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     目   次

    まえがき

 

第1章 現在文明の成立ち

     西欧中世の思想からの転換 /産業革命以降の文明的特徴 /デッサウェルの技術哲学

     発明品としての原発

 

第2章 安全に対する両者の相違

     原発推進の情宣 /安全神話に先立つ立法 /安全神話の中身 /議論が噛み合わない理由

 

第3章 新手の公害

     公益と公害 /原発公害の特徴とマスコミ報道 /原発の安全を哲学する

 

第4章 機械文明の哲学的考察

     安全神話のその後 /原発事故を苦悩する /人間至上主義 /原子力村の特権的思考

 

第5章 止まらない経済競争

     経済至上主義 /原子論による経済競争の説明 /経済競争が自然を工業製品の材料化

 

第6章 近代の思考枠の変革

     人類を脅かす問題 /近代哲学の変革 /科学技法の変革 /低エネルギーの生活様式へ

 

     あとがき

 

     参考文献


まえがき

 2011年3月11日、東北関東大地震を契機に福島第1原子力発電所の原子炉が、1号機、3号機、2号機、4号機と相次いで爆発し、推定90京ベクレル以上の放射性物質を飛散させ、かつ、原子炉冷却水が推定10京ベクレル汚染水に変わり海へも漏出しました。政府は原発の事故を今も収束できず、2013年1月現在、毎時1000万ベクレルの放射性物質を陸海空に撒き散らしています。原発事故の規模は国際評価尺度レベル7になり、手が付けられない状況を加味すると、事故後の甚大な影響は、今後何年も続き無情にも多くの被災者を苦しめます。さらに多くの国民は、大量に飛散した放射性物質の環境および農水産物から逃れることができず、外部被曝と内部被曝の影響を末代まで受けます。

 このような原発事故を受けて、原発関連の本が本屋の特設コーナーに平積みされています。今まで、原発に対する警鐘をわが身を省みずに鳴らしていた方の本は、平積みされるのは当然です。筆者は、哲学者や宗教家からいかなる内容の原発事故に関した本が出版されるか注目していました。アマゾンの出版検索を操作すると、「思想としての3.11」  「文明の災禍」 「原発とキリスト教」 など多くを目にしました。以降も、これに類の本が出版されるでしょうし、新聞にも時々哲学者の方が執筆されています。哲学や宗教は生きることに係わることを常に思索していますから、原発事故との関係から生きるということを出版で示すかと考えたのです。無謀にも素人の筆者が、一介の哲学者

になったつもりで挑戦したのが拙著です。

 哲学的探求または宗教的探求というものは、われわれ自身ののっぴきならぬ自己の問題をその当時、その民族の、その環境、その歴史的位置における条件下で行われます。この度の、福島第1原発事故は、のっぴきならぬ自己の問題として敢然と立ち向かいました。素人の筆者が、無謀にも福島第1原発事故をきっかけに哲学的に思惟します。哲学的に考えるとは、主体の態度が大きく影響します。改めていうまでもなく、主体の態度といっても、直接にこの自分というものがあって、自分の利益、自分の欲望のために何かをする、そういう意味の主観的欲望の主体に関するのではありません。主観的欲望を突き抜けた先の、究極的主体となり思惟します。

 この度の福島第1原子力発電所の事故は、機械文明における発電という光明面と放射性物質の未来永劫に亘る悪影響の暗黒面を如実に曝け出しました。原子力村は再び原発安全との宣伝をしていますが、事の本質は安全の押し売りという単純な話ではありません。もっと深く原発事故を掘り下げないと禍根を残しそうです。原発被害者の救済とか、原発の代替エネルギーを火力にするとか、その先のエネルギーをどうするとの議論は大切ですが、根源的には近代の哲学観と科学観がこの先の人類の安全を担保できるのかと言うことです。我々は得てして発明品の光明面のみを考えてしまい、暗黒面から顔を背ける傾向にあります。そのため、事が大きくなってから考える傾向にあります。それと言うのも、近代の哲学観と科学観に基づく人間至上主義というべき驕りと、自然を工業製品の原材料としかみない機械論的自然観から来ています。

 近代の哲学はデカルトから始まり、近代の科学はベーコンとガリレオから始まりました。産業革命以降は、科学技術による発明品が人々の生活様式を大きく変え、微視的物理化学の知見を応用した第二次産業革命(主に石油の利用)以降は、自然の制約からの解放が一段と進展しました。そして、現在のような地球全体が機械文明全盛時代を迎えました。この機械文明全盛時における福島第1原発事故を哲学の立場から文明論的に思惟します。

 なお、単に筆者の哲学的論考と称す感想文になっておりますこと、お許しをいただきたい。


第1章 現在文明の成立ち

 

 

 

 西欧中世の思想からの転換

 我々は、大変便利で安楽な時代に生きています。つまり、大変便利で安楽な生活を実現している人工物に囲まれています。このような生活には、多量のエネルギーを必要とし、人間の動力ではなく人工的発動力(蒸気、電気、爆発ガス等)が支えています。福島第1原発事故により、電気エネルギーは欲しいが放射性物質は御免こうむりたい、ハムレットの心境になっています。

 このような時代に我々は生きていますが、特徴は自然科学の法則を組み合わせた発明品を創出する経済活動を活発化させていることです。時代は思想を持っていますが、現在の思想の源は遡ること1600年頃の西洋に端を発しています。1600年頃の西欧はキリスト教が生活の隅々を規定しており、神学校ではスコラ哲学が盛んでした。スコラ哲学は、論理的にキリスト教の超越した神とアリストテレスの自然に内在的な神を結びつけています。アリストテレスは古代のギリシャ人ですから、自然を観想するのです。観想とはどこまでもものの形を見る、そしてその形をただ見るだけではなしに理性によって統一し組織するのです。従って、古代ギリシャ人の観想の結果が、学校の教科書で習うユークリッド幾何学が示す、美しい、秩序整然たる体系なのです。古代ギリシャでは物を作ることに関する学問は、工作が奴隷に属する以上、市民が携わるところではありません。ゆえに、スコラ哲学でも美しい、秩序整然たる体系を継続しており、一般原理から演繹的に結論を導きます。その代表が、天動説かもしれません。

 スコラ哲学の時代にあって、1600年頃、フランシス・ベーコンとガリレオ・ガリレイが相次いで、現実の観察や実験を重んじる 「帰納法」 の主張と実験結果を数学的に分析する画期的方法を考案しました。このような考えは、当時の手工業に使われる器械に関する工作に適用されたと思われます。我々は、学校の物理の一番最初に学習する梃子の原理とか、斜面で物をすべらす場合の斜面の法則とか、或は滑車の理法などが当時の手工業へ適用されたと推測します。このような行為は、中世までの自然に対する観想とは異なる態度であり、自分が肉体を働かせて工作するものにして初めて理解できます。自然に対する受身から一部ではあるが能動に変化しています。能動になるとは、工作物を製作し製作者の意図を実現する行為です。そういう意味の作る人になることが近世の特色です。

 一方科学の方法論ではなく、デカルトは1637年の 「方法序説」 で 「我思う、ゆえに我あり」 の言葉が象徴するように、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの 「信仰」 による心理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ理性を用いて真理を探究する哲学を打ち立てました。デカルト哲学の後押しもあって、工作物を製作し製作者の意図を実現する行為は、徐々に広まり産業革命(ワットの蒸気機関の発明は1756年)を迎えるのです。

 

 産業革命以降の文明的特徴

 産業革命以前は動力が人間または水車、馬や牛などの生の力そのままです。従って、道具の制作という意味合いが強いですが、産業革命以降は動力が人工的発動力(蒸気、電気、爆発ガス等)になり、道具の制作から機械の製作へと質的に変化・発展しました。道具の場合は、その動力となるものが人間自身にほかならぬという事情と結びついて、人間が道具を支配し、人間が道具には支配されないという人間主体性を保持することが容易です。機械の場合には、人間がこれを使っているつもりでも、実は機械の運転の管理者であり番人となり、人間の自主的主体性を確保し続けることは、機械の場合には甚だ困難です。人間と機械の間には道具の場合と違って断絶があり遮断があり、自動性が機械の本質をなしています。

 このような機械偏重の考えは、産業革命以降とともに成立し機械文明と称することができます。この産業革命は、資本主義の経済機構と連携して進みました。産業革命以降、いくたの人工物が大変便利で安楽な生活を実現することが認知され、個人あるいは集団組織が加速度的に、自然科学の法則を組み合わせた発明品を競争して創出しています。発明品をエネルギーに限定しても、動力源が蒸気力より電気力に進み、あるいは石油の爆発力に進み、ますます自然の制約を脱しきったところに、機械文明の発展が見られます。そして、今日では動力源を原子力に見出す文明の段階になりました。

 機械は人間が自然科学の法則を組み合わせ発明し、人間が組み立てた無生物です。自然科学の法則は理性により発見しますが、法則は善悪と無関係の事実の理法です。その法則を人間が、同じ理性で組み合わせて商品を発明しますが、発明品は手放しで喜べず明暗が表裏一体になっています。この度の福島第1原発事故は、発明品である原子力発電所の発電という光明面と放射性物質飛散という暗黒面を如実に曝け出しました。機械の場合には道具の場合と比較にならぬほど、機械の自動性により人間意志のプレーキがいとも簡単に破壊され、機械が自分自身で放射性物質生成の道を驀進します。ここに至るのも、光明面のみを賛美する功利的価値観が、貨幣を媒介にした経済競争に目的化してしまったからです。

 

 デッサウェルの技術哲学

 自然科学の法則を組み合わせ、発明する行為は技術の範疇です。そしてこの機械技術の進展は、その速度において道具的技術と比較にならず、驚異的速度でいくたの商品を生み出しています。そして機械技術の問題性は、公害で実感できるようになりました。しかし機械技術の本流である技術に関する思惟は少なく、深く掘り下げた思想はあまり見当たりません。この中にあってひとり群を抜く卓見が、スイスの技術家デッサウェル氏の思想です。

  氏は、技術というものの領域をカントの三批判(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)が取り上げた三つの領域以外の第四の領域を構成するものと考えます。カントの第一批判は自然科学の対象である我々は何を知りうるか、第二批判は道徳である我々は何をなしうるか、第三批判は芸術である我々は何を欲しうるかを問題にしています。技術の世界は、自然科学者が探求した法則を再編成し、自然界にない新たな存在を作り出します。つまり、技術の世界では人間の目的に沿う発明を行います。

 技術の本質は、確かに技術を深く掘り下げた氏の哲学どおりですが、自然法則を発見する理性が、自然法則を再編する過程で誤らないのかと言うことです。公害が多発していることを思い浮かべれば、技術を司る理性に全幅の信頼はできません。そもそもカントは、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察しています。それでも自然法則の発見の場合は、隠れた事実の認識であり価値観が侵入せず理性は誤りにくいですが、発明の場合は効率性、経済性、利便性等の功利的価値観が技術者に妥協をよぎなくさせ、理性は誤ってしまいます。さらに組織が目標とする発明品は、組織の思惑・利潤が強烈に作用し技術者の思いとは異なる方向に動き出しても、組織にはブレーキが作用しないため原発の安全神話が崩壊するまで機械の自動性のごとく進行します。製造会社から離れた原発は、単なる運転の管理者と番人の管轄となるため、デッサウェル氏が唱える第四の領域からも逸脱します。原子力発電所は東京電力が運転の番人であり、原子力安全・保安院が管理者です。いずれもデッサウェル氏が唱える第四の領域から離れ、原子力発電所は第五の領域とも言うべき管理者・番人の世界に属します。そのため、運用マニュアルに基づく原子力発電所の管理者および番人は、放射性物質飛散事故に対処の術

を有しておらず傍観するのみです。

 

 発明品としての原発

 福島第1原発の事故で注目を浴びた原子力発電所は、デッサウェル氏の説く第四の領域に属する発明品です。発明品は自然科学者が探求した法則を再編成し、自然界にない新たな存在です。原子力発電には、多くの自然科学者が探求した法則が適用されていますが、代表としてエリンコ・フェルミとアルベルト・アインシュタインの両氏を選びます。イタリア生まれの物理学者フェルミは、中性子を利用した人工放射性元素とウランの核分裂に関する熱中性子(注1)の発見によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞しました。一方、アインシュタインは世界一有名なエネルギーが物質と等価の公式、エネルギー = 質量 × 光速の2乗 により、極少量の質量欠損が莫大なエネルギーになる保証をしました。科学者と技術者は、彼らの深遠な発見を再編成すると原子力発電の原理が導かれ、原子力潜水艦で得られた原子炉技術を商用化して原子力発電所が誕生しました。この原子力発電の発明の過程に、政治家と官僚と経済人の思惑・欲望が強烈に作用し、自然法則を発見した科学者の理性からは思いもつかぬ発明品になりました。もちろん、技術者は原発の循環冷却を前提とした5重の壁(注2)で放射性物質を閉じ込める算段をしますが、効率性、経済性、利便性等の功利的価値観が技術者に妥協を余儀なくさせ、前提条件付安全しか確保できなくなります。そのため、安全基準から漏れた事象で前提条件が未成立となり原発事故が発生したのです。

 

 (注1) 熱中性子とは

  ウランの核分裂で中性子は発生するが、この中性子を水などを使い減速させた中性子を

  「熱中性子」 と言います。熱中性子にするとウランの核分裂が促進できます。ですから、

  原子力発電所の原子炉に水を使います。

 

 (注2) 放射性物質を閉じ込める5重の壁

        第1の壁(パレット)・・・燃料を陶器のように焼き固めたもの

        第2の壁(被覆管)・・・ジルコニウム合金製

        第3の壁(原子炉容器)・・・燃料を収める鋼鉄製容器

        第4の壁(原子炉格納容器)・・・機密性の高い鋼鉄製容器

        第5の壁(外部遮蔽コンクリート)・・・厚い鉄筋コンクリート製の壁

 

 

 

 


第2章 安全に対する両者の相違

 原発推進の情宣

 原発を推進している方の考えは、東京電力のホームページで窺がえます。以下に、 「なぜ日本は原子力発電を推進しているのですか」 との問いに対する返答を記します。当然、東京電力の広報ですから、光明面のみ記載しており筆者が(青字)を挿入しました。

 

  日本は、世界で消費されるエネルギーの約5%を消費する消費大国でありながら、エネルギー資源の80%以上を海外からの輸入に頼っている資源小国です。今後も増え続けるエネルギー需要や、地球温暖化防止のため、CO2排出量の要請に応えていくために、原子力発電はなくてはならないものとなっています。現在、日本では世界第3位となる53基(平成16年度末)の商業用原子炉が稼働しており、日本の発電電力量の約3分の1を供給しています。また、これらの原子力発電所の円滑な運転を支える原子燃料サイクル事業の基盤整備も着実に進められています。(そして、弊社は早く原子燃料サイクル事業が実現することを望んでいます。)

  日本の電力は、水力、火力、新エネルギー、原子力と多様化した発電方式により供給されています。安定的な電力供給のためには、石油をめくる国際的なエネルギー情勢や(原子力発電所の無事故や)地球環境での環境問題の対応等も考慮し、各発電メリットを組み合わせて、最良のバランスで発電することが必要です。原子力発電所は、燃料が再利用でき、CO2を発電の際に排出しないこと、少しの燃料で大量の発電ができ、約1年間の間連続運転が可能なことといったメリットを有効に生かし、(起動・停止が困難な原発の運転特性から)ベース電源として利用されています。

 (陸海空への放射性物質の大量飛散は除き、)環境保全に対しての危機感が高まるなか、温暖化の抑制が最重要課題となっています。各国で発電構成比の高い石油や石炭などの化石燃料は、発電時に(CO2排出量の少ないコンバインドサイクル発電に移行)温暖化をもたらすCO2を排出しますが、原子燃料は発電過程でCO2を排出しないため(代わりに核分裂時のエネルギーの3分の2を海に流し温め)温暖化防止に重要な役割を果たします。

  また、今後、発展途上国を中心とした人口増加と経済発展にともなって、化石燃料の消費量増加が見込まれ、資源の枯渇も深刻な問題となっています。燃料をリサイクルでき(たあかつきには)、ウラン資源を効率的に利用できる(軽水炉と高速増殖炉)原子力発電は、(放射性物質の消滅技術があれば)地球環境の保全にも大きな役割を担っていると言えるでしょう。

 

 安全神話に先立つ立法

 原子力発電は、1966年に日本原子力発電(株)東海発電所が、我が国最初の商業用として営業運転を開始しました。営業運転に先立つ5年前の1961年に原子力損害賠償法が、立法化されました。その内容は、 「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力に損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害の賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常な巨大な天変地異又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない」 となっています。つまり、巨大な天変地異又は社会的動乱による損害は、電力会社が賄えないため、法律を制定し税金で肩代わりさせる考えです。火力発電には火力発電損害賠償法がありませんから、原子力発電は非常に危険であるとの認識により賠償金が巨額になるから立法化したものと思われます。

 さらに、原子力発電所の立地審査指針は、同じく1966年の日本原子力発電(株)東海発電所の営業運転開始に先立つ1964年に原子力委員会が次の通り決めました。

 立地条件の適否を判断する際には、少なくとも次の3条件が満たされていることを確認しなければなりません。

 (1) 原子炉の周囲には、原子炉からある距離の範囲には非居住区域であること。

 (2) 原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯には低人口地帯であること。

 (3) 原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること。

 火力発電所は都会の近くに設けていますが、原子力発電所の立地審査指針を満たす場所は田舎しかありえません。つまり、原子力発電所は危険であるとの認識から、人の住んでいない場所にしか設置できないのです。

 

 安全神話の中身

 2005年12月25日、佐賀県では玄海原子力発電所3号機プルサーマル計画について、プルサーマルを推進する立場、反対の立場の双方が一堂に会し、その安全性を議論する県主催の公開討論会が開催されました。この席上、プルサーマルを推進する立場から東大教授大橋弘忠氏の説明が安全神話を見事に語っています。大橋弘忠氏の話す原子力安全神話は、以下の通りです。

 

 事故の時どうなるかは、想定したシナリオに全部依存します。そりゃ全部壊れて全部出てその全部がそのー環境に放出されるとなれば、どんな結果でも出せます。それは大隕石が落ちてきたらどうなるかという起きもしない確率についてやっているわけですね。あのー皆さんは、原子炉で事故が起きたら大変だと思っているかもしれませんが、専門家になればなる程核容器が壊れるなどと思えないんですね。どういう現象で、何がどうなったらどうなると、それは反対派の方はわからないでしょうと。水蒸気爆発が起きるわけがないと専門家の皆が言っていますし、僕もそうだと思うんです。

 じゃーなんで起きないと言えるんだと、そんな理屈になっちゃうわけです。まあー安全審査でやっているのは、技術的に考えられる限りですね、ここがこうなって、こうなってここがプルトニウムがこう出てきて、ここで止められてそれでもなおかつ、と言う仮定を設けたうえで、それもそれよりも過大な放射能を放出 された前提をおいて計算しているわけです。

 ここが一番難しいところですけれども、我々はそれはよくわかります。被害範囲を想定するために、こういうことが起きると想定して解析するわけです。ところが、一般の方はどうしてもそういうことがじゃー起きるんだと、また反対派の方がほら見ろそういうことが起きるからそういう想定をするんだと、逆の方向にとられるからおそらく議論が噛み合わないんだと思います。

 

  大橋弘忠氏の話す原子力安全神話を煎じ詰めれば、次のようになります。

 核容器が壊れる想定をすれば、大被害になります。しかし、核容器が壊れる確率は起きもしません。それは専門化が保証しているからです。原子力の専門家が、安全審査を行っているから放射性物質を核容器に閉じ込めています。念のため放射性物質の飛散を想定し、被害状況を解析しますが、あくまでも念のためであり、実際に放射性物質が飛散することはありません。

 しかし、安全神話は矛盾した論理構成になっています。核容器が壊れる確率が起きないのだから、念のための解析は不要です。現実には原子力発電に伴い放射性物質は、核分裂により日常的に核容器に生成されています。核分裂により日常的に核容器に放射性物質は生成されているのだから、核容器に放射性物質を閉じ込めている限り安全なのです。ゆえに無条件に安全なのではなく、条件付安全が論理から導かれる結論です。

 

 議論が噛み合わない理由

 原子力発電は、1966年に原子力発電(株)東海発電所が我が国最初の商業用として営業運転した頃から、放射性物質の大量飛散とトイレなきマンションと揶揄された使用済み核燃料の後始末が問題になっていました。しかし、約半世紀を経た2013年現在でも解決しておりません。それでも、原子力発電推進の政治家、官僚、経済人等の方は、原子力は、エネルギー資源に乏しい我が国にとって、原子力技術で獲得できる事実上の国産エネルギーと位置づけ、エネルギー国防を錦の御旗にして、暗黒面を優先度の低い事柄と判断しているため、一般の方及び反対派の方が問題点を持ち出しても議論が噛み合わないのです。逆に言えば、原子力発電の光明面と暗黒面を同列に扱えば、発電原理からして安全な発明品に議論が進むため、意図的にエネルギー国防を持ち出し議論を封殺しているのでしょう。次に、原子力発電推進の方と反原子力発電推進の方で議論が噛み合わない理由を掘り下げます。

 ギリシャでは時間と言うものは、回帰性すなわち循環する天体の運行が示すような回帰性、循環性です。植物は成熟して秋に果実を結ぶと同時に、その力が衰えて、冬になれば枯れて行く。しかしまた春が来て、新しく復活し生殖を繰り返します。こういう回帰、循環がギリシャの時間の考えの基になっています。

 ところが、砂漠の遊牧民であるヘブライ民族は、農耕の民であるギリシャの民とは時間の考えが違います。遊牧民はひとところに定着し、そこで四季の循環に応じた農耕が営めません。遊牧民族はいわゆる草を追って次から次へと動いて行き、草があって牧畜ができる間はそこに留まっているが、やがて草がなくなると他の草を追って移動します。だから、農耕を主としたギリシャ民族の時間が循環的であるのに対して、遊牧民族の時間は直線的でどこまでも先へ伸びてゆきます。

 産業革命以降は、自然科学の法則を組み合わせた発明品を競争して創作する経済活動が活発になりました。この歴史的状況からヘーゲルの 「精神現象学」 の中心になる弁証法的思想に至って、時間を循環的即発展的に考えるようになりました。循環的即発展的時間とは、比喩を用いれば螺旋的なのです。螺旋ですからぐるっと廻っているときは循環的ですが、ただ同じところをギリシャ的に回帰的に廻っているのではありません。ひと廻りしても同じ場所に戻るのではなく、向上発展した位置に戻るのです。

 螺旋的時間を意識する際に、過去に重きをおくのに対して、未来に重きをおく考えができます。過去に重きをおくと、過去の自分自身の連続性を循環的即発展的に考えるのに対して、未来に重きをおくと、自分自身を信じて決断するほかないという冒険を必ず含みます。未来に向かって自分を賭ける循環的即発展的考えです。人生上の重大な決断とか、技術者の発明品に賭ける思いは後者です。

 原子力発電推進の方は、過去との連続性を重視するのに対し、反原子力発電の方は子供とか孫の未来に向かって自分を賭ける考えをします。これでは、議論は確かに噛み合いません。哲学的には、相いれない矛盾的な対立があるわけで、交互に自己否定しつつ生かしてゆくという関係が歴史の発展になります。しかし、原子力発電推進の方は国家の圧倒的な力を過信しており、かつ、組織の利害得失に従っているため、矛盾的な対立の中から新しいものの創作を行わず、自己否定せずに常に過去にしがみつく態度を取り続けます。それゆえに、反原子力発電の方もしくは原子力発電に中立の方が、新しい発電原理の提案をしても全て否定する横暴が、この度の福島第1原発事故を招きました。原子力発電推進の方が、今の軽水炉原子力発電に固執する限り発電原理の変革は望めません。


第3章 新手の公害

 公益と公害

 公害には犯人はいるが、悪人はいません。公害は、本来悪しき意図から生じたものではなく、公害発生の基となっているものの本来の意図目標は、公益という人間に役立つことにあります。公害は公益から転じて派生したのであり、公益の主人が転じて犯人になりました。しかし、公害が引き起こされたからと言って、公益がなくなることもありません。ここに公益と公害の関係を簡単に割り切ることができず、公害それ自体が独存することは考えられません。公害それ自体が独存する場合は、武器が使用された時です。

 この辺りの道理を、世界的に 「ミナマタ」 の名で知られ、水銀汚染による水俣病から考えます。1932年からチッソ水俣工場では、世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法でアセトアルデヒドの生産を行っていました。1951年にチッソが行った生産方法の一部変更により、無機水銀がメチル水銀に変換され廃液と一緒に海に流しました。この内容は、1967年にチッソ工場の反応器の環境を再現することで実験的に証明されました。これにより、1968年熊本大学水俣病研究班は公式見解として、水俣病の原因がメチル水銀化合物と断定しました。なお現在でも決定的な理論は、まだ構築されていません。このように水俣病は、本来悪しき意図から生じたものではなく、生産量の増大を計画した生産方法の一部変更がきっかけとなり、徐々に環境に知らずして有機水銀を垂れ流していたのです。原因追求及び裁判の過程での、犯人の政府とチッソ及び御用学者の往生際の悪さはつとに有名です。なお、福島第1原発における原子力村の往生際の悪さは、水俣病裁判以上になると思われます。なぜなら、裁判で国が被告席に座る可能性があるからです。

 ここで我々は、政府と企業及び御用学者の往生際の悪さを生じさせている原因を掘り下げます。公害は、自然環境の破壊となって現れる以外に、非常に気付きにくい形態で公害が発生しています。自然環境の破壊は、環境汚染となって人目につきやすいですが、社会的公害もしくは精神的公害は、公害たる意識も自覚もないまま深く進行します。たとえれば癌のようであり、気付いたときは手遅れになります。

 その兆候は、我々がエネルギーを湯水のごとく使用していることです。福島第1原発事故でマスコミの情宣により、家庭及び企業他で節電に努めていますが、過去にエネルギーを湯水のごとく使用していた事実を都合よく忘れています。社会的公害もしくは精神的公害が発生する原因は、この辺りにありそうです。

 我々は、石炭・石油等無生物資源を浪費し続け、子孫の時代のことなど少しも考えずに、この社会の集団の不平等の利だけを計り、無生物資源がなくなってくれば、その時代の集団が考えるだろうという態度は、りっぱな利己主義といえます。ゆえに、福島第1原発事故に直面するまで、電気エネルギーは湯水のごとく使いたいが、放射性物質は御免こうむるという都合よい考えをするのです。福島第1原発事故後は、電気エネルギーが不足すると産業がなりたたず、加工貿易立国として立ち行かなくなるとの言説が大手を振っています。集団の不平等の利を計り、明日の日本を考えているのはその通りですが、原子力発電の光明面と暗黒面、広く考えれば我々が信奉している科学技術の光明面と暗黒面のうち、光明面を強調した考えです。全ての発明品には光明面と暗黒面が一体でつきまとい、原子力発電は光明面と暗黒面が半々の発明品なのです。光明面と暗黒面が一体であるにも係わらず、分離して光明面のみを考える思考は、社会的公害もしくは精神的公害を発症していると言えます。科学技術を始め、法律・社会機構など光明面と暗黒面を一体として捉え、自ら苦悩しなければ循環的即発展的時間による解決はできません。原発事故が発生すれば電気エネルギーが不足するのは当然であり、弁証法的に考えなければ困難を乗り越えられません。

 

 原発公害の特徴とマスコミ報道

 先に結論をいえば、原発公害は犯人が電力会社であり、悪人は政治家、キャリア官僚、御用学者、マスコミ等の原子力村の住民です。通常の公害は、本来悪しき意図から生じたものではないということです。しかし、原発は第2章の 「安全神話に先立つ立法」 の節で述べたごとく、原発の営業運転に先立つ5年前の1961年に原子力損害賠償法を立法、2年前の1964年に原子力委員会が原子力発電所の立地審査指針を決めました。これらの事柄から政府は、放射能事故の恐ろしさを予見していたがゆえの対策と言えます。ゆえに原子力発電所は、はなから危険だったわけであり、敏感に感じ取った未来志向の人たちは反対したのです。原子力発電所は、場所の選定、原子炉の設置など常に国に申請書を提出し認可を得た後に建設するのであり、原発事故は新手の公害ゆえ国害と言えます。

  さらに国害には、従来の公害(例:水俣病)にないきわだった特徴があります。一つ目は、徐々に公害が拡散するのでなく急激に公害が拡散します。二つ目は、公害の規模がとてつもなく大きく、地理的には世界中に影響を与え、時間的には未来へ悪影響を与え続けます。三つ目は、公害の原因が放射性物質であるとあらかじめ特定できているのに対策がないことです。ゆえに放射能の影響は、今後何年も続き神のみぞ知ることになります。つまり、政府には暗黒面の放射性物質を消去する術を持ち合わせておりません。その結果、原発事故の過小評価が得意な政府であっても、被害者への賠償金は電力会社では賄えず、国民の懐を充てにする始末です。四つ目は、国害ゆえにマスコミの追及が一般人の刑事事件のように犯人と悪人追求せず、マスコミの過去の責任を霧消にしてお涙頂戴の報道をすることです。

 筆者は原発事故が国策による公害であり、従来の公害と異質なことから国害と命名しました。この原発事故に似た話が、大東亜戦争後のマスコミ報道です。大東亜戦争中は、マスコミが大本営発表をそのまま報道していましたが、この度の福島第1原発事故においては、報道の自由があるにも係わらず原子力安全・保安院発表を垂れ流すだけでした。大東亜戦争は、マスコミが政府の尻馬に乗り戦意を煽ったのですが、敗戦後のマスコミは一億総懺悔なる言説を持ち出し、マスコミの責任回避を計りました。翻って、原発推進の後押しをしたマスコミは、原発事故後に解説者ともども核容器のメルトダウンはないと言い続け、国際原子力機関(IAEA)への事故調査報告書提出日が近づくと、敗戦隠しならぬメルトダウン隠しができす、政府発表に追随しました。その後は、一億総懺悔ならぬ一億総節電を巧妙に報道し、メルトダウン無しの報道責任を回避しようと目論んでいます。マスコミは、一億総節電の押し売り報道をすることでマスコミの責任回避を計るばかりか、逆に国民の思考を停止状態に追い込んでいます。

 マスコミの大東亜戦争中及び大東亜戦争後の報道とこの度の福島第1原発事故の報道が、同じ垂れ流し増幅思考であることに驚きを禁じえず、マスコミ組織が垂れ流し思考を代々引き継いでいるとも思います。ゆえに、マスコミは常に提灯持ちを繰り返し、事が明白になれば後出しジャンケンの報道をします。 

 

 原発の安全を哲学する

 原発事故が発生して、2年3ケ月を経過したが一向に収束の兆しは見えません。原発再開に向け政治家、キャリア官僚、知事、マスコミ、大企業のトップ等から安全対策をきちっとすれば、原発再開が可能なことを宣伝していますが、本当かどうか哲学的に考察します。

 マスコミから情宣されている安全な原子力発電所が可能というものは、現実の原子力発電所から何かマイナスしたものがあって、現実の原子力発電所は発電原理に矛盾を含まないが、しかし安全な原子力発電所になるには何かがまだ足りないと言っています。だから安全な原子力発電所になるには、何かが加わることにより安全になると考えています。そのため、安全基準を見直し対策を強化し不足分を補えば安全になると考えています。従って安全な原子力発電所を考えるには、現在の軽水炉原発に何か新しい原理をもってくる必要はなく、安全は軽水炉原発の方に存在していると考えています。安全な原子力発電所は、いつも現実の原理の上に考えられています。

 原子力発電所は、電気事業者が原発建設に際し国に原子炉設置許可申請書を提出し、原子力委員会と原子力安全委員会が原子炉設置を許可します。福島第1原発事故で、循環ポンプを建物の中に入れるとか、非常用ディーゼル発電機を水没しないように高台に移設しておけばよかった言われています。仮に、筆者が東京電力の原子力発電所の担当とします。原発の仕事に従事しているので、原発の安全性を高めるため、非常用発電機を水没しないように高台に移設する稟議書を書いたとします。このとき、上司から国から安全だとお墨付きをもらっているのに、何故に時間とお金をかけて工事をするのだと問われれば、答えに窮します。つまり、一度安全審査に合格すれば、その時点の安全審査基準に漏れた事象で原発事故が発生する可能性があるのです。人間である限り完璧な安全審査基準は、作れません。

 次に、安全審査合格を絶対とする形式論議の極め付けを、2006年12月22日付で衆議院議員の吉井英勝氏が提出した、『巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民を守ること』 に対する2006年当時の安倍晋三総理の答弁書で例示します。

 

 ① 何らかの事故で原発の冷却系の外部電源が切断された場合でも、非常時の電源に切り替わる

    から何も問題ない。

 ② 地震や津波に関しては、申請ごとに経済産業省(原子力安全保安院)が審査してそれを原子力

    安全委員会が確認しているので何も問題ない。

 ③ 地震や津波で原子炉が停止したあとに電源が切断されるというような事態は、絶対おこらないよに

    万全を期しているので、起こった場合のことなど考えていない。

 

 筆者は、現状の原子力発電所というのは、発電と同時に放射性物質を生成しており本質的に安全と矛盾しており、現在の軽水炉原発の発電原理を否定したところに安全な発電所が成り立つと考えます。原発事故が発生すれば電気エネルギーが不足するのは当然であり、弁証法的に考えると軽水炉原発の発電原理を否定した、新しい発電原理の発電所を建設し電気エネルギーを供給するべきです。つまり、発電時に放射性物質を生成しない新しい発電原理に則った、発電所でないと安全は担保できません。原発再開に向け政治家、キャリア官僚、知事、マスコミ、大企業のトップ等からの安全対策発言は、軽水炉原発が発電と同時に放射性物質を生成している致命的欠陥を、言葉で覆い隠すまやかし以外なにものでもないと断言できます。

 

 

 このような勝手な安全に至るのも、発明品の光明面と暗黒面を一体化して捉えるのではなく、発電という光明面のみを勝手に切り離し、現世集団の不平等の利を計る人間至上主義の上に利己的主義の思考が根底にあるためです。

 

 

 

 



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