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ビル・ドレイトンによる序文

社会変革の最もパワフルな原動力とは?
アショカ創設者ビル・ドレイトンによる序文

世界中で、社会を革新する上で最もパワフルな原動力とは何だろうか?

社会の中で、長い年月をかけて習慣化されてきたやり方や在り方を、変えるのはたやすいことではない。とはいえ、社会起業家としての精神と能力に富んだ人の手にかかると、そういった社会に染み込んでしまったパターンを根本的に変える発想も比類なき効力を発揮する。

歴史を振り返れば、時代の舵が切り替わる度に、この「パターンの根本的転換」が起こっている。

さて、こういった変革を起こすことができるのは、障害のない人だけだろうか?答えは、もちろんNOである。

アショカの認定したフェローの中には、多くの障害と生きる人が存在する。イノベーションに、障害の有無は関係ない。

障害のあるアショカ・フェローを見れば、私たちが定義するところの「障害」は、社会を変革する「障害」ではないことは、一目瞭然である。アショカの核をなす目標は、数千年のあいだ続いた「ごく少数のエリート階級が社会全体を牛耳る時代」から、「社会を構成するひとりひとりが社会を変える当事者(チェンジメーカー)となる時代」への移行を推進することである。例えば、18世紀の農業革命は、特権階級が楽に暮らすために農耕から得られるごく僅かな利潤を独占することをやめさせ、生産性の向上により人口のほんの一部の人々が農業に従事するようになるというスキームだった。私たちは、毎日、倍速で変化が起こるような目まぐるしい時代に生きている。この「新しい時代」において、これまでのような「少数のエリート層が社会を牛耳る」というスキームは、もはや作用しない。

いま移行しつつある新しい時代において組織や社会変革の正否を計る尺度はなにか?それは、「チェンジメーカー」(変革の当事者としての個人)が、その組織や社会にどれだけ多く存在するかということだ。さらに言えば、その個人が変革したいという想いだけではなく、変革を達成するための高度なスキルを持ち、そうした個人間でのつながりがどれだけあるか、ということで決まる。なぜ、デトロイトやカルカッタなどのかつての工業都市が衰退し、サンノゼやバンガロールなどの情報集積都市が、めきめきと活力を増しているかを考えればわかっていただけるだろう。

新しい時代において、重要な資質とは何だろう? 力づくで、自分の思うように人を動かす時代は過去のものだ。今、始まりかけている新しい時代で輝くプレーヤーとなるには、「エンパシー」「リーダーシップ」「チェンジメーキング」という非常に高度で複雑な3つのスキルが備わっていなくてはならない。そして、これらの資質を自分が習得できると信じる自信、さらに「私は変革の当事者である」と言い切る自信も欠かせない。

私が言及している新しい時代では、誰もが変革の当事者"チェンジメーカー"となり得ることを知ってほしい。そこには、性別、年齢、人種、経済的格差、障害の有無など何の制限もない。

世界人口の10%を占める何らかの障害のある人々に対する新潮流が起こっている。障害のある人とない人の間の壁を崩すこのムーブメントは、直感的に新しい時代の到来を察知した人々が先導している。

その最終目標は、障害のある人々に潜む可能性を引き出し、「与えられる」側から、「与える」側へと変えること。つまり、彼らがチェンジメーカーとしての市民権を得るということにほかならない。

それは、明確で反論の余地もない。そして、その目標に到達する過程で活躍するプレーヤーこそが、社会起業家である。本書の内容は、その道程を映し出す光であり、「社会起業という魔法」の解説でもある。


クリエイティング・チェンジ:エディー・バートニック

クリエイティング・チェンジ 障害の世界から生まれたイノベーション

エディー・バートニック
2009年3月18日

障害を持っていることで、人は世界で最も大きな少数派グループとされる。世界保健機構(WHO)の推計によると、世界の人口の10%-約6億5千万人、うち2億人は子どもたち-が何らかの障害を持っているとされる。人口の高齢化に伴い、この数字は更に増えるであろう。WHOはまた、「障害は貧困の原因でも結果でもあり、世界の障害者の80%は低所得国に居住し、社会的・経済的な不利益や人権侵害を被っている」と報告している。

障害の分野で実践されている創造的な問題解決について、国際的な事例をまとめた本を出す時は熟した。世界的な不況は、貧困という厳しいハンディを背負った人たちには、より暗い影を落としている。大きな問題に我々を引き入れる思想は、我々を引き出してくれる思想ではないだろう。世界的経済成長に見合うだけの対応を我々はしてこなかった。そしてもし歴史が繰り返すならば、縮小を続ける政府予算はサービスの削減につながり、さらに悲惨な状況を生み出すだろう。このままでいいはずがない。新しい考え方、新しいパートナー、そして新しい問題解決の方法が、切実に求められている。

幸いなことに、経済的な陰りの中で、「クリエイティング・チェンジ」は一筋の光だ。「クリエイティング・チェンジ」は、ひとりひとりの障害者やその家族の生活を変化させるだけでなく、地域、企業、そして政府が障害を持つ人を価値のある、社会に貢献する市民として歓迎し受け入れるようにする、世界中のアショカ・フェローによるユニークで創造的な物語を紹介している。16人のアショカ・フェローは全員、社会的にも認められた障害の世界におけるリーダーであり、社会起業家たちだ。彼らパイオニアたちは一緒に、障害の分野で、自国のみならず世界全体に影響を及ぼすような新しいパラダイムを創り出している。

「クリエイティング・チェンジ」は、2007年から始まった国際アショカ・フェロー協働の取り組みから生まれた成果である。この協働プロジェクトは、「『できる人(健常者)』と『できない人(障害者)』とが交じり合うことを邪魔するのは、往々にして固定観念や恐怖心、忌避、そして偏見である」という考えに基づいている。

「クリエイティング・チェンジ」には3つのねらいがある。一つ目に、障害の分野における可能性について、人々の考えに疑問を呈し、新しい創造を生み、固定観念を変えること。二つ目に、社会の指導者、企業、政府、国際機関を戦略的なパートナーとしてフェローの活動に巻き込むこと。そして三つ目に、社会変革を国際的に広め、国際的な政策に反映させること。

本書に収められたアショカ・フェローの世界的な活動は、世界15カ国に及び、教育、雇用、人権、経済的自立、障害を持つ女性の地位向上、ITスキルへのアクセス、社会的支援ネットワークの構築、ヘルスケア商品を低価格で提供するための社会的企業、移動支援とそのための機器、レクリエーション、芸術、メディアといった幅広い分野にわたる。

photo:Greg Keatingアショカ・フェローの活動の背景にある考え方には、哀れみやチャリティに基づいた考え方から、障害を持つ人一人ひとりの市民権と地域に貢献する能力への勢いある変化が見て取れる。障害者ができないこと(彼らの欠損など)に注目するのではなく、彼らが生まれ持った個々人としての価値や尊厳、自立と他者に与える能力が強調される。またそこには、障害を持つ人々と、その支援者、そして地域や企業、政府系機関の間にあるものは平等なパートナーシップだという自然な信念がある。強い社会起業的な手法が現れ、創造性に富んだ経済活動や公益性とつながった「可能な」アプローチを体現している。それによって、ネガティブで受動的なものとは異なる、ポジティブで力強い道が拓かれた。

それぞれの物語は個人的であるとともに、勇気と、革新的思考、企業との連携、構造変革の意味深い事例を読者に贈り物として与えてくれる。それぞれの物語は、小さな地域単位での試みから始まり、社会そのものの構造や文化を変える「社会運動」に発展していく道筋を辿る。

「クリエイティング・チェンジ」は、小額の投資がいかにして倍増し、実質的な結果と学識的な価値を創り出したかを示している。

「クリエイティング・チェンジ」は、私たち読者に実行を呼びかける。私たちは、人にやさしいインクルーシブな地域を創ることができる。地域での解決方法を広めることができる。そして、貧困と孤立という、障害を持つ人々が直面するふたつの大きな古くからあるハンディに打ち勝つことができる。

最後に、この本を通して先駆的な試みから学んだ、またこれから学ぶであろう幸運な人々に代わって、アショカ・フェローの皆さんに心から感謝したい。あなたがたの仕事が、その意思に共感し、ビジョンの実現に支援してくれる国や国際機関の関心を惹きつけることを、私は強く期待している。

エディー・バートニックは、西オーストラリアの障害サービス委員会による大都市コミュニティ支援のディレクターであり、オーストラリア知的障害者研究ソサイエティのフェローである。彼は、政策や基金、そして支援提供において幅広い上級政府職を経験しながら、障害者とその家族を支援する30年間の展望を持っている。そしてここ数年は、社会サービス分野、また個人コンサルタントとして働いている。エディーは、全国的な地域調整プログラムの開拓において主要な指導的役割を担ってきた。そのプログラムは現在、西オーストラリア全体の8000人以上の障害者とその家族を支援している。さらに、選択と管理、そして個人と家族のリーダーシップと地域関与を強化するためのイニシアチブを増大させるため、個人化と個別化された基金メカニズムに集中した西オーストラリアの支援改革のリーダーでもあった。1999年から、エディーは、地域調整アプローチを計画し、制度変革に影響を与えるためにオーストラリア、イギリス、オランダ、ポーランド、アメリカ、カナダ、ニュージーランドで会議論文を発表し、家族やコミュニティ・グループ、そして政府の相談に乗っている。彼は、ブリティッシュ・コロンビアのアショカ・フェロー、アル・エトマンスキーと親密に働いており、ブリティッシュ・コロンビアと西オーストラリアで一連の相互社会起業協力を展開している。そして、2006年にポーランドでアショカ・フェローと会い、それがこの重要な書籍化プロジェクトのコネクションとなった。


アショカの(ディス)アビリティ・イニシアティブについて

アショカの(ディス)アビリティ・イニシアティブについて

(アショカ・ポーランド (ディス)アビリティ・イニシアティブ・コーディネーター
アンナ・オベム

ディス)アビリティ・イニシアティブは、2007年に始まった。しかし、障害の分野で活躍するアショカ・フェロー同士の国際的な連携という概念には、長い歴史がある。ピョートル・パウロウスキー(ポーランド出身のアショカ・フェローであり、本書で紹介されているリーダーのひとり)とエバ・コンツァル(アショカ・ポーランド代表)が、アショカ・フェローの一団を招聘し、将来的な連携について話し合ったのは2004年のことだった。この連携が正式な形をとったのは3年後、フェローたちが集まって戦略を検討しようと決めたときだった。その会議は、2008年3月にワルシャワで行われた。

当初は8人のフェローがワルシャワに集い、(ディス)アビリティをテーマに掲げた国際的な社会キャンペーンのコンセプトを考案した。このキャンペーンは3つのプロジェクトから成る。アショカ・フェローによる取り組みの成功例についての書籍、彼らの活動についての物語を共有するための双方向のウェブサイト、そしてインクルージョン週間の国際的な祝賀イベントの3つだ。このコンセプトは8人各々の考えや経験と結びつき、同時に彼らの日常生活に合わせた新しい創造的な考えを提供している。

2008年3月の会議以来、(ディス)アビリティ・イニシアティブは真に国際的な取り組みとなった。現在は、世界5大陸、18の国々から、24人のアショカ・フェローが参画している。このグループの取り組みは、フェロー同士の国際的な連携の完璧な事例として、また集団的な取り組みを通してフェローの個別インパクトが数倍に高められるプラットフォームとして、アショカ本部にも認められている。

(ディス)アビリティ・イニシアティブは、次のステージに入ろうとしている。フェローたちは、自分たちのアイディアを国際的なレベルに移し、現場の思考に変革をもたらそうと取り組み始めている。彼らはその大望を叶えるために、必要なスキルも知識も国際的な認知度もすべて兼ね備えている。

※訳注:「disability」は英語で障害を指す。「Dis(否定の意の接頭語)」と「Ability(能力)」から成る言葉で、「(ディス)アビリティ・イニシアティブ」は、「Dis」を括弧でくくることで、障害当事者の「Ability(能力)」を強調している。


ジャビッド・アビディ

ジャビッド・アビディ

ジャビッド・アビディ全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)/インド
1998年よりアショカ・フェロー

エンパワメントに向けた権利擁護への道
ラマ・チャリ著

「まず何よりも、我々が存在することを政府に気づかせた。そして、ただ存在するのではなく、我々も市民である事を認識させた」。ジャビッド・アビディは、インドの障害者権利運動の歩みを極めて上手く描写した。それは障害者が自らの権利を主張し、意見を述べた道程であった。これは、アビディが挫けることなく16年間貫いてきた戦略だ。

1990年代、インドの障害者は非常に厳しい状況に置かれていた。障害者人口は6千万人と推定され、人口の5~6%を占める。この巨大な障害者人口は、インドの多くの州の人口に相当するが、彼らに注視したり、耳を傾けたりすることは、ほとんどなかった。何らかの教育を受けている障害児童の割合は、2%を下回った。教育は別途、行われるようになっていた。にもかかわらず、障害児に対する特殊教育学校の数は、ほんのわずかであった。また就労にいたっては、障害者の1%以下しか仕事に就いていなかった。1959年に、インド政府により最初の障害者公共職業安定所が設立されて以来、たった10万人の障害者しか雇用されなかった。1977年ころから、政府部門や公共部門の事業には障害者雇用枠が設置されたが、低い役職しか与えられず、障害者は高い役職に就くものではないという固定観念を、政策決定者や政府関係者は明らかに持っていた。

独立して40年以上経っても、インドには障害者の権利を守る法律は制定されていなかった。道路、建物、交通機関なども、障害者にとって利用できないものばかりだった。「アクセシビリティ」という言葉すら誰も聞いたことがなかったのだから!障害分野においても、視覚障害者や聴覚障害者のための団体、脳性マヒ協会、精神薄弱児親の会など、いくつかのグループに分かれていた。彼らは、個別には素晴らしい活動をしていたが、一緒に活動することはなかった。さらに、非障害者が障害者支援を主導し、彼らの活動は主に障害児へのサービス提供に特化していた。それにも関わらず、これらのサービスは、障害者の権利に焦点をあてたり、アクセス可能な建物を保証したりしていなかった。さらに、これらのサービスのほとんどは都市部に集中し、地方には届いていなかった。政府の役割は、NGOに助成金を与え、障害者支援機器を提供するといった福祉施策に限定されていた。教育、就労、交通、都市開発、女性や子どもなどの開発を担う各省庁は、障害に取り組んでいなかった。障害に関する問題認識は、ほとんどなかった。このような状況で、ジャビッド・アビディは、インドにおける障害概念の変革を目的とする、広範な障害者権利運動を思い描くようになった。

アビディは、1965年6月11日に、ウッタル・プラデシュ州のアリガーで中流階級の家に生まれた。生れたときに二分脊椎症と呼ばれる先天性の脊髄の病と診断され、15歳で車いすを使うようになる。1985年に、マス・コミュニケーションを学ぶべく奨学金を得て米国に留学した。ジャーナリストとして成功するという夢を持ってインドに4年後に帰国した。自分の経歴なら大手新聞会社のどこでも簡単に合格すると思っていた。しかし、現実はそう甘くなかった。彼は6ヶ月間仕事を見つけることができなかった。アビディは、この時の経験をこう振り返る。「彼らは私の経歴をみることを拒否した。代わりに、彼らは私の車いすをじろじろ見ようとした」。でもアビディは諦めなかった。フリーのジャーナリストとして、まずは小さな地方紙から始め、徐々により有力な新聞社へと活動を広げて行った。彼は、政治家、俳優、事業家、大臣、そして首相にまでインタビューを行った。そして1991年にラジブ・ガンジー元インド首相の未亡人、ソニア・ガンジーとの予定外のインタビューの席で、新しく設立されたラジブ・ガンジー財団で障害者部門を立ち上げたくないか、と聞かれた。彼はこの要請を受入れた。それは、「自分がジャーナリズムを辞めてもこの業界には何の影響もないが、自分がソニア・ガンジーのオファーを断ったら、今まで怒りを感じていた様々なことから背を向けることになる」からだった。「それは自分が障害を抱えていることへの怒りではなく、障害者を見る社会の目に対する怒りだった」。そして1992年5月に、ラジブ・ガンジー財団に参加した。

障害者権利運動の誕生

1994年3月17日、ワシントンとニューデリーの間で衛星による会議が開かれ、アビディはインド側の代表を任された。障害を持つアメリカ人の政治的な目覚めを描いたジョセフ・P. シャピロの「哀れみはいらない」に関して議論が行われた。インド側からは、障害者セクターの幹部クラスが多く出席していた。衛星会議の後、インド側の参加者でディスカッションに熱が入り、アビディは「今、ここでインドの障害者権利運動を始めてはどうか、今が決断のときではないか」と熱を込めて提案した。幹部リーダーたちは、そのアイデアに賛同した。そしてついに1994年4月3日に、インドで最初の包括的な障害権利擁護グループとして、「障害者権利グループ(DRG)」が誕生した。

障害法の成立、1995年

障害権利グループが最初に取り上げた主要問題の一つは、国会での障害法の成立であった。懸命に政府に働きかけ、記者会見や会議、抗議運動や座り込み、大通りでデモなども行った。障害分野で法案成立を望まないグループからの反発さえあった。障害権利グループの努力は報われて、1995年12月に障害者法(機会均等、権利の保護、完全参加)は国会を通過し、1996年2月7日に成立した。インド国内で、障害者に対して統合、平等、権利が主張されたのは、これが初めてだった。

ジャビネットジャビネット

権利擁護団体・全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)の設立

雇用に特化した団体を設立する構想は、ラジブ・ガンジー財団の会議中に形成された。アビディは、雇用こそ、法律を履行する上でもっともレバレッジが働くポイントと考えていた。また雇用問題を主張することで、障害者のイメージをチャリティーや福祉から、経済や開発そして平等な権利へと変えるであろうと考えた。そこでアビディは、全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)を設立した。理事会に、産業、政府、NGO分野の高官を招待した。そして1997年には、センターの事務局長としてアビディが加わった。

革新的なアプローチと戦略

NCPEDPが設立されたとき、多くの人が人材派遣センターのような役割を担うようになると思っていた。しかしアビディは、他の障害団体の多くが既に実施していたサービスの提供は行わない、とはっきり決めていた。政策提言と権利擁護を担うことこそが、社会に最も多くのインパクトを残し、より大きな変革を生むと思っていた。

また雇用は単独で考えることができない、とも確信していた。彼が主張したように「アクセスがインドの障害者のエンパワメントのために必要な絶対的で基本的な要素である。アクセスがなければ、教育も雇用も不可能である。そしてこの3つは、適切な法律と政策がなければ不可能である。このように、4つすべてが実現されるためには、社会の認識が最も重要だ」。これが、NCPEDPが主要5分野、つまり啓発、アクセス、教育、雇用、法律、で同時に活動していた理由である

NCPEDPは、ビジョンを共有する為にネットワークを広げることを決めた。最初に、国を5地域(東西南北と東北)に分けた。それぞれにコーディネーターが任命された。そして1999年に、権利擁護推進のため、NCPEDPは連邦直轄地域を含む全州のパートナーと協力し、障害団体ネットワークを創設した。これは全国障害ネットワーク(NDN)と呼ばれた。NDNは、現在、インドの320県にまで広がっている。NCPEDPはまた、自分たちのネットワークを通して啓発を進めるだけでなく、障害を自分たちの政策や制度にくみ入れるために、特に教育、雇用、建築、情報技術、人権、そして法律の分野のトップ団体と、分野を超えてパートナーシップを発展させた。

NCPEDPは、情報は力であると考えてきた。NDNは、主に障害者に情報を配信するために使われた。送られた情報には、政策文書、研究報告、発生している様々な開発に関する情報、定期的なキャンペーンのアップデートなどが含まれた。これによって、変革の風が吹き始めた。キャンペーンや集会の報告、訴訟の活動情報までもが国中から寄せられるようになった。インターネットがさらに一般的となった2003年には、NCPEDPは大規模な情報伝達の保証を意図したウェブサイトで、「障害ニュース&情報サービス」なるニュース・サービスを開始した。

NCPEDPは、自分たちのすべてのキャンペーンで、メディアを対等なパートナーとして扱った。障害者に影響をおよぼす問題に気づかせるために、メディアに対して常に特別な配慮を行ってきた。結果として、国中の新聞やテレビが、NCPEDPが提供する問題すべてを取り上げるようになった。これは、障害者問題を社会に浮き彫りにさせるだけでなく、政策立案者にも大きなプレッシャーを与えた。

NCPEDPが引き受けた権利擁護キャンペーンの多くは、自然に始まったものであった。それらはニュースや寄せられた苦情から発生したり、また時には、手紙や電話などから扇動されたりした。しかし、キャンペーンで採用されたアプローチは、至って計画的に行われた。まずNCPEDPのスタッフが、問題点に関連したありとあらゆる情報とデータを収集し、非常に簡潔な報告書をまとめた。焦点を絞った研究は、NCPEDPの最大の強みになった。そして、望む成果を得るためにとった戦法は、体系だった計画に従った。まず、関連機関に手紙が送付された。先方から返答がなければ、キャンペーンは第2ステージに進展した。障害者コミュニティーやメディアを動員した、署名運動によるキャンペーンであった。これでも結果が出なければ、非暴力的座り込みや集会の形に強化された。最終的な戦術は、ハンガーストライキか死に至るまでの断食抗議であった。いくつかのキャンペーンで訴訟も起こした。大半の場合、NCPEDPの要求に同意する最終決定を行ったのは、担当大臣か首相によってであった。

NCPEDPの主要成果のいくつか

障害者にも教育の機会を:1998年に、NCPEDPは、インドの全大学の頂点にある大学認可委員会(University Grants Commission)に障害者の高等教育の機会提供について訴えた。結果として、二つの画期的な計画が提案された。一つは、「特殊教育の教員準備研修」であり、教員が障害学生に対応できるよう導入された。二つ目は、「特別なニーズを持つ人の高等教育」であり、大学や短大に障害ユニットを設置し、障害を持つ学生に対してアクセスや機器を提供するものだった。2004年に、NCPEDPは通常学校や大学で、障害者の教育事情を調べる全国的な調査を実施した。その結果に基づき、NCPEDPは、人間開発省の大臣に詳細な計画を提出した。その結果、2005年3月21日に、大臣は国会で、2020年までに、すべての教育機関が障害者を受け入れられるようにすることを提案した。人間開発省の政策に組み込まれたことは、障害者教育にとって非常に意義のある一歩であった。

障害者の雇用促進:NCPEDPは、障害者の雇用状況を大きく変えるために、商業組合との協力を試みた。インド産業連合は、この呼びかけに応え、1998年に連合の社会的課題として障害を取上げた。2000年には、いくつかの著名な情報通信会社の最高経営責任者を集めた会合を開いた。その結果、この会社の多くは現在、障害者を積極的に雇用している。2004年には、障害者に対し、行政機関は不当な差別を行っているとして、キャンペーンを実施した。障害者は、求人の対象にされないか、能力と経験より低いポジションに就くように強制されていた。NCPEDPは、正義と明確な被差別の政策を要求した。結果として、認定された職種のリストが見直され、障害者に適したものとしてより多くの業務が認められた。

公共施設のバリアフリー化:1999年、NCPEDPは、建築家の教育課程に障害を含めることと建築委員会を説得した。2001年にスティーブン・ホーキング教授が来印した時、アクセシビリティに対する注目が一気に高まった。NCPEDPは、障害者のアクセス問題を大きく取上げ、結果として、ホーキング教授が訪問を希望していたすべての歴史的建造物に、スロープが早急に付けられた。その後、インドの考古学調査会は、全国の歴史的建造物を、障害者も利用可能にするための方針を打ち出した。そして2004年に、NCPEDPは、アクセシブルな投票ブースという重要な戦いで勝利した。2004年4月19日、最高裁判所は、2004年の総選挙で投票ブースにスロープの設置を命じた。2004年10月1日には、点字電子投票機も試され、採用された。

適切な法律と実施によるエンパワメント:NCPEDが組織化した全国規模の主要キャンペーンの一つが、2001年の国勢調査に障害者に関する質問を含めるよう促したものだった。もう一つの画期的な成果は、2003?2004年の連邦政府予算に障害問題が含まれ、所得税控除額の引き上げ、障害者の支援機器や用具に対する関税の引き下げが行われた。もっと良かったことに、翌年は完全に撤廃された。NCPEDPによるその他2つのの政策的イニシャティブとして、国家人権委員会の議題、ならびにインドの第10次、第11次の5カ年計画への障害に対する適切な提言案に、障害者の権利を入れるということに関わった。ごく最近では、NCPEDPの直接的な働きかけの結果として、2007年10月1日に、インドは国連障害者の権利条約(UNCRPD)を批准した。

社会の意識変革の向上:毎年12月3日は、国際障害者デー(WDD)とされているが、1997年にNCPEDPは、「自由への歩み」と題したプログラムを導入してWDDに新たな意味をもたらした。障害者が自由を手に入れるために歩んだ長い道のりを表現した象徴的なイベントであった。NCPEDPは、NGOに国中で同じ様なウォークラリーを開催するよう促した。「自由への歩み」は、毎年の象徴的なイベントとなった。国際障害者デーは、障害者が祝うために集い、楽しみ、満足感を表わし、自分たちの集団の力を披露する機会とみられている。1999年に、WDDは全州および連邦直轄領が、共通のテーマとロゴを使用して記念することでさらに発展した。テーマは毎年新しくされ、NCPEDPは、ポスター、映像、テレビ・スポットを通して、そして、有名人に運動を宣伝してもらって、遠く広くテーマの狙いが行き渡るようにしている。

NCPEDPは、多くの課題に直面してきた。取り上げた問題の多くは、政府当局から強烈な反対を受けて、聞き入れてもらうのに長期の抗議を必要とした。インド政府にとって、障害は未だ優先事項ではなく、ほとんどの省庁で障害は議題に上げられていない。障害者をメインストリームに統合するためには、まだやるべき多くの仕事がある。アビディは、障害がさらに国の課題として格上げされるように、UNCRPDと第11次5カ年計画の実施を保障するために、全国規模の勢力を創り出そうとしている。このように、NCPEDPは無視できない勢力としてあり続けている。NCPEDPの影響を直接的、間接的に受けて、広範な障害権利運動の課題を前に進めている多くの若手リーダーがいる。

Javed AbidiJaved Abidi


ジャビッド・アビディ 43歳 1998年からインドのアショカ・フェローであり、全国障害者雇用促進センター(NCPEDP)の名誉所長、創立理事。 二分脊椎として生まれ、医療ミスで車いすユーザーとなった。それにも関わらず、インドの6,000万人以上の障害者に対する政策活動と経済的機会の提供に影響を与えた。

NCPEDP: National Centre for Promotion of Employment for Disabled People
Mail: A -77, South Extension Part II, New Delhi - 110 049, India
Phone: + 91 11 26265647, +91 11 26265648
E-mail: secretariat@ncpedp.org
Web: www.ncpedp.org, www.dnis.org


オラ・アブ・アル・ガイブ

オラ・アブ・アル・ガイブ

OlaAbuAlGhaibスター・オブ・ホープ協会/パレスチナ
2007年よりアショカ・フェロー

障害を持つ女性たちの希望の星 キャタム・マルカウィ著

現代の先進国では、障害者を受入れるために、周囲の環境を変えることによって障害問題に取り組んできたので、障害それ自体は必ずしも問題にならない。

しかし、障害者が地域社会で機能するレベルに達するまで、まだやるべきことが多く残されている途上国では、障害は一般的に問題と見られている。

「問題」の背景には、今まで障害者の権利を認めてこなかった古い文化や慣習、そして障害者が直面する様々な困難に対する社会認識の希薄さがある。

さらに障害者が女性の場合、障害を持つ女性はジェンダーと自身の障害に基づく両方の差別に直面しているので、障害は二重に問題となる。

彼女たちが良い教育を受けることが非常に難しいことは分かっているので、障害を持つ女性の現状は国レベルで早急に考慮しなければならない課題である。さらに、障害を持つ娘がいることを認めるのが恥ずかしいと感じる家族がいる。家族の恥と考え,彼女たちを隠してしまう家族もいる。

このような状況に関わらず、差別という事実を受け入れることを拒否し、地域社会の生産的な一員になる権利の意識と、ポジティブな変化を達成しようと戦ってきた女性たちがいる。彼女たちの目的は、障害コミュニティで有名になることではなく、人類すべての基本的ニーズとして、受容され、教育の基本的権利を獲得し、愛し愛される権利を持つことである。

この世界(実際には中東と障害という2つの世界)でもっとも傑出した人物は1人の女性である。彼女は行く先々でポジティブな変化を起こしている。

彼女は、オラ・アブ・アル・ガイブ。そして彼女の名前は、パレスチナの空で星のように輝いている。自身の障害を弱さとしてではなく、むしろ強さの源として利用するこの身体障害の女性は、母国で女性障害者をエンパワーさせる運動において卓越したリーダーとなった。

「障害が夢を実現するための励みになった」、オラ

オラは最近、念願だった障害を持つ女性を支援する団体「スター・オブ・ホープ(希望の星)」をパレスチナの主要都市のひとつ、ラマラに立ち上げた。

当事者として今まで豊富な経験を積んできたオラは、「辛いことも、学んだことも多かった。そしてこれからも多くのことを学ぶでしょう。私の経験は、私だけのものじゃない。助けを必要とし、自らの権利を獲得しようとする多くの女性と共有しなくては」と語る。

パレスチナの町ナブレスで生まれたオラは、わずか12歳で人生の劇的な変化に対処しなければならず、車イスを余儀なくさせる恒久的な障害を受け入れなければならなった。当時のナブラスの学校は、障害児を受け入れる設備が整っていなかったため、車イスになって3年間ほど学校に通うことができず、自宅に居ることを余儀なくさせられた。このような状況に納得できなかったオラは、教育を受けるための代替案を模索し続けた。

彼女にとって最良の解決方法は、パレスチナの別の都市ベツレヘムに引越し、イギリス人女性宅に下宿しながら私立学校に通うことだった。それはアラブの少女として、もちろん障害者としも、非常に珍しい行動だった。

「伝統的なアラブの家庭にとって、こんなに若い娘が、生まれ故郷を離れて学校に通うことを説得することは、特に障害者の場合、決して簡単なことではありません」とオラは説明する。「それにも関わらず、教育を通して良い人生を送りたいという私の決意と願望は、家族を説き伏せるには十分なほど強かったのです」と彼女は付け足した。

ベツレヘムの私立校では、最初、彼女を聴講生として入学させた。しかし一学期が終了し、全生徒の中でトップの成績を納めると、彼女は一般学生として受け入れられた。しかし彼女の学費は家族にとって高額過ぎたので、勉強を続けたいという彼女の夢を脅かしていた。自らの権利を守るため、オラはパレスチナ社会問題省に行き、成績優秀者として政府に奨学金を要望した。また自宅から離れて暮らしていたため、オラは授業料以外の費用も必要としており、他の資金を見つけなくてはならなかった。学生時代に、障害のある学生と運動をして、彼女はドイツの障害者のための団体と知り合いになった。彼らは、彼女の知性、そしてパレスチナの障害学生コミュニティを代表した彼女の活動、特に障害者に対する学校設備のバリアフリーの戦いに感心し、彼女を全面的に支援すると言ってくれた。高校時代は、ベツレヘム大学の理学療法学科と協力して、いくつかの有名な児童書に障害を持った登場人物を含める活動にも取り組んだ。

自身の障害に対処し、また同時に自分の権利のために戦わねばならなかったので、この数年間は彼女にとって一番過酷な時期であった。けれども、彼女は多くのことを成し遂げることができた。自立心を得、新たな身体的制約に順応し、新たな症状を理解して受け入れることを学んだ。そしてこの行動は、彼女の周りにいる親しい人々の女性障害者の能力に対するイメージを大きく変えた。

成功にむけて熱意を絶やすことなく、プロジェクト・マネジメントを修士論文として、2003年にパレスチナにあるビルゼイト大学大学院を修了した。

大学時代にオラは、再び障害者のためのアクセス欠如の問題に直面せねばならず、アクセシブルなキャンパスの権利を求めるキャンペーンを開始した。彼女が尽力した権利擁護活動により、キャンパス建設委員会の委員に起用された。大学から任命され、障害者のニーズをキャンパスに対応させるためにエンジニアと働いた。それには多くの立案や事業管理も含まれていた。

オラ・アブ・アル・ガイブオラ

「このレベルに到達することは、私には簡単ではありませんでした。アクセシビリティにしろ、コミュニティの壁にしろ、多くの障壁に直面し、行く先々で闘わなくてはならなかったのです」とオラは語る。

リハビリテーションセンターで働いていた時、障害の権利擁護者として素晴らしいファンドレイジング能力を発揮し、自らの身体障害が、命ぜられた仕事をする上で決して邪魔にならないこと、熱心な職員であることを証明した。

このことについてオラは、「私は戦士として生まれました・・・。自分の権利とすべての女性障害者のための戦士として。自分をエンパワーすることから始めて、今は他の人たちをエンパワーすることに向かっています」と語っている。

「当然のことを要求することは、何も恥ずかしいことではありません。私もここにたどり着くまで、当然のことを要求するために、可能性のある門をすべて叩き続けてきました。自分の権利に関係する何かを奪われるなら、私はこれからも同じような方法を続けて行きます」とオラは言う。

課題

他のアラブ社会と同様、過去数10年間に渡り、女性の平等に向けた取り組みが行われてきたものの、パレスチナ社会では女性に対する差別はいまだに蔓延している。そして障害を持つ女性に対する差別はさらに根深い。実際に、パレスチナの女性障害者は3つの重荷を背負っている。ひとつは女性であること、ふたつ目は障害者であること、そして最後に、武力闘争下で暮らしていることである。パレスチナ全国情報センターの調査によると、障害者の総数は107,700人で、うち女性は52,200人である。この大きな数にもかかわらず、彼女たちは障害者の中でもっとも脆弱で、かつもっとも守られていない。その多くは隠され、黙らされ、彼女たちの悩みは知られず、声を聞かれることもない。

統計情報の欠如と施行されない法律

2007年のパレスチナ統計局報告書によると、国民の5.2%が障害を持っている。しかし、障害を持つ男性、特にインティファダ(訳注:イスラエルに対するパレスチナのアラブ族による反乱)中に障害を負った男性に対する態度は、あまり差別的ではない。パレスチナで障害を持つ女性は、教育への機会、就職、結婚、社会的地位など、生活のあらゆる場面で偏見や日常的差別を受けやすい。

ほとんどの人々、そしてほとんどの社会において、障害者に性別の違いはないと考える傾向がある。男性中心社会では、障害を持つ女性はより不利な立場に置かれる。女性のもっとも重要な役割が、結局のところ、出産と育児とされている地域もある。それはつまり、妻や母であるから社会的地位が築かれることを意味する。そのような地域や社会では、障害者は子どもを生み、そして育てることができないとみなされるので、ほとんど価値がないと見なされる。時には、性とは無関係と見なされることさえある。

障害者は身体的、精神的、性的なあらゆる種類のひどい虐待を経験する。統計では、障害を持つ女性の方が、障害のない女性に比べて性的暴力に遭う確率が高い。どの社会でも外見を重視しているので、女性障害者は、障害のない女性より価値が劣ると思い込まされている。この否定的自画像が、被害者となっても沈黙したり、被害者だと信じることを拒んだり、また容疑者の起訴の欠如と相まって、性的虐待の危険性を高めている。障害を持つ少女や女性に対する身体的、性的な暴力は、家族内や施設において、また社会全体で憂慮すべき割合で発生している。

さらに、障害を持つ女性の権利を考えてくれるプログラムや団体が、パレスチナにはない。いくつかは限定的な医療サービスを提供しているものの、パレスチナの一部に地域が限られており、また一定の年齢に達するとサービスが受けられなくなってしまう。

オラは、パレスチナ全土を見ても、女性障害者を中心に据えたプログラムは存在しないと断言している。「私は20年間障害とともに生きてきた。そのようなプログラムがあれば、知らないわけがありません」。

何よりもまず、パレスチナは占領下にある国である。法律は書面上存在していても、政治的、経済的、社会的ないろいろな理由から施行されていない。特別なニーズをもつ個人を対象とするパレスチナの法律は、1999年に制定されたものの、いまだに施行されていない。この状況を変えるためには、地元のすべての団体が協力して取り組む必要がある。ただ残念なことに、協力する準備ができている団体はほとんどなく、問題が実際に存在していることを認めないことさえある。

このような課題と、障害を持つ女性に対するサービスの欠如がきっかけとなり、オラはスター・オブ・ホープ(希望の星)を設立し、障害を持つ女性への差別のない地域社会づくりのために働いている。

しかし、成果を上げるためのすべての努力にも関わらず、彼女はいまだにさらなる努力を強いられる問題に直面している。障害を持つ女性の正確な人口統計と彼女たちのニーズが主な問題で、それに加えて、女性障害者が必要とする基本的な医療とリハビリテーションを提供するための財源が確保できていないことである。

専門家としての経歴を通して築いてきた、国際的な障害者団体のネットワークを通じて資金を募っていると説明しながら、「資金源を見つけるのは至難の業です」とオラは言う。

他の問題は、障害を増大させ、機会を限定する環境的な障壁である。環境改善の欠如やアクセシブルな建物の不在は、障害を持つ女性の行動の自由を奪ってしまう。すべての障害者に対する輸送手段は、市民権の行使と社会参画における重要な鍵となっている。女性は一般的に、また女性障害者は特に、男性より移動の自由が限られている。車に乗る機会も少なく、文化的、社会的な背景により家から出られないことが多い。パレスチナの公共交通機関は、障害者のニーズを考慮していない。そして私的な交通手段があるとすれば、家族の男性陣に使われるのが普通である。

障害を持つ女性が直面する最大の課題は、女性障害者の権利に関する周囲の認識が低いこと、持続的でポジティブな変革を行う支援体制が存在しないこと、とオラは説明する。パレスチナの社会は、残念ながら、障害を持つ女性に対する態度の変革を受入れる社会的準備がいまだにできていない。そのために、彼らの多くは排斥されるか、自宅で孤立するか、施設で隔離されている。

方策

障害を持つ女性が、社会的、経済的、政治的、文化的な生活のあらゆる側面で参画できるように積極的に促し、社会に訴えかけることがオラの目的だ。彼女は自分の団体を、制度的な権利擁護活動、政策立案者へのロビー活動、そして障害を持つ女性に対するサービス、支援、情報、教育の提供を通して、パレスチナの女性障害者を全国的に代表するような団体にしたいと思っている。目的を共有する他の市民社会団体とのネットワーク化も、地域社会レベルで彼女に対する支援を確かにするための手段の一つである。

戦略

目的のために努力するにあたって、彼女は2つの戦略を掲げている。

最初の目的は、パレスチナの女性障害者への総括的な支援の提供である。2番目の目的は、全国・地域レベルで行う啓発と意識改革キャンペーンを通した女性障害者の人権と市民権のキャンペーンである。彼女の戦略を実施し、彼女の構想を宣伝するための制度的な枠組みは、女性障害者が立ち上げ、女性障害者が主として運営している市民社会団体、スター・オブ・ホープである。これはレバント地方(訳注:地中海の東側沿岸国、キプロス、エジプト、イスラエル、レバノン、シリア、トルコを指すもの)だけではなくアラブ全域においても、最初で唯一の女性障害者が運営する女性障害者のための市民社会団体である。

オラの市民社会団体は、女性障害者自身の実体験に基づいて、非常に現実的で具体的な方法で女性障害者の苦境のために解決策を提供している。彼女たちは、オラを筆頭に女性障害者のエンパワメントのロールモデルであり、変革を可能とする生きた証である。オラは、理事たち共通の悩み、責任、経験や技能が、使命達成のために彼女を支える土台であることを確信している。

自分の団体を通して、女性障害者の人数やニーズを調査するために、オラはパレスチナで初となる資料センターを設立する予定である。これは、女性の間で障害の原因と広範囲にわたる影響の除去に立ち向かう際に土台になるだろう。

スター・オブ・ホープのサービス

スター・オブ・ホープは、オーダーメイドで個々の障害の種類、ニーズや興味に合わせた女性障害者のための包括的なサービス・パッケージを作った。サービスの内容は、心理カウンセリング、能力開発、技術向上、自己啓発トレーニングなどである。これによって、女性障害者はニーズを自ら主張することを学ぶ。スター・オブ・ホープは、障害を持つ女性や少女が一般社会で受容されることを保障するための知識、情報や技術を生み出すために、草の根レベルで働いている。それに加え、女性障害者に対する偏見が根強い地域にある社会的孤立をなくすために、包括的なアウトリーチ・プログラムも実施していく予定である。さらに、オラと彼女の団体は、男性カウンターパートや他の人と同じように、女性障害者が自らの能力を高め、市民社会で社会的責任と生産的役割を担うことができるように研修サービスを提供している。

継続的な啓発とロビー活動は、法改正を実施するために必要な圧力をかけるため、また政策立案者に障害を持つ女性の権利を認識させたり、彼女たちの社会参加を促進させたりするのに有効な手段である。そのためオラは、社会認識を高めるため、そして女性障害者に対する支配的な態度を変革するために権利擁護キャンペーンを準備した。

オラの功績

オラ・アブ・アル・ガイブスター・オブ・ホープは、パレスチナで女性障害者の権利を向上させた初めての障害者団体である。今までに多くの女性の生活向上に成功し、そのすべての人が、この変化はリーダーであるオラ・アブ・アル・ガイブのビジョンによると考えている。

「スター・オブ・ホープで働くようになって、自分に自信が持てるようになりました」と語るのは、スター・オブ・ホープのスタッフで視覚障害のシャタ・アブ・スロールである。「仕事に就くことで自分の可能性や能力を発揮する機会が得られました。また、他人と協力し合うことや課題に立ち向かうコツをおおいに学びました。オラは非常に柔軟で素晴らしいマネージャーであり、彼女のおかげで、職場で尊敬を集め業績もあげることができました」とアブ・スロールは結んだ。

オラは、モハマド・アブ・ガイブと結婚し、彼との間に5歳の息子がいるが、彼女は自分の人生を、女性障害者の権利が守られるまで休むことない地域社会での闘いである、と語った。

「私は明けても暮れても戦い・・・、自分の職務がまっとうされるまで戦いをやめません」とオラは宣言する。「私は、伝えるべきメッセージがある障害を持つ女性です。このメッセージは、家族、同僚、スター・オブ・ホープ、そして障害分野のすべての活動家を通して世界中に伝えられるでしょう」。


オラ・アブ・アル・ガイブ
パレスチナのナブラス生まれ。2007年よりアショカ・フェロー。パレスチナ初の女性障害者による当事者団体の創始者であり会長である。12歳の時に障害を負って以来、彼女の人生は大きく変わった。何があってもあきらめない強い意志と向上心で学位を手に入れた。障害、開発、リハビリテーション・サービスの分野で14年以上のプロジェクト運営経験がある。全国レベル、地域レベルの両方で、障害マネジメントのプログラムに幅広く参加している。

Stars of Hope Society
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E-mail : info@starsofhope.org
Web: www.starsofhope.org



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