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「コーヒーでも飲みましょうか。事務所の近くに、行きつけの喫茶店があるんですよ」

ハンドルを握る佐伯が、後部座席に深く沈む剛に声をかけた。

「・・・・はあ」

どちらともつかないその返事に、助手席の渡辺は舌打ちしてそっぽを向いた。



美津姫が駅前で騒ぎ立てていたその頃、3人は事務所へ向け車を走らせていた。

剛は思考停止したまま、窓の外にぼんやりと目を向けている。
様々な景色が前から後ろへと飛び去るのを眺めている間は、何も考えずに済んだ。


しばらく走ると細い道へ入り、佐伯は車を止めた。

オフィス街の様で、大小さまざまなビルが建ち並んでいる。
だが、日曜の午後とあって、周りは閑散としていた。


佐伯に促されるまま、剛は後について行った。

重そうな木の扉を押すと、カウベルの素朴な音が響く。


「いらっしゃいませ」

店主の落ち着いた声が出迎える。
佐伯はやはり常連らしく、3人は当然の様に一番奥の席に通された。


「コーヒーでいいかな?」

頷きかけた剛だったが、「あ、イヤ・・・」と声を上げた。

コーヒー、と聞いて、あの朝のことが甦ってしまったのだ。


宏子が飛び降りる直前、剛は美津姫の淹れたコーヒーを飲んでいたのだった。

あのときの幸せな気分、その直後の衝撃、つい先ほどの美津姫の豹変・・・それらが一瞬でフラッシュバックした。

剛は思わず手を額にやった。

額は、冷たい脂汗で湿っていた。




結局、剛はホットココアを、佐伯達はコーヒーをオーダーした。


「さて」

佐伯は水をひとくち含むと、切り出した。

「お疲れさまでした。これで依頼の件は終了したわけですが・・・この後、どうしますか?渡辺くん」

「俺は」

すぐさま、渡辺は言葉を返した。
おそらく車の中でずっと考えていたのだろう。

「俺は、アイツに復讐したいです。宏ねえの仇を討つんだ」


「ふうん・・・やはりそう来ますか」

佐伯は腕組みをして、背もたれに寄りかかった。
剛の隣で、椅子がギィッと音を立てる。

「私としてはまず、調査結果を渡辺くんのご両親に見せるべきではないかと」


「ああ・・・それは、うん。見せようと思います。で、復讐」

佐伯は片手を挙げ、言い募ろうとする渡辺を遮った。

「そのうえで、宏子さんのご両親にそれを伝えるかどうかを検討する」


渡辺は一瞬黙り込んだ。そこまで考えていなかったのだろう。

「・・・検討?どうして?もちろん報告はします。
伯母さんも伯父さんも、宏ねえが自殺じゃないと知ったら、少しは救われる。
そして、アイツに殺された事を知ったら、きっと復讐したいと思うはずだ。
アイツは罰を受けるべきです」


「少しは救われる。それは、そうかもしれない。・・・ただねぇ」

佐伯は、小さなため息をついた。

「復讐は、お勧め出来ないな。相手が悪い。それに、警察も取り合わないでしょう」

「どうして?!こんなに証拠が揃ってるのに」


そこへ、飲み物が運ばれて来た。

数秒間の沈黙。
芳しいコーヒーと、ホットココアの甘い香りが混じり合う。




オーナーが立ち去ると、渡辺は再び口を開いた。

「佐伯さん、確かさっきもそう言ってたけど、何故アイツを罪に問えないんですか?」

「うん・・・」

佐伯はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜている。

「ネット上で偽名を使うことなんて誰でもやってることだし・・・
裏口の扉への細工にしてもね、防犯ビデオを見る限り、おそらく丸めたセロテープか何かを鍵の中に詰めただけなんだ。
鍵を壊したわけでもないし、住民が何度か開閉するうちに 詰めたセロテープも自然に落ちて、既に捨てられているだろうね」


「でも・・・でも!!あんなに悪意に満ちて・・・会話だって録音に残ってるじゃないですか」

「そう。その内容も微妙なところなんだな。”明確な”殺意の有無、という点でね。彼女も言ったとおり、彼女自身が手を下したわけじゃない。
だが、それ以前に・・・」

悔しそうに唇を噛む渡辺を、労るような目を向けた。

「警察ってところは、一度出した結果を覆すことは、まず無い。
よっぽど決定的な証拠が無い限りね。この程度の証拠では、無理だと思う」



渡辺は、押し黙ってテーブルの上のファイルを睨んでいる。
剛が家を出る際に、無意識に掴んで持ってきていたのだ。


「じゃあ、俺が、直接・・・・」
「制裁を加える?」

佐伯が続きを引き取ってそう言うと、渡辺は我が意を得たりとばかりに頷いた。


「さっきも言っただろう。相手が悪いって」

小さくため息をつき、佐伯はコーヒーをひとくち啜る。

「あの娘は頭がオカシイよ。見ただろう?
理屈も道理も通じない。倫理?道徳?善悪?そんなもの、自分の欲望のためには一顧だにしない。
そういう種類の人間は、少なからず存在するんだ。恐ろしい事にね。

君は同行してないけど、あの娘の両親も同類だったよ。
父親は彼女を溺愛するだけ。母親は彼女を憎んでる。実の娘なのに。
娘は娘で、父親を利用し母親を蔑んでる。救いようの無い家族関係だ」

渡辺はしかめ面でファイルを睨んだままだ。
おそらく、そんな家族関係を上手く想像出来ないのだろう。


「こちらから攻撃しようものなら、死にもの狂いで反撃してくるだろう。
母親はともかく、父親は完全に娘の味方だからね。
ああいった連中はね、自分のしたことはまるっと棚に上げて、相手を徹底的に非難するんだよ。
どちらに非があるかなんて関係ない。自分の意に染まない相手は、執拗に責め立て搾り取り叩き潰しにかかる。

特にあの娘は、周囲を騙すのが上手い。自分を魅力的に見せる術に長けている。
他人の印象や感情を操るのなんて、朝飯前なんだ。

もちろん、長期間に渡って騙し続けることは難しい。
職歴を見ればわかるよね。派遣社員とはいえ、どの職場も一年と続かない。まあ、すぐにボロが出るんだろうね」

ファイルを指でトントンと突つきながら、佐伯は淡々と話し続ける。


「いいかい?想像してみて欲しい。
あの娘が被害者面して君の周囲を抱き込み、君自身はもちろん、君の家族や親しい人をメチャメチャに傷つけるかもしれないんだ。
精神的に叩きのめす、或はなりふり構わずに身体的な危害を加える可能性もある。
学校や職場にも被害をもたらす。家族や親戚、近所の人達にも。

まさかそこまで、と思うだろ?
でも、やるんだよ。本当に、徹底的に。

その執念と能力を他へ向ければ、大成出来そうなものだけどね。不思議な事に、ああいった連中は搾取と復讐しか頭に無いらしい」



唇を噛み締め黙り込んでしまった渡辺に、佐伯は畳み掛ける。

「人間の精神なんて、あっけなく壊れてしまうものだよ。
特に、心が深く傷ついていたり、身体的に追いつめられていたり・・・例えば、極度の睡眠不足とか飢餓状態とか、そういう状況下ではね。

優しい両親の元ですくすくと育った君みたいなお坊ちゃんに、渡りあえる相手じゃないんだよ」


佐伯は身体を起こし、目の前のスプーンを指先で弄び始めた。

「仮に、首尾よく復讐を果たしたとしよう。だが、彼女は実に執念深い。自分を傷つけた相手を絶対に許さない。わかるだろ?
忘れた頃に復讐の復讐があるかもしれない。彼女の辞書に、「自業自得」なんて言葉は無いんだ。

それでも、どうしても、復讐したいと言うなら‥‥そういうのが得意な同業者を紹介出来なくもない。その覚悟があるなら、ね」


一縷の臨みに顔を上げた渡辺は、思わず息を飲んだ。


表情は穏やかだったが、佐伯は恐ろしい目をしていた。

底冷えする様な冷たい光がキラリとよぎる。
こちらの心の奥に切り込み見透かしながら、自分の感情は一切表さない瞳。
ぬるりとした皮膜に覆われた眼球は、その鈍い光で渡辺の視線をはね返すのみだ。

先ほど美津姫と対峙した際の威圧感とはまた別種の圧力を、佐伯は発していた。目を背けたくなるようないくつもの修羅場を見てきたものだけが纏う、特別な空気。
本能的に、深く関わっては危険だと思わせ、距離を取りたくなる。


「周到に立ち回るには、もちろん金も時間もかかる。だから、正式に社を通すことになる。当然、今回のサービス価格の何倍もの金額になるだろうね。
そして、行動の大半は工作員がやるにしろ、君らは金だけ出して終わりってわけにはいかない。家族もろとも強靭な精神力が必要になる。下手したら何年も、キチガイと闘うんだから」

佐伯の言う事は、口先だけの脅しではない事がひしひしと伝わって来る。
生半可な覚悟では、こちらが潰される可能性もあるのだ。

渡辺は凄まじい空気に呑まれ、何も言えなかった。



「だからね?」

軽く息をつくとスプーンを放り出し、佐伯は再び背もたれに寄りかかった。
椅子はやはり、ギィッと音をたてた。

佐伯の眼差しはフッと柔らかいものになり、噛んで含めるような口調に変わる。

「君は、逃げなさい。あれは、鬼だ。悪魔だ。あるいは、悪意の塊だ。近づけば毒される。だから、近づいてはいけない。
悔しいだろうけど、ありったけの力で逃げなさい。・・・放心してるようだけど、小林さん。貴方もです」

いきなり名を呼ばれ、剛はビクッとした。
飲むでもなしに弄っていたカップが音をたてた。


「それとも、貴方が彼女を更生させますか?
一度は愛した女性だ。彼女と共に生きて、時間をかけて彼女を導くつもりがありますか?」


穏やかにそう問われ、剛は思わず身震いした。
その身震いの勢いのまま、小刻みに何度も首を振る。

「それが賢明です」

佐伯は、ニッコリと笑った。
目尻には笑い皺が現れたが、その瞳の奥は冷たく鈍い光を残したままだった。





剛は仕事を辞め、実家へ戻っていた。

両親には、自分の心変わりで振った恋人が自殺してしまった、とだけ告げてあった。


新しい恋人とも別れ傷心の剛を、両親は労ってくれる。
そんな優しさが辛く、また年老いた善良な両親に美津姫の所業を話す事も憚られたため、騙しているような気がして実家には居づらかった。

だが、度重なる引っ越しで、新居を探す金銭的余裕は無い。
それに何より、独りでいることに耐えられなかった。


更に、なんとも情けない事に 剛は美津姫との別れを佐伯に依頼した。美津姫と自ら対峙することが恐ろしかったのだ。


渡辺は蔑むように鼻を鳴らし嘲笑した。

「アンタ、いい歳してアホなうえに どんだけヘタレなんだよ」

「わかってるよ!自分でも情けないと思います。でも・・・」



夜になりベッドの中で目を瞑ると、僅かに笑いを含んだ宏子の囁き声が甦る。

「一緒に死んで」

その度に、剛は美津姫にしがみつき、美津姫は剛の背中を優しく撫でながら 子守唄でも歌うように「大丈夫、大丈夫」と繰り返していたのだ。

剛は何度もその声に縋り、救われてきた。


宏子を死に追いやった、張本人のその声に。


剛の背中を撫でていた間、美津姫はどんな表情を浮かべていたのだろう。
その邪悪な胸の中には、どんな思いが渦巻いていたのだろう・・・


「・・・そう思ったら、俺・・・怖くて、怖くて」

白く粉を吹いた様な唇を震わせ、血の気の失せた顔を両手で覆いながら呟く剛を見て、渡辺も少しは同情したのだろうか。
それ以上、剛を責めることはしなかった。


「ウチは探偵事務所であって、便利屋じゃないんですがねぇ」

剛は渋る佐伯に懇願し、「特別料金なら・・・」という形で、別離工作と越したばかりのマンションの退居手続きを依頼したのだった。




 ーーーーーーーーーーーーーー 




剛の地元から少し離れた、駅前のカフェ。
オープンしたてのそのカフェは、田舎には珍しい、なかなか小洒落た造りの店だ。すずらんをあしらった大きなステンドグラスが印象的だ。

2週間ぶりに見る佐伯の姿は、前回とほぼ変わっていなかった。
ただ、今日はくたびれた背広ではなく、柔らかな素材のカジュアルなジャケットを羽織っている。そのせいか、少し若々しく見えないこともない。


「どうです?少しは落ち着かれましたか」

微笑みながら目の前に腰掛けた佐伯に、剛は力なく首を振った。


「では、さっそく報告致しましょうか。まずは、転居の件から‥‥」




あの日、剛はあの喫茶店に独り残された。

佐伯は、渡辺を駅まで送ったその足で剛のマンションへ戻り、貴重品等を引き揚げて喫茶店へ戻ると剛に手渡し、剛の実家へ避難させた。
美津姫が合鍵を使って、マンションに侵入する可能性を考慮してのことだ。

そのうえで、引っ越し業者を即日手配し、ほとんど夜逃げ同然で転居した。
剛の実家を探られない様、佐伯は複雑な手順を踏んで手続きをしてくれた。

「会社にも根回ししましたし、小林さんの行方を追うのは素人には難しいでしょう」



美津姫の派遣会社には、美津姫が営業担当者に取り入って、自分の希望通りに派遣先を融通させていた事を密告する。

「あの業界は、わりと狭い世界ですからね。今後、彼女が仕事を得るのは無理でしょう。
それに、私もこう見えて顔が広いんでね・・・転職するにしても、少なくとも、地元での就職は難しいでしょうね」


美津姫の派遣先、つまり剛が勤めていた会社にも、宏子の事件の資料持参で話を通す。
これは、剛の退職手続きをするうえでも必要なことだったので、剛ももちろん同席した。

事の顛末を知った上司は、絶句していたものだ。
後日、美津姫は派遣を打ち切られた。



だがそれでは、追いつめられた美津姫が、自分や渡辺を逆恨みするのではないか。
その懸念についても、佐伯は既に手を打っていた。

「実はですね、あまり褒められた手じゃないんですが・・・」


佐伯が言葉を濁しながら説明したところによると、知り合いの俳優を美津姫に接近させ、彼女の関心をそちらに引き寄せる作戦が進んでいるらしい。

「俳優だけじゃ食っていけなくて、副業でホストやってる奴なんですけどね。頭のいい男で、才能もある。もちろん茅島美津姫の正体も話してあります。
まあ上手くいけば、彼女はしばらくの間はそっちにかかり切りになるでしょう。

彼女は実家暮らしで、当面は生活に困ることもありませんしね。どっぷり深みに嵌まってくれれば、その間こちらは安泰ということで」

佐伯は視線を逸らし、苦笑しながら肩をすくめてみせた。



「そこまでしていただいて・・・どうお礼したらいいのか」

「いえ、報酬はちゃんといただきましたし、その他の工作はね・・・渡辺くんのためにやったことでもありますから」


恐縮する剛に、佐伯は穏やかに笑ってみせた。

宏子の無念を思い、なかなか復讐を諦めきれずにいた渡辺のために、佐伯はこうした入念な手を打ったのだと言う。

美津姫に近づけた俳優も、「人間観察の一環」と無報酬で協力してくれているとのこと。

「ヤツは、なんだかノリノリでねぇ。ま、本物のキチガイにお目にかかることなんて、滅多に無いでしょうからね。
最終的にどんなシナリオで彼女をどん底に突き落とすか、劇団の脚本家も巻き込んで、楽しそうですよ」

「・・・そうですか」

佐伯の周囲には、敵に回すと恐ろしい相手がたくさんいるようだ。


「彼、渡辺くんはねぇ・・・真っすぐに、きれいに、眩しいほど清らかなままで育った、今時珍しいくらい純真な青年です。茅島美津姫と関わることで、あの無垢な魂が無惨に穢されてゆくのを見るのは、私としても忍びない。

普段、泥沼から泥沼へ這いずり回るような仕事してますとねぇ、眩しいんですよ。本当に」

佐伯は実際に光を避けるかの様に睫毛を伏せ、愛おし気に、だがほんの少し淋し気に、笑った。


剛はそんな佐伯に少し意外な印象を抱きながら聞いていたが、一方でどう切り出そうかどうか迷っていた。

それに気付いた佐伯が、水を向けてくれた。

「何か、他にも?」


決心して、剛は顔を上げた。


「あの・・・俺、宏子の実家に、行くべきなんじゃないかと。

宏子に手を合わせて、ご両親に謝罪して・・・断られるかもしれないけど。でも、せめて墓参りだけでも」

「それについては」

剛が話し終わる前に、佐伯は遮った。

「渡辺くんを通じ、ご両親から拒否されてます。一切関わらないで欲しいそうです」


「でも!」

言い募ろうとする剛を、佐伯は手を挙げて留めた。

「土下座でも何でもすれば、貴方の気は済むでしょう。済まないまでも、罪悪感は薄れるかもしれない。でも、ご両親の気持ちは?」

「・・・・」


「自己満足は結構ですが、本当に悔やんでいるのなら、相手の気持ちを尊重して差し上げてはいかがでしょう」


キツい言葉だったが、反論出来なかった。
自己満足と言われてしまっても、仕方ないのだ。



「さて、それではそろそろ、解散と致しましょうか。この後、人に会う約束がありましてね」

佐伯が立ち上がって伝票を取ったが、剛はここは自分が払うと申し出た。

「では、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます。・・・それはそうと、小林さん」


佐伯は剛の顔を覗き込み、声を落として言った。

「貴方、相当酷い顔してますよ?難しいでしょうが、ちゃんと寝て、ちゃんと食べないと。」

「はぁ・・・」


「まぁ、茅島美津姫には”風の噂”ってやつが耳に入るようにしておきますよ。
『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』って。

これで貴方に近づくことも無いでしょう」


「・・・エリートじゃなくなった俺には、興味ナシってことですね」


「興味、持たれた方がいいんですか?」
「いえ!違うんです!ちょっと安心したって言うか・・・」

ハハ、と佐伯は笑い、剛の背中をポンと叩いた。






家に帰った剛は、自室のベッドに寝転んだ。
両親は仕事に出ており、家の中には剛ひとりきりだ。

天井を見上げ、大きくため息をつく。


全て終わった、のだろうか。



そう考えて、剛は酷く落ち込んだ。

(終わったとか・・・最低だ、俺)



宏子は死んだ。元はと言えば、俺のせいで。

だが、そのことについて考えるのを、脳が拒否している。
かつて宏子と過ごした、楽しかった日々を思い起こすことすら出来ずにいる。

後悔や謝罪の気持ちを、あの瞬間の恐怖が、大きく凌駕しているのだ。
そしてもちろん、美津姫の正体を知ったショックが。



寝返りを打ちながら、机の上に置いてあるファイルにチラリと目を向ける。


剛には未だ、あのファイルの全貌を読むことが出来ない。

佐伯がくれたファイルだ。
あの中に、恐ろしい出来事が全て詰まっている。

それを隈無く読み、事実を知ること。
そして、事実を知って存分に苦しむこと。


それがおそらく、自分に出来る、精一杯の贖罪だ。
そう思ってはいたが、実際に実行に移すのが怖かった。


実は先ほど、「一切関わらないで欲しい」と告げられた時、僅かながらもホッとしてしまったのも事実なのだ。

佐伯は、それに気付いたのかもしれない。

「自己満足」とか、「廃人同様」等と厳しい言葉を連ねたのは、自分への皮肉も混じっていたのではないだろうか。



剛は結局ファイルから目を逸らし、それを読むことをまた先延ばしにした。
自分の魂が清らかでも純真でもないことを、痛感する。

(皮肉を言われても仕方ないよな。俺はほんと、どうしようもない、クズだ)



また寝返りを打って、うつ伏せになった時。
剛の新しい携帯電話が鳴った。

以前の携帯電話は解約してあり、この携帯電話の番号を知っているのはかなり限られた人数なのだ。


意外に思いながらも、剛は携帯を手にした。
非通知でかかってきている。

「はい」


相手は無言だ。不自然な沈黙が続く。





「・・・もしもし?あの、どちらさまで」

「 見 つ け た 」




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