閉じる



桜の盛りを少し過ぎた季節。日曜の午後。

ソファに座ってテレビを眺めながら、剛の意識の大半は美津姫の動き回る気配に集中していた。



付き合い始めて3ヶ月と少し。
何度か遊びに来てはいたが、彼女が家に泊まったのは昨日が初めてだった。

自分のために、慣れないキッチンでかいがいしくコーヒーを淹れてくれている美津姫の姿が目に浮かぶ。


「美津姫、大丈夫ー?」

剛がそう声を掛けると、キッチンから可愛らしい声が返ってきた。

「うん。もうすぐ出来ますよぉ」

剛は、堪えきれずニヤッとした。

(全く、かぁわいいよなぁ)



「お待たせー」

両手にマグカップを持ち、「あっつい、あっつい」と言いながら美津姫がそろそろとこちらへやって来る。

剛は立ち上がると、マグカップを上から掴んでテーブルに置いた。


「ああ、ありがとぉ!剛は熱くないの?」

「あはは。こんぐらい、なんでもないよ」

余程熱かったのだろう、美津姫がブンブン振っている両手を捉まえ、剛はフーフーと息を吹きかけてやった。


美津姫は鈴を振るような声で、くすぐったそうに笑う。

「ふふふ。ありがとぉ。もう治った」


「そか。じゃあ、早速コーヒーをいただきますか」

「うん。美味しく出来てるといいんだけど」

手を繋いだまま、ソファに座る。



あまりにも幸せな、日曜の午後。

朝晩はまだ少し寒かったが、午後には柔らかな日射しが降り注ぐ。
窓の外では、微風が木々の葉を揺らす。

テレビでは、可愛らしい様々な動物の赤ちゃんを紹介する番組が放送されており、タレント達が大げさに嬌声をあげている。



平和だ。完璧に、幸せな空気。
優しくて可愛らしい彼女の笑顔と、美味しいコーヒー。

この幸せを破るものなど、存在しない。


剛は、コーヒーをひとくち飲んで微笑んだ。

「うん。美味しい。美津姫のコーヒーは、特別に美味いよ」

コーヒーメーカーで淹れたコーヒーに美味しいも不味いも無いのだが、そんなことはどうでもいいのだ。

美津姫も、カップ越しに微笑みを返した。



あまりの幸福感に、胸がキュンとなったその時。
不意に、携帯の着信音が鳴った。

剛はテーブルの上の携帯を手に取ると、あからさまに表情を曇らせた。


「また、あの人?」

「ん・・・・ああ」


美津姫が、心配そうな上目遣いで剛を見上げる。

「・・・出てあげた方がいいんじゃない?」



本心を言えば、出たくなかった。
だが、こちらから一方的に彼女を振ってしまった手前、剛には負い目があった。

自分と出会ったせいで2人が別れた事を知っているので、美津姫も気を遣ってくれているようだ。


「うん・・・じゃあ、ちょっとゴメン」

「うん。気にしないで」

美津姫はリモコンでテレビの音量を下げると、キッチンへ戻って行った。


美津姫の後ろ姿を横目で追いつつ、憂鬱な気持ちで通話ボタンを押す。



「剛?どうしてずっと出てくれなかったの?!メールだって何度も送ったのに!」

ヒステリックな声に、剛は思わずため息をついた。

昔はこんな喋り方をする女じゃなかった。
もっと頼りな気な、おっとりした話し方をしていたのに・・・・



(イヤ、それも全部俺のせいか・・・)


「悪かったよ・・・で、何の用?」

自分でも、酷い言い草だと思った。
だが正直なところ、鬱陶しいというのが本音だった。


 ーーーーーーーーーー


宏子とは、それまで4年と少し付き合っていた。

正式に婚約はしていなかったものの、なんとなく結婚も意識していた。
付き合った当初のようなときめきなど既に無かったが、特に不満があったわけでも無かった。



だが。

4ヶ月ほど前、剛は、美津姫という女性に出逢ってしまった。

派遣社員として入社した彼女に、あっという間に恋をした。
ほとんど一目惚れと言ってよかった。
彼女こそ、理想の女性だと確信したのだ。

漠然と、理想として想い描いていたとおりの女性・・・


仕事はきちんとこなすが、出しゃばらず控えめ。
誰に対しても親切で、常に笑顔を絶やさない。
そのうえ、外見も清楚で可憐。

それは、今まで宏子の中に見ていた長所だった。
だが、美津姫にもその長所を見つけた。しかも、より増幅し際立った形で。
そのうえ短所などはどこにも見当たらない。


天使だ。
美津姫は剛にとって、不意に舞い降りた天使のような女性だった。
幸いなことに、美津姫の方も剛を憎からず思っているのがわかった。


宏子に対しての愛情や興味は失われ、それどころか苛立ちと罪悪感しか感じなくなってしまった。
身勝手だと理解ってはいたが、今までの関係を続ける事は、もう出来なかった。




剛が別れを告げたとき、宏子はほとんど文句も言わなかった。


「ゴメン。他に好きな人が出来た。俺と別れて下さい」

「・・・・だよね。そんな気はしてた。最近態度がおかしかったもんね」




これっきりだ。

たったこれだけの会話で、ふたりの4年間は終わりを迎えた。

剛は若干拍子抜けしたものだったが、正直なところ、揉めずに済んだことで胸を撫で下ろす思いでもあった。


その翌日、剛は仕事終わりに美津姫を食事に誘い、交際を申し込んだのだった。




しばらくの間、ふたりの交際は順調だった。

だが・・・・・


2ヶ月を過ぎた頃から、宏子からメールが来るようになった。

復縁を迫るメールが。


最初のうち、宏子への罪悪感もあって、剛は謝罪のメールを返信していた。

復縁は出来ない、今の彼女を大切に思っているから、と。


そのうち、宏子からのメールの内容に変化が顕われた。

「私の方がずっと、あなたを愛している」
「剛を幸せに出来るのは、私だけ」
「剛はその女に騙されている」


さすがにウンザリして、剛は返信をしなくなった。

だが、宏子からのメールは止まなかった。



もちろん、週末ごとの美津姫とのデート中にも着信は続いた。

あまりに頻繁に届くメールに美津姫が不安げな様子を見せたので、剛は仕方なく宏子と別れた経緯を話した。


「そんな・・・・ごめんなさい。私、その人から剛を奪ってしまったんだね・・・私、何も気づかなくて・・・」


狼狽し、涙ぐんで俯く美津姫を、剛は優しく慰めた。

「美津姫が謝る事じゃないよ。気にしなくていい。全部、俺のせいだから」

頭を撫でてやると、美津姫は俯いたままコクリと頷き、小さな声で「ありがと」と呟いた。



宏子からのメールを着信拒否することも考えたが、やはり罪悪感も残っており、踏み切れずにいた。


そんな剛を本気で怒らせたのは、昨日のメールだった。


「派遣の女なんて、社員を捕まえて結婚する事しか考えてない」



(あの女・・・こんなこと言うヤツだったのか。最低だ)

さっさと別れておいて良かった、とさえ、剛は思った。


「もう二度と、メールしてくるな。もし電話かけてきても、絶対に取らないから」

そう返信して携帯の電源を切ったのが、昨日の深夜のこと。



いつまでも電源を切っておくわけにもいかないので、剛は朝になって電源を入れた。

すると・・・・

夥しい数の着信履歴が残されていた。
もちろん、全て宏子からだ。


無数のメール。
留守電に至っては、メモリー限界まで入っていた。


今どきの若者にはよくあることだが、もともと宏子はあまり電話をかけてこなかった。

付き合ってしばらくの間は何度か長電話もしたものだが、ある時期から、用事はほとんどメールで済ませていた。


普段電話をかけない宏子が、一晩で留守電が一杯になるほどかけてきている・・・・


背筋がゾッとした。

なんだか恐ろしくて、留守電やメールの内容を確認する勇気が出なかった。


それでつい、今まで放置していたのだ。



 ーーーーーーーーーー


「で、何の用?」

携帯を持った腕をソファの背もたれに載せ、キッチンに背を向けた剛の声は、あからさまに不機嫌そうだ。


そんな剛の様子を察してか、先ほどのヒステリックな声から一転、その声はか細く高く、また、少し震えていた。

「あ、謝ろうと思ったの。
もう二度と、電話もしない。メールもしない。だから・・・

ひとつだけ、お願いを聞いて欲しい」



(お願い?・・・・なんだろう。面倒だな)

剛が黙っていると、宏子は少し早口になって言葉を継いだ。


「あの、部屋の鍵を返そうと思って、昨日の晩、そっちへ行ったの。
そしたら、管理人さんが中へ入れてくれなくて・・・」


宏子のメールがおかしくなってきた頃、不安がる美津姫を安心させるために、宏子が訪ねて来ても中へ入れない様、管理人に頼んでおいたのだ。

管理人は、顔見知り程度には宏子をのことを知っていたので、顛末などを話すのはかなり恥ずかしかったのだが、恥を忍んで頼んでおいてよかった。



「だから夜のうちに、封筒に入れて外に置いておいたの」



(えっ?)


「外?外だって?!」

「だって、中に入れてくれないから郵便受けに入れる事も出来ないし・・・・だから、早く電話に出て欲しかったの」


「・・・悪かったよ。ずっと電源切ってたんだ。で、どこに置いたの?」


「ちょっと、ベランダに出てみてくれる?そこから見えるところに置いたから。目立つように、赤い封筒」


剛はソファから立ち上がると、通話状態のまま窓へ向かった。

窓を開けベランダに出て、下を見てみる。

4階のベランダの真下に見えるのは、背の低い植え込みと広い道路。
少し先にある小さな公園からは、子供達の遊ぶ声が聞こえる。


「赤い封筒なんて、無いけど?」

「・・・おかしいな。ツツジの植え込みの上に置いたんだけど。風で飛ばされちゃったのかしら。少し覗き込んでみてくれる?」



(まったく・・・鍵を外に放置するなんて、不用心だろうが)

剛はベランダの手すりから身を乗り出して、階下をよく見た。
やはり、それらしきものは見当たらない。


「あ、そうそう。さっき言った、お願いなんだけど・・・・」

「あ?ああ・・・・」




「一緒に死んで」


笑いを含んだその低い声を聞いたのと、自分の身体がものすごい勢いで後ろに引き倒されたのは、ほぼ同時だった。



ほんの一瞬。


仰向けに倒れてゆきながら剛が見たものは。


何かを捉まえようとするように両手を差し伸べ、ベランダの外を落ちて行った、女性の姿だった。



水気を含む重たいものが衝突したような、グシャッという音が聞こえた。


一瞬のち、女性の甲高い悲鳴が響き渡った。



剛は尻餅をつく格好で、部屋の床に倒れていた。


(な・・・何が起きたんだ・・・・)

状況を理解出来ず、呆然とあたりを見回す。



剛の後ろには、荒い息をついてしゃがみ込んでいる美津姫が居た。


「い・・・今・・・・」

言葉が口に上ってこない。
剛は首を巡らせた格好のまま、惚けたように美津姫を見つめた。


視線を感じたのか、美津姫は顔を上げた。
目が合うと同時に剛の背中に抱きついてきた。

「よかった・・・!!!」


両腕を剛の腹に回し、ギュッと抱きしめる。

「テレビを消そうと思って、リモコンを取るために屈んだの。そしたら・・・向かいのマンションの窓に映ってて・・・」


美津姫の声は、泣き声に変わっていった。

「女の人が、屋上から下を見てたの。手すりの外に座って、携帯で話しながら。この部屋の真上だった」


しゃくりあげながらそう話す美津姫の涙が、剛の背中を温かく濡らしていく。


「だから咄嗟に、・・・走って行って、引っ張ったの」

「あ・・・え・・・・・」



美津姫が長く息をついた。


「間に合って、よかった・・・」

真っ白になって固まってしまった剛の頭が、その一言でやっと働き出した。


携帯電話から聞こえた、あの言葉。
ベランダの外に、一瞬見たもの。

あれは・・・・あれは・・・・・



「ひ、宏子?!」

ベランダへ行こうと立ち上がりかけた剛を、美津姫が引き止める。

「行かない方がいい。見ない方が・・・」



剛は力が抜けたように、再びへたり込んだ。



(俺を道連れにして、飛び降りるつもりだったのか・・・・)


宏子の意図に気づき、剛はガタガタと震え始めた。



「剛!大丈夫。もう、大丈夫だから。ね?」

美津姫が膝立ちで剛の正面にまわり込んだ。
剛の頭を、そっと胸に抱く。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」


美津姫にしがみつきガタガタ震え続ける剛を、彼女はあやすように優しく抱きしめた。

頭や背中を静かにさすりながら、ふたりは長い時間そうして抱き合っていた。






身体の震えがなんとか治まるとすぐに、近隣住人の叫びや近づいてくるサイレンの中、剛は美津姫と共に逃げるように部屋を出た。
この部屋で眠る事など、考えられなかった。一秒だって居たくなかった。

実家へ帰る美津姫を駅まで送ると、とりあえず近くのビジネスホテルに宿を取った。

本当は美津姫に側にいて欲しかったが、彼女の両親が厳しい事を知っていたので無理を言えなかったのだ。


剛はひとりベッドに入ったが、端から眠ることなど諦めていた。
恐ろしくて電気を消すことも出来ない。

目を閉じると、あの一瞬の光景が甦ってきそうで、剛はただ震えながら、点けっぱなしにしたテレビを眺めていることしか出来なかった。


完璧に幸せな一日は一転、地獄のような一日となってしまった。



翌朝、剛は会社を休んで必要書類を揃え、朝から不動産巡りを始めた。
すぐにでもあの部屋から引っ越したかったのだ。

その日のうちになんとか部屋を見つけ、賃貸契約を結んだ。

引っ越し業者を手配出来たのは翌々日だったが、必要なものだけ先に自分で運び、早々に新居で暮らし始めた。





そして、新居での暮らしを始めて数日。

あの日以来、剛は上手く眠る事が出来なかった。

目を閉じると、目の前を落ちていった宏子の姿が浮かんでくるのだ。


実際にはあの時、顔は見えていなかった。
彼女の顔は下を向いていたので、見えていたのは顎のラインと白い首筋ぐらいだったはずだ。

ほんの一瞬のことだったが、目に焼き付けられている。


だが、脳裏に浮かんでくるのは、あり得ない程ゆっくりと落ちてゆきながら無念の表情を浮かべ、剛を凝視する彼女の姿だった。

想像の中で、幾度も落ちてゆく宏子と目が合った。
彼女は仰向けに墜落し、血やら何やらを飛び散らせて死んだ後も、ベランダから下を覗く剛を見上げていた・・・・


あの日、部屋を出る時は庭を目にせず済むよう裏口から出て行ったし、引っ越しのため戻った時には、庭の清掃は既に終わっていた。

だから剛は、宏子の最期の姿を見ていない。

だが、消しても消しても浮かんでくるその映像は、生々しく恐ろしいものだった。




『一緒に死んで』


あの声が、耳から離れない。

これから飛び降りようというのに、彼女の声は確かに僅かな笑いを含んでいた。

目的の達成を目前にして、満足げに微笑んでいたのだろうか。
そんな考えが浮かび、剛は思わず身震いして縮こまった。



(もしあの日、美津姫がいてくれなかったら・・・)

隣で眠っている美津姫の、可愛らしい寝顔をじっと見つめる。


(俺はきっと、宏子に捕まって一緒に墜落死していたか、落ちてきた宏子に衝突されて 少なくとも重症を負っていただろう)


剛はそっと、美津姫に近づいた。
起こさないようにそろそろと手を伸ばし、美津姫にしがみつく。

「う・・・ん・・・・」

おそらく無意識に、美津姫は剛の背中に腕を回してくれた。


思い出して怖くなる度に、こうして美津姫に抱きつく。

そうすると、剛は少しだけ安心出来るのだった。 




読者登録

霧野あみさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について