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 僕の名前は翔太という。 
 すぐ横で寝息をたてているのが恵子。 
 朝焼けの光が白いレースのカーテンを透過し、寝室に入り込む。窓の外では、シラハギの花が澄んだ風に揺らいでいる。 
「翔太・・・」 
 わずかに開いた恵子の口から声がした。恵子はまだ眠ったままだ。夢でも見ているのだろう。悪い夢でも見ているのだろうか。 
 恵子が口にした翔太とは僕のことではない。僕はそう思う。おそらく、その解釈は正しい。 
 ちょうど一年前、恵子が一生を共にすると決めた男が亡くなった。交通事故だったらしい。 
 彼の名前も翔太という。

 一年前の今日、この部屋には今は亡き翔太がいた。僕と恵子が眠るこのセミダブルのベッドで、彼は眠っていたらしい。恵子が僕にそうこぼしたことがある。 
 恵子が僕ではない方の翔太について語るのは、今までにも何度かあった。僕と一緒に食事をする時や、一緒にテレビを見ている時、ふとしたことがきっかけで恵子の脳裏に彼は現れる。そして、恵子は涙ながらに思い出話を僕に語るのだ。 
 そんな話を聞いている時、僕の心の中は穏やかではない。過去の翔太に嫉妬し、恵子にとっての僕の存在の小ささを痛感する。 
 それでも僕は、その話をやめるよう抗議したりはしない。話しをすることで恵子の悲しみが少しでも癒えると思うと、僕の心の苦しみなどは、どうでもいい問題のように感じるのだ。

 僕には大切な人を失うといった経験がない。でも、恵子の真っ赤な目を見るたび、その悲しみの大きさが充分僕に伝わってくる。そして、その悲しみに伴う喪失感や虚無感が、心の傷へと変わってしまうのだと、彼女の頬を伝う涙が教えてくれる。 
 だから、僕はいつも恵子に言う。 
 翔太を思い出した時、涙を流してしまう時、恵子のそばには必ず僕がいる。一言も漏らすことなく話を聞くし、泣き疲れるまで寄り添ってあげるからと。そのために僕はいるのだと。 
 そう。僕は自覚している。僕はそのために生まれてきて、今、恵子のそばにいる。 
 だから、僕は恵子に翔太と名付けられたんだ。 
 僕は、半年前から恵子と暮らしている猫だ。 
  
 そして、そんな僕を待っているのは、大きな悲しみと喪失感、虚無感なのだということも知っている。 
 彼女は癌を患っている。死んでしまうらしい。もうすぐ翔太に会うことができると言っていた。

 もうすぐだ。僕が悲しみに暮れる日がやってくる。その時、僕はどうなってしまうのだろうか。 
 朝焼けの光が、この薄暗い部屋を少しずつ明るくするように、僕の心にも次第に光が射し込むのだろうか。それはまだ分からない。
 窓際に置かれた写真立てが朝日を反射する。その写真立てのなかには、老婆である恵子の姿がある。それと、彼女に抱かれた今は亡き翔太の姿。 
 彼は僕にそっくりの猫でもある。


この本の内容は以上です。


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