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「さあ。そろそろ帰りましょう。さっき君も言ったとおり、理由はわかった。宏子さんを追いつめたのが、どんなクズ人間かもわかった。もう、ここに用は無いだろう」

佐伯はファイルを鞄へと仕舞いかけたが、思い直したように剛に声をかけた。

「これ、よろしければ差し上げます。落ち着いたら、読んでみるといいですよ。・・・・色々、スゴいですから」

テーブルの上を滑らせるようにして、ファイルを剛の前に置いた。



黙っていなかったのは美津姫だ。

「ちょっと!待ちなさいよ。人の事キチガイだのクズだの散々言っておいて、このまま帰れるとでも思ってんの?」

美津姫が佐伯に詰め寄る。



これ以上、何を言う気だ?
もう勘弁してくれ。終わらせてくれ・・・・

剛は祈るような気持ちで、目の前のファイルを凝視した。
そうしていれば、美津姫を見ないで済むような気がしたからだ。



「謝んなさいよ!土下座してよね!」

佐伯はそれを無視し、淡々と帰り支度を続ける。


美津姫は更にヒステリックに叫び、床を踏み鳴らす。

「謝らない気?アンタ達、訴えてやるから!!」



佐伯は顔を上げ、美津姫に向かってニッコリと微笑んだ。
が、その目は全く笑っていなかった。


「冗談も程々にしましょうね、茅島美津姫さん。
訴えて損をするのは、貴女ですよ。そんなこともわかりませんか?
全ての資料、この会話の録音。公にされたらどうなるか、考えてからものを言うべきでしょう」

その口元は微笑み、声もごく穏やかだった。
だが、今の佐伯は凄まじい威圧感を放っていた。

さすがの美津姫も、気圧されて言葉を飲み込む。


「それより、早く逃げた方がいいんじゃないですか?茅島美津姫さん。
さっき貴女が大声を上げたせいで、ご近所の親切な方が本当に警察を呼んでいるかもしれません。
そうしたら、全ての資料を警察に提出する事になりますよ。我々が捕まったんじゃ、かないませんからねえ」


美津姫はしばらくの間佐伯を睨みつけていたが、何も言わずに寝室へ向かった。
ドスドスと足音も高く、力任せにドアを閉める。

乱暴な仕草で自分の荷物を掴むと、こちらを一瞥もせずに玄関を出て行った。


玄関のドアをくぐる時、小さく「あの、クソババア・・・」と呟くのが聞こえた。

佐伯に電話やパソコンを調べさせた母親のことが気に喰わないのだろう。




「やあ・・・あれは家に帰ってから、相当荒れそうですねえ」

とぼけた口調で、佐伯が呟いた。


「さ、我々はおいとましましょうか。では小林さん、お邪魔しました」

険しい表情で玄関の方を睨んだまま黙りこくっている渡辺を立ち上がらせ、佐伯は剛に向かって頭を下げた。


「まっ・・・待って下さい!」

「独りにしないで」という言葉が喉まで出かかったが、剛はなんとかそれを飲み込んだ。
我ながら情けないことだが、今この部屋にひとり残されたら、発狂してしまいそうだ。


「俺・・・その、まだ混乱してて・・・あの・・・」


「まあ、無理も無いでしょうねえ」

佐伯の同情的な声に、剛は少しホッとした。

「でも、本当に警察が来たら面倒ですから、我々は退散しますよ。
もしよろしければ、一緒に事務所の方へ行かれますか?」


ありがたくその申し出を受けようとしたその時、渡辺が抗議の声を上げた。

「そんなヤツ、ほっとけよ!!コイツは宏ねえを捨てたんだ。
あんなキチガイ女なんかにコロッと騙されやがって!」


返す言葉も無かった。


黙って俯く剛に同情したのか、佐伯はとりなしてくれた。

「まあまあ、そう言わずに。さ、一緒に行きましょう」




 ーーーーーーーーーー


「あの、クソババア・・・・」

美津姫は歯ぎしりしながら、高いヒールをアスファルトに突き立てるように猛然と歩きだした。

前方を睨み据えていたが、何も目に入ってはいなかった。

すれ違う人々が、怯えたように自分を振り返るのにも気づいていない。


(母親のくせに、いつだってアタシの邪魔ばかりする。アタシのやる事為す事、いちいち文句つけてくるし超ムカつく。今回だって大喜びでパソコン差し出したに決まってる。超ムカつく超ムカつく超ムカつく!)

持っていたバッグで、自販機の横のゴミ箱を殴りつけた。
倒れはしなかったものの、ゴミ箱はグラグラと揺れている。

それに見向きもせずに、美津姫は肩を怒らせ前のめりになって歩き続ける。

(大体、剛だって何なのよ!あんぐらいでビビりやがって。正直死んでくれてラッキーとか思ってたに決まってる。偽善者ぶってんじゃねーよ。いつまでも毎晩ブルブル震えたりとかウザイんだよ。あんな男、もうどうでもいいし。ってかそもそもタイプじゃなかったし!)


目の前を親子連れが歩いている。
通行の邪魔だったので、追い越しざまに母親の肩に思い切りぶつかってやった。

母親が何か声を上げているが、無視して歩き続ける。

(チンタラ歩きやがって。うぜえんだよ)


美津姫は今、その目に映るもの全てを憎悪していた。

(あ んな女のひとりやふたり、死んだってどうってことない。地味でバカでおどおどヘラヘラしてたくせに。ちょっといい大学に行けたのだって、カレシも友達も出来ずに毎日毎日勉強しかやることなかったからだし!正社員になれたのだって親のコネかなんかに決まってるし元々はアタシの方が成績も良かったし断然カワイイし友達も多かったしなのになんで宏子ばっかりいい目見てんのよあんなやつ死んで当然なんだからアタシは悪くない)


目をギラギラさせながら猛然と歩いていたら、駅を通り過ぎていたことに気づく。

美津姫の苛立ちはピークに達した。

叫び出したいのを抑え歯ぎしりしながら、駅に向かおうと踵を返すと、誰かにぶつかった。


「あ、すいませ・・・」

謝って来た相手を睨みつけると、怒鳴りつけた。

「どこ見て歩いてんのよ!!」


「え、いや、そっちが急にUターンして」
「うるさいうるさいうるさい!!!」

怯えて咄嗟に鞄を抱きかかえた気弱そうな若者を遮り、美津姫は怒鳴り散らし始めた。

「アンタがボーッと歩いてるからでしょ?!クチゴタエする暇があったらあやまんなさいよこのデブ!!キモイんだようざいんだよ!大体いつも・・・アタシが・・・・」


もう、美津姫が何を叫んでいるのか、誰にも聞き取れなかった。

例えて言うならその罵声は、金切り声のモールス信号のように聞こえた。


目を血走らせ口から泡を飛ばし、地団駄を踏みながら甲高い声で怒鳴り散らす美津姫の姿に怯え、相手の男は逃げて行った。

それでもまだ喚き続ける美津姫を、人々は遠くからチラリと見やりそそくさと離れていく。

子供連れの主婦たちは、子供の手を引いて足早に逃げて行った。


 ーーーーーーーーーー



「コーヒーでも飲みましょうか。事務所の近くに、行きつけの喫茶店があるんですよ」

ハンドルを握る佐伯が、後部座席に深く沈む剛に声をかけた。

「・・・・はあ」

どちらともつかないその返事に、助手席の渡辺は舌打ちしてそっぽを向いた。



美津姫が駅前で騒ぎ立てていたその頃、3人は事務所へ向け車を走らせていた。

剛は思考停止したまま、窓の外にぼんやりと目を向けている。
様々な景色が前から後ろへと飛び去るのを眺めている間は、何も考えずに済んだ。


しばらく走ると細い道へ入り、佐伯は車を止めた。

オフィス街の様で、大小さまざまなビルが建ち並んでいる。
だが、日曜の午後とあって、周りは閑散としていた。


佐伯に促されるまま、剛は後について行った。

重そうな木の扉を押すと、カウベルの素朴な音が響く。


「いらっしゃいませ」

店主の落ち着いた声が出迎える。
佐伯はやはり常連らしく、3人は当然の様に一番奥の席に通された。


「コーヒーでいいかな?」

頷きかけた剛だったが、「あ、イヤ・・・」と声を上げた。

コーヒー、と聞いて、あの朝のことが甦ってしまったのだ。


宏子が飛び降りる直前、剛は美津姫の淹れたコーヒーを飲んでいたのだった。

あのときの幸せな気分、その直後の衝撃、つい先ほどの美津姫の豹変・・・それらが一瞬でフラッシュバックした。

剛は思わず手を額にやった。

額は、冷たい脂汗で湿っていた。




結局、剛はホットココアを、佐伯達はコーヒーをオーダーした。


「さて」

佐伯は水をひとくち含むと、切り出した。

「お疲れさまでした。これで依頼の件は終了したわけですが・・・この後、どうしますか?渡辺くん」

「俺は」

すぐさま、渡辺は言葉を返した。
おそらく車の中でずっと考えていたのだろう。

「俺は、アイツに復讐したいです。宏ねえの仇を討つんだ」


「ふうん・・・やはりそう来ますか」

佐伯は腕組みをして、背もたれに寄りかかった。
剛の隣で、椅子がギィッと音を立てる。

「私としてはまず、調査結果を渡辺くんのご両親に見せるべきではないかと」


「ああ・・・それは、うん。見せようと思います。で、復讐」

佐伯は片手を挙げ、言い募ろうとする渡辺を遮った。

「そのうえで、宏子さんのご両親にそれを伝えるかどうかを検討する」


渡辺は一瞬黙り込んだ。そこまで考えていなかったのだろう。

「・・・検討?どうして?もちろん報告はします。
伯母さんも伯父さんも、宏ねえが自殺じゃないと知ったら、少しは救われる。
そして、アイツに殺された事を知ったら、きっと復讐したいと思うはずだ。
アイツは罰を受けるべきです」


「少しは救われる。それは、そうかもしれない。・・・ただねぇ」

佐伯は、小さなため息をついた。

「復讐は、お勧め出来ないな。相手が悪い。それに、警察も取り合わないでしょう」

「どうして?!こんなに証拠が揃ってるのに」


そこへ、飲み物が運ばれて来た。

数秒間の沈黙。
芳しいコーヒーと、ホットココアの甘い香りが混じり合う。




オーナーが立ち去ると、渡辺は再び口を開いた。

「佐伯さん、確かさっきもそう言ってたけど、何故アイツを罪に問えないんですか?」

「うん・・・」

佐伯はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜている。

「ネット上で偽名を使うことなんて誰でもやってることだし・・・
裏口の扉への細工にしてもね、防犯ビデオを見る限り、おそらく丸めたセロテープか何かを鍵の中に詰めただけなんだ。
鍵を壊したわけでもないし、住民が何度か開閉するうちに 詰めたセロテープも自然に落ちて、既に捨てられているだろうね」


「でも・・・でも!!あんなに悪意に満ちて・・・会話だって録音に残ってるじゃないですか」

「そう。その内容も微妙なところなんだな。”明確な”殺意の有無、という点でね。彼女も言ったとおり、彼女自身が手を下したわけじゃない。
だが、それ以前に・・・」

悔しそうに唇を噛む渡辺を、労るような目を向けた。

「警察ってところは、一度出した結果を覆すことは、まず無い。
よっぽど決定的な証拠が無い限りね。この程度の証拠では、無理だと思う」



渡辺は、押し黙ってテーブルの上のファイルを睨んでいる。
剛が家を出る際に、無意識に掴んで持ってきていたのだ。


「じゃあ、俺が、直接・・・・」
「制裁を加える?」

佐伯が続きを引き取ってそう言うと、渡辺は我が意を得たりとばかりに頷いた。


「さっきも言っただろう。相手が悪いって」

小さくため息をつき、佐伯はコーヒーをひとくち啜る。

「あの娘は頭がオカシイよ。見ただろう?
理屈も道理も通じない。倫理?道徳?善悪?そんなもの、自分の欲望のためには一顧だにしない。
そういう種類の人間は、少なからず存在するんだ。恐ろしい事にね。

君は同行してないけど、あの娘の両親も同類だったよ。
父親は彼女を溺愛するだけ。母親は彼女を憎んでる。実の娘なのに。
娘は娘で、父親を利用し母親を蔑んでる。救いようの無い家族関係だ」

渡辺はしかめ面でファイルを睨んだままだ。
おそらく、そんな家族関係を上手く想像出来ないのだろう。


「こちらから攻撃しようものなら、死にもの狂いで反撃してくるだろう。
母親はともかく、父親は完全に娘の味方だからね。
ああいった連中はね、自分のしたことはまるっと棚に上げて、相手を徹底的に非難するんだよ。
どちらに非があるかなんて関係ない。自分の意に染まない相手は、執拗に責め立て搾り取り叩き潰しにかかる。

特にあの娘は、周囲を騙すのが上手い。自分を魅力的に見せる術に長けている。
他人の印象や感情を操るのなんて、朝飯前なんだ。

もちろん、長期間に渡って騙し続けることは難しい。
職歴を見ればわかるよね。派遣社員とはいえ、どの職場も一年と続かない。まあ、すぐにボロが出るんだろうね」

ファイルを指でトントンと突つきながら、佐伯は淡々と話し続ける。


「いいかい?想像してみて欲しい。
あの娘が被害者面して君の周囲を抱き込み、君自身はもちろん、君の家族や親しい人をメチャメチャに傷つけるかもしれないんだ。
精神的に叩きのめす、或はなりふり構わずに身体的な危害を加える可能性もある。
学校や職場にも被害をもたらす。家族や親戚、近所の人達にも。

まさかそこまで、と思うだろ?
でも、やるんだよ。本当に、徹底的に。

その執念と能力を他へ向ければ、大成出来そうなものだけどね。不思議な事に、ああいった連中は搾取と復讐しか頭に無いらしい」



唇を噛み締め黙り込んでしまった渡辺に、佐伯は畳み掛ける。

「人間の精神なんて、あっけなく壊れてしまうものだよ。
特に、心が深く傷ついていたり、身体的に追いつめられていたり・・・例えば、極度の睡眠不足とか飢餓状態とか、そういう状況下ではね。

優しい両親の元ですくすくと育った君みたいなお坊ちゃんに、渡りあえる相手じゃないんだよ」


佐伯は身体を起こし、目の前のスプーンを指先で弄び始めた。

「仮に、首尾よく復讐を果たしたとしよう。だが、彼女は実に執念深い。自分を傷つけた相手を絶対に許さない。わかるだろ?
忘れた頃に復讐の復讐があるかもしれない。彼女の辞書に、「自業自得」なんて言葉は無いんだ。

それでも、どうしても、復讐したいと言うなら‥‥そういうのが得意な同業者を紹介出来なくもない。その覚悟があるなら、ね」


一縷の臨みに顔を上げた渡辺は、思わず息を飲んだ。


表情は穏やかだったが、佐伯は恐ろしい目をしていた。

底冷えする様な冷たい光がキラリとよぎる。
こちらの心の奥に切り込み見透かしながら、自分の感情は一切表さない瞳。
ぬるりとした皮膜に覆われた眼球は、その鈍い光で渡辺の視線をはね返すのみだ。

先ほど美津姫と対峙した際の威圧感とはまた別種の圧力を、佐伯は発していた。目を背けたくなるようないくつもの修羅場を見てきたものだけが纏う、特別な空気。
本能的に、深く関わっては危険だと思わせ、距離を取りたくなる。


「周到に立ち回るには、もちろん金も時間もかかる。だから、正式に社を通すことになる。当然、今回のサービス価格の何倍もの金額になるだろうね。
そして、行動の大半は工作員がやるにしろ、君らは金だけ出して終わりってわけにはいかない。家族もろとも強靭な精神力が必要になる。下手したら何年も、キチガイと闘うんだから」

佐伯の言う事は、口先だけの脅しではない事がひしひしと伝わって来る。
生半可な覚悟では、こちらが潰される可能性もあるのだ。

渡辺は凄まじい空気に呑まれ、何も言えなかった。



「だからね?」

軽く息をつくとスプーンを放り出し、佐伯は再び背もたれに寄りかかった。
椅子はやはり、ギィッと音をたてた。

佐伯の眼差しはフッと柔らかいものになり、噛んで含めるような口調に変わる。

「君は、逃げなさい。あれは、鬼だ。悪魔だ。あるいは、悪意の塊だ。近づけば毒される。だから、近づいてはいけない。
悔しいだろうけど、ありったけの力で逃げなさい。・・・放心してるようだけど、小林さん。貴方もです」

いきなり名を呼ばれ、剛はビクッとした。
飲むでもなしに弄っていたカップが音をたてた。


「それとも、貴方が彼女を更生させますか?
一度は愛した女性だ。彼女と共に生きて、時間をかけて彼女を導くつもりがありますか?」


穏やかにそう問われ、剛は思わず身震いした。
その身震いの勢いのまま、小刻みに何度も首を振る。

「それが賢明です」

佐伯は、ニッコリと笑った。
目尻には笑い皺が現れたが、その瞳の奥は冷たく鈍い光を残したままだった。





剛は仕事を辞め、実家へ戻っていた。

両親には、自分の心変わりで振った恋人が自殺してしまった、とだけ告げてあった。


新しい恋人とも別れ傷心の剛を、両親は労ってくれる。
そんな優しさが辛く、また年老いた善良な両親に美津姫の所業を話す事も憚られたため、騙しているような気がして実家には居づらかった。

だが、度重なる引っ越しで、新居を探す金銭的余裕は無い。
それに何より、独りでいることに耐えられなかった。


更に、なんとも情けない事に 剛は美津姫との別れを佐伯に依頼した。美津姫と自ら対峙することが恐ろしかったのだ。


渡辺は蔑むように鼻を鳴らし嘲笑した。

「アンタ、いい歳してアホなうえに どんだけヘタレなんだよ」

「わかってるよ!自分でも情けないと思います。でも・・・」



夜になりベッドの中で目を瞑ると、僅かに笑いを含んだ宏子の囁き声が甦る。

「一緒に死んで」

その度に、剛は美津姫にしがみつき、美津姫は剛の背中を優しく撫でながら 子守唄でも歌うように「大丈夫、大丈夫」と繰り返していたのだ。

剛は何度もその声に縋り、救われてきた。


宏子を死に追いやった、張本人のその声に。


剛の背中を撫でていた間、美津姫はどんな表情を浮かべていたのだろう。
その邪悪な胸の中には、どんな思いが渦巻いていたのだろう・・・


「・・・そう思ったら、俺・・・怖くて、怖くて」

白く粉を吹いた様な唇を震わせ、血の気の失せた顔を両手で覆いながら呟く剛を見て、渡辺も少しは同情したのだろうか。
それ以上、剛を責めることはしなかった。


「ウチは探偵事務所であって、便利屋じゃないんですがねぇ」

剛は渋る佐伯に懇願し、「特別料金なら・・・」という形で、別離工作と越したばかりのマンションの退居手続きを依頼したのだった。




 ーーーーーーーーーーーーーー 




剛の地元から少し離れた、駅前のカフェ。
オープンしたてのそのカフェは、田舎には珍しい、なかなか小洒落た造りの店だ。すずらんをあしらった大きなステンドグラスが印象的だ。

2週間ぶりに見る佐伯の姿は、前回とほぼ変わっていなかった。
ただ、今日はくたびれた背広ではなく、柔らかな素材のカジュアルなジャケットを羽織っている。そのせいか、少し若々しく見えないこともない。


「どうです?少しは落ち着かれましたか」

微笑みながら目の前に腰掛けた佐伯に、剛は力なく首を振った。


「では、さっそく報告致しましょうか。まずは、転居の件から‥‥」




あの日、剛はあの喫茶店に独り残された。

佐伯は、渡辺を駅まで送ったその足で剛のマンションへ戻り、貴重品等を引き揚げて喫茶店へ戻ると剛に手渡し、剛の実家へ避難させた。
美津姫が合鍵を使って、マンションに侵入する可能性を考慮してのことだ。

そのうえで、引っ越し業者を即日手配し、ほとんど夜逃げ同然で転居した。
剛の実家を探られない様、佐伯は複雑な手順を踏んで手続きをしてくれた。

「会社にも根回ししましたし、小林さんの行方を追うのは素人には難しいでしょう」



美津姫の派遣会社には、美津姫が営業担当者に取り入って、自分の希望通りに派遣先を融通させていた事を密告する。

「あの業界は、わりと狭い世界ですからね。今後、彼女が仕事を得るのは無理でしょう。
それに、私もこう見えて顔が広いんでね・・・転職するにしても、少なくとも、地元での就職は難しいでしょうね」


美津姫の派遣先、つまり剛が勤めていた会社にも、宏子の事件の資料持参で話を通す。
これは、剛の退職手続きをするうえでも必要なことだったので、剛ももちろん同席した。

事の顛末を知った上司は、絶句していたものだ。
後日、美津姫は派遣を打ち切られた。



だがそれでは、追いつめられた美津姫が、自分や渡辺を逆恨みするのではないか。
その懸念についても、佐伯は既に手を打っていた。

「実はですね、あまり褒められた手じゃないんですが・・・」


佐伯が言葉を濁しながら説明したところによると、知り合いの俳優を美津姫に接近させ、彼女の関心をそちらに引き寄せる作戦が進んでいるらしい。

「俳優だけじゃ食っていけなくて、副業でホストやってる奴なんですけどね。頭のいい男で、才能もある。もちろん茅島美津姫の正体も話してあります。
まあ上手くいけば、彼女はしばらくの間はそっちにかかり切りになるでしょう。

彼女は実家暮らしで、当面は生活に困ることもありませんしね。どっぷり深みに嵌まってくれれば、その間こちらは安泰ということで」

佐伯は視線を逸らし、苦笑しながら肩をすくめてみせた。




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