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くるえるストーリーズ

 トランスマイグレーター(1-10)
      ――前世探検家 ――

         夢遊星人 作

       (1)

  私の青少年期の友人の一人、一ノ石修一にまつわるあるちょっとした事件とその不幸な顛末について、世間はおろかその当時周辺にいた人達も、詳しいことを知る人は殆んどいないであろう。彼の発狂という事態は、彼のそれ以前の言行そのものばかりか、それについて真面目に語ることに対してすら、懸念の眼差しを向けさせることになった。わが身のためにも沈黙は望ましかったし、たとえ語ったところで、その狂気という事実が裏書きする内容の奇怪さは、いたずらに嫌悪と傷ましさとをそそるばかりであったろう。
 歳月をへた今、当の本人はすでに亡く、時と所をへだてた彼の身内については、あれ以来噂さえも聞かない。近来の発展によって、彼や私の住まっていた家は新しい鉄道の通過地となって、今はガード下のいたずらに雑草のはびこり、コンクリート砕片のごろごろする不毛の空間と変わっている。あれが一体人間の五感が承認するところの事実であったのかどうか、時々夜更けなどに過去の暗闇がふいと甦って、眼前の灯火をうつつなものに思わせる瞬間がある。この年月つとめて思い返さないようにしてきたことが、年齢とともにある重みをもって意識の閾(しきい)をしきりに圧迫しだしたような気がする。
 確かにアレは単なる幻覚として終わらせてしまうには、あまりにも深く私の内奥を震撼した。私の人生はその後しばらく、そのことの忘却にのみ費やされてきたといってよい。彼がある種の天才であったこと、このことは今も変わらず確信している。天才と狂人は紙一重という陳腐なことわざの故ではなく、彼の頭脳と精神のある方面での圧倒的な優秀さの故に、私の中に今もなお深く残されているその刻印の故に、その形容をもってするのである。
 彼は私らが学問の出発点に立つ年頃に、すでにおのれの情熱をこめた研究を完成していたのである。その頃の私は、彼の情熱の対象を半ば冗談のようにしか理解しなかった。あらゆる真面目に対する嫌悪をジョークでもって発散させるのは、青春の一方の悪癖である。私の軽薄さはまた、彼の真面目を認めることを生理的に拒んだのである。
 私が年とともに身体的な影響から逃れていくにつれ、私の感じた恐怖、嫌悪はしだいに和らいでゆき、ある程度の客観的な落ち着きをもって当時のことを回想できるようになった。いたずらな感情の動揺は、時に今なお明知を曇らせる瞬間はあっても、もはや私の平静を圧倒するほどの力を失った。その代わりであるが、しきりに呼びかける過去の声を聞くようになった。それまた別種の危機であることを知らぬではないが、今こうして回想の筆をとる気持になったのも、一つには抑えればいよいよ執拗さを増すかに思える暗い力の触発に、意識への捌け口を与えるためである・・・。
 それはともあれ、一ノ石修一は人間として一種の異常な能力のタイプとして、記憶されるに値する。彼の幼少年期の生い立ちについては詳しいことは知らない。家も近く、小中学は一緒であったが、こちらが小学校の後半に転校してきたためもあって、中学三年次までは一緒のクラスにはならなかった。同じクラスになってからは、登下校が一緒のことが多いので、すぐに近づきになった。席が隣り合わせだったことも、大いに親しみの機会となった。とはいえ、そこには中学生頃の年の者が互いに親しむというのとは、一風違った関係があったのである。彼はまず、つまらぬ遊戯や冗談には決して加わらなかった。 いつも他人のはしゃいだり、駆け回ったりするのを、口辺に人の好い笑みを浮かべて見下ろしているようなところがあった。そこに大柄な体躯か知力かを恃む高慢でもあれば、恐れられるか爪はじきされるかのいずれかであったろうが、彼の態度はむしろシャイな無関心に近かった。人から話しかけられれば相手にもなり、悪戯をされれば、その及ばない所へ逸早く逃げていった。どんな級友に対しても、緩急硬軟をわきまえたあしらいを身につけていたと言えばよい。その頃の私は深くは考えなかったが、すでに一個のまじめたるべき対象を持っている人間の、それとは無縁の衆生に対して、必然が課する無用なわずらいを、なるべく少なくこうむるように付き合うことを心得た態度であったのだろう。
 私は馬鹿に無邪気であったために、この人格的な壁を意識しないばかりに、人よりも多く彼の身体と接したようである。私は昼食の休み時間などに、文字どおり彼の手をとって、校庭の垣根の外の道などをこっそりと散歩したものである。 彼は特に嫌がりもしなかったが、これは私にとってつけ入り所だったのである。私は牧童が牛の端綱をとるように、瘠せ形の体のわりにはのっそりした彼の手をとって、あちこちひっぱり回し、彼が意のままにさせるのに乗じてわけもなく可笑しがったりした。けれども中学時代にいつも前を通っていながら、彼の家へ一度もあがった覚えがないのは、やはりどこかに遠慮がわだかまっていたのだろう。

  (2)

 彼が意外と学校の勉強ができないのは、初めのうち頭の悪いせいだろうと思っていた。その点に、私の表面無遠慮な態度をとらせた安心感があった。彼は数学と理科のほかは、ほとんど平均以下であった。まだ英語を習いたての頃、数の暗唱をさせられてイレヴンの次をトレヴンとやったことなどは、三年次でもまだ覚えていて揶揄(からか)うものもいた。 けれども、今になって思えば、彼の成績の悪かったのは彼の不勉強のせいで、いやむしろ自分の熱中することのほかには、徹底して無関心を押し通すことにあった。というのは、彼は自ら誇りこそしなかったが、ある一つのことに対しては、自他共に認める驚異的な能力を発揮したのである。
 私は彼がデンキチという綽号を持つことを知った。私は最初、彼の家が電器店をやっているためだろうと思っていた。そこで少々人よりも電気のことが詳しいのだと思っていた。けれどもある時、級友が休み時間に一ノ石に質問してきたのに答えて、教室の後ろの壁の黒板に、複雑な真空管ラジオの配線をすらすらと描き出したのには驚かされた。舌を巻くよりも、畏怖の念にさえ襲われた。単なる記憶力は、必ずしも知力と結びつくものではないが、彼のいちいちの批評の言葉が、私にはまるで優越した世界から響いてくるように思われたのである。
 以来彼の内面に注意するとともに、彼についての噂もいろいろ耳に入ってきた。彼の綽名は小学校から引きつづいて来たものである。小学四年の時、ベルを作る時間に真っ先に鳴らしたのは彼であり、小学六年のとき、モーターを作る時間に、先生の説明が始まる前にすでに回していたのも彼である。彼は先生に代わって、作れない児のモーターを直して回った。実を言って、六年の時の彼にはモーターなどは児戯に等しく、すでにゲルマニウムラジオはもとより、真空管式ラジオを組み立て、さらには初歩の計算機まで組み立て済みであった。後に私は、それらの形骸のようなものを、彼から感慨深げに見せてもらった。
 彼の小学校時代から変わらずに図書館で読む本は、つねに電気の工作や理論に関するものであった。そのことをあまり人からからかわれるので、後には隅の方で隠れて読むようになった。彼のわずかな小遣い銭は、遠く市街地の方から毎月届けてくる科学雑誌で消えてしまった。彼が駄菓子屋の店先などで、ニッキだとかコンブだとかをあさっている姿を見ることは、まずなかった。中学校に入ってからは、学校図書館などではほとんどもう読む本にこと欠いたのであろうか、市役所の一隅にある市の図書館へ出入りするようになった。借り出しの証明書のために、校長室へ印をもらいに行った時、市の図書館へ出入りしているものは学校中で二人だけだといわれた。気に入った本は、つづけて二度でも三度でも借り出すので、顔見知りの受付もあっけにとられていた。こんなことは教師や級友の噂から、また時には彼のさりげなくもらす言葉から、少しずつ知ったのである。
 私の彼に対する感情は妙なものであった。無意識のうちに培われた、人間の価値を学校の成績で評価するという安易な基準が、彼に対していると時に居心地の悪さを覚えさせるのである。それは私の無邪気で覆い隠そうとしても、一人になってみるとどこかにエゴイスティックなこだわりを残しているのである。私は相変わらず陽気に、馬鹿を言って彼をからかい、彼は人の好く、にこにこしているだけで、決して勉強のことで訊いたり訊かれたりすることはなかった。私は単に格好の道化の相手を求めていたにすぎなかった。そのためには成績の悪い、ということはとりもなおさず賢くない、しかも悪意のない相手が好都合だったのである。

  (3) 

 で、受験勉強に一切を奪われて、陽気な冗談口さえ利くゆとりもなくなったことは、一ノ石との関係において私にはかえって良い機会であった。私は普通高校へ、彼は工業高校へという選択の違いによって、すでに別世界の端緒が、そこに遠慮となって現われはじめていたようだ。私は私のことに専念し、彼の相変わらずのんきでいられるのを羨んだ。卒業してそれぞれの高校へ入ると、全く忘れたように付き合いがなくなってしまった。それでも初めのうちは、バスの中で会ったりすると、近況について二言三言ことばをかわすことがあった。私はもはや以前のような態度をとれないだけに、彼以上にぎごちなさを覚えた。別れるとほっとした。そして彼の家の前さえ、あまり通らないようにした。なによりも私自身を羞恥したのであった。今では私のこの態度は、受験勉強が私の精神に与えた歪みであることを知っている。私は過去の私と、それにまつわる一切を恥じるようになったのである。それは裏返せば、私の高慢であったろう。成功した人間が、昔の自分を知っている人間に出会うことを、なによりも恐れるように。
 私の一抹の疚しさを、やがて次の受験勉強が、他の余分な感情の一切合切とともに押し流してくれた。私はひとまず成功者として、私の青春の難破した船影をあとにして、不毛の砂地へと泳ぎついた。なによりも眠ることが私には必要であった。茫然として春を夏を送る間にも、枯渇したかと見えた私の感情も、しだいに自由と生気とを取り戻してきた。その時たまたま、一ノ石と旧交を復する機会を持ったのである。
 ちょうど卓上灯の電球が切れたのである。そういう時には、以前には家のものに頼むのでなければ、わざわざ遠い店へ出かけて、彼の店を避けたのであるが、思えばひどくつまらぬことに気をつかったようである。切れた電球を機会に、忘れられた友に対し て非常な好奇心がわいてきた。これまでにも家人や他の同窓から、彼の噂を聞くことがあった。それは耳をそばだてさせる性質のものであったが、努めて聞き流すようにしてきた。それが今、せかれた水が一気にあふれ出たように、後悔の念となって私をつき動かしたのである。
 店先に出てきた母親に彼の在否を問うと、彼女はいやに優しい声で彼を呼んだ。呼ばれた彼はしばらくして、顔を赤らめながら敷居に立った。怪訝の眼差はたちまちはにかみに変わって、低く、やあ、ともらしたあとは、どちらもただ、にたにた笑うばかりで、言葉が出なかったのは奇妙なことである。私ばかりが周囲の圧力で変わったように思ったのは、一人よがりで、彼もまた容貌においてすぐに感じられたように、外部にどのような圧力が生じたのかは知らないが、内面の密かな変貌をとげたようである。有形無形の原因の中で、私の彼に対してとった態度も、また何らかの要素となったかもしれない。
 数年間のギャップがためこんだもやのようなしこりは、意外にあっけなく氷解した。かつて私の快活が彼とむすびつけたように、今おさえられていた私の快活が再び自由を得て、彼との再結合を苦もなく行ったのである。彼はこの点だけは昔と変わらず、自分から求めて友情を結ぶことはないが、求められれば決して拒むことを知らないのである。
 私はこの日はじめて、彼の部屋としている二階へあがっていった。私の家は平屋であったから、二階の部屋へ通るのは珍しい経験の部類に属するのであるが、それよりも四畳半と六畳の部屋つづきで、どちらもいろいろな電気部品、完成したものやら中途のものやらの器械で、さながら陳列場か物置のようになっているのには、いかに電器屋の二階とはいえ異様な気がした。彼は一人っ子であるから、それでも立居のスペースには困らなかったろうが、段々話すうちに、これらのがらくたまじりの部品やら機器やらは店の品ではなく、彼の実験のための材料なのであることが分かってきた。彼は相変わらずデンキチであることを止めていないのである。止めていないばかりか、むしろ膏肓(こうこう)にいって、生命のすべてをある一つの発明に捧げていたのである。

  (4)

 お互いの近況について問いつ問われつ、しばらくは相手の目と目を合わせるのがまぶしいように、視線をさけがちに、ぽつりぽつりと語り合った。彼の現在はほぼ噂のとおりであった。先頃父親が亡くなったのをこれ幸いと、工業高校を出てからはどこにも就職せず、家業を継ぐと称して、終日二階の彼の占拠する部屋に閉じこもっていた。母親の出ている時、客があると、店先に現われることがあったが、一向に無愛想な客あしらいで、来られるのが迷惑というふうさえ見せるので、近所の子供の頃から修ちゃんと呼びなれている主婦ででもなければ、大抵は気分を害して二度とは買いに来なくなる。大体が、場所柄、店頭の客程度で成り立って行く商売ではなく、電気工事の請け負いや、空調の代理店のような形で、そちらのほうが主なのであるから、親の感化といえなくもない。けれども家業を継ぐということが、全くの世間向けの口実であることは、私の出入りした数ヶ月の間に、殆んどそれらしい用向きで心身を煩わせている様子などは、一度もなかったことから推察されるのである。彼は全く拘束のない自由な時間を、挙げておのれの情熱の対象に注いでいたのである。
 彼の容貌の変化についてふれたが、この年頃でしばらく顔を合わせずにいて、たまたま出会った時などに、妙にまぶしいような視線を交し合うのは、見ない間に驚くほどの変化あるいは成長が顔貌に現われるためでもある。そこに昔の面影はたしかにまごうかたなく残っているのだが、あたかも昆虫の変態の過程ででもあるかのように、見知らぬ仮面が不透明に張りつきだしている。私の知っていた彼の顔の柔らか味のようなものは、殆んど消え去って、代わりにどこか不屈の意志を思わせる骨の相が浮き上がってきている。顎の線と額のスロープにおいて、それは顕著に出て、ずいぶん面長に見せていた反面、また顴骨の隆起が本来の丸顔の最後の砦を守っているようだった。
 彼の顔色の悪いのには、また驚かされた。青白さを通りこして、光の加減で緑色をおびてさえ見え、どこか体の内部の故障さえ懸念させた。青年期によくある悪癖の過多によるそれかとも思われたが、そこまで想像するのは憚られた。どこか遠くから見るようなシャイな笑みは、彼に好感をもたらしたのであるが、今それを彼の口元に再認して、はじめてくつろぐことが出来るような気がした。そこには彼の親しい者にのみ向ける寛容があった。中学時代の私は、それに本能的に取り入って、彼を従順な動物のようにあしらったことがあった。それは私の恥とするところである。私はあえて彼の優越する点を認めまいとしたのである。私は私の甘えに等しいわがままに対して、より慎重にならなければならないと思った。

  (5)

 その時から私は、しばしば彼の二階に暇をつぶしに出かけるようになった。大学生活への幻想が殆んどさっぱりぬぐい去られてしまい、退屈な講師の退屈な授業などに出る熱意が冷め果てた頃であったので、家での気ままな読書にあきると、その頃喫い覚えた煙草をポケットにねじこみ、サンダルを突っかけて彼の店へ行き、横の通用門の板戸を開け、玄関までの狭い庭を抜け、ガラス戸を開けて奥の家人に全く挨拶代わりに彼の在否を問い、すぐにわきの階段をとんとん音をさせてあがって行く。彼は大抵大小さまざまの電気部品の、彼だけに理解できる混沌とした秩序の中に、火山台地の岩石の間に一人住む隠者のようにうずくまって、なに事か身の丈ほどもあるぶ格好な装置のごたごたと真空管の並んだ内部を、死人の腸(はらわた)をのぞく医学の徒の生真面目さでいじくりまわしたり、臭いのきついハンダをじゅうじゅう言わせていた。
 初めのうちは入ると座を立って、雑談に応じた。母親が紅茶の香りを載せた盆を手に、いそいそと上がってくる。ばかに丁寧な挨拶をする。この年頃では何とも不自然で、かしこまってしまう。今思えば、息子のために話し相手の出来たのが、よほど嬉しかったのにちがいない。彼は時として親の外にはまるで話し相手もなく、何か月も部屋に閉じ籠もってしまうのである。彼が話を切り出す時には、喋ることを一時的に忘れてしまったかのように、発声に困難を覚えるようだった。殆んど聞きとり難い嗄れ声で、しかもすぐに口の中へのみこんでしまうので、しゃべりかけたことが気が変わって、意欲を失うかのように思えた。これはたいてい雑談の場合で、実際彼は何を話してよいのか、当惑しているふうに見うけられた。そこで例のはにかむような、にたにたに終わってしまうのである。
 ところが、一旦彼の関心の対象が話題となると、これは実は私にとって一番苦手の方面であって、全くおざなりにしか好奇心を表わさなかったのであるが、――彼の専門の方面となると、魔法にかかったように場面は一転するのであった。最初はつまりがちに、しかし熱が入ってくると、彼の本来の声らしい甲高いピッチがあらわれ、滔々と弁舌をふるって倦むところを知らないのである。しかも相手の理解や感情には無関心に、半ば独白半ば講義調の、それも相手が蝶々であって今にも立っていくのを懼れてでもいるような早口で、独演の快感に酔うているのである。
 私は初めのうちはつき合いのつもりで、適当に関心のあるような様子を見せて合わせていたが、やがて横着になって、窓の外へ目をやったり、寝そべって天井へ煙草の煙をやけに吐きだしたりした。そうすると彼もふと我に返るようで、なんだか興醒めの様子でいるので、今度はこちらからしきりに話しかけても余り乗ってこない。彼は自分ののっそり出てきた、ほら穴のような部品の堆積を、ものほしそうにふり返る。私は彼の発明なるものを邪魔立てするつもりは毛頭ないから、私の存在にかまわず、仕事をつづけるよう勧める。彼は悪びれもせず、彼のエレクトロニクスのジャングルへ戻っていく。私は窓から階段口へ抜ける涼風に、うとうとして過ごす。
 出入りを重ねるうちに、彼は入っていっても座を立たなくなった。ちょっと会釈して、二言三言言葉を交わすだけで、熱心に発明品にしがみついている。私はただ煙草をふかすためだけに彼の部屋へ来るようになってしまったが、億劫だとも、馬鹿げたこととも思わなかったのは、私自身無為の時間をもてあましていたからで、何事かに熱中している人間を見ることは、珍しい動物でも見ているように、気晴らしの対象となったのである。
 彼の“発明”がいかなる性質のものであるか、それを説明として聞くことは、最初の試みですっかり怖じ気づいてしまった。やくざな文科系学生であった私は、数式や公式の充満する科学方面のことは、すっかり別世界の出来事のように、どこかへ捨て去って来たからである。私はラジオは鳴るもので、テレビは映るものだということが解りさえすれば充分だという、悟りの境地を誇りとしていた。彼の発明なるものも、すべて結果において明らかになるであろう。いかなる愚劣、いかなる驚異がそこから飛びだすであろうとも、過程の骨折りや熱意とは無関係に評価されるであろう。そんなわけで、彼の全身全霊を挙げて没頭している発明の内容については、ごく漠然とした輪郭と、野次馬の興味を覚えるにすぎないまま、数か月がすぎていった。

   (6)           

 ある秋の曇り日のこと、二週間ほど彼の部屋にご無沙汰であったことを思い出し、例のとおり煙草をポケットにねじこみ、サンダルを突っかけて出かけていった。玄関で彼の在否を問うと、家人は留守であった。店を開いている以上、彼のいないはずはないから、とんとんと階段をあがって、今では寒くなったので襖を立ててあるその襖を、軽い掛け声とともに開けて、中をのぞきこんだ途端、どこか様子の違うような感じがした。いつもは部品や道具類の散乱していないことのない部屋の中が、一通り片づいている。おまけにその片づいた中に、これまで見なかった安楽椅子が、こちらからは後ろ向きに、四畳と六畳の仕切りあたりに置かれている。背もたれの上から彼の後頭部がのぞいている。その右手には、押入れの襖を半分ふさいで、機器やら雑誌やらが積まれ、前の壁沿いには例のぶ格好な装置が、当時はやった電蓄の化物のように思われるものが、大部分中の様子をむき出しのままに聳えている。何となく電流がどこかに焼け焦げをつくったような臭いが、部屋にこもっていた。
 一ノ石は呼ばれて返事をしない。眠ってでもいるようである。前へ回ってみて、彼の顔をのぞきこみ、思わず妙な場面を盗み見したような、ばつの悪さを覚えた。彼は薄く目を開いて眠っているようなのだが、顔全体に羞じらうような赤みがさして、しかも表情が痴呆的に弛緩しているのである。こんな一ノ石の表情ははじめて見たのであって、またまともに見るべきものではなかった。しまりのなくなった口もとに、あわのようなものが浮いているのを見て、もしや病気でもと思い、一旦立ち去ろうとして、ともかく起こしてみることにした。
 彼は泥酔者のように、なかなか目醒めようとしなかった。なんだか色っぽい声色のような呻きを発して、揺すぶるこちらの手を払おうとする。焦点の定まらない目だけは開いている。気味悪さもあって、しばらくほうっておくことにした。彼はまた椅子の背にぐったりとなって、目を半眼に閉じている。十分ほどしてまた揺すぶってみると、今度は大分はっきりした視線をこちらに向け、口元には苦笑いのようなものを浮かべている。
 「いつ来たのだ」
 「ちょっと前だ。どこか体でも悪いのか」
 「そうじゃない。このところ徹夜をつづけたので、ついうとうとしていた。あいつをやったあとは、ひどく疲れを覚えるね」
 彼が顎で指したのは、彼の例の“発明”である。
 「あんまり精魂を籠めるからさ。僕だったら、あんな怪物は屑屋へでも売りとばすかして、コンパの費用にまわすな」
 「怪物というのは、全くその通りだと思う。まさか最初からこんなにうまく行くとは思わなかったし、予想外のことがつぎつぎ起こるしするし・・・」
 「するといよいよ完成したのだな。ひとつ鳴らすなり何なりして、実益のあるところを見せてもらいたいね」
 「とんでもない。そんな安っぽいものではないよ。しかし、君にも・・・味わってもらいたくもある」
 彼はちょっと訝るような眼差で、こちらの顔をまじまじと見た。私にとっては、運命的な思いつきの瞬間であった。私はこの時はただ自分を見くびられたように、反発だけ覚えたのである。
 「僕ははっきり言って、君の発明にはたいした興味はないんだ。君が何を発明したか、よくは知らないし、また前のチンプンカンプンの説明を、もう一度くり返してもらおうとも思わない。大体科学なんてものは、デュ・ボワ・レイモンが説いたように、七つの謎に封印された認識の限界を大人しく認めて、ただ効用ばかりを追求していればよいのであって、――要するに結果が問題なのであって、その点さえ理解していれば、科学の正体を見窮めたも同然なのだ」
 「デュ・ボワ・レイモンの七つの謎の中には、霊魂の問題がある。あの頃の科学では謎に思われたか知れないが、僕は必ずしも、科学の力の及ばない謎であるとは思わない。しかし、もし君がそのつもりなら・・・やはり結果だけを与えるわけにはいかないと思うのだ。その前に、充分な覚悟が必要とされるのだから・・・」
 彼の態度には、こちらの軽薄さを押さえつける真剣なものがあって、ふいに得体の知れない企みをもつ人間を前にしたような、居心地の悪さを覚えさせた。
 「なんだか実験台にされるようではないか」
 「そう。この場合実験と言うのが正しい」
 「しかし、まだ承知してはいない」
 「君にいきなり承知させようとは思わない。それには少々前置きが必要なのだ」
 「数式ならご免蒙る。大体君は、数式など一切使わず、ヘッケル流に説明することが出来ないものか」
 「数式というのは、科学者にとっての唯一の言葉なのだ。そいつがないと、科学者どうしの会話は不可能だ。そいつを普通の言葉に直すとなると、文明語をホッテントット語に翻訳するのより難しい」
 「僕をホッテントットだと思って、お手柔らかに頼む」
  一ノ石は安楽椅子を立って、四畳半の間へ行き、真ん中に胡座をかく。私は窓際へ背をもたせかけて座し、私の灰皿代わりになっている蚊遣り線香の皿を部屋の隅から引っぱりだし、一本気取った手つきで吸いつける。ただ味もわからず吹かしているので、濛々と煙だけこもる。彼は時々それを手で払うようにしながら、妙にしみじみと話しつづける。

  (7)         

 「君、これまで自分というものを考えたことがあるかい。この自分、このおれ、この私というものの正体をね。僕には昔から、その問題がこの世で一番不思議な謎だった。いくら考えたって解らない。この自分は一体何ものなのだ、どこから来たのだ、どうして今、よりによって今、この国に、この家に、このおれとしてここにいるのだろう。いくら考えても解らない。解るようで解らない。あたりまえのようで、これほど不思議なことはない・・・」
 私は呆気にとられて、彼の芋虫のように物憂く動く口唇を見つめていた。彼なぞは年中エレクトロニクスのことばかり考えていて、日常一般のことはおろか、こんな禅坊主の御託のような考えが彼の頭の片隅にひそんでいようなどとは、夢にも想像されなかったのである。だが、人の一番深いところに隠された感情なり考えは、そうむやみに表へ現われるものではないから、何かの拍子に、普段見慣れた人間が、突然思いもよらないことを言い出したり、全く別人のようなことをしたりするのは、そう例にとぼしいことではないかもしれない。この一ノ石という男の本当のところだって、私はこれまで知っているようで、何一つ知らなかったのかもしれない。こう、呆気にとられながらも、私は目まぐるしく反省した。
 「こんなことを言うのも、君なら分かると思うからだ。これまで、誰にだって話したことはない。話せば、変な顔をされるにきまっている。僕にとってはひどく大事な問題なのだが、ほかの人間に話せば、病気の人間を見るような目つきをされるだけだ。誰もがみんな自分というものを持っていながら、その自分にふれられるのを怖がっているんだ。なぜだろう。これも不思議でならなかった。だが、こちらの不思議さは、何かタブーのようなもので、そういう問題を論じることに、本能的な不安と反発があるらしいんだ。
 僕が最初に自分というものを発見したのは、小学校六年の時だった。ある晩、木枯しの吹いている夜だったが、変に寝つかれなかった。蒲団の中でじっとしていると、急に自分がいつもの自分でないように思われてきた。というより、急に自分というものが普段よりありありと意識されてきて、言ってみれば、気体が急に固体になったようだった。手をどこかに差し伸べれば、つかめそうな気がした。それでいて、どう、どこへ手を手を差し伸べていいものやら、見当がつかない。あっ、これが自分というものなのだな、という気がその時した。すると、この自分は一体何ものなんだろう、どこから来たんだろうと、そんな疑問がふつふつと湧いてきた。解るようで解らない、つかめそうでつかめない、だって自分というものが目の前にありながら、それがなんだか解らないなんて、これほどいらだたしいことがあるだろうか。その時はそんな疑問にさいなまれて、いつまでも眠れなかったよ。でもいつの間にか寝こんでしまい、朝目覚めた時には、あのはっきりした自我感覚は薄れてしまい、またいつもの僕に戻っていた。
 けれども、それ以来、その時の明瞭な印象と疑問は、しょっちゅう僕につきまとって離れなくなったのだ。ああいう体験はめったにあるものではないが、それからも自分というものが妙に具体的に意識される瞬間はたびたびあった。僕はこっそり、自我というものについて書かれてある本を、探したこともあった。一種の病気のようなものと思っていたので、人に訊く気になれなかった。訊いて笑われたり、嫌な顔をされるのを懼れたのだ。ためしに、自分の両親にでも、友人にでも、<僕はだれでしょう>などと真剣に訊いてみるがいい。親はたちまち顔色を変えて、そんなことを誰にいわれた、と誤解しかねないし、友達は次の日から気味悪がって近づいてこなくなるから。
 そこで本を調べたんだが、確かなことはどこにも載っていない。難しい心理学書や哲学書や、宗教書にもあたったが、どうも合点がゆかない。僕のこの具体的な自我感覚を、具体的に説明したものにはぶつからない。この世は自我だという説があるが、僕には哲学的才能がないので、何のことか分からない。また自我などはないという説、妄執であるという仏教の説、妄執でも何でも、あるものはある、そのあるものを説明してもらいたいのだ。結局、哲学や宗教ではらちが明かないと思って、科学ではどうなっているのか、それまで調べてみたけれど、なおさらのことどこにも書いてない。
 もうこんな馬鹿げた探究はやめようと思っていると、ある時、ある科学雑誌の記事で、心というのは脳の産物であり、脳は一種のエレクトロニクスの世界であるとさりげなく書いてあったのを読んだ。どこがどうエレクトロニクスなのか、説明してはいなかったが、その時僕の頭にビーンと予感のように響いたものがあった。僕がデンキチであったことと、自我の疑問とは、そのあやふやな文を読んだことによって宿命的な合体を遂げたのだ。
 自我が電気、それは素晴らしい啓示だった。まるで僕は、自我の謎を解くためにデンキチになったようなものだった。だがその頃の僕には、自我の何がどのように電気であるのか、まるで解っていなかった。とにかく雲をつかむような仮説だったが、僕はその確証に向かって、一歩ずつ踏みだして行くことに腹をきめた。それは中学三年の時だった。

   (8)          

 僕には生きるということと、電気の趣味とは、いつの間にか同意義になっていた。宿命というのか、業というのか、自分からそれを取ってしまったら、あとには何も残らない。肝心の自我だって、デンキチである僕自身と結びついている。僕自身の情熱がいとおしいのであって、空っぽの自我なんてどうでもいい。熱いパッションで貫かれた、僕のこの充実した自分というもの、これが何よりもいとおしいんだ。時には自分で自分を抱きしめて、可愛がってやりたくもなるよ。
 けれども、この<おれ>というのは、一体どこからやって来たのだろう、どこへ行くんだろう、このまま自分という存在は永遠に続くのだろうか、そんなことを考えると、妙に不安になってくる。時というものが、恐ろしいものに思われてくる。いつかこの自分を失ってしまいはしないだろうか、自分を満たしているパッションが、生命の充足が、いつか消えてはしまわないだろうか、そう思うと、どこかで目に見えない盗賊が、この僕自身を盗もうとして、眼を光らせているような変な気がしきりとしてきて、たまらなく怖くなってくる。僕は自分を永遠にしたい、このまま時を止めてしまいたい、と思った・・・。
 高校に入ってから、僕はあらためて自我の探究にとりかかった。エレクトロニクスを底の底まで窮めて、そこから脳の生理的電気現象との類推を求めた。困難だったけれども、この研究をやっていると実に楽しく、実に生命が充実していた。学校の教科などは見向きもしなかった。どうして卒業できたのか知らないよ。自分の専門のエレクトロニクスのほかには、なんにも知らなかったし、知ろうとも、勉強しようともしなかったからね。そんな無駄なことに時間をつぶす気にはなれなかった。脅されようと、泣きつかれようと、僕は先天的に自分の好きなことしかする気になれないたちなのだから・・・。
 とにかく、僕の頭の中で、だんだん一つの仮説がまとまりだしてきた。人間の自我は、電場や磁場のように、一種のフィールド(場)なんだとね。その場の中をくるくる飛び回っている、元素だか、素粒子だかがあるはずなんだ。僕はそれをとりあえず、エゴトロン(つまり自我電子)と名づけることにした。各個人のエゴトロンは、それぞれの周波数、あるいは振動数を持っている。それが個我の個我たるゆえんだ。もしそうでなかったら、どうして君と僕との自我(エゴ)を区別できよう。君は僕であって、僕は君であってもよいはずではないか。他人と自分とが区別されるのも、それぞれのエゴトロンに、固有のフリークェンシーが具わっているからなんだ」
 一ノ石は話の合い間合い間に、私にはチンプンカンプンの数式、たとえば自我電子の意識エネルギーへの変換式など、を長々と引用し、説明しするのだが、幸いその一つとして私の記憶にとどまらなかった。ここでは私自身に解った部分だけ、つじつまの合うように再現しているのである。一ノ石はいわゆるアイデティック・メモリー(写真的な記憶)の持主であって、一切の数式はおろか、設計図のたぐいまで、頭の中にたたみこんであるらしく、書いたものは何一つあとに残さなかった。したがって、彼のエゴトロンの理論が、私の記述しているように、言葉だけの幼稚なものでなかったことは、ここで特に断っておきたい。

  (9)          

 「人間の脳の働きが電気的なものであることは、脳波計などという器械で計られる微電流で知られる。けれども、その程度のものは、気候のメカニズムを探るために、温度計にたよりきるのと同じで、現象の表面をなぞっているだけだ。何一つ本質的なことについて手がかりを与えない脳などというものは、個性のない、いわば発電機のようなものと考えてよい。問題はその発電機の作り出すエゴフィールド(自我場)と、そこで運動しているエゴトロン(自我電子)なんだよ。エゴトロンそのものは、各人に共通な、同性質の物質と考えられる。その差異を作りだす振動数、もしくは周波数の差は実に微妙で、わずかなものだが、そのわずかな差が、この地球上五十億の中で、たった一人の自分というものを区別している原因なのだ。
 僕はこのエゴトロンを理論だけではなく、実際に検出して見たいと思った。当然のことだが、僕のところにはそれだけの装置も、資力もない。そこである有名な博士のところへ手紙を書いて、返事を待つのももどかしく、自分から出むいていった。そこの研究所にあるサイクロトロンを使わせてもらいたいと頼んだのさ。もちろん危険はある。高速粒子をエゴトロンにぶつけて、フィールドから跳びださせようというんだからね。実験台は僕自身だ。
 博士は思いのほか丁寧に僕を迎えてくれたよ。エゴトロンの理論を説明すると、身を乗りだして聞いてくれた。僕は嬉しくなって、近頃まれなほど雄弁を発揮したものだ。なんだか用もないのにしきりに出入りする助手などは、気にもとめなかった。一時間も話したろうか、気がつくと僕の両側に白衣の男が二人立って、両側から腕を取ろうとするんだ。僕ははっとして立ちあがったよ。すると博士も立ちあがって、ニコニコ笑いながら、大変面白く聞いた、今度はぜひ論文にして発表するようにと、そう言い残して出て行ってしまった。
 男の一人に何の用かと訊くと、ちょっと来てもらいたいと言う。どこへ、と訊くと、悪いようにはしないと言う。ここで暴れたらますます勘違いされるだけだと思い、大人しく車に乗りこんで病院へ連れて行かれたよ。親に来てもらって、何とか出られた。そんなことがあったんで、ひとまずエゴトロンの検出はあきらめることにした。世間に対しては用心が必要だということを、身をもって知ったよ。
 事柄の本質が十分に分からなくても、応用の面では少しも困らないというのが、科学の面白いところだ。重力が何であるか、確たることを知ってる人は一人としていない。それでも人工衛星は上がるし、ロケットはちゃんと惑星まで飛んでいくんだ。電子というものがどんな物質であるか、ほんとのところを知ってる人はいない。でも、電球を灯すのに少しも不都合はないんだ。そこで僕もエゴトロンの検出はあきらめるとして、一つこの理論を応用した器械を組み立ててみようか、という気になったんだ。
 ここでまた、僕の小さい頃の自我探究のエピソードを、ひとくさりやらなくちゃならないんだが、僕がまだ宗教書なんてものをあさってた時代だ。宗教からは、自我について大したことを教わりはしなかったが、一つ大いに興味を引かれたことがあった。何かというと、自我の輪廻(りんね)という考えなのさ。これにはハッとしたね。過去にも同じ自分というものが存在した、その過去の自分と、今の自分は同じものである、と宗教は言うんだ。
 僕は魂というあやふやな観念が嫌いだったから、同じ魂が次々と別の肉体に宿るという考えには賛成できなかった。ただ、自分というものが、どこか時空を隔てた他の所にもいるかもしれない、という考えが、ひどく刺激的だったのだ。それは過去かもしれない、未来かもしれない、あるいは同時的かもしれない(ダブルとかドッペルゲンガーなどというものがあるね)。この少年時代のワンダーが、たまたまエゴトロンの応用を考えていた僕の脳裏に浮かんだというわけだ。
 あらためて考えてみると、この輪廻ということには、いろいろ意味深い暗示が含まれているように思われてきた。今まで、自我はこの世に一つだ、唯一不二だ、というふうにどうしても考えたかった。でなければ、自分という存在のオリジナリティーなんてなくなってしまう。でもまた、こうも考えた。幾億と知れぬ存在の中には、ちょうどエゴトロンの振動数が同じ自我があってもいいではないか。それは別の個体に宿ってはいるけれども、自分とそっくり同一なのだ。その二つのものが出逢えば、波が重なるように共振して、一つのものになってしまう。でも、そういう機会がまれなのは、この世界五十億の人間の中で、自分と共振する自我が一人もいないことで分かる。しかし過去はどうだろう、あるいは未来はどうだろう。果てしない存在の行列が、無明の過去から無明の未来へと連なってるじゃないか。その中に自分の自我と同じものを、探すことはできないだろうか。
 こう言うと、君はたわごとのように聞くかもしれない。エゴトロンの理論が、どうして過去や未来に結びつくんだねと。ここが肝心なところなのだ。自我というのは、君も知ってるとおり、非時間的なものだ。肉体や考えは、老いたり、変化したりするかもしれない。しかし、僕という自我はいつまでたっても変わらない。不変だ。いくら長生きしたって、僕が僕でなくなるわけではない。自我というものには、時間を超えた一貫性があるのだ。
 君が子供のころ自分だと思ったものは、今も相変わらず君自身なのだ。どんなに経験という時間的な付加物をしょいこんだところで、同じ君がそこにいて、昔も今も君は君であって、君以外の何ものでもない。君の考えは変わる、君の感情も変わる、君の判断も変わる。けれども、すべては変わっても、君自身は変わらない。君自身は時間を超越して、常に同じだ。なぜだろう。それはつまり、君自身であるエゴトロンが、そもそも時間を超越した存在であるからだ。このエゴトロンの振動数が変わらない限り、君は変わらない・・・」
 一ノ石は、こちらの理解にまるで頓着しない雄弁に、やっと一息いれて、壁際にある器械に目をやった。

   (10)          

 「そもそも、エゴトロンの非時間性ということから、僕のこの器械は着想されたわけだ」
 一ノ石は、電蓄の化け物のような器械を指さしながら言った。私にも、彼の話していることの大筋が分からなくはなかったが、あまりの突拍子のなさに、思わずニヤニヤと、不信の笑みを浮かべてしまった。そんな作り話にはかつがれないぞ、という露骨な表情が出ていたものと見えて、一ノ石はちょっと厭な顔をして黙りこんだ。それからあらためて元気づいて、何か企みがあるらしいほくそ笑みを洩らすと、先をつづけた。
 「ここまで来れば、もう君にもこの器械が何だか分かったろう。僕はとりあえず、この器械をトランスマイグレーター(前世探検機)と呼ぶことにしたよ。原理は今話したとおりだ。もし過去か未来に、僕と同じ振動数の自我がいたら(僕でなくて君でもいいがね)、その振動とこちらの振動とを同調させればよい。ラジオの原理と全く同じだよ。ただラジオと違う点がある。エゴトロンからは、その振動数と同じエゴウエーヴ(エゴ波)が出ている。これは過去、現在、未来、無碍遍通の電磁波だ。その波をとらえて、振幅を大きくし、君なり僕なりのエゴ波と波長を合わせれば、ここに前世、あるいは来世とのコミュニケーションが成りたつんだよ・・・。
 おい、君、何を笑ってるんだ。信じないというんだろう。なあに、今に信じるさ、信じるほかなくなるよ。いいかい、この器械はもう完成してるんだぜ。ということはつまり、もう実験ずみということなのだ」
 「すると、なにかい、すでに君のご先祖様と、ご対面あそばされたと、そうのたまわれるのかい」
 一ノ石は急に力が抜けたように、話に熱して力んでいた上半身をかがめた。そして甘美な回想にふけりでもするように、幸福そうな顔つきになり、
 「こんなにうまくいくとは、さすがの僕にも思いよらなかった。本当いって、僕だってここまで理論の確信がなかったら、自分の目で見たこと、耳で聞いたこと、感じたことを疑いたくなるよ。テレビの原理を知らない人には、テレビは魔法のように思われる。かりに原理を説明したところで、日常的な経験とならないかぎり、やっぱり疑う人は疑うさ。僕の発明もそうだ。僕の会ったあの博士じゃないが、画期的な理論には頭から疑ってかかるものさ。専門家でもそうなのだから、君が信じなくても、痛くも痒くもないよ。この器械は僕の理論の生きた証拠だ。そしてこの僕が、人類で初めて、生きながらトランスマイグレーションを敢行した人間だ。どうだい、僕の体験を話してあげようか」
 彼はもったいをつけるように言葉をとめて、ぐっと身を乗りだし、上目づかいに眼を光らせた。私は本気になるのも馬鹿らしいと思ったが、くだんの博士ではないが、彼の精神状態にいささかの不安を感じて、ここは大人しく彼に話をつづけさせることにした。一ノ石はちょっと身をひねらせて、安楽椅子の傍らに手を伸ばした。つかみあげたものを見ると、やたら電線の絡まった、ヘルメット様の妙なキャップだった。長いコードをいく本も引きずっている。
 「これを頭にかぶるんだよ。むこうの装置が受信機だ。同調は自動的に働くようになっている。なにしろ、これをかぶりながら同調するわけにはいかないんだ。受像機はどこかというと、つまり、ここさ」
 彼は自分の頭を指でこつこつ叩いた。
 「直接コンタクトするわけだ。なにしろ自我同士の交流なんだから、器械なんかにはまかせられないよ。同調の時間は思いのほかに早い。だから自分一人でやるには、なかなか苦労するよ。コンタクトが始まれば、もう手も足も出ないんだからね。それで、用心のためにタイマーをつけてある。装置の中には過熱部分があるので、長くはできないんだ。今のところ二十分で終わらせることにしている」

 (後篇へ)
 

  

  
 

後篇

くるえるストーリーズ

 トランスマイグレーター(11-20)
      ―前世探検家―
 
       夢遊星人  作

   (11)

 「初めて実験したのは、昨日の午後だった。さすがに興奮したね。スイッチを入れる手がふるえたよ。五分、十分待った。何も起こらない。その時のみじめな気持ったらないね。こんなはずはないんだが、こんなはずは・・・。誰か人が見てでもいるように、青くなったり、赤くなったりしたよ。けれども、いざという時に、つまらないミスをやるもんだ。自分でとりつけておきながら、タイマーを合わせるのを忘れていたんだ。そいつをひねった途端、ジィーンと頭の中を貫いて、中天へ抜けるような音がしたと思うと、たちまち気を失ってしまった。
 気を失ったと思ったのは瞬間のことだった。というのは、一瞬意識が布巾できれいさっぱりぬぐわれたと思った次の刹那には、僕はなにやらぶつくさ呟きながら、昼日中の通りを歩いていたからだ。なんだか変だなという気がかすかにする。同時に、なにが変だ、これがあたり前だという意識が、圧倒的にその考えを押しつぶそうとする。自分は自分のはずなのに、どうも自分が二人いて、どこかでその別の自分が自分に囁きかけているような気がする。そいつはこう言っているようなのだ。はて、おれはこんなみすぼらしい年寄りだったかな。急に張りの失せて、ぎくしゃくした手足、どこか根本的に体の奥が枯れていくような頼りなさ、けだるさ。このバサバサした、つぎはぎだらけの衣服、腰に差した太刀、裸の足に突っかけたうす汚いわら草履、おまけにどうやら褌をつけているらしい妙な股の感触、・・・なにを今さら不思議がってやがるんだ。どこの唐変木が、よけいなことを呟きやがる。拙者が拙者であるのにケチをつけるのは、どこのどいつだ。
 僕はあたりを見回した。人通りのない路地に、陽がかんかん射している。頭でもおかしくなったのかと、両手で頬をぴしゃぴしゃ叩いてみた。それからまた歩きだした。僕の心は、なんだかムシャクシャした慢性的な不機嫌で閉ざされているようだった。人間という人間に、恨みがましい腹立ちを覚えた。一生うだつの上がらない人生を送ってきて、ついに幸福とは何かを知らないままに、人生を終えようとしている。チッ、チッと音高く舌打ちする皺よった唇の裏には、もう歯が一本もない。目は目やににとざされたうえ、暑い陽射しに目がくらんでかすんでいる。おまけに、太陽も曇らさんばかりの顰め面、腰に差した太刀は名ばかり、本物はとうの昔に質草へ、長いこと鞘から抜いたこともないので、かびのふいた竹光だ。袴にかかったホコリを払うだけの気力もない。
 で、どこへ行こうかというと、質草も尽き果てて、ただただ武士の誇りもかなぐり捨て、米屋への百度参り、早くも番頭のこにくらしげな顔が目先にちらついて、歯ぎしりしようにも噛み合わせる当のものがない。この上は老いて恥多いこの身、腹でもかっさばいてと、考えるだけで意気地がない。
 長い下積みの下級武士、武士でそうろうの意地はとうの昔にどこかへ捨ててきた。跡継ぎの息子には死なれ、養子を取る当てもなし。妻なく、子なく、金なく、あとはただ棺桶の蓋が、おのれの頭上に釘打たれる音を聞くばかりの身。それでも命は惜しい、生きられるだけ生きてみたい。いま死ぬのはなんとしても悔しい。おれを苛んできた世間への面当てにも、生きつづけたい。嘲られ、さげすまれても、メシにありついた時の、あの胃袋の快感に、すべてを忘れられる。この一生涯で、ほかにどんな楽しみがあったというのか・・・。
 ふと目を上げると、かつての上役の某がこちらへやって来る。僕の顔はその武士の姿を見かけた途端、たちまち火にあぶられた雪のように相好が崩れてしまった。へつらいと、憐れみを請うようないじましい態度もあらわに、まだ五間も先に相手がいるうちから、腰を折って、うやうやしく迎える姿勢。 武士は知らんふりをして、少し顔を背けるようにして、足早にすり抜けようとするつもり。僕はあわててその袖口をとらえた。哀れっぽい泣き言が、僕の口からよだれといっしょに流れ出る。武士は眉をひそめて振り払おうとする。振り払われてもなおすがりつく。しまいにすがりついたまま、一二間引きずられていく。たまりかねて、武士は土のうえに鈍い色の銅銭をほうり投げる。まるで乞食だった。獲物に跳びかかるネコのように、僕はその金属片を土ごとつかみ取っていた・・・。

 ・・・僕はいつの間にか、長いこと泣いていたようだった。こんなみじめな人生を送ってしまったのか、という痛恨に胸をえぐられていた。だから、まだ肉体も若いままで、このアームチェアに寄りかかっている自分に気づいた時、真実意外な気がした。タイマーはとっくに切れていて、それから三十分くらい、僕は夢と現のはざまを茫然としていたようなのだ。 僕の前世というよりも、いつ頃か知らないが、昔僕と同じ自我をもって生きていた男の人生を、僕は二十分ばかり一緒に生きたわけなのだった。

  (12)
          
 人類最初の画期的実験にしては、ずいぶんと後味の悪い思いだった。なんだって僕の前世が、あんな胸くその悪い爺さんなんだと、僕はそんなものを見せてくれたこの器械が、呪わしくもなったよ。しばらくいじくりもしないでおいたが、時間がたつと、また段々に好奇心がぶり返してきた。もう一度実験して、またあの爺さんになるようだったら、もうぶち壊してしまってもいいが、ひょっとして別のものが出てこないとも限らない。僕の前身は、何もあの爺さん一人ではあるまい。賭けのようだったが、一度好奇心にとらわれると、もう引き返す気になれない。まだ何だか前の実験の影響みたいなものが、体の中にたまっているようだったが、気にもしないで、もう一度このヘッドピースをかぶったんだよ。

 こんども短い失神のあとで、自我が二つに分裂したような混乱状態があった。強い草の臭いがした。むんむんとむせ返るように、僕をつつんでいる。僕は叢に腰を下ろしている。陽射しは頭上から、さんさんとふりそそいでいた。でも暑くはない。ぽかぽかと、ストーブに温まってるようだ。ゆるやかな風が、僕のはだけた胸もとをなぶっている。その胸もとには、何だか生っ白いものがぶら下がっている。白いだけじゃなくて、まばらな毛が風にそよいでいる。そいつは飢えた獣のように、僕の胸にむしゃぶりついているのだ。
 僕はギョッとした。夢の中で変なものにまとわりつかれたように、身の内がぞくぞくした。ところが、その嫌悪のような感じが、しだいしだいにとろけるような快美感に変わっていくのだ。僕はもうその毛の生えた生っ白いものが、化物とは思われなくなり、深い慈しみの情をもって見つめていた。なんだってこんな可愛らしいものにゾッとしたんだろう。馬鹿らしいったらありゃしない・・・。
 僕は、いつの間にか腕の力がぬけて、ずりおちそうになっている赤ん坊を、揺すりあげた。赤ん坊は僕の乳房をふくんだまま、貪婪に放さない。ごくごくと咽喉を鳴らしている。僕の乳が張って痛いくらいだった乳房は、赤ん坊の乳を吸う音とともに、空気の抜けていくゴムマリのように軽くなっていく。僕はほっと溜息をついた。それから、今さっきのへんてこな感じを反芻してみた。ちょっとの間だったが、自分が赤子に乳を与えているのではなく、なんだか変な動物にがむしゃらに吸われているという感じがした。
 僕は突然思い当たることがあった。ああ、いやだ、きっと、おれ、昨夜の与作のこと思い出しただ。あいつ、赤子のオッパイだつうのに、きかねえんだから。でも、そう思いながら、僕の体は急に甘美な思いにひたされていくようだった。赤子の時は何でもねえのに、夫の与作に吸われると、体中に熱い火の棒がはしるようで、その行為を思いだしただけで、今も僕の中にあやしいおののきが、手足の先まで広がっていくのだった。ああ、いけねえ、赤ん坊が何だか与作のように思えてきた。おら、わりい女だ。そう僕は呟きながらも、体の中にくすぶりだした火種を、もみ消すことができないのだった。
 すると、がさがさと草を分ける音がして、傍らの叢が二つにわれて、日焼けした百姓の顔がのぞいた。眼が血走って、じっと僕の胸もとにすい寄せられてるようなのだ。なんだ、おめ、吾作じゃねえか。あにしてんだ、与作に言いつけんど。男はにたりと笑って、すばやくそばに寄ってきた。ほれ、あっち行けってば。なア、お米よ、ええじゃねえか、知らねえ仲じゃねえだべ。与作はぐうぐう昼寝してて、気づきゃしねえよ。赤ん坊がいるだ。
 男ははじめて気づいたかのように、乳首に吸いついている生き物を見た。その頭をなでた。赤ん坊は満ち足りて、乳首をふくんだまま眠りこんでいた。男は赤子を僕の腕からもぎとって、傍らの草にそっと置いた。いけねえってば。そう叫ぶ僕の抵抗には、どこか力がなかった。われになく声がかすれていた。男がのしかかってきた。ばか、ばか、僕である百姓女は力なく抗って、力及ばないのを知ると、静かに泣いた。はたして悔いの涙であるのか、自分にも分からなかった。
 強烈な草いきれ、真昼の太陽、いつ人に、夫に見られるかも知れないという惧れと羞恥、そうしたものが官能をいやが上にも煽りたてて、もう自分の意志ではどうにもならない快美感に陥っていた。大きな綿雲が、地にふれんばかりにして頭上をよぎっていく。せわしない雲雀の囀りが、もの憂く天から降ってくる・・・・・・・・・」

      (13)
           
 「うかつなことに、僕は前世で女になろうなどとは、少しも予想していなかった。目醒めた時には、しばらく自分が男であるのが信じられなかったくらいだ」
 一ノ石はその時の感覚を思いだして、酔い痴れてでもいるようにポッと頬を赤くして、眼には変な光を宿していた。
 「男として生まれるのは、なんと味気ないんだろうね。男の場合は、感覚がどうしても局部的なんだ。眼は眼、鼻は鼻、口は口、それから・・・、とにかく、それぞれの部分の快楽が独立してしまってるんだ。特にいけないのは、頭と肉体とが離れ離れなばかりか、反撥し合っていることだ。僕は女になってみて、肉体と思想の合一、すべての感覚の交響的な一致というものが、どんなものか分かった気がする。
 特にあの行為の最中に、感覚と思いの渾然とした一体感、万物がおのれの中でとろけていくような、えもいわれぬ陶酔感、あれだけは男には永久に味わえないものなんだよ。僕はアヘンの夢から醒めたように、しばらくは寂しくってしょうがなかった。もう一度、女のあの、ふくよかな肉体を取り戻したいと思ったね。自分のこの貧弱な、みすぼらしい、トリガラみたいなやつが、厭わしくてならなかった・・・」
 (私は一ノ石の話を聞いていて、インドのある童話を思いだしていた。ある婆羅門の王が、インドラ神の怒りに触れて、女に変えられてしまう。女になった王は、百人の息子をもうけたあとで、インドラに赦され、もとの男に戻りたいなら戻してやろうと言われる。「インドラ様、妾は女のままでいとうございます。男などごめんこうむります」と王は答えた。インドラは驚いて理由を訊くと、「夫と交わる時には、女はいつも余計に喜びを覚えるものです。妾は女であることに、十分満足しております」と言うのだった。)
 一ノ石はさらに続ける。
 「二回、実験を繰りかえしたあとで、何となく体もだるく、頭もぼうッとしていた。でも、もう一度あの女の体をとり戻したいという、やみがたい欲求が僕を駆りたてる。アフターエフェクトが心配だったけれども、つづいて三回目をやることにした。あの女のところへ戻れるかどうか、分からなかったが、ちょっと禁断症状みたいに、どうしても実験を続けずにはいられないんだ。これはまずいなと思わないこともなかったが、ついに、もう一度ヘッドピースをかぶった・・・。
 ・・・・・・・・・
 ひどく暗かった。戦慄(ふるえ)が、一すじ、二すじ、身のうちを奔った。怖れから来るのか、冷たさから来るのか、それともほかの理由によるものか、対象のつかめない身震いだった。しいんと、静まり返っている。いつまでたっても、はっきりした自分というものが、浮かびあがってこない。なんだか混沌とした意識が渦巻いている。中心のない、くぎりのはっきしない、半分眠りこんだような意識だ。それでも眠っているのではない。自分の肉体の感覚を、丸太ン棒のように鈍くつかんでいる。
 二本の手、二本の足が、柔らかく沈みこむ泥のような感じのものにやすらっている。ごわごわした感覚の腹は、同じ泥の中に半分めりこんでいる。それから、その腹の後ろに、胴体がどんどん細くなって、固まって、するすると長く伸びているものがある。尻尾らしい。なんと重い顎だろうと、僕は顔を意識して一瞬思った。ほんの一瞬そう思っただけで、すぐに何の不都合も覚えなくなった。その顎が、やはり泥の上にやすらっている感じだ。
 水は生ぬるかった。浅く僕の体をおおっているようだった。最初の戦慄は、どうやら異質の肉体に自分を発見した当初の、刺激のようだった。僕は何も考えていない。考えらしい考えが、頭にまとまることがない。ただ、たえず、いろいろな感覚が、体のあちこちから生まれては、たちまち過ぎていった。なかでも一番執拗に、くり返し起こった感覚は、体内からやってくる、鈍い、内臓の喚(おめ)きのようなものだった。それが飢えであることは、僕にも分かった。
 その時、かすかな振動が水を伝わってくるようだった。耳に入るというよりも、ブン、ブン、ブンと、体中に響きわたった。僕は本能的に目蓋をあげた。内臓のおたけびは、この響きに刺激されて、いよいよたけり狂っていくようだった。うっすらとした微光が、水中にただよっていた。事物は厚い硝子にへだてられたように、歪んでいた。僕のそばに、長い体を横たえた、醜怪な生きものがいた。僕は少しも驚かなかった。自分自身の影におびえることが愚かであるように、その動物には少しの不思議さも、異様さも、感じられなかった。
 ただ、その動物を見た時に、抑えがたい憎しみが、獰猛なライバル意識が、同じ獲物を狙う動物の間に起こるように、僕とそいつの間には起こった。僕の周り、というより見わたす限り、あたり一面には骨が散らばっていた。何の骨かは知らない。また僕には、そんな骨なんかに何の関心もなかった。僕の待っているのは、動くものだ。柔らかい歯当たりのするものだ。
 ブン、ブン、ブンと、規則的な振動は水を伝わってくる。体中が欲求でくすぐられる。僕の隣のやつが、たまらなくなって上顎を大きくもたげて、上下にびっしり並んだ、白光りする獰猛な歯並びを誇示した。僕も負けずに、重量感のある上顎をもたげて、顔全体が水から突き出るくらいに大口を開けた。
 その時、身近でバシャッと大きな音がした。何かと考えるまでもない。僕とライヴァルは、電気ではじかれたように、その音の方へ泳ぎだした。水は深くなって、何か白いものが水中で必死にもがいている。僕は血の臭いをかぎつけた鮫のように我武者羅に、そのいやに白っぽく、くねくねする塊りに突進して行く。僕とライヴァルとはほとんど同時に、そのもがいている生きものに噛みついた。激しい奪い合いだった。獲物はたちまち振り回され、切り裂かれてしまった・・・。腹の中におさまってしまってからも、僕達はあとに残った血の臭いに引かれて、いつまでもウロウロして、立ち去りがたかった・・・・・・」

  (14)
          
 一ノ石はこの肉食獣になった夢を語りおえると、しばらく考え込むように黙っていた。獲物の血の味を思い出しでもしたのか、しきりに咽喉もとをさすっている。
 「水中でもがいていた、あの白っぽい生き物ね・・・」
 一ノ石は言おうか、言うまいかと躊躇した。
 「まるで食欲そのもののように、無我夢中だったんで、あれがどんな動物かなんて、少しも気にかからなかったんだ。でも今にして考えてみると、あの、ブン、ブンという音ね、あれは食事の合図なんだ。ホラ、条件反射というやつ。あれを聴いた途端、僕は胃袋以外の何ものでもなくなってしまった。つまり僕は、誰かに飼われていたんだ。それで、あの白っぽい生き物・・・思い返すたびに、胸がむかつくんだが、ひょっとして・・・」
 一ノ石はどうも言いきれないようだったので、私が代わりに言ってやった。
 「人身御供だったというんだろう。人間が人間を食う。まあ、君の場合には、鰐に化身したわけだが、実に先祖返りの夢にふさわしいではないか」
 一ノ石は、私の皮肉な調子に、ちょっと不服そうな面を見せたが、
 「君は自分で体験しないから、そう気楽に言えるんだよ。今度という今度は、僕もこの器械をぶち壊してしまおうかと思ったよ。でも、なんだか惜しい気がしてね。けれど、昨日はそれ以上実験をつづける気にはならなかった。実験を重ねるたびに、終わったあとの、夢と現のはっきりしない状態が、だんだん長びいていくようなのだ。
 三回目の時には、確かに一時間ぐらいは、自分が鰐だか人間だか分からなかった。ちょうど、夢の中で、夢に見ている人物と、夢見ている自分と、どっちが本当の自分だろうかと考えてる状態、ほら、荘子の人か胡蝶かという、あの状態さ。で、壊すか、壊さないかも、翌日に持ちこむことにした。
 それで今朝になってみると、またしきりに実験がしたくてたまらなくなってきた。何かこの器械には、禁断症状みたいなものを起こさせるところがあるんじゃないかと、不安にはなったがね。どういうんだろう、これまで狭いところに、身動きもできずに閉じこめられていたこの自我という代物が、急に、自分と同じものが、この世界中、どこにでも、時間空間を超えて、複数的に存在しているという、眼からウロコの取れたような啓示を受けて、翼でも生えたような開放感を覚えだしたのだ。
 この僕という肉体が嫌になれば、いつでも別の僕になることができる。時間空間のどこかに存在している、同じ僕という自我に合体できる。たとえそれが、鰐だって何だって、かまやしないじゃないか。一つの同じ肉体の中に、一生閉じこめられてるよりは、いろんな生き物の体験を、次から次へと生きたほうが、どんなに面白いか知れない。
 とまあ、こういう気違いじみた考えさえ、わいてくる始末なんだ。結局、壊すどころか、誘惑に屈してしまった」

  (15)          

 「・・・・・・僕はどこかの砂漠を歩いていた。僕の隣にも、前にも、後にも、たくさんの人間が行進していた。誰も彼もが、この果てしない歩みに疲労困憊し、飢えと渇きにさいなまれていた。とりわけ、この三日間、一滴の水も口にしていなかった。人々は、生き残った荷駄獣をひそかに殺して、その血を争うように貪ることで、わずかに渇きを癒した。
 こんな悲惨な行軍になろうとは、インダスを立った時に、誰が予想したろう。食糧不足と、過労と、過酷な暑熱で、まず兵たちの連れた女子供が、つぎつぎに倒れた。初めはそれでも、死体を砂漠の砂に埋めてやるだけの余裕があった。しだいに誰もが自分のことでいっぱいになり、倒れていく者は、行軍の後に置き去りにされ、やがてハゲタカが、時ならぬ豊富な馳走に歓喜の舞を舞い、したたかな死の料理人ぶりを発揮するのだった。
 馬や驢馬は殆んど斃れ、大将から一兵卒まで、そろって徒歩行進していた。兵らはいつの間にか重い楯を捨て、胸当てをかなぐり捨て、槍や矛にすがり、最後にはそれらさえも棄て去り、全く身一つで、足を引きずりながら、いつ果てるとも知れない砂の海を、黙々と影のように動いて行く。
 僕は鉛のように重い足を、ただ機械的に引きずっていた。咽喉は渇きのために、やけどしたように痛んだ。眼は砂漠の光に半分盲いて、ために妙にキラキラする霧の中を行くようだった。なぜこんなにまでして、歩きつづけるのだ。みんながそうしたように、この場でバッタリ倒れてしまえ。そしたらどんなに楽だろう。もうどんな苦しみもない。耳もとで始終誰かが囁いていた。
 僕がインドから伴ってきて、すでにハゲタカの餌食となってしまった、あの黒い眼の女の幻だろうか。執拗に囁きつづける。だが僕は斃れなかった。この足が動きつづけるかぎりは、歩きつづけねばならない。そうじゃないか、こんな馬鹿げたことがあってたまるか。
 このマケドニア王に従って、はるばるインドまでも遠征した。これまでの幾多の戦の中でも、これほど苦しい目に会ったことはない。いろいろな地方の兵隊と戦って、百戦錬磨を重ねてきた。それなのに今、こんなつまらない自然との戦いに敗れようとしている。兵(つわもの)らしく、戦闘で倒れるならよし。故郷に像の一つも立とう。こんなところでハゲタカに食われ、いたずらに白骨をさらすなぞは、死んでも死に切れない。
 もとはといえば、王の気まぐれから生じたこと。北の安全な道を行かずに、無理をして未踏の地を大軍で渡ろうという無鉄砲。インドでも命を落としそこねたこの人、一体いくつ命があるというのだ。
 僕の頭はかすんでいた。腹立たしい絶望だけが、僕を前へ駆り立てているのだった。またひとしきり、女の声が耳もとで囁く。お眠り、お眠り、さあ、バッタリと倒れておしまい。横になったら、さぞ心持ちがいいだろうね。僕にはしだいに、白く燃える砂漠が、ひんやりした大理石の床のように思われてきた。思わず足がもつれて、よろよろとした時だった。先の方で誰かが叫んでいる。つぎつぎに叫び継いで、だんだんはっきりとこちらへ近づいてくる。
 <ポタモス!ポタモス!>ポタモス!ああ、またうわごとの中で、誰かが呟いているらしい。僕の中には何の感動も起こらなかった。この数日、幾度この言葉に欺かれたことだろう。誰もが頭の中で、呪文のようにこの言葉を呟きつづけている。しまいには、その響きは頭の中をすりぬけて、大合唱となって、砂漠の非情の空に谺しているようだった。僕も一緒になって叫んだ。<ポタモス!ポタモス!・・・>」

 (アレクサンドロスはインダス河畔のパタラを立ち、ゲドロシアの首都プラに達するまでに、特に最後のゲドロシアの砂漠越えで、その兵員の大多数を失った。暑熱と渇きと食糧不足に加えて、ある河(ポタモス)の河原で宿営中に、折から上流での雨で増水した川水の氾濫による被害が大きかった。一ノ石の話にあるポタモスが、その河であるかどうか、確かめるよすがはない。)

 「僕にはこの二十分間が、百年のように長く感じられたよ。今の自分に返ってからも、しきりに咽喉が渇いてしかたなかった。おかしなことに、水を飲んでも、飲んでも、少しもその感覚が消えないんだ。じれったいたらないね。ギリシャ神話のタンタロスの場合は、飲もうとすると、水がスッと引いてしまうんだけど、僕の場合、飲んでも飲んでも、渇きは僕の実際の咽喉とは別のところにあるみたいなんだ。変なもんだね。ちょうど、ガラスの上から自分の肌の痒いところをかいてるみたいだったよ」
 「それはね、君の神経が狂いだした証拠さ。こんな危険な器械は、さっさと壊してしまったらいいじゃないか」
 私は友達甲斐に、腹を立ててそう言ってやった。一ノ石はいっこうに動じる様子がなく、
 「ところがね、そのアフターエフェクトが消えてしまうと、その厭だったことがケロリと忘れられてしまうのさ。で、それから少したって、君の来る前だけど、最後の実験をやったというわけだ」
 「あきれたね。この器械が本当に前世を見せる器械か、それとも単なる幻覚製造機かは知らないけれど、少なくとも中毒症状を起こすところをみると、阿片と少しも変わらないじゃないか」
 「阿片だって! 全く言うにことかいて・・・。危険なことは分かってるさ。精神に何らかの影響を及ぼしてることは、僕も認めるさ。でもね、何事も最初にやろうという人間には、殉難者の気概がなくちゃ。僕も自分のこの頭が破壊されるんじゃないかと、実験するたびに、怖くないとは言わない。でもね、それを勇気づけてるのは、僕の発明家としての良心さ。恐怖の発作で、壊してしまえという気になる。そこを僕の善なる守護神が、しばし待てと、アドヴァイスをしてくれるわけだ」
 「善なる守護神どころか、それこそベーザーガイスト(悪神)だよ」

   (16)
          
 私は言葉をつくして、一ノ石に、この呪わしい器械を破壊するよう勧めたのであるが、一ノ石は口もとに馬鹿にしたような笑みを浮かべ、本気に聞いているような様子はなかった。私もだんだん、その頑固な態度に腹が立ってきた。勝手にしやがれという気持から、ついに口を噤んでしまった。だから彼の次に発した言葉は、まことに意外だった。
 「いいとも、壊すことにするよ。君にそれほど勧められちゃあ、嫌とはいえない。でも、一つだけ条件がある。それはね、壊す前に、君自身が実験台になることだよ」
 一ノ石は意地の悪い眼つきで、ニタリと笑った。
 「おい、おい、それだけは御免だよ。君も知ってるだろう、僕は電気にはからっきしダメなんだ。電球一つ、感電するのが怖くて、満足にとり換えられない男なんだ」
 私は思いがけない逆襲に、冷汗を流さんばかりになって、抗弁した。一ノ石は後に引かない。
 「僕だって大きな犠牲を払うんだ。これまでの人生の唯一の目的であった器械を、君の頼みを入れて、壊してあげようというんだよ。君だって、それに見合うくらいの犠牲を払うべきだよ。犠牲というけれど、ただの何でもない冒険なんだ」
 無茶なことを言う。一ノ石がこんな心根の曲った男だとは、今の今まで気がつかなかった。やっぱり、少し精神に変調を来たしているんだろう。
 「なにも鰐だとか、飢渇の苦しみとか、そんな体験ばかりじゃないんだよ(そういうものも悪いとは言わないが)。僕の最後の実験を話してあげよう。実に美しい、夢のような体験なのだ。これを聞いたら、君だって進んで実験台になろうと思うよ」
 一ノ石はどこか遠い目をして、記憶を味わうように語りだした。

 「・・・・・・いつの間にか、僕は風だった。青い、藍い、空があった。空はどこまでも高く、深く、まるで澄みきった水の底にいるようだった。こんなに深い空の藍色を、見たことがあるだろうか。僕はひょっとして、宝石の中にでも、閉じこめられているのではないかと思った。琥珀の中に封じこめられた、太古の生き物のように、エメラルドか何かの中に微粒子となって、結晶体の間を、さまよっているのではないか。
 空気は凛冽の気をたたえていた。でも寒いとは思わなかった。かえって、目に見えない肉体の筋すじが、張られた弦のように緊張して、飛び回るたびに、ヒュン、ヒュンと、絶妙な音色を洩らすのだった。
 中天には、二個の炎の球が燃えていた。地球の太陽の半分もなかったが、紅蓮の炎を、陽炎のようにゆらめかせ、互いに真珠色の輪を投げあっていた。
 大地は黒色にしずもっていた。反射ということを忘れて、ただひたぶるに、黒色の眠りをむさぼっていた。峰も谷も平地も、影のしとねにやすらっている。
 僕らは、青い空の旅に飽きると、黒色の大地に慰みを求めて、馳せ下った。大地には、いたる所に奇怪な形をした、黒い石の塔がそびえていた。僕らはその石の塔のまわりに群がる。あるものは高く、あるものは低く、あるものは空洞で、あるものは変にねじれていた。これらはみな、僕らの芸術品なのだ。
 長い長い、記憶というものがもう混沌と同じほどの遠い昔から、僕らは石の塔のまわりで、踊りつづけてきた。僕らの息が、僕らの気配が、固い岩塊を削り、細らせ、穴を通し、永い永い時をかけて、僕らの作品を仕上げていった。僕らは喜びながら、祝いながら、天の楽音を奏でながら、岩の塔のあいだを馳せめぐる・・・。
 やがて、僕らは、一人一人でいることに飽き、誰からとなく寄りそいあって、一つの巨大な気流となって、空に舞いあがった。高く、高く、気圏の果てまで、一丸となった僕らは、翔けのぼっていく。僕らの体は、悲鳴のような叫びをあげ、一つ一つの楽器が共同して、とてつもない嵐の交響曲を生みだしていた。
 二つの太陽は、僕らの接近を恐れるかのように、蒼ざめて見えた。僕らの中では歓喜が踊っていた。いくらくり返されても、永遠に尽きることのない陶酔が、僕らを清冽に酔わせていた・・・・・・。
 ・・・・・・・・・・・・
 醒めてからも、僕の中を爽快な風が、いつまでも吹きぬけているような気がしたよ」

 一ノ石は、この風の又三郎みたいな童話を語りおえると、夢見るような目つきになった。私が実験室に入ってきた当初もそうだったが、話の清々しさに較べると、どうも見てられない痴呆的な表情だった。
 しばらく沈黙が続いた。私はさっきの提案を、一ノ石が、都合よく、夢想の中で忘れてくれるとよいと思った。こんな気違いじみた器械の実験台になるのは、真っ平ごめんだった。面倒なことになる前に、ここは退散したほうがよさそうだと考えた。ひとまず出直すことにしよう。で、私が口をきろうとした途端に、一ノ石が何か思いついたらしく、鉢合わせになってしまった。
 「なんだい」
 「いや、君こそなんだい」
 などとやっているうちに、正気づいたと見えて、一ノ石はヘッドピースを手にとって、私の前に差し出した。
 「さあ、いよいよ、君の番だ」

   (17)
         
 「ちょっと待ってくれ。まだだれも、実験台になるとは言ってないよ。君の論理には、ちょっとおかしな所がある。危険な器械だから壊そうということには、君も賛成した。それなのに、その危険に僕自身がさらされなけりゃ、器械は壊さないと言う。まさか本気で、そんなつむじ曲がりなことを言ってるんじゃないだろうな」
 「本気だとも。僕以外の人に 、どうしても、この体験を味わってもらいたいんだ。単なる幻覚ではなくて、厳密なる科学理論に支えられた、正真正銘の前世体験なんだということを、誰かもう一人の人に証人になってもらいたいんだ。頼めるのは、君の他にいないじゃないか。まさか、母親を実験台にしろと言うんじゃないだろうね」
 「むちゃなことを言うね。僕がやらなきゃ、親をこの処刑台にかけるというのか」
 「君は、もう僕が五回もやって、安全性を確かめているのに、まだ不安だというのかい」
 (一ノ石は、実験の精神・肉体に及ぼす影響を、過小評価しているようだった。彼がまさに五回も実験を重ねたために、私はますます、彼の安全を主張する言葉を信じられなくなっているのである。)
 「それは不安だとも。君の天才を信じないわけじゃない。しかし、そんな未知なものに、かりにアインシュタインが発明したって、そうおいそれと実験台になれるものか」
 「わかった!」
 一ノ石は突然ヒステリックに、うわずった叫びをあげると、ぶいと横を向いて、不機嫌に黙りこんでしまった。気まずい沈黙がくすぶった。
 「帰れよ! お前なんかもう友達とは思わない。この場で絶交だ」
 半分泣いてるような声だった。私もこの場は、おとなしく帰ってしまえばよかったのかもしれない。しかし、このまま残しておくと、良くないことが起こりそうな気がした。一ノ石の母親の、哀れっぽい様子が浮かんできた。私は自分の役割を、過大に考えていたのかもしれない。急に、このモノマニアックな男が、哀れになってきたのである。
 「怒るなよ、一ノ石!」
 返事はなかった。
 「よし、僕が実験台になったら、きっとこの器械は壊すんだな。それなら、時間を半分にして、十分間だけならやってもいい」
 「本当か!」
 一ノ石はもみ手をせんばかりに、いそいそと振り向いた。チェッ、引っかかっちまったな、私は自分の甘さに、内心舌打ちした。
 一ノ石は、早速器械のそばにかがみこんで、ダイヤルをひねったり、計器を確かめたりしている。こっちの気も考えずに、上機嫌に鼻歌なぞ歌っている。きっと首斬り役人が、斧を研いでる時の気分なんだろう。自分が実験台の時はそうはいかなかったので、傍から実験の有様をながめられるのが、それほど楽しいらしい。外から見て、はたしてどんな状態になるものやら、雷の電気をうけている、フランケンシュタインの怪物の痙攣するさまや、中学校の理科の時間での、蛙の筋肉の反射実験などが、頭に浮かんでくる。
 「そろそろ、それを、頭にのせてもらえないかな」
 一ノ石は、手術前の医者のような、こともなげな口調で言う。私はおそるおそる、むき出しの電線の塊りのような、ヘッドピースに手を伸ばした。触るだけで、感電しそうな気がする。一ノ石は私の躊躇を見て、つかつかと寄ってくると、自分で取りあげ、私の頭にうむを言わせずかぶせようとする。私は最後の抵抗をした。私は猛獣のように唸って、それをふり払おうとした。一ノ石は呆気にとられて、ポカンと口を開けた。
 「なんでもありはしないよ。ホラね」
 自分で頭にかぶってみせた。
 「こっちのアームチェアにしなよ。楽にできるから」
 気味の悪い猫なで声で誘うと、私の腕をとって、意外な馬鹿力で引っぱっていく。しかたなく、私は中腰に腰かけた。払う間もなく、一ノ石は自分の頭から電気帽をとって、すばやく私の頭にのせた。はっと手をやった時には、もうのっかっていた。電気椅子に坐ったような恐怖が襲った。私はがむしゃらに、帽子を投げ捨てようとした。その両手を、一ノ石の両手が押さえた。同時に、私は叫んでいた。
 「やめて・・・く・・・・・・・・・・・・」

   (18)
         
 私は、瞬間に白紙になってしまったようだった。眼をつぶった覚えはない。それなのに、何も見えなかった。何も聞こえなかった。何も感じられなかった。何も考えられなかった。ただ茫漠とした、空白の意識があった。私は魂の経験が始まる前の、あのタブラ・ラサ(白紙)の状態に戻ってしまったようだった。
 しかし全くの無ではなかった。何ものかが、私の存在を持続させていた。形のない、色のない、音のない、思いのない何かが、私をかろうじて支えていた。それはもはや、私と呼んではならないものなのかもしれない。しかしそれを表わすには、やはり私と表現するほかはない。無の中における、かすかな、かすかな抵抗のようなものだった。
 その抵抗は、しだいに強まっていくようだった。闇の中の遠い光の点が、涙でうるんだ瞼の中で、ボウボウと広がっていくように、私であるその抵抗は、だんだんに意識の形を取りはじめてきた。私は私を回復していった・・・・・・
 最初に甦ってきたのは、苦痛の意識だった。頭が切れるように痛い。それは内部の痛みではなく、外傷から来る、劇烈な、野蛮な痛みだった。私は先ず、自分がどこにいるかということよりも、その苦痛のために、ほかの一切の考えを忘れていた。私は頭に手をやった。ねっとりした血の感触があった。毛髪は、一本もなくなっていた。
 私は夢の中で、歯が残らずボロボロとこぼれてしまった時のように、鈍い絶望感を覚えた。しかし、今度ばかりは夢ではない。頭がはっきりしてくるにつれて、悪夢はそのまま現実として凝固してしまった。私は初めて、自分がどんな場所にいるのかを見てとった。
 私はデコボコした、ねっとりした膚触りのものの上に、腹這いに倒れていた。何一つ身につけていない裸体だった。あたりの空気も、下に敷かれたものも、妙に生温かった。空気はゆらゆらと、陽炎のように揺れた。私にはその光景が信じられなかった。悪夢にちがいない。私は目を固くつぶった。しかし、心の中では私は眠っていないことを、この上なくはっきり意識していた。
 私が倒れ、敷いていた、デコボコと妙に弾力のあるものは、人間の膚であった。人間の尻であり、腹であり、足であり、腕であり、頭であった。たくさんの裸の人間の体が、無雑作に積み重ねられている。その一番上に私は倒れていたのである。どの人間も毛髪がない。ほとんどがもう息がないように見えた。こんなことが現実にあるはずはない。悪夢だ!それとも自分はもう死んでしまって、地獄に堕ちたのだ!
 私はゾッとして、はじかれたように立ちあがった。足もとがふらふらした。足場が悪いので、うまく足を踏みしめられない。早くこんな所から逃げ出さなければ。私はあたりを見回した。十メートルぐらい先に、黒い壁のようなものが左右に広がっていた。その壁までは、見渡すかぎり死体の山である。
 私は死体を跳びこすようにして、そちらに向かって走りだした。死体を跳びこすといっても、どこへ足を置いても、踏むのは死体のほかはないのだから、単に感じの問題であった。やっとのことで、壁にたどりついた。私の背の二倍の高さがあって、とても乗り越えられない。触ってみると、固い金属でできている。不気味なことに、それがかなりの熱を持っていた。私はそこらの死体を積んで踏み台にし、なんとか首だけ、壁の向こうをのぞける高さに達した。
 壁の向こうはあまりに広くて、最初何があるのか、よく分からなかった。そのうち、遠近感になれると、私は途方もないことに気づいた。私ののぞいているのは、とてつもなくスケールの大きい、どこかの部屋の中なのだった。だだっ広い天井にまぶしく燃えているのは、たしかに巨大な蛍光灯だし、向かい側、はるか先には、山のような半開きの扉が見えている。しかし何よりも度肝をぬかれたのは、その部屋の住人だった。
 まるで原っぱのように広大なテーブルに寄りかかって、一人の大女が背を向けている。雲をつくようなとは、これを言うのであろう。しかし、部屋の大きさからすれば、釣り合いはとれている。女といったのは、スカートのようなのをはいていたからである。首から膝のところまでのぴったりしたワンピースで、銀色のウロコ模様が、蛍光灯の光にチカチカしている。変わっているのは、首のところと腕のところで、衣服と膚との境目がないように見えることだ。二の腕の中ほどで、ウロコ模様が膚にくいこんで赤味を帯びてゆき、その先はショウガのように真っ赤な腕がある。首のところも同じように、ウロコが赤い膚にとけこんでいる。
 しかし、この女が人間でないのを露わにしているのは、その頭(かしら)だった。湯上りの髪に、カールでも巻いたように、最初思われたものは、よく見ると蛇のようにくねくねと蠢いている、数知れない触手だった。あるものは先にガラス玉のようなものがついてい、あるものは吸盤になっていた。そのガラス玉が、なんだか私の存在に気づいたように、ヒョロヒョロとこちらへ伸びてきた。この時まで、女は後ろを向いたままだったので、その前部を見ることができなかった。原っぱのようなテーブルの上には、何やら大きな皿に盛ったものが、いくつも並べられていた。遠くからでは、どんな料理かよくは分からなかった。
 すると向かいの扉が開かれて、別の女が入ってきた。私は思わず、足を踏み外しそうになった。人間ならば目鼻のあるべきところに、ただ真っ赤な口が洞穴のようにぽっかり開いて、狭まったり、広がったりしている。その上を、一面に蛇のような触手がうごめいている。胸もとから膝までは、ウロコ模様のスカートでおおわれていたが、ただ乳房の隆起の先には、それぞれ一つづつ、烏賊の目玉のようなものが赤く光っていた。
 あやうく足を踏み外すところであったが、私はそれ以上に、もっと恐るべきことに気づいた。私の手をかけて、もたれている鉄の壁が、急速に熱さを増して、ついに触れるに耐えなくなってきたことである。私は背後を見た。死体の重なったあわいから、薄い蒸気が立ちのぼりだしていた。私の頭はぐらぐらした。足はよろけた。そのままどっと崩れ落ちてしまった。
 次の瞬間、私は壁の上から大女の口だけの顔が、大写しに迫ってくるのを見た。それは一瞬のことだった、次の刹那には、耳を聾せんばかりの音がして、あたりは真っ暗闇になってしまったから。底の方から、ゴーゴーという轟きが、しだいに高まってくる。空気はもう息ができないほど暑苦しい。なんという悲惨な運命だろう・・・・・・
 それから私はどうなったろうか。嵐のような混濁に、私は呑みこまれていた。私はどこへと知れず、果てしなく落ちていた。耳もとでは絶えず、突風が鳴っていた。私の落下する体が発する音でもあろうか。肉体とともに魂も、山のような重石にのしかかられたように、一緒に沈んでいた。やがて、はるか下に、赤い噴火口のようなものが見えてきた。見る見る持ちあがってくる。火の粉を飛ばすというよりは、激しい活動に痙攣して、広がったり、縮んだりしている。私はまっしぐらにそこへ落ちこんでいくようだった。真っ赤な炎が、たちまち眼界いっぱいに広がり、妙に生温かい、ぬらぬらした気息が、私の体中にまといついた。私は、あの、大女の、真紅の、口中に、いま、呑みこまれて、いく、自分に、気づいた・・・・・・。

    (19)
          
 「・・・・・・れ・・・・・・え・・・・・・」
 私は何か叫んだようだった。しかし、その叫びの間に、とてつもない体験がわりこんでいて、もはや何を叫んだのか忘れていた。気がつくと、私はアームチェアーにぐったりともたれていた。眼は開いたままだった。湿りがなくなって、瞬いた途端に、ざらざらした痛みを覚えた。額が重かった。手をやると濡れたタオルがおかれていた。一ノ石の母親が、心配そうに私の顔をのぞきこんでいた。一ノ石は、私の傍らに立っていたようだ。
 私がものすごい悲鳴をあげたので、帰宅していた一ノ石の母親は、愕いて飛んできたのだという。私はもう、一刻もこの部屋にいたたまれなくなって、ふらふらと立ちあがった。体はこのわずかの時間に (一ノ関は、私が目覚めたのはきっかり三十分後だという)、あらゆる運動で痛めつけられたように、くたくたになっていた。立っているのが信じられないほどだった。
 一ノ石の母親は、私をもとの椅子に坐らせようとしたが、私は乱暴なほどの力で、その手をふり払った。とにかく外へ出たかった。この呪われた実験室から逃げだしたかった。だが私の肉体よりも、精神に受けた打撃のほうが大きかった。私はどこをどう手探りで歩いてきたのか、覚えなかったが、気がついたら、自分の家の布団の中にくるまって、ガタガタ震えていた。あとで聞くと、一ノ石の母親が、私を家まで送ってくれたのであった。
 私が多少とも正気に返ったのは、次の日の午後だった。睡眠薬のおかげで、まがりなりにも、悪夢に乱されがちな眠りを、まる一日むさぼることができた。私は、長い眠りで少し頭痛のする頭を起こして、布団の上に胡座をかいた。気持は鎮まっても、脳の働きはぼんやりしていた。何か不安のしこりのようなものが、胸にわだかまっていた。それに触れてはならないという、タブーのような恐れが、そのしこりを取り巻いている。だが、考えまいとする努力は、かえってその不安の塊りを膨張させていた。
 突然に、ありありと記憶が甦った。それは記憶と名づけるほかはない、ヴィヴィドな、現実の体験の再現だった。ただの悪夢であったなら、目覚めた途端に頭でもかけば、たちまち薄れもしよう。しかし、アレは、私の人生と呼ぶ現(うつつ)の世界の体験の一部だった。すくなくとも、それと同等の実在性と現実感を備えていた。
 アノ体験が、アノ器械の産物であることに疑いはない。一ノ石が得々と説明したように、前世または来世の体験であるか、それとも単に電気的に引き起こされた、強烈な幻覚にすぎなかったものか、それは知らない。もちろん常識的に言えば、後者であろう。エゴトロンだとか、エゴ波だとかは、素人の私を相手にぶちあげた、一ノ石一流のホークス(法螺)であり、フェイク(はったり)であるにちがいない。
 いずれにしても、あの不格好な器械が、被験者の頭の中に、のちのちまでも消えない強烈な幻想を刻印する、人間精神にとっては破壊的な影響を及ぼす、危険な代物であることに変わりはない。一ノ石はその発明者であるとともに、あわれな犠牲者なのだ。
 私のあの幻覚をどう説明したらいいのだろう。あれは本当に、ただの幻覚であったろうか。もちろん私は、そのようなものとして片付けてしまいたい。私が巨大な鍋の中で煮られていたこと、あのゴルゴンのような大女――ひょっとして、あれらは人類の未来の出来事ではあるまいか(もちろん、一ノ石の理論を仮に正しいとしてのことだが)。どこかよその星から、ゴルゴンの一族が移住してきて、人類を食糧にする――そんな恐ろしいことが、地球の未来に待ちかまえていていいものだろうか。断じて、断じて、そんなことはあってはならない!
 ・・・・・・・・・ 

   (20)
        
 悲劇はその晩やって来た。八時頃、一ノ石の母親から電話があった。一ノ石が‘病気’になったから、すぐ来てくれという。聞いているのもつらいほどのオロオロ声だった。医者でもない私のところへ連絡するのも変だし、その病気というのが、妙に意味がありそうだった。以前にも、一ノ石のことを、「病気だから」と言っていたことがあった。取り乱している母親から詳しく聞くのはやめて、すぐに自転車 にのって彼の家へかけつけた。
 店の前に赤いランプを点減させた車が止まっていた。救急車だった。近所の人が物見高く、周りに集まっている。私は店の横の、開いている通用門から中へ入った。玄関口で騒々しく暴れる音がした。ちょうど、白衣の医師をまじえた男たちが四人がかりで、手とり足とりして、一ノ関をかつぎ出すところだった。一ノ石の額には一筋、血が流れている。眼は落ちくぼんで、底の方ですさまじく動物的な光を放っていた。顴骨がやけにでしゃばり、いつもはとがっている下顎が、妙に引っこんで、その顎や頬には、一日見ないうちに、ずいぶんと髯が深くなっている。全体に、類人猿めいた印象を与えた。
 これが一ノ石修一だろうか。頭髪は半分焼けて、縮れていた。着ているものは間違いなく、普段の一ノ石の衣服だった。こんなことには、これまでついぞ気づかなかったが、暴れる拍子にまくれた一ノ石の足の臑は、茶色い毛がびっしりと密生していた。その毛は足の甲にまでも及んでいる。気がついて腕のほうを見ると、やはり茶色の毛が袖口から手の甲まで密生している。
 一ノ石は何ごとか叫んでいた。いや、咆えていたと言ったほうがよい。人間の発声する音ではなかった。しかし、ただの動物の声とも違っていた。言ってみれば、ゴリラに人間の言葉をしゃべらせたら、こうも聞こえようかという、奇怪な咆え声だった。それは言葉であるには違いなかった。ところが、その場のだれにも理解できなかった。やがて、注射でもうたれたと見えて、一ノ石はだんだん静まっていった・・・・・・・。
 一ノ石は私との約束を破って、その後も何回となく実験をつづけたらしい。その晩も、食事のあと実験室に消えたと思ったら、しばらくしてボンと物が破裂するような音がして、途端に背筋も凍りつくような、すさまじい叫び声が起こり、母親も近所の人も一瞬すくんでしまった。前の私の悲鳴もすごかったが、これはそれ以上だったという。気を持ちなおして、二階に駆けつけてみると、部屋の中で煙が出ているようすだった。一ノ関は錠をかけたとみえて、襖は引いても開かない。体当たりしてぶちあけ、見ると例の器械が火を吹いている。 急いで消火器で消し止めて、さて一ノ石はと見ると、部屋の隅にうずくまって、目にいやな光を浮かべて、こちらをうかがっている。例の電気帽は、まだ頭にのったままだったが、そいつがブスブスと煙をあげている。
 近づくと、動物のような唸り声をあげた。近所の人の手をかりて、やっとのことで下の座敷へ下ろしたが、すきを見て、追われた動物のように台所へ飛びこんだ。包丁を見つけると、それを手に振り回して、近づくものはだれかれの見さかいなく、首狩族の酋長よろしく、人体の上下を切り離そうとする。手に余ったが、さいわい勢い込んだ包丁の切っ先が柱に当たって落としたところで、あとは私がその結末だけを見た、大捕物となったのである。
 ・・・・・・・・・
 一ノ石の一事に打ちこむ情熱の激しさ、不退転の意志には、私は今でも吝しまぬ賛嘆を覚える。一ノ石は、彼の言う前世探検機(トランスマイグレーター)を壊すことができなかったばかりか、きっと危険を承知で、実験時間を引き延ばしさえしたのだろう。彼の予想したとおり、器械の過熱部分が燃え出し、彼は実験の最中に滞在していた幻想の世界から、戻れなくなってしまったのである。だが、果たして、幻想か?
 私は、日が経つにつれ、だんだんに一ノ石の理論が正しいものに思えてき、あの器械が本物の前世、あるいは他世とのコミュニケーション装置であるように思われてきた。いや、むしろ一ノ石のためにも、そう考えなければいけないように思われてきたのである。最後の実験の折、一ノ石はきっと、原始人類か何かになって、太古の世界をさすらっていたのであろう。突然の事故のため、彼は帰って来れなくなってしまった。いや、帰ってきたのかもしれない。しかし、彼がなりきっていた原始人そのままの姿で。
 あるいはまた、こうも言えないだろうか。本物の彼は、やっぱり原始の世界に残っていて、今ごろトナカイを追ったり、マンモスと格闘したりしているのだと。そして彼と入れ替わってしまった原始の彼は、今、だれにも理解されず、野原や風や獲物に恋いこがれながら、日もろくろく射さない、白ずくめの壁のうちにうずもれてしまっているのだと。どちらが本物の彼であるかということは、たいして意味のないことかもしれない。どちらも正真正銘の一ノ石なのだ。しかし、どちらの一ノ石がより幸福であろうかは、問うまでもないことである。

 (完)
  

 
 


 
 


この本の内容は以上です。


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