)」)。

 だとしても、その理由は思いもよらないことかもしれないので、わざわざ追求しないでそのままに納得している。

 たとえば最初の話にもどると、中森明菜の声を私が気に入らないのは、昔嫌いだっただれかの声に似ているとか、嫌な経験をしたときによく流れていた音楽だったとか、そういったトラウマがあるのかもしれない。

 ………と想像力駆使しても結論はでない(^_^;) 


 でも彼は、その理由が明確にならないと落ち着かないのだと思う。説明できないことは(とりあえず自分の中では)存在しないというような、そんな感じか?

 

 まあこれ、女性と男性の感性の違いという形でよく話題になっている気もする。

 理論派タイプと感情派タイプ。

 「じゃあなぜ嫌いなのか説明してよ」

 「だから嫌いなんだから嫌いなのっ」みたいな。。。

 

 話は飛ぶが、草生人Facebookに掲載している写真について。

https://www.facebook.com/soseijin

 これは個人的に気に入っている写真を選んでいるのだが、完全に私自身の「好き」の感覚に頼っている。「草生人」のレイアウトなども、この辺にあったらいいな、という感覚。


 実は、私は美術系・デザイン系の勉強をしたことが無い。今までの人生(大げさか)、編集経験で得てきた、イメージに対する経験に基づいた「好き」という判断だけで、「草生人」の誌面を制作している(今のところその道のプロにお願いするだけの資金と時間が無いので、という理由ではある)

 たぶん、そのレイアウトには、ちゃんと理論的には理由があるんだと思う。パースとか色合いとか、安定感がどうのとか。

 改めて勉強したいなとも思う。

 

 とりあえずは、自分の感覚を信じて作るしかないのだけれども。


「判断」のおまかせはむずむずする

 最近のクルマのCMを見ていると、クルマ自体が障害物を察知して止まる機能を宣伝しているCMがある。そのCMを見ていた娘が「頼りすぎると怖いよね。ロボットが全部やってくれて人間が弱くなっちゃうドラえもんのアニメ思い出すよ」。これは「ドラえもん のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)」

 この「のび太とブリキの迷宮」には、なんでもロボット任せにして、歩く事さえままならなくなってしまった人間が登場する。そのためロボットが反乱を起こしても(これは古典的ネタ)何もできない。まあそれでのび太たちが活躍するのだが、それはアニメを見ていただくとして(※1)。


 「機械にまかせる」で最近気になっているのが、記憶の外部化。自分のアタマで覚えないこと。

 ワープロが登場して、漢字が書けなくなった。携帯電話が登場して、電話番号を覚えなくなった。今はスマホが普及して道順や乗り換えを覚えなくなった。もしその「記憶装置」が使えなくなったらどうするんだろう。

 以前このコラムでも書いたと思うんだけど、「記憶」を外に置いたら、「考える」こと自体が貧弱になると思う。【「考える」ためにはたくさんの記憶が必要なことがスルーされている】。

「覚えることを肩代わりさせる」のは最近だけど、「動くことを肩代わりさせる」のはずいぶん以前からある。掃除機とか洗濯機とか、食洗機とか家電は主婦の仕事を肩代わりだし、バイクやクルマは動くことを肩代わり。


 で、クルマの場合何がひっかかったかというと、大事な「判断」を肩代わりさせてるなあってこと。

 目の前に障害物があると目で確認して、ブレーキをかける。ハンドルを切る。これはふつうは運転する人が「判断」して行動している。で、「車の運転」が直接人の命にかかわることだってことがひっかかっている。だからこそ障害物があっても自動的に止まってくれるから安全、という発想で作られているわけだけれど、それに慣れてしまったとき何が起こるのか。

 自分の目で障害物を確認してよけるという発想をしなくなっているところに、何らかので理由その「自動」が作動しなかったら。。。

 考えすぎなのかもしれないけど、何かもやもやした不安が湧いてくる。


 まあ、他にもいろんな判断する機械、人がいるいないを判断して風を送るエアコンとか、洗濯物の汚れを判断して選択時間を調節する洗濯機とか、いろんな便利家電がすでにある。

 これらは万一故障しても直接人命にはかかわらないかもしれないけど、たとえば洗濯だったら、どれくらいの汚れだったらこれくらいの時間、これくらいの洗剤量で洗う、というノウハウが、すでにわからなくなっているよね。

 

 ちなみに、クルマのCMではもうひとつ、不安を感じるものがある。

 それは、ネットとGPSを使い、さらにスムーズに運転できるようにするというイメージCM。どこで渋滞

が起こっているかを調べて誘導してくれる機能。しかしどうも私自身はそういう「おまかせ」がむずむずする。

 もちろん、現実には頼る。非常に便利だから。


 ただ、妄想にも近い不安が出てくるのだ。だれかが悪意を持ったプログラムをネットワークに流したら? 自分のナビが乗っ取られてしまったら(操作不能になったら)?


 仕事場のパソコンの無線LANリストには、なんと20ものネットワーク名が並ぶ。それだけ目の前の空間に電波が飛び交っているのだ。実際、無線LAN対応プリンタは<電波が混雑している>ためにしょっちゅう途切れ、めんどくさいので有線(ケーブルを繋ぐ)にしたくらい。大勢が使えばネットはパンクすることもあるのだ。そうしたら、ネットを使った「自動」は役に立たなくなる。


 「便利さ」に頼るのは仕方がないけれど、常に「もしこれが無くなったら」という意識を持っていたいなと思っている今日この頃。

  

※1

「のび太とブリキの迷宮」では、人間がロボットから世界を取り戻し、一からやり直そうという感じで終わる。ちなみにドラえもん劇場版は、子どもが小さな頃映画館で見て、その後他のも見ようとしてはまり、ほぼ全部の作品のビデオをさかのぼって買ってしまった(もちろん今はDVDボックスがある(^_^;))。藤子・F・不二雄氏が直接かかわっている時代(第1期と言われている)の「大長編ドラえもん」は、文句なしにおもしろい。だから最近当時の作品がリメイクされている。「映画 ドラえもん」で検索してみれば、いくらでも情報が出てくるのでぜひ。

↓ウィキペディアのURL

http://ja.wikipedia.org/wiki/ドラえもん_のび太とブリキの迷宮



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