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オーナーが立ち去ると、渡辺は再び口を開いた。

「佐伯さん、確かさっきもそう言ってたけど、何故アイツを罪に問えないんですか?」

「うん・・・」

佐伯はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜている。

「ネット上で偽名を使うことなんて誰でもやってることだし・・・
裏口の扉への細工にしてもね、防犯ビデオを見る限り、おそらく丸めたセロテープか何かを鍵の中に詰めただけなんだ。
鍵を壊したわけでもないし、住民が何度か開閉するうちに 詰めたセロテープも自然に落ちて、既に捨てられているだろうね」


「でも・・・でも!!あんなに悪意に満ちて・・・会話だって録音に残ってるじゃないですか」

「そう。その内容も微妙なところなんだな。”明確な”殺意の有無、という点でね。彼女も言ったとおり、彼女自身が手を下したわけじゃない。
だが、それ以前に・・・」

悔しそうに唇を噛む渡辺を、労るような目を向けた。

「警察ってところは、一度出した結果を覆すことは、まず無い。
よっぽど決定的な証拠が無い限りね。この程度の証拠では、無理だと思う」



渡辺は、押し黙ってテーブルの上のファイルを睨んでいる。
剛が家を出る際に、無意識に掴んで持ってきていたのだ。


「じゃあ、俺が、直接・・・・」
「制裁を加える?」

佐伯が続きを引き取ってそう言うと、渡辺は我が意を得たりとばかりに頷いた。


「さっきも言っただろう。相手が悪いって」

小さくため息をつき、佐伯はコーヒーをひとくち啜る。

「あの娘は頭がオカシイよ。見ただろう?
理屈も道理も通じない。倫理?道徳?善悪?そんなもの、自分の欲望のためには一顧だにしない。
そういう種類の人間は、少なからず存在するんだ。恐ろしい事にね。

君は同行してないけど、あの娘の両親も同類だったよ。
父親は彼女を溺愛するだけ。母親は彼女を憎んでる。実の娘なのに。
娘は娘で、父親を利用し母親を蔑んでる。救いようの無い家族関係だ」

渡辺はしかめ面でファイルを睨んだままだ。
おそらく、そんな家族関係を上手く想像出来ないのだろう。


「こちらから攻撃しようものなら、死にもの狂いで反撃してくるだろう。
母親はともかく、父親は完全に娘の味方だからね。
ああいった連中はね、自分のしたことはまるっと棚に上げて、相手を徹底的に非難するんだよ。
どちらに非があるかなんて関係ない。自分の意に染まない相手は、執拗に責め立て搾り取り叩き潰しにかかる。

特にあの娘は、周囲を騙すのが上手い。自分を魅力的に見せる術に長けている。
他人の印象や感情を操るのなんて、朝飯前なんだ。

もちろん、長期間に渡って騙し続けることは難しい。
職歴を見ればわかるよね。派遣社員とはいえ、どの職場も一年と続かない。まあ、すぐにボロが出るんだろうね」

ファイルを指でトントンと突つきながら、佐伯は淡々と話し続ける。


「いいかい?想像してみて欲しい。
あの娘が被害者面して君の周囲を抱き込み、君自身はもちろん、君の家族や親しい人をメチャメチャに傷つけるかもしれないんだ。
精神的に叩きのめす、或はなりふり構わずに身体的な危害を加える可能性もある。
学校や職場にも被害をもたらす。家族や親戚、近所の人達にも。

まさかそこまで、と思うだろ?
でも、やるんだよ。本当に、徹底的に。

その執念と能力を他へ向ければ、大成出来そうなものだけどね。不思議な事に、ああいった連中は搾取と復讐しか頭に無いらしい」



唇を噛み締め黙り込んでしまった渡辺に、佐伯は畳み掛ける。

「人間の精神なんて、あっけなく壊れてしまうものだよ。
特に、心が深く傷ついていたり、身体的に追いつめられていたり・・・例えば、極度の睡眠不足とか飢餓状態とか、そういう状況下ではね。

優しい両親の元ですくすくと育った君みたいなお坊ちゃんに、渡りあえる相手じゃないんだよ」


佐伯は身体を起こし、目の前のスプーンを指先で弄び始めた。

「仮に、首尾よく復讐を果たしたとしよう。だが、彼女は実に執念深い。自分を傷つけた相手を絶対に許さない。わかるだろ?
忘れた頃に復讐の復讐があるかもしれない。彼女の辞書に、「自業自得」なんて言葉は無いんだ。

それでも、どうしても、復讐したいと言うなら‥‥そういうのが得意な同業者を紹介出来なくもない。その覚悟があるなら、ね」


一縷の臨みに顔を上げた渡辺は、思わず息を飲んだ。


表情は穏やかだったが、佐伯は恐ろしい目をしていた。

底冷えする様な冷たい光がキラリとよぎる。
こちらの心の奥に切り込み見透かしながら、自分の感情は一切表さない瞳。
ぬるりとした皮膜に覆われた眼球は、その鈍い光で渡辺の視線をはね返すのみだ。

先ほど美津姫と対峙した際の威圧感とはまた別種の圧力を、佐伯は発していた。目を背けたくなるようないくつもの修羅場を見てきたものだけが纏う、特別な空気。
本能的に、深く関わっては危険だと思わせ、距離を取りたくなる。


「周到に立ち回るには、もちろん金も時間もかかる。だから、正式に社を通すことになる。当然、今回のサービス価格の何倍もの金額になるだろうね。
そして、行動の大半は工作員がやるにしろ、君らは金だけ出して終わりってわけにはいかない。家族もろとも強靭な精神力が必要になる。下手したら何年も、キチガイと闘うんだから」

佐伯の言う事は、口先だけの脅しではない事がひしひしと伝わって来る。
生半可な覚悟では、こちらが潰される可能性もあるのだ。

渡辺は凄まじい空気に呑まれ、何も言えなかった。



「だからね?」

軽く息をつくとスプーンを放り出し、佐伯は再び背もたれに寄りかかった。
椅子はやはり、ギィッと音をたてた。

佐伯の眼差しはフッと柔らかいものになり、噛んで含めるような口調に変わる。

「君は、逃げなさい。あれは、鬼だ。悪魔だ。あるいは、悪意の塊だ。近づけば毒される。だから、近づいてはいけない。
悔しいだろうけど、ありったけの力で逃げなさい。・・・放心してるようだけど、小林さん。貴方もです」

いきなり名を呼ばれ、剛はビクッとした。
飲むでもなしに弄っていたカップが音をたてた。


「それとも、貴方が彼女を更生させますか?
一度は愛した女性だ。彼女と共に生きて、時間をかけて彼女を導くつもりがありますか?」


穏やかにそう問われ、剛は思わず身震いした。
その身震いの勢いのまま、小刻みに何度も首を振る。

「それが賢明です」

佐伯は、ニッコリと笑った。
目尻には笑い皺が現れたが、その瞳の奥は冷たく鈍い光を残したままだった。





剛は仕事を辞め、実家へ戻っていた。

両親には、自分の心変わりで振った恋人が自殺してしまった、とだけ告げてあった。


新しい恋人とも別れ傷心の剛を、両親は労ってくれる。
そんな優しさが辛く、また年老いた善良な両親に美津姫の所業を話す事も憚られたため、騙しているような気がして実家には居づらかった。

だが、度重なる引っ越しで、新居を探す金銭的余裕は無い。
それに何より、独りでいることに耐えられなかった。


更に、なんとも情けない事に 剛は美津姫との別れを佐伯に依頼した。美津姫と自ら対峙することが恐ろしかったのだ。


渡辺は蔑むように鼻を鳴らし嘲笑した。

「アンタ、いい歳してアホなうえに どんだけヘタレなんだよ」

「わかってるよ!自分でも情けないと思います。でも・・・」



夜になりベッドの中で目を瞑ると、僅かに笑いを含んだ宏子の囁き声が甦る。

「一緒に死んで」

その度に、剛は美津姫にしがみつき、美津姫は剛の背中を優しく撫でながら 子守唄でも歌うように「大丈夫、大丈夫」と繰り返していたのだ。

剛は何度もその声に縋り、救われてきた。


宏子を死に追いやった、張本人のその声に。


剛の背中を撫でていた間、美津姫はどんな表情を浮かべていたのだろう。
その邪悪な胸の中には、どんな思いが渦巻いていたのだろう・・・


「・・・そう思ったら、俺・・・怖くて、怖くて」

白く粉を吹いた様な唇を震わせ、血の気の失せた顔を両手で覆いながら呟く剛を見て、渡辺も少しは同情したのだろうか。
それ以上、剛を責めることはしなかった。


「ウチは探偵事務所であって、便利屋じゃないんですがねぇ」

剛は渋る佐伯に懇願し、「特別料金なら・・・」という形で、別離工作と越したばかりのマンションの退居手続きを依頼したのだった。




 ーーーーーーーーーーーーーー 




剛の地元から少し離れた、駅前のカフェ。
オープンしたてのそのカフェは、田舎には珍しい、なかなか小洒落た造りの店だ。すずらんをあしらった大きなステンドグラスが印象的だ。

2週間ぶりに見る佐伯の姿は、前回とほぼ変わっていなかった。
ただ、今日はくたびれた背広ではなく、柔らかな素材のカジュアルなジャケットを羽織っている。そのせいか、少し若々しく見えないこともない。


「どうです?少しは落ち着かれましたか」

微笑みながら目の前に腰掛けた佐伯に、剛は力なく首を振った。


「では、さっそく報告致しましょうか。まずは、転居の件から‥‥」




あの日、剛はあの喫茶店に独り残された。

佐伯は、渡辺を駅まで送ったその足で剛のマンションへ戻り、貴重品等を引き揚げて喫茶店へ戻ると剛に手渡し、剛の実家へ避難させた。
美津姫が合鍵を使って、マンションに侵入する可能性を考慮してのことだ。

そのうえで、引っ越し業者を即日手配し、ほとんど夜逃げ同然で転居した。
剛の実家を探られない様、佐伯は複雑な手順を踏んで手続きをしてくれた。

「会社にも根回ししましたし、小林さんの行方を追うのは素人には難しいでしょう」



美津姫の派遣会社には、美津姫が営業担当者に取り入って、自分の希望通りに派遣先を融通させていた事を密告する。

「あの業界は、わりと狭い世界ですからね。今後、彼女が仕事を得るのは無理でしょう。
それに、私もこう見えて顔が広いんでね・・・転職するにしても、少なくとも、地元での就職は難しいでしょうね」


美津姫の派遣先、つまり剛が勤めていた会社にも、宏子の事件の資料持参で話を通す。
これは、剛の退職手続きをするうえでも必要なことだったので、剛ももちろん同席した。

事の顛末を知った上司は、絶句していたものだ。
後日、美津姫は派遣を打ち切られた。



だがそれでは、追いつめられた美津姫が、自分や渡辺を逆恨みするのではないか。
その懸念についても、佐伯は既に手を打っていた。

「実はですね、あまり褒められた手じゃないんですが・・・」


佐伯が言葉を濁しながら説明したところによると、知り合いの俳優を美津姫に接近させ、彼女の関心をそちらに引き寄せる作戦が進んでいるらしい。

「俳優だけじゃ食っていけなくて、副業でホストやってる奴なんですけどね。頭のいい男で、才能もある。もちろん茅島美津姫の正体も話してあります。
まあ上手くいけば、彼女はしばらくの間はそっちにかかり切りになるでしょう。

彼女は実家暮らしで、当面は生活に困ることもありませんしね。どっぷり深みに嵌まってくれれば、その間こちらは安泰ということで」

佐伯は視線を逸らし、苦笑しながら肩をすくめてみせた。



「そこまでしていただいて・・・どうお礼したらいいのか」

「いえ、報酬はちゃんといただきましたし、その他の工作はね・・・渡辺くんのためにやったことでもありますから」


恐縮する剛に、佐伯は穏やかに笑ってみせた。

宏子の無念を思い、なかなか復讐を諦めきれずにいた渡辺のために、佐伯はこうした入念な手を打ったのだと言う。

美津姫に近づけた俳優も、「人間観察の一環」と無報酬で協力してくれているとのこと。

「ヤツは、なんだかノリノリでねぇ。ま、本物のキチガイにお目にかかることなんて、滅多に無いでしょうからね。
最終的にどんなシナリオで彼女をどん底に突き落とすか、劇団の脚本家も巻き込んで、楽しそうですよ」

「・・・そうですか」

佐伯の周囲には、敵に回すと恐ろしい相手がたくさんいるようだ。


「彼、渡辺くんはねぇ・・・真っすぐに、きれいに、眩しいほど清らかなままで育った、今時珍しいくらい純真な青年です。茅島美津姫と関わることで、あの無垢な魂が無惨に穢されてゆくのを見るのは、私としても忍びない。

普段、泥沼から泥沼へ這いずり回るような仕事してますとねぇ、眩しいんですよ。本当に」

佐伯は実際に光を避けるかの様に睫毛を伏せ、愛おし気に、だがほんの少し淋し気に、笑った。


剛はそんな佐伯に少し意外な印象を抱きながら聞いていたが、一方でどう切り出そうかどうか迷っていた。

それに気付いた佐伯が、水を向けてくれた。

「何か、他にも?」


決心して、剛は顔を上げた。


「あの・・・俺、宏子の実家に、行くべきなんじゃないかと。

宏子に手を合わせて、ご両親に謝罪して・・・断られるかもしれないけど。でも、せめて墓参りだけでも」

「それについては」

剛が話し終わる前に、佐伯は遮った。

「渡辺くんを通じ、ご両親から拒否されてます。一切関わらないで欲しいそうです」


「でも!」

言い募ろうとする剛を、佐伯は手を挙げて留めた。

「土下座でも何でもすれば、貴方の気は済むでしょう。済まないまでも、罪悪感は薄れるかもしれない。でも、ご両親の気持ちは?」

「・・・・」


「自己満足は結構ですが、本当に悔やんでいるのなら、相手の気持ちを尊重して差し上げてはいかがでしょう」


キツい言葉だったが、反論出来なかった。
自己満足と言われてしまっても、仕方ないのだ。



「さて、それではそろそろ、解散と致しましょうか。この後、人に会う約束がありましてね」

佐伯が立ち上がって伝票を取ったが、剛はここは自分が払うと申し出た。

「では、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます。・・・それはそうと、小林さん」


佐伯は剛の顔を覗き込み、声を落として言った。

「貴方、相当酷い顔してますよ?難しいでしょうが、ちゃんと寝て、ちゃんと食べないと。」

「はぁ・・・」


「まぁ、茅島美津姫には”風の噂”ってやつが耳に入るようにしておきますよ。
『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』って。

これで貴方に近づくことも無いでしょう」


「・・・エリートじゃなくなった俺には、興味ナシってことですね」


「興味、持たれた方がいいんですか?」
「いえ!違うんです!ちょっと安心したって言うか・・・」

ハハ、と佐伯は笑い、剛の背中をポンと叩いた。






家に帰った剛は、自室のベッドに寝転んだ。
両親は仕事に出ており、家の中には剛ひとりきりだ。

天井を見上げ、大きくため息をつく。


全て終わった、のだろうか。



そう考えて、剛は酷く落ち込んだ。

(終わったとか・・・最低だ、俺)



宏子は死んだ。元はと言えば、俺のせいで。

だが、そのことについて考えるのを、脳が拒否している。
かつて宏子と過ごした、楽しかった日々を思い起こすことすら出来ずにいる。

後悔や謝罪の気持ちを、あの瞬間の恐怖が、大きく凌駕しているのだ。
そしてもちろん、美津姫の正体を知ったショックが。



寝返りを打ちながら、机の上に置いてあるファイルにチラリと目を向ける。


剛には未だ、あのファイルの全貌を読むことが出来ない。

佐伯がくれたファイルだ。
あの中に、恐ろしい出来事が全て詰まっている。

それを隈無く読み、事実を知ること。
そして、事実を知って存分に苦しむこと。


それがおそらく、自分に出来る、精一杯の贖罪だ。
そう思ってはいたが、実際に実行に移すのが怖かった。


実は先ほど、「一切関わらないで欲しい」と告げられた時、僅かながらもホッとしてしまったのも事実なのだ。

佐伯は、それに気付いたのかもしれない。

「自己満足」とか、「廃人同様」等と厳しい言葉を連ねたのは、自分への皮肉も混じっていたのではないだろうか。



剛は結局ファイルから目を逸らし、それを読むことをまた先延ばしにした。
自分の魂が清らかでも純真でもないことを、痛感する。

(皮肉を言われても仕方ないよな。俺はほんと、どうしようもない、クズだ)



また寝返りを打って、うつ伏せになった時。
剛の新しい携帯電話が鳴った。

以前の携帯電話は解約してあり、この携帯電話の番号を知っているのはかなり限られた人数なのだ。


意外に思いながらも、剛は携帯を手にした。
非通知でかかってきている。

「はい」


相手は無言だ。不自然な沈黙が続く。





「・・・もしもし?あの、どちらさまで」

「 見 つ け た 」



声にならない叫び声をあげ、剛は携帯を放り投げた。

ベッドの上の枕を掴み、盾にするように抱きしめながら、壁際まで後ずさる。



(誰だ?誰だ?誰だ?!・・・美津姫か?それともまさか・・・宏子?!)

確かに、女性の声だった。
だが、その声は酷くかすれていて、誰のものかはわからなかった。



(どうしよう!どうしよう!どうしよ・・・)


携帯の画面が光って通話状態を知らせているが、もう一度出てみる気になどなれる筈もない。



携帯が今にも飛びかかってくるのでは、とでもいう様に、剛は携帯から目を離さずにベッドから降りると、にじり寄るように移動して机の上のファイルに手を伸ばした。

ファイルを掴むや否や、壁際をつたって部屋から飛び出す。

ガクガクと震える足で階段を駆け下り、家の固定電話から電話をかけた。
指もぶるぶると震えていて、うまくボタンが押せない。

何度もかけ直し、ようやく繋がった。


「ハイ、さえ」
「佐伯さん!佐伯さん!!!助けて!助けて下さい!!今」

「小林くん?どうした?どこからかけて」
「家からです!実家の電話です!いま!!俺の携帯に電話が!!美津姫か、もしかしたら、ひ、宏子かも・・・」

「落ち着きなさい。君の携帯に、電話があったんだね?着信履歴は?」

「それが、非通知で!で、出てみたら女の声で!どうしよう。どうしよう、佐伯さん!助けて下さい!俺、もう・・・・」


完全に泣き声になっている剛に、佐伯が辛抱強く語りかける。

「いいから、落ち着いて。携帯電話はまだ繋がってる?じゃ、通話しながら移動出来るかな?・・・そう。では、・・・・怖がってる場合か?早く戻って、繋がっているかどうか確認しなさい。わかったから。怖いのはわかったから、いいから行って」

剛は恐る恐る階段を上り、開け放したドアから部屋の中を覗き込む。

携帯の画面は真っ暗だ。
そろりと手を伸ばし、確認してみた。

「・・・繋がってない、みたいです」


「では、通話記録を見て。正確な時間は?・・・しっかりしなさい。時間を確認したら、その時間の茅島美津姫の行動を調べるから」


剛は震える手で携帯電話を操作し、通話履歴を確認した。


「履歴が、無い・・・・」



呆然と呟く剛に、佐伯が口早に説明する。

「今日彼女は、さっき話した役者の男と一緒に居る。君に報告する為に私が持ち場を離れるので、見張りがわりに貼り付けておいたんだ。
今、メールで彼に確認したが、彼女はしばらくの間携帯に触れてもいないそうだよ」


「じゃぁ、やっぱり、宏子・・・?」



「そんなわけないだろう。実際、履歴も残ってないんだろう?
第一、仮に着歴があったとして、単なる間違い電話かもしれない」

「でも、いきなり『見つけた』って・・・言われたんだ」


佐伯は少し沈黙し、ゆったりと落ち着いた口調で話し始めた。声が幾分優しくなったようだ。


「小林くん。それは、幻覚・幻聴の類いでしょう。立て続けに色々有ったからね。ゆっくり休んで、カウンセリングでも受けなさい。
もしそういった機関に心当たりが無ければ、知り合いを紹介するから」




剛は礼を言って電話を切った。

呆然と、床に転がったままの携帯を見下ろす。
まだ心臓がドクドクと音をたてている。

(ほんとうに、幻覚だったのだろうか?それともやはり、宏子が・・・)




別れ際の佐伯の言葉を思い出す。

『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』

それは美津姫を近づけない為の方便の筈だったが、どうやら現実になりそうだ。


続けざまに、脳裏に刻まれた宏子の落ちてゆく瞬間の映像や、美津姫の腕の感触、宏子の最後の声、美津姫の優しく囁く声等が甦る。


「一緒に死んで」
「大丈夫、大丈夫・・・」





崩れるように座り込んだ剛は、いつの間にか両手で強く髪を掴んでいた。

遠くから叫び声が聞こえてきたが、やがてそれは自分が発している叫びだと気付いた。

ほんの一瞬、「俺は、狂うのか?」という戦慄がよぎった。
だが、その最後の理性は、自らの叫び声と真っ暗な恐怖に塗り込められ、消えていった。





 ーーーーー 終わり ーーーーー 








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