ベッドの上の枕を掴み、盾にするように抱きしめながら、壁際まで後ずさる。
(誰だ?誰だ?誰だ?!・・・美津姫か?それともまさか・・・宏子?!)
確かに、女性の声だった。
だが、その声は酷くかすれていて、誰のものかはわからなかった。
(どうしよう!どうしよう!どうしよ・・・)
携帯の画面が光って通話状態を知らせているが、もう一度出てみる気になどなれる筈もない。
携帯が今にも飛びかかってくるのでは、とでもいう様に、剛は携帯から目を離さずにベッドから降りると、にじり寄るように移動して机の上のファイルに手を伸ばした。
ファイルを掴むや否や、壁際をつたって部屋から飛び出す。
ガクガクと震える足で階段を駆け下り、家の固定電話から電話をかけた。
指もぶるぶると震えていて、うまくボタンが押せない。
何度もかけ直し、ようやく繋がった。
「ハイ、さえ」
「佐伯さん!佐伯さん!!!助けて!助けて下さい!!今」
「小林くん?どうした?どこからかけて」
「家からです!実家の電話です!いま!!俺の携帯に電話が!!美津姫か、もしかしたら、ひ、宏子かも・・・」
「落ち着きなさい。君の携帯に、電話があったんだね?着信履歴は?」
「それが、非通知で!で、出てみたら女の声で!どうしよう。どうしよう、佐伯さん!助けて下さい!俺、もう・・・・」
完全に泣き声になっている剛に、佐伯が辛抱強く語りかける。
「いいから、落ち着いて。携帯電話はまだ繋がってる?じゃ、通話しながら移動出来るかな?・・・そう。では、・・・・怖がってる場合か?早く戻って、繋がっているかどうか確認しなさい。わかったから。怖いのはわかったから、いいから行って」
剛は恐る恐る階段を上り、開け放したドアから部屋の中を覗き込む。
携帯の画面は真っ暗だ。
そろりと手を伸ばし、確認してみた。
「・・・繋がってない、みたいです」
「では、通話記録を見て。正確な時間は?・・・しっかりしなさい。時間を確認したら、その時間の茅島美津姫の行動を調べるから」
剛は震える手で携帯電話を操作し、通話履歴を確認した。
「履歴が、無い・・・・」
呆然と呟く剛に、佐伯が口早に説明する。
「今日彼女は、さっき話した役者の男と一緒に居る。君に報告する為に私が持ち場を離れるので、見張りがわりに貼り付けておいたんだ。
今、メールで彼に確認したが、彼女はしばらくの間携帯に触れてもいないそうだよ」
「じゃぁ、やっぱり、宏子・・・?」
「そんなわけないだろう。実際、履歴も残ってないんだろう?
第一、仮に着歴があったとして、単なる間違い電話かもしれない」
「でも、いきなり『見つけた』って・・・言われたんだ」
佐伯は少し沈黙し、ゆったりと落ち着いた口調で話し始めた。声が幾分優しくなったようだ。
「小林くん。それは、幻覚・幻聴の類いでしょう。立て続けに色々有ったからね。ゆっくり休んで、カウンセリングでも受けなさい。
もしそういった機関に心当たりが無ければ、知り合いを紹介するから」
剛は礼を言って電話を切った。
呆然と、床に転がったままの携帯を見下ろす。
まだ心臓がドクドクと音をたてている。
(ほんとうに、幻覚だったのだろうか?それともやはり、宏子が・・・)
別れ際の佐伯の言葉を思い出す。
『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』
それは美津姫を近づけない為の方便の筈だったが、どうやら現実になりそうだ。
続けざまに、脳裏に刻まれた宏子の落ちてゆく瞬間の映像や、美津姫の腕の感触、宏子の最後の声、美津姫の優しく囁く声等が甦る。
「一緒に死んで」
「大丈夫、大丈夫・・・」
崩れるように座り込んだ剛は、いつの間にか両手で強く髪を掴んでいた。
遠くから叫び声が聞こえてきたが、やがてそれは自分が発している叫びだと気付いた。
ほんの一瞬、「俺は、狂うのか?」という戦慄がよぎった。
だが、その最後の理性は、自らの叫び声と真っ暗な恐怖に塗り込められ、消えていった。
ーーーーー 終わり ーーーーー
昨夜遅くに出掛けたきり。
あたしは時間とか よくわからないけど、ベッドのお部屋は真っ暗だったから、かなり遅い時間だった筈だ。
ヒロチャンはいつも、あたしが寝る時間になると、ベッドのお部屋に行けるようにドアを開けてくれる。
初めの頃あたしは、ヒロチャンにベッドまで連れて行ってもらっていたものだが、大きくなってからは自分で行けるようになった。
ヒロチャンは、「すごいねえ。おねえさんだねえ」って褒めてくれたっけ。
ベッドに入ると、ヒロチャンが「おやすみ」って言いながら電気を消して、ベッドのお部屋を真っ暗にしてくれる。
そしてヒロチャンは自分のお部屋に戻る。
その後しばらくは、ヒロチャンのお部屋から物音が漏れていて、あたしは少し寂しくそれを聞いてるんだけど、いつの間にか眠ってしまう。
そのうち、ヒロチャンのお部屋も静かになる。
あたしは寝てるけど、なんとなくそれを感じる。
でも、昨日はいつもと違った。
あたしのお部屋の電気を消した後も、ヒロチャンはずっとゴソゴソしてた。
そしてあたしのところへ来て、ベッドのお部屋ごとヒロチャンのお部屋に移動したかと思うと、ひとりでお出掛けしてしまったのだ。
真夜中だというのに。
朝になって起きたら、ヒロチャンはやっぱり居なかったの。
お腹が空いたのでご飯にしようと思ったら、いつもよりたくさんご飯が置いてあった。お水もたっぷりあった。
今までに見たことが無いくらい、たっぷり。
もうひとつ、おかしなこと。
いつもベッドのお部屋は、カーテンだけかけてドアは開けっ放しなのに、今日はその反対。カーテンは無くて、ドアはちゃんと閉めてある。
普段と勝手が違うし、ヒロチャンが居ないから不安だったけど、ご飯を食べたら少し落ち着いた。
いつもみたいに、ブランコや、お気に入りの紐で遊んだりした。
でも、寂しくなってすぐに止めてしまった。
お部屋の棒に座って、ヒロチャンのソファを眺めていたら、余計に寂しくなってしまった。
ヒロチャンはいつも、その小さなソファに座ってるんだ。
そしてそこから、優しい声であたしを呼ぶの。
「ピロチャン、おいで」って。
あたしは嬉しくなって、すぐに飛んでいって、ヒロチャンの肩にちょんと止まる。
あたしはヒロチャンの匂いが大好き。
ヒロチャンの髪にもぐって、髪を齧ったりするのが大好き。
ヒロチャン、早く帰ってこないかなあ。
つまんないから、ヒロチャンが帰ってくるまで、ヒロチャンと初めて会った日のことを思い出していようっと。
生まれてすぐの頃のことはあまり憶えてない。
ただ、なんとなく両親と兄弟達がいたのは憶えてる。
あたしが前に居たおうちには、オトーサンとオカーサンとヒロクンが居て、あたしはそのヒト達に育てられた。
少し大きくなったある日、前のおうちにヒロチャンがやって来て、あたしといっぱい遊んでくれた。
ヒロチャンは顔やなんかがヒロクンと少し似ていたし、とっても優しかったし、とても良い匂いがするので、あたしはすぐにヒロチャンが大好きになった。
そしたらヒロチャンは、あたしをヒロチャンのおうちに連れて行ってくれたんだ。
あたしは小さな箱に入れられて、生まれて初めてお外に出た。
お外は酷くうるさくて、知らないヒトがたくさん歩いてて、ゴトゴト揺れることもあったし、変な臭いがすることもあった。
でも、ヒロチャンは何度も何度も優しく声を掛けてくれて(たまにヒロクンも)、時々小さな穴から指を挿し入れて遊んでくれた。
何よりヒロチャンのお膝の上はとても温かかったので、あたしはそんなに怖くなかった。
「宏ねえ、準備完璧じゃん」
「だって、小さい頃からインコを飼うのが憧れだったんだもん。ひろ君ちが羨ましくって」
「そっか。宏ねえんち、おじさんがアレルギーなんだっけ。それにしても、家主より待遇がいいよね。ピロちゃん」
「そりゃ、気合い入れて準備しましたから。なんせ、私とピロちゃんの愛の巣だもん」
「鳥だけに?」
「そう。鳥だけに」
その日から、ここがあたしのおうちになった。
新しいおうちは前のおうちより狭いし全然違ったけど、前のおうちで使っていた物なんかがたくさんあったから、すぐに慣れた。
あたしのご飯のお部屋は、ヒロチャンのお部屋の箪笥の上。
窓のすぐ側でお空が見えるし、陽射しがポカポカでとっても気持ちがいい。特等席なんだ。
おもちゃもたくさんあるし、つぶつぶご飯と葉っぱ、お水もある。
あたしのお部屋はちょっと狭いけど、ドアはいつも開けっ放しでヒロチャンのお部屋で自由に遊べるから、問題ナシ。
あたしのベッドのお部屋は、「センメンジョ」ってとこに置いてあって、
寝心地の良い温かいベッドと、カリカリのご飯が少しと、お水がある。
ベッドのお部屋にはいつもカーテンが被さっていて、中に入るとふんわりと暖かいのだ。
朝になるとヒロチャンは、あたしのベッドのお部屋まで迎えにきてくれる。
電気を点けて、「ピロチャン、おはよう」って言ってくれる。
あたしは嬉しくてピロピロ鳴いて甘えながら、ベッドのお部屋を飛び出てヒロチャンの手に止まる。
ヒロチャンはお話ししながらご飯のお部屋まであたしを連れて行ってくれる。
実を言うと、ヒロチャンの言葉はよくわからない。
でも、いくつかの言葉はわかるし、嬉しそう・楽しそうとか、元気かそうじゃないかとかはわかる。
ヒロチャンの声はとても綺麗で優しいから、声を聞くだけで安心するんだ。子守唄を聴いているみたいに。
そうして連れて行ってもらったご飯のお部屋には、新しいお水や新鮮な葉っぱがたくさん用意されている。
あたしは新品の朝日を浴びながら、たっぷりと美味しいご飯を食べて、いつだって元気満点になっちゃう。
あたしはついつい、ヒロチャンに話し掛けちゃう。
昨日みた夢の話とか、葉っぱが美味しかったとか、オトーサンとオカーさん元気かな?とか、最近ヒロクン遊びに来ないねえとか。
ヒロチャンは忙しく動き回りながら、ニコニコしてそれを聞いてくれる。
「うんうん」「えらいねえ」とかって言って、とても嬉しそうに聞いてるから、きっとあたしの言葉がわかってるんだろうな。
あたしも、ヒロチャンの言葉がみんなわかったらいいのに。
そういえば最近、ヒロチャンは元気がなかった。
あたしが話し掛けたり肩に止まったりすれば、いつも通り笑いかけてくれたけど、あたしにはヒロチャンが無理してるのがわかった。
だって、とても悲しそうだったもの。
そうだ。昨日なんて、病気かと思うくらいにやつれてた。
夜だったし、とても眠かったしで、あまりよく見えなかったけど、酷い顔だった。
ああ、あたし、なんで寝ちゃったんだろう。
ヒロチャンの頭に止まって、行かないでって言えば良かった。
いつかみたいに、ヒロチャンの肩に止まって、おめめのしょっぱいお水を飲んであげればよかった。
そしたらきっと、「ダイジョブよ。ありがとね」って笑ってくれただろう。
帰ってきたら、そうしてあげよう。絶対に。
それと、あたしのご飯も分けてあげるんだ。
前にそうしたら、ヒロチャンはとても嬉しそうだったもの。
「ありがとね」って頭を撫でてくれたもの。
早く帰ってこないかな。
ヒロチャン、何してるのかな・・・・
玄関の鍵を開ける音で、あたしは目が覚めた。
少しうたた寝してしまったみたいだ。
ヒロチャンが帰ってきた!!
あたしは嬉しくって、ベッドのお部屋の中をピョンピョン飛んだ。網を齧ってガタガタ鳴らした。
ヒロチャンおかえり!遊ぼ!遊ぼ!
でも、聞こえてきたのは、いつもの優しい声じゃなかった。
知らない声。ヒロクンより、おとーさんより低くて、しゃがれた声。
何か、盛んに喋ってる。
ふたり?イヤ、3人だ。3人の声がする。
誰?!ここはヒロチャンとピロチャンのおうちだよ!
ヒロチャンはどうしたの?!
前にも何度か、知らないヒトが遊びに来たことがある。
でもその時は、必ずヒロチャンも一緒だった。
おかしい。何か、おかしい。
ヒロチャンのお部屋のドアが開いた。
現れたのは、大きなヒトだった。
その後ろから、ふたり現れた。
テーブルの上の紙を見て何やら相談すると、小さな薄い箱を取り出して耳に当て、何か話している。
大きなヒトは小さな箱をしまうと、ヒロチャンのお部屋を荒らし始めた。
いや、荒らしているのはふたりだけで、もうひとりはドアの横にそわそわと立っているだけだ。
やめろ!それはヒロチャンのだよ!!
知らないヒトが、勝手にヒロチャンの物に触るな!!
あたしは必死でヤツらを威嚇した。
声の限りにギャーギャー騒ぎ立て、お部屋をガタガタ揺らした。
おい!このドアを開けろ!!
お前の鼻に噛み付いてやる!!目を突っついてやる!!
ヒロチャンとヒロチャンのおうちは、あたしが守るんだ!!!
ヒトのひとりが、振り返ってこっちを見た。
迷惑そうなしかめ面をしている。
お前なんかにそんな顔をされる筋合いは無い!!
出て行け!!あたし達のおうちから、今すぐ出て行け!!!
しばらく騒いでいると、玄関のチャイムが鳴った。
一瞬ヒロチャンが帰ってきたかと思ったが、ヒロチャンならチャイムを鳴らす必要は無い筈だ。
ドアを開けて入ってきたのは、ヒロクンだった。
ヒロクン!ヒロクンが助けに来てくれた!
あいつら悪いヤツだよ!ヒロチャンのおうちを荒らしてるの!やっつけて!
あたしは精一杯羽根をばたつかせて、ご飯やお水を跳ね散らかした。
開けて!ここを開けて!あたしがとっちめてやるんだから!
でもヒロクンは、あいつらと話し始めた。
「渡辺博己さんですね?」
「どういうことですか?おじさんとおばさんは?」
「ご両親にも連絡して、今こちらに向かわれています」
「あの、俺には信じられない。あり得ません。宏ねえが、まさか・・・」
ヒロクンはヤツらと話しながら、首を振ったりふらふらと頷いたりしていたが、テーブルの上の紙を渡されて動きが止まった。
「宏ねえの字です、確かに」
ヒト達はヒロクンをヒロチャンのソファに座らせた。
ヒロクンは項垂れ、顔を両手に埋めている。
どうしたの?そうか、そいつらにいじめられたのね?
早くここを開けて!ヒロクン!そしたら、あたしが助けてあげるから!
ヒトの片割れに促され、ヒロクンが立ち上がってこちらを向いた。
でも、あたしの部屋に近づいて話し掛けるだけで、あたしを外に出してはくれなかった。
「ピロチャン、落ち着いて。大丈夫だからね。怖くないから」
・・・ヒロクン?何言ってるのか、わからないよ。
それよりヒロクン、お顔が真っ青だよ?声が震えてるよ?どうしたの?
心配でお部屋のドアをガタガタ揺すったあたしに、ヒロクンはお口の前に震える人差し指を立て、「しーっ」と言った。
これはあたしがわかる言葉のひとつで、「静かに」という意味だ。
仕方ないから、あたしは「ピョッ」とだけ言って、騒ぐのを止めた。
ヒロクンは「いいこだね」と、指を挿し入れてあたしの頭を撫でてくれた。
そしてもう一度、「しーっ」と言って、あたしのお部屋のカーテンを被せてしまった。
夜にはまだ間があるので、カーテンをかけても真っ暗になることはない。
でも、あたしにはカーテンの裏側しか見ることが出来なくなった。
しばらくは、カーテンの向こうの様子に聞き耳をたてていたけど、時間が経つにつれてだんだんと暗くなっていって、あたしはいつの間にか眠ってしまった。