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・・・のコイ♡


桜の盛りを少し過ぎた季節。日曜の午後。

ソファに座ってテレビを眺めながら、剛の意識の大半は美津姫の動き回る気配に集中していた。



付き合い始めて3ヶ月と少し。
何度か遊びに来てはいたが、彼女が家に泊まったのは昨日が初めてだった。

自分のために、慣れないキッチンでかいがいしくコーヒーを淹れてくれている美津姫の姿が目に浮かぶ。


「美津姫、大丈夫ー?」

剛がそう声を掛けると、キッチンから可愛らしい声が返ってきた。

「うん。もうすぐ出来ますよぉ」

剛は、堪えきれずニヤッとした。

(全く、かぁわいいよなぁ)



「お待たせー」

両手にマグカップを持ち、「あっつい、あっつい」と言いながら美津姫がそろそろとこちらへやって来る。

剛は立ち上がると、マグカップを上から掴んでテーブルに置いた。


「ああ、ありがとぉ!剛は熱くないの?」

「あはは。こんぐらい、なんでもないよ」

余程熱かったのだろう、美津姫がブンブン振っている両手を捉まえ、剛はフーフーと息を吹きかけてやった。


美津姫は鈴を振るような声で、くすぐったそうに笑う。

「ふふふ。ありがとぉ。もう治った」


「そか。じゃあ、早速コーヒーをいただきますか」

「うん。美味しく出来てるといいんだけど」

手を繋いだまま、ソファに座る。



あまりにも幸せな、日曜の午後。

朝晩はまだ少し寒かったが、午後には柔らかな日射しが降り注ぐ。
窓の外では、微風が木々の葉を揺らす。

テレビでは、可愛らしい様々な動物の赤ちゃんを紹介する番組が放送されており、タレント達が大げさに嬌声をあげている。



平和だ。完璧に、幸せな空気。
優しくて可愛らしい彼女の笑顔と、美味しいコーヒー。

この幸せを破るものなど、存在しない。


剛は、コーヒーをひとくち飲んで微笑んだ。

「うん。美味しい。美津姫のコーヒーは、特別に美味いよ」

コーヒーメーカーで淹れたコーヒーに美味しいも不味いも無いのだが、そんなことはどうでもいいのだ。

美津姫も、カップ越しに微笑みを返した。



あまりの幸福感に、胸がキュンとなったその時。
不意に、携帯の着信音が鳴った。

剛はテーブルの上の携帯を手に取ると、あからさまに表情を曇らせた。


「また、あの人?」

「ん・・・・ああ」


美津姫が、心配そうな上目遣いで剛を見上げる。

「・・・出てあげた方がいいんじゃない?」



本心を言えば、出たくなかった。
だが、こちらから一方的に彼女を振ってしまった手前、剛には負い目があった。

自分と出会ったせいで2人が別れた事を知っているので、美津姫も気を遣ってくれているようだ。


「うん・・・じゃあ、ちょっとゴメン」

「うん。気にしないで」

美津姫はリモコンでテレビの音量を下げると、キッチンへ戻って行った。


美津姫の後ろ姿を横目で追いつつ、憂鬱な気持ちで通話ボタンを押す。



「剛?どうしてずっと出てくれなかったの?!メールだって何度も送ったのに!」

ヒステリックな声に、剛は思わずため息をついた。

昔はこんな喋り方をする女じゃなかった。
もっと頼りな気な、おっとりした話し方をしていたのに・・・・



(イヤ、それも全部俺のせいか・・・)


「悪かったよ・・・で、何の用?」

自分でも、酷い言い草だと思った。
だが正直なところ、鬱陶しいというのが本音だった。


 ーーーーーーーーーー


宏子とは、それまで4年と少し付き合っていた。

正式に婚約はしていなかったものの、なんとなく結婚も意識していた。
付き合った当初のようなときめきなど既に無かったが、特に不満があったわけでも無かった。



だが。

4ヶ月ほど前、剛は、美津姫という女性に出逢ってしまった。

派遣社員として入社した彼女に、あっという間に恋をした。
ほとんど一目惚れと言ってよかった。
彼女こそ、理想の女性だと確信したのだ。

漠然と、理想として想い描いていたとおりの女性・・・


仕事はきちんとこなすが、出しゃばらず控えめ。
誰に対しても親切で、常に笑顔を絶やさない。
そのうえ、外見も清楚で可憐。

それは、今まで宏子の中に見ていた長所だった。
だが、美津姫にもその長所を見つけた。しかも、より増幅し際立った形で。
そのうえ短所などはどこにも見当たらない。


天使だ。
美津姫は剛にとって、不意に舞い降りた天使のような女性だった。
幸いなことに、美津姫の方も剛を憎からず思っているのがわかった。


宏子に対しての愛情や興味は失われ、それどころか苛立ちと罪悪感しか感じなくなってしまった。
身勝手だと理解ってはいたが、今までの関係を続ける事は、もう出来なかった。




剛が別れを告げたとき、宏子はほとんど文句も言わなかった。


「ゴメン。他に好きな人が出来た。俺と別れて下さい」

「・・・・だよね。そんな気はしてた。最近態度がおかしかったもんね」




これっきりだ。

たったこれだけの会話で、ふたりの4年間は終わりを迎えた。

剛は若干拍子抜けしたものだったが、正直なところ、揉めずに済んだことで胸を撫で下ろす思いでもあった。


その翌日、剛は仕事終わりに美津姫を食事に誘い、交際を申し込んだのだった。




しばらくの間、ふたりの交際は順調だった。

だが・・・・・


2ヶ月を過ぎた頃から、宏子からメールが来るようになった。

復縁を迫るメールが。


最初のうち、宏子への罪悪感もあって、剛は謝罪のメールを返信していた。

復縁は出来ない、今の彼女を大切に思っているから、と。


そのうち、宏子からのメールの内容に変化が顕われた。

「私の方がずっと、あなたを愛している」
「剛を幸せに出来るのは、私だけ」
「剛はその女に騙されている」


さすがにウンザリして、剛は返信をしなくなった。

だが、宏子からのメールは止まなかった。



もちろん、週末ごとの美津姫とのデート中にも着信は続いた。

あまりに頻繁に届くメールに美津姫が不安げな様子を見せたので、剛は仕方なく宏子と別れた経緯を話した。


「そんな・・・・ごめんなさい。私、その人から剛を奪ってしまったんだね・・・私、何も気づかなくて・・・」


狼狽し、涙ぐんで俯く美津姫を、剛は優しく慰めた。

「美津姫が謝る事じゃないよ。気にしなくていい。全部、俺のせいだから」

頭を撫でてやると、美津姫は俯いたままコクリと頷き、小さな声で「ありがと」と呟いた。



宏子からのメールを着信拒否することも考えたが、やはり罪悪感も残っており、踏み切れずにいた。


そんな剛を本気で怒らせたのは、昨日のメールだった。


「派遣の女なんて、社員を捕まえて結婚する事しか考えてない」



(あの女・・・こんなこと言うヤツだったのか。最低だ)

さっさと別れておいて良かった、とさえ、剛は思った。


「もう二度と、メールしてくるな。もし電話かけてきても、絶対に取らないから」

そう返信して携帯の電源を切ったのが、昨日の深夜のこと。



いつまでも電源を切っておくわけにもいかないので、剛は朝になって電源を入れた。

すると・・・・

夥しい数の着信履歴が残されていた。
もちろん、全て宏子からだ。


無数のメール。
留守電に至っては、メモリー限界まで入っていた。


今どきの若者にはよくあることだが、もともと宏子はあまり電話をかけてこなかった。

付き合ってしばらくの間は何度か長電話もしたものだが、ある時期から、用事はほとんどメールで済ませていた。


普段電話をかけない宏子が、一晩で留守電が一杯になるほどかけてきている・・・・


背筋がゾッとした。

なんだか恐ろしくて、留守電やメールの内容を確認する勇気が出なかった。


それでつい、今まで放置していたのだ。



 ーーーーーーーーーー


「で、何の用?」

携帯を持った腕をソファの背もたれに載せ、キッチンに背を向けた剛の声は、あからさまに不機嫌そうだ。


そんな剛の様子を察してか、先ほどのヒステリックな声から一転、その声はか細く高く、また、少し震えていた。

「あ、謝ろうと思ったの。
もう二度と、電話もしない。メールもしない。だから・・・

ひとつだけ、お願いを聞いて欲しい」



(お願い?・・・・なんだろう。面倒だな)

剛が黙っていると、宏子は少し早口になって言葉を継いだ。


「あの、部屋の鍵を返そうと思って、昨日の晩、そっちへ行ったの。
そしたら、管理人さんが中へ入れてくれなくて・・・」


宏子のメールがおかしくなってきた頃、不安がる美津姫を安心させるために、宏子が訪ねて来ても中へ入れない様、管理人に頼んでおいたのだ。

管理人は、顔見知り程度には宏子をのことを知っていたので、顛末などを話すのはかなり恥ずかしかったのだが、恥を忍んで頼んでおいてよかった。



「だから夜のうちに、封筒に入れて外に置いておいたの」



(えっ?)


「外?外だって?!」

「だって、中に入れてくれないから郵便受けに入れる事も出来ないし・・・・だから、早く電話に出て欲しかったの」


「・・・悪かったよ。ずっと電源切ってたんだ。で、どこに置いたの?」


「ちょっと、ベランダに出てみてくれる?そこから見えるところに置いたから。目立つように、赤い封筒」


剛はソファから立ち上がると、通話状態のまま窓へ向かった。

窓を開けベランダに出て、下を見てみる。

4階のベランダの真下に見えるのは、背の低い植え込みと広い道路。
少し先にある小さな公園からは、子供達の遊ぶ声が聞こえる。


「赤い封筒なんて、無いけど?」

「・・・おかしいな。ツツジの植え込みの上に置いたんだけど。風で飛ばされちゃったのかしら。少し覗き込んでみてくれる?」



(まったく・・・鍵を外に放置するなんて、不用心だろうが)

剛はベランダの手すりから身を乗り出して、階下をよく見た。
やはり、それらしきものは見当たらない。


「あ、そうそう。さっき言った、お願いなんだけど・・・・」

「あ?ああ・・・・」




「一緒に死んで」


笑いを含んだその低い声を聞いたのと、自分の身体がものすごい勢いで後ろに引き倒されたのは、ほぼ同時だった。



ほんの一瞬。


仰向けに倒れてゆきながら剛が見たものは。


何かを捉まえようとするように両手を差し伸べ、ベランダの外を落ちて行った、女性の姿だった。



水気を含む重たいものが衝突したような、グシャッという音が聞こえた。


一瞬のち、女性の甲高い悲鳴が響き渡った。



剛は尻餅をつく格好で、部屋の床に倒れていた。


(な・・・何が起きたんだ・・・・)

状況を理解出来ず、呆然とあたりを見回す。



剛の後ろには、荒い息をついてしゃがみ込んでいる美津姫が居た。


「い・・・今・・・・」

言葉が口に上ってこない。
剛は首を巡らせた格好のまま、惚けたように美津姫を見つめた。


視線を感じたのか、美津姫は顔を上げた。
目が合うと同時に剛の背中に抱きついてきた。

「よかった・・・!!!」


両腕を剛の腹に回し、ギュッと抱きしめる。

「テレビを消そうと思って、リモコンを取るために屈んだの。そしたら・・・向かいのマンションの窓に映ってて・・・」


美津姫の声は、泣き声に変わっていった。

「女の人が、屋上から下を見てたの。手すりの外に座って、携帯で話しながら。この部屋の真上だった」


しゃくりあげながらそう話す美津姫の涙が、剛の背中を温かく濡らしていく。


「だから咄嗟に、・・・走って行って、引っ張ったの」

「あ・・・え・・・・・」



美津姫が長く息をついた。


「間に合って、よかった・・・」

真っ白になって固まってしまった剛の頭が、その一言でやっと働き出した。


携帯電話から聞こえた、あの言葉。
ベランダの外に、一瞬見たもの。

あれは・・・・あれは・・・・・



「ひ、宏子?!」

ベランダへ行こうと立ち上がりかけた剛を、美津姫が引き止める。

「行かない方がいい。見ない方が・・・」



剛は力が抜けたように、再びへたり込んだ。



(俺を道連れにして、飛び降りるつもりだったのか・・・・)


宏子の意図に気づき、剛はガタガタと震え始めた。



「剛!大丈夫。もう、大丈夫だから。ね?」

美津姫が膝立ちで剛の正面にまわり込んだ。
剛の頭を、そっと胸に抱く。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」


美津姫にしがみつきガタガタ震え続ける剛を、彼女はあやすように優しく抱きしめた。

頭や背中を静かにさすりながら、ふたりは長い時間そうして抱き合っていた。






身体の震えがなんとか治まるとすぐに、近隣住人の叫びや近づいてくるサイレンの中、剛は美津姫と共に逃げるように部屋を出た。
この部屋で眠る事など、考えられなかった。一秒だって居たくなかった。

実家へ帰る美津姫を駅まで送ると、とりあえず近くのビジネスホテルに宿を取った。

本当は美津姫に側にいて欲しかったが、彼女の両親が厳しい事を知っていたので無理を言えなかったのだ。


剛はひとりベッドに入ったが、端から眠ることなど諦めていた。
恐ろしくて電気を消すことも出来ない。

目を閉じると、あの一瞬の光景が甦ってきそうで、剛はただ震えながら、点けっぱなしにしたテレビを眺めていることしか出来なかった。


完璧に幸せな一日は一転、地獄のような一日となってしまった。



翌朝、剛は会社を休んで必要書類を揃え、朝から不動産巡りを始めた。
すぐにでもあの部屋から引っ越したかったのだ。

その日のうちになんとか部屋を見つけ、賃貸契約を結んだ。

引っ越し業者を手配出来たのは翌々日だったが、必要なものだけ先に自分で運び、早々に新居で暮らし始めた。





そして、新居での暮らしを始めて数日。

あの日以来、剛は上手く眠る事が出来なかった。

目を閉じると、目の前を落ちていった宏子の姿が浮かんでくるのだ。


実際にはあの時、顔は見えていなかった。
彼女の顔は下を向いていたので、見えていたのは顎のラインと白い首筋ぐらいだったはずだ。

ほんの一瞬のことだったが、目に焼き付けられている。


だが、脳裏に浮かんでくるのは、あり得ない程ゆっくりと落ちてゆきながら無念の表情を浮かべ、剛を凝視する彼女の姿だった。

想像の中で、幾度も落ちてゆく宏子と目が合った。
彼女は仰向けに墜落し、血やら何やらを飛び散らせて死んだ後も、ベランダから下を覗く剛を見上げていた・・・・


あの日、部屋を出る時は庭を目にせず済むよう裏口から出て行ったし、引っ越しのため戻った時には、庭の清掃は既に終わっていた。

だから剛は、宏子の最期の姿を見ていない。

だが、消しても消しても浮かんでくるその映像は、生々しく恐ろしいものだった。




『一緒に死んで』


あの声が、耳から離れない。

これから飛び降りようというのに、彼女の声は確かに僅かな笑いを含んでいた。

目的の達成を目前にして、満足げに微笑んでいたのだろうか。
そんな考えが浮かび、剛は思わず身震いして縮こまった。



(もしあの日、美津姫がいてくれなかったら・・・)

隣で眠っている美津姫の、可愛らしい寝顔をじっと見つめる。


(俺はきっと、宏子に捕まって一緒に墜落死していたか、落ちてきた宏子に衝突されて 少なくとも重症を負っていただろう)


剛はそっと、美津姫に近づいた。
起こさないようにそろそろと手を伸ばし、美津姫にしがみつく。

「う・・・ん・・・・」

おそらく無意識に、美津姫は剛の背中に腕を回してくれた。


思い出して怖くなる度に、こうして美津姫に抱きつく。

そうすると、剛は少しだけ安心出来るのだった。 




土曜日。

剛は断続的な浅い眠りを諦め、早朝に起き出した。

あまり食欲は無かったが、美津姫のために朝食を用意していた。
連日、引っ越しやその片付けを手伝ってくれている美津姫に、何かしてやりたかったのだ。

色んなことが落ち着いたら、旅行にでも連れて行ってやらなければ。



しばらくすると、美津姫が眼を擦りながら起きて来た。


「また、あまり眠れなかったみたいね」

「おはよう。美津姫は、よく眠れた?」

精一杯の笑顔を、美津姫に向ける。


「うん、ちゃんと眠れた。朝ごはん、私がやるよ」

まだ眠た気に目を擦っている美津姫に、剛は首を横に振った。


「いいんだ。この一週間、美津姫には無理させちゃったからな。朝食ぐらいは俺に作らせて。
もうすぐ出来るから、着替えておいで」


美津姫は子供っぽく頷くと、着替えのために覚束ない足取りで寝室へ戻って行った。




美津姫の両親は、外泊などに厳しいらしかった。
25歳になった今でも、一人暮らしはおろか、平日の外泊すら禁止されていたのだ。

なのに、美津姫はそんな両親に事情を話し、頼み込んで説き伏せ、この1週間ずっと一緒に居てくれている。


剛が会社を休んでいた3日間も、自分は朝から仕事に出掛け、仕事が終わるとまっすぐこの部屋に帰ってきた。
剛がなんとか仕事に行けるようになると、ふたりはわざと時間をずらして出社し、帰りもバラバラに帰宅した。

会社で「同棲している」などと噂になると面倒だからだが、美津姫はその緊張感を楽しんでくれた。

優しさに加え、美津姫のそんな無邪気さにも、剛は救われていた。



 ーーーーーーーーーー



エントランスのチャイムが鳴ったのは、朝食をしたため洗い物を片付けた後だった。


剛がインターフォンを取ってみると、小さな画面には見知らぬ2人組が映し出されていた。

あんな事件があったので、剛は新たな物件選びに於いて、セキュリティーを最も重視したのだった。



「・・・ハイ」

剛が応対すると、画面の中のふたりの男はペコリと頭を下げた。

「小林剛さんのお宅ですね?
おやすみのところ、申し訳ございません。わたくし、中原探偵社より参りました、佐伯と申します。少しお話を伺いたいのですが」


(探偵?探偵だって?)

剛は、小さな画面を凝視した。

映っているのは、何の変哲も無い、サラリーマン風の中年男。
その後ろに控えているのは、若干華奢に見える、カジュアルな服装の若い男だ。


探偵なんて、テレビか小説の中でしかお目にかかった事が無い。

「あの、一体どういった・・・?」

いぶかし気な剛の声に、佐伯はモニター画面へと一歩近づくと声を落とした。


「実は、先日亡くなった、杉岡宏子さんの事で」




前の部屋で使っていた家具は、引っ越しの際にほとんど処分していた。
宏子も以前使っていた家具に囲まれているのが、苦痛だったからだ。


楕円形の、真新しい小さなダイニングテーブル。
美津姫と一緒に選んだもので、2人で使うには充分だ。

美津姫との家具選びは、恐ろしい体験をしばし忘れさせ、束の間の新婚気分を味わう事が出来た楽しい時間だった。


今、そのテーブルの向かいには、佐伯と、助手の渡辺という青年が座っていた。

剛の手元には、佐伯の名刺が置いてある。


佐伯は、ペコリと頭を下げた。渡辺もそれに倣う。

「すみません。渡辺はまだ、助手見習いでして。名刺作ってないんです。

ああ、それと・・・申し訳ありませんが、記録を取らせていただきますよ。依頼主に報告するために必要でしてね」


ダイニングチェアは2脚しか無かったので、仕方なく剛はパソコン用の椅子を持ち出し腰掛けていた。

宏子のことを話すのは気が塞ぐが、生まれて初めて見る『探偵」という生き物に興味を引かれ、それとなく観察してしまう。



佐伯という男は、2週間前に床屋に行って然るべきだった。
わずかに寝グセが残る髪は、きちんと纏まる事を拒否しているらしい。
若干猫背気味のようだが上背があり、よく見ればスーツの上からも無駄の無い強靭な身体が窺える。
がっしりとした首と薄い唇が、意志の強さと明晰さを感じさせなくもない。

年季の入った無個性なグレーのスーツに、アイロンがけの必要がありそうな白いYシャツ。
一番上のボタンを外し、ネクタイはしていない。


渡辺という若い男の方は、よく整った中性的な顔立ちをしており、清潔感があった。
ななめに分けた長めの前髪がほお骨にかかり、華奢な顎のラインを際立たせている。
メモ帳を開きペンを握る指先はよく手入れされており、几帳面な性格が伺えた。

ボタンがアクセントになった、白襟に淡いトーンのチェック柄のシャツ。
その上から綺麗な紺色のニットジャケットを羽織り、ミルクティ色の細身のパンツを合わせていた。
首元に巻いた大判のストールが、全体のバランスを調和させている。


インターフォンの小さな画面ではそれほど感じなかったが、実際目の当たりにすると、探偵とその助手見習いは、少なくともその見た目に於いて好対照を為していた。



剛は目の前のふたりを観察しつつ、答えた。

「宏子の事なら、警察の方に色々聞かれて話しましたよ。でも特に、問題はなかったはずです」

(その衝撃度以外には・・・)

胸の中だけで、呟く。


宏子が飛び下りた翌々日、新居へ荷物を運び出すために部屋に戻ったところで、剛は警察に事情を聞かれたのだった。

30分ほど話し、彼らは剛に同情とお悔やみの言葉をかけ、帰って行った。

はっきりとは言わなかったが、彼らの話し振りから察するに、宏子はマンションの裏口から忍び込んだらしかった。
もちろん裏口のドアにも鍵はかかっている筈だったが、たまたまその鍵が壊れていたらしい。

それを聞いて、あの日美津姫とふたり裏口から逃げ出したのを思い出し、また戦慄したものだ。
自分達が通ったその数時間前、宏子は同じ場所を通って屋上へ上がったのだ・・・




「ええ。警察では、自殺と見ているようですね」

佐伯の言葉に、剛は妙な引っかかりを感じた。


「警察、では・・・?」

思わず眉根を寄せた剛に向かって、佐伯は両肘をテーブルに預け身を乗り出すようにした。

「私どもは、杉岡宏子さんの・・・ご親族からの依頼で、調査しております。彼女の、死の真相を」



(コイツは、一体何を言ってるんだ?)

心臓を、冷たくざらついた手で引き絞られるような気がした。
ただでさえ思い出したくもない出来事なのに、さらに恐ろしい話になる予感がする。

出来る事なら、そんな話など聞きたくはなかった。
一刻も早く忘れさせて欲しかった。


だが一方で、聞かなければならないとも思っていた。

何故、宏子はあんなことをしたのか。何が彼女をあそこまで追いつめたのか。
宏子に別れを告げてから2ヶ月の間に、彼女に何が起きたのか。



覚悟を決めて、剛は佐伯を見つめ返した。

佐伯は落ち着いた表情で、剛の反応を待っていた。
渡辺は目を伏せたままメモ帳にペンを走らせている。



「しん・・・真相って、どういう意味ですか?自殺じゃない、とでも?」

「いや。そうは言ってません。が・・・」


「ですよね。俺は見たんだ・・・彼女は、俺の目の前を落ちていったんです!俺を道連れにするつもりだったんだ!」


遮るように言い放ったその言葉で、またあの瞬間を追体験してしまった。

背筋に震えが走る。
剛は思わず、きつく目を瞑りテーブルの上で両手を握りしめていた。

意識してゆっくりと息をつく。
細く長く、吐き出す息が震えていた。



「いやあ、お辛い事を思い出させてしまいましたね。申し訳ない。ただね、私がお話を伺いたいのは・・・」


「失礼します」

美津姫がお茶をトレイに載せてやって来たので、佐伯は言葉を切った。


お茶を配る美津姫に、ふたりは黙礼する。


「ありがとう。美津姫」

無理に硬い笑みをこしらえ、剛が美津姫の気配りを労う。

美津姫はそんな剛に励ますような微笑みを返し、客に会釈して退出しようとした。


「ちょっと、待って下さい」

佐伯が美津姫を呼び止めた。

「私がお話を伺いたいのは、あなたです。茅島美津姫さん」




「私がお話を伺いたいのは、あなたです。茅島美津姫さん」



「・・・へ?」

緊張状態の中で意外な言葉を聞いた剛は、思わず間抜けな声を発してしまった。


「イヤあの・・・彼女は関係無いです。宏子とは面識も無いし」

美津姫を庇う様に、キャスターの付いた椅子で彼女の側ににじり寄る。


そんな剛に構わず、佐伯は美津姫をまっすぐに見据えて言った。

「茅島美津姫さん。あなたは、杉岡宏子さんとは高校の同級生ですね?」



「・・・・へ?」

またもや、剛は間抜けな声を発した。
間抜け面のまま、美津姫を見上げる。

美津姫は心持ち目を見開き、佐伯から少し視線を外したまま、トレイを胸に抱えて固まっている。


「同級生、って・・・え、美津姫?」


佐伯が目配せすると、渡辺は足元の鞄から大判の本を取り出した。

立派な紙のケースを外し、豪華な装丁の本の付箋を貼ったページを開く。

それは、卒業アルバムだった。



「ここ。これが、杉岡宏子さん。そうですね?」

佐伯はクラス写真の一角を指し示し、剛に確認を求めた。

佐伯の指の先には、覚束な気に微笑む宏子の顔があった。
笑顔を作ろうかどうか、思案している途中のような表情だった。


「あ、ハイ。そうです・・・」

このアルバムは、前に一度だけ見せてもらった事があった。
「高校時代、あまりいい想い出が無いから」と渋っていた宏子を、拝み倒して見せてもらったのだ。

一瞬、懐かしい想いにとらわれかけたが、今はそんな場合ではない。


「で・・・こちらが、茅島美津姫さん」

宏子の斜め前、最前列に指を滑らせる。



そこには、全くの別人が写っていた。


小麦色に日焼けし、脱色したパサつく髪をくるくる巻いて、派手なメイクとネイルでポーズを決めている。


「み、みつき?・・・・これが?」


剛は、目の前にいる美津姫と写真を何度も見比べた。

集合写真の下にはクラス全員の氏名が印刷されており、その少女は間違いなく美津姫であるらしかった。

一方、目の前にいる女性は、清楚で控えめ。いつも優しい笑顔を浮かべ・・・


「美津姫・・・?」


そこに立っているのは、ふてくされたような表情でテーブルの一角を冷たく見下ろしている女だった。





「しかも最近、あなたは何度も宏子さんと連絡を取り合ってましたね?」


「え?・・・ちょ・・」

佐伯の言葉が理解出来ず、剛はただオロオロするばかりだ。



「だから、何?!」

初めて聞く、低く太い声。
金属的な雑音が籠り、下品に響く。



佐伯が落ち着いた様子で渡辺に目配せすると、渡辺は足元の鞄から薄いファイルを取り出した。

「ありがとう」

ファイルを受け取ると、佐伯は書類を取り出しテーブルの上に広げてみせた。


「お宅にお邪魔して、お母さまの了解の元、電話と2台のパソコンの履歴を調べさせていただきました。
こちらが、それをプリントアウトしたものです」


「そしてこれは、宏子さんの携帯とPCに残されていたものです。
遣り取りの内容が綺麗に残ってましてね」


佐伯は書類を順番に指し示し、畳み掛けるように言葉を継ぐ。

「あなたは複数のハンドルネームを用いて、宏子さんとチャットされています。そして・・・」

「自殺の前日。ご自宅の固定電話から、宏子さんの携帯と通話されています」



「え・・・」

(チャット?複数のハンドルネーム?宏子と電話?)


「ちょ、ちょっと待って下さい。俺には、何がなんだかサッパリ・・・」

混乱した剛が割って入った。
うわずった声が、動揺の大きさを物語っている。



佐伯は剛に向き直ると、噛んで含めるように言った。


「つまり、美津姫さんと宏子さんは友人同士だった。
去年の終わり、宏子さんが美津姫さんにメールを送り・・・ふたりは会う約束を交わした」

一枚の書類、宏子の携帯メールのコピーを指差す。

「およそ1ヶ月後、複数の人物と宏子さんとのチャットが始まった。
内容は、見ていただければわかるとおり、恋愛相談・・・というか、失恋を慰めるような内容ですね」

佐伯は数枚の書類を滑らせるように剛の前へ押しやった。

「ですが徐々に、宏子さんを追いつめるような内容に変わって来た」

「・・・」

剛はおそるおそる、目の前の書類に手を伸ばした。


その時。

美津姫の手がサッと伸び、剛の手の中の書類を鷲掴みにすると、間髪入れず壁に向かって投げつけた。

そのほとんどは壁に届かず、バサッと音をたてて部屋中に舞った。


部屋に散乱する書類の中、驚愕する剛に構わず、美津姫は胸に抱えていたトレイをふてぶてしい態度でテーブルに放り出した。

トレイが大きな音を立てる。
湯のみが倒れ、テーブルにこぼれたお茶が書類の一部を濡らした。


「な・・・な・・・・」

先ほど美津姫を庇うようににじり寄った椅子が、後ずさりしてゆく。



「だから、何なの?!つーか、アタシが誰とチャットしようがアンタに関係なくない?!」



美津姫はこんな言葉遣いはしない。
こんな金属的な、刺々しい耳障りな声なんて出さない。
可愛らしくて、少し鼻にかかるような甘い声で・・・・

「ひょっとして、双子の姉妹でもいらっしゃいますか?」

剛は一瞬そう訊ねようかと思ったが、もちろんそれは現実逃避だった。




「これらの資料から推測しますと・・・」

佐伯は全く動じる様子も無く、放り出されたトレイに湯のみを片付けながら、淡々と話を進める。

「宏子さんからのメールで、お二人は久々の再会を果たした。
そこで、宏子さんに結婚を考えている彼氏の存在を明かされた。

一緒に食事した後、貴女はそのまま宏子さんのアパートの部屋に泊まった。
おそらくその時に、彼女のブログや、出入りしている掲示板を見つけたのでしょう」

美津姫を見上げた佐伯の視線につられ、剛も視線をあげた。

上唇を引き攣るように歪ませ佐伯をねめつけているこの女は、一体何者なんだ・・・?

背筋がぞわりと粟立ち、剛は壁際まで後ずさりした。



「宏子さんのPCを、盗み見ましたね?」

冷静な佐伯の声に、美津姫がいきなり逆上した。

「何よ!悪い?!見られたくなきゃ、ロックでもしとけばいいでしょ!!
パソコンも携帯も、その辺に放り出してあったんだから!
勝手に見れる様にしとく方が悪いんじゃない!!」



「・・・確かに、一理ありますね」

信じられない事に、佐伯はそう言って頷いた。
まるで同意を示すかのように、微かな笑顔さえ浮かべて。


その反応に、美津姫の口の端が満足気に吊り上がった。
微笑みとはほど遠い、狡猾で幾分得意気な表情だ。


「宏子さんとの再会からおよそひと月後、貴女は剛さんの会社に配属された。
貴女が、担当者に強く希望を出されていたそうですね」

佐伯はテーブルの上の散らばった書類を束ねながら、世間話でもするような口調になった。
お茶で濡れたところを、ハンカチを取り出して拭き始める。

「きっと、優秀な社員でいらっしゃるのでしょうねえ。このご時世、そうすんなり希望が通るとは」


のほほんとした口調の中に、若干の皮肉を含んでいる。
だが、美津姫は気づかなかったようだ。



「そこで、剛さんと運命の出会いを果たした。
イヤ失礼、運命ではありませんね。巧妙に仕組まれた出会い、ですね」

佐伯の口調が、徐々に冷ややかなものに変わっていく。


「貴女は、宏子さんのブログや彼女とのメール・電話の中から、ひと月かけて剛さんの理想の女性像や好み、趣味などを聞き出し、データを集めていた。

髪を黒く染めパーマも落とし、ファッションもメイクも変えて、剛さんの理想の女性に変身し、準備万端整えて職場に登場した。大したものです」


テーブルの上の書類を集め終えると、佐伯は床に散らばった書類を集め出した。
渡辺もそれに倣い、黙って書類を拾い始める。


「まんまと剛さんをゲットすると・・・おっと、失礼。ちょっと下品でしたね。
えー、失恋を報告する宏子さんのブログに、励ますようなコメントを書き込んだ。もちろん、偽名で。

さらに、宏子さんが使っていた掲示板等に別の偽名で出入りして、宏子さんと仲良くなっていく。やがてずっと小規模な掲示板に宏子さんを誘導した」


あらかた拾ってしまうと書類を渡辺に渡し、再びダイニングチェアに腰を降ろした。

「小規模な掲示板で、あなたは複数のハンドルネームを操り複数人を装った。初めは慰め、励まし、宏子さんを元気づけていた・・・
傷ついていた宏子さんは、そんな彼女達に徐々に心を開き信頼を深め、慰めを見いだしていった。

しかし徐々に、彼女達は宏子さんを煽っていくような流れに変わって行った。

愛しているなら、彼を手放してはいけない。
剛さんは貴女とじゃなきゃ、幸せになれない。
剛さんはきっと、その女に騙されているだけだ。

貴女は剛さんを魔の手から救わなければ・・・」



剛に届いた、宏子からのメール。
その内容にそっくりだった。

剛は漸く理解した。
宏子を追いつめておかしくしていったのは、他でもない、美津姫だったのだ・・・・



「そして、宏子さんの、自殺前日です。その日のチャットの記録によれば・・・

『剛さんの新しい彼女から電話がかかって来た。
結婚を前提に、明日から同棲することになったので、もうメールや電話をしないで欲しいと言われた』
とあります。


そのチャットの少し前、貴女のご自宅の電話と宏子さんの携帯電話の通話記録が残っている。

宏子さんが貴女の自宅の電話番号を知らなかったのを幸い、横着にも自宅から電話したわけだ。
素性を隠し、新しい恋人のフリをして・・・と言うのも変ですね。だって、実際に新しい恋人は貴女なのだから。


要は、宏子さんの知っている普段の貴女の声色を変え、
宏子さんの知らない電話番号から、別人を装って電話した、と。」


渡辺が、綺麗にまとめ直した書類を佐伯に手渡した。
佐伯は美津姫に向け、それを顔の前で振ってみせる。

剛はと言えば、恐ろしさと混乱のあまり、もう美津姫を見る事が出来なかった。

剛は気付いてしまったのだ。
美津姫が家に泊まりにこなかったのは、おそらく、親が厳しかったせいじゃない。

宏子を追いつめる為だ。
連日、長い時間をかけて、じわじわと宏子を追いつめていったのだ。



「ここにすべて残っています。貴女が複数の名前を使い、宏子さんを追いつめていく様子が。

私なら、彼の裏切りを許せない。
私なら、彼をみすみす不幸にしたりはしない。
私なら、道連れにして自分と一緒に死ぬ。その方が彼にとって幸せだ。

さすがに、宏子さんも怖じ気づいた」


そう言って、佐伯は剛に視線を戻した。

「そりゃ、そうですよね。宏子さんは、一度は諦めたものの、剛さんの心をなんとか取り戻そうと思い直し、必死になっていた。
それがいきなり、無理心中を推奨され始めたんだから」

労るような眼で剛に頷きかける。


「ところが、明け方まで数人がかりで寄ってたかって責められ、煽動され、追いつめられ、宏子さんは冷静な判断力を失っていった・・・

心中の方法まで、細々とご丁寧に提案してありますね。
しかも、いくつかの方法を挙げておいて『一番成功率の高い方法』を、宏子さん自身に選ばせるよう仕向けている。
大したもんです」

佐伯は、さも感心したようにため息をついた。

「ここまで見事に他人の意思をコントロールするなんて、なかなか出来るもんじゃありませんよ。ホント、スゴいですよ。美津姫さん」



剛は信じられない思いで佐伯を盗み見た。
感心したように頷く様子は、皮肉を言っているようにも見えない。

コイツは何を言い出したんだ・・・?
確かに、人の意思をコントロールするなんて、凄いことかもしれない。
だが、美津姫のやった事は・・・・



しかし、美津姫の反応はさらに信じ難いものだった。

「そんなの、簡単よ。宏子は昔から馬鹿だったもん。
自分に自信がなくて、すぐ人の意見に左右されるの。
思い込みも激しいし根暗だしすぐ騙されるし。チョロいよ。フフン」

馬鹿にしたように嗤うその声には、得意気な響きさえ感じられた。

剛は耳を塞いでしまいたかったが、身体はピクリとも動かなかった。


「何故、他の方法ではなく、飛び降りを提案したんです?
もし失敗したら、とは?剛さんを巻き込んだら?とは、思わなかった?」

「ハァ?失敗?・・・・結局成功したんだから、別にいいじゃん」


美津姫の小馬鹿にした様な口調に、剛は再び呆然とするしかなかった。

宏子の命も剛の身の安全も、美津姫にとっては取るに足らないものなのだ・・・


「包丁使って、とか?そういうんだと、体力差で負けちゃうだろうしぃ。電車のホームに突き落とすとかだと、近づく前にバレるかもしれないし、他の客に気付かれて止められちゃうかもしれないしぃ。

・・・だからえっとぉ、飛び降りはね、前に遊びに来た時、向かいのビルにあのマンションの屋上が映って見えたからぁ。それで思いついた。

ま、でも。本当にやるとは思ってなかったけど。
ってか、上手くいけばラッキー♪みたいな?」




「上手くいけば?!・・・上手くいけばラッキー、だと?!」

突然、渡辺が椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。

今まで佐伯と美津姫にばかり気をとられて気づかなかったが、渡辺の顔からは血の気が失せ、真っ白になっている。


「お前!!!自分が何したかわかってんのか?!
お前は、宏ねえを殺したんだ!!お前が殺したんだ!!この、人殺し!!!」

その中性的な顔立ちには似合わぬ険しい眼で、渡辺が美津姫を睨みつける。
固く握ったこぶしが、ブルブルと震えている。


「ッハァぁああ?コイツ、何言ってんの?」

美津姫は鼻であしらうように吐き捨てた。

「そんなの、アイツが勝手に飛び下りたんじゃん。
アタシが突き落としたわけじゃないし」


「お前が、お前が宏ねえを散々追いつめたんじゃないか!」

美津姫は、「ハッ」と息を吐いて嘲笑った。

「アンタ、何なの?バカなの?ちょっと何か言われたくらいで死ぬとか。

じゃあアンタも死になよ。ホラ、死ねって言われたら死ぬんでしょ?
オラ、さっさと死ねよ!」

ダイニングテーブルの脚を、美津姫が蹴飛ばした。テーブルが渡辺の腿にぶつかる。

 


「てめええええ!!!」

美津姫に掴み掛かろうとした渡辺を、佐伯が素早く取り押さえた。


美津姫は剛に駆け寄り、隠れるように腕に縋る。
だが剛は反射的に、その手をはね除けた。

美津姫はハッとしたように剛を見つめると、一転、目を吊り上げた。
鼻の穴が膨らみ、口が歪む。

人間の顔は一瞬でこんなにも変わるものなのだと、剛は初めて知った。



「ぎゃあああああ!!助けて!!殺されるぅーーー!!!助けてえええ」

いきなり金切り声を上げながら身を翻すと、美津姫はすぐ側のベランダの窓に飛びつき開け放ち、外に向かって叫ぶ。

「助けてーーーー!!!誰か、警察呼んでーーー!!」



渡辺を羽交い締めしたまま、佐伯が冷静に言った。

「被害者を装っても無駄ですよ、美津姫さん。先ほどからの会話は、全て録音されています。
さらに、動画も撮影していますから」

佐伯は胸ポケットに差したペンを指し示した。
ペン型の録音機材なのだろう。


美津姫は鬼の形相で振り向いた。

「はあああ?何それ!聞いてないんですけど!!盗撮!それって盗撮だから!!訴えてやる!!」

佐伯はニッコリ笑った。

「いえ。盗撮にはなりません。家主の剛さんに、あらかじめ『記録をとる』ことはお断りしてありますから」

鬼の形相のまま、美津姫は剛の方へ振り向いた。
剛は壁にへばりつき縮こまったまま、カクカクと頷く事しか出来ない。

確かに、『記録をとる』ことを了承していた。
ただそれは、『渡辺がメモをとること』を指しているのだと思い込んでいたのだが、もちろんそれを告げる気にはならなかった。



「まあ皆さん、落ち着いて。渡辺くん、座りなさい」

佐伯は椅子を立て直し、渡辺の肩を押さえて座らせた。
その後ろを回り、渡辺と美津姫の間に割って入る。


「貴女は今、『ちょっと言っただけで死ぬ』と言いました。
だが、貴女のやった事は、それだけじゃない」

書類をパラパラとめくり、数枚の画像を取り出す。

「土曜の深夜。マンション裏口の、防犯ビデオの映像です。
扉の鍵がかからないよう、細工をしたのは貴女ですね」


そこには、裏口の扉の側にしゃがみ込む美津姫が写っていた。
寝間着の上にカーディガンを羽織っている。
画像が荒くてハッキリとは見えないが、手に持っているのは小さなセロハンテープのようだ。

もう一枚の画像には、立ち去る美津姫の姿だ。
その表情は、事を成し終えてほくそ笑んでいるように見えた・・・


「宏子さんには事前に、チャットの中で、マンションに侵入しやすいであろう時間帯を”アドバイス”してあった。

その上で、彼女と鉢合わせしない時間を見計らい、夜中に部屋を抜け出して、外から侵入しやすいようドアに細工したのでしょう。
鍵を壊す時に大きな音を立てられては、他の住人に見つかってしまう怖れがありますからねえ」


「・・・そうよ。だからって何よ!!さっき言ったでしょ!
アタシが突き落としたわけじゃない!!アタシが殺したんじゃない!
宏子は自分で飛び下りたんだからね!!」


足を踏み鳴らしながら顔を真っ赤にして怒鳴っている美津姫を見て、痺れたようになっていた剛の頭は、ようやくまともに動き出した。


 この女、狂ってる・・・・





「アタシがやったのは、チャットで話しただけ!!
ちょっと扉に悪戯しただけ!!

これが罪になるの?!なるわけないでしょ!!」


「さあ・・・どうでしょうねえ。私はしがない探偵なんでね。
法律とか、詳しくないんですが・・・

まあ、これだけで罪に問うのは、難しいでしょうねえ」


佐伯の言葉に、イライラと髪を掻きむしっていた美津姫の手が止まった。


「ほら!ほら見なさい!あれは宏子が勝手にやったこと。
アタシは悪くない。法律がそう言うんだから!あははは!」

一転、得意満面で渡辺を見下ろし嘲笑う。

笑っている筈なのに、目は吊り上がり口は歪み、まるで般若の面の様だった。


佐伯はそんな美津姫から目を逸らさなかったが、片手をテーブルにつき、背中で渡辺を牽制していた。

佐伯の背中越しに、渡辺は燃えるような眼差しで美津姫を睨みつけている。



「ところで・・・貴女は何故、宏子さんを殺そうと思ったんだろう。
小林剛さんを奪うだけなら、何も殺す事は無かったんじゃないのかな?」

佐伯の問いに、美津姫は少しの間押し黙った。
眉を寄せ、目つきが険しくなる。

「だって、知り合いだって事、あとでバレたら面倒だし。死んでくれればラクかなって。

「法に問えない(かもしれない)」と言われた為か、宏子を「殺した」という佐伯の言葉を認めてしまっているが、本人は気付いていない様だ。



「それにアイツ・・・アタシを見下したのよ。
『美津姫ちゃんも、いつまでもフラフラしてないで結婚すればいいのに』とか言って」


「そんなことで・・・・?!」

呆然と呟いた渡辺を、ものすごい勢いで睨みつける。

「そんなことおおお?!冗談じゃないわよ!!宏子の分際で!!
な んであんな地味で冴えない女にそんなこと偉そうに言われなきゃならないわけええ?あいつは一生アタシの引き立て役やってりゃ良かったのよ!大体なんでアタ シがハケンなのにアイツが正社員なワケ?ずるいじゃない!そのうえアタシを差し置いてそこそこのエリートと結婚とか絶対絶対許さないし!結婚式に呼んでも いいかとか良いわけねえっつーのそんなもん行くわけねーし生意気なんだよ宏子のくせに!!!」

極限まで目を剥き、唾を飛ばしながら一気にまくしたてる美津姫の姿は、壮絶だった。
顔はどす黒い赤色に斑に染まり、目はギラギラと光っている。


さすがに渡辺も息を飲んだ。
怒りのこもった燃えるような視線から、狂人を見るような目つきに変わっている。


フーフーと荒い鼻息をつきながら、美津姫はなおもまくしたてる。

「大体、『宏ねえ』とかって、アンタ何なのよ!!
アンタみたいなオカマ野郎に、なんでアタシが怒られなきゃなんないのよ!」


鬼神のような美津姫に睨みつけられ、渡辺は一瞬ギクリと身を固くした。
そして、何か熱いものをグッと飲み下すような表情をした。

「俺は、俺はオカマなんかじゃない!」


渡辺を守るように、佐伯は穏やかな声で話を引き取った。

「実は・・・渡辺くんはね、宏子さんの従弟にあたる方です。
そして、この案件の依頼者でもあります。宏子さんが自殺するなんて考えられない。理由が知りたい、と」


「理由ならわかった。このキチガイ女が」

「誰がキチガイ女よ!!キチガイは宏子の方じゃない!
普通の人は、あんなことしないから!アタシが怒られる筋合いじゃないし!!」

「だから、それはお前が・・・大体、怒られるとかいうレベルの話じゃないんだよ!人が死んでんだぞ!・・・お前のせいで!お前のせいで!」


「渡辺くん」
佐伯は振り返ると、渡辺のほうへと屈み込んだ。

「無駄だよ。この人には、まともな話をしても通じない。
頭がオカシイんだ。見ていて、よくわかっただろう?」

渡辺の足元の鞄から、ペットボトル入りの水を取り出し、キャップを外して渡す。

「いくら怒鳴ったって、いくら責めたって、こういう輩は絶対に謝ったりしない。反省もしない。
どれだけ怒鳴っても、君の喉が痛くなるだけだ」

渡辺は水を受け取ったが、飲もうとはしなかった。
怒りのあまり息を荒らげながら、美津姫を睨み続けている。




「さあ。そろそろ帰りましょう。さっき君も言ったとおり、理由はわかった。宏子さんを追いつめたのが、どんなクズ人間かもわかった。もう、ここに用は無いだろう」

佐伯はファイルを鞄へと仕舞いかけたが、思い直したように剛に声をかけた。

「これ、よろしければ差し上げます。落ち着いたら、読んでみるといいですよ。・・・・色々、スゴいですから」

テーブルの上を滑らせるようにして、ファイルを剛の前に置いた。



黙っていなかったのは美津姫だ。

「ちょっと!待ちなさいよ。人の事キチガイだのクズだの散々言っておいて、このまま帰れるとでも思ってんの?」

美津姫が佐伯に詰め寄る。



これ以上、何を言う気だ?
もう勘弁してくれ。終わらせてくれ・・・・

剛は祈るような気持ちで、目の前のファイルを凝視した。
そうしていれば、美津姫を見ないで済むような気がしたからだ。



「謝んなさいよ!土下座してよね!」

佐伯はそれを無視し、淡々と帰り支度を続ける。


美津姫は更にヒステリックに叫び、床を踏み鳴らす。

「謝らない気?アンタ達、訴えてやるから!!」



佐伯は顔を上げ、美津姫に向かってニッコリと微笑んだ。
が、その目は全く笑っていなかった。


「冗談も程々にしましょうね、茅島美津姫さん。
訴えて損をするのは、貴女ですよ。そんなこともわかりませんか?
全ての資料、この会話の録音。公にされたらどうなるか、考えてからものを言うべきでしょう」

その口元は微笑み、声もごく穏やかだった。
だが、今の佐伯は凄まじい威圧感を放っていた。

さすがの美津姫も、気圧されて言葉を飲み込む。


「それより、早く逃げた方がいいんじゃないですか?茅島美津姫さん。
さっき貴女が大声を上げたせいで、ご近所の親切な方が本当に警察を呼んでいるかもしれません。
そうしたら、全ての資料を警察に提出する事になりますよ。我々が捕まったんじゃ、かないませんからねえ」


美津姫はしばらくの間佐伯を睨みつけていたが、何も言わずに寝室へ向かった。
ドスドスと足音も高く、力任せにドアを閉める。

乱暴な仕草で自分の荷物を掴むと、こちらを一瞥もせずに玄関を出て行った。


玄関のドアをくぐる時、小さく「あの、クソババア・・・」と呟くのが聞こえた。

佐伯に電話やパソコンを調べさせた母親のことが気に喰わないのだろう。




「やあ・・・あれは家に帰ってから、相当荒れそうですねえ」

とぼけた口調で、佐伯が呟いた。


「さ、我々はおいとましましょうか。では小林さん、お邪魔しました」

険しい表情で玄関の方を睨んだまま黙りこくっている渡辺を立ち上がらせ、佐伯は剛に向かって頭を下げた。


「まっ・・・待って下さい!」

「独りにしないで」という言葉が喉まで出かかったが、剛はなんとかそれを飲み込んだ。
我ながら情けないことだが、今この部屋にひとり残されたら、発狂してしまいそうだ。


「俺・・・その、まだ混乱してて・・・あの・・・」


「まあ、無理も無いでしょうねえ」

佐伯の同情的な声に、剛は少しホッとした。

「でも、本当に警察が来たら面倒ですから、我々は退散しますよ。
もしよろしければ、一緒に事務所の方へ行かれますか?」


ありがたくその申し出を受けようとしたその時、渡辺が抗議の声を上げた。

「そんなヤツ、ほっとけよ!!コイツは宏ねえを捨てたんだ。
あんなキチガイ女なんかにコロッと騙されやがって!」


返す言葉も無かった。


黙って俯く剛に同情したのか、佐伯はとりなしてくれた。

「まあまあ、そう言わずに。さ、一緒に行きましょう」




 ーーーーーーーーーー


「あの、クソババア・・・・」

美津姫は歯ぎしりしながら、高いヒールをアスファルトに突き立てるように猛然と歩きだした。

前方を睨み据えていたが、何も目に入ってはいなかった。

すれ違う人々が、怯えたように自分を振り返るのにも気づいていない。


(母親のくせに、いつだってアタシの邪魔ばかりする。アタシのやる事為す事、いちいち文句つけてくるし超ムカつく。今回だって大喜びでパソコン差し出したに決まってる。超ムカつく超ムカつく超ムカつく!)

持っていたバッグで、自販機の横のゴミ箱を殴りつけた。
倒れはしなかったものの、ゴミ箱はグラグラと揺れている。

それに見向きもせずに、美津姫は肩を怒らせ前のめりになって歩き続ける。

(大体、剛だって何なのよ!あんぐらいでビビりやがって。正直死んでくれてラッキーとか思ってたに決まってる。偽善者ぶってんじゃねーよ。いつまでも毎晩ブルブル震えたりとかウザイんだよ。あんな男、もうどうでもいいし。ってかそもそもタイプじゃなかったし!)


目の前を親子連れが歩いている。
通行の邪魔だったので、追い越しざまに母親の肩に思い切りぶつかってやった。

母親が何か声を上げているが、無視して歩き続ける。

(チンタラ歩きやがって。うぜえんだよ)


美津姫は今、その目に映るもの全てを憎悪していた。

(あ んな女のひとりやふたり、死んだってどうってことない。地味でバカでおどおどヘラヘラしてたくせに。ちょっといい大学に行けたのだって、カレシも友達も出来ずに毎日毎日勉強しかやることなかったからだし!正社員になれたのだって親のコネかなんかに決まってるし元々はアタシの方が成績も良かったし断然カワイイし友達も多かったしなのになんで宏子ばっかりいい目見てんのよあんなやつ死んで当然なんだからアタシは悪くない)


目をギラギラさせながら猛然と歩いていたら、駅を通り過ぎていたことに気づく。

美津姫の苛立ちはピークに達した。

叫び出したいのを抑え歯ぎしりしながら、駅に向かおうと踵を返すと、誰かにぶつかった。


「あ、すいませ・・・」

謝って来た相手を睨みつけると、怒鳴りつけた。

「どこ見て歩いてんのよ!!」


「え、いや、そっちが急にUターンして」
「うるさいうるさいうるさい!!!」

怯えて咄嗟に鞄を抱きかかえた気弱そうな若者を遮り、美津姫は怒鳴り散らし始めた。

「アンタがボーッと歩いてるからでしょ?!クチゴタエする暇があったらあやまんなさいよこのデブ!!キモイんだようざいんだよ!大体いつも・・・アタシが・・・・」


もう、美津姫が何を叫んでいるのか、誰にも聞き取れなかった。

例えて言うならその罵声は、金切り声のモールス信号のように聞こえた。


目を血走らせ口から泡を飛ばし、地団駄を踏みながら甲高い声で怒鳴り散らす美津姫の姿に怯え、相手の男は逃げて行った。

それでもまだ喚き続ける美津姫を、人々は遠くからチラリと見やりそそくさと離れていく。

子供連れの主婦たちは、子供の手を引いて足早に逃げて行った。


 ーーーーーーーーーー



「コーヒーでも飲みましょうか。事務所の近くに、行きつけの喫茶店があるんですよ」

ハンドルを握る佐伯が、後部座席に深く沈む剛に声をかけた。

「・・・・はあ」

どちらともつかないその返事に、助手席の渡辺は舌打ちしてそっぽを向いた。



美津姫が駅前で騒ぎ立てていたその頃、3人は事務所へ向け車を走らせていた。

剛は思考停止したまま、窓の外にぼんやりと目を向けている。
様々な景色が前から後ろへと飛び去るのを眺めている間は、何も考えずに済んだ。


しばらく走ると細い道へ入り、佐伯は車を止めた。

オフィス街の様で、大小さまざまなビルが建ち並んでいる。
だが、日曜の午後とあって、周りは閑散としていた。


佐伯に促されるまま、剛は後について行った。

重そうな木の扉を押すと、カウベルの素朴な音が響く。


「いらっしゃいませ」

店主の落ち着いた声が出迎える。
佐伯はやはり常連らしく、3人は当然の様に一番奥の席に通された。


「コーヒーでいいかな?」

頷きかけた剛だったが、「あ、イヤ・・・」と声を上げた。

コーヒー、と聞いて、あの朝のことが甦ってしまったのだ。


宏子が飛び降りる直前、剛は美津姫の淹れたコーヒーを飲んでいたのだった。

あのときの幸せな気分、その直後の衝撃、つい先ほどの美津姫の豹変・・・それらが一瞬でフラッシュバックした。

剛は思わず手を額にやった。

額は、冷たい脂汗で湿っていた。




結局、剛はホットココアを、佐伯達はコーヒーをオーダーした。


「さて」

佐伯は水をひとくち含むと、切り出した。

「お疲れさまでした。これで依頼の件は終了したわけですが・・・この後、どうしますか?渡辺くん」

「俺は」

すぐさま、渡辺は言葉を返した。
おそらく車の中でずっと考えていたのだろう。

「俺は、アイツに復讐したいです。宏ねえの仇を討つんだ」


「ふうん・・・やはりそう来ますか」

佐伯は腕組みをして、背もたれに寄りかかった。
剛の隣で、椅子がギィッと音を立てる。

「私としてはまず、調査結果を渡辺くんのご両親に見せるべきではないかと」


「ああ・・・それは、うん。見せようと思います。で、復讐」

佐伯は片手を挙げ、言い募ろうとする渡辺を遮った。

「そのうえで、宏子さんのご両親にそれを伝えるかどうかを検討する」


渡辺は一瞬黙り込んだ。そこまで考えていなかったのだろう。

「・・・検討?どうして?もちろん報告はします。
伯母さんも伯父さんも、宏ねえが自殺じゃないと知ったら、少しは救われる。
そして、アイツに殺された事を知ったら、きっと復讐したいと思うはずだ。
アイツは罰を受けるべきです」


「少しは救われる。それは、そうかもしれない。・・・ただねぇ」

佐伯は、小さなため息をついた。

「復讐は、お勧め出来ないな。相手が悪い。それに、警察も取り合わないでしょう」

「どうして?!こんなに証拠が揃ってるのに」


そこへ、飲み物が運ばれて来た。

数秒間の沈黙。
芳しいコーヒーと、ホットココアの甘い香りが混じり合う。




オーナーが立ち去ると、渡辺は再び口を開いた。

「佐伯さん、確かさっきもそう言ってたけど、何故アイツを罪に問えないんですか?」

「うん・・・」

佐伯はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜている。

「ネット上で偽名を使うことなんて誰でもやってることだし・・・
裏口の扉への細工にしてもね、防犯ビデオを見る限り、おそらく丸めたセロテープか何かを鍵の中に詰めただけなんだ。
鍵を壊したわけでもないし、住民が何度か開閉するうちに 詰めたセロテープも自然に落ちて、既に捨てられているだろうね」


「でも・・・でも!!あんなに悪意に満ちて・・・会話だって録音に残ってるじゃないですか」

「そう。その内容も微妙なところなんだな。”明確な”殺意の有無、という点でね。彼女も言ったとおり、彼女自身が手を下したわけじゃない。
だが、それ以前に・・・」

悔しそうに唇を噛む渡辺を、労るような目を向けた。

「警察ってところは、一度出した結果を覆すことは、まず無い。
よっぽど決定的な証拠が無い限りね。この程度の証拠では、無理だと思う」



渡辺は、押し黙ってテーブルの上のファイルを睨んでいる。
剛が家を出る際に、無意識に掴んで持ってきていたのだ。


「じゃあ、俺が、直接・・・・」
「制裁を加える?」

佐伯が続きを引き取ってそう言うと、渡辺は我が意を得たりとばかりに頷いた。


「さっきも言っただろう。相手が悪いって」

小さくため息をつき、佐伯はコーヒーをひとくち啜る。

「あの娘は頭がオカシイよ。見ただろう?
理屈も道理も通じない。倫理?道徳?善悪?そんなもの、自分の欲望のためには一顧だにしない。
そういう種類の人間は、少なからず存在するんだ。恐ろしい事にね。

君は同行してないけど、あの娘の両親も同類だったよ。
父親は彼女を溺愛するだけ。母親は彼女を憎んでる。実の娘なのに。
娘は娘で、父親を利用し母親を蔑んでる。救いようの無い家族関係だ」

渡辺はしかめ面でファイルを睨んだままだ。
おそらく、そんな家族関係を上手く想像出来ないのだろう。


「こちらから攻撃しようものなら、死にもの狂いで反撃してくるだろう。
母親はともかく、父親は完全に娘の味方だからね。
ああいった連中はね、自分のしたことはまるっと棚に上げて、相手を徹底的に非難するんだよ。
どちらに非があるかなんて関係ない。自分の意に染まない相手は、執拗に責め立て搾り取り叩き潰しにかかる。

特にあの娘は、周囲を騙すのが上手い。自分を魅力的に見せる術に長けている。
他人の印象や感情を操るのなんて、朝飯前なんだ。

もちろん、長期間に渡って騙し続けることは難しい。
職歴を見ればわかるよね。派遣社員とはいえ、どの職場も一年と続かない。まあ、すぐにボロが出るんだろうね」

ファイルを指でトントンと突つきながら、佐伯は淡々と話し続ける。


「いいかい?想像してみて欲しい。
あの娘が被害者面して君の周囲を抱き込み、君自身はもちろん、君の家族や親しい人をメチャメチャに傷つけるかもしれないんだ。
精神的に叩きのめす、或はなりふり構わずに身体的な危害を加える可能性もある。
学校や職場にも被害をもたらす。家族や親戚、近所の人達にも。

まさかそこまで、と思うだろ?
でも、やるんだよ。本当に、徹底的に。

その執念と能力を他へ向ければ、大成出来そうなものだけどね。不思議な事に、ああいった連中は搾取と復讐しか頭に無いらしい」



唇を噛み締め黙り込んでしまった渡辺に、佐伯は畳み掛ける。

「人間の精神なんて、あっけなく壊れてしまうものだよ。
特に、心が深く傷ついていたり、身体的に追いつめられていたり・・・例えば、極度の睡眠不足とか飢餓状態とか、そういう状況下ではね。

優しい両親の元ですくすくと育った君みたいなお坊ちゃんに、渡りあえる相手じゃないんだよ」


佐伯は身体を起こし、目の前のスプーンを指先で弄び始めた。

「仮に、首尾よく復讐を果たしたとしよう。だが、彼女は実に執念深い。自分を傷つけた相手を絶対に許さない。わかるだろ?
忘れた頃に復讐の復讐があるかもしれない。彼女の辞書に、「自業自得」なんて言葉は無いんだ。

それでも、どうしても、復讐したいと言うなら‥‥そういうのが得意な同業者を紹介出来なくもない。その覚悟があるなら、ね」


一縷の臨みに顔を上げた渡辺は、思わず息を飲んだ。


表情は穏やかだったが、佐伯は恐ろしい目をしていた。

底冷えする様な冷たい光がキラリとよぎる。
こちらの心の奥に切り込み見透かしながら、自分の感情は一切表さない瞳。
ぬるりとした皮膜に覆われた眼球は、その鈍い光で渡辺の視線をはね返すのみだ。

先ほど美津姫と対峙した際の威圧感とはまた別種の圧力を、佐伯は発していた。目を背けたくなるようないくつもの修羅場を見てきたものだけが纏う、特別な空気。
本能的に、深く関わっては危険だと思わせ、距離を取りたくなる。


「周到に立ち回るには、もちろん金も時間もかかる。だから、正式に社を通すことになる。当然、今回のサービス価格の何倍もの金額になるだろうね。
そして、行動の大半は工作員がやるにしろ、君らは金だけ出して終わりってわけにはいかない。家族もろとも強靭な精神力が必要になる。下手したら何年も、キチガイと闘うんだから」

佐伯の言う事は、口先だけの脅しではない事がひしひしと伝わって来る。
生半可な覚悟では、こちらが潰される可能性もあるのだ。

渡辺は凄まじい空気に呑まれ、何も言えなかった。



「だからね?」

軽く息をつくとスプーンを放り出し、佐伯は再び背もたれに寄りかかった。
椅子はやはり、ギィッと音をたてた。

佐伯の眼差しはフッと柔らかいものになり、噛んで含めるような口調に変わる。

「君は、逃げなさい。あれは、鬼だ。悪魔だ。あるいは、悪意の塊だ。近づけば毒される。だから、近づいてはいけない。
悔しいだろうけど、ありったけの力で逃げなさい。・・・放心してるようだけど、小林さん。貴方もです」

いきなり名を呼ばれ、剛はビクッとした。
飲むでもなしに弄っていたカップが音をたてた。


「それとも、貴方が彼女を更生させますか?
一度は愛した女性だ。彼女と共に生きて、時間をかけて彼女を導くつもりがありますか?」


穏やかにそう問われ、剛は思わず身震いした。
その身震いの勢いのまま、小刻みに何度も首を振る。

「それが賢明です」

佐伯は、ニッコリと笑った。
目尻には笑い皺が現れたが、その瞳の奥は冷たく鈍い光を残したままだった。





剛は仕事を辞め、実家へ戻っていた。

両親には、自分の心変わりで振った恋人が自殺してしまった、とだけ告げてあった。


新しい恋人とも別れ傷心の剛を、両親は労ってくれる。
そんな優しさが辛く、また年老いた善良な両親に美津姫の所業を話す事も憚られたため、騙しているような気がして実家には居づらかった。

だが、度重なる引っ越しで、新居を探す金銭的余裕は無い。
それに何より、独りでいることに耐えられなかった。


更に、なんとも情けない事に 剛は美津姫との別れを佐伯に依頼した。美津姫と自ら対峙することが恐ろしかったのだ。


渡辺は蔑むように鼻を鳴らし嘲笑した。

「アンタ、いい歳してアホなうえに どんだけヘタレなんだよ」

「わかってるよ!自分でも情けないと思います。でも・・・」



夜になりベッドの中で目を瞑ると、僅かに笑いを含んだ宏子の囁き声が甦る。

「一緒に死んで」

その度に、剛は美津姫にしがみつき、美津姫は剛の背中を優しく撫でながら 子守唄でも歌うように「大丈夫、大丈夫」と繰り返していたのだ。

剛は何度もその声に縋り、救われてきた。


宏子を死に追いやった、張本人のその声に。


剛の背中を撫でていた間、美津姫はどんな表情を浮かべていたのだろう。
その邪悪な胸の中には、どんな思いが渦巻いていたのだろう・・・


「・・・そう思ったら、俺・・・怖くて、怖くて」

白く粉を吹いた様な唇を震わせ、血の気の失せた顔を両手で覆いながら呟く剛を見て、渡辺も少しは同情したのだろうか。
それ以上、剛を責めることはしなかった。


「ウチは探偵事務所であって、便利屋じゃないんですがねぇ」

剛は渋る佐伯に懇願し、「特別料金なら・・・」という形で、別離工作と越したばかりのマンションの退居手続きを依頼したのだった。




 ーーーーーーーーーーーーーー 




剛の地元から少し離れた、駅前のカフェ。
オープンしたてのそのカフェは、田舎には珍しい、なかなか小洒落た造りの店だ。すずらんをあしらった大きなステンドグラスが印象的だ。

2週間ぶりに見る佐伯の姿は、前回とほぼ変わっていなかった。
ただ、今日はくたびれた背広ではなく、柔らかな素材のカジュアルなジャケットを羽織っている。そのせいか、少し若々しく見えないこともない。


「どうです?少しは落ち着かれましたか」

微笑みながら目の前に腰掛けた佐伯に、剛は力なく首を振った。


「では、さっそく報告致しましょうか。まずは、転居の件から‥‥」




あの日、剛はあの喫茶店に独り残された。

佐伯は、渡辺を駅まで送ったその足で剛のマンションへ戻り、貴重品等を引き揚げて喫茶店へ戻ると剛に手渡し、剛の実家へ避難させた。
美津姫が合鍵を使って、マンションに侵入する可能性を考慮してのことだ。

そのうえで、引っ越し業者を即日手配し、ほとんど夜逃げ同然で転居した。
剛の実家を探られない様、佐伯は複雑な手順を踏んで手続きをしてくれた。

「会社にも根回ししましたし、小林さんの行方を追うのは素人には難しいでしょう」



美津姫の派遣会社には、美津姫が営業担当者に取り入って、自分の希望通りに派遣先を融通させていた事を密告する。

「あの業界は、わりと狭い世界ですからね。今後、彼女が仕事を得るのは無理でしょう。
それに、私もこう見えて顔が広いんでね・・・転職するにしても、少なくとも、地元での就職は難しいでしょうね」


美津姫の派遣先、つまり剛が勤めていた会社にも、宏子の事件の資料持参で話を通す。
これは、剛の退職手続きをするうえでも必要なことだったので、剛ももちろん同席した。

事の顛末を知った上司は、絶句していたものだ。
後日、美津姫は派遣を打ち切られた。



だがそれでは、追いつめられた美津姫が、自分や渡辺を逆恨みするのではないか。
その懸念についても、佐伯は既に手を打っていた。

「実はですね、あまり褒められた手じゃないんですが・・・」


佐伯が言葉を濁しながら説明したところによると、知り合いの俳優を美津姫に接近させ、彼女の関心をそちらに引き寄せる作戦が進んでいるらしい。

「俳優だけじゃ食っていけなくて、副業でホストやってる奴なんですけどね。頭のいい男で、才能もある。もちろん茅島美津姫の正体も話してあります。
まあ上手くいけば、彼女はしばらくの間はそっちにかかり切りになるでしょう。

彼女は実家暮らしで、当面は生活に困ることもありませんしね。どっぷり深みに嵌まってくれれば、その間こちらは安泰ということで」

佐伯は視線を逸らし、苦笑しながら肩をすくめてみせた。



「そこまでしていただいて・・・どうお礼したらいいのか」

「いえ、報酬はちゃんといただきましたし、その他の工作はね・・・渡辺くんのためにやったことでもありますから」


恐縮する剛に、佐伯は穏やかに笑ってみせた。

宏子の無念を思い、なかなか復讐を諦めきれずにいた渡辺のために、佐伯はこうした入念な手を打ったのだと言う。

美津姫に近づけた俳優も、「人間観察の一環」と無報酬で協力してくれているとのこと。

「ヤツは、なんだかノリノリでねぇ。ま、本物のキチガイにお目にかかることなんて、滅多に無いでしょうからね。
最終的にどんなシナリオで彼女をどん底に突き落とすか、劇団の脚本家も巻き込んで、楽しそうですよ」

「・・・そうですか」

佐伯の周囲には、敵に回すと恐ろしい相手がたくさんいるようだ。


「彼、渡辺くんはねぇ・・・真っすぐに、きれいに、眩しいほど清らかなままで育った、今時珍しいくらい純真な青年です。茅島美津姫と関わることで、あの無垢な魂が無惨に穢されてゆくのを見るのは、私としても忍びない。

普段、泥沼から泥沼へ這いずり回るような仕事してますとねぇ、眩しいんですよ。本当に」

佐伯は実際に光を避けるかの様に睫毛を伏せ、愛おし気に、だがほんの少し淋し気に、笑った。


剛はそんな佐伯に少し意外な印象を抱きながら聞いていたが、一方でどう切り出そうかどうか迷っていた。

それに気付いた佐伯が、水を向けてくれた。

「何か、他にも?」


決心して、剛は顔を上げた。


「あの・・・俺、宏子の実家に、行くべきなんじゃないかと。

宏子に手を合わせて、ご両親に謝罪して・・・断られるかもしれないけど。でも、せめて墓参りだけでも」

「それについては」

剛が話し終わる前に、佐伯は遮った。

「渡辺くんを通じ、ご両親から拒否されてます。一切関わらないで欲しいそうです」


「でも!」

言い募ろうとする剛を、佐伯は手を挙げて留めた。

「土下座でも何でもすれば、貴方の気は済むでしょう。済まないまでも、罪悪感は薄れるかもしれない。でも、ご両親の気持ちは?」

「・・・・」


「自己満足は結構ですが、本当に悔やんでいるのなら、相手の気持ちを尊重して差し上げてはいかがでしょう」


キツい言葉だったが、反論出来なかった。
自己満足と言われてしまっても、仕方ないのだ。



「さて、それではそろそろ、解散と致しましょうか。この後、人に会う約束がありましてね」

佐伯が立ち上がって伝票を取ったが、剛はここは自分が払うと申し出た。

「では、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます。・・・それはそうと、小林さん」


佐伯は剛の顔を覗き込み、声を落として言った。

「貴方、相当酷い顔してますよ?難しいでしょうが、ちゃんと寝て、ちゃんと食べないと。」

「はぁ・・・」


「まぁ、茅島美津姫には”風の噂”ってやつが耳に入るようにしておきますよ。
『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』って。

これで貴方に近づくことも無いでしょう」


「・・・エリートじゃなくなった俺には、興味ナシってことですね」


「興味、持たれた方がいいんですか?」
「いえ!違うんです!ちょっと安心したって言うか・・・」

ハハ、と佐伯は笑い、剛の背中をポンと叩いた。






家に帰った剛は、自室のベッドに寝転んだ。
両親は仕事に出ており、家の中には剛ひとりきりだ。

天井を見上げ、大きくため息をつく。


全て終わった、のだろうか。



そう考えて、剛は酷く落ち込んだ。

(終わったとか・・・最低だ、俺)



宏子は死んだ。元はと言えば、俺のせいで。

だが、そのことについて考えるのを、脳が拒否している。
かつて宏子と過ごした、楽しかった日々を思い起こすことすら出来ずにいる。

後悔や謝罪の気持ちを、あの瞬間の恐怖が、大きく凌駕しているのだ。
そしてもちろん、美津姫の正体を知ったショックが。



寝返りを打ちながら、机の上に置いてあるファイルにチラリと目を向ける。


剛には未だ、あのファイルの全貌を読むことが出来ない。

佐伯がくれたファイルだ。
あの中に、恐ろしい出来事が全て詰まっている。

それを隈無く読み、事実を知ること。
そして、事実を知って存分に苦しむこと。


それがおそらく、自分に出来る、精一杯の贖罪だ。
そう思ってはいたが、実際に実行に移すのが怖かった。


実は先ほど、「一切関わらないで欲しい」と告げられた時、僅かながらもホッとしてしまったのも事実なのだ。

佐伯は、それに気付いたのかもしれない。

「自己満足」とか、「廃人同様」等と厳しい言葉を連ねたのは、自分への皮肉も混じっていたのではないだろうか。



剛は結局ファイルから目を逸らし、それを読むことをまた先延ばしにした。
自分の魂が清らかでも純真でもないことを、痛感する。

(皮肉を言われても仕方ないよな。俺はほんと、どうしようもない、クズだ)



また寝返りを打って、うつ伏せになった時。
剛の新しい携帯電話が鳴った。

以前の携帯電話は解約してあり、この携帯電話の番号を知っているのはかなり限られた人数なのだ。


意外に思いながらも、剛は携帯を手にした。
非通知でかかってきている。

「はい」


相手は無言だ。不自然な沈黙が続く。





「・・・もしもし?あの、どちらさまで」

「 見 つ け た 」



声にならない叫び声をあげ、剛は携帯を放り投げた。

ベッドの上の枕を掴み、盾にするように抱きしめながら、壁際まで後ずさる。



(誰だ?誰だ?誰だ?!・・・美津姫か?それともまさか・・・宏子?!)

確かに、女性の声だった。
だが、その声は酷くかすれていて、誰のものかはわからなかった。



(どうしよう!どうしよう!どうしよ・・・)


携帯の画面が光って通話状態を知らせているが、もう一度出てみる気になどなれる筈もない。



携帯が今にも飛びかかってくるのでは、とでもいう様に、剛は携帯から目を離さずにベッドから降りると、にじり寄るように移動して机の上のファイルに手を伸ばした。

ファイルを掴むや否や、壁際をつたって部屋から飛び出す。

ガクガクと震える足で階段を駆け下り、家の固定電話から電話をかけた。
指もぶるぶると震えていて、うまくボタンが押せない。

何度もかけ直し、ようやく繋がった。


「ハイ、さえ」
「佐伯さん!佐伯さん!!!助けて!助けて下さい!!今」

「小林くん?どうした?どこからかけて」
「家からです!実家の電話です!いま!!俺の携帯に電話が!!美津姫か、もしかしたら、ひ、宏子かも・・・」

「落ち着きなさい。君の携帯に、電話があったんだね?着信履歴は?」

「それが、非通知で!で、出てみたら女の声で!どうしよう。どうしよう、佐伯さん!助けて下さい!俺、もう・・・・」


完全に泣き声になっている剛に、佐伯が辛抱強く語りかける。

「いいから、落ち着いて。携帯電話はまだ繋がってる?じゃ、通話しながら移動出来るかな?・・・そう。では、・・・・怖がってる場合か?早く戻って、繋がっているかどうか確認しなさい。わかったから。怖いのはわかったから、いいから行って」

剛は恐る恐る階段を上り、開け放したドアから部屋の中を覗き込む。

携帯の画面は真っ暗だ。
そろりと手を伸ばし、確認してみた。

「・・・繋がってない、みたいです」


「では、通話記録を見て。正確な時間は?・・・しっかりしなさい。時間を確認したら、その時間の茅島美津姫の行動を調べるから」


剛は震える手で携帯電話を操作し、通話履歴を確認した。


「履歴が、無い・・・・」



呆然と呟く剛に、佐伯が口早に説明する。

「今日彼女は、さっき話した役者の男と一緒に居る。君に報告する為に私が持ち場を離れるので、見張りがわりに貼り付けておいたんだ。
今、メールで彼に確認したが、彼女はしばらくの間携帯に触れてもいないそうだよ」


「じゃぁ、やっぱり、宏子・・・?」



「そんなわけないだろう。実際、履歴も残ってないんだろう?
第一、仮に着歴があったとして、単なる間違い電話かもしれない」

「でも、いきなり『見つけた』って・・・言われたんだ」


佐伯は少し沈黙し、ゆったりと落ち着いた口調で話し始めた。声が幾分優しくなったようだ。


「小林くん。それは、幻覚・幻聴の類いでしょう。立て続けに色々有ったからね。ゆっくり休んで、カウンセリングでも受けなさい。
もしそういった機関に心当たりが無ければ、知り合いを紹介するから」




剛は礼を言って電話を切った。

呆然と、床に転がったままの携帯を見下ろす。
まだ心臓がドクドクと音をたてている。

(ほんとうに、幻覚だったのだろうか?それともやはり、宏子が・・・)




別れ際の佐伯の言葉を思い出す。

『小林剛は今や会社も辞め廃人同様で、精神科通いらしい』

それは美津姫を近づけない為の方便の筈だったが、どうやら現実になりそうだ。


続けざまに、脳裏に刻まれた宏子の落ちてゆく瞬間の映像や、美津姫の腕の感触、宏子の最後の声、美津姫の優しく囁く声等が甦る。


「一緒に死んで」
「大丈夫、大丈夫・・・」





崩れるように座り込んだ剛は、いつの間にか両手で強く髪を掴んでいた。

遠くから叫び声が聞こえてきたが、やがてそれは自分が発している叫びだと気付いた。

ほんの一瞬、「俺は、狂うのか?」という戦慄がよぎった。
だが、その最後の理性は、自らの叫び声と真っ暗な恐怖に塗り込められ、消えていった。





 ーーーーー 終わり ーーーーー 







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