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1-1

われわれは別の星界についても同様の推測をする。すなわち、それらの領域にはいずれも居住者が存在する。というのは、それらは、それぞれわれわれが住む世界と同じであり、ひとつの宇宙の特定の領域であり、この宇宙には星の数と同じだけ無数のそうした領域が存在するからである。                          ――ニコラス・クザーヌス

 

 

 

……ずっと以前に諸地球が存在し

この地球以前に人と獣が住んでいた、

その後別の地球が再び生じ

別の獣と別の人間が生まれた……。

別のアダムがかつて息を授かり

また別のアダムが何度も繰り返す

これは最後の大火でいつか消滅するに違いない。                          ――ヘンリ・モア

 



 

 世界は最初から数のとても少ないものだったから、カズナが偶然死んでしまうことなんてなかったし、そもそも永遠に生きているなんてありえない。昼間の交差点で電話をしてみると、カズナは「誰ですか?」といつもの声で言うのだった。

 電話をしたのは、以前を思い出せないくらい久しぶりのことだった。ずっと昔に一度だけ電話をした覚えはあるけれど、電話を通して聞くカズナの声を具体的に描けないから、もしかしたら別の人と混ざっているだけかもしれなかった。中学生のころに知りあって、もう四年くらいにはなっていた。その間ずっと電話をかけていなくても、二人にとっては仕方なかった。文字では足りないし、どうしても会えないときくらいにしか電話しない。そんなことは少なくとも、高校に入ってからは一度もなかった。

 いつのころからか、みんなのあいだで囁かれていた噂によれば、カズナが死んでしまったあれからもう一年も経つのに、カズナとそっくりな人が街を歩いている。髪も服装も似ている。見かけたと言う人はハルをはじめ何人もいたけれど、とっさに話しかけてみたりしたのは誰もいなかった。

 

 七月のある日、夏休みのはじまる前の学校で、ハルは静かに喜んでくれた。ハルとは幼稚園のころから親しかった。乗っていた電車が止まって遅刻したから、一時間目の授業が終わって初めてハルに聞いた。数学の授業だった。カズナは駅前の信号をひとりで歩いていた。

「最初見たときはただのそっくりかと思ったけど、やっぱり違ってさ、なんだろう、歩くスピードがちょっと速いじゃん、カズナって。だから、そっくりとかじゃないなって、カズナだなって思ったんだけど、びっくりしちゃった。他の人より半分くらい速かったし。

 でもよかったじゃない、うまくいって。こんなことなら隠さず言ってくれればよかったのに。祝ってあげる」

 その日は二人で帰らなかった。ハルは病院の予約をしていた。学校から駅までの途中にその病院があった。皮膚科だった。中から分厚い毛布のような上着をきたおばあさんが出てきて、その後ろを緑のワンピースを着た女の子がついてきたかと思ったら抜いた。一度も行ったことのない病院だった。ハルは小さいころに一度だけ行っていた。駐車場がなかった。

「なんの病気?」

「病気とかじゃないかもしれないんだけどね。

 入院するかも」

 ハルは予約の時間を四十分遅れていた。

 

 わたしは駅でカードにお金を入れないといけなかった。昨日は覚えていたのに、すっかり忘れてしまっていたからびっくりした。

 財布を見れば、一万円札しかなかった。いつも五千円ずつと決めていた。中学校にはずっと自転車で通っていて、高校は中学校とは逆の方角だったけれど、同じくらいの距離だから、二学期から自転車に変えるかもしれなかった。学校に通うだけでお金を使うなんて、そんなのは絶対に許されないと思っていた。

 券売機にカードと一万円札を入れて、お釣りが出るのを待っていると、十五秒くらい経ってから、お札の出る黒い部分が券売機の中へなんの引っかかりもなく入っていった。そのままなにも変化がないから、もしかしたら音楽を聞いているのはいけないんじゃないかと不安になって、イヤホンを外しながら横を見ると、隣で切符を買っていた登山できるくらい大きなリュックサックを背負った男の人が、わたしを見てからわたしの横を見た。眼鏡をかけていて、そういえば昨日もこの人を駅の構内の監視カメラ越しに見かけた。目を細めて路線図を何度も確認していた。つられてわたしも視線を向けたら、わたしの横には小さく穴のあいたガラスの小窓があって、駅員の人がじっとこっちを見ていた。

 

 帰るのに時間がたくさんかかったような気がした。学校の最寄駅から三つ先の大きな駅で乗り換えて、四つ先の駅で降りてから、まっすぐ坂を上っていけば左手に七階建てのアパートがあった。そこの三階の角部屋に、お母さんと二人で住んでいた。お母さんは仕事でいつも帰るのが遅くて、下校すると家で一人になるのは中学生のころからずっとだった。

 鍵を開けて靴を脱ぎ、玄関から廊下、リビング、洗面所、自分の部屋と、順番に電気をつけていき、それから自分の部屋で制服を脱いだ。いつのまにかそれが習慣だったけれど、わたしにもよくわからなくなっていた。ほとんど事務的なんだろうな、と思った。体が自分からパチンパチンと電気をつけていくときに、わたしはぜんぜん違うことを考えたりしていた。なにも考えていないときもあったりした。今日もやっぱり家中を明るくしながら、そういえばハルの話を思い出していた。なんでハルがあんな冗談を言ったのか、わからなかった。すごく当然の様子でいたけれど、わたしはカズナが死んだということをそもそも知らないし、数日前もメールで何気ないやり取りをした。そのときもカズナはなにも言っていなかった。それが別々の高校に入ってからずっと続いていた。

 おとといはこんな会話があった。

「今日は靴を買いに行ったんだけど、ダメだった。歩いてる人の靴をずっと見てたらわかんなくなった。形というか、そもそも靴以上に違いが無いような気がして」

「だって靴を見てたんでしょ?」

「なんでこんなにみんな同じふうに靴が歩いてるのかなって」

「うーん、歯磨きしてるとたまに歯があるって違和感しかなくなるよね。あとからむりやり刺しこんで絶対に抜けないよう接着剤でくっつけてさ、それを必死にブラシで擦ってるなって、いつかは抜けるなって、手の動きではっきりわかっちゃったりする、そういうことだよ、きっと。

 ほら、むかし言ってたじゃん、小学生のころ目を測ったんでしょ、定規で? 自分のだけじゃなくてみんなの。いつも使ってる定規じゃどれも同じ大きさの目になっちゃうって、精密じゃないとダメだって、何度も聞いたよ」

「なにそれ、知らない」

 そういったすべてがメールの履歴によって残されていた。送信分と、受信分。

 部屋着に着替え、ベッドに寝転がりながら、iPhoneのメールボックスを順番に辿ってみた。受信フォルダをいくつか見るだけで、すぐに嫌になるのがわかって恥ずかしかった。自分のメールへの返信だと許したくなかった。ブログも日記も数ヶ月で残さず消してしまうし、小学生のときに授業で書いた遠足の感想も、いつのまにか行方不明にした。メールの履歴はずっと残っていることに意識が向かなかっただけだった。

 わたしは送信済みフォルダの中にあるメールを、すべて選択して削除してみた。すこしの間をおいて空っぽになった画面を見ると、できる限りそのままにしておきたくなった。これでわたしが誰かにメールを送れば、そのひとつだけが際立ってフォルダに入れられる。そのときはまた消してみて、そうやって何度も確認しては消すのを、これからもずっと続けていこうと思った。

 

 夜が来たから、ひとりでお母さんの用意した魚の煮込みと、インスタントの味噌汁と、ご飯と、アーモンドを食べて、お風呂に入った。ベッドで音楽を聞きながら、会ったことのない四歳年上の女の人にTwitterで返事をした。たぶん四歳くらい年上だった。突然勧められたバンドの音楽を、とりあえず聞いたことにして感想を言った。

「すごくいいですね」

 と言うと、

「反復がいいよね」

 と言われて、きっとそうなんだろうな、と思った。詳しい人は本当にわたしよりずっと詳しかった。

 十時になると眠った。まだ眠くなかったけれど、一日を十時に終わらせるのがいいと知っていた。三年前からだった。雑誌ですごい人が、十時に寝て、四時に起きて、パンを食べてから水泳とランニングをしていたから、わたしはいつも六時に起きて、学校に行くと、健康になったような気がした。それは間違っていなかった。なかなか眠れずにベットでじっとしていたら、ハルの言葉が七回聞こえる夢を見た。枕元にも部屋のすみにもいない、姿のはっきりした暗闇として、ハルが言った。

「よかったじゃない、うまくいって。祝ってあげる」

「なにを?」

「覚えてないの?」

「あ、わかった、すごく思い出した!

 なんで忘れてたんだろう?」

 目を開いたときには、もう目覚めていた。時計を見ると、まだ二十分もたっていなかった。夢の中で思い出した内容が、夢なのかそれとも昔の記憶なのか、わからなくなった感覚を五分くらいかけて忘れた。

 リビングでは、テレビの笑い声が聞こえて、お母さんは仕事から帰っていた。売れ残りの惣菜を食べていた。イカのフライと黒糖の蒸しパンと、わたしの残した魚の煮込みだった。テレビを見つつ、携帯電話でメールを打った。打ち終わると蒸しパンを食べた。昔から好きだった。

 お母さんは服を売っていて、接客が家でのお母さんとほとんど変わらなかった。一度勤めている百貨店に呼ばれたから行った。店員として、お店の服を買って着ないといけなかった。

「これとか、どう?」

 と白いブラウスを見せられた。

「いいね」

 とわたしが言った。すぐ近くにある紺色のカーディガンの値札を見ると、わたしの誕生日に貰うお金の三倍だった。すごいと思った。

 お母さんは松葉杖をついたお客さんが来て

「どうぞ御覧ください」

 と言った。小学校のころの先生に、眼鏡や立ち止まり方が似ていた。髪型はぜんぜん似ていなかった。わたしは、いい先生だったから

「久しぶりね、大きくなって!」

 と喜んでくれるのを待っていたのに、お客さんはこっちには構わず、白のジャケットの試着をはじめたから、エレベーターで帰った。お店があるのは百貨店の西側の三階で、東側の一階がいつも登下校の乗り換えで使う大きな駅と繋がっていた。お母さんは車で通勤していた。わたしはここ一ヶ月くらい、お母さんが運転する車に乗っていなかった。運転がそんなに好きじゃなかったし、お父さんがいたころにはほとんど運転なんかしなかった。だからお母さんはとても疲れていた。テレビでおもしろい人が何人も海に飛び込むと笑った。携帯電話が鳴れば蒸しパンを食べるのをやめて、メールを打った。おもしろい人が何人も港で手を振っていて、二十本くらいは振っていた。

「おつかれさま」

 と言いに行ってもよかったし、本当なら言うべきだったのに、ベッドから出られなかった。寒かった。焦らなくちゃいけないような気がしたけれど、なんのことかよくわからなかった。眠れないし、カズナは起きてるかな、と思った。

 枕元においてあったはずのiPhoneを手探りで見つけて、部屋の明かりもつけないまま画面光だけをたよりにメールを送った。数分で返ってきた。いつも通りの文章だから、きっとカズナはまだ眠っていなかった。

「ねえ、街でなにしてたの?」

 と打った。

「どうしたの」

 と返ってきた。速かった。

「いいからさ」

「昨日ならエビだよ。大きなデパートがあるでしょ? 駅を出て右側にある、本屋とか入ってるところ。百貨店の方じゃないよ。あそこの近くに熱帯魚の店があるらしくて、地下だけど行ってみるとすごく汚かった。魚とか少ないし、水が濁ってうまく中が見えなかったりするし、店員も笑ってた。エビはいたけど値段だけ見てきたよ。半分食われてた」

「熱帯魚飼ってたっけ」

 お母さんがお風呂に入った。ニュースが流れていた。事故が多かった。メールが来るたび震えるiPhoneを両手で包み、眠っているふりをしてみた。七人の子どもが車に轢かれた。

「エビだよ?」

「エビだけ飼ってるの?」

「まだだって。熱帯魚は知らない。あんまり魚はいいんだ。ザリガニを十歳のころに飼ってて、ぼくの代わりに母親が水を換えようとしたのが冬だったんだけど、寒かったからお湯を入れたら死んじゃった。四十度とかで水槽に入れたら、ふわっとすぐに浮いたって学校から帰ってきたら言われて。ごめんねって言ってた」

「赤くなったんだね」

「最初からだよ」

 お母さんが眠った。わたしも三十分して眠った。

 

 カズナは中学生のときに、給食で出たエビをいつも隣の人にあげているわたしをからかった。すごく恥ずかしかった。エビは形のほとんど残っているエビが虫みたいでおいしく食べられずに、すり潰したものならおいしくなくても食べられた。お父さんが箸で茹でられたエビをつまんでわたしに言った。

「エビを食べるとエビに乗っ取られるんだよ」

 わたしが見つめているのを確認してから、殻のついたままのエビを口に放りこんでよく噛んだ。パリパリと割れる音が聞こえるような気がした。実際に聞こえた。お父さんはいつも決まってそんな具合だったし、お母さんは普通に食べた。

 お父さんの運転する車で大雨の橋や高速道路を渡ってどこかの旅行に行ったときも、駐車場の自動販売機で喉の乾いたお父さんが飲み物を選びながら、わたしはコーラを飲んだらダメだと言った。

「コーラは石油なんだ」

「なにそれ?」

「毒のこと」

 そうしてメロンソーダをわたしに買い、お父さんはコーラを飲み、わたしは炭酸が飲めなかったからお母さんが全部飲んだ。

 

 お父さんの言うことはみんな本当だと思うのに、わたしはある日ふいに嘘だと知っていた。どうしてかわからなかった。友達が平気でコーラを飲んでいるのを見たときからか、それともゆっくり知識としてわたしは知ったのか、はっきりしたきっかけの出来事が思い出せなかった。もちろんショックなんて受けなかったし、変なお父さんだったな、くらいにしか思わなかった。

 でも、コーラもエビも嫌いに思うのは、ずっと変わらないものとして残った。お父さんの言葉を否定する友達の言葉を信頼しようにも、体の底までおりてこない。入口のどこかでつっかえてしまい、滞った声は池のように溜まっていった。それは水面が澱んでいてとても危なかった。

 カズナの言葉をいつも通りだと考えるべきだったのに、会話が数ミリずれているような気がしてしまったこと、それも単に横へずれたのではなくて、一度消し、上からまた重ねるのに間違えてずれてしまったことは、絶対に嘘にならないといけなかった。それか冗談や錯覚にならないといけなかった。もしも間にあわず奥まで入ってしまったとしたら、いくら塗っても削っても、元に戻ることがないと思った。どこまでがつまり、どこまでが奥へと入っていくのか、わたしのことなのに自分でうまく見極められなかった。


1-2

 週末に会う約束をしていた。写真集をカズナは返さないといけなかった。わたしは直接会ったら危ないずれもすぐに萎むか膨らむかして、すっと抜け出すような一致におさまってくれると信じていた。自分の目で見るのが一番正しかった。

 学校の先生が、

「エジプトの人は生死にあわせて動いたり止まったりする心臓を生命だと感じたし、中国の人は呼吸だと感じたし、それは直接見たり触ったりすることができるからです」

 と言った。世界史の先生だった。一度も好きにならなかったけれど、そのときはすごく感動して、普段と変わらないところを一本だけ見ればいいんだな、と、カズナと会うのをめずらしく楽しみにしているのがわたしにもわかった。

 

 週末のすごく混んでいる街中の喫茶店で、昼頃に待ちあわせた。よく来る喫茶店だった。十分たっても来なかった。いつものことだから、店内に流れるジャズみたいな音楽の拍子を、区切りつつ数えていると、三十八回目くらいになって、わたしのとなりの席に座る女の子がiPhoneにイヤホンを刺しながら店員にサンドイッチとホットコーヒーの注文をしていた。知らない制服の高校だった。きれいだった。髪の毛はわたしと同じくらい長くて、同い年くらいだったのに、わたしはカウンターじゃなくても席に座ったまま注文できるなんて、それまで見たことがなかった。

 注文が終わって店員が離れると、女の子はジャズでない音楽をひとり聞きながら足を組み、革張りの手帖をカバンから取り出して蛍光ペンで線を引いた。それからうつぶせた。すごくカラフルだった。赤も青も緑もあった。わたしは女の子の背中の制服の皺を見ていると、何回数えたのかわからなくなったし、曲調が変わった気がした。同じ曲かもしれなかった。カズナは遅れてしまうとメールで言った。後ろの席の男の人たちがうるさかった。六人はいた。

 

 二十分くらいしてようやく喫茶店にやってきた人は、店に入ってすぐにカズナだとわかったから、小さく右手を振った。わたしは店の一番奥にいた。店の奥といっても、歩道に面したガラスの壁が縦長に続いている道沿いの店の奥は、奥という感じがあまりなくて、歩道を歩いているたくさんの人のなかにカズナかもしれない人がいたから、じっと目でたどっていると、店に入ってきたからカズナだった。カズナはふらふらと店の入り口に立ったままわたしを探せば、小さく手を振っている動きが見えたから、こっちに早歩きで来たけれど、わたしは近づくにつれて

「あれ、こんなんだっけ?」

 と思った。もしかしたら人違いかもしれなかった。服装も歩き方も、どこが違うのかはうまく言えなくて、でもはっきりとした不安が焦りになると、背中に汗がつたって冷たかった。黒いポロシャツを着ていた。絶対に間違えた。

「あー、あの……」

「ごめんごめん、前を歩いてる人が遅くて。何分遅れ?」

「えっと……、二十分」

 目の前に座ったカズナは、少し日焼けをしていた。

 店員が当然のようにやって来て、ご注文をどうぞ、と言った。カズナは借りていた写真集をわたしに手渡しながら注文した。昔から苦手なはずのアイスコーヒーだった。少々お待ちください、と言って店員が離れていく数秒後になって、わたしはようやくそのことに気がついた。わたしもアイスコーヒーを飲んでいた。もう半分くらいなくなっていた。

 机の上には薄汚れた黒のビンと白のビンのふたつ並んでいる写真集の表紙があって、店員はそれをちらちらと、見てはいけないもののように見ていた。

「変わったんだね、システム」

「なんで?」

「前までは席にわざわざ注文聞きに来てくれたりしなかったじゃん」

「前からだよ?」

「え、知らなかった」

「そっか」

「うん……コーヒーさ、胃が痛むんじゃないの?」

「今日は大丈夫。というか最近かなり慣れてきた。なんで笑うの」

「ううん、写真集よかった?」

「あ、物みたいだった」

「どこが?」

「からだ」

「あの人のなかでも特別だと思う。普通は街とか撮る」

「すごい有名でしょ、名前。だから部活の人もみんな知ってたんだけど、見せたらびっくりしてた」

「へえ、見せたんだ。これを?」

 写真部に入ったわけではなかった。わたしは写真は撮らないけれど写真集は好きで、カズナは写真集を持っていなかった。親戚のおじさんがカズナにカメラを貸してくれた。中学のときは写真なんて話さなかったのに話すようになったのは、違う高校に通うから話題がぜんぜん足りない。カズナは中学のころから野球部だけれど、野球がそんなに好きじゃないと言うし、わたしも野球は知らない。ルールは知っている。お父さんが野球を見るのが好きだった。

 通っている高校についてわたしはよく話された。カズナの言うことを聞いていたらどうなっていただろうと考えたりはしなかった。わたしとカズナは中学ではクラスもずっと一緒だったのが、高校はカズナは優秀な私立の高校に行って、わたしは近くの商業高校に行って、

「もうちょっとだけ勉強すれば行けるんだからもったいないよ」

 と勧めてくれたのに、わたしはお母さんのためというより金銭一般を思って商業高校にした。学校は制服もなくてみんなすごく楽しいらしい。

「わたしは制服着るのだけ嫌だな」

 と言うと、

「じゃあ来なよ、行こうよ」

 とカズナが言うそれがいつも申し訳なかった。お母さんに言ったりはしなかった。

「授業中にテニスコートでテニスしてるのがいてね、それを窓際だから見てたんだけど、目があって、遠すぎたからそのまま見てたらあっちがさ、知ってるやつかもしれなくてこっちに向かって何か言ってて。授業中だからテニスの声も聞こえなくて口だけがこう、ね、それは見えるけど顔は見えなくて」

「誰だったの?」

「知らない」

「なんで」

「顔見えないって言ってるじゃん」

「目があったのに?」

「最近目が悪くって、すれ違っても気づかないから、あとでメールで言われる」

「それ、関係ないよ」

「そうかなぁ、目が悪いのは間違いないけれど」

「まぁね、昔からちょっと悪いって言ってたよね。

 そういえばさ、エビってよく食べるの?」

「えっ?」

 カズナが思わず変な声を出したから、ストローをくわえていたのに笑ってしまった。タイミングよく店員がテーブルにおいたアイスコーヒーを一口飲んで、やっぱり苦い、と顔をしかめた。ミルクも砂糖も出してもらったのに入れなかった。それから、エビがなんだっけ、とようやく思い出したように言った。

「よく食べるの?」

「苦手な人いるよね、見た目が虫みたいで気持ち悪いって、同じクラスの人も言ってた」

「水槽のエビのこと」

「あ、うん、そっち? これから買いに行く?」

「エビ苦手だし」

「そうだっけ、でもそれって食べる話じゃん」

「いっしょだよ!」

「えー、なにそれ。っていうか、まえ食べてなかった? グラタンとか」

「ほんとに?」

「うん、食べてた食べてた。いっしょにいたじゃん。目の前で見たよ」

 そう言いながら笑ったから、そうなのかもしれなかった。

 でも、重たいずれのようなものが、胃の部分を黒い影で震わせていくのも本当だった。カズナがゆっくりアイスコーヒーを飲むのと合わせて、胃の部分がみるみるうちに大きくなったかと思ったら、最初から大きく、欠けていながらそこをうごめくなにかが満たしていた。それは小さなエビが、数万匹も前後左右に食べては繁殖していて、もう何十年も前からどろりとした密度のなかで、エビたちは生きているのだった。

 そのうちなんだか自分の胃にも肺にも、エビの何匹かが感染したような予感が生まれた。痒かった。見ると、カズナよりもわたしの方がずっと大きかった。指が何本も入りそうなくらい広くて深いうごめきだった。なのにわたしは少しも気づいていなかったし、ちょっと笑って、視線を遠くにふらつかせながら言葉ごとに軽い相槌をうつだけだった。

 わたしはガラス越しに見える店の前の道路を歩いている、黒と白のチェックの帽子をかぶった若い女の人を見ていた。腕が三本あった。

 ぼんやり目で追っていくと、茶色の耳に半分だけかかったビニールみたいな髪の毛を、左肩の九十度正面にずれて生えた三本目の腕で撫で、その間も残りの二本は揺れるスカートの横を前後しているだけだった。ふたりがひとつの服を着て、ひとつの髪の毛を触っているようだったけれど、それとも少し違った。カズナに言わなくちゃいけない気がした。でも、わたしが間違っているかもしれない不安は残っていたから戸惑うと、あっという間に女の人は歩いて行ってしまった。当たり前だった。姿が見えなくなってからも、わたしはそのまま目で追い続けていた。

「誰かいた?」

「ん、どうしてそんなこと聞くの?」

 笑いながら、もうひとり三本腕の人がいるかもしれないと思い、探して確かめようとしたけれど、ガラス越しの雑踏のなかには人の種類が多すぎて、そこから一人を見つけるなんて時間がとてもかかると思った。雑踏の誰も驚いていなかったし、わたしもそんなに驚いていなかったし、わざわざ三本目の腕を通すための袖口のあるワンピースを着ていたことを考えれば、これまで会ったことがないだけで、他にも平気な顔をして歩いているのがいたのかもしれなかった。それは、いかにもお父さんがわたしに教えてしまいそうなことだった。のら犬を何十匹も空から落とすのが、途中で大粒の雨になり、強風とともに街へと降り注ぎ、みんなが毎日飲んでいる。排水路を流れ、浄水場で洗われ、パイプを通って台所の蛇口から顔を出す。そんな辺鄙な想像を子どものころによくしていたけれど、あれはお父さんのものなのか、それともわたしがお父さんに話してみたことなのか、今ではよくわからなくなってしまった。

 すると、さっきまで焦点を当てていなかったガラスの手前の席で、斜めに差し込む日光を眩しく思いながら、ナプキンに文字を書いたり齧ったりしている初老の男の人の左目が、一度も開かなかった。

「それよりさ、胃は大丈夫なの?」

「もう慣れたんだって。まだ痛くないだけかもしれないけど。意外と柔軟みたい」

「じゃあ、一生そうなんだ」

「わかんないよ、あと十秒で痛くなるかもしれない」

 わたしはゆっくりとうなずいた。

 アイスコーヒーを口に含み、飲み込まずにしばらく舌の上でころころと転がしながら、周りを見わたしてみた。店の中にも店の前の道路にも、人が一切いなくなっていた。

 頭上を大きな飛行機が時間通りにさっと通っていき、突然の暗闇が、閑散とした駅前のロータリーを、バスが一台、タクシーが二台だけにして残りは消した。カウンターで注文をたずねる店員も、サンドウィッチを片手にパソコンの画面を見る短髪の会社員も、レジで並ばず家に忘れた財布を探す女の人も、みんな飲んでいたコーヒーや見ていたパソコンといった痕跡を拭いさって、薄っぺらなフィルターをかぶせられていた。

 すべてが二重に見えた。カズナがいなくなったわけではなかった。カズナはそこにいて、カズナの上からいないカズナが重なって座っていた。カズナがiPhoneを眺めながらアイスコーヒーのグラスを触り、水滴が爪と指の間に入り込んでいるのと違って、どこにもいないカズナはなにもせずにその場から素早く顔をあげた。iPhoneを眺めていたカズナもこっちを向いた。四つの目がわたしの十五センチ前を見ていた。そこにわたしが座っていた。

 

「アイスコーヒーをひとつ」

 店員が離れていくと、カズナは鞄から借りていた写真集を取り出し、薄汚れた黒のビンと白のビンのふたつ並んでいる写真集の表紙を、わたしはちらちらと、見てはいけないもののように見ていた。カズナは写真集をめくり、自動扉が開いて客が入ってきた。さりげなく額に指先を何本か当ててみると、額より指先のほうが熱すぎて、体温は少しもわからなかった。首筋や耳の後ろを触っても同じで、指先の熱がどんどんわずらわしくなっていくだけだった。わたしがため息をついた。カズナが少し笑ったような気がした。

 背中から知らない声が聞こえてきた。

「すいません」

 呼ばれたと思って振り向いた。隣の席の同い年くらいの女の子がコーヒーカップを床に落とし、目の前で割れてしまった。しばらくすると二人の店員が駆けつけ、箒で白い破片を集めて女の子に気をつかった。

「お怪我はないですか?」

「いいえ、大丈夫です」

 わたしは遠くから呟いていた。

 女の子の右手の指の爪は二枚しかなかった。人差し指と小指についている赤いネイルをしたきれいな爪の方が、本当はそこにあってはいけない不釣り合いなもののようだった。

 わたしはなんだか苦しくなって、カズナの方を見ても、カズナは白いTシャツの胸元から下がびっしょりと濡れていて、そこから真っ赤な塊がぼとりと床に落ち、砕けて一斉に小さなエビが散らばった。

 すごく光っていた。

1-3

 次の日の朝、いつものように制服を着て家を出てから乗った電車を、学校とは逆の方向へむかって走らせてみた。これまで毎日わたしが電車を待っていたホームを、同じ時間帯の自分が見つめた。反対側のホームだといっても、そんなに大きな違いがあったりはしないから、もしかしたら反対ではない、学校へ向かうのに正しい側のホームに立っているんじゃないかと、少し不安になったりもした。

 それは電車に乗ってからもそうだった。通学や通勤をしている人たちの顔ぶれはほんの少しだけ違っていたし、風景も少しだけ違った。まったく違うことは車内のどこを探してもほとんど見当たらなくて、どんなものでも四分の一くらいしか違っているように思わなかった。駅の名前でさえそうだった。一時間ほどで車内に読み上げられた駅名は、海に近いものだと気づいた。子どものころ一度だけそこで降りたことがあった。友達だったと思う何人かで海水浴に行った。海岸についたときにはすでに波がまっしろに泡立つくらい激しく、泳ぎはじめて数分で遊泳禁止になったから、砂浜で浮き輪を投げて遊んでいると、真っ青な水着を着たおばさんの足にぶつかって、友達が謝った。天気が悪くなったわけではなかった。電車が止まり、扉がしぼむような音とともに開くと、わたしは驚くくらいとっさに電車を降りて、海を見るために歩きはじめてしまった。

 冷房で軽く清潔なにおいに変わっていた車内と違って、駅は朝なのに強すぎる日差しが空気をひたすら重くしていた。近くに学校も会社もないから、乗る人は数人いても降りる人はほとんどいない流れのなかを、灰色のジャンパーを着たおじいさんとわたしだけが逆向きに降りていった。おじいさんは駅のベンチに座ると金属の軋む音がした。

 わたしは駅のすぐそばの踏切が鳴り終わるのを待って、いつもの半分くらいの歩幅で歩きはじめた。海がどちらにあるのかよくわからなかった。道は山のある方向から一本だけ駅に伸びていた。かろうじて舗装されている細長い道の両側は、背の高い草がどこまでも途切れなく広がり、もしかしたら駅を覚え間違えていたかもしれないくらい、歩いても歩いても海は見えなかった。子どものころにみんなで海まで歩いた道は、未舗装の砂利道だったはずだし、どこまで行っても潮風や海のにおいはしなかったし、そもそも駅から見える風景に見覚えがなかった。

 一面を強く押さえつけられたみたいに草むらが揺らいで、転がる空き缶の音を聞いたカラスが飛びたった。後ろで包装紙にくるまれたような踏切が鳴り、熱を含んだ髪の毛が乾燥して視界を覆った。道がゆっくりと右側に傾きながら伸びていくのがわかるころになって、友だちが

「お母さんの子どものころにさ、溺れて死んだひとが一度にたくさん出たことがあったんだって! ニュースにもなったよ」

 と言った。

 それを聞いたわたしもみんなも、海につく前から疲れてしまった。言ったのはハルかもしれなかったし、アヤナかもしれなかった。アヤナは十一歳のときに転校した。ナツはアヤナの転校する数カ月前に転校してきて、八歳の冬からお母さんがいなかったからナツではなかった。わたしはたぶん言わなかった。海岸を歩きながら横たわる影を探してみたけれど、見つからなかった。似たようなものは見つけた。すぐに波に呑まれて無くなった。それを思い出したわたしは、せっかくここまで来たのに海には行けなくなってしまった。行くべきじゃなかった。

 早歩きで駅まで戻ろうとして、わたしは道の先を見ると、灰色のジャンパーを着たおじいさんが草むらの影からこっちを振り向き、口を開かずに何かをしゃべった。双眼鏡で海を覗くのが日課だった。

 目が合い、まばたきをする間も互いに見続け、わたしが駅へと駆け出した瞬間に、こっちを見ながら後ろ向きにすたすたと、海に向かって走りはじめた。

 双眼鏡を握ったまま腕を振るのが、一歩下がる度に大きくなっていき、歩幅も広がり、年寄りだからといって息がきれたりすることもなく、三百メートルくらいを走った。わたしからどんどん離れて、駅からも電車からも離れて、海岸が見えはじめたころにようやく、乾いた足が粉を吹きながら崩れてしまい、破けた皮膚から血が出そうにないのに出て地面についた。それでもおじいさんは走ろうとしたフォームが、いつもそうやっているみたいにきれいだった。

 

 わたしは電車に乗って家に帰るまでを、瞼とイヤホンで塞いでいた。駅から家までの道のりも、歩道の中心に焦点を狭め続けた。イヤホンをしても、寝息をたてても、車内アナウンスをわたしは聞いていた。歩道の先から自転車がふいにわたしの前をゆっくりと通った。立ち漕ぎをしていた。

 お母さんが仕事に行っていて誰もいないアパートのわたしの部屋は、唯一の安全なんだと思った。ずっと下を向いていたら、アパートを通り過ぎて、次の曲がり角になっても気づかなかった。点検中のエレベーターではなくて、階段を使って四階まで上がった。塀の上を猫が今起きたみたいな格好で歩いてきて、男の子が

「顏がすごく小さい!」

 と叫んだ。下を見ると、猫も男の子も遠くて、わたしには同じようにしか見えなかった。

 救急車がアパートの裏から聞こえていた。

 

 鍵は玄関の扉を開けると、最初からあいていた。めったにないことだった。靴を脱ぎながら玄関の電気をつけて、リビングの電気もつけたら、洗面所と自分の部屋の電気をつける前に、急いで全部の窓を開けなくちゃいけないくらい部屋が生臭かった。息を止めてしまうほどではなかった。お母さんが昨日、腐った卵をキッチンの生ゴミ入れに捨てた。賞味期限をよく切らしていた。窓を開けてから、風の通りが悪いと知った。扇風機をつけた。カーテンを揺らしながら犬の笑うような声がした。窓を閉めると、三秒くらいで止まった。

 制服をまず脱ぐべきだった。床に脱ぎ捨てた。ぐっしょりと重かった。いつもよりきつく感じていたのは、汗のせいだと思った。子どものころ、汗をかくことがほとんどなかった。みんな汗まみれだった。わたしはベッドに寝転がった。まとわりつく熱で気持ちが悪かった。目を閉じていると、いつ玄関の呼び鈴が鳴るか、電話が鳴るか、わからないこわさに耐える必要があった。

 制服をハンガーにかけて、下着を洗った。洗剤がなかった。洗濯機にハンドソープを二十回出して洗濯した。すごくうるさく部屋中に鳴りだした洗濯機といっしょに、わたしは玄関の扉や窓の鍵が念入りにしまっているかどうか、何度も繰り返し指で押して確かめた。人差し指の第二関節あたりの皮膚が真っ赤になるまでわかってはいけなかった。

 家中を六往復して疲れてベッドで眠った。洗濯機が静まるほんの少しのあいだに、隣の壁を硬いもので誰かが突ついた。二回鳴った。二回目の方が鈍かった。耳を澄ますと、すぐに洗濯機がまた動いて脱水をはじめた。がたがたと回転した。洗面所の歯ブラシが床に落ちるんじゃないかと心配になった。わたしの歯ブラシは緑色だった。ますます回転の激しさが増した。そして終わった。エアコンをつけるのを忘れていたから、途切れ途切れにしか眠れなかったけれど、それを我慢すればすべてがうまくいくはずだったから、じっとしていた。

 昼過ぎにメールでハルから心配された。

「風邪らしいけど、大丈夫?」

「え? 誰が言ってたの?」

「先生だけど」

 わたしは休むことを学校に電話していなかった。すっかり忘れていたし、たまに無断欠席する男子がいるから、なんとかなるんじゃないかと思っていた。時計を見ると、ハルと購買でシナモンラスクを買っている時間だった。百六十円だった。いつもわたしと二人で分けていた。今日は一人だった。砂糖のたくさんついたラスクを齧りながら、先生も言っていたし、わたしは体が弱いから夏風邪だろうとハルが思った。今日は数学の先生の機嫌が悪くて、二時間目の授業で怒鳴ってばかりいた。宿題を忘れてしまった。地震の避難訓練がこれからあった。今日休むのはハルにとって羨ましいことだったから、もしよかったら、ハルはわたしのお見舞いに行くつもりだった。

「いいよ、元気だから。また明日」

 午後の授業は一時半から始まった。iPhoneの画面を触る指がぬるついた。避難訓練のときには、廊下の先で地震の警報機がジリジリと鳴って、みんなが笑った。ハルも笑った。エアコンをつけると、首と肩のあいだくらいが汗で冷えてしまって身震いした。頭痛も強くした。昨日までがぜんぶ、ここ数分の夢かもしれなかった。わたしは夏風邪によくなった。ゆっくりと立ち上がり、壁伝いに歩きながら、シャワーをしたけれど、窓は開けなかったし、下着を干すときも風邪の治し方を考えるよう努力した。お母さんが帰った。その一時間前には眠っていた。

 

 わたしがアルバイトに務めると、もう夏休みになっていた。

 ファーストフード店で週に三回働きはじめることにした。古い動物園の奥にある汚れたコンセントみたいな店で、平日の放課後や、休日の朝から働き、夕方くらいに仕事が終わると、帰りながら一檻ずつ動物を写真で撮った。一日一匹でもそんなに大きくない動物園だから、すぐに一周してしまい、撮り忘れていたフラミンゴを撮った次の日には、また逆向きで一周をはじめた。全部でたしか三周くらいした。四周だったかもしれない。動物園という名前のフォルダに貯めていった。いつか一度に百枚くらいを見せたら、カズナも驚くだろうと思ったのに、結局言わなかった。

 アルバイトの初日に、三歳年下かと思ったら同い年だったとわたしに言った先輩が教えてくれたレジを打っていると、落ちつけてよかった。ずっと打っていたかった。でもそんなことで生きてはいけないことも知っていた。ゴミ箱を片づけていると、飲み終わった紙コップを投げられたのが、肩に当たって制服が汚れた。オレンジジュースだった。ごめんなさい、と言って謝ると、大きい子どもが店の外に走って行った。両親がすごく小さかった。足しか見えなかった。

「よくあることじゃん」

 先輩が言った。

「そうなんですか」

 とわたしは言った。

 

 小学生くらいの男の子が、動物園で自分より厚みのあるスーツケースを持たされていた。車輪がうるさかった。大繁盛の動物園では、みんなが道をあけ、遠くから見るとなにかペンギンの引っ越しやうさぎの散歩をやっているみたいだったから、人がどんどん集まり、男の子だとわかると、また離れて次の人が覗き込んだ。両親のような男の人と女の人もときどき立ち止まって振り向いていた。男の子が笑っていた。遠くから旅行に来たのかと思った。

「そうそう、あのね、混んだ電車のなかでスーツケース抱えて邪魔だなーって人は、ほとんど旅行者だけど、全部が旅行のためのスーツケースじゃなくて、スーツケースはたくさんの物が楽に運べたりするから、わたしの友達のおばさんはバーゲンとかにスーツケースを持っていって、絶対着ないくらいたくさん買った服をつめて帰るの。入り切らないけれど。だからスーツケースが旅行者ってわけじゃないの」

「知らなかった」

「でしょ? わたしさ、いつもスーツケースで旅行するときに空港へ行ったり帰ったりする電車とかバスのなかでみんなから、『あいつが旅行に行くのに俺は会社に行くんだよな』とか、『昨日の夜は旅行だから楽しみで眠れなかったんだろうな』

とか思われてるってすごくわかるし、わたしも思うから嫌なんだけど、でもスーツケースで生活したら楽しいかもなっていうふうにも思うんだよね。小学生のころからずっと。遊園地の近くに住んでる人が、公園みたいに使っちゃうって話があるじゃない、『今日はあそこのホットケーキを食べましょう、昼ごはんだけど』って。それみたいにさ、学校もスーツケースで行って、廊下をころころ引っ張って歩くの。階段はがんばって背中に背負って、汗だくになりながら、『わたし散歩してるな! 外だな!』って感じるのがいいんだけど、どう?」

「たぶん、一度やったことならあります」

「学校行ったの?」

「あ、タイヤのついた鞄を廊下で運んだだけです。運べって言われて、階段を上ったり。スーツケースは持ってないです」

「じゃあそれは?」

「これ、スーツケースじゃないです」

「スーツケースほしいなあ」

 

 先輩はわたしより身長が高くないけれど、なんだか高いように感じてしまっていたし、先輩もそう感じているようだったから、先輩と呼んでいた。

「名前はなんなんですか?」

「○×だよ」

「本名はなんなんですか?」

「本名だって!」

 そう言って笑った。誕生日はわたしの方が二ヶ月半くらい遅くて、わたしは十七歳だった。先輩は十六歳のときにここで働きはじめたときから、みんなに十八歳と言っていたし、今は十九歳と言っているけれど、それは冗談で、本当は十七歳だった。

 先輩は幼稚園のころから動物園に行っていた。門をくぐってすぐ左のところに白塗りの焼却炉みたいな建物があって、そこはヘビやワニやカメやオオサンショウオがいる爬虫類のための建物で、出口の近くになると、フクロウやコウモリも室内が暗いからいた。本当に静かだった。先輩の走る足音だけがガラスに響いていて、フクロウが真っ赤な目で暗闇からそれを見つめた。今はもう爬虫類が好きでも嫌いでもなかったけれど、家族といっしょに来たときは、まず最初にその建物に入って爬虫類を見た。ヘビもワニもカメもオオサンショウオもぴくりとも動かないから、兄と二人で動くまで眺めて、動いたら

「歩いた!」

 と言った。本当に歩くことはなかった。ワニは泳いだし、フクロウは飛んだ。コウモリは探しても一度も見たことがなかった。

 先輩は幼稚園の遠足で動物園に来た。

「じゃあみんな、きちんとはぐれずについて来てね!」

 と先生が言うのに、最初に爬虫類の建物へ行かないのがどうしてかわからなかった。建物がなくなったわけじゃなくて、新しくも古くもならずに、先輩の知っているままそこにあった。先生はまるでそんな建物なんてどこにも見えないように動物園の奥へ進もうとしたから、

「どうして?」

 と聞いた。先生は

「最後にね」

 と言った。

「動物園はあなたのためになんか、消えたり動いたりしないから」

 先輩は最後に爬虫類の建物を見たことなんてなかった。三人の先生がみんなを誘導し、先輩と一人の先生が、入園してすぐの場所で、先輩が爬虫類の建物を諦めるまでじっと待っていた。ずっと泣いていた。それからどうなったのかを、先輩は覚えていなかった。象の檻の前の広場で、みんなとお弁当を食べたのは覚えていた。卒園アルバムに写真もあった。すごく嬉しそうに笑っていた。

 写真の場所には三年後にファーストフード店ができた。十年も経たないうちに先輩が働きはじめた。十九歳になったときやめた。すっかり爬虫類の建物に行っていなかった。アルバイトをやめた日、久しぶりに爬虫類の建物へ行った。気づくともう出口の近くにいた。遠くの方に夕方の動物園の客たちが大勢帰ろうとしていて、フクロウが短く鳴いても小さくさえ聞こえなかった。まだ帰りたくなかったから、振り向いて、明かりを背に奥へと走って行った。

 曲がり角を曲がれば、途端にコの字形の通路が見えた。出口から入口へ進んでいた。いつもの下り坂ではなく上り坂になっている通路は、いつもと変わらないくすんだ緑色をしていて、周囲をヘビやオオサンショウオやカメが住んでいる水槽が並んでいた。通路に囲われた中央には、大きなワニの水槽が二つあった。でもそれはもう違っていて、今ではワニの水槽のうちの一つは、ワニじゃなくて馬くらい大きなカバが住んでいた。水槽がカバには少し小さそうだった。餌としていっしょにひまわりが生えていた。ひまわりはニワトリより安く手に入った。

 久しぶりだから、すごく目を大きくして笑ってしまった。息を切らしながら、小部屋とその手前に掲示されている説明を見比べると、一つも間違っていなかった。動物園だから当たり前だし、やっぱり半年に一度くらいは来るべきなんだと思った。そのころは週に三日働いていた。働きはじめたすぐには三日だったけれど、一年経つと週に二日になり、アルバイトをやめる直前の三ヶ月も、週に三日働かないといけなかった。お母さんがまだ仕事をしてなかった幼稚園のころは、二ヶ月に一度行っていた。でも順番を逆に見て行くのは今日が初めてだった。これだと懐かしさが嘘かもしれないと思った。カメがいてヘビがいて、ワニがいてオオサンショウオがいる先に、フクロウとコウモリがいるその順番で走り抜けないといけなかった。閉園時間も迫っていたから、急いで説明を読み、入り口までたどりつくと、また最初からカメを見てヘビを見てワニとカバを見た。それから兄が

「オオサンショウオが歩いた!」

 と言った。見ると、オオサンショウオが一歩だけ歩いていた。

 涙が出そうになった。

1-4

 歩道に五十本くらいの消火器が三列で並んでいた。使い終わったものかもしれなかった。歩道が広いからほとんどの人は通れたけれど、狭かったら通れなかった。歩道に面する建物から、青いはっぴを着た男の人が出てきて、消火器を二本増やした。文房具店だったのに使ったことがなかった。きれいだったから、iPhoneで写真を撮って、Twitterにアップした。先輩は今住んでいる街へ引っ越す前に住んでいたマンションで、お父さんが廊下に金魚を飼っていた。おじいちゃんとおばあちゃんの家に泊まって、夏祭りに行ったとき、お母さんに金魚すくいをしてもいいよと言われたけれど、あまりしたくなかった。プラスチックの容器に子どもたちが集まっていた。いとこと二人ですくった。

 横長の容器に、水面からあふれそうなくらいたくさんの金魚がいて、ほとんど泳げていなかった。どれをすくうか考えていると、まんなかに真っ黒な出目金が見え隠れしていた。ジャムのビンくらい大きくて、本当に死んでいるようだった。男の子はみんなそれをすくおうとがんばっていた。他の普通の金魚が多すぎるから、無駄な努力だった。一人三匹はすくった。いとこは八匹すくった。ぜんぶくれた。そのうちの一匹が、マンションの廊下におかれた水槽で、お父さんに引っ越すまで育てられた。他の七匹はみんな、エビのような小さい寄生虫に殺されて、一匹が生き残った。

 四年くらい経ったとき、引っ越し先にまで持っていくつもりはなかった。お母さんが

「川に帰してあげなくちゃね」

 と言った。お父さんも

「そうだね」

 と言った。今では金魚すくいですくった大きさの八倍にはなっていて、金魚用の水槽がかわいそうに見えてしまった。先輩は緊張した。自分の住む場所が、今とは違う極端に広々とした建物に変わり、そこから一生出られないような気がした。その日の昼にはもう、お父さんは車で山奥に行った。まだまだ先に行くのかと思ったら、急に止まって

「ここにしよう、ここがいい」

 と言った。

「川なんてどこにもないよ」

 と言うと、

「ほら、こっちこっち」

 と手を引っ張り、赤い塗装の半分くらい錆びついた橋から、下を流れるすごく細い川を見るように言った。岩が尖って水面にぶつかったり、裂かれたりしていた。お父さんは持ってきた水槽をひっくり返そうとして手を滑らせ、水槽ごと金魚は川に帰った。

「今日ってお祭りでしたっけ?」

 と聞いてみた。はっぴを着た男の人が

「いや、来月とかじゃないの」

 と言った。去年までを考えてみれば、たぶん再来週くらいだろうな、と思った。男の人はまた店に戻り、消火器を二本運んできてため息をついた。暑かった。消火器がどんどん熱せられて、アスファルトの表面と同じ温度になった。

 

 すごい猫背で登山家の格好をした七十歳くらいのおじいさんが、隣を歩く五十歳くらいのおじいさんと話しながら、白い毛長の犬をちらりと見ると、斜めに激しく飛び上がった。散歩をしているおばさんが、首にくくりつけてある赤い紐を必死に引っ張った。学校帰りの夏服の男子高校生が、四人笑った。二人は見てなかった。笑っただけで、なにも犬について言わなかった。

 先輩は閉店してもう五年にはなるクリーニング店のガラス扉に向かって、着ていた赤と灰色のパーカーのずれをなおした。風が強かった。その日は夜から雷になったけれど、九時までにはほとんどおさまって、月が半分見えた。そのせいで、かぶっていた白と黒のチェックの帽子の縁が何度もめくれ上がり、飛んで行きそうになったから、ずっと左手で押さえていた。帽子は脱ぎたくなかった。

 電車に乗って街中の駅まで行くと、隣に女の子が座った。八歳くらいだと思った。扉が開いて乗ってきたその一瞬しか全身は見られずに、あとは正面のガラスにぼんやりと映る姿しか見られなかったけれど、左右の反転した黒いTシャツにジーパンを履いた、セミショートの幼い顔立ちだった。目が丸かった。鞄を持っていない片手に一冊の本を持っていた。漫画だった。次の駅を確認するふりをしてきょろきょろと車内を見まわしてみても、女の子の親や友達のような人はいなくて、大学生のカップルが二組と、ベビーカーに幼稚園の年長組くらいの大きさの、眼鏡をかけた女の子を乗せた母親がいた。母親は、お母さんと同じくらいの歳だった。

 女の子は座ってすぐに漫画を読みながら、ジーパンのポケットに入っていたマスクを取り出して片手でつけた。漫画は、どのページも色が黒くて澱んでいるホラー漫画だった。自分の知っている漫画だということを、二つの駅を通過してからようやく思い出した。中学二年のときに、テレビでやっていたホラー映画が怖かったと言ったら、友達が

「そんなのよりもっとやばいよ!」

 と名前を教えてくれた。貸してはくれなかった。友達はいとこの家の本棚においてあるその漫画が、背表紙だけですごく怖く、でも気になったから恐る恐る手に取って少し読むと、最初の数ページで、キッチンの流しにおいてあるコップの中にたまった水の底から女がこっちを睨んでいた。

「え?」

 と思いページをめくろうとしたら、いとこの階段を上がる音が聞こえて、すぐに本棚に漫画を戻した。それ以降は一度も読んでいないけれど、名前はしっかり覚えてるよ! と友達はわざわざ紙に書いて渡してくれた。大切に持って帰り、机の引き出しに入れた。小学生のときにもらった星の砂や、化学の本に付録でついていた石ころのような恐竜の化石といっしょだった。とっくの昔になんという名前だったか忘れてしまったけれど、コップの底の女の話は今でもずっと覚えていて、それが女の子の読んでいる漫画にあった。少し斜視気味の目が女の子を見つめていた。誇らしくなってきた。友達に電話をしたかったけれど、三年生のときに絶交した。

 女の子はじっと動かないでいるのが怖いのか、ページをめくる度に頭を前後に揺らし、もっと怖いときには、全身を座席にどすんどすんと押しつけながら読む振動が、ほとんど遅れなく伝わってきた。電車が落ちついて走ることなんてないから、絶えず先輩も女の子もぐらぐら揺れていた。駅に止まる前にはブレーキで大きく二人は揺れた。停止すると止まった。漫画は目や口を極端に描いて驚かすだけの、高校生にはそんなに怖くない漫画だったのに、少し怖くなってしまった。

 線路が高架橋を渡ってゆっくり右に傾くと、三両編成の電車の連結部分が、軋みながら伸び縮みした。前の車両の窓から見える風景が、先輩の乗っている車両の窓から見える風景よりも先に進んでいた。車両ひとつ分よりもずっと建物が近くにあって、看板の文字も、インクの細かな擦れまで拡大して見えた。

 先輩が降りる街中の百貨店と併設してある駅の一つ前の駅で、電車が扉を開けた拍子に、女の子が驚いたように顔を上げ、漫画を閉じて慌てて電車を降りた。母親とベビーカーも降りた。その代わりに赤いリュックサックの男の人が乗った。一人だけ駅に立って左右を見まわす女の子は、黒いハイヒールにピアスをしていて、セミショートの小柄で、マスクを外し、八歳にはとても見えない十四歳くらいだった。

 赤いリュックサックは、本当は入れてはいけないんじゃないかと思うくらい重たい物が入っているらしく、底が沈み、肩紐が千切れそうになっていた。男の人も、電車に乗ってきたそのままの姿勢で扉の近くに立って、座ることもつり革を握ることもせず、直立不動で赤いリュックサックの重みに耐えなければいけなかった。青いビニール製の上着のファスナーを、下から上まできっちりしめていた。頬骨が皮膚を押し上げ、頭から額にかけての上半分が、頬から顎にかけての下半分よりも低いというか後ろだった。そんな暑そうな格好をしていても、汗は顔には一滴も流れていなくて、赤いリュックサックだけが電車の発進で左右に揺れた。

 男の人はこっちを見ずに、窓の外の電線を見ていた。電線が上下に往復した。電線が揺れたのではなくて、電車が走っていた。だんだん速くなった。三羽のカラスが電線にとまろうとするのが一瞬で過ぎていった。電車に向かってまったく同時に三羽が鳴いたのを、線路の両脇のアパートや住宅に残った電車の反響がこすり消してしまった。

 赤いリュックサックは絶対に見覚えがあった。どこかで出会ったはずなのに、男の人の名前を思い出すことができなかった。先輩が次の駅で降りた。男の人も降りた。改札を抜けても後ろには赤いリュックサックがついてきていて、どれだけ歩いても離れることがなかった。人ごみの中でも目立ったし、身長がすごく高くて、大股でゆっくりと歩いていた。街にいる他の誰も赤いリュックサックを気にとめたりしなかった。先輩もほとんど気にしていなかった。電車で見たことさえもすっかり忘れてしまっていた。

 信号が赤になって、スクランブル交差点を車が何十台も走った。バスも白バイもクレーン車もいた。先輩は赤いリュックサックの前に立ち、片側三車線の道路を挟んで向かい側の歩道で、信号が青になるのを待っていたわたしを、赤いリュックサックがじっと見つめた。たしか駅前でハルと待ち合わせるつもりだった。冗談で言ったカズナについての話を、ハルは突然謝った。

「まさか信じるとは思わなかったからさ、スパゲティ奢るよ!」

 わたしは、最近できたデパートの中の手頃なイタリア料理店に行こうと思った。

 デパートは十五歳のとき、百貨店のすぐそばの空き地に立てられた。高校の友達はみんな新しいし、綺麗だし、若者向けで楽しいデパートには行くのに、百貨店に行くことはほとんどなかった。今にも潰れそうな百貨店を経営している鉄道会社の人たちは、電車がなくならないのと同じように、百貨店もなくならないと信じているとお母さんが言った。わたしも潰れないと思った。それから七年して建物は変わらずに、百貨店でなくてショッピングセンターになった。電車は同じ線路を走り続けた。わたしは牡蠣のトマトソーススパゲティが食べたくて、ハルはシーフードリゾットを別の友達とその店で食べたことがあった。おいしかった。そのあと二人でカラオケに行きたかった。

 わたしは十時に寝て六時に起きるようにしていたのに、少しだけ寝不足だった。両目を交互に擦って、車がひっきりなしに右へ左へと通過していく先に見え隠れする横一列に並んだ信号待ちの歩行者の中に、顔も服装もよく見えないけれど間違いなくカズナがいた。

「あ、いるじゃん」

 と声に出して、手を振りそうになった。なにか赤いものが後ろにいると思ったら、カズナは赤いリュックサックをしていて、そんな赤いリュックサックを見たのは初めてのことだった。こっちに気づいているふうではなかったけれど、カズナの視線がこっちに向いていた。パトカーが目の前を二台連なって通り過ぎ、どちらもサイレンを鳴らしていないのにランプだけが赤く光っていた。咄嗟にiPhoneを取り出した。左耳に当ててしばらく待つと、いつものカズナの声がした。

「誰ですか?」

「え、もしもし?」

 声はiPhoneからしっかり出ていたのに、うまくわたしには届かなかった。声が逆の耳から漏れているような気がした。右耳を手のひらで押さえて蓋をし、うつむき加減になりながら

「もしもし?」

 と何度も言った。カズナは同じ速さで

「誰ですか?」

 と何度も言った。

 どうして電話なんかしたんだろうと思った。もっと静かな、誰も入ってこない部屋で電話したかった。道路の向こう側のカズナを見ると、iPhoneで電話をしていた。やっぱりこっちに気づいているようではなかった。電話の先から街のざわめきが聞こえなかった。

「カズナだよね?」

「あ、どうしたの?」

「今ちょうど信号待っててさ、目の前にいるんだよね」

 信号が青になった。銀色と黒の車が競うように赤信号を走った。黒の方が遅かった。それを合図に歩行者が一斉にスクランブル交差点を渡りはじめた。わたしは青信号がうるさかったから、一層うつむいて、カズナの声を逃さないように歩いた。でもカズナはわたしの目の前にもいるはずで、顔を上げると赤いリュックサックが近づいていた。追われるみたいに速歩きだった。

「目の前って、外?」

 カズナはイスから立ち上がり、急いでカーテンを開けて家の前を見ると、なにか動くものがあった。

「いたいた!」

 と言ったら、転がってきたゴミ袋だった。

「え、いた?」

 風がすごく強いのに、そこまで勢いよく転がらなかった。カズナの後ろで机の上においたままのヘッドホンから音楽が流れていた。青いヘッドホンだった。家の外の風が鳴る音はそれより鋭く大きくて、音楽は流れていないようだった。

「どこにいる?」

 先輩が帽子を両手で押さえなくちゃいけないくらいの風が一瞬だけ吹いて、目を閉じると、前から歩いてくるスーツ姿の男の人とぶつかった。目を閉じていた先輩は、誰とぶつかったかわからなくて謝った。赤いリュックサックはみるみるうちに先へと進み、わたしの目にもはっきり映りはじめたら、まるで似ても似つかない人が赤いリュックサックを背負っていた。わたしと目がしっかり合いながら、iPhoneに向かって喋った。

「どこかで待ち合わせてたっけ?」

「いやそうじゃないんだけどね、街にいるんだけどね、カズナって赤いリュックサック持ってたっけ?」

「持ってるよ、小学生のころだけど」

「そっか」

 スクランブル交差点の混雑の中で、カズナとわたしはすれ違った。はっきりと別の顔と背丈をしていた。わたしもそうだし、カズナもそうだった。二人は少しだけ歩みを緩めると、互いを念入りに上から下まで確認し、後ろから同じ速さのままで歩いてくる人たちが、わたしの背中にぶつかってわたしを見れば、ぼんやり上の方を見ていた。その先には街頭ビジョンも商品広告もなかった。夏だった。八月だった。スクランブル交差点でふいに歩みを緩めたのはわたしだけで、誰もそんな迷惑なことはしなかった。

「君はシャライだろう?」

 赤いリュックサックが言った。

「え?」

 わたしにはなんのことかわからなかった。

「シャライだろう?」

「誰ですか」

「シャライだろう?」

「違います!

 知りません、本当に知らないんです」

 わたしは立ち止まって、必死に説明しようとした。必死にわかろうとした。先輩が横断歩道を渡り終えて、道沿いの喫茶店に入った。先輩はわたしのすぐ側を通ったけれど、まだそのころはわたしがアルバイトをはじめる前だったから、わたしのことなんて知らなかったし、わたしも知らなかった。ハルの乗った電車が駅に到着し、その一時間前の同じ電車にわたしが乗っていた。朝早くに家を出て、ハルと会う前に本屋に行ったけれど、欲しい本はどこを探しても見つからなかった。カエルの図鑑だった。恐竜の化石の図鑑を代わりに見た。買わなかった。赤いリュックサックが右手を差し出して言った。

「これをあげなくちゃいけない」

「なんですか、これ」

「公園だよ」

 するとわたしのいた場所を、六本の車列が次々に拭っていった。信号は青から赤に、赤から青に変わって、どこにも赤いリュックサックはいなかった。カズナは電話を切った。ハルが電話をしても通話中だった。


1-5

 目覚めたから朝だと思ったのに、室内はとても暗く、オレンジ色の薄明かりの豆電球が灯されているだけの夜中だった。見覚えのある部屋だけれど、わたしの部屋ではなくて、それはわたしの子どものころに住んでいた部屋で、子どものわたしが手足の細長い大きなカエルのぬいぐるみといっしょに眠っていた。古い倉庫のようなにおいがした。埃がつもっていた。

 扉が音もなくほんの少しだけ開いた。扉の外も室内と同じくらい暗かったから、光が差し込んだり、わたしが目覚めたりすることはなかった。お父さんが入ってきた。ベッドの横に膝をつき、わたしをじっと見つめながら、叫ぶように話しはじめた。顔は影に隠れて見えなかったし、声もあまりに尖りすぎてうまく聞き取れなくても、わたしに話していないように話そうとしているのはすぐにわかった。独り言でも嘆きでもなかった。生まれてからずっと親しくしてもらった誰かに聞こえるよう話していた。

 わたしはお父さんに気づいてもらえていなくても

「わたしだよ?」

 なんて絶対に言わなかったし、言うとすればわたしが死ぬときだと思った。でも、もうとっくの前に死んで今ここにいるのかもしれなかった。そうだとしたら言ってもいいのかもしれないけれど、言うとお父さんは悲しむから

「わたしだよ?」

 なんて絶対に言わなかった。

 お父さんは身動き一つせずに話し続けた。一時間ほどたって部屋を出るときも、叫ぶような話し声は壁や机に反響し、表面だけでなく内側や中心、裏側にある隣の部屋や室外機まで震わせているままだった。それが終わるまで一度も寝返りをうたなかった。

 

 室外機が空白に耐えきれず、へこんだ音をたてるのがあまりに大きすぎて、聞き間違えたのかと思った。実際に誰も驚いたり振り向いたりはしなかった。朝になってもカーテンはしめられたままで、焦げ茶色の遮光カーテンだから、縁の淡く透けて光っている明かりだけが、窓際のベッドを照らしていた。

 なるべく音をたてないようにそっと扉を開き、室内に入って、ベッドとは反対側の壁に体の左半分を押しつけながら、体操座りで隠れた。ベットには誰かが眠っていた。

 隣の部屋では今まで見てきた中で一番ひどい夢を見た。行ったことのない地下通路の中華料理店を見て

「懐かしいな、だいぶ古くなったな」

 と思ったわたしは確かに十七歳だったのに、今では六歳くらいになってしまった。店前で白いワンピースを着た女の人が、朽ちかけた木製のイスに座り、ビニール傘の骨を一本ずつパキンパキンと折っていた。そこから黄色い液体が小さな玉となって湧き出て、白いワンピースを汚した。お父さんが

「ほら、はやくはやく」

 と急かすのが怖くて、自分の部屋に逃げこんだ。電気もつけずにもたれかかった壁を通して、廊下の音や玄関の音が耳に入った。お父さんが

「行ってきます」

 と言うと、妹が

「行ってらっしゃい」

 と言った。妹はこのまえ十七歳になった。妹の制服が黄色い液体で汚れてしまった。妹なんていたことがなかった。十七歳になったばかりのわたしだった。

「どうして平気で見せられるの? 最低だよね。

 もういいけれど」

 ベッドで眠ったままのお母さんが言った。今ではかけていない眼鏡をかけていた。眼鏡をかけたまま眠ったことがなかった。わたしは必死に壁へ体をすりつけながら、頭を伏せて隠れた。はやく学校へ行かないといけなかった。

 

 だからそこは確かに、子どものころ住んでいた部屋だった。

 

 四歳の誕生日に買ってもらったカエルのぬいぐるみは、分厚い卵のような形をした胴体が、まだ小さいわたしと同じくらいの大きさだった。細長くぶらぶらとした手足を伸ばせばわたしよりずいぶん大きくなって、カエルは毎晩わたしに抱きついて眠っているようだった。目はプラスチックの黒を赤が縁取っていた。この前ひさしぶりに押入れから見つけると、歯型がたくさんついていた。左目だけが傷で真っ白に濁ってしまった。叩けば埃も舞い上がりそうだったから、ベッドにおいてまた一緒に眠るようなことはなかった。でも今は横でカエルが眠っていた。もう眠気はすっかり取れていたのに、朝になったわけじゃなかった。部屋の明かりはついていた。カーテンの向こうは真っ暗だった。

 起きあがって見てみると、八歳くらいのころの部屋だと思った。勉強机の上には、赤色の揃いかかっているルービックキューブと、ものすごく古い人生ゲームが広げられ、丸みを帯びたオレンジ色のデスクランプも灯されていた。デスクランプや勉強机は今でも同じものを使っていたけれど、ルービックキューブは引っ越しのときになくしてしまった。人生ゲームは捨てられた。どちらもお母さんの子どものころに、おばあちゃんが誕生日プレゼントであげたもので、わたしはすっかり忘れていたくらいおもしろくもなんともなかったのに、お母さんは

「ほら、いっしょにやろう?」

 と、雨が降るたび二人で人生ゲームをやりたかった。お母さんはわたしのお金の管理もした。ルーレットも回した。だからわたしは一度も負けたことがなかった。

 気になって手のひらを見ると、柔らかい八歳の手のひらじゃなかった。かけ布団をめくり、足の長さを指で測れば、十七歳の長さが十分にあった。右足の膝には皮膚の濃い茶色になった怪我の跡もあったし、それは十三歳のころにできたものだった。学校の遠足で行った海岸の岩場で、誰かに後ろから押されてころんだら皮膚が抉れた。全身をごつごつとした岩にぶつけて、すごく痛くて、目の前で青黒いフナムシが一斉に岩と岩の隙間へと逃げて行った。何にそんなに驚いているのかわからなかった。でもその動きだけですごかったし、こうやって世界は巡っていくんだな、と思った。

 顔を上げて振り向くと、すぐ後ろには誰もいなくても、少し離れたところにはみんながいて、わたしには気づかず、足元ばかり気にしながら、海とは逆方向へとスキップするように帰っていった。陸地だった。その中に、ハルを見つけた。ハルは三ヶ月後の運動会の前日に、二人で帰っていたら

「カズナのことはどう思ってるの?」

 と聞いた。わたしは、あのとき背中を押したのはハルだと思った。

「別に、どうして?」

 何気ない様子で答えていた。

「理由とか、そういうのないんだけどね」

 ハルも笑って言っていた。その通りに、ハルとわたしとカズナは、何事も無く中学校の三年間を親友として過ごした。毎日のようにいっしょに帰り、いっしょに出かけ、卒業式の日もいっしょに写真を撮ったのが三人の携帯電話に残っていた。

 ハルがメールでカズナに告白したことを、わたしは知ろうとしなかった。知ってもきっと喜んだりしなかった。

 痺れが収まるのを待って、全身をくまなく確認してみると、膝から流れた血液が岩の側面を伝って海水を濁し、塩分と混ざった。急いで拭かなくちゃいけないと思ったけれど、拭くものはなかった。岩と岩の隙間に手が届くほど、わたしはもう小さくもなかった。ゆっくりと起き上がった。岩場には誰も残っていなかった。

 じゃあなんで十七歳のわたしがここにいるんだろう、と思った。わたしは八歳でも、十歳でも、十二歳でもなかった。

 黒い漆塗りに見せかけた化粧合板のタンスの上には、ひまわりの絵が飾られていた。九歳の夏休みに宿題でポスターや花の絵を描かなければいけなかった。その横に、赤いランドセルがたてかけられていた。使い古されたランドセルは、小学校の高学年になったみんなは、ランドセルがかっこ悪いからリュックサックにしてしまい、ランドセルはどこにいったのか、今では誰も覚えていなかった。少なくとも十一歳のころにはまだタンスの上にあった。

 机の横には赤いリュックサックがかけられていた。夏には小学生のころ、日差しにとても弱かったから、わたしだけが被って通学していた麦わら帽子も、机の横にかかっていた。みんなは麦わら帽子と赤いリュックサックを見れば、顔を見なくてもすぐにわたしだとわかった。中学生になると恥ずかしくてやめた。カズナはずっとわたしの麦わら帽子を知らなかったし、わたしが引っ越したことがあるのも、やっぱり知らなかった。

 中学生になった春に、同じ街の別の家に引っ越した。

 扉が勢いよく開くと、先輩にそっくりな看護師の女の人が、粘り気のある歩き方で入ってきた。わたしはまだ先輩を知らなかったから気づかなかった。まっすぐ勉強机の方に近づき、広げられたままの人生ゲームのルーレットを回した。からからとした音が止むと、駒をいくつか進めて、またルーレットを回すのを三回繰り返した。そんなことを見るのは初めてだった。最初は戸惑ったけれど、すぐにわたしは言った。

「入院ですか?」

「いいえ、大丈夫です。覚えてないんですね」

 看護師の女の人が言った声まで、先輩にそっくりだった。

「倒れましたか、わたし」

「倒れてなんかいませんよ。眠ってたじゃないですか。本当になにも覚えてないんですね」

 看護師の女の人は心の底から悲しんだ。先輩なら泣いていた。

「え、ごめんなさい」

「いいんですよ、そうやって迷惑をかけることはよくあるから」

 看護師の女の人は、ルーレットを全部で十回まわすと、人生ゲームをやめて扉の方を向き、また粘っこく歩いてドアノブに手をかけた。でも、すっかり忘れてしまっていたことを思い出し、タンスの中から下着を何枚か掴み取ると、わたしを一度も見ることなく部屋を出て行った。人生ゲームの駒はまだ半分も進んでいなかった。わたしがゴールするまでルーレットを回すと、あっというまに終わった。

 

 一時間くらいを眠ろうとして、眠れずに過ごした。わたしは八歳の夏に着ていたパジャマと同じ模様、同じ色、同じ形のパジャマを着ていた。白のシマウマの半袖。まったく同じ匂いがした。しばらく腕や膝や胸の、いろんな部分に顔を押しつけうずくまっていると、ポケットにずっと入っているなにかに気づき、見てみると公園だった。柔らかいのに小さかった。

 手のひらに包んでそっと息を吹きかけないように覗いた。正方形の、ちょうど学校の教室を一回り大きくしたくらいの広さで、向かいあうように入り口は二つあった。周囲をぐるりと煉瓦造りに見せかけた花壇がめぐっていた。何も植えられてはいなかった。だからといって冬の公園でもなくて、夏の透明すぎる日差しは、公園の内側の隅々をあますことなく反射し、一方の入り口の近くでぽつんと取り残されたように立つ背の高い真っ黒な時計はもちろん、四つの角にそれぞれ配置された遊具を触れられないくらい熱していた。左回りにそれらは、極端に縦長の青いすべり台と、鎖の錆びついたオレンジ色のブランコと、砂浜のように白くて細かな貝殻の混じっている砂があふれた砂場と、陶器製のトラやゾウやカバやパンダやゴリラがあった。動物たちの側に立つ小さな公園には不釣合いなくらい大きな木が、日差しの角度によっては動物たちを冷たい影で包みこみ、そこだけ風化する時間は、硬いゴミの挟まったように甲高い音をたてて速度を遅めた。

 もちろん遊具で遊ぶ子どもなんて今ではほとんどいなかった。ブランコを気まぐれに漕いでみたりするのが少しあるくらいだった。そうやって友達が来るのを待っていた。立ち漕ぎをすると涼しかった。もっと高く、もっと速く地面から離れて飛ばなくちゃいけない気がして、膝を曲げたり伸ばしたり、体の中心が前後に広がって空に伸びた。黒く背の高い時計よりもずっと上にいた。時計の針は待ち合わせの時間を十分過ぎていた。その下にはいつのまにか友達が集まって地面の一カ所を囲んでいた。誰も何かを言おうとしなかった。ブランコをやめて駆けつけてみると、みんなの中心には、焦げ茶色の小さなおもちゃがあった。カブトムシの頭だけが、二本の前足をバタバタと交互に動かして地面を引っ掻いていた。

「遅いよ、なにしてたの」

 友達が二メートル後ろを指さしたところには、下半身がこっちからどんどん離れるように歩いていて、切断面が乾いていた。空っぽだった。はっとして顔を上げると、カズナがベッドのかたわらにいた。わたしは慌てて公園をポケットに隠し、目を閉じた。

「眠ってた?」

「ううん」

「起きるの待ってた」

「うん」

「いい部屋だね」

 緑の蛍光色のパーカーを着ていた。レインコートみたいだと思ったのに、雨の音はほとんど聞こえなかった。

「そう、懐かしい。窓から消防署が見えたの。朝は毎日ラジオ体操みたいなことしてて、学校に行くとき、みんなで挨拶してた。消防車の点検とかしてたりするんだよ、試しにランプを光らせてみたり、サイレンを鳴らしたり。でも、もうわたしの部屋じゃないよ、ここ。カズナは知らないかもしれないけれど、中学校に上がる春に引っ越したの」

 カズナは大げさにびっくりしてみせた。

「え、そうなの? 知らなかったなぁ。でも実際に今いるわけだから、間違った部屋じゃないよね。だってほら、夢でも見てるっていうの?」

「わからないけど、夢っていうか、見てるっていうか、同じ季節じゃない気がする。帰るのに時間がかかる気がする」

「うーん、そうかなぁ。別におかしなところに来たわけじゃないよ。朝になったら外に出て、通りをずっと歩いていけば駅があるし、電車が来るし、電車に乗れば街中の駅にだって行ける。百貨店にもデパートにも行けるよ。お母さんも働いてるし、小学校も中学校も高校もある。今住んでるアパートだってある。だから変なところなんか来てないんだよ」

 カズナは事前に用意しておいたセリフをしゃべるように目の動きがなかった。気のせいかもしれなかった。

「そっか、そんな気もする。

 そういえば、身長伸びた?」

 カズナは、わたしの身長が低いから目立たないけれど、高い方だった。それがもっと高くなったような気がした。たぶんわたしがベットに座っているからだった。

「えー、もう伸びないよ、二十歳になるんだし。誕生日ってこわいよね」

「二十歳って?」

「あ。そうだよ、二十歳だよ」

「わたし、まだ十七歳だけど」

「違うよ、なに言ってんの」

 カズナがみるみるうちに早口になっていた。

「でも、十八歳にも十九歳にもなったことないよ。

 死んじゃったのかな、どこかで」

「え? なにそれ」

「ほら、実はずっと前に死んでて、それに気づかず街をふらふらしてるって映画、なかったっけ……」

 お父さんが好きだったから、よく見ていた。

「ぼくが? やっぱりそう思う?」

「え、いや、そうじゃなくて。冗談だけど、わたしが」

「それはないよ、絶対に」

 そう言うと、おかしくてたまらないといった風に、笑いを顔中に貼りつかせながら、全身が引きつっていた。それを見たわたしは、肺の底から沸々と、苦味のある笑いがこみ上げてくるのがわかったけれど、本当に笑おうとはしなかった。

「ここ最近ずっと、今もそうだけれど、なにかずれてて、ぼく以外のものはそれなりに正しいと思うけれど、ぼくだけは間違ったように進んで、そのままぼくとぼくじゃないぼくがどんどん離れて行ってしまう感じがあって、同じところをぐるぐる回ってるのがわかるんだよね。ぼく以外のもの全部が、ぼくじゃないぼくを引き連れて先へ先へと進んでるんだ。そんなのってないでしょ?」

「うん、ほとんどない」

「やっぱりね、そうだよね。どうしよう」

「ごめんね」

 そんな風に思っていたなんて考えたこともなかったから、よくわからなかった。でもカズナが笑ったから、わたしも笑った。

「いや、いいよ。気にしないで。ぼくの方こそ、ごめんね。

 そうだ、これ食べなよ。食べるのがいいから。もらってきたんだ。

 また来るよ」

 カズナがズボンのポケットから出した手には、割れたビスケットかと思ったら、黒ずんだビーフジャーキーが握られていた。おいしくなかった。すごく硬くて、顎が疲れた。カズナが部屋を出て行くと半分くらいを吐いて捨てた。でも、せっかくだから公園にあげたらよかったと思った。ティッシュに包んだ噛みかけのビーフジャーキーを差し出すと、やっぱり残さず食べてくれた。それを見れば、わたしは安心した様子でまた眠れた。公園は相変わらずパジャマのズボンのポケットで、子どもたちが缶蹴りをする缶を探していた。ゴミ箱がなかった。

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