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ヨナ

くるえるストーリーズ

  ヨナ

   夢遊星人 作

 エルサレムの北西、地中海岸の港町ヨッパで、今しも一隻のフェニキアの商船が、船出しようとしている。母港のシドンを出帆してから、チルス、アッカと海岸沿いに南下し、今ヨッパで最後の船積みを終えて、西方への長旅に就こうというのである。途中エジプトで交易し、さらにアフリカ北岸のフェニキアの植民都市をへめぐり、カルタゴからイベリア半島に渡り、ジブラルタルの海峡を越えて、大西洋岸のガデスにまで及ぶ、フェニキア商船ならではの遠大な航路である。
 船長は出帆準備の整った甲板を見回りながら、これから打ち出ていく、ワインを流したような地中海の沖に、遠く目をやった。雲ひとつない碧空に、くだけた硝子玉のように眩しい朝日が、すでに高く昇っている。絶好の海路日和であると言えた。
 船長は、一頭の額に白い斑のある子牛を、船首に引き出させ、よく研いだナイフでその首を刎ね、したたる血を大きな銀製の鉢に受け、縁まで一杯にあふれた液を、海神に捧げるべく、祈りとともに透き通った波の上へ注いだ。日光を反射して、薄い虹を浮かべた濃紫の液体は、しばらく波の間でたゆたった後、海の藍に溶けこんでいった。

 船は順調な追い風にのって、碧い波の上をすべっていった。そのまま何事もなく一日は終わるかと思われたが、午後遅くなって風がはたと止んだ。帆は力なく垂れ、波さえも妙に静まり返って、船の進行に突然の制止をかけたように思われた。船長は西に傾いていく陽をながめ、雲ひとつない空を見渡し舌打ちをした。もしここで風が変わって、陸に吹き戻されるようなことになれば、今日一日の航海が無駄に失われることになる。
 その時、船の出て来た東の水平線に、妙な動きをする黒雲がわき始めたのに、水夫達が気づいた。その不吉な雲は見る間に東の空に拡がり、あたかもこのフェニキア船のあとを追って、全速力で駆けてくるかのように、その先鋒が帆柱の上に届くまでには、幾分と要しなかった。そして黒雲の到来を待って、これまで船をストップさせていたかに見えた風と波が、にわかに騒ぎだし、最初の突風で船は早くもおびえの悲鳴をあげて、舳を波の中につんのめらせた。船はたちまち暴風雨のただ中にいた。

 慌てふためく水夫達に出来ることは、帆を下ろすほかには、ただ祈りを唱えることだけだった。この不思議な嵐の出現の仕方は、水夫達に迷信的な恐怖を呼び起こした。荒れ狂う波風の中に、人間の疚しい罪の意識が投影され、そこに超人間的存在の怒りを読みとらせ、原因をそれら四大の力を挑発するおのれらの行為に求めさせたのである。一人一人の水夫が、おのれの意識の底を探り、また他人の心を探りあった。そして誰の心にも、一人の共通した男のイメージが浮かんでいるのを、暗黙のうちに確認し合うと、あとはただその男のことを誰かが言い出しさえすればよかった。
 その間にも嵐は勢いをつのらせ、大波をかぶるたびに甲板を洗う奔流のような海水に、船はそのまま浮かぶことを忘れるかと思われ、浮力をつけるために積荷を海に投じねばならなかった。一人の水夫が船長のところへやって来て、水夫皆の意見を告げた。この船の乗員の中に、何か神の怒りを買うような悪行をなした者がいるにちがいない。この際くじを引いて、神意を問うことにしたらどうかと。で、船倉にいる“あの男”をも呼んでもらいたいと。船長はうなづいて船倉へ下りていった。

 男はこの嵐にもかかわらず、船荷の陰の寝台に、死んだようにぐっすり眠りこんでいた。
 「おい、目を醒まさんかい。こんな時によく寝ていられるもんだ」
 船長は手荒に、寝ている男の肩を揺さぶった。男は不意を襲われたように跳ね起き、怯えた眼(まなこ)であたりを見回し、自分が今どこにいるのか、すぐには思い出せないふうだった。
 「船が沈むかどうかの瀬戸際なんだ。もたもたしとらんで、早く立たんかい」
 「一体、ここはどこで・・・」
 「馬鹿を言うな。自分で乗り込んだ船のことを、忘れちまったのかい。ほら、あんたの払った大枚がここにある。あんたに下りて貰わなくちゃならんことになるかもしれん。とりあえず返しとくぜ。どんな金だか、知れたもんじゃねえ。もっとも、あんたが無事で済んだら、また頂くことにするがな」
 「港に着いたんでしょうか」
 「ねぼけやがんねえ。とっとと上へあがらんかい」
 船長はぐずぐずしている男の腕をつかんで、寝台から乱暴に引っ立てた。

 男がふらふらする脚で甲板へ出ると、既にくじは用意されていて、皆は男の番を待っていた。衆目の集まる中で、男は引いた。衆目の予想通り、凶の印が出た。水夫達は男のまわりにつめよった。男はまだ夢から醒めないように、この場の険悪な雰囲気にどういう意味があるのか、呑みこめないでいたが、その時舳が大きく伸びあがって大波をかぶり、滝のような海水が甲板を洗い、その衝撃で男は初めてことの真相を予感したようであった。波が一応おさまると、水夫達はまた、男のまわりににじり寄ってきたが、それを押しとどめるように船長が、
 「まあ、待て、待て。そう急いでは寝醒めが悪いや。先ずこの男の言い分も聞いてみようではないか。おまえさん、一体何者だい。一体どんな目的で、ガデスなんぞへ行きなさる」
 男は腹をすえたように、
 「私はヘブル人アミタイの息子ヨナ。わたしにとりついた悪霊から逃れるために、この船に便乗し、“あれ”の力の届かない、世界の果てへ赴こうとするのだ」
 「その悪霊というはなんだね」
 「エホバという嫉みの神で、わたしに無体なことをけしかけようとして、夜も昼も、私の傍(そば)から離れないのだ。おかげで私は不眠症にかかり、食事も喉を通らなくなった。この船に乗ってからは、すっかり気持が落ちついて、さっきまでこんなに良く眠れたことは、ここ幾年もなかったことだ」
 「で、そのエホバという神様は、おまえさんに何をしろと命じたんだい」
 「アッシリアの都ニネヴェへ出かけていって、その地の神を貶め、その地の人に滅びの運命を告げよと言うのだ。わたしは臆病者だから、命が惜しい。わたしがそんなことを彼の地で言いふらしたならば、残忍なアッシリア人のこと、どんな目にあうか、言わずとも知れている。わたしは神も恐いが、権力を持った人間の方がいっそう恐いのだ」
 「するってえと、おまえさんは、神様の命令に逆らって、地の果てまでトンずらしようって魂胆なんだな。だが、おまえさんのお蔭で、わしらまでとんだ迷惑だ。エホバってえ神様がどんな神様かは知らねえが、おまえさんを追ってここまで嵐をおよこしになるんだから、そらあえれえ神様にちがいあるめえ。おまえさんのとばっちりを食らって、こちらまで黄泉くんだりへ引きずりこまれちゃあ、たまったもんじゃねえ。もう覚悟してるたあ思うが・・・」
 
 「早えとこやっちまえ」
 水夫達の手があちこちから伸びて、ヨナの手足をつかみ、宙にかつぎあげ、積荷を抛り投げる要領で、あっけなく荒れ狂う波の中へ抛りこんだ。風の音でヨナの叫びも、水に落ちる音も消され、たちまち船との間隔が開き、船影は大きなうねりの谷に隠れ、ヨナは荒れ狂う波風の中に、悪夢のつづきのように一人とり残されていた。甲板から流されたものか、あるいは水夫が妙な出来心で投げたものか、ヨナは波のあい間に板片(きれ)を見つけ、それに必死にしがみついていた。
 やがて夕闇が降り、嵐は少しずつ去っていくようだった。風波が静まると、別に助かる望みがわいたわけではなかったが、わずかでも命が延びたことに、ヨナは平静な気持をとりもどした。思えば運命というものは、下り坂になるとどこまでもたたるもので、ヘブル人の中でよりによって小心者の、いつも人の陰にいたこの自分に、神エホバがとりつき、さんざん悩まされ、神経衰弱になった果てには、自分でもまさかと思う逃避行に出た。そのあげくは、しけの原因を自分に押しつけられ、海中に抛りこまれるとは。運命は従う者には優しく、逆らう者には容赦ない。ヨナはなんだか、ここでこのまま死んでしまうような気がしなかった。死ぬことは恐ろしいが、死ぬよりもまだ辛い運命が、この上自分にふりかかるような気がした。

 嵐の余波で、時々大きな波が思い出したようにヨナをもてあそんだが、雲は切れ、明るい満月が昼のように海面を照らした。風はすっかりないで、急に襲ってきた睡魔に、ヨナは心地よいベッドに休らっているような気さえした。そして自分はもう死んでいて、肉体の外から自分の体をながめており、その新しい自分が、新しい生活について夢想している、そんな気がした。
 すると夢の中に水をかく櫂の音が近づいてきて、人声さえ響いてきた。はっと目醒めると、それは夢ではなく、波の上に黒々と、異様な形をした船が浮かびあがった。船の脇腹から、長い櫂が幾本も突きでて、それらが一斉に上がり下りを繰り返し、風もないのに黒い影は矢のように近づいてくる。ヨナは体に残された力をふりしぼって、船に呼びかけた。舳に立つ男がヨナを見つけ、指さしているのが見えた。
 ロープにすがって甲板に引きあげられた時、ヨナは自分を救った神に感謝した。その神は自分を海に投げこんだ神でもあったが、最後の瀬戸際で、思い直して自分を見捨てなかったのだ。だがよく考えれば、この神に自分の生死はいいように手玉にとられ、あげくはその意志に屈服させられ、この神のくぐつにしか過ぎなくなるだろう。
 ヨナは臆病者だったが、心の中だけは自由でありたいと思った。臆病者の処世は、おのれの身に好んで難儀を引きうけないことである。だがこの神は、ヨナの心術に正反対の行為を要求する。苦難から逃れようとするヨナに、進んで苦難を身に受けるように命じ、その命令を逃れようとすれば、これまた苦難で報復する。どこに逃れようがあろう。そんなことを考えながら、甲板の隅に場所を与えられたヨナは、しだいに深い眠りに落ちていった。

 翌朝、目覚めると、ヨッパを出帆した朝のように上天気であった。しかし、ヨナの乗っている船は違っていた。堅い甲板の上にごろ寝したのと、昨夜の風波との闘いで、節々の痛む体を伸ばし、あたりを見回すと、フェニキアの水夫達と風体も言葉も違った男達が、甲板上を闊歩している。聞き慣れない言葉だった。船の主だった者達らしいのが、時々ヨナの方に目をやりながら話をしている様子は、あまり友好的でなく思われた。そして水夫達の他に、武器を手にした男達があちこちに立っているのを見ると、どうやらこの船は軍船のようであった。
 これから戦に出るのか、あるいは戦の帰りなのか、いずれにしても軍船が一隻だけ漂うということは、船のあちこちに嵐で痛めつけられた有様を見ると、どうやら航路を失って漂流しているようにも見えた。海の北の方に、フェニキアと海上の覇を競っている、グレキアという国があると聞いたが、そこの船かもしれないとヨナは思った。
 すると、ふいに一人のたくましい兵士がヨナの傍へ寄ってきて、ヨナの腕や脚をさぐった。ヨナの虚弱な肉体は、兵士の握力にメキメキと音を立てそうだった。ヨナは思わず身を引いた。すると兵士は悪魔のような笑いを浮かべ、節くれだった指で、最初に舷(ふなべり)の外をさし、ついで甲板を指さした。ヨナにはあとの方の意味はよく分からなかったが、最初のサインは瞬間にのみこめたので、慌てて甲板を指さした。そこで兵士はヨナを船尾へ連れてゆき、船腹へ導き、大勢の裸の男達が、声もなく重い櫂を上げ下げしているベンチの、空いた所の鎖にヨナの片足をつないだ。

 ヨナは兵士が甲板で選択を迫った時に、一時逃れから瞬間の死を忌避したことを悔いる時を、やがて持った。ガレー船の鎖に一度つながれたからには、生きては再び鎖から解き放たれる時のないこと、永遠の解放の時まで、絶えざる重労働と鞭の連続であることを、ヨナは予想しえなかったのであろうか。だが一時の死の苦悶よりも、長い苦痛を選んでしまうのは、臆病者の常である。悪臭の漂う船底で、粗末な食事と鞭を栄養に、思うことも感じることもなく、ただ腕を動かし、足を踏んばり、腕を動かし、足を踏んばり、われながら不思議に思うほど、ヨナの肉体は耐え、苦しみ、幾日も生きのびていった。
 たまの休息の時間には、もし思いが頭をよぎるとすれば、それはただおのれの一生の愚かさばかりだった。ヨナの不運は、運命に逆らうことから始まった。何事にも従順を旨として生きてきたヨナに、ある日神の命が下り、その定めの厳しさに、いかなお人好しのヨナも、逆らわずにはいられなかった。ヨナは神よりも人の報復を恐れた。
 だがこの嫉みの神は、ヨナを、一度とりつくと、手放そうとしなかった。そして神の恐れと人の恐れの両挟みにあって、ヨナは絶望的な逃走をはかった。だがこの神は、人の運命を手玉にとる、執念深い神であった。ヨナのような取るに足らない存在でも、屈服するまでは許さなかった。
 
 船はおおむね西へ向かっていた。ヨナはやがて、この船が軍船どころか、海賊を生業とする、海の向こうの剽悍な蛮族の船であることを知った。地中海を行き来する物資をねらって、この貧寒な国から来た水夫らは、見知らぬ異教の神を、衝角のついた舳に飾って、フェニキア商船を襲い、三日月地帯やエジプトの富裕な港町を侵すのである。襲われた船は積荷を奪われ、火をかけられ、また命を助けられた者らは奴隷として、死ぬまで櫂をこぐベンチの鎖につながれる。港々では、夜陰にまぎれて婦女子を奪い、慰んだあと奴隷市場のせりにかける。
 なんという恐ろしい船に呑みこまれてしまったのだろうと、奴隷仲間からおのれの運命のおぞましさを知らされたヨナは、神の残忍な仕打ちを呪いたくもなった。だが呪うことによって、いっそう自分が傷ついてしまう小心者のヨナは、黙って試練に耐えるほかはなかった。こんな惨めな境遇をくり返すなら、いっそのこと命を返上してしまおうと、そう思い切りをつけるには、勇気が欠けていた。ただ惨めに耐えるほかはない。飢えと渇きと鞭と、言語を絶する重労働に、もう明日の命も思わず、死んだようにオールにもたれて、一時の休眠をむさぼっていた、そんなある晩のことである。ヨナの泥のような眠りに、神の声が響いた。

“ヨナよ、今度という今度は懲りたであろう。わしから逃れようなどと、小者のくせに、ふらちな企みをいだくからじゃ。おまえなどは、わしの息でどこへなりと吹き飛んでいく、鼻毛ほどのこともないわ。犬のように這いつくばれ、助けて下さいと泣いてみろ。そしたらば、助けてやらんこともないわ”
“エホバよ、そんな取るに足らないわたくしならば、何で手ずから災いをおくだしになる価値がございましょう。それでなくても、わたしくしはたいした一生を送れない小心者、世にはもっと優れた男たちがたくさんおりますのに、ちとおたわむれが過ぎはしませんか”
“ヨナよ、弱い者を苛めたくなるのは、神とて同じじゃ。弱い者が困難なことに赴き、困難に打ちひしがれ、困難に克服され、そうして初めて信仰が生まれるのじゃ。この頃人間どもは、不遜になりおって、とんと神をうやまう心を持ち合わせぬ。懲罰を下そうものなら、たいして苦しみもせず、従容として死に赴くというのが、彼らのいまいましい流儀じゃ。神をそでにしおる彼らに、おまえが行って滅びの定めをふれて回るのじゃ”
“エホバよ、わたくしなどがふれ回らなくても、今すぐあなたの力で彼らを滅ぼしてしまわれたら”
“たわけ!ヨナよ、予告がなければ、彼らはなぜ滅ぼされるのかも気がつかぬじゃろうが。反対に、いよいよ驕りをつのらせて、神を逆恨みするのが関の山じゃ”
“おお、神よ、この悲惨からわたくしをお救い下さい”

 目醒めると、いまだ夜であった。風が落ち、波おだやかに船は停泊し、船中静まり返っていた。奴隷達は皆眠っている。鞭を持った兵も、頭を垂れて、床几からずり落ちそうに熟睡している。ヨナは夢遊病者のように立ちあがった。塩水に腐食された鎖が、足から外れて落ちた。ヨナは鎖の断たれたことも気がつかないように、ふらふらと甲板へ上がっていく。
 甲板の上では、兵も水夫達も、皆眠っていた。陸近く投錨したとみえて、波の向こうの海岸に、何の火か知らず燃えている。ヨナは猿のようにロープを伝って、波にとび下り、その火を目がけて泳ぎだした。潮のない静かな海面を、ヨナはすべるように陸に近づいていく。火は不気味な目玉のように、岩の上に燃えている。陸につき、乾いた岩の上に這い登り、頭の上に燃える火を見あげ、一言二言、何事かを呟き、そのまま顔をふせて、ヨナは人事不省の深い闇に落ちた。

 翌日、目を開けると、陽はすでに天頂からヨナを焦がしていた。漁夫が一人二人寄ってきて、なにやらエジプト語で語りかけた。昨夜火の燃えていた岩の上を見ると、高い石の台がしつらえられ、その上に大きな篝火が、いまは煙もなく、黒ずんだ姿を見せている。漁夫に尋ねると、ヨナのいる島はファロス島で、篝火はこの近辺を過ぎる船のために焚かれる、燈台の火であった。のちにここに大燈台が建てられることになる。

  ヨナはやがてヘヴル人の故郷に戻り、さらにアッシリアの都ニネヴェへ旅立った。どちらへ転んでも、自分には悪運がつきまとうばかりであることを、骨身にしみて知り、少なくとも運命の定めるところには逆らわないだけの世知を、やっと覚ったのである。ニネヴェに着くと、案に相違して、この都はすでに衰退の道を下っており、誰が見ても滅びの遠くないことは予感できた。で、今さらヨナが、エホバの滅びの伝言を、ニネヴェの人達にふれ回るまでもなかったが、神にせっつかれて、街頭に立ってみると、たび重なる戦役と疫病に疲弊した人々は、ヨナのおずおずした言葉に耳を傾け、苦難によって苦行者のおもむきの加わった風貌も与って、ヨナは日ならずして、一角の預言者として遇されるようになった。
 やがて信者も出来、信仰深い人達の喜捨で、生活の不安もなくなった。こんなことなら、何を好きこのんで西の果てまで逃げようとしたのか、今では全く一場の悪夢なのであった。物事がスムーズに進み始めたので、ヨナは怠惰になり、日々に満足を覚えるようになった。この頃では、神もあまりせっついてヨナを街頭に立たせることもなくなった。一度従順になると、神は獲物に興味をなくすようである。

 ヨナの不満といえば、神の言葉どおり、ニネヴェの都は滅びに近づいているようだが、まだまだ余命長びきそうである。滅びの預言を、いつか神の約束と思いこむようになっていたヨナは、ぜひともこの約束を、自分の息のあるうちに果たして貰いたかった。神が自分を苦しめたように、他人もまた、当然神に苦しめられねば不公平だと思った。で、息を引きとる時には、そのことだけが、この世に残した恨みだった。
 基督紀元前六一二年、バビロニア、メディア軍の前に、アッシリア帝都が陥落し、文字どおり歴史から消え去る潰滅的破壊を受けた時、かつての滅びの預言者は、とうに大地の埃に帰っていた。

 


 


 

この本の内容は以上です。


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