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六曲小路ノ幽霊屋敷


大江戸八百八町。


この街は鎖国という閉ざされた特殊な世界にあって100万もの人口を抱える世界有数の大都市である。この都市計画に関わったのが、その後徳川家三代に亘って側近を務めることとなる稀代の天才大僧正の天海である。彼は陰陽や風水の理を取り入れ、世界でも稀なる霊的都市を築いた。その気脈や寺社の配置の意味を知る者にとって、誠この都市は驚嘆すべきであり、興味の尽きない都市である。


この話は、そんな霊的都市・江戸を舞台に繰り広げられる。



*  *  *



陽が西に傾きはじめた七つ時。
もう一刻程で日没を迎える時分ともあれば、街道に面した宿場は今日も客を呼び込む声と活気に溢れている。
大小の店が軒を連ねる賑わいの絶えない表通りを半刻程東に進み橋を渡れば、ひしめき合っていた建物は途端にゆとりができ、武家屋敷が立ち並ぶ静かな家並みとなる。
その閑静な武家屋敷並ぶ道を急ぎ足で歩く作務衣姿の大男がいる。男は通りからは目立たぬ裏路地へと慣れた足取りで入り込む。彼が目指しているのは、そこからさらに幾つかの角を曲がったところにある、黒を基調とした歴史を感じさせる一軒の屋敷。そろそろ日も落ちるというのに、灯りひとつ点く様子のないその屋敷が彼の目的地だった。


力士に負けずとも劣らない体躯の、丸いという形容がぴったりのどこか愛嬌のある坊主頭の男は両の手に風呂敷包みを大事そうに、しかし軽々と持ち、ここらでは幽霊屋敷と噂されるうらぶれた屋敷の門を慣れた様子でくぐっていく。

大きな体を限界まで小さくして屋敷の玄関を入った男は、足を踏み出すたびにギシギシと悲鳴を上げる、まるで鶯造りのような廊下をできるだけそっと歩き、卓袱台のある簡素な部屋へと辿り着いた。畳の上にそっと下ろした風呂敷の結びを解くと、中から出てきたのはとても一人分とは思えない大きさの重箱であった。白飯、漬物、焼き物、煮物、和え物、香の物・・・。それらがぎっしりと詰め込まれた巨大な重箱を二つ卓の上にのせてしまうと、さして広くない卓袱台はそれだけで一杯になってしまった。

食物で卓上が溢れかえったその様を何とも満足げに見た彼は、次は湯を沸かしておこうかと立ち上がる。

ふと、僅かに開いた襖の向こうからこの家の主が身動く気配がした。


屋敷の主が起きるにはまだ早い時間だ。寝返りをうったのだろうかと考えるが、その寝返りの音さえも聴くのは珍しい。普段はあまりに静かなので、主との付き合いが長いこの男でさえ、本当に襖の向こうに彼が居るのかと疑わしく思ってしまう程なのである。彼は気になるのか、襖をそっと開けて中を覗いた。

 


薄暗闇の中、幽霊屋敷の主は布団から半身を起こしており、やけに冴えた目で男を見た。虹彩が僅かな光を反射して赤銅色にきらりと光って見えた。明らかに異質な色。

しかし丸い男はそれに全く動じることなく、どこかのんびりとした口調で声を掛ける。

「・・・とら?起きたの?」

トラと呼ばれた男は掛けられた声には応えることなく、まるで独り言のような声を発した。

「・・・客が来るな。」


つい先程まで眠りの中にいた為かその声は僅かに掠れていたが、静かな部屋に不思議なほど良く響いた。

「え?お客さん?久し振りだねぇ!」

途端に顔を輝かせて嬉しそうに笑う丸い男を一瞥すると、俺が起きるまで逃がすんじゃねぇぞ、と何やら物騒な事を口にしながら、主は再び布団へ沈み込んだ。程なくして静かな寝息が聞こえ始める。残されたのは、妙に浮き足立った丸い男。

「お客さんかぁ・・・。何日振りだろう!・・・ああ、どうしよう。何かお茶菓子でも買ってこないと・・・。」

まるで落ち着きを無くしてしまった男は、うろうろと無意味に部屋の中を歩き回った。

「何がいいかな。」

誰も答える者がいない部屋の中で思考を巡らせ、そして彼は結論を出した。

「やっぱり三笠屋の大福餅だよね。…あ、でももう店じまいしてる時間だ…。」

にっこりと満面の笑顔になった男はしかし次の瞬間にはしょんぼりと肩を落とした。もう直に日暮れである。人気の菓子屋は既に営業時間を終えていることに気付いたのだ。

「どうしよう…。今日は一応お饅頭を持ってきたけど足りるかなぁ…。」

そう言って彼は重箱とは別に持ってきていた笹の葉の包みを取り出すと、中を確かめるべく紐解いた。包みの中ではふくよかな丸みのある茶饅頭が幾つも身を寄せ合って食べられるのをじっと待っていた。

「ええと、私が6…いや5つでしょ。沖五郎が3つ、とらは甘いの好きじゃないから1つ。お客さんが3つで大丈夫かなぁ。…でもお客様の手前私だけ5つも頂くのは申し訳ないし。」

そう言って考え込んだ彼は、しかし次の瞬間にっこりと笑みを浮かべた。

「そうだ、今食べちゃえばいいんだ!」

言うなり、ふたつの饅頭を口の中に放り込みその味を堪能すると、彼はひとまず満足したのか、軽やかに動き回って押入れの中から座布団を出したり玄関周りを綺麗にしたりと、何時現れるとも知れぬ客をもてなす為に忙しなく動き回るのだった。


部屋の燭台にはいつの間にか灯りが灯っていた。

 

 


        *        *        *


南雲秦之助(なぐも はたのすけ)は夕暮れ時の路地裏を必死で走っていた。道の向こうで怒鳴り声が聞こえる。

秦之助は必死で逃げていた。自分に危害を加えようとする者たちから。

それらはヒトの形をしているものもいたし、そうでないものもあった。しかし秦之助にとってはどちらも似たようなものだった。ただ違いがあるとすれば、後者は自分にしか見えていないということだ。そして自分の後ろに影のようについて離れない黒い何かが彼らを呼ぶ所為で、どんなに遠くに逃げようともいつかは見つかってしまう。

加えて、今は夕暮れ時。彼等闇の世界の時間である。秦之助は藁をも掴む思いで自分の懐を探った。

「…ない…。」

そこにあった筈の、御守。義姉が近所の神社で買い、秦之助にくれたものだった。

効くか効かぬか分からなかったが、それでも無いよりはまし。上手くすれば助かるかもしれない。そんな思いであったが、どうやら最後の望みも絶たれたようだ。
「…そんなぁ…。」
彼の絶望を嘲笑うかのように、影が蠢いた。夕闇が迫っている。

――突然、黒い何かが怯えたように蠢いたのに気付いて秦之助は足を止めた。黒いそれ――彼は影の物の怪と呼んでいる――は、もうずっと昔から己に貼り憑いて、自分の身に起きる不幸を見ては喜んでいる嫌な奴だ。ふてぶてしい態度をとり続けていた影の物の怪が怯えるなどということは今だかつてなかった。何しろ神社に行く時でさえ、鳥居の外で退屈そうに待っている奴なのだ。そんな奴が怯えを見せた。その原因を探して辺りを見回したところで、ひっそりと佇む寂れた武家屋敷風の建物が目に留まる。一見しただけでは無人の屋敷に見えるそこは、ひっそりと静まり返っており、まるで建物自体が眠っているかのようだった。

「・・・ここお屋敷、だよね・・・?人、住んでるのかな?」

じっと門を観察してみる。空家の屋敷なら門には独特の荒廃した雰囲気がある筈だ。

「?・・・なんだろう」

門柱に小さく書かれた「はらいや」の文字。それは小さい文字であったが、朱文字であるが故にか酷く目立った。

「はらいや」

秦之助は見た文字のままを口に出してみる。

腹嫌。いや、これは違うだろう。第一、門に目立つように書く意味がわからない。門に書くという事は何某かの店である可能性が高い。

はらい屋。払い屋?何を?掃い屋?武家屋敷に住むような人物が掃除屋等する筈がない。

まさか、「祓い屋」?

「・・・何とかしてくれるのかな。」

ぽつりと洩らした声を嘲笑うかのように、背後にゆらりと気配が現れた。



彼はちいさな頃からよく怪奇を見た。成長するにつれそれを目にする回数は増え、姿を見せる物の怪も性質が悪くなってきている。このまま行けば、いつか自分は物の怪に食べられてしまうのではないかとさえ思えた。こうしている今だって、こっちをじっと見ている頭の大きな一ツ目の物の怪が後ろにいる。生暖かく湿ったニオイのする風が流れ、背後の妖がじゅるりと涎を垂らす音が聞こえた気がして、秦之助は恐怖で動けなくなった。

 

ふいに上から低い声が降ってきた。

「・・・客か?」

すると、背後の物の怪の気配がスッと消えた。恐る恐る振り返ると、そこには一つ目の物の怪ではなく、頭に手拭を巻いた甚平姿の中年男が立っていた。

背の高いその男を秦之助は見上げた。男からはどっしりと落ち着いた印象を受ける。この家の主だろうか。そう言えば先ほど客かと聞かれた。この男の声で物の怪が消えた。この人ならば長年自分を苦しめてきたものから開放してくれるかもしれない。そう思った秦之助は思い切って口を開いた。

「あの、門に書いてある”はらいやって、あなたのことですか?お願いします、僕を助けてください!」

「ん?…ああ、俺は祓い屋じゃあねぇんだが・・・。この家の主は・・・まだ寝てるとは思うが、まぁ、直に起きるだろう。とりあえず入れ入れ。」

背中を力強い大きな手で押されて門を潜ると、耐え切れなくなったのか黒い物の怪がぐえっと悲鳴を上げて近くの茂みに素早く身を隠したのがわかった。

 

「おい、とら。客を連れてきたぞ!」

中年男の大声は、タイミング良くと言うべきか悪くというべきか、台所で饅頭の包みを前に2度目の誘惑と戦っていた丸い男の耳に届いた。彼は3寸程跳び上がって、再び開けてしまっていた包みを慌てて戻すと、ドスドスというか、ミシミシと音を立てて小走りに玄関へと向かった。



「沖五郎!お客さん来たの!?」

決して手入れが行き届いているとは言い難いこの古い屋敷の廊下が彼の気遣いの無い体重を受け止めて穴が開かなかったのは奇跡と言っていいかもしれない。

 

丸い男は満月のような笑顔で、沖五郎と呼んだ中年男と客人である秦之助を玄関先で出迎えた。

「おお、良尊来てたのか。道理で玄関が妙に綺麗な筈だ。」

「トラがね、お客さん来るから準備しておけって。そちらがお客さん?」

秦之助は、大きな音と共に現れた巨大な男に圧倒されてしまったのか、沖五郎の影に半分程身を隠したままぺこりとお辞儀をした。

「こ、こんにちは・・・。南雲秦之助と申します。」

「こんにちは。私は良尊と申します。いらっしゃい!さ、上がって上がって。もうすぐトラも―ああ、この家の主のことだよ、起きると思うから。それまでお茶でも飲んでゆっくりしててよ。」

「・・・は、はぁ。」

よくよく観察してみると、良尊という男は体型こそ常人離れしているが、顔立ちは非常に柔和で気さくな印象を受けた。だから秦之助は緊張を少し解き、勧められるままに屋敷に上がった。

 

「何だ、アイツはやっぱりまだ寝てたか。」

「うん。でももうそろそろ起きるんじゃないかな。」

秦之助がお茶菓子にと出された小山のように積まれた饅頭を前に途方に暮れているのを大して気にも留めずに、2人は他愛もない話をしながら茶を飲み、そして甘味に手を伸ばしている。と、突然怒鳴り声が聞こえ、秦之助は文字通り飛び上がって驚いた。続いてドスドスと足音荒く誰かが近付いてきた。


「おい!!糞坊主!何だこりゃ!誰がこんなに食うんだよ!!!」

襖が開くと同時に響いた大声に、秦之助は思わず目を瞑り、身を固くした。そして恐る恐る目を開けて、おそらくこの家の主であろう人物をチラリと見遣り、そして驚いた。

金糸のような髪。獣のように尖った犬歯。そして赤銅色の瞳が燭台の炎をきらりと反射する。


秦之助は全身が総毛立つのを感じた。そこに存在するのは、強烈な『異質』。けれど感じたのは恐怖ではなかった。異質な存在ならばもっとおぞましいものを幾度となく見てきている。けれど、目の前の存在は今までの者とは明らかに違う。その言い知れぬ強烈な存在感に、彼は衝撃を受けた。

野生の獣のような目だ、と思った。


「ああ、ちょっと多かった?」

良尊の柔らかい声がどこか遠くで聞こえる。

「ちょっと、だぁ!?特注の重箱2つがか!」

「大丈夫だよ、とら。私もちょっと食べるし、沖五郎も秦之助くんも・・・あ、お客さんの名前だよ。夕飯まだなんだって。皆で食べたらすぐ食べ終わっちゃうよ。ね、秦之助君。」

「・・・え?あっ、ええ!?はい!」

良尊の声で現実に引き戻された秦之助は、会話の内容も判らずに慌てて返事をした。気性の荒い「はらいや」の主は今気付いた、というように秦之助を見た。

「んあ?・・・ああ、客か。」

「こ、こんにちは・・・」

秦之助は返事を返せたことが奇跡だと思った。それ程彼の存在に心を奪われていたのだ。



「で?お前の望みは?」

主はそんな秦之助の様子に構う事無く、ずかずかと部屋へ入ると座卓を挟んだ彼のの正面にどかりと腰を降ろす。そして自己紹介はおろか、客の名前さえも聞くことなくいきなり本題へと入ってしまった。



「え、あ、あの・・・」

秦之助はいきなりの展開についてゆけず返答に詰まる。一度見たら絶対に忘れないであろう色の瞳を不機嫌そうにすっと眇め、主は苛立ちを隠しもせずに声を荒げた。

「手前ェはちょっかいかけてくる物の怪を何とかしたくてここに来たんじゃねェのか。」

「ええっ!?あ、はい!そうです!!」

「だったらさッさと用件を言いやがれ。」

およそ客に対する物腰ではないその尊大な態度に、沖五郎がのんびりと注意を入れる。

「おいおい、とら。お前客に対していつもそうなのか?」

「ケッ、愛想が欲しいなら遊里にでも行くンだな。」

主の返答はにべもなかった。そして中断されていた客との会話に戻るために、秦之助に向き直った。

「で?」

強烈な主からの視線が一時外れて少し落ち着いた彼は、今度は躊躇いながらもゆっくりと話し始める事ができた。

「・・・私は小さい頃から色々な物の怪を見てきました。」

ずっと着いて離れない黒い物の怪がいること、月日が経つにつれてどんどん性質の悪い妖がうろつき始めたこと、そのせいで自分の生活は目茶目茶であること、物の怪と無縁な平穏な生活を送りたいこと。いままで胸に秘めて誰にも語れなかった思いが堰を切ったように溢れ出てきた。

 

「・・・成る程な。大体判った。」

ずっと黙って話を聞いていた主が顔を上げた。

「人間てのは面倒臭ぇ生き物でな。口で言っただけじゃ理解できねんだ。小難しい説明は置いといて、まずは身をもって体験してからだな。――着いて来な。」

そう言うと彼は立ち上がり、襖を開けて部屋から出て行ってしまった。秦之助は慌てて後を追う。

「手前ェには物の怪除けの札を作ってやる。」

先程いた部屋の続きの間である畳の部屋を歩きながら蛭魔は言った。

「物の怪除け?」

「そう。強力な札だ。本当ならあんま作らねェが…まぁ、特別な。」

主はニヤリと笑うと次の部屋へ続く襖を開けた。特別、と言う言葉を聞いて秦之助の心の臓がどくりと跳ねる。

着いた部屋は清浄な空気に満ちていた。部屋の中央に護摩壇が置かれ、微かに香の残り香がする。そのいかにもな雰囲気に、彼は知らずのうちに背筋をぴんと伸ばしていた。主は護摩壇の中央にどかりと座り、懐から取り出した小刀で和紙を四つに切る。傍らの硯を引き寄せて筆を取り、先程切った中の一枚にすらすらと呪言のようなものを書き込んでいく。秦之助はじっと息を殺して主の一挙一動を見守っていた。

 

「いいか、この札を肌身離さず持ってろ。大抵の物の怪は近寄れねぇ。」

「あ、有難うございます!」

受け取った札を大事そうに懐に仕舞った秦之助は、ふとある大事な事に気付いて主を見た。

「あ、あの、御代は・・・」

「あ?まだ要らねェ。明日同じ時間にまた来い。その時教えてやる。確認したい事もあるしな。」

主は硯と筆を片付けながら彼の方も見ずに淡々と応えた。

「・・・?判りました。」

その物言いが少々気になったものの、主の様子から今日はこれ以上ここに居ても仕方がないと判断した彼は、短く礼を言うと護摩壇のある部屋を後にした。

帰り掛け、最初に通された部屋で食事を始めていた良尊と沖五郎に挨拶をすると、一緒に食べていけばいいのにと随分引き止められたが「この後用事があるから」と丁寧に辞退し、屋敷を後にした。彩り豊かな重箱の中身には惹かれたが、何よりも早く札の効力を確かめたかったのだ。

 

すっかり暗くなってしまった道を家へと歩きながら、秦之助は金色の髪を持つ屋敷の主を思い浮かべた。赤銅色の、しなやかな獣のような瞳と尖った犬歯。人間というよりも妖や獣に属しているといわれた方がしっくりくる外見。しかし、彼は秦之助がこれまでに見てきたどんな物の怪や妖とも違った。闇が馴染む雰囲気を纏いながらも、身の内にはとても強い光を持っていた。



「・・・あれ?そう言えば、どうして私が物の怪見えるって判ったんだろう。」

そう、ふと気付いて足を止めた。人間離れした風体を前にして驚きと緊張で何も言えなかった筈だが、彼は当然のようにあの屋敷へ来た理由を当ててみせた。

――やっぱり、あの人はすごいんだ!

秦之助はいつになく気分が高揚している自分に気付いた。物の怪が自分を脅かすようになってからは久しくなかったことだ。

札を入れた懐にそっと手を当てた。

 

 

その日、彼は物の怪に遭わなかった。

 

 

 

 
        *        *        *

 





「祓い屋さん!祓い屋さん!凄いです!!本当に、物の怪が来なくなったんです!来てもすごく小さかった。全然怖くなかったですよ!」

翌日、昨日と同じ時間に屋敷を訪れた秦之助は、良尊に昨日とは違う座敷に通され、主が現れるや否や興奮した様子で一息に喋った。寝起きなのか、どことなく眠そうな半眼で彼の報告を聞いていた主は、しかしだんだんと悪戯っぽい表情へと変わっていった。

「ああ、あの札な。」

「はい!本当に有難うございます!もう、何てお礼を言ったらいいか・・・。」

主は胡坐をかいて畳に座ると良尊が淹れた茶を一口飲み、それから信じられない言葉を口にした。

「アレな、贋物。」

「――え?」

札の効力を信じきっていた秦之助にとって、主の口からさらりと発せられた言葉を理解するのには時間が掛かった。混乱する彼を面白そうに眺め、主はにやにやと残酷な事実を告げる。

「まあ、全くの落書きって訳じゃねぇが、そんな大層な魔除けの効果なんざねェよ。」

「え、だ、だって、だって、物の怪は来なくなったんですよ!?」

可哀想な位動揺している彼に、主は真面目な顔を作り、いいか良く聞けと前置きをしてから本題に入った。

「――物の怪を呼び寄せてんのも、奴らに力を与えてるのも手前ェだ。」

その言葉に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。そんな馬鹿な、という思いが頭の中に木霊する。しかし主の言葉が現実に引き戻す。

「何で札を持った途端物の怪が来なくなったか教えてやろうか。奴らは人間の陰の感情を食い物にしてる。お前の場合“恐怖”と“脅え”な。しかもお前には奴らが見えるだけじゃなく怖がっている。だから周りをうろついて気が向いたときにちょっと脅かせば腹は満たされる、ってわけだ。奴等にとっちゃお前は都合のいいエサだったんだよ。今までは頼るものもなく、自分独りで奴らと対峙しなきゃならなかった。拠り所がないと恐怖は倍増する。・・・ところが、だ。お前は昨日自分の話をまともに聞いてくれる奴に会った。自分を否定されなかった。それどころか何だか効きそうな札を特別に作ってもらった。“これで大丈夫だ”そう思わなかったか?」

「思い、ました。」

搾り出すように秦之助は答えた。

「それだ。安心したお前は奴らの好物の陰の感情が出なくなった。エサがなくなれば奴らの力は弱くなる。他のエサを探してお前から離れたんだ。ま、一時的なものだけどな。“この札はいつまで効くんだろう。効力が切れたときはどうなるんだろう”そう思い始めたら奴らはまた戻ってくる。」



主は温くなってしまった茶を美味そうに飲んだ。そして再び口を開く。

「物の怪と無縁の生活を送りたい、つうのは無理な相談だ。エサが転がってるのに放っておく馬鹿はいねぇだろ?」

「そ、そんなぁ・・・。」

それは彼にとっては絶望的な答えだった。

「だがな、寄ってくるのを減らす事はできる。」

「どうすれば・・・」

「意識を他に向けろ。奴等のことばっか考えんな。どうせいままで物の怪の事しか頭になかったんだろ?」

言われてみれば確かにそうだ。寄ってくる物の怪を恐れ、いつ何をされるかと常に怯えていた。

「それが奴等のエサになるっつってんだ。いいか?奴等の姿を見ようとするな。奴等の声を聞こうとするな。奴等自体は大した力は持ってねェんだ。負の感情を喰わなきゃな。ま、視界に入っちまうのは仕様が無え。風景の一部とでも思っとけ。」

「はは・・・風景・・・」

彼は力なく笑った。自分を長年苦しめてきた物の怪を景色の一部だと思え、と言う主を、何だか改めて凄いと思った。

「いいか、これだけは忘れるんじゃねぇぞ。本当に怖ぇのは物の怪じゃねぇ。物の怪に力を与えちまう人間なんだよ。」


「とりあえず、今お前に憑いてる奴等は落としてやる。変に出来上がっちまった繋がりは切ってやる。だが、その後はお前次第だ。」

そう言って二人の間にあった卓袱台を退け、改めて秦之助の前に立った。主は法具と香を片手に持って呪文を唱えると、忙しなく上下に動かしながら彼の周りを1周した。次に主は彼に座るよう指示すると、自分も胡坐をかいて目を閉じ、今度はちゃんと祝詞をあげた。決して大きな声ではなかったが、身体の内から響く一切の迷いの無いその声は、全ての不浄を消すかのように静かに部屋に響いた。

 

 

再び夕飯を勧める良尊に申し訳ないと思いつつ、今日も屋敷を後にした。早く一人になりたかった。身体が妙に軽く感じる。十数年間苦しめられたきたものからやっと開放されたのだ。頭の芯がぼうっとする。

夕闇が降りた人気の無い河原で、彼は生まれて初めて理由の判らない涙を流した。止まる事を知らず止め処なく流れる涙に、ぼんやりと、ああ、これは浄化の涙なのかもしれないと思った。

 今まで自分の力ではどうしようもないことと諦め、恐怖しながら奈落へと続く一本道を進むしかなかった。けれどあの時、確かに道がもう一つ現れたのだ。どこへ続いているかは分からない。そもそもそれが道であるという保証はどこにもない。けれどあの時、奈落行き以外の選択肢が生まれたのだ。


あの屋敷にまた行こう、と彼は思う。主の提示した金額は決して払えないほど高くはなかったが、それでもまだ親から小遣いを貰う身の秦之助には一度で払うには無理な額だった。分割でもいいぜと言った主の顔が思い浮かぶ。そして聞こえるか聞こえないか位の声音で、独り言のようにして言われた言葉も。

――この屋敷に来りゃ、お前が今までどんな小せぇことで悩んでたのか馬鹿らしくなるだろうよ――

 

部屋を後にする前に彼は背筋をしゃんと伸ばし、胸を張って「申し遅れましたが、私の名は、南雲秦之助です。この度は有難うございました。」と、やっと言えた。あなたの名が知りたい。そう言外に含ませて。

「ああ、そういやァまだ名乗ってなかったな。」

明らかに、確信犯的な笑みを浮かべて主は返した。

「はらいや、虎太郎。」

 

こうして幽霊屋敷と噂される「はらいや」の屋敷に、一人常連が増えた。その事に喜んだ良尊がお祝いと称して屋敷に常識を逸脱した量の甘味を持ち込み、甘味が苦手な虎太郎の怒りを買ったことは秦之助の預かり知らぬところである。



なにやら、賑やかになりそうだ。



六曲小路の幽霊屋敷 ―完―




この本の内容は以上です。


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